表紙・目次 はじめに 第1章 警備警察50年の歩み 第2章 警備情勢の推移 第3章 警備情勢の展望と警察の対応 資料編

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警備警察50年の歩み


1 情勢の推移

1 暴力革命の方針を堅持する日本共産党

 日本共産党は、敗戦後の国民生活の窮乏と社会不安を背景に党勢を増大させるとともに、労働組合、大衆団体の組織化に力を入れ、急速に影響力を拡大しました。昭和21年4月の衆院選では、約214万票を得て結党以来初の議席となる5議席を獲得し、24年1月の衆院選では、約298万票を得て35議席を獲得しました。
 その後、26年10月に開催した第5回全国協議会で、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」を採択し、「白鳥警部射殺事件」(27年1月)、「大須騒擾事件」(27年7月)等の暴力的破壊活動を展開しました。しかし、こうした破壊活動を繰り返したことが国民の激しい批判を受け、27年10月の衆院選では党候補が全員落選するなど、党勢は大幅に衰退しました。こうした武装闘争戦術の行き詰まりから、同党は、30年7月の第6回全国協議会において、「51年綱領」は正しかったが、「極左冒険主義」という「戦術上」の誤りを犯したと自己批判しました。
 その後、同党は、「60年安保闘争」に取り組み、党勢拡大を図り、36年7月の第8回党大会では二段階革命方式を盛り込んだ現綱領を採択しました。こうした同党の路線転換は、31年2月のフルシチョフ・ソ連共産党第一書記によるスターリン批判とあいまって、左翼諸勢力の混乱を引き起こし、その結果として数多くの過激派を生み出すこととなりました。
 なお、現在も、日本での革命を目指すとする同党の基本路線に変更がないことは、平成16年1月の第23回党大会の同党の説明からも明らかとなっています。


2 「テロ、ゲリラ」を展開し暴力革命を目指す過激派

 昭和32年1月に誕生した過激派は、学生運動の中に次第に勢力を拡大し、35年の日米安保条約改定を「本格的軍事同盟への改変」ととらえ、「60年安保闘争」の中心勢力として過激な闘争に取り組み、「国会構内乱入事件」(34年11月、35年6月)等、数多くの事件を引き起こしました。
 40年代には、ベトナム戦争等をきっかけとした反戦、反米気運や学園紛争の中から生じた反体制ムードの高まりを背景に、45年6月の安保改定に照準を合わせた長期にわたる過激な「70年安保闘争」を展開しました。その過程において、「第一次羽田事件」(42年10月)、「新宿騒擾事件」(43年10月)等の大規模で凶悪な集団武装闘争を繰り広げました。
 また、学園紛争を革命の一環と位置付け、「東大封鎖解除事件」(44年1月)等の学園紛争を主導したほか、安保条約が自動継続となった45年6月以降は、「成田闘争」を闘争の中心に据え、警察官3人を殺害した「東峰十字路警察官殺害事件」(46年9月)を引き起こすなど、活動を次第に先鋭化させ、「あさま山荘事件」(47年2月)や東アジア反日武装戦線による「三菱重工ビル爆破事件」(49年8月)を始めとする連続企業爆破事件等を引き起こしました。こうした際限なくエスカレートする武装闘争への危惧、あるいは繰り返される内部抗争への失望等から、これまで過激派に同調してきた学生や労働者の支持を失い、過激派は社会的に孤立していきました。
 しかし、その後も、集団武装闘争路線を堅持する過激派は、「新東京国際空港管制塔乱入事件」(53年3月)、「迎賓館に向けた爆発物発射事件」(61年5月)等を引き起こし、とりわけ、昭和天皇の崩御に伴う大喪の礼及び即位の礼・大嘗祭に対しては「90年天皇決戦」を標ぼうし、平成2年には、143件の「テロ、ゲリラ」事件を引き起こしました。

「国会構内乱入事件」写真
「国会構内乱入事件」
(昭和34年11月27日、東京)(共同)
 
「東大封鎖解除事件」写真
「東大封鎖解除事件」
(昭和44年1月18日、東京)(共同)
 


3 社会情勢とともに変貌する大衆・労働運動等

 昭和30年代、40年代の大衆運動は、「安保闘争」及び「ベトナム反戦闘争」を軸に盛り上がりをみせました。50年代以降になると反原発運動が活発化しました。平成以降は、沖縄の反基地運動やイラクに対する武力行使等をとらえた反戦運動を中心に盛り上がりをみせています。最近では党派や従来の主義主張等の枠を超えた集会、デモが行われるなど、運動のボーダレス化が特徴としてみられ、海外の団体・グループが日本国内で抗議行動や違法行為を行うなどの動向もあります。
 戦後の労働運動は、25年7月に発足した日本労働組合総評議会(以下「総評」という。)による「春闘」を中心に展開されました。35年1月には「三井三池争議」が発生、その後も49年春闘を中心に「スト権奪還」等を求める日教組、全農林、自治労等公務員関係労組の違法ストが相次ぎましたが、50年以降は減少しました。平成元年11月に総評が解散した後、日本労働組合総連合会(連合)、全国労働組合総連合(全労連)、全国労働組合連絡協議会(全労協)が発足しましたが、いずれも組織人員が減少傾向にあるため、組織拡大を最重点とした活動に取り組んでいます。

「三井三池争議」写真
「三井三池争議」(昭和35年、福岡)(共同) 

4 国内外の情勢に敏感に反応した右翼

 戦後の占領政策に基づき、200有余に及ぶ右翼団体の解散とその指導者の公職追放により、右翼運動は致命的な打撃を受け、一時閉塞状態となりましたが、昭和26年8月の追放解除以降、徐々に組織を再建し、戦後の右翼運動の基礎を固めていきました。
 そして、34年以降は、左翼諸勢力の闘争の高揚に危機感を深め、直接行動により局面を打開しようとして「浅沼社会党委員長殺人事件」(35年10月)等を引き起こし、また、「民族正当防衛論」や「クーデター合理論」が主張されるようになり、36年12月には、戦後初の右翼によるクーデター計画である「三無(さんゆう)事件」が発覚しました。
 また、過激派等による「70年安保闘争」が盛り上がりをみせた40年代には、左翼対決姿勢を一段と強め、45年11月には、自衛隊にクーデター決起を訴えた「三島事件」が発生し、反米・反体制を主張する新右翼を生み出す契機となりました。
 平成元年以降は、「本島長崎市長に対するけん銃発砲殺人未遂事件」(2年1月)、「金丸自民党副総裁に対するけん銃発砲殺人未遂事件」(4年3月)等のけん銃使用「テロ、ゲリラ」事件が発生しました。
 また、14年10月以降翌年11月までにかけて、「建国義勇軍国賊征伐隊構成員らによる広域にわたる連続銃撃・脅迫等事件」が発生しました。

「三島事件」写真
「三島事件」(昭和45年11月25日、東京)(共同) 

5 重大事件を展開した日本赤軍その他の国際テロリスト

 国内での闘争に行き詰まった過激派の一派は日本革命を達成するため、「よど号ハイジャック事件」(昭和45年3月)を引き起こして北朝鮮に向かい、以来、対日有害活動等を続けています。また、日本赤軍は、中東のパレスチナ過激派等と連携して、「テルアビブ・ロッド空港事件」(47年5月)を皮切りに、「ダッカ事件」(52年9月)等のハイジャック事件を引き起こしました。
 他方、平成13年9月には、日本人を含む約3、000人の犠牲者を出したイスラム過激派アル・カーイダによる「米国における同時多発テロ事件」が発生し、その後も「インドネシア・バリ島における爆弾テロ事件」(14年10月)、「トルコ・イスタンブールにおける爆弾テロ事件」(15年11月)、「スペイン・マドリッドにおける同時多発列車爆破テロ事件」(16年3月)等のイスラム過激派によるとされた大規模・無差別テロが世界各地で続発しており、テロに対する国際的な取組みにもかかわらず、国際テロ情勢は極めて厳しく、予断を許さない情勢にあります。

「米国における同時多発テロ事件」写真
「米国における同時多発テロ事件」
(平成13年9月11日)(PANA)

6 北朝鮮によるテロ等

(1)北朝鮮によるスパイ事件
 警察では、戦後約50件の北朝鮮によるスパイ事件を検挙しており、北朝鮮が、我が国をスパイ活動の重要拠点ととらえ、我が国及び韓国に関する情報収集、さらには、日本人の北朝鮮への拉致等の活動を行っていたことが明らかとなっています。

(2)北朝鮮による日本人拉致容疑事案
 平成14年9月に平壌
(ピョンヤン)で行われた日朝首脳会談で、金正日(キム・ジョンイル)国防委員長は、これまで一貫して否定し続けてきた日本人拉致容疑事案について、「(日本人拉致は、)特殊機関の一部の盲動主義者らが、英雄主義に走ってかかる行為を行ってきたと考えている」との認識を示した上でこれを謝罪し、北朝鮮から5人の拉致被害者が帰国して、家族との再会を果たしました。
 警察では、現時点、北朝鮮による拉致容疑事案は、10件15人としています。なお、これら以外にも、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案があるとみて、所要の捜査や調査を行うとともに、新たな情報の収集に努めています。

(3)北朝鮮工作船の活動
 平成11年3月に発生した「能登半島沖不審船事案」以来、北朝鮮工作船は、北朝鮮による工作活動の脅威を目に見える形で我が国に強く印象付けました。
 特に、13年12月の「九州南西海域工作船事件」では、北朝鮮工作船の重武装化の実態が明らかになるとともに、我が国周辺海域における工作船活動が、我が国の安全に甚大な脅威を与える状態にあることを改めて認識させました。

「九州南西海域工作船事件」写真
「九州南西海域工作船事件」
(平成13年12月22日)(海上保安庁提供)

7 国際情勢を反映して活発に展開された対日有害活動

 戦後のソ連等による対日有害活動は、東西冷戦中、政治、軍事、科学技術情報収集を重点に展開され、在日ソ連通商代表部員が多数の日本人を利用して情報収集を行っていた「ラストボロフ事件」(昭和29年1月)、在日ソ連大使館員や中国公司関係者等による働き掛けを受けたグループが在日米軍資料をソ連及び中国側に売却していた「横田基地中ソスパイ事件」(62年5月)等が引き起こされました。また、57年12月の「レフチェンコ証言」等でもソ連による諸工作の実態が明らかとなっています。
 冷戦終結後も、我が国内において、「通商代表部員に係る業務上横領事件」(平成9年11月)や、在日ロシア大使館付武官に自衛隊の秘密文書等を提供していた海上自衛官を自衛隊法違反で逮捕した「ボガチョンコフ事件」(12年9月)等、ロシア等各国情報機関による諜報活動等が展開されています。

記者会見する元KGB将校のレフチェンコ氏 写真
記者会見する元KGB将校のレフチェンコ氏
(昭和57年12月)(PANA)

8 不法入国・不法滞在に係る諸問題

 かつての不法入国は、我が国における労働市場の逼迫とそれに伴う労働賃金の上昇を背景とした就労目的がほとんどでした。しかし、就労よりも効率的に利益を得る手段として犯罪に手を染める者もおり、特に、近年では、外国に本拠を置く国際犯罪組織が我が国に進出するとともに、国内に居住する不法滞在者が犯罪組織を構成し、凶悪化、組織化、全国への拡散化といった傾向が顕著となっており、治安悪化の大きな要因となっています。


9 新たなテロの脅威を示したオウム真理教

 オウム真理教による一連のテロ事件は、発足時は一介のヨガ・サークルであった団体が次第に「反国家権力」の立場をとり、これを実現するため教団の武装化を進めテロ集団化したことにより引き起こされるという従来にないものでした。また、「松本サリン事件」(平成6年6月)や「地下鉄サリン事件」(7年3月)等の事件は、化学物質等を使用した新たな形態のテロを現実の脅威として認識させました。


10 厳しい情勢の中での警衛・警護警備

 50年を顧みると、アジア初の「第18回オリンピック(東京大会)」(昭和39年10月)、安保闘争の最中に開催された「日本万国博覧会」(45年3月)、我が国初の「第5回主要国首脳会議(東京サミット)」(54年6月)、昭和天皇崩御に伴う「大喪の礼」(平成元年2月)、初めての地方分離開催となった「第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)」(12年7月)、日韓両国で開催された「2002年ワールドカップサッカー大会」(14年5月)等、厳しい警備情勢の中、多くの警備実施を完遂しました。


11 多数の犠牲者を出した自然災害

 我が国では、毎年、多くの自然災害が発生しており、50年間で発生した被害は、死者・行方不明者約2万9、000人、負傷者約13万8、000人に上ります。


12 機動隊の活動概要

 機動隊は、戦後の混乱期から今日に至るまで、治安の砦として、その重責を担ってきました。しかし、今日の治安の礎には、警備活動中に殉職した先人の尊い犠牲があることを忘れることはできません。


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