京都大会:基調講演

「途切れない支援の重要性」

土師 守(神戸連続児童殺傷事件ご遺族、医師、(公社)ひょうご被害者支援センター監事)

 先ほど御紹介いただきました神戸から参りました土師と申します。まず初めに、このような機会を与えていただきました主催者の方々に御礼を申し上げたいと思います。

 さて、御記憶の方もまだまだ多いと思うのですけれども、今から18年前、1997年5月に神戸児童連続殺傷事件と呼ばれている事件が発生しました。この事件では、当時14歳、中学3年生の少年が小学生2人の命を奪い、数人に重軽傷を負わせました。私の次男もこの事件で貴い命を奪われてしまいました。事件からはや18年という年月が過ぎまして、一昨年の5月には17回忌の法要を執り行いました。私が勤務する病院でも、8年ほど前から私の次男と同い年の放射線の技師さんとかが、大学を卒業して病院に勤務しています。そういう方々を見ておりますと、時の経過というものをしみじみと感じてしまいます。

 現在、私は全国犯罪被害者の会(あすの会)の幹事をしておりますが、それとともに地元兵庫では、公益社団法人ひょうご被害者支援センターの設立準備段階から関わらせていただきまして、現在も役員の1人として活動させていただいております。ひょうご被害者支援センターは2002年に設立されましたが、民間の支援センターとしては全国で22番目ということで、神戸市というまちを抱える兵庫県としては、決して早い設立とは言えませんでした。ちなみに、京都は私たちの子供の事件の翌年、1998年に早くも設立されており、大先輩に当たると思います。

 しかしながら、兵庫の場合、他府県の支援センターとは異なっておりまして、設立準備段階から犯罪被害者遺族が加わったことによりまして、非常に特徴のある支援センターができたのではないかと思っております。ひょうご被害者支援センターは、設立後、支援活動を充実させるために鋭意努力してまいりました。さらに、かなり時間はかかりましたけれども、2009年9月に兵庫県公安委員会から早期援助団体の指定も受けました。京都は2003年ということですので、6年も早く指定されまして、非常にそういう点では京都は進んでいるのではないかと思います。兵庫は全国で28番目の指定ということで、決して早くはありませんけれども、ただ地道に被害者支援に取り組んできた結果だと思います。式には私も出席いたしましたけれども、これは設立当初から目指していたことでもあり、念願かなったということで感慨深い思いがありました。しかし、それと同時に、新たな犯罪被害者支援へのスタートであるとも言えますので、さらに気持ちが引き締まる思いでした。

 さて、本日の講演ですけれども、テーマとしては「途切れない支援の重要性」ということでお話をしたいと思います。内容といたしましては、まず私たちの子供の事件について、当時の状況や私たちの思いなどをお話ししたいと思います。また、当時私たちが受けた支援について、どのような支援があり、助かったかということや、どのような支援が必要かなどについてお話ししたいと思います。そして、今後の被害者支援に望むこと、途切れない支援の重要性について、私がお話しできる範囲でお話をさせていただきたいと思います。

 犯罪被害者になるとはどういうことか。これは本当に被害者になってみないと分からないとしか言えません。私たちの子供の事件が発生する少し前には、東電OL殺人事件や、奈良月ヶ瀬村の女子中学生殺人事件など、世間をにぎわせた事件が発生していました。特に東電OL殺人事件では、被害者のプライバシーがこれでもかというぐらいに、真贋の検討もなされずにテレビや紙面上に連日のようにあふれていました。私自身は細かく内容まで読んだことはありませんでしたけれども、見出しを見るだけで、ここまで被害者の方をおとしめる権利がマスコミにあるのかと思い、非常に気分が悪くなったことを覚えております。しかしながら、そうは思っていますけれども、まさか自分がそういう立場に置かれる、そういうことは全く考えておりませんでした。

 事件に遭って、被害者とは本当につらく、苦しい状況に置かれてしまうということを初めて痛切に感じさせられてしまいました。実際に被害者という立場に置かれたときの状態は、それまで被害を受けずに平々凡々な状態で想像していた状況とは全く異なっておりました。犯罪による被害というものは、犯罪そのものより直接的な被害を受けるだけではなく、被害後に生じる様々なことで二次被害に苦しめられることになります。また、被害者と一言で言いますけれども、それぞれの事件により事情が異なっています。そして、兄弟、親子、また父親か母親かの立場の違いによっても状況が異なってきます。被害者が100人いれば、100通りの状況があると言えます。

 実際、私たちの場合はどのような状況であったかということを簡単にお話ししていきたいと思います。皆様の中でもまだ記憶されている方も多いと思いますので、私たちの子供の事件の詳細については割愛させていただきますけれども、極めて残酷で猟奇的な事件でした。私たちの子供の事件については、報道被害ということは避けて通ることはできません。あの事件当時、私はメディアスクラムという言葉自体、知りませんでした。当時はそのような状況に自分が置かれることになるとは、夢にも思っておりませんでした。

 事件が発生したのは、1997年5月27日の朝でした。当時14歳だった加害男性が通っていた中学校の正門の前に、私の次男の頭部が置かれているのが見つかりました。当時次男が通う小学校の校長先生から電話で連絡を受けまして、私は妻とともに急いで現場である中学校に車で向かいましたけれども、現場に到着しますと、現場の警察官は私たちに須磨警察署のほうに行くように指示をされました。その指示は、私たちにとっては最悪の事態であることを意味していました。そのため、私たちは悲しみの中、夢遊病者のような感覚で須磨警察署へと向かいました。

 須磨警察署で私たちの子供がどのような状態で見つかったかなどを聞き、更に私は遺体確認をした後、最初の調書にサインをしました。このときの状況は、本当に映画の中のワンシーンという状況で、私たちには全く現実感のない、夢の中で起こったことのような感覚でした。

 その後、私たち夫婦は、正常とは全く反対と言っていい、そういう精神状態のまま我が家へと向かいました。そして、疲れ果て、悲しみに沈んだ私たちがマンションに帰り着いたときに、最初の報道機関の取材という名の暴力に遭いました。私たちが帰宅したときには、既に何社かのマスコミ関係者がマンションに来て待ち構えておりました。子供をあのような状態で亡くした私たちの悲しみを無視し、彼らは無遠慮な質問とフラッシュの雨を浴びせました。

 次の日、朝起きてからカーテン越しに家の外をのぞきますと、マスコミ関係の車が周囲の道路を埋めつくしていました。事件発生後の取材攻勢は本当にすさまじいものでした。インターホンは数え切れないほど押されました。電話も鳴りっ放しでした。その日から連日、朝から晩まで多数のマスコミ関係者がマンションの周囲を何重にも取り巻きました。そして、近所の人たちへの取材もしておりました。

 通夜と告別式が行われた会場でも、本当に多数のマスコミ関係者が会場周辺に充満しており、また多数のカメラが会場入口に向けられておりました。告別式には妻の親戚の方々も出席したいと、山口から神戸まで行きますという話を頂いておりましたけれども、あまりにも過激な取材攻勢を目の当たりにしておりました私たちは、本当は出席していただきたかったのですけれども、心ならずも、取材攻勢が厳し過ぎるのでマスコミの餌食にならないためには来ないほうがいいと、断りを入れざるを得ませんでした。

 電話とインターホンによるすさまじい取材攻勢はその後も続きました。神戸新聞社へ犯人からの第2の手紙が来たときなどは、夜中12時ごろまでインターホンは鳴り止みませんでした。マンションの南側にマスコミ関係者の車が、朝から夜遅くまで止まっており、私たちの部屋を監視しておりました。また、南側のマンションの部屋を借りて、そこから私たちの部屋を隠れて撮影しようとまでしておりました。本当にしばらくは外に出るどころか、家のカーテンも開けることさえできない状態が続きました。カーテンを開けたのは、事件発生後2カ月近くたった後でした。

 後から知った話ですけれども、マスコミは妻の里である、当時は萩市と合併しておりませんでしたけれども、小さなのどかな村なのですが、そこにも出没していたということでした。実際そこまで行くかというのが、私の偽らざる感覚でした。

 一般的に被害者遺族には、大切な家族を助けてあげることができなかったとか、もっと何かしてあげることができたのではないかという悔恨の思いが非常に強いものです。第三者的に考えれば、それは仕方がないことで、遺族にはどうしようもないことだということがほとんどに違いありません。そして、被害者遺族も頭の中では理解できている場合が多いのではないかと思います。しかしながら、被害者遺族は、他の人から見ると、そんなことで悩まなくてもというようなことで非常に苦しみます。このことは私たちにとっても同様でした。

 例えば、私たちの長男は、あのとき一緒に祖父の家に行っていれば、弟の命は奪われなかったのではないかと思い、妻は出ていくときにちゃんと子供を見て、もっと声を掛けておけばよかったと思っていたようです。私自身についても同じような思いがありました。次男が出ていって間もなくして、私が研究会に参加するためバスに乗って出かけていきました。もし私がもう少し早く出ていれば、犯人と会う前、もしくは会った時ぐらいの子供を見ることができたかもしれません。そして、そのときには少なくとも事件が起こらなかったかもしれません。

 次男がいなくなった当日、私たちは次男を捜し回っていました。警察がその日の捜索を終えた後も、私は父とともに車に乗って捜し回っていました。そして、その日の最後に、私は父とともに次男が殺害されたタンク山というところに行きました。私と父は車を降りて、タンク山のチョコレート階段と呼ばれている通路を懐中電灯を手に上っていきました。タンクのところまで行ったのですけれども、周囲の草むらの中にも何も見つけることができませんでした。私たちは諦めて家に向かいました。しかし、そのとき子供はすぐ近くにいました。見つけてあげることができなかった悔いが今も残ります。あのとき見つけてあげることができていれば、殺害されることは避けることができなかったとしても、あのような目には遭わされていなかったという思いは、今でも強く残っています。被害者遺族は、不当な犯罪被害に遭い、苦しみながら、更にその上に悔恨の思いにさいなまれることになります。

 私たちの家には、事件発生直後より兵庫県警本部より派遣されました逆探知グループの方3組が、交代で24時間体制で逆探知業務に携わるために滞在しておりました。1組は3人で構成されていまして、そのうちの1人は女性でした。この方たちは、本来の逆探知の業務に携わる傍ら、私たちの話し相手や相談相手になってくれておりました。また、女性の刑事さんは、外出することができない妻の代わりに、食料品などの生活必需品の買い出しもしてくれておりました。そして、横暴な取材をしようとするマスコミ関係者から私たち家族を守ってくれたのも、この方たちでした。

 私たちの自宅マンションは、事件後より膨大な数の取材陣が取り巻いておりました。私たち家族はとても外出できる状態にはありませんでした。一歩も外に出ることができない状況の中、私たちがとりあえず生活することができたのは、本当にこの逆探知グループの方々のおかげでした。

 当初自宅に、刑事といえども他人が四六時中滞在するということについては、私自身もですけれども、妻も子供も嫌な思いがあったのではないかと思います。しかし、しばらくすると、犯人は捕まっていない、マスコミの取材攻勢は激烈を極めていたことなどもあり、逆に彼らの存在が私たちの心に安心感を与えるようになったと思います。

 事件発生後、約1カ月が経過した1997年6月28日に加害者の少年が逮捕されましたが、通常であればその時点で逆探知グループは撤収することになっていたのではないかと思います。しかし、私たちはもう少しの間、私たちの生活を支えてほしい、そういう思いから滞在の延長をお願いいたしました。本来でしたら無理なお願いだったと思います。しかしながら、兵庫県警の上層部の方も私たち家族のことについてはかなり考慮してもらえたようで、私たちの希望を受け入れていただきました。逆探知の業務がないにもかかわらず、7月12日の土曜日まではそれまでと同様に24時間体制で、そして翌週の7月19日の土曜日までは昼間の時間帯のみ滞在してもらえるということになりました。私たち家族にとっては、この期間は非常に重要なものでした。3人だけでの生活に対処できるように慣らしていく期間ということで、この期間がもしなかったら精神を安定させるのに更に時間を要したのではないかと、現在でも思っております。

 次に、私たちが事件当時、どのような支援を受けたかについてお話をしたいと思います。まず最初に受けた支援というのは、やはり子供の捜索だと思います。警察は150人体制で捜索をしてくれましたけれども、それに加え、地元自治会、PTA、友人など非常に多くの方が捜索に参加してくれました。ビラを作り、駅などで配りながら近隣一帯を中心に広範囲に捜索していただきました。これは、当時子供の安否を心から心配しておりました私たち家族にとっては、本当に心強いもので、本当に感謝しております。

 子供の遺体が見つかった後は、通夜や告別式をしなければなりませんでした。これについては多くの友人や職場の同僚、自治会の方々が手伝いをしてくれました。弔問客の整理や香典の整理など、私たちが何もお願いをしていないにもかかわらず、率先して手伝っていただいたおかげで、何とか式を執り行うことができました。

 私たちの自宅には、事件発生後すぐに多くの友人が訪ねてきてくれました。当時は自宅内に逆探知グループの方が滞在しておりましたので、家の中に入ることもなく玄関先で話をして帰ってもらいました。何人かの友人や近所の方々は、私たちがちゃんと食事をしていないだろうと思ったようで、食事の差し入れをしていただいた方もおりました。このような気遣いは当時も感謝しておりましたけれども、後から当時を思い起こしますと、その思いは更に強くなりました。

 仕事の面でも多くの支援を受けました。私は現在、兵庫県内の公立に準ずる病院で勤務医をしておりますけれども、当時も同じ病院に勤務しておりました。子供の捜索や事件発生後の対応のため、仕事を休む必要がありましたけれども、それに対しきちんと対応していただきました。

 私は事件発生後、3週間休んだ後に仕事に復帰しましたけれども、それ以外にも法事の日であるとか、警察に行く日とか、ほかにも裁判所に行く日や、弁護士に会いに行く日など仕事を非常に多く休みました。その間、仕事のバックアップをしてもらいましたのは、私が所属します神戸大学の放射線科の医局でした。大学による仕事のバックアップがなければ、私は十分な休みをとることもできなかったのは確かなことでした。

 次に、私たちの長男が通っていた中学校から受けた支援についてお話をさせていただきます。事件後、私たちの長男は中学校を休学しておりましたが、2週間たってから再び登校を開始することになりました。しかし、かわいがっていた弟の遺体が発見された現場でもある中学校に通うことは、彼にとってどれほどつらかったでしょうか。中学校周囲を含め私たちが住んでいた地域には、その時点ではいまだにマスコミ関係者が多数やってきていて取材をしておりました。そういう状況ですから、私の長男が登校を再開した場合、マスコミ関係者の取材の標的になる危惧がありました。

 中学校側はこの状況に対して、彼らができることについては真摯に対応してくれました。学校の担任の先生と警察が相談し、名札には「土師」という名前を書かず、他のありふれた名前の名札をつけました。登校時には近くに住む同級生と数人で一緒に登校することにし、さらに不測の事態に対応するために、その後ろを担任の先生がついてくる、そういうような対策をとっていただきました。

 中学校側は、ほかにも私たち家族に対しては、彼らのできる限りの対応をしてくれたのではないかと思います。犯人の少年が逮捕された後も、マスコミが非常に中学校に対していいかげんな報道をしておりましたけれども、学校側は自らが把握していることについては、私たちの家に来て何度となく説明をしてくれました。また、特に担任の先生は、長男の様子を非常に気にかけてくれており、我が家を何度も訪れてくれておりました。

 事件が発生したときは、長男は中学校2年生でしたけれども、翌年3年生に上がる前に、私たちは長男が担任の先生を信頼していたこともありましたので、他の先生に担任が変わった場合、やはり心配が大きかったため、学校側に担任を変えないでほしいとお願いしました。中学校側は私たちの希望についても理解していただきまして、3年生になるときには同じ担任の先生にしていただきました。この担任の先生は、長男が中学校卒業後も、何度も子供のことを心配して訪ねてきてくれました。

 さて、先ほどもお話ししましたけれども、事件発生後より私たちの家には逆探知グループの方々が24時間体制で滞在しておりました。実際のところ、この方たちが事件発生後から1月半の間、多くの場面で私たち家族を支え続けてくれました。捜査で私たち家族を担当していた方々も含め、警察の方々の支援は私たち家族への支援の中でかなり大きな割合を占めていたと思います。

 逆探知グループの仕事は、もちろん電話の逆探知です。彼らは仕事をするだけでなく、私たち家族の支えになってくれていました。事件後、殺到するマスコミ対策として、私たちの家の玄関に張り紙をいたしましたけれども、これも私が担当の方に相談した結果でした。犯人の少年が逮捕されたときにも、担当の方と文面を相談して新たな張り紙を作り、マスコミが殺到する直前に玄関に張り出しました。

 逆探知グループの方々は、本来の業務に携わる傍ら、私たちの話し相手になって気を紛らわせてくれたり、また相談にも乗ってくれていました。女性の刑事さんは、妻の話し相手になるだけでなく、外出することができない妻の代わりに食料品などの生活必需品の買い出しもしてくれておりました。そして、マスコミ関係者からの横暴な取材から私たち家族を守ってくれたのも、この方たちでした。

 私たちを担当していた兵庫県警のグループの方々も、捜査のことで私たちの家に来るだけではなく、私たちに気を遣って話し相手になってくれておりました。それ以外にも、外出できない妻を、事件があった地域から連れ出してくれ、気分転換をさせてくれたりもしました。このように私たち家族は警察に、特に事件後の生活を支えてもらったと思います。実際には、事件後何年もの間、継続的に私たちを支えてくれています。そういうこともありまして、私たちを担当していただいた警察の方々のうち多くとは、現在でもおつき合いが続いておりまして、良い関係を保っています。

 ちなみに現在、ひょうご被害者支援センターの事務局長をされている田中実恵子さんは、当時私たちを担当していた婦警さんでした。他の理事の方の推薦でしたけれども、私もすぐに賛成させていただいた次第です。

 事件後、信頼のおける弁護士を探していたときに仲立ちをしてくれたのは、菩提寺の御住職でした。紹介していただいた井関弁護士は私たちの思いを第一に考え、当時本当の意味での被害者支援をする弁護士がまだいなかったときに、手探り状態の中、一生懸命私たちと戦い、道なき道を切り開いていただいたと思います。井関弁護士は現在、ひょうご被害者支援センターの理事長をなさっております。そのほかにも多くの方に支援をしていただきました。私たちの長男に対する支援についても、もう少しお話をしたほうがよいと思いますけれども、この件につきましては後ほどお話しさせていただきたいと思います。

 さて、犯罪被害者支援を行う上でどのような支援が必要かと考える場合に、非常に重要なことがあります。被害後、どのような時期かにより、被害者の状況は大きく変化するということです。当然必要とされる支援も、どのような時期かにより異なってきます。ひょうご被害者支援センターは2002年に設立されましたけれども、その年から電話相談員の講習会に、犯罪被害者の自助グループである六甲友の会が被害者の生の声を聞くという講習を受け持っています。

 この講習では、犯罪被害者遺族5~6人が参加しまして、自分たちの被害の状況を受講生の方々に話をします。話を進めるに当たり、受講者の方々に被害者遺族の心の動きをできるだけ正確に理解してほしいという意図から、それぞれの状況を時系列で話してもらうことにしました。それは事件発生直後から初七日ぐらいまで。その次は、事件後2~3週間、大体四十九日まで。その次は2~3カ月。そして1~2年、すなわち1周忌から3周忌まで。そしてそれ以降と、大きく4つの時期に分けて話をしてもらっていました。これは犯罪被害者支援を考える上で非常に重要なことだと考えたからです。

 事件直後の支援ということは、いわゆる危機介入という言葉で表せると思います。ひょうご被害者支援センターも2009年9月に早期援助団体に指定されましたが、まさに危機介入というのは早期援助そのものではないかと思います。事件直後では、犯罪被害者遺族は現実感が乏しく、あらゆる事柄に対する決定能力が低下することが多いと思います。何をすればいいのか、それすらも分からない状況に陥ってしまいます。事件直後の犯罪被害者に対しては、事件発生後に待ち受けている課題、例えば司法解剖の手続、マスコミ取材、葬儀、警察対応などについて前もって説明できるような支援者の存在が、実は非常に重要なものと思います。

 事件発生直後の被害者の精神状態は非常に危ういものです。可能であるならば、事件発生直後からの危機介入支援は、被害者にとって非常に心強いものであると思います。私たちの場合も、事件発生直後にはやはり危機介入支援を必要としていたと思います。

 支援の内容としては、どのような支援が必要だったのでしょうか。発生直後に私は須磨警察署まで自動車に乗って行きました。警察署に行って、事件発生の状況を知らされたときには目の前が真っ白になる感覚で、事実を認識することが非常に困難な状況に陥ってしまいました。確かに警察署で遺体確認から調書作成と事務的なことは行っておりましたけれども、何か映画のワンシーン、そういう感じで、現実として受け止めることが実際にはできていなかったように思います。警察署から家に帰るとき、渋滞していたのを記憶している程度でした。そのような不安定な精神状態での車の運転というのは、本当は非常に危険なものではないかと思います。

 司法解剖終了後の遺体引き取りは、やはり被害者だけでは非常につらいことでした。また、告別式が終わった後は、翌日から本格的に事情聴取が開始されました。警察も私たちの状態を考慮しまして、長時間の聴取は避けてくれておりましたけれども、やはり精神的には厳しいとしか言えない状態でした。

 通夜や告別式については、多くの知人や職場の同僚が手伝いをしてくれましたので何とか行うことができましたけれども、それでもまだ多くのことをこなさなければならず、事件直後の精神状態ではやはり相当きつかったことを覚えております。

 これらのことから言えることは、誰が付き添うかという問題はありますけれども、事件発生早期からの付添いは非常に重要なことであると思います。そして、最も重要なものは、やはり生活支援だったと思います。事件が発生していないときは、日常的なことは特に気にすることもなく淡々と行っています。しかし、犯罪被害に遭ったその直後から、この日常は完全に壊れてしまいます。私たちも事件後1カ月ほどは、本当に何もする気が起こりませんでした。食事をする、買物をする、洗濯をする、そんな日常的な生活を送る上で必要なことを手伝う、こういう生活支援というのは、事件直後の支援としては非常に重要な役割を果たすものではないかと思います。

 さて、私たちの子供の事件においては、特に事件直後に必要な支援のかなり多くの部分を警察の方が行ってくれています。事件発生の前年に、警察庁から被害者対策要綱が出され、被害者に対して支援しやすいという事情があるにいたしましても、やはり特殊な状況であったと思います。私の個人的な考えを話させていただきますと、私たち家族に対する兵庫県警の対応は、できる範囲の中では最大のものではなかったかと思っています。それは当然、私たち家族にとっては非常にありがたいことだと思っております。

 しかし、実際のことを考えますと、このような支援は警察が中心になってすることなのかという思いを持っておりました。当然、警察としての被害者支援は必要だと思いますけれども、どこまで警察が受け持つかという問題はあるかと思いますが、ある程度重なりはあるにしましても、生活支援のような支援は基本的には警察ではなく民間の支援センターが行うべきことだと私自身は思っています。しかしながら、事件直後にどこの誰とも分からない人が急に来て、「私は支援者です」とか言われても、私自身は恐らく受け入れることができなかったのではないかと思います。

 2009年9月にひょうご被害者支援センターは、念願かなって早期援助団体に指定されましたが、被害者にとって公的なお墨付きと言えるこの指定は、本当に重要なことです。公安委員会の指定、そういうことは被害者にとってはその団体を信用してもよいという保証になるものだと思います。この指定があるということで、支援センターとしても特に危機介入しやすくなりますし、被害者にとっても大きな安心になり、支援を受けることにつながるからです。人材の問題もありますので、現時点では民間で対応するには困難なことが多いと思いますけれども、やはり一歩ずつでもいいですので、こういう支援を進めてほしいと思っています。

 次に、少年の被害者や、残された兄弟たちのことについてお話をしたいと思います。被害者が少年であれば、発育過程にある未成年の兄弟がいる可能性は非常に高いと思います。これらの被害を受けた少年の数は、統計はされていないと思いますけれども、現実的には加害少年の数よりも多いのではないでしょうか。例えば、私たちの子供の事件の場合、加害少年は1人ですけれども、殺害された少年が2人、重傷が1人、軽傷が2人、それに兄弟を加えますと、優に10人は超すのではないでしょうか。加害少年は法律によって厚く保護され、守られています。国の加護のもとに更生という名の道を進み、勉強することも、職業訓練を受けることもできます。しかしながら、被害者の未成年の兄弟たちの現状はどうなっていると思いますか。

 私たちの場合、長男がいました。長男は事件当時、13歳です。非常に多感な時期でした。日頃からかわいがっていた弟があのような形で命を奪われたわけです。頭部が置かれていた中学校は、犯人の少年が通っていた学校であると同時に、私の長男が通っていた学校でもあります。しかも、犯人は長男より学年が1年上というだけではなく、クラブの先輩でもありました。精神的にも非常に厳しい状況だったと思います。そのような状況の中で、学校に通うことができるでしょうか。よほどのスーパーマンでもない限り不可能なことだと思います。

 私の姓が変わっていることもあり、引っ越しをしてもすぐ分かりますし、転校もできない状況でした。中学校の先生は、彼らのできる範囲の中では非常によく対応していただきましたけれども、学校に行けないことには変わりはありませんでした。授業を受けることができませんでしたので、家庭教師を雇い、勉強するようにしましたが、当然成績は落ちますし、出席日数も足りませんから公立の高校には行けませんでした。自宅からかなり離れた私立の高校に行きましたけれども、3年間、学校まで私が車で送りました。

 問題は教育上のことだけではありません。精神的にも肉体的にも発育途上にあり、また感受性の高い時期に兄弟が悲惨な事件に遭ったとすれば、それは大人とは違った意味で非常に大きな精神的ダメージを受けます。それに対して親だけで対処することは極めて困難です。その症状も、もちろん親が気付いていないこともあるとは思いますが、事件直後から症状が出るのではなく、ある程度時間が経過してから出てくるようなことも多いと思います。そのときに相談できる児童精神医学の専門医や臨床心理士の存在は非常に重要であると思っています。

 私たちの場合、この問題で救いになったのは、私の仕事の関係もありまして、児童精神医学の専門医を紹介してもらえたことでした。私自身が長男に対する悩みを相談することができたことは非常に心強いことでした。このように被害者の兄弟たちには公的な支援は全く何もありません。行政からは完全に見放されており、自分たちの力だけでどん底の状況から立ち直らなければいけないというのが現状です。被害者の兄弟たちに対する公的な支援は是非とも必要なものであり、制度を早急に創設してほしいと願っております。また、民間の支援センターは、この問題においても非常に重要な役割を果たすことができるのではないかと思っております。

 犯罪被害者家族に対する支援というのは、危機管理と長期的支援の両側面から考える必要があると思います。本日は、事件直後のことと被害者の兄弟のことを中心に話をしましたけれども、支援センターが従来から行っております電話相談、法律相談、情報提供、カウンセリング、付添い等の直接支援、教育研修、広報等の業務は、更に充実させる必要があることは言うまでもないことです。

 さて、2004年12月に全国犯罪被害者の会の署名活動を含めた活動が実りまして、犯罪被害者が求めてやまなかった犯罪被害者等基本法が超党派の議員立法で成立しました。この法律に基づきまして、2005年12月には基本計画が閣議決定されました。やっと犯罪被害者に対する施策が大きく進み始めたのではないかと思います。

 2007年6月には、全国犯罪被害者の会が署名活動を行った重要項目である公訴参加、附帯私訴を実現しました被害者参加制度、賠償命令を盛り込んだ刑事訴訟法等の改正が成立しました。現に2008年12月から実施され、被害者にとって大きな権利の獲得へとつながりました。

 他方、損害回復、経済支援ということでは、基本計画に基づいて経済的支援に関する検討会が開かれ、その最終取りまとめを踏まえ、新たな犯給制度が2008年7月から施行されました。この改正では、重度後遺障害に対する障害給付金の額の引き上げとか、生計維持関係のある遺族に対する遺族給付金の額の引き上げは図られましたけれども、まだまだ十分なものとは言えず、現在、あすの会といたしましてはさらなる改正を要望しているところです。

 次に、被害者にとって必要な支援について、経済的な支援を除いてお話をさせていただきたいと思います。一般的に言いまして、被害者や被害者遺族は、前もって被害者になるための準備をしている、そんなことはあり得ません。被害者になったときには、こういう機関に行って相談をして、弁護士が要るときにはどこそこに行ってなどということは、あらかじめ準備することなど全く不可能です。事件発生早期からの支援は、被害者にとって非常に心強いことであると思います。

 次に、情報提供の問題があります。事件直後から、そしてある程度の時間がたってからでも、被害者や被害者遺族にはあらゆる情報が不足しています。被害者や遺族には法的にどのような権利が保障されているのか、またどのような制度があるのか、捜査、そして裁判はどのように流れていくのか。事件の情報はどこからどのようにすれば入手できるのか。今後の生活はどうなるのか。被害者、被害者遺族にはほかにも多くの知りたい情報があると思われますが、実際にはどのような情報が知りたいのか、それさえもまとめることができないほどの被害者も存在します。警察から説明されたとしても、混乱している状況では聞いたことさえも覚えていないこともままあります。

 次に、情報提供とも絡んできますけれども、紹介ということがあります。被害者や被害者遺族にとって、自分たちのためにきちんと相談に乗ってくれて動いてくれる弁護士や、精神的なケアをしてくれる精神科医、臨床心理士は必要不可欠な存在です。しかし、現実的にはどの弁護士に頼んだらいいのか、どの精神科医や臨床心理士に受診したらよいのかなどは全く分からないのが現状です。また、相談内容により適当な行政機関への紹介も重要です。被害者にとって問題を訴えたいときにたらい回しにされることは、犯罪による被害に加えてさらなる精神被害につながるからです。このように、今までお話しした支援、また経済的な支援を行うに当たっては、国及び地方公共団体の果たす役割というのが非常に重要になってくると思っております。

 地方公共団体の被害者支援への関わりということで言いますと、近年、犯罪被害者支援条例が多くの自治体で成立しています。私が住んでいる神戸市でも、私も検討委員のメンバーに選ばれましたが、一昨年4月に犯罪被害者支援条例が施行されました。そして、お隣の明石市では、さらに進歩した犯罪被害者支援条例の改正案が一昨年に成立し、昨年の4月から施行されました。私も検討委員として参加しましたけれども、この改正内容は現時点では地方自治体ができる最高の支援となっています。他府県でも、明石に追従するような犯罪被害者支援条例を制定していってほしいと思いますし、また京都では、先ほどもお話しされていましたけれども、全市町村で支援条例ができているということですので、更に上質のものに改正するような流れができたらと思っております。

 被害者支援条例の内容についてですけれども、明石市の条例は除いて、各自治体で余り大きな違いはないように思います。もちろん地方自治体の被害者支援に対する対応が大きく改善されるであろうということは、非常に重要なことであると思います。しかしながら、この条例が制定されることの最も重要な意味は、犯罪被害者にとってのよりどころができるということだと思います。この条例が制定される以前は、犯罪被害者等基本法ができ、自治体の対応する窓口が決まったとしても、その窓口に行って、それなりの対応を受けることはできませんでした。しかしながら、この条例が制定されることにより、犯罪被害者としての権利を主張しやすくなります。このことは精神的に非常に大きな影響を及ぼすことになると思います。

 もちろん当然、条例の制定だけでは十分ではありません。幾ら良い条例や施策を作っても、それが機能しなければ何の意味もありません。絵に描いた餅では全く意味がありません。条例や施策をいかに生かして活用するかが、重要な問題だと思います。被害者支援の条例や施策を有効に生かし、縦割りではなく、縦横無尽で、スムーズで、素早い対応ができるような体制づくりが、実際には非常に重要なことであると思います。

 被害者支援の基本というものは、やはり被害者の視点に立った支援だと思います。被害者支援とは、あくまでも被害者が中心であり、支援者が中心ではありません。この根本がずれてしまいますと、支援が支援者の自己満足になってしまう危惧が高いと思います。

 ひょうご被害者支援センターでは、設立は遅れましたけれども、他府県にはない特徴があります。それは設立準備段階から被害者遺族がメンバーに入ったことです。被害者が被害者支援センターの役員に加わっているということは、被害者支援を実際に進めていく上で非常に重要になってきます。被害者支援と言いながら、本当に被害者のニーズに対応しているのかということは非常に大きな問題だと思います。犯罪被害に遭っていない人が、被害者はこのような支援を必要としているに違いないと頭で考えることと、実際に被害に遭った人たちが望んでいる支援とは異なる場合がやはり少なくないのが現状です。ややもすれば自己満足的になってしまい、せっかくの支援が支援にならないどころか、被害者を傷つけてしまい、次なる被害につながってしまう、そんなことにさえなりかねません。そのためにも被害者の声を聞きながら、どのような支援が必要なのか、どのように支援をしていくべきかを考えることが非常に重要になってきます。せっかくの支援が支援にならないようになっては絶対にいけないと思います。これからの被害者支援は、支援をする人の気持ちを生かし、有効な支援に結びつけるとともに、更に発展させていくということが重要なことではないかと思います。

 話は変わりますけれども、被害者支援を行っている被害者支援センターの多くは、経済的な基盤が非常に脆弱なところが多いと思います。ここ京都の支援センターの状況は知りませんけれども、私が役員の1人として所属しておりますひょうご被害者支援センターも、同様の問題を抱えております。ひょうご被害者支援センターは、何度も言いますけれども、2009年に早期援助団体の指定を受けることができました。支援を行うに当たって必要な人材の数というのは、早期援助を開始すれば、さらに増加します。しかしながら、人材というのは一朝一夕に育成できるものではありません。時間と費用もかかります。更なる支援を行うためには、一般の方々の協力はもちろん必要ですけれども、行政の方々の人的、そして財政的な支援というのが必要なものと考えます。犯罪被害者等基本法及び基本計画の中には、犯罪被害者支援における国及び地方公共団体の責務が明示されております。その点を含め、関係者の方々には改めてお願いしたいと思います。

 被害者支援と一口に言いましても、国や地方公共団体でしかできないこと、逆に国や地方公共団体でやるには効率やフットワークが悪いこと、民間でするほうが効率的なこと、また民間でしかできないことがあると思います。重要なことは、これらがそれぞれの役割をきちんと果たすことにより、有機的で効率が良く、本当に被害者が望む支援を行うことだと思います。

 本日は十分にお話しできませんでしたが、被害者や遺族の状況は事件後の時期により刻々と変化しております。その時期、その状況に応じた支援を継続的に行うことが、被害者の回復にとって非常に大きな役割を果たすことを、是非ともよく理解してほしいと思います。そして、そのような支援ができる体制を早急に構築してほしいと切に思います。

 犯罪被害ということは、はっきりと言いますけれども、人ごとではありません。いつ誰にでも起こり得るということを理解して考えてほしいと思います。

 本日のテーマとは少し離れますけれども、最後に一つだけ話させていただきたいことがあります。今年6月に私たちの子供の命を奪った加害男性が、被害者や遺族に何の断りもなく自分勝手な手記を出版しました。私自身は、この本を読んでいませんけれども、加害男性による加害行為や、被害者及び遺族に関する記載も含まれていると聞きました。被害者遺族は、この本の発行によりさらなる精神的な苦痛を受け、現在もその苦しみが軽減することはありません。殺人等の重大な犯罪を犯した加害者が、自らが犯した犯罪を題材にした手記を出版するということは、被害者及び被害者遺族にとっては、加害者によるさらなる精神的被害を受けることにつながります。加害者が、被害者や被害者遺族を事件で苦しめた上に、その後にさらに苦しめる権利があるはずがありません。これは新たな犯罪、精神に対する傷害罪に相当するものだと、そのように私は理解しております。この件でも表現の自由という言葉を使用して擁護する人もおりますけれども、これに関しては表現の自由以前の問題だと思っております。加害者が自身が犯した犯罪に絡んでさらに被害者遺族を苦しめることは、許されることではありません。このようなことで被害者、被害者遺族が更に苦しむことのないように、早急に何らかの規制を実施してほしいと思っておりますし、関係機関には適切な対応をお願いしたいと思っております。

 長い時間、御清聴ありがとうございました。

警察庁 National Police Agency〒100-8974 東京都千代田区霞が関2丁目1番2号
電話番号 03-3581-0141(代表)