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第2章 精神的・身体的被害の回復・防止への取組

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1 保健医療サービス及び福祉サービスの提供(基本法第14条関係)

コラム3 きょうだいが犯罪被害に遭うということ

令和2年10月16日に開催された「全国犯罪被害者支援フォーラム2020」(主催:公益社団法人全国被害者支援ネットワーク、日本被害者学会、公益財団法人犯罪被害救援基金、警察庁)における犯罪被害者御遺族による講演「被害者の声」の要旨を紹介する。

講演者:御手洗さん(犯罪被害者御遺族・ごきょうだい)
インタビュアー:大岡由佳さん(武庫川女子大学准教授)

講演者の御手洗さんは、平成16年6月、長崎県佐世保市で小学6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切りつけられ死亡した女子児童殺害事件の被害者のお兄さんです。事件当時は中学3年生で、高校進学後に「保健室登校」になり、事件の整理がつかず、先の見えないトンネルのような日々が続きました。今年で事件から16年、当時の思いやその後の状況等をインタビュー形式でお話しいただきました。

インタビュアーは、武庫川女子大学准教授の大岡由佳さんです。

●先生たちに囲まれ事件を知った

大岡:事件から16年が経ちました。加害女児は家庭裁判所に送致され、児童自立支援施設に入所しましたが、その後、退所しています。改めて事件を振り返って感じられることや、今の心や体の状態はいかがでしょうか。まず、事件を初めて聞いた辺りからお話しください。

御手洗:当時、一緒に暮らしていたのは父親と自分と妹の3人でした。中学生だった私は、5時限目に突然、担任の先生に「話があるので来てくれ」と言われ、相談室に呼び出されました。部屋には校長先生をはじめ7、8人の先生が待機していました。校長先生からA4の紙を渡され、「まず、これを読んでくれ」と言われました。それはヤフーの記事で、妹が殺されたとはっきり書かれていました。ニュースになっているから事実だと理解はできるのですが、頭に入ってこず、最初に出た言葉が「これをやったのは誰ですか」でした。校長先生は「そういうことは気にしなくていい」と一言だけ。先生方も黙りこくってしまいました。

大岡:事件後、ご家族と合流された時、お父様の様子やご自身の状況はどうでしたか。

御手洗: 父親と合流したのは夕方の5時か6時で、それまでは相談室で待機していました。学校に来た父親の目の焦点が合っていないのです。『あ、これはまずい。今、父親に何かしら刺激を与えると、下手したら父親まで失うかもしれない』。そのように思い、とにかく何を言われても「分かった。大丈夫」と答え安心させようと子供なりに考えました。

大岡:事件から学校復帰に至るまでの間、ご家族や周囲の人々はどのような状況でしたか。

御手洗:父親は目がうつろで、心ここにあらずのような状況でした。父親を安心させるという意味でも、早く学校に復帰したいと思っていました。当時、家の前が警察署で、マスコミの方がたくさんいて、なかなか外に出ることも難しかったので、どうしても部屋の中にいる時間が長かったです。

●1年経って「きつい」と言えた

大岡:2学期から学校に復帰されますが、中学校卒業までの生活やその後の状況についてもお聞かせください。

御手洗:学校復帰に際してカウンセラーやお医者さんと話すことはありませんでした。父親を診察した精神科医と話す機会はありましたが、「君はどう?」というような形で聞かれ、父親に心配をかけたくないという思いが強く、「大丈夫です」としか言えませんでした。学校にはスクールカウンセラーがいましたが、アプローチもなく、普通に学校に通い、普通に生活したという感じでした。

大岡:「普通に生活する」というのは並々ならぬことだと思うのですが、勉強や受験はどうだったのですか。

御手洗:逆に勉強することで事件から目を背けていました。成績も上がりましたが、学校でよく居眠りをしました。夜はなかなか眠れませんでした。夢で、最初に事件を聞かされた場面が出てくる。そんな状況が続きました。

大岡: 高校時代はどうでしたか。

御手洗: 父親も仕事に復帰して、私も高校に入り、5月になって、父親のことを考える時間が少なくなり、自分自身に目を向ける時間が増えました。そうすると、事件の前の段階のことから考え出し、加害者の女児を含め妹の友人関係とか、トラブルとかを聞いていたので、それをきちんと父親に伝えていれば事件は起きなかったのでは、と考え、自分を責めるようになりました。

それに捕らわれ、うまく体が動かせず、教室に行くことができない。学校には行くのですが、居場所を求めて保健室へ。養護の先生に、事件の話を含め、自分がどうしてこういう考えに捕らわれたか、とにかくきついと話しました。その先生には、「保健室は常に開けておくから、朝から夕方までいていい」と言われました。初めて口に出し、居場所を確保できたのは一つ前進でした。

その後も保健室登校が続きましたが、結局、学校から父親に連絡が入り、初めて父親に「きつい」と口に出し、自分がどうしたらいいか分からないと話しました。事件からほぼ1年経って、やっと口にできた言葉でした。

大岡:医療機関やカウンセラーとの関わりについてはどうでしたか。

御手洗:結局、最初に入学した高校は辞め、その後、いくつかの病院を回りました。その際感じたことですが、自分の方から一生懸命話をする。でも何か反応がない。一方的に話しているような感覚になって「きつく」なる。自分はどうしたいか、どう思っているのか、より深く掘り下げるには、ほかの人からうまく切り込んでもらって「こういう部分はどう?」というように細かく区切って話をさせてもらうことができたらと思いました。ただ、病院巡りは父親も一緒だったので、『自分の話を聞いても父親は壊れない。きついということを親に言ってもいいんだ』と分かったという意味では有意義でした。

●クラスメイトが支えになった

大岡:事件の当初、もし民間被害者支援団体が関わっていたとするならば、どのような支援をしてほしかったか教えてください。

御手洗:あくまでもうちのケースですが、父親の会社の方が料理、洗濯、買い物などの支援をしてくださいました。学校との調整やマスコミ対応もしてくださいました。逆に言えば、そういったことが被害者支援団体に求められることなのかなと感じています。

大岡:御手洗さんにとって何が支えになったのでしょうか。

御手洗:一番はクラスメイトです。事件から1か月後、まず友人が遊びに行こうと誘ってくれました。後から聞いた話ですが、友人が「どう接したらいいか分からない」と担任の先生に相談したところ、先生は「深く考える必要はない。事件の前と何も変える必要はない」と言ってくださったそうです。『自分が安心して学校に戻っても問題ないんだ』と思えるきっかけにもなりました。

大岡:同じ仲間、子供の支援が非常に大切だと思いましたが、逆に足りていなかったことがあればお聞かせください。

御手洗:いくつかあります。まず、事件を聞かされた場面を今でも夢に見るぐらいきつい。狭い部屋で先生方に囲まれて過ごした時間が強く心に残っています。子供に対してどう事件を伝えるか。自分のように7、8人の先生に囲まれて、という状況はよくありません。子供の場合、最終的に学校に戻ります。戻る場所がトラウマになってはまずいです。

●きょうだい、子供の支援はちょっと目線を下げて

大岡:次に加害者の女児に関する質問です。加害者の女児に対して「謝るなら、いつでもおいで」と著書に書かれていますが、その心境をお聞かせください。

御手洗:「謝ったら許してあげる」ということではありません。彼女が謝ることができる状態にまできちんと更生していると信じているからです。自分にとっては、謝るという行為があって初めて、これ以上彼女に捕らわれることはなくなるだろうと思っています。自分の生活に戻り、スタートラインに立ちましょうという意味を込めての言葉です。

大岡:最後に一言いただいて締めたいと思います。

御手洗:被害者支援に関わる方々には、ちょっと目線を下げて、ちょっと身長の低い子たちの方に目を向けてほしいと思います。親だけじゃなく、子供にも連絡先を渡して「いつでも連絡していいよ」、「どんな話でも聞くよ」と一言言ってあげる。もしかすると子供から連絡が入り、支援に早く入れる可能性もあります。「君も見ているよ」という姿勢を見せてほしい。そういう姿勢で臨めるような環境を整えてほしいと思っています。

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