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第2部 第4次犯罪被害者等基本計画に盛り込まれた具体的施策の進捗状況
第3章 刑事手続への関与拡充への取組

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1 刑事に関する手続への参加の機会を拡充するための制度の整備等(基本法第18条関係)

講演録 あなたが突然、犯罪被害者遺族になったら・・・

寺輪 悟(犯罪被害者御遺族)

●はじめに

娘の事件が起きた当時、三重県では、犯罪被害者支援条例もなく、いろいろな苦労がありました。事件に遭う、そんな世界とは全く無縁でした。

事件から10年、いろいろな苦しみや困難が私たち犯罪被害者遺族にはありました。私の経験が、今後の全国における犯罪被害者支援の発展に役立てられればと思い、僭越ながらお話をさせていただきます。

私が一番お伝えしたいことは、いつ犯罪被害者、犯罪被害者遺族になるか分からないという現実があるということです。話を聞く上で、皆さんの頭の中に、お父さん、お母さん、恋人、誰でもいいです。もしこれが自分の身に起きたことならどうなるのだろうと頭に入れながら聞いてくれれば幸いです。

●事件の発生

私は事件当時45歳の自営業、妻は45歳の看護師でした。お兄ちゃんは大学1年生、長女は高校2年生、博美は中学3年生でした。どこにでもいる平凡な普通の家族でした。

博美は平成25年8月25日の花火大会の日に、三重県朝日町の路上で、当時18歳の少年に鼻と口を背後から手でふさがれ、空き地に連れ込まれて殺害されました。娘は誕生日を迎えたばかりの15歳とたった3日でした。

一緒に花火を見に行った友達にも声をかけたのですが、「花火が終わったあとは普通に別れたよ。帰ったはずだよ」と。何か事件に巻き込まれたのではと思い、深夜にもかかわらずその足ですぐ警察署に行きました。

警察官の対応はすごく良く、すぐ捜索願を受理してもらい、こまめに捜査内容を連絡してくれました。最後にくれた1本の電話で「博美さんとよく似た年頃の御遺体が発見された」と連絡がありました。私はすぐ仕事を切り上げ、自宅に帰ろうとしましたが、家が近づくにつれ、生活道路は規制線が張られて通行止め、赤色灯を回した警察車両が列を成し、私はただごとではないと思いました。しかしまだ心の底では、人違いであってほしいと強く願っていました。

私と妻とお姉ちゃんとでお兄ちゃんを待ち、警察署に行きました。警察署に着いた途端、マスコミ各社がものすごい数いました。密室で2時間ぐらい閉じ込められたと思います。今思えば、私たちをマスコミから守ってくれたと感謝しています。それから死体安置所まで向かいました。

到着すると、今まで嗅いだことのないようなものすごいにおいが私の鼻をつきました。今でもそのにおいは鼻から取れません。

人の遺体を見るのは初めてでした。まさかそれが自分の探していた娘になるとは夢にも思っていませんでした。私はお兄ちゃんとお姉ちゃんには、とっさに判断し、「車で待っていろ。私と妻で先に確認しに行く」と言って、部屋の中に入っていきました。係の人が白い袋を開けた途端、見るも無残な変わり果てた遺体がありました。それでも、ひと目見た瞬間、探していた博美だということはすぐに分かりました。

私と妻は「間違いなく私の娘です」と言ってその場をあとにしました。表に出ると、お兄ちゃんもお姉ちゃんも「私も会いたい」「俺も会いたい」と。しかし、どうしてもあの姿は、お兄ちゃんとお姉ちゃんには見せられなかった。それだけひどい状態だったのです。半ば無理やり、力ずくで車に押し込み、「なぜだ!なぜだ!」とお兄ちゃんは私をどつき、お姉ちゃんも私に突っかかってきました。

●犯人逮捕

平成26年3月2日、少年が逮捕されました。現在、少年はもとより、少年の家族からの謝罪はもちろん、1本の電話や1通の手紙もありません。

襲って倒れている博美を置いて現場から立ち去った時、少年は何を感じていたのか。良心もなかったのか。私は後の裁判で、加害者の少年から「立ち去る時は博美が生きていた」と証言されたことが大変悔しかったです。博美をひどい目に遭わせておきながら、少年は半年以上平静を装い、普段通りの生活をし、自分のことばかり考えていた身勝手極まりない犯行です。

●様々な困難

一番初めに大変だったのはマスコミ対策でした。家中を報道陣が取り囲んでいました。私たちは家に入れず、4人でビジネスホテルに泊まりました。テレビをつければ報道番組が勝手な模索をし、ありもしないことを報道していました。顔写真やプリクラ、一気に日本中に放送されました。葬儀場の中にまで、友人のふりをして入ってくる者もいました。1日にして、日本中に寺輪博美という名前は知れ渡りました。

次に、私たち4人家族は、自分たちでは動くことも、食べることも、寝ることも、時間も、全く関係なくなりました。私は1か月で17キロ痩せ、ストレスで歯も3本抜けました。

その頃、犯罪被害者支援センターのサポートがすぐに入ってくれました。動けない私たちを半ば無理やり担ぎ、車に乗せ、精神病院に連れて行かれました。その精神病院が、私たちが社会復帰をするのに、ものすごく威力を発揮したことを私は痛感しています。

悲しみを小さくするにも個人差があるようです。私も長男も長女も構わず当たり散らしていましたが、妻だけは気丈に振る舞っていました。私たちはそれに全く気付きませんでした。自分のことばかり考えていました。

少しずつですが、一人一人が社会に関わりを持ち、世に出ていこうという時に、ようやく妻は博美と心ゆくまで向き合えるようになったのだと思っています。泣きたい時に泣けない、悲しい時に悲しめない、感情を押し込んだ場合、悲しみの大きさが小さくなるのは、非常に遅くなるそうです。妻は外に出られるようになるのに6年かかりました。妻に目いっぱい悲しませてやれなかったことがなかなか社会復帰できなかった要因だと思っています。

そして、生活していくにはお金がかかるという現実があります。電気、ガス、水道、家賃、市・県民税から全て事件に関係ありません。貯蓄がなければ、悲しんでもいられない現実もあります。国が私たちにしてくれたのは、320万円、それだけです。

当時、県にも市にも条例はありませんでしたから、何もしてくれませんでした。つらいことがあっても、自力で頑張ってください。そう言われているような気がして、当時は何も思いませんでしたが、今思うと非常に冷たいな、寂しいなと思っています。

●刑事裁判

犯人が捕まってからは裁判という苦しい日々が始まります。犯人は、当時18歳の少年でした。少年法改正前の事件です。

初めて私がこの男に会ったのは家庭裁判所です。私は顔を見るなり、すぐさま殴りかかりにいきました。しかし加害者は看守3人に守られていました。

残念なことに起訴事実は殺人に持っていくことはできませんでした。最初の逮捕容疑は強盗殺人。しかし殺意が認定できず、博美は死んでいますから、博美の言い分は聞けない。加害者の言うことありき。検察側は、強制わいせつ致死と窃盗、かなり落とされた罪で起訴しました。

そして、少年は裁判員裁判で9年の不定期刑となりました。最高10年の不定期刑にもならず、1年減刑されました。裁判官、検察官にとってはひとつの事件に過ぎないかもしれませんが、私たち家族にとっては一生に一度の、重要な、重大な裁判でした。

この裁判は殺された博美の無念、遺族が仇を取る裁判とは違う、生きている加害者の刑をみんなで決める裁判だと、素人の私でも気付きました。そこに犯罪被害者の想いは全く入っていませんでした。

●仮釈放

令和4年10月、刑期満了が近いということで、男が収容されている刑務所の管轄する保護観察所から仮釈放に関する書類が送られてきました。

少年が収監されて以降、一度も博美に対する謝罪の意を表したことがないこと、全く誠意や反省が見受けられないことを理由に反対意見を出しました。最初に来たのが、刑事施設の長から仮釈放を許すよう申し入れましたと。次に意見陳述をするなら、意見等陳述書を1通書けという書面が来ます。

令和5年1月、仮釈放が許可されませんでしたと通知が来ました。私はすごく喜びました。もう出ることはないだろう。8か月しかないんだからと思っていたら、3か月目にまた届きました。これも同じ文面です。今回は仮釈放が許可されました。「今までの手続は何だったんですか」ということを保護観察所に電話して聞きました。しかし、まともな回答は返ってきませんでした。私たちはこの仮釈放を鵜呑みにするしかありませんでした。

●民事裁判

刑事裁判後、少年やその両親に足かせをつけようと民事裁判も起こしました。民事裁判でも起こさなければ、加害者とどういうようにつながるのか。そういう裁判所の手続ひとつで唯一加害者とつながっているのです。

博美に対しての損害賠償請求は7,700万円。1円ももらっていないし取れるわけもない。損害賠償請求というものは、10年の時効があり、10年たつ前に、こちら側が裁判をかけなければいけない。私は加害者が7,700万円という負債がなくなり、身軽に人生を歩くことがどうしても許せない。取れるわけがなくても、私はまた裁判を起こすでしょう。そうでもしなければ、加害者が楽になるような気がするのです。それがどうしても悔しい。

刑務所にいる間、それは自分がしたことについての罰であって、刑務所を出てからが償いだと思っています。しかし世間では、刑務所を出れば全て許された風潮がはびこっていると思います。私はそれをどうしても許すことができません。

損害賠償の立替制度や再提訴費用についても、自治体として機能しているところはほんの数箇所ですが、国に対しても導入を求めている状況もあります。この制度があれば、被害者遺族が何年にもわたり、加害者に請求し続ける苦しみから解放されること。加害者のことを考えなくてもいい。心の負担が、ストレスが、どんなに激減されるんだろうと、犯罪被害給付金の増額だけではなく、この点についても今後議論していただきたい。

●周囲・地域の支え

最初に助けてくれたのは仲間でした。私は途中で独立しましたが、社長は家族4人が3年間暮らせるぐらいのお金を用意してくれました。すごく心強かったです。「これだけあれば、しばらく休めるだろう。何年たってもいい。必ず戻ってこいよ」と。

妻も看護学校を出てから、一人の院長についていました。夫婦で来てくれて、「マスコミが大変なら、私たちの使っていない別荘がある。好きなだけいたらいい」と。そして現金も置いていってくれました。

お兄ちゃん、お姉ちゃんもそうです。みんなが顔を見に来てくれました。とりあえず顔が見たいと。悲しい時、つらい時に抱き合える友人がいた、これはかなりの救いになりました。自分の職場から理解をされること、単に経済的に助けられたということではなく、社会の中で孤立していない、一人じゃないというのが安心感につながりました。

しかし、母子家庭、父子家庭、周りから嫌われている人、友達がいない人、その人たちはどうなのでしょう。犯罪に巻き込まれ、ましてや遺族になれば、受ける悲しみは同じなのに、なぜ開きがあるのか。私はどうしても納得できませんでした。

いろいろ模索した結果、犯罪被害者支援条例がないことに気付き、県に働きかけ、29市町1軒1軒まわり、時間もかかりましたが、今では全ての29市町、県に、要綱もありますが、一応条例はつくっていただきました。

条例のある県とない県では、事件後の遺族の社会復帰に大きな差がある。住んでいる県によって格差があってはならない。遺族の悲しみは同じです。自分の住んでいる自治体、県を頭に、市町村、そこに条例があればどんなに心強いことかと私はつくづく思います。

●おわりに

犯罪被害者として、この10年間苦しみ続けてきた。これから先どんな苦しみが待っているか。いつまで皆さんの前で私は話ができるのでしょうか。今一度御自身のことに置き換えて考えていただきたい。私のように声を上げる犯罪被害者遺族は限りなく少ないと思っています。声を上げなければ皆さんが気付いてくれない。それが大変残念でならないことです。

私は娘を奪われ、守れなかった自分を責め、崩れていく自分の精神、ほかの家族を支えることもままならない、自分の無力さを味わいました。そして、この苦しみは時間と共に消えるものでもありません。生きているうち続くでしょう。どうか多くの人たちが犯罪被害者、遺族のことを理解し、支援の必要性を一人一人想ってください。自分自身のように考えてください。

今日この会場の中の、一人でもいいです。その一人が、今日眠る前、帰る時でも、1分でも30秒でも10秒でもいいです。私の話を少しでも考えてくれれば、この東京に来た甲斐があると思っています。

話を聞いてくださり、誠にありがとうございました。

※本講演録は、令和5年度犯罪被害者週間中央イベントにおける基調講演の概要をまとめたもの。

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