関係機関・団体と連携した犯罪被害者支援促進モデル事業

講演:「子どもたちを被害者にも加害者にもさせないために」

命のメッセンジャー派遣事業(滋賀県)
子どもの犯罪被害防止を図るためのボランティア研修会

一井 彩子(少年犯罪被害当事者の会) 一井 彩子
(少年犯罪被害当事者の会)

こんにちは。初めまして。私は大阪の堺市、家は仁徳天皇陵の近くです。そこから来ました一井と申します。今日は宜しくお願いします。まず、私の息子が少年事件に遭ったのですが、その事件から、今日までのことをお話したいと思います。

私の息子、名前はマサルと言いました。今から13年半前ですか、1995年、平成7年の8月30日、隣の校区の中学校の生徒と、その卒業生ら4人によって暴行され、殺されました。中学3年生の夏休みが終わろうとしている時でした。直接の原因というのは、息子と、直前に息子を呼び出した顔見知りだった16歳、15歳、14歳の3人の少年がいたところ、主犯格の17歳の少年がたまたまやってきて、そこにあった自動販売機のビールを飲めと言われたのを、私の息子だけが断ったということでした。その後、じゃんけんをして負けた者がビールを飲むというルールを決め、主犯はさらにビールを飲むように息子に詰め寄ったところ、再度断ったことに腹を立て、制裁を加えることにしたのです。まず主犯は、息子に「誰を殺して欲しいんや?3人の中から選べ」と言い、「選べません」と答えると、「それならお前を殺す」とすぐ前にあった小学校の校庭へ連れて行きました。この時、3人の少年もこれに従いました。これが午前4時頃のことです。ここから息子は1時間半にわたり、すさまじい暴力を受けるのです。校庭に寝かされた息子に、顔面を蹴りながら、主犯はさらに「誰を殺して欲しいんや?」と言い、息子と同級生だった14歳の少年と喧嘩をさせました。息子が反撃を始めると、横で眺めていた主犯は校庭に積んであった50センチくらいの角材を取り、この少年に手渡し、「これでやれ」と命じました。この後、暴力はどんどんエスカレートし、角材を持った4人の少年によって、頭を集中的に殴られ続きました。さらにこの中の1人は、地面に倒れたままの息子の顔をめがけて5キロもあるブロック片を投げつけることもしていました。1時間ほど経って夜が明けてくると、人目につくだろうということで、校舎とフェンスの狭い通路に連れ込み、さらに暴行を加えました。当然のことながら、息子は大量の出血があったのですが、そして、意識も朦朧としていたのですが、現場となった小学校は少年たちの家から近いことから、見つかってはまずいと、その後、主犯の命令によって、発見現場となった公園の植え込みに棄てに行きました。そこは臨海工業地帯の入り口にあるのですが、4人はミニバイク3台に分乗し、その1台にぐったりしている全身血だらけの息子を乗せて運び、植え込みに置き去りにして、草陰から様子を伺っていたようです。その後、たまたまトラックを止めてトイレを探していた高知県の長距離トラックの運転手さんが、息子を発見してくださって、警察に110番通報してくださいました。そして、パトカー2台と救急車が到着し、この時、救急隊員の「大丈夫か?」という問いかけに、息子は「うん」と答え、「歳いくつか言ってみ?」との質問には「15」と即答していたそうです。けれど、救急車の中では「苦しい、苦しい」と言って、体を動かしていたそうです。

私が病院からの電話で起こされたのは、朝の6時半頃だったと思います。「すぐに病院に来てください」とのことで、病院の場所を聞き、すぐに駆けつけました。もちろん、私はこの時息子がこんなにすごい怪我をしているなんて想像もつきませんでした。息子は、小さい頃から決しておとなしい子どもではなかったので、怪我をすることは時々あったからです。1つ年上の姉と、6歳下の妹に挟まれた3人兄弟の長男として育った息子は、本当にやんちゃで、食べている時と寝ている時以外は動いていないことがないような、元気な子どもでした。小学校の低学年までは友達とも喧嘩をしたり、いたずらをしたりと、いつもひやひやさせられました。活発で目立つのが好きだったので、学級委員や、生徒会役員に立候補したり、スポーツ大会に参加したり、何にでも興味を持っていました。例えば小学校の5年生で生徒会役員に立候補した時も、動機は小学校に入学した時から、ずっと国旗掲揚の仕事をしたいと思っていたんだそうで、その仕事というのは小学校の5年生でしか、出来なかったらしいんです。それで立候補したと言っていました。とにかく明るくて、人懐っこくて、誰とでも友達になるというこの性格が中学校に入学してからは、その分、学校のペースを乱すと言われ、常に先生に目を付けられていました。当時、息子たちが通っていた中学校では、先生による暴力がひどく、ある時は先生の靴型をほっぺたにつけて帰ってきたこともありました。同級生の女の子の中には、顔を殴られ、歯が欠けた子もいました。後でその先生たちに話を聞いたのですが、先生たちは息子の時代よりまだ一昔前に社会問題になった校内暴力を恐れて、先生たちが生徒を力で抑えていたのだそうです。こんな状況の中で息子はだんだんと学校に行かなくなってしまいました。そして最悪だったのが、担任の先生が3年間ずっと同じだったということです。もちろんこの担任の先生も暴力を振るう先生の1人だったのです。でも、そんな中でも美術の先生が「学校においでよ」と2時間続きの授業に呼んでくれたこともありました。息子は塀を乗り越えて、他の先生に内緒で美術の授業に出ていましたが、担任の先生に見つかって、学校の外へ放り出されてしまいました。私は「もう学校へ行かんでええよ」と言いましたが、息子はたくさんの友達がいたので学校には行きたかったようです。修学旅行で友達が撮ってくれた写真、今日は小さいのを持ってきたんですけど、この写真が結局遺影となってしまいました。学校には行ってなかったのですが、「修学旅行は中学校最後の思い出やから」と言って、「行きたい」と言っていました。でも、修学旅行もすんなり行かせてもらえたわけではありませんでした。その日の朝、元気に出て行ったのですが、しばらくしてから、「おかん。迎えに来て」と電話がありました。私は、てっきりどこか途中から電話しているのかなと思ったのですが、息子はその時校長室にいました。みんなと一緒にバスに乗せてもらえなかったのです。この写真の通り、学校に行っていなかった息子は髪の毛を茶色く染めていました。そして、当時は足を骨折していて、ギブスをしていました。そのためにダボッとしたズボンを履いていました。それがいけないということでした。私が校長室で事情を説明しましたが、分かってもらえず、2人で家に帰りました。ところが、息子は「どうしても修学旅行に行きたい」と言うので、もう一度学校に電話をしてお願いをしました。すぐに生徒指導の先生らが迎えに来てくれて、わざわざ自分の車を運転して現地まで連れて行ってくれました。結局、学校で先生から暴力を受け、最後には一緒にいた少年らから暴行され、死んでしまったというわけです。

話を搬送された病院に戻しますが、病院のロビーで警察の人にいろいろな質問をされているうちに、「もしかすると、大怪我なのかも」と思ったのかもしれないのですが、この時点でも、まさか命に関わるようなことだとは考えていませんでした。だいぶ経って病院の指示でICUに行ってみると、息子は機械をいっぱいつけて、口には呼吸器という姿でした。その姿にもびっくりしましたが、顔などがパンパンになって、前の日に家を出て行った時とは全く違っていたのにはさらに驚きました。この時すでに意識もなく、重体ということになっていたのです。その後、胸に注射をしても、心臓マッサージをしても、意識が戻ることは無く、午後1時7分に死んでしまいました。亡くなった息子の姿は頭がぼこぼこになり、顔は腫れ上がり、両手は多分頭を殴られた時にかばったのか、グローブのようになっていました。もちろん全身は傷だらけでした。後で司法解剖の結果知ったのですが、肋骨も2本折れていました。警察の方はあまりの惨さに傷害致死ではなく、殺人ということで捜査を始めてくれました。少年ら4人が逮捕されたのは、3日後の9月2日でした。もしも、救急車の中で犯人の名前を言っていれば、すぐに捕まっていたのでしょうが、息子自身が一番、自分が死ぬなんて思っていなかったでしょうから、何も言わなかったんだと思います。

この逮捕されるまでの3日間、この少年らが何をしていたかと言うと、主犯を除く3人は息子の仮通夜、通夜、葬儀にも来ていました。多分、顔を出さなければ他の者たちに疑われると思ったんだと思います。そして、事件直後から主犯の命令で口裏を合わせ、息子の履物や当時持っていたポケットベルなどを別々の場所へ捨てに行き、自分たちの衣服についた息子の血に関しては、「車の男たちに絡まれて怪我をした」と言っていました。それどころか、主犯は警察にわざわざ出向いていき、ロビーで騒ぎ、自分が捜査圏内に入ったかどうかを確かめたりもしていました。逮捕されて、家庭裁判所に送られ、審判を受けた少年らは3人は少年院に1年ほど入り、主犯は逆送され、3~5年の不定期刑で少年刑務所に送られました。警察は殺人で捜査をしてくださったのですが、結果的には傷害致死ということになっていました。

そして、それから約5年。この出所した主犯とその両親がその足で私の家にやってきたことが新しい戦いの始まりでした。息子に線香をあげさせて欲しいというのです。もちろんすぐに返事できるわけもなく、「しばらく考えさせて欲しい」と取り敢えず帰ってもらいました。その日から、何日もかかって、いろいろ考えて、結果、来させることにしました。一番の大きな理由は、少年事件というのは、何も知らされずに加害者の人権だけが守られて被害者には何の権利もないという現状があったからです。つまり、少年院や少年刑務所から出てきても、本当に更生できたのか、その後、どこに住んでどんな生活をしているのか等、何も分からないのです。私にしてみれば、凶暴な人間が1人、私たちのすぐ近くに戻ってきたのですから、せめて私が生きている間は亡くなった息子のために、この現実に向き合っていくべきではないかと思ったのです。

けれど、そんな思いで決心したにもかかわらず、実際に主犯に会ってみるとがっかりさせられました。主犯の少年については顔も知らなかったので、この時が初めての対面ということになったのですが、会うことを決めてからというもの、毎日、言いたいこと、聞きたいことをいっぱい考えていました。しかし、実際には、私の想像していた人物とは全く違っていました。この共犯の他の3人や、それ以外の子どもたちがものすごく恐れていた、キレたら何をするか分からない奴というのがこの目の前にいる、おとなしそうな子だったのです。初対面ではあるけれど、何かがおかしいと感じました。私が話しかけても、おどおどしているだけで返事もなく、子どもの代わりに母親が全て答えます。父親が線香をあげるように言っても、どうしていいのか、分からない。手取り足取り教えないと何も出来ない。この父親は市の職員で、この母親は今現在も小学校の教師をしています。この少年とはもう話をするのは無理だと思い、改めて母親と2人で会うことにしました。いろいろ話してみて感じたのは、この親子の関係、特に母親と子どもの関係は幼児期のままで止まってしまっているんじゃないかなということでした。なぜなら、息子の前で自分の子どもに「君」づけで呼び、事件のことに関しても、未だに自分の子どもが起こしたこととは信じられないと平気で私に言うのです。けれど、その母親の話によると、主犯は少年刑務所にいる間に様子が変わり、出所後しばらくして心療内科に通わせるようになったんだそうです。例えば、母親がお茶碗についだご飯をそのまま食べずに、別のお茶碗を出してきて、匂いを嗅いで自分でご飯をついで食べるというような行動があったそうなんです。そして、その後は心療内科ではなく、精神科の病院に通院し、薬を飲み続けているという状況が続いていました。このような経過も実際に加害者に会って直接話をしなければ分からないというのが現実です。加害者に会うということはとても辛いことです。息子を殺した本人が目の前にいるわけですから。私はこの母親に言いました。「私はこうした形であなたたちを受け入れ、話をしたりすることだけは出来る。けれど、許すことは絶対に出来ない」と言いました。このような状況で毎年、年に一度、息子の命日の後くらいにこの主犯と両親に会い続けてきましたが、実は去年も一昨年も会うことが出来ていません。なぜなら、やってきた両親によると、今はもう完全に精神科の病院に入院してしまっているということでした。少し詳しくこの両親に聞いたところ、少年刑務所を出てから、例えば家を出たまま、2~3日帰らないということが何度かあったそうなんです。それで警察に捜索願を出して、何日か後に保護されるというようなことが何回かあったそうなんです。それで、去年は9月に両親を呼びました。もっと詳しく主犯の状態を聞きました。けれど、正式な病名を聞いても曖昧で、自分の子どもにはあまり興味が無いように思いました。同席した私の知人の提案で診断書を送ってもらうことにしました。病名は統合失調症、治るめどは全く立っていないようです。

つまり、この主犯は私の大事な子どもを殺したことも、今では理解できていない状態です。この母親は最初に会った時から、何度も社会復帰という言葉を口にしていましたが、それとは程遠い状況になっているということです。私は最初にこの主犯を見た時から心配していたことがありました。それは、もしこの主犯が次に何か事件を起こしたら、今度は成人ではあるけれど、精神的に異常があるということで責任能力がなくなる可能性があります。何のために5年近く少年刑務所にいたんでしょうか。このような状態で出所したことには今も憤りを感じています。もし、息子が生きていたら、28歳になっています。私には28歳になった息子の姿を想像することが出来ません。

こんなふうにして息子が亡くなってから13年半、悲しみ、苦しみ続けてきましたが、私には嬉しいこと、楽しいこともありました。それは息子がたくさんの友達を私に残してくれたことです。同級生や先輩たちです。この子たちも世間一般にはやんちゃをしていた子どもたちです。でも、とっても私のことを大事にしてくれます。給料をもらったらご飯を食べに連れて行ってくれたり、カラオケに誘ってくれたりします。そして、年月が経って何人かは結婚し、子どもが産まれ、子どもを連れて遊びに来たりもします。その中の1人は自分の子どもが生まれてから私のところへやってきて。「俺な、子どもが産まれてはじめておかんの気持ち分かってきたわ。自分の子どもってめっちゃかわいいもんな」って言いました。また、別の子はやっぱり子どもが生まれてから「マサルのこと助けてやれんかって、ほんまにごめんな」って謝るのです。マサルが亡くなったことで命の重さを知り、自分の子どもが出来たことで本当に命の大切さを知ったんだと私は思います。ずっとこの子たちが私の近くにいて、一緒に泣いたり、笑ったりしてくれています。実は一昨年は13回忌だったのですが、先輩たちが堺のホテルを借りてくれて、食事会をしてくれました。42人の先輩や同級生たちが集まってくれました。息子の死亡当時、私の周りで大騒ぎをしていた大人たちは13回忌どころか、命日すら忘れてしまっています。私にとってこれまで何が支えになったかと聞かれたら、いつもこの子たちの話をします。私が今こうして元気で生きていられるのは彼らのおかげだといつも感謝しています。

ここまでが息子が事件に遭ってから今日までのことをまとめてお話させていただいたのですが、次にもう1つの事件のお話をさせていただきます。それは2001年10月1日、息子の事件から6年後ですが、今度は一番下の娘、次女が登校中にまた近くの中学校、女子中学生5人によって暴行を受け、傷害事件の被害者となってしまいました。息子と全く同じ中学3年生の時でした。少女らは箔を付けるためにいろんな中学校を回って喧嘩を仕掛けていたんだそうです。そして、学校の先生によって運ばれた病院での診断は頭部打撲、頚椎捻挫で2週間の安静でしたが、最悪なことに通院中にこの病院でおたふく風邪に感染し、左耳が聞こえなくなりました。すぐに専門医のいる病院に入院し、治療をしましたが、全く効果がなく、今現在も聴力ゼロのままです。突然耳が聞こえなくなったことでの影響は大きく、当初は立ってまっすぐ歩けず、ふらふらしていました。また、現在までずっとひどい耳鳴りに悩まされています。少女ら5人が逮捕されたのは2ヵ月後の12月1日、娘が5人のうちの3人の名前を覚えていたにもかかわらず、警察は大きな事件を抱えているから忙しいとか、少女らの中間テストがあるから、それが終わるのを待っているからとか言って、捜査をしてくれませんでした。事件直後から学校間では少女らのことは分かっていました。その2ヶ月の間にやはり口裏合わせをしていました。主犯の少女は中学2年生の時に子どもを産み、その子どもを保育所に預けるために学校に登校だけしていました。そして、授業を受けないで学校を抜け出して、うろうろしていたんだそうです。娘の話では、次に喧嘩を仕掛ける中学校も決めていたらしいです。5人は逮捕後、家庭裁判所で審判を受けましたが、主犯は保護観察、4人は保護処分無しでした。娘の受けた傷に比べると、何と軽い処分なのかとまたしても少年事件の理不尽さを思い知らされました。主犯に関しては保護観察中に覚せい剤で捕まったと聞いています。それに、この主犯の母親と息子の加害者の母親の1人が知り合いということも聞いています。

ここまで私の子ども2人が、被害者となった2つの事件の話をさせていただきましたが、全て私たち家族が生活する堺市で起きたことで、加害者らも今も堺市で生活しています。このように少年事件というのは、とても狭い地域の中で起こることが多いということを知っていて欲しいと思います。

それから次に、もし、事件に遭わなければ、経験しなかっただろうなということを少しお話したいと思います。まずよく皆さんも目にされると思うのですが、報道。まず事件が起こって、さっきも言いましたが、病院に駆けつけた時にはもう新聞記者がいました。なぜ私より先に着いているのか分からなかったです、当時は。それとか、記事はやはり少年事件ということもあって、私の息子の方は、名前、中学校、住所、親の職業、全部出ます。でも、加害者のことは何も載りません。あとは後に新聞に出ていたのですが、喧嘩ごっこだったということを書かれていました。でも、私にしてみれば、一方的に暴力を受けて死んでしまったのに、遊びの延長のような書き方、喧嘩ごっこ。それから、ゲーム感覚という言葉、よく聞くと思うのですが、そういうことが載っていました。でも、同級生の1人がその新聞社に電話をして抗議をしようと思ったのですが、当時中学3年生だったので相手にしてもらえず電話を切られてしまったということもありました。それから、報道という意味では、ワイドショーです。今は少しは変わってきたと思うのですが、本当に玄関を勝手に開けて入ってきて、家の中を撮して、身内の人間を撮して取材をするというようなことが、もう本当にいろんな方が経験されていることなのですが、本当に後で映像を見せてもらって本当にびっくりしたのですが。全く私たち家族と付き合いの無い、知らない人に話を聞きに行って「どんな子どもさんでしたか?」とか、またその人も知っていたかのように答えているというような映像もありました。本当にこういうことは事件に遭わなければ一生経験することは無かったんだと思います。

それから、周りの人間関係というか、本当に友達だった人を無くしたりとか、友達の態度がころっと変わったりだとか、そういうことはもういっぱい経験しました。家の中が少しは落ち着いてきて子どもたちも学校に行けるようになったら、今度は宗教の勧誘がすごいです。「信心していないから、こんなことになるんや」とか、本当にひどい言葉を浴びせられました。それもいろんな人が経験していることです。でも、一番首をかしげたのは、この息子の賠償金が入っただろうと言ってお金を借りに来た近所の人が2人いました。犯罪の被害者になると、刑事裁判があって、民事裁判があって、多分何千万とか、今だったら1億だとかという賠償金が入ってくると思っている人がいるようで、それでお金を借りに来たみたいなんですけれども。賠償金なんていうのはほとんど絵に描いた餅で、入ることはないのですが、特に私たちのような少年事件では、罪を犯した少年というのは支払い能力がもちろん無いので親が支払うというのが普通なのですが、例えばうちの加害者もそうだったのですが、生活保護を受けているから払われないとか、例えば一家で夜逃げをして払わなくなったとか、そんなことがもう本当に当たり前なので、例えば成人事件の被害者の人でも、隣の人に殺されたのですが、民事裁判を起こした途端に加害者が、家や土地の財産隠しをしていたということもありました。どんな状況であれ、そんなようなお金が入ってくるなんていうようなことはほとんどあり得ないのですが、犯罪の被害に遭った家に行ってお金を貸してくれというのは本当にもう考えられない。もう完全にお付き合いは止めましたけど、考えられないことでした。

こういうことを経験しながら今日まで何とか生きてきているわけなのですが、私は現在、今日呼んでいただいた少年犯罪被害当事者の会というところと、全国犯罪被害者の会、通称「あすの会」というのですが、活動させていただいています。少年犯罪被害当事者の会の紹介をちょっと。資料のところにあったと思うのですが、その会のことだけを説明したいと思います。少年犯罪被害当事者の会とは、1997年、平成9年12月21日、未成年の加害者によって子どもを殺された4家族の親たちが大阪に集まりました。このような事件に遭った親たちの想いはとても言葉で表現できるようなものではありません。世間に理解されない、孤立無援の苦しみの中、同じ立場に置かれた親を捜し求め、お互いに電話で話し合ったのが会の始まりでした。初めて4家族が実際に会ってみて、それまでは誰にも理解してもらえなかったことが、当事者間では痛いほど分かり合えました。その理由はそれぞれが身を持って理不尽だと痛感していたことがたくさん共通していたからです。けれども、私たち1人ひとりの声や力は本当に弱く、分からないことばかりでした。私たちの子どもは夢も希望もたくさんあったのに、決して死にたくなかったのに、少年たちの手によって理不尽に命を奪われました。生きていれば被害に遭った証人として事件の真相を話すことも出来たのに、それも叶いません。そこで私たちは一番の被害者である子どものことを大切に思う親たちを被害当事者と呼ぶことにして、少年犯罪被害当事者の会を設立したのです。こういう会なのですが、この会では、1年に1回だけ大阪でWiLLというのをやっています。別のページにあると思うのですが。WiLLの説明、ちょっとさせてもらいます。もう1つの子どもの日ということでWiLL。子どもたちの追悼の意味を込めて、少年犯罪の被害者側の現状を多くの人たちに知ってもらおうと1999年の秋にWiLLという集会を開きました。WiLLという単語には、意志、決意、願い、気持ち、遺言といった意味があります。それで去年の10月11日で10回目を数えました。これはいつも大阪で行われるので、もしこれからも興味のある方、だいたい10月の体育の日が入る3連休のあたりの初日なのですが、大阪でやっていますので、もし良かったら一度参加してみてください。いろいろな立場の方が来て一緒に話をしてくれたり、聞いてくれたりということでずっと続けています。もし良かったら一度来てみてください。

それから、もう1つの方の全国犯罪被害者の会、「あすの会」というのは、被害者の権利の確立を求めて、日本全国で街頭署名活動や地方自治体への陳情活動を行ってきました。さっきJRの大津駅に着いて、ここまで迎えに来ていただいたのですが、実は滋賀県は大津駅で街頭署名をしました。めちゃくちゃ懐かしいなと思いながら、それも寒い冬だったので、ほとんど人が通らなかったので辛かった思い出もあったのですが、今日あそこに降りて来てめちゃくちゃ懐かしいなって思いました。結局この署名活動や陳情活動の成果がやっと実になって犯罪被害者等基本法という法律が出来ました。そして、去年の12月1日には、被害者が裁判のバーの中へ入るという法律が施行されました。その他にも損害賠償命令制度というのと、国選被害者弁護士制度というものが12月1日から施行されました。また、少年法に関しても12月15日に家庭裁判所での少年審判の傍聴というのが可能になりました。希望する者は審判の中に入り傍聴できるということになりました。私の1995年の頃から比べたら、すごい進歩です。今までは被害者の声を聞いてくれるとか、被害者の立場に立ってくれるというのが無かった国ですから、そこから比べると本当に大きな進歩だと思っています。それと、もう1つ私はこの「あすの会」というのは関東と関西と九州で日本全国に被害者が散らばっていますので、私たちは関西集会のメンバーなのですが、その関西集会のメンバーの中で、これが入っていたと思うのですが、人形劇、糸あやつり人形劇団、クライシスというのですが、こういうのもやっています。これも既存の裁判の現実を訴えて変えていこうということが目的でこういう人形劇をずっといろいろやってきました。北海道に行ったこともありますし、鹿児島にも行ったこともありますし、そして明日は和歌山市で呼ばれていまして、朝から人形劇をしに行きます。これもまた、もしどこかで機会があれば見ていただけたらなと思います。

私はこういう形でいろんな活動をさせてもらっているのですが、例えば最近ではこういうふうにしてお話させてもらえる機会が本当に増えてきたのですが、今まで行ったところでのちょっとエピソードというか。本当は今日もっと時間があればこれを読みたいんですが、豊ヶ岡学園という愛知県の少年院なんです。少年院と言っても短期の少年院で、少年院に行ってくださいという話をもらった時に、少年院でちゃんと話できるかなとか、ものすごく悩んだんですが、短期の少年院ということで命を奪った子どもたちがいないということだったので、行ってみました。ここは50人くらいしか生徒がいないところなのですが、そこでこういうようなお話をさせてもらって、聞いた後にすぐに園長先生が感想文を書かせて、感想文には一切教官が手を入れないという約束をしてくださって、だからもしかしたら失礼なこともあるかもしれないけど、そのままを送りますということで送ってくださったのですが。本当に罪を犯したとはいえ、きれいな字でちゃんとした文章を子どもたちが書いているのはちょっとびっくりしました。その豊ヶ岡学園で講演をした後に少し時間が余ったので園内を見学させてもらいました。その時に食堂に最後に案内してもらって、50人くらいの園なので小さな食堂なのですが、冷蔵庫と温蔵庫と言うのですか、そういうのがあって、温かいものを温かく、冷たいものを冷たく、食べるものはそういうふうにしてちゃんと食べるものだということで、そこの園はそういう方針でやっているんだそうです。私その時に失礼だとは思ったのですが、「ここにいる子どもたちって、もしかしたらここにいる方が幸せかもしれませんね」ってその教官の方に言ったら、「そうだと思いますよ」ってその方もおっしゃったんです。「ここに来るような子どもたちは温かいものと言っても、コンビニのお弁当をチンして食べるとか、カップラーメンしか食べていません。だから、ちゃんとしたものをちゃんとした形で味わって食べるなんていうことをしてきていない子どもたちです。」というふうにおっしゃって、本当に職員室に戻ってその話をもう一度した時に本当に涙が出てきました。何で子どもらがご飯を食べるという最低限の生活の中のことを普通に出来ていないのかというのが本当に悲しいというか、そういうふうに思いました。また、この学園では卒園前に家族棟という、別に小さいお家のような別棟のところがあるのですが、そこへ卒園前の子どもたち、そして子ども1人とお母さんなり、お父さんなり、両親なりを呼んで一晩生活をさせるんだそうです。その時に、親に前もって電話して買い物をして来てくださいと。台所もあるのでって言って、子どもにご飯を作ってやってくださいって言うんだそうですが、あるお母さんが来た時に、電話を職員室にかけてきて、すみませんが、夕食は「お寿司を2人前取ってください」って言ったんだそうです。買い物ももちろんして来ていなかったのですが、「どうしたのですか?」って聞いたら、「うちの子はこんなところにおって、お寿司を食べていないやろう。お寿司みたいな良い物食べていないやろう。だから、すみませんが、お寿司を2人前注文してください。出前をしてもらってください」って言った親がいたんだそうです。園長先生が「これが現実です」って。また別の子は両親が来たんだそうですが、9時になったらいったん子どもに職員室に電話を入れるようにということをするのだそうですが、9時になる前にその子どもは電話をしてきて、「先生?」「どないしたんや?」「うちのお父さんも、お母さんも遠いところから来たから疲れたって言って寝てしもうた」って、もう本当に園長先生も涙流しながらそんな話をしていました。園長先生すごい厳しい方だったんですけど、「せっかくここでちゃんとした規則正しい生活をして、温かい物、冷たい物ちゃんと食べて卒園しても、今度帰ったら親がそんなんなんですよ」って、本当にどうしてやることもできないですけど、本当に悲しい気持ちになりました。その後もここの学園には結構いろんな方が呼んでもらって話をしに行っています。

もう1つは、島根県のある市に行った時、警察に呼ばれて行った時に、こういうふうにお話をして、最後に5分ほど時間が余ったので、担当の方が「質問ありませんか?」って言って聞いてくださったんです。そうしたら、真ん中からちょっと後ろくらいの席で手を挙げられた、ちょっと年配の男性がおられたのですが、その人が「あなたの話はよく分かりました。でもね、あたなの息子さんにも殺されるだけの原因があったんと違うんですか?」って言ったんですよ。私、こっちから1人で、みんなの顔を見ていて、ものすごく若い警察官の方だとかもいっぱいいたんですけど、顔の表情が変わったのが一瞬で分かったんですけど、その署長さんの話によると、その人は保護司さんなんだそうです。「保護司さんというのは、やっぱり加害者の方につく方なので、ああいう言葉が出たんじゃないですかね」って言ったんですけど、その時はものすごく落ち込んで帰って来ましたが、後になってものすごく良い経験をさせてもらったなって思っています。同じことを、大阪でもしたんです。保護司会で話した時に。でも、大阪ではものすごく保護司さんたちが怒ってくれました。保護司であろうが、そんなことを言うのはおかしいって。人の話は聞いてちゃんと受け止めて自分の立場だけで物を言うのはおかしいって言って、すごく怒ってくれました。だから、こういう話も一緒にしていかないといけないなということを思いました。

最後になりますが、今日の題にもありましたように、私たち、少年事件の被害者の活動のテーマというのが「子どもたちを被害者にも、加害者にもさせないために」ということなんですけれども。例えばまだ記憶に新しいと思うのですが、秋葉原の事件だとか、岡山駅の突き落とし事件だとか、大阪ミナミの個室ビデオ店の放火殺人だとか、本当に無差別に起こっていますよね。一生懸命、被害者にも、加害者にもしないためにって言って、何か話をさせてもらう機会がこうしてあるのに、実は被害者にならないということって不可能なんだなって本当に思います。悲しいことに、東京だとか、大阪だとかのような大都会で例えば歩いていて、まさか自分が後ろから刺されるだとか、トラックが突っ込んでくるだとか、駅に立っていて突き落とされるだとか、誰も想像していないと思うのです。でも、実際にこういう事件がたくさん起きています。でも、子どもたちはさっきの少年院の話じゃないですけど、加害者にならないようにするということは、やっぱり私たち大人の力で、もちろん親なんですけど、親、学校の先生だとか、周りにいる大人たちの力で加害者にならないようにすることって出来るんじゃないかなって私は思うんです。だから、こんな世の中だからこそ、いろいろ大人たちが子どもたちに目を向けて、教育じゃないですけど、助けてあげるべきじゃないかなって思います。

本当に最後になりますが、私ここに送ってきてもらった時に、まさか大津港の前のビルだとは知らなくて、実は私よく琵琶湖に子ども連れて遊びに来ていたりしていたんです。ミシガンだとか、よく乗せていたんです。この滋賀県というのはこういう事件に遭って一番最初に同じ少年事件の被害者の人と2002年くらいに初めて話をしに行った時、ほとんど話をしないで泣くばかりで帰ってきたんですけど、それが滋賀県の近江八幡中学校だったんです。そこからやっと人前で、普通の主婦だったもので、話が出来るようになって、そしてよく考えてみると、その近江八幡から始まって、結構滋賀県にはいろいろ呼んでもらっているなと思って、最後にここの大津に来れたというのは、すごく縁があったのかなと思って嬉しく思います。今日は本当に、私の話を聞いてくださって、ありがとうございました。(拍手)

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