関係機関・団体と連携した犯罪被害者支援促進モデル事業

講演:「犯罪被害者支援と被害者の立場・心境について」

命のメッセンジャー派遣事業(滋賀県)
滋賀県犯罪被害者支援連絡協議会研修会

本郷 紀宏

皆さん、こんにちは。本郷紀宏と申します。本日はこのような場を頂き、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございます。私の家族は7年前、未曾有の犯罪事件、附属池田小児童殺傷事件に遭いました。

池田小事件の概要を簡単に説明します。平成13年6月8日。2時間目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎに起きた、わずか5分間ほどの出来事でした。閑静な住宅街の中にある大阪教育大学附属池田小学校に包丁を持った男が侵入。男は持っていた包丁を振り回しながら、校舎1階にある教室に乱入し、幼い2年生、1年生の児童を次々と切りつけました。結果、8名の児童の尊い命が奪われ、13名の児童と2名の教員が重軽傷を負うという悲劇が起きました。逮捕された男は殺人などの罪で起訴されましたが、裁判では遺族の感情を逆撫でするような暴言を繰り返すに終始し、反省や謝罪の言葉は最後までありませんでした。そして、その後、死刑判決が確定し、平成16年9月14日に刑が執行されました。犯罪史上、類を見ないこの痛ましい事件は、社会全体に衝撃を与えるとともに、学校の安全神話を一挙に崩壊させました。

そのような事件の中、私の家族は当時7歳、小学2年生だった最愛の娘、優希を永遠に失いました。自らの生きる意味も希望も見失いましたが、周りの皆さんの温かい支援にも恵まれ、今も悲しみ、苦しみを抱えたままでありますが、ようやく社会生活を取り戻すことが出来るようになりました。これから講演の中でお伝えする事件の真相は、私にとっても、事件に関わった多くの方々にとっても辛い記憶です。が、子どもたちを守るために私はお伝えする必要性と責任を感じています。私は安全に関する専門家というものではありません。一市民であり、一保護者、普通の親に過ぎません。が、悲しい経験から学んだこと、感じたことをお伝えし、悲劇を繰り返さないために、危険な事件から子どもたちを守るために、今何をしなければならないのかを皆さんと一緒に考える時間を持ちたいと思います。宜しくお願いいたします。

娘のことを少し話させていただきます。本郷優希、平成6年3月1日生まれ。娘の名前は優しく未来に希望を持ち、明るく健やかに生きていけることを願い、優しいの「優」と、希望の「希」で「優希(ゆき)」と名付けました。優希は困っている人を見ると、誰に言われなくてもさっと助けに飛び出して行ったり、家族の誕生日には一生懸命ケーキを作ってくれたり、疲れて寝込んだ私にそっと起こさないようにタオルケットを掛けてくれたり、とても心優しい娘に成長していました。また、いつも明るく笑顔いっぱいで、休日には一緒によく近くの公園へ行き、ボール遊びやバトミントン、一輪車に夢中になって元気いっぱいに、はしゃいでいました。得意なことはピアノと新体操、学校が大好きで附属池田小に実習に来ていたお兄さん、お姉さんの教育実習生に憧れ、その実習生とのお別れ会では何日も前から贈る唄と踊りを練習し、当日は別れの寂しさに号泣していました。その時の感慨に感銘を受け、将来は先生になることを夢見ていました。そんな娘でした。

私は、我が子はいつでもどんなことが起きても守ってやれる。何か起きた時は必ずそばについていてあげられる。そう信じていました。私と娘は繋がっていて、何かが起こる前には必ず気づき、決して娘を傷つけさせはしない。そんな根拠の無い自信さえ持っていました。娘の安全に何の疑い、不安も無い、危機意識の無い、安心しきった日々を過ごしていました。娘が永遠に私の前からいなくなってしまうことなど絶対にあり得ないことでした。テレビで、幼い子どもが山の中で迷子になり、数日後に無事救助されたといった報道に接した時に、娘に言って聞かせたことがあります。「何があっても絶対に諦めてはいけないよ。何かあった時は必ずそばにいてあげる。諦めさえしなければ、必ずパパ、ママが助けてあげるから大丈夫。だから、何があっても絶対に諦めないこと」あの言葉は何だったのか・・。私は自分の無力さに怒りを覚えるとともに、優希を救ってやれなかった罪の意識を持ち続けています。それはこれからも変わることはないでしょう。

今から7年前、平成13年6月8日金曜日。本当にいつもと変わらない朝でした。優希は毎日楽しみにしているテレビの占いで、自分の星(?)魚座の運勢が一番だったと大喜びしながら、元気いっぱいに「行ってきまーす」と声を響かせ、学校へ飛び出して行きました。私はいつものように家の窓を開け、「気をつけて。給食残さず食べてね」と声をかけ、優希がマンションのエレベーターに乗り込み、エレベーター内から何度も繰り返す「ばいばーい」という声が聞こえなくなるまで見送り続けました。そして、私も仕事へと家を出ました。ずっとずっといつまでも続いていくものと思いこんでいた当たり前の幸せが、数時間後に突然消え失せてしまうことなど、全く頭に思い浮かぶことはありませんでした。

午前10時10分過ぎに事件が起こりました。娘の優希は、授業が早く終わり、少し早い休み時間になった教室で、他の4人のお友達と折り紙などをして遊んでいました。そこへ殺人者・宅間守・元死刑囚が教室に侵入し、惨劇が始まりました。何度も振り下ろされた凶器による傷は娘の小さな体を貫通していました。警察からは当初、「お嬢さんは即死でした」という報告を受けていました。その時は苦しまなかったのがせめてもの救いかもしれない・・と無理矢理、自分を納得させていたのですが、現場検証の後で知らされた現実は耐え難く、辛い、苦しいものでした。優希は教室でお友達が次々に襲われる中で、黒板の隅に追いつめられ、致命傷を負いながら、懸命に廊下に逃れ、校舎の出口に向かって必死に逃げる途中で力尽き、倒れたということでした。妻の歩幅で68歩、距離にして39メートル。教室から廊下にはよろめき、蛇行しながら壁やロッカーにぶつかり、途中倒れて起きあがり、最後まで諦めなかった娘の血の跡が点々と続いていました。警察の担当医の方が「信じられない。あれだけの傷を負いながら、どうしてここまで辿り着けたのか。」と驚かれた距離を、優希は必死の思いで歩き続けていました。

警察への通報を急いだとされる教員は、血溜まりに倒れ苦しみの声を上げていた娘に気付き、顔も確認していましたが、救助することなく、娘の横を走り抜け、わずか5メートルほど先の事務所に駆け込みドアを閉めました。中には職員が数名いましたが、娘が瀕死の状態で倒れていることを誰にも伝えなかったため、優希はその場に1人放置状態となり、犯人が確保された後、ようやく駆けつけた他の教員に救護され、手を握っていただく中、息を引き取ることとなりました。

安全であるはずの学校で、殺人者に襲われ、抵抗することも出来ず、何度も凶器を振りかざされた時の恐怖、絶望、痛み。生きよう、生きようと助けを求め、懸命に頑張りながら、意識が薄れていく中で娘の脳裏にどんな思いが浮かんだのか。助けに来る私の姿をどんなに思い浮かべただろうか。「パパ、ママ、助けて!」何度心の中で叫んだだろうか。優希に何という思いをさせてしまったのか・・。

私は事件の前兆に気付いてやれませんでした。娘のクラスメートの保護者からの電話で、娘の通う附属池田小学校で、包丁を持った男が乱入して生徒を襲っているということを携帯電話で聞き、半信半疑ながら、仕事で比較的学校の近くを車で走っていた私は事件発生から早い段階で学校に駆けつけることが出来ました。現場は騒然とし、上空には爆音を轟かせ、数機のヘリコプターが飛び回り、グラウンドに逃げてくる子どもたちの姿、表情から大変なことが起こっていることがすぐに分かりました。妻は既に学校に到着しており、優希の姿が見つからないと半狂乱の中、事件を知り駆けつけた他の保護者に抱えられ、グラウンドの隅にへたりこんでいました。私は「大丈夫、必ず優希を探して来るから」と妻を残し、その場を離れました。現場は目を背けたくなるような様相でした。ところどころに出来た大きな血だまり、体が真っ白になり人工呼吸や心臓マッサージを受けている子ども、飛び交う怒号、サイレンの音、負傷者を運んだであろう血のべっとりついた長机、散乱する血に染まったガーゼやタオル、恐怖で人形のように凍りついた目で膝を抱え込んでいる子どもたち。「優希は!本郷優希は!」目についた先生方、救急隊員、警察、子どもたちに、優希を見なかったか、尋ね回りました。ただ、ただ無事でいて欲しいと願いながら、娘の姿を探しました。その後、校庭に避難し集まっていたクラスメートの1人から優希が被害に遭った、刺されたことを知らされ愕然としました。「そんな・・違う!何かの間違いであってくれ!」すぐに優希のもとへと気が焦りましたが、現場の混乱のため、娘の居場所は誰も把握していませんでした。「自分で探し出すしかない!早くそばに行ってやらなければ!」そう思い、搬送されたであろう病院に向かい、学校を飛び出しました。優希を学校に残したまま……。

病院への搬送は助かる見込みのある子どもたちが優先であり、優希は助からなかった子として誰にもついてもらうことなく、学校内に停められた動きだすことのない救急車の中で横たえられていました。その様なこと、知る由もない私は携帯電話で両親、友人、地元の青年会議所メンバーにも協力を頼みながら、近くの病院に車を飛ばしたのですが、娘は収容されていないとのことで、すぐに別の救命救急病院に車を走らせました。その途中、母から私の携帯電話に連絡が入りました。母は近くの池田市立池田病院に向かい、負傷者が搬送されてくるたびに「本郷はいませんか?」と確認していたところ、偶然、覗き込んだ救急隊員のメモにカタカナで小さく「ホンゴウ」とあったのを見つけたのです。娘が市立病院に運ばれたことを知り、私は車のライトを点灯し、邪魔になる車はクラクションを鳴らし、避けてもらい、急いで病院へと向かいました。病院に着き、対応してくれた看護婦は「とにかく待って欲しい」と繰り返すばかりでした。その時、優希は私たちに会わせる前にきれいにしてあげようという病院の皆さんの心遣いで、あの惨事の犠牲になったとは思えないほどに綺麗にしていただいていました。その処置に時間がかかったため、なかなか優希に会うことが出来ませんでした。妻と母に会い、ひっそりと静まりかえる個室に案内され、優希が深い傷を負っていることを感じ取りました。息の詰まるような中、無言のまま病院側の説明を待ち続けました。その後、私だけ別室に呼ばれ、優希の死を告げられました。その時、私の口から発せられた人間の壊れる音が今も耳から離れません。ようやく優希に会えたのは正午をまわっていました。私は現場の学校で娘の姿を求め、優希の乗せられた救急車の後ろを何度も通り過ぎていたのに、すぐそばにいる娘を感じてやれませんでした。まだ温かい優希を抱きしめてやれなかった・・。

自分の愚かさを知るとともに、はっきりと分かったことがあります。『どんなに我が子を愛していようが、どんなにいつも心に掛けていようが、それだけでは決して、子どもの命、安全は守れない』ということを。こんな現実、受け入れることはできない。何故このような事件が起こってしまったのか。何故あそこまでの惨劇を許してしまったのか。問題点は無かったのか。犯人だけが原因だったのか。子どもたちを守ってやることは本当に出来なかったのか。たった1人の犯罪者のために、たった1本の凶器のために、優希を含め8人もの幼い尊い命が奪われ、15人もの負傷者が出たことは防ぎようのない、単なる運が悪かったということで片付けられてしまうことなのか。優希を失い、意識も、気持ちもボロボロに破壊されてしまいましたが、でも、そこで崩れてしまうわけにはいきませんでした。その時の優希の身に起きた全てを知っておいてやらないと、優希に語りかけてやれない、優希の気持ちに寄り添ってやれないと思い、警察署、消防署、病院、学校、子どもたちが助けを求めて駆け込んだ、学校前のスーパーなどへ足を運び、話を聞かせていただいたり、現場にいた子どもたちの話を、その保護者の方々から教えていただいたりしながら、出来る限りの情報を集め、事件の状況、事件の真実を捜し求めました。

そうすると、いろいろなことが見えてくる中で、地域の子どもたちにとって安全地帯であるはずの学校の安全管理の不十分さ、危機意識の希薄さが明らかになってきました。事件当時学校は校門が開放されていました。当然のごとく、警備員の配置、監視カメラの設置など、何もなされていませんでした。侵入者を確認していませんでした。教員が犯人とすれ違っても、声掛けはありまでした。犯人は殺意に満ち、興奮状態にあり、出刃包丁と文化包丁の入った緑色のビニール袋を手にしていました。避難誘導が不適切でした。犯人が教室に侵入し、次々と児童が被害に遭うのを目の当たりにした教員は、犯人と小さな児童を残し、教室を飛び出しました。教員不在となった教室で抵抗できない幼い児童は次々と被害に遭うこととなりました。またその教員が警察への通報にかかりきり、児童が被害に遭っていることを他の教職員に知らせなかったため、負傷児童は20分から30分間、放置状態となりました。警察、救急への連絡が遅れました。救急への第一報は小学校の教員からでも警察からでも無く、重症を負った児童が助けを求めて駆け込んだ学校前のスーパーの店員からの通報でした。また、学校現場から救急への連絡は十分に詳細が伝わっておらず、早くに到着した救急車はスーパーに駆けつけた、たった1台。負傷者を治療できる医師は1人しか乗っていませんでした。指示系統がなく、情報が混乱していました。情報伝達が無く、負傷した子どもの確認すら出来ていませんでした。救護が遅れました。救命活動の遅れが失血死を招いてしまいました。過去にも同様の事件があり、行政から学校への安全管理の通達がありましたが、職員会議で紹介したのみで通知への対応もなく、校長が代わっても引き継ぎもなく、危機管理意識、学校の安全管理意識が欠如していました。国、行政の管理監督者は通知を周知したに留まり、実施状況を点検していませんでした。学校安全の法律もなく、責任所在が曖昧で、真実・問題点が追求、究明されず、真の再発防止策が成立しにくい状況にありました。

あの事件は偶然起きたのではありません。予兆があり、既に警告が発せられていました。事件に先立つこと1年半、1999年12月、京都市伏見区の小学校で「てるくはのる」と名乗る侵入者によって運動場にいた2年生の児童が、刃物によって殺傷されるという痛ましい事件が起きていました。この事件を受けて、文部省から全国の教育委員会、都道府県知事、附属学校を置く国立大学長に向けて、児童の安全確保と学校の安全管理を再点検し、必要な措置、方策を講じるよう通知がなされていました。しかし、大阪教育大学及び附属池田小は、この事件や事件を受けての通達を児童に迫り来る危機があることを告げる緊急警報として読み取ることなく、外部からの侵入者に対する備えがなされていませんでした。

殺人者・宅間守・元死刑囚が、公判で言った言葉が忘れられません。「門が閉まっていたら、乗り越えてまで入ろうとは思わなかった」と。校門を閉めておく。たったそれだけのことさえなされていれば、子どもたちの命が奪われずに済んだかと思うと、悔しくてなりません。不審者を校内に入れない。敷地内に入れない。これは学校安全の基本です。校門を開放するなら、子どもたちを守る施策を考えるべきですし、開かれた学校を目指すのだから、校門を開けておくというのは、それは違うのではないかと思います。開かれた学校とは、校門が開かれた学校のことを指すのではありません。子どもたちを守るためにそれぞれの地域、学校に合ったハードとソフトの両面から真剣に考えることが急務だと思います。

事件後、二度と悲劇を繰り返さないために、附属池田小では17項目にわたる改善点が検討されました。参考までに列挙しますと、1.侵入可能箇所、日常点検。通用門などの管理。2.職員室からの視認性。3.来校者証、IDカードなどの着用。4.来校者への声掛け。5.学校独自のマニュアル。授業中のものと、授業時間外のもの。6.侵入時の教職員の役割分担。被害の全容把握。混乱時での児童の把握。7.警察、消防署などとの連携。救護と通報。児童搬送時の情報確認。8.第一報の方法決定。緊急通報訓練。9.校内巡視。10.避難訓練。教職員のみのものと児童を含めたもの。危険告知と避難指示。被害者を想定したもの。11.止血法、救命救急法の研修。12.護身術の研修。13.心のケアの研修。14.緊急連絡網。15.教員養成教育カリキュラム。16.PTSDの理解。17.地域などとの連携体制。です。

必死に捜し求め、辿り着いた事件の真相は誰にもぶつけようの無い、終わりの無い苦悩となりました。普段、先生方は子どもたちを大切に思い、不測の事態が起きた時には、自分が盾となり命をかけても子どもたちを守ってやろうと考えて下さっていたことでしょう。しかし、実際に事件が発生し、極限状態に陥った時にとった行動は備わっていたはずの想いとはかけ離れたものとなりました。犯人は1人でも多くの児童の命を奪おうと凶行を起こしました。目の前で次々と児童が刃物によって犠牲になっていけば、先生がたがたとえマニュアルを熟読し、意識していても冷静に対処することはあまりにも難しいことでしょう。もちろん児童だけではなく先生方への被害も防がなければなりません。

事件の大混乱の中、情報が集約されず、的確な行動が取れなかったのは学校だけではありません。警察も、救急も、行政も、保護者も、同じです。子どもたちを守りたいという気持ちだけでは守りきれない。事件の突きつけた真実です。犯人に犯行を起こせる状況、条件を与えてしまうと被害を防ぎ切れません。犯罪の機会を与えないための予防策が必要です。不幸にして被害に遭ってしまっても、最小限に抑えることが出来るよう、日頃の意識の持ち方、備えが大切になってくるのは必然かと思います。事件後、附属池田小は校舎を改築、死角を作らず、目が行き届くように透明ガラスを増やしました。監視カメラは10台、現在12台。非常ボタン、校舎内に314箇所。屋外に18箇所。フェンスの高さも従来の倍近い約3メートルにして、侵入感知センサーを設置、附属の中高と共用する正門に詰め所を設け、警備員を常駐させて、正門で来客をチェックし、敷地内を見回り、不審者の侵入や異常に目を光らせています。また、2006年には防犯カメラが捉えた映像をコンピューターで解析し、不審者の侵入を自動警告するシステムを導入しています。事件が起きる前に、繰り返し起っていた学校事件に対して危機意識を持ち、現状を把握し、対策を取り、安全管理を徹底していれば、事件は防げたのではないか。被害の拡大は防げたのではないかとの思いが今なお残ります。

世間では今も学校が狙われる事件が繰り返し起こり続けています。附属池田小事件の教訓が生かされていないことは残念です。2003年12月に起こった京都府宇治市の小学校児童傷害事件では、包丁を持った男が、1年生の教室を襲い、男児2人が切りつけられ負傷しました。門が開放されたままで、防犯カメラを設置していてもチェックする者もおらず、感知センサーも音がうるさいと切っていました。「自分の学校が襲われるとは夢にも思わなかった」繰り返される言葉に憤りを感じます。

2004年5月には京都市の中学校で不審者侵入事件が起こりました。酔った男が2階の廊下を歩いているところを授業中の教諭が見つけ、中庭まで誘導し、通報で駆けつけた警察によって逮捕されたのですが、その時の教頭先生のコメントです。「男の誘導や通報など、教員が分担して対応にあたった。危機管理としてはうまくいったのではないか」とありました。果たしてそうでしょうか?この事件では幸いにも被害者が出ませんでしたが、この男が明確な殺意を持って教室内に乱入していたとすれば・・、不審者を何のチェックも無く校内に侵入させ、確認していなかった段階で子どもたちの命に保証はありません。

2005年2月、大阪府寝屋川市の小学校で、刃物を持って学校敷地内に侵入した男に対応した男性教諭が、刺されて死亡するという痛ましい事件が起こりました。この事件を受けて、文部科学省は同年3月、校門を原則施錠とする学校の安全対策をより強化した指針を全国の教育委員会に通知しています。

2008年7月、愛知県の中学校で吹奏楽部の練習を監督していた男性教諭が校内に侵入してきた男に刺され、重症を負いました。警察庁によると学校に対する侵入の認知件数は附属池田小事件が起こった2001年に約1,770件。翌2002年には約2,170件ありました。附属池田小事件を受け、文部科学省は2002年にハード面の防犯対策の報告書とソフト面の危機管理マニュアルを作成し、全国の学校の設置者及び各学校に配布し、注意を促しました。しかし、2003年の侵入事件は小学校だけで22件、半数は校門が施錠されていませんでした。

繰り返される学校災害事件。大きな事件が起きるたびに国、行政から通達が出されるものの、依然として改善されない現状に怒りを覚えずにいられません。責任の所在を曖昧にしたままの通達行政の限界を感じます。法的責任と強制力を伴う安全基準と安全責任を国の法律として制定することが必要だと思います。

皆様の地域では附属池田小事件を踏まえた対策、対応が取られているでしょうか。学校、地域の安全を考えるにあたって、完璧なマニュアルは存在しません。それぞれの地域性や予算の問題など様々な問題があり、そこには難しさがあります。だからこそ、子どもの安全を守る強い決意、知恵と努力、役割が求められます。学校現場には最低限、各学校に合った独自の危機管理マニュアルを作り、危機管理の徹底を図っていただきたいと思います。また、学校の授業で子どもたちに「入りやすい場所と見えにくい場所が危ない」と教えるために、地域の安全マップ作りを行っていただきたいと思います。行政にはそれぞれの学校、地域においてどこに危険が潜んでいるのかを検証し、危険が感じられるようであれば、予算を組み、ノウハウを伴う指導をするとともに、速やかに具体的な対策、対応を取っていただきたい。かけがえのない子どもたちの安全な環境づくりは何よりも優先していただきたいと思います。

地域の安全は地域の皆さんの協力があって初めて守られます。確かにハード面の充実として門、出入り口の施錠、防犯カメラの設置、非常ベルの設置、警察、救急へのホットライン化、なども大切ですが、それと共にソフト、地域住民1人ひとりが子どもたちの安全、学校、地域の安全に意識を持つことが大切だと思います。施設や設備だけでは子どもたちの命は守れない。近隣との連帯感を高め、地域の目で見守っていくことも大切です。また、地域安全ボランティアの方々との親交も大切だと思います。

子どもたちの安全は学校だけでは守れません。学校外での重大事件も近年多発しています。警察庁によると、小学生や未就学の子どもが被害に遭う殺人・傷害事件は2005年、557件発生しました。子どもの安全確保を盛り込んだ条例は附属池田小事件を機に、大阪府が制定し、これまでに多くの都道府県に広がっています。地域の安全を守る、青色の回転灯をつけた青パトが台数はまだまだ不足していますが、全都道府県に広がっています。その他にも電子メールによる地域の犯罪、防犯情報の配信。犬の散歩をしながら地域を見守るワンワンパトロール。住民参加の安全ボランティアなど、様々な取組が行なわれています。全国で危機意識は高まっていますが、防犯策の決め手は見いだせていません。

子どもの安全に際限はなく、マニュアル通り、一律には解決出来ませんが、住民意識の温度差、結びつきの濃淡で地域の性格は大きく違ってくるのは確かだと思います。学校、地域、警察、行政、家庭が力を尽くして防犯体制を整えていると分かれば、不審者への抑止力となります。それぞれの立場から具体的な施策を持って取り組んでいくことが大切。そういった防犯意識が風化していくことのないよう、願っています。地域により、学校によって状況は異なると思いますが、自分たちのところは問題無いというのでは、今の時代、無責任ではないかと思います。子どもたちの安全を守るためにどうしたらよいのか。万一、事件が起きた時にはどう対処するのか。地域ごと、学校ごとに行政を含めて教職員、保護者、子どもたち、地域の人たちが一体となって考えておくこと。施設、設備についても基準を設け、誰がどう関わるのかを確認しておくことが大切です。安全についてまずしっかりとした備えを具体的に実現し、それぞれの立場から考えていく必要があります。それが子どもたちの安全を確かなものにすることに繋がるのだと思います。

そして、宅間のような加害者をこの世に生み出さないことも考えなくてはなりません。それは私たち親の世代の責務です。宅間守・元死刑囚はモンスターではなく、実在した人間です。決して、決して許しはしませんが、生み出された背景は社会全体の問題です。幼少期の宅間に親が、また地域が、愛情を持って心育てをしていれば、事件を防げたのかもしれません。子どもは、あなたは大切な存在と一人でも感じさせてくれる誰かがいれば変わる。そんな社会が子どもを守ることにも繋がります。

大きな事件が起きた直後は、幼い子どもを持つ保護者、学校関係者、地域の皆さん、行政の皆さん、誰もが子どもたちが襲われるかもしれないという危機意識を共有します。ところが、残念なことに時が経つにつれて、そういった意識も希薄になってしまうように感じます。事件を風化させることなく、悲しい出来事から学んだ教訓をいかしていかなければなりません。子どもの安全は誰かが守ってくれるものという考えはそれだけで危機を招きます。子どもが犠牲になり続けているという事件から目を背けず、現実に向き合い、自分が動き出さなければ事件は防げない。犯罪を防ぐのは自分であるとの思いを持ち、子どもたちの安全のために時間と労力を捧げる決意が必要です。1人の大人の頑張りで全ての子どもたちの安全を見守ることは不可能です。大人一人ひとりが、日々の生活習慣を少し子どもたちの時間に合わせ、見守ってやる。地域を知り、危険な箇所を把握し、関心を持っていなかったところに意識を持ってみる。子どもに関心を持ってみる。どんなに強く願っても、自分の命を差し出しても、失われた命は戻りません。理不尽、不条理な形で幼い命を奪われる子どもたち。傷つき、悲しみと怒りのために人間性を破壊され、暗闇に落ちていく親たち。そんな姿はもう見たくはありません。このような想いは私たちだけでたくさんです。

危機意識のアンテナをさび付かせることなく、子どもたちの安全に真剣に取り組み、それぞれの地域や学校に合った独自の施策を考え、具体的な行動に移していくことが必ずや安全な地域創りに繋がります。皆さんとともに、大人の責任として高い危機管理意識のもと、二度と惨劇を繰り返すことない、未来ある子どもたちが安心して生きていける、安全で明るい社会づくりに向けて歩んで行けることを心から願っております。

最後に、『虹とひまわりの娘』(講談社)という妻の書いた手記を紹介します。この手記は事件そのものを知って欲しいということだけではなく、絶望の中でたくさんの温かい善意に支えられてきたことを伝えたい。子どもを守る意識を新たにし、子どもが安心して暮らせる世の中をつくるために役立てて欲しい。犯罪被害者の遺族の置かれている立場、実態を知って欲しいとの思いで、嗚咽とともに書かれた肉筆です。またこの手記は小・中学校で道徳や命を考える教材として用いられたり、手記の朗読CDは法務省により全国の刑務所や少年院で更生教育に使用されたりしています。その中より、裁判での妻の意見陳述の一節を紹介させていただき、私の話を終わりとさせていただきます。

『この世に生を受けた子どもたちは誰もが幸せになる権利を持っています。大人は子どもたちを守っていかなくてはならない。公判を傍聴しているうちに、私たちはこんなにもいい加減で危険な世の中に住んでいたのだということに初めて気付きました。この事件は未然に防ぐことができたのでは、と思えることもたくさんありました。「子どもを守る」私たち大人一人ひとりの意識の持ち方が、宅間のような人間から、犯罪から、子どもを守ることに繋がっていくと思います。優希たちは天国から「安全で平和な社会になること」を祈ってくれています。私たちは、優希たちの思いに応えていかなくてはなりません。』

以上でお話を終わらせていただきます。最後まで御静聴ありがとうございました。