中央イベント:パネルディスカッション

「犯罪被害に遭った子供の兄弟姉妹に対する支援を考える」

コーディネーター:
藤森 和美(武蔵野大学人間科学部教授)

パネリスト:
土師 守(公益社団法人ひょうご被害者支援センター理事、元あすの会副代表幹事(基調講演者))
御手洗氏(佐世保小6女児同級生殺害事件被害者御遺族(御兄弟))
齋藤 梓(目白大学人間学部心理カウンセリング学科専任講師、臨床心理士)
服部 哲也(神戸市危機管理室地域安全推進担当課長)

藤森: こんにちは、冒頭の基調講演を終わりましてパネルディスカッションに移りたいと思います。

 まず、私の自己紹介を少しさせていただきたいと思います。私は、最初は犯罪被害者よりも自然災害の被災者のケアということで1993年の北海道南西沖地震、阪神大震災よりも2年前の奥尻島の大きな津波災害のときに、ケアにフィールドワークで島に入りました。当時、函館で暮らしておりましたので、そういう形で入りました。まだ、被災者や被害者の心のケアというものが日本の中ではほとんど注目されていないときで、「何をやっているんだ」とか「心のケアなんて必要ないんじゃないか」というような御意見が一般の方、または精神保健の専門家からもなかなか御理解していただけないような状況でした。

 今日、テーマになっている被災者・被害者-当時は被災者でしたけれども、兄弟姉妹の問題については、実はフィールドワークを続ける中で、ある事案がありました。これは奥尻島の津波災害で若いお父さんが津波で持っていかれてしまって、夜、子供たちが「お父さん帰るコール」があって待っていたのに帰ってこなかった、家も津波で流れされてしまった、お母さんと命からがら逃げ出したという兄弟姉妹、小学校1年生と3年生のお姉ちゃんと弟のお話です。お父さんの御遺体が出てきたときに、1年生の男の子はお父さんが死んでしまったということを言葉にして、「お父さんが死んじゃったから仮設住宅の中にお父さんのおうちをつくってあげよう」、彼の言うおうちというのは実は仏壇のことだったのですね。小さな仮設住宅に仏壇を置くというのはなかなか大変なことだったのですけれども、新聞広告のお葬式屋さんというか、葬儀屋さんの仏壇を見たりすると、「お母さん、お母さん、これがいいんじゃないか」とか「これにしてあげようよ。お父さん、これに入れてあげようよ」とかいう話をしていたそうです。

 当時、小学校3年生のお姉ちゃんは、お葬式が終わってから、お父さんの話は一切しなくなりました。全くしないそうです。それで、お母さんはこの子はお父さんのことを忘れたいのかしら、思い出したくないのかしら、お母さんもこの子の前ではお父さんの思い出話をしてはいけないのではないかというふうにずっと思っていたそうです。学年が進み、お姉ちゃんが6年生になって卒業文集を書いたそうです。新しく、流された小学校が1年後くらいに再建されて、丘の上の小学校ができたときに、そこに2年間ほど通って卒業に至ったのですが、その文集の中に書かれていたのは、実は登下校の坂を上がっていく道は、週末やお休みの日にお父さんと二人でよく散歩に出掛けた道だったのだそうです。自分にとって毎日の登下校は、実はお父さんと散歩した道を歩いていたのだということ、そこでお父さんを思い出していたのだということが書かれていて、その文集を見て、初めてお母さんは「この子はお父さんのことを話したくなかったのではない。お父さんのことを毎日のように思い出していたのだ」ということにやっと気が付いたというふうにおっしゃっていました。

 先ほど土師さんのお話にもあったように、若いお母さんが一人残されて、この2人の子供を育てていかなければいけない、今までは仕事に就いていなかったけれども、働かなくてはいけない、でも、悲しさもいっぱいあるという中で、とてもお母さんの中にそういう余裕がなかった。それが、この上のお姉さんに甘えさせてあげられなかったりとか、弟が甘えている分、お姉ちゃんが遠慮してしまっていたのではないかとか、いろいろなことがその文集で分かった。6年になって初めてその女の子が言語化できた、文章として書けたということもあるかもしれません。

 そういうことを被災者のフィールドワークをしながら、子供というのはなかなか表現することが難しいし、表現の仕方も難しいし、周りの人がどういうふうにそれを察知してあげるかというのは、実はとても難しい。でも、難しいからといってそれをしなくてはいいということではないということをこの事案から私は学んで、その後の被災者ですとか、被害者の方、またはその親御さんとかだけでなく、兄弟姉妹や中にはお友達のことがあるかもしれません、そういう方たちへの支援も実は必要なのではないかなということで支援の活動を続けております。

 そういうことの視点を今日改めてこういう大きな会で皆さんに注目していただけることは、私としてもとてもうれしいと思っております。実りあるパネルディスカッションにしていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。

 では、先ほどお話をしていただいた土師さん、もう十分お話しされたかもしれないですけれども、申し訳ないのですが、少し付け加えること等ありましたら、お話しいただけますでしょうか。よろしくお願いいたします。

土師: 特に付け加えることといいましてもないのですけれども、私の長男は事件に遭ったときに中学校2年生という年齢だったのですが、やはり子供の年齢によってダメージの度合いというか、度合いというよりも質ですね。どの発育段階にあるかによって質が違うというふうに思いますので、その点につきましてはそれぞれの小学校、中学校、高校、それから大学でも、大学生になっていくとかなりしっかりしているようでも、本当の大人の親とは違った意味でのダメージがやはりあると思いますので、その点を考慮しながらやっていただきたい、考えていただきたいということがあるのと、先ほど言いましたけれども、親に対する支援というのは、実は間接的に子供への支援につながるということは理解していただけたらなと思っています。

藤森: もしかしたら、これからパネルディスカッションの中でもお話が出てくるかと思いますが、子供の発達段階というものがもちろんありまして、そういう意味では乳幼児の頃から児童期、思春期、青年期、または兄弟といっても成人になられた方の兄弟もいらっしゃるわけですね。そういう意味でそれぞれの発達段階、理解の仕方、悲しみ方は大きな課題になってくるかなというふうに思います。

 それでは、次に佐世保小6女児同級生殺害事件の被害者の御遺族で、お兄様に当たります御手洗さんのほうからお話をしていただければと思います。少し緊張していらっしゃるかもしれませんが、どうぞ御自分のお言葉でよろしくお願いします。

御手洗: はじめまして、御手洗と申します。まず、どうして話をしようと思ったかという部分だけ先に簡単に説明させていただきます。

 父親も含めて、土師さんもそうなのですけれども、犯罪被害者の遺族の方が話をする場合は基本的には両親、いわゆる親が前に立って話すことが多いと思います。その場合、両親の話の中に「残された兄弟たちの話」というのはほとんど出てきません。ほぼ触れられることのないまま、例えば経済的にきつかったとか、マスコミ対策がきつかったとか、そういった話が中心になっていることが多いです。

 人前で話をする中で、そういった情報しか出てこないのでは、兄弟の立場で必要な支援を話し合われる機会が得られないのではないかと思って、そういったことをできるだけ取り扱ってもらいたいという思いがあって、今回、前のほうに立たせていただいています。どうぞよろしくお願いします。

藤森: はい。それでは、齋藤梓さん、目白大学人間学部心理カウンセリング学科専任講師、被害者支援都民センター臨床心理士ということで、私どもが、トラウマの研究、被害者の研究をしているときによくいろいろな会議で御一緒させていただく先生なのですけれども、先生のほうからお願いいたします。

齋藤: 目白大学人間学部心理カウンセリング学科の齋藤と申します。大学の仕事を本務としていますが、週に2日、被害者支援都民センターで臨床心理士として、御遺族や被害者の方への精神的支援に携わっておりまして、本日はこういったテーマの場でお話をさせていただきます。

 少しだけお話をしますと、センターに勤めはじめた最初の頃に、初めて担当させていただいた御遺族が、御兄弟を亡くされた思春期のお子さんでした。そのやり取りや支援について、今でもとても印象に残っています。そのことを今日は思い出しながら資料もつくってまいりました。

藤森: それでは、最後に神戸市危機管理室地域安全推進担当課長、行政の方でいらっしゃいます服部哲也さんからお願いします。

服部: 神戸市から来ました服部と申します。私はこの犯罪被害者等支援の仕事に就かせていただいたのが2年前なのですけれども、この2年間、この仕事に携わることができて、被害者支援者だけでなくて行政官として本当にいろいろと勉強になったといいますか、学んできたことは非常に多くありました。そういう意味では、この仕事は今後も私の公務員人生の中でも大きなウエートを占めることかなというふうに思っております。今日は呼んでいただきましてありがとうございます。

藤森: それでは、齋藤先生は何か資料はおありになって、服部さんも資料があるということで、それでは齋藤先生のほうからお願いいたします。

齋藤: それでは10分ほどお時間をいただきまして、公益社団法人被害者支援都民センター、私の勤務先の御紹介ですとか、今までの臨床の中で本日のテーマに関して考えたことを少しお話しさせていただきたいと思います。

 御存知の方も会場には多くいらっしゃるかと思うのですけれども、被害者支援都民センターという、犯罪の被害に遭われた方を支援する団体で働いております。2008年からは、東京都との共同事業として、都の犯罪被害の総合相談窓口ともなりました。犯罪被害相談員15名、うち臨床心理士6名、社会福祉士2名、直接支援員5名で、以下様々な事業を行っております。

 相談件数に関しましては、最近は大体6,000件あたりを前後しております。

 センターに御相談くださる方は、性暴力被害、性犯罪、性被害に遭われた方が約半数です。センターが基本的に生命・身体犯の被害者及び御遺族の支援ということを行っておりますので、あとは交通犯罪であるとか、殺人の方の御相談が多いという状況になっております。こういった被害者支援センターが全都道府県にあるのですけれども、大体、御相談くださる方の被害種別というのは似ているところかなと思います。

 都民センターで支援をどのように行っているかを少し説明させていただきます。まず、御本人からの電話ですとか、あるいは他機関から情報をいただいて相談につながって、犯罪被害相談員が最初対応させていただき、事件の概要の確認ですとか、今、何にお困りかということを聞かせていただきます。心理士と相談員とが一緒に連携をしながら支援を開始して、主に刑事手続に関することや生活に関することは犯罪被害相談員が担当し、心理的な側面に関しては心理士が対応しということをやっております。御希望がございましたら、いろいろな支援が終わったあとで自助グループに御参加される御遺族の方もいらっしゃいます。

 私が面接をさせていだたきます中で、被害者の御兄弟に関する相談というのは、親御さんからも時々お話が出てきますし、親御さん自身ではなく学校の先生から出てきたり、あるいはこちらから少し気に掛かって聞いてみたりといったことがあります。

 まず、犯罪被害に遭った兄弟姉妹ということを考えたときに、2つ考えまして、一つは性犯罪の被害に遭われた方等、被害を受けた方が亡くなられていない事件での、兄弟姉妹の方と、被害に遭われた方が亡くなられた事件での、兄弟姉妹の方です。少し対応が私たちも違っているかなと考えました。

 御兄弟が性犯罪の被害に遭われたその御兄弟、例えば妹さんが被害に遭われたお姉さんですとか、お姉さんが被害に遭われた弟さんですとかいう場合に、保護者の関心は被害に遭ったお子さんに集中します。私たちも、時にお見掛けするのは、裁判等刑事手続に関して、比較的兄弟姉妹の方が未成年であることもあって蚊帳の外に置かれるということです。そしてしばらく時間が経ったあとに、学校に行けなくなるとか、いろいろな問題を示される。こうした、御兄弟もショックを受けて不安になられるといったことも度々起こるので、御兄弟がいる場合は保護者に御兄弟の様子を尋ねたり、あと保護者の方から「こんなことがあるんです」というお話があったときには御相談にのったり、時には御兄弟の方御自身にいらしていただけるならばいらしていただいて、被害に遭われたお子さんの状況の説明とか、御兄弟自身の心の中に起きていることをお伺いするといったことをしております。それでも、なかなか直接つながるというのは難しいということが現状であります。

 なぜ直接つながることが難しいのかということを考えますと、まず保護者の方自身、余裕がなかなか持てず、そこに気が付くことができないとか、御兄弟自身も被害に遭ったお子さんを優先してほしいと思って、自分に支援が必要だと感じていないと仰っていたりします。また、相談につながったあとに、御兄弟から、被害を受けた子が通っている場所に行って話すのはとても話しにくいし、とても家の中が大変そうなので元気に振る舞ってしまうんだ、というお話をいただきました。

 なので、お子さんが被害に遭われて、御両親がとてもショックを受けるのと同じように、やはり御兄弟が被害に遭われたら、兄弟は大変ショックを受けるということがあるので、そこを忘れてはいけないなということを感じております。

 また、お子様が亡くなられて、その御兄弟だった場合ですけれども、もちろんこの場合も保護者の方は手続やいろいろな対応、そして御自身のお気持ち等でとても御兄弟への対応は難しくなります。ただ御兄弟も御遺族であるということを忘れてはいけないなということを日々感じております。

 私がお会いした御兄弟を亡くされたお子さんたちも、例えば、「2日前に喧嘩して、それから自分が口を聞かなかったのが悪いんじゃないか」とか、「あのとき自分が一緒に行くと言っていればよかったんじゃないか」とか、いろいろな自責感を口にされますし、複雑な怒りや複雑な心境等もたくさん口にされます。もちろん、御兄弟も支援の対象としてできる限り相談につながるようにするということはありますし、裁判等にいらっしゃるときにはもちろん付添いの支援を相談員が行ったりということもございます。家庭の中で保護者の方がその御兄弟にどう接するかということについての御相談を受けたりもします。でも、親御さんの支援を優先して行うことがもちろん多く、その中で、保護者の方が御兄弟の状態を少しでも見ることができるように支えていく、働き掛けていくということがございます。お会いしていると、「保護者のケアを優先してほしい」と望むというようなお子さんもいらっしゃるのだなということを感じています。

 とは言いましても、保護者の方が御兄弟の様子を見ることはとても難しいことです。都民センターでは、私の同僚の臨床心理士が中心となりまして、ぷるすあるはさんというところに協力いただいて、兄弟を亡くしたお子さんの絵本を作成いたしました。学校の先生や養護の先生や子供に関わる方々がこれを読んでくださって、保護者の方はなかなか難しくても、周りの大人たちがサポートに回れるといいのではないかと思っており、いろいろな反響をいただいております。

 もう一つ、この話をいただいたときに、私はスクールカウンセラーといった時間もありまして、学校現場ではどうですか、ということを聞かれて、それは藤森先生のほうがお詳しいのではないかと思うのですが、私が勤務中に経験したことを改変して御紹介をと思います。

 これは中学校に通うAさんが事件に遭遇されて、同じ中学校に御兄弟のCさんが通っていて、Aさん御自身、事件のあと、学校に通うことが難しい状態になり、兄弟のCさんは過剰に元気な様子で振る舞っているんですけれども、クラスメートが噂する感じに敏感に反応するということで、やはり学内でケース会議が開催されて、Aさんの担任、Cさんの担任、それぞれの学年主任、管理職、養護教諭、支援担当教員、SCが参加し、情報共有をしたのですけれども、Aさん御自身をスクールカウンセラーから相談機関につなげられないか、被害のことをちゃんと見られるところにつなげられないかとか、Cさんに関しては教員たちがこまめに声を掛けたりとか、養護教諭とスクールカウンセラーも少しタイミングを見て接触をしてみましょうというような方向を確認したりといったことがありました。また、小学生のBさんが亡くなられたときに同じ学区の中学校に御兄弟のDさんが通っていらっしゃいました。中学校ではDさんの様子は注意して見ていたのですが、徐々に保健室で過ごす時間が増えて、養護教諭とスクールカウンセラーが一緒に対応し、保護者の方とも相談するといったようなこともございました。

 臨床現場にいる感触としましては、御兄弟にもケアが必要であるという認識はおそらく共通してあるのだと思いますが、人によるということが大きいです。学校の先生ももちろん、臨床心理士も児童精神科医も人によって見方も違うし、そこへの注目度合いも違うし、対応も違う。また、御兄弟御本人は相談になかなかつながりにくく、どうしても親御さんを通さなければいけないということがあるので、どうやってつながっていくかということが工夫が必要だったり、まだ認識が始まったところでどのような対応が必要かとか、今後考えていく可能性があるのだなというふうに感じています。

 ただ、保護者の方を通して間接的に対応することと、御本人に直接対応することと、いろいろなことを考えながら、また刑事手続に関して等、家族の中で取り残されていくということが、御本人が希望するならばそれがないようにということを少し考えていきたいなというふうに今考えております。駆け足でしたが、以上になります。

藤森: はい、ありがとうございました。それでは、服部さんのほうから行政の神戸市の取組についてお願いします。

服部: 本日のテーマも含めて、神戸市の現在の取組と今年の7月に改正しました条例等について少し御説明させていただきたいと思います。

 神戸市は阪神淡路大震災、皆さん御承知のように今から22年前にありましたけれども、そのときの経験から大きな悲しみ、苦しみを抱えてしまった人たちを含めて、社会全体で互いに助け合う共助の精神というものが培われてきております。この助け合う気持ちを条例にしたのがこの「神戸市民の安全の推進に関する条例」ということで、平成10年1月17日に施行しておりますけれども、これ以降、共助の精神というものが受け継がれております。この条例の中で、災害だけではなくて事件や事故、あるいは犯罪に巻き込まれた人も再び平穏な生活を取り戻せるようにという思いがこの条例にあります。そうした中、被害者遺族の方々の御要望等があり、平成25年4月1日に「神戸市犯罪被害者等支援条例」ができております。

 神戸市がこの犯罪被害者等に対してどういった役割を担うのかというところになりますと、これは国が行う支援、それから都道府県が行う支援、市町村が行う支援等いろいろあると思うのですけれども、やはり市民に一番近い、身近な自治体、基礎的自治体として現在こういった3つのカテゴリーで取り組んでおります。

 一つは、条例に基づいて「日常生活の支援」ということで、基本法に基づく総合相談窓口の設置、それから一時支援金の支給、あるいは住居に関する支援、それから日常の生活に関する経済的な支援。

 さらには「広報及び啓発」としまして、犯罪被害者週間講演会を神戸市で独自に開催しておりますし、やはり一義的に被害者等に接する職員の研修、これを秋くらいに全区を回って実施しております。さらには子供たちに「命の大切さを学ぶ授業」ということで遺族のお話をお願いしたりしております。

 それから、「関係機関との連携」としまして、ひょうご被害者支援センターとの事業連携あるいは県の弁護士会との勉強会、その他、関係部局・関係機関との連絡会の開催もしております。

 そうした中で取り組んできておるのですけれども、今年でその条例制定から5年、先ほどの土師さんの事件から21年がもう経過しました。さらには、当時の被害者のお声が次第に変わってきている。被害者等を取り巻く環境が変化することによって、そのニーズも変化してきているということです。例えば、これも土師さんの事件の関係で加害者の男性が出版をされたということも近年ありました。そういうようなこともありまして、被害者にとってはまだまだ事件の被害が終わっていないという状況が続いているということです。その中で、この6月に「あすの会」が解散してしまった、こういう背景があります。

 一方で、国や社会の動きとしましては、平成28年から第3次基本計画が始まっております。自治体の総合相談窓口もほぼ100%までできております。兵庫県においても条例制定年度のときには12市町だけでしたけれども、この10月で約倍ほどの市町に特化条例ができております。とはいっても、総合相談窓口の認知度としてみると、これはもう12%ほどということで、犯罪被害者に関して社会の理解が認知、あるいは正しい理解がまだまだ進んでいないということが言えます。

 こうした中、やはり被害者等が安心して再び平穏な生活を取り戻せるよう、基礎自治体として寄り添った支援を改めてしていきたいなというふうに考えております。そうした中、この7月1日に条例を改正しました。

 改正のポイントとしては、大きく2つあります。一つは、これは被害者条例、特化条例、皆さん御存知かもしれませんけれども、大体そのひな型は決まっているのですが、神戸市では市の責務につきまして、理念的・抽象的に書いていったところを具体的には日常生活支援メニューといいますか、日常生活の支援に関する部分をしっかりとこの「責務」と並べて明確に打ち出しております。それのほうが行政としての支援をしっかりと市民に分かっていただけるのではないかということで、思い切ってそういった形にしました。

 もう一つは、第4条の第2項としまして被害者等のプライバシー保護。二次被害が発生することがないように、まず市の窓口では一元化をするワンストップ申請を実施していくというふうに考えております。民間支援団体、区役所と連携しまして、来所する他の市民の方々と接触しないように、専用のスペースを設けまして、関係部局が入れ代わり立ち代わり、説明・手続を行うというふうなことも考えております。また、これに関しましては、来年からですけれども、神戸市ではお悔やみコーナーといいまして、区役所に亡くなった方の手続等を行う専門コーナーも試行的に設ける予定にしております。

 こうした条例を大きく変えることによって、新たな支援メニューも揃えております。一つは、今回のテーマである被害者家庭の子供に対する教育支援。これにつきましては、先ほど来、話が出ていますけれども、子供さんがしっかりとした教育を受けられない状態に陥ったときに、その教育を支援する、受けられるようにするために、例えば土師さんがされたような家庭教師のお金、あるいは学校の登校中にいろいろな二次被害に遭うことがないよう、例えばタクシーの送迎費用、あるいは通信教育に関する費用に関して行政が補助をしていくというふうなことも考えております。

 昨年でしたか、名古屋市が被害者アンケートをとられたときに、どこの部分が一番二次被害を受けるところが多いですか、となると、それは関係機関等ではなくて「地域」という答えが多かったです。自分が住んでいる周りの地域の二次被害が大きいということを考えると、地域に対する理解がまだまだということと、やはり被害者の子供たちに対する理解が進んでいないということから、これは非常に大事なメニューということで今回新設しております。

 他にも被害者家庭が立ち直るための自立のための就労準備金の支給や、あるいはこれは関係機関との連携になるのですけれども、カウンセリングの委託も今回盛り込んでおります。さらには住宅関係ということで、転居後の民間住宅の家賃補助、さらには市営住宅の家賃免除等も今回盛り込んでおります。更に「あすの会」等の会員の方からもお聞きました、環境が変わってきて、加害者が出所する時期に近づいている方がおられます。そういった方はやはり再被害が非常に心配だとおっしゃっていました。そういう意味で、発生直後の転居、更にもう一回、加害者にお家が知られている場合に引っ越しできるように再転居の助成等も今回しております。

 他にも一時支援金の増額としまして、これは全国トップレベルとありますけれども、遺族の方々と重傷病の被害者の方々の金額を増額したりしております。

 今後の取組としまして、今回こういった改正をしたのですけれども、私が「あすの会」の解散集会の御遺族の方等からお聞きした言葉なのですけれども、やはり先ほども話がありましたけれども、行政の独りよがりなメニューではなくて、やはり被害者の視点に立った取組をぜひお願いしたいのだということを言われました。そうした中、やはり基礎自治体としては中長期的に途切れない支援が必要かなというふうに考えております。

 我々行政としましては、被害者、遺族の方の大きくて深い悲しみというのは決して知り得ないのですけれども、被害者等が置かれている状況、環境に対する正しい理解、これを推し進めるということと、それとやはり行政の支援制度の拡充・広報啓発、これについてしっかりと推進してまいりたいと考えております。以上です。

藤森: はい、ありがとうございました。この取組、全国で初めてということだったので、私も今びっくりして聞かせていただいたのですけれども、この仕組みがアクティブに被害者の方に伝わって使われるようになるといいなというのを感じさせていただきました。

 それでは、それぞれのパネラーの方にもう少し詳しい話を聞いてみたいというふうに私のほうで幾つか質問をさせていただきたいと思っております。

 まず、土師さんですけれども、お兄さんがいらしたということで、書籍を読ませていただくと、とても緊張している、捜索から実際にお子さんが見つかったところまでもお兄ちゃんの様子が克明に綴られていて、お父さんがいかに家族一丸となって探して、そしてどんなに淳君のことを愛されていたかということが手にとるように分かったのですけれども、実際に兄弟の方が、先ほども写真にありましたように、メディアにさらされてしまうというような被害がとても大きかったというふうに思うのですね。そこの人権問題をずっと発信していらっしゃると思うのですけれども、兄弟姉妹に対する取材のようなもので、何とか事前に子供たちを守れないか、傷つきから守れないかということへの御意見がありましたらいかがでしょうか。

土師: 私たちの子供の事件の場合、非常に長期にわたって取材があったのですけれども、幸いにも子供自身に直接取材する人に接したことはなかったのですね。当初、事件後2週間、彼が学校を休んだ後に登校を再開したのですけれども、そのときも、当然、みんな狙っていますので、そこをまず警察の方と担任の先生とも相談して、名札を土師という名前ではなくて、違う名前に変えて、なおかつ近所の同級生と一緒に登校する。もし、不測の事態が起きそうであれば、その後ろを更に担任の先生が歩いて、不測の事態が起きれば対処するという、そこまでの対応をしてくれましたので、直接、子供に取材者が声を掛けたということはなかったです。

 ただ、その中学校の生徒に取材しているところを見たことはあるということですね。よく知られていることですけれども、取材された人が又聞きの話をして、あの当時、当初は大したことなかったのですけれども、途中から例えばあの頃ですから電話のカードとかあんなものをもらったりとか、直接のお金はないですけれども、そういうものを渡したりして取材をしていたということもありましたので、そういうものを見て、非常に子供自身は気分が悪かったということがあったというふうには聞いています。

 うちの場合は、子供が直接取材されることはありませんでしたけれども、他の事件、事案でやはりそういうことがあると思いますので、接触すること自体はやはり止めるほうがいいと思いますし、被害者家族、遺族にすれば記者かワイドショーかという区別はつきませんので、そこら辺のところもきちんとそれを制御する機構は必要ではないかなと思っています。

藤森: 当時と最近の違い、今、テレホンカードとおっしゃったのですが、電話のありようが違ってきて、SNS時代になって、御手洗さんの時代にはもう携帯電話があった時代ですね、ネットもあった時代ですよね。そのときの情報の流れ方や、また取材のありようはどうだったのでしょう。当時、御手洗さんは何歳くらいでしょうか。

御手洗: 当時は14歳です。中学3年生です。

藤森: そのとき、御自分がメディアや、お父様がそういうお仕事をされていたということもあるので、少しお立場的に大変だったというのは、お父様自身もそうだったように、御手洗さん自身、何か感じるところはありましたか。

御手洗: 幸いにも自分に直接取材をしてくるような方はいなかったというのは間違いないです。ある意味、マスコミから出ている情報というものが、当時の自分にとっての自分の家で起きている事件の情報を得る唯一の手段だったというのもあります。ですので、家にいるときは新聞も見ましたし、テレビのニュースも見ています。インターネットのニュースも見ています。そういったものから、自分の家の事件が今どういう段階にあるのかというのを把握していたというのは間違いないです。

藤森: 報道のされ方はいろいろですね。それをわりと客観的に取捨選択できましたか、14歳で。中学2年か3年生のときというのは。

御手洗氏: 書かれている内容そのものは理解ができるものでしたので、分からないものがあれば、インターネットだったら更にそこから調べることもできます。ですので、そういう意味で、取捨選択というものができる年齢だったのかなとは思います、中学生くらいになってくると。それより下になると、おそらくそういったことができなくなるので、そういった部分での情報は一切入らなくなってしまうのかなという部分はあると思います。

藤森: 分かりました。齋藤先生のところでは、何かそういうSNSやそういうもので傷ついたとか、取材で傷ついたというような、被害者の御家族自身は大いにあると思うのですけれども、兄弟姉妹のようなところでそういうお話を聞いたことはありますか。学校のほうが多いかもしれないですね、そういうのはもしかしたら。

齋藤: そうですね。センターでというよりは学校のほうで、友達たちの噂話とか、自分が知らない間に自分の家族の話がSNSで回っているとかいうことに対して、先生たちと御家族も含めて、どこまで情報をきちんと伝えて、どういうことをしてはいけないのだということをどんな方法で伝えるかというのを話し合ったなという記憶はあります。

藤森: 今、学校等で事件・事故があったり、被害者の子が学校にいたりすると、緊急支援チームというものが入って、心のケアと、あとはリスクマネジメントのようなことを結構学校を支援する中に、人権問題だよということでSNSではっきりしたことが分からないのに書き込んだりとか、そういうことはやめましょうというふうに、実は子供たちには何度も教育をするのですが、先ほど地域からの無理解が余計に傷ついたとあるのですが、PTAのほうが、お母さん方がSNSをいっぱい回してしまうというようなことも、子供よりもむしろそちらのほうが情報漏洩して、しかも尾ひれがついて、被害者の方や被害者の子供、それぞれの家庭の子供に伝わってということがあるので、おそらくこれは大人の姿勢だというふうに思うのですが、人権教育というのは子供だけにしてもきっと駄目だなと。もちろん子供の頃からして、それを大人に定着するようにというのは一つ大きなテーマなのではないかなというふうに思います。

 時間とともに、これはいろいろなものが進歩してきて、土師さんのほうが私より一つ年上で、同世代を生きてきたので、当時、インターネットはそんなに盛んではない時代でしたよね。そういう意味では格段の差があるというような、今、時代になってきているかなと思いました。

 あと、土師さんが冒頭に言ってくださった「発達段階によって違うよね」という言葉があったので、私、土師さんのお兄さんのことを聞いていて、ある意味、発達段階で言うと反抗期に入る時期でもあるのですね。そうすると、通常は疾風怒濤の時期というか、これまで立派だったお父さん、お母さんに対して、人間として自我同一性を獲得していくプロセスの中で、お父さんに反抗してみたり、でも自分の脆弱さというか、経済的にも自立できない、力でも及ばないというようなところで、普通の子は、ここにいらっしゃる皆さんも反抗期はあったと思うのですけれども、その反抗期をどうやってきちんと出せてクリアしていいか。親のほうも反抗を受け止めてということになるのですけれども、喧嘩をして飛び出したというお話もありましたけれども、どういうような感じで思春期に見られるような発達課題をお兄さんは示してくれたのか。それともやはり示しにくかったのかなというようなところを率直にお答えいただけると助かるのですが。

土師: 家を出ていったというのは思春期の段階等では全くないと思いますので、関係ないと思います。おそらく、子供に反抗期はあったとは思うのですけれども、それ自身は大したことはなかったというふうに思っています。ただ、家の中の雰囲気にもう耐えられないのだろうというふうに、今から考えますと思いますね。

 事件が起こるまでは笑い声や喧嘩する声や、そういう普通の一般的な声が聞こえていた家庭から、それが全くなくなって、何の話もしないわけですし、そんな息苦しい家に余りいたくないというのは本当でしょうし、そこでそれぞれがお互い、家族を気遣いながら生活している中で、非常に緊張感という、精神的にものすごくピリピリしている状況であれば、何か一つのきっかけでそこがということは当然あると思いますね。私自身は、そちらのほうがまず一番大きい理由ではないかなと思っています。

藤森: 遅れてわりと対等にリラックスして話せるようになったというか、むしろあの頃こうだったというふうに話せるようになったのは何歳くらいのときですか。

土師: そうですね、まあ、二十歳を越してからだと思いますね。「あすの会」に参加したのが2000年5月からなのですけれども、当初はマスコミの方は仇だと思っているわけですから、なぜ、仇と話をするのや、という形のことは思っていたようです。それはあとからになって聞きましたけれども。ただ、私が思っている目的と、なぜその必要があるかということをあとで理解して、それは納得してもらったみたいです。

藤森: そうすると、大分時間がかかって、自分の中の葛藤やお父さんにする思いや、それを言語化して外に出すまでに、やはり彼の自我の成長やお父さんとの関係性を出すというところまでかなりの年数がかかったということが今お分かりになっていただけたと思うのですけれども、御手洗さんはいかがですか、お父さんとの関係の中で。

御手洗: そもそも、父との会話の少ない親子関係だったということが第一にありまして、ですのでいわゆる反抗期みたいなものも示さなかったということがあります。ただ、特に事件直後、父親と合流したとき、父親の顔を見た瞬間、「あ、この人は自殺するな」というふうに思ってしまった。そのときから、父親の前では、とにかくいい子でいなければいけないのだと。いわゆる反抗的な態度ではないですが、できるだけ事件の前と同じような生活を送っている姿を見せるという努力をしなければいけない。そういったことをするために、いろいろな人の前では笑顔でいたり、人前で絶対に泣かないようにする。泣いたのも、実際、妹の遺体を見た瞬間、その一度だけなのですね。それ以外の場所では、絶対に人前では泣かないで、布団の中で泣くというふうに決めて過ごしていました。

 ですので、そういうふうに過ごしていたせいか、要するに中学生らしい反抗的な態度というのはとれていなかっただろうなというのは間違いないと思います。

藤森: 反抗期は、あとから出てきましたか。

御手洗: 反抗期というよりも、正確には自分の意見というか、自分の思いを言えるようになるのはもっと先なのですけど、純粋に、いわゆる「心配を掛ける」という行為ができるようになったのは、要するに事件から約1年後くらいですね。そのくらいの時期になって、いわゆる中学生から高校生に上がった段階になってから、周りの環境が落ち着いたせいか、自分のことに向き合う時間ができて、その向き合っていることで教室等に行けなくなって保健室通いになってしまった。そういう状態になって、最初は養護の先生だったのですけれども、「自分がきつい状態にある。ただ、どうしたらいいか分からない」ということを口にできて、そのあと、教室に行けていないことが父のほうに伝わってから、父にも「今、自分はどういう状態にあるか」ということが話せるようになったという感じですね。

藤森: そうなのですね。支援をしているときに、他のいろいろな子供たちの問題行動や精神的な病気というか障害のときも、お母さんやお父さんがいっぱいいっぱいだといい子にしてしまうというのはすごくあって、親にとって状態が悪くなったり、反抗的になったり、問題行動が出てきたりというのは、むしろ安心して出せるようになったときが多いというのは臨床していてすごく感じることがあるのですけれども、それをまた親御さんがどういうふうに受け止められるかというところの難しさがあるので、臨床的な側面で齋藤先生、その辺はいかがでしょうか。

齋藤: 確かに御兄弟が少しいろいろな不安を行動に出せるようになったというときは、いろいろなことが落ち着いてきた後だなというふうには感じるのですが、でも、いろいろなことが落ち着いても御両親はなかなか受け止めることが難しいので、私はどちらかというとお母様と御相談することが多いのですけれども、そのお母様たちが「なんでこういうことをするのだろう」とか、「どういう気持ちなのだろう」とか、「自分はどんなふうに接したらいいのだろう」みたいなことをおっしゃるので、お子さんの状態を説明したり、お子さんと話す時間をどういうふうに持つかということを一緒に話し合ったりといったことはよくしております。

藤森: 話す時間、コミュニケーションをとる時間は、話す量というよりも質の問題があって、お母さんたち、お父さんたちがいっぱいいっぱいのときに、子供の言葉で余り要領を得なかったりするのだけれども、その気持ちを聞いてあげる作業は、結構まどろっこしいところがあるので、少し待てなくなったりとか、先にお母さんが「こうでしょ」等と言ってしまったりすることがあるので、そこをいかに待つかというところを、多分心理専門家が支えて差し上げる。

 多分、彼らがどう接していいか分からないようなことを起こしているというのは、お母さんたち、お父さんたちに安心しはじめた、もう大丈夫だと思いはじめている、それだけ信頼関係ができてきているということですよ、というようなことをお話しして、お母さんとお父さんをエンパワーメントするというか、力づけるということも重要な作業なのですけれども、もしこれが支援の窓口にいないと、そういうエンパワーメントもしてくれなくて、「お母さん、お父さんがこんなに大変な時期に何てことをするんだ」というような、「なんて親不孝だ」ということがあるし、周りの声掛けでよくあるのは、「亡くなった何とか君の分もあなたたち頑張って親孝行しなさい」とか「生きなさい」というプレッシャーがすごく掛けられている。親の知らないところでも掛けられているということがよくあることなのですね。

 ですから、そういうことから子供を少し守ってあげなければいけないなと思うのですけれども、神戸市の取組というのは、一般の被害者の方にどれくらい利用される、先ほど言った行政の自己満足ではない形でといったときに、普及される、利用していくステップというのはどんなふうに活動されていますか。

服部: 神戸市の場合は総合相談窓口というのは、私どもの危機管理室というところではなくて、保健福祉局の人権推進課というところが特化した窓口というよりは、人権の窓口ということで担当しております。

 ただ、実際に事件が発生して、そういった被害者の方に寄り添うといいますか、まず一義的に接するのは警察の方であったり、民間の支援センターの方でありますので、そういったところからの情報を得て、必要な支援をお聞きいただいて、神戸市としてどういったところがお手伝いできるか、こういった方にはこういう制度があります、こういう支援メニューがあります、それに応じたものを紹介していくという形になります。

藤森: 広報はとても大事ですよね。いろいろなところでそういうところにつながる、窓口の一本化というところはとてもすばらしいと思うのですけれども、なかなか被害者自身に届かないということもあったり、あとお金の部分の支援もたくさんありましたけれども、心理支援というか、専門家のカウンセリングの支援というところもとてもありがたいだろうなというふうに拝見しておりました。神戸はそういう面では震災もありましたし、臨床心理士や精神科医が非常に多いというふうに、資源がたくさんあるというところではとても恵まれているなというふうには思いました。

 ここで少し専門的になるのですが、齋藤先生にDSM-5の新しい診断基準のPTSDのことで、被害者だけでなくということで、少しお話ししていただけると助かります。

齋藤: もともとDSMはアメリカの精神医学の診断基準なのですけれども、改訂されて、今、第5版になっていて、DSM-5といいます。DSM-5で、もともとPTSDの場合に、元にもあったのですけれども、直接被害に遭った方もそうですし、その被害を目撃した方ももちろんなのですが、御自分の大事な方が被害に遭ったというのを「直面する」という今表現をしているのですが、大事な方が被害に遭ったという事実に直面した方々。例えば、大事な方が--亡くなった方もそうでしょうし、お子さんが性暴力の被害に遭った親御さんであるとか、御兄弟であるとかいう方たちにもそのPTSDの診断基準が適用されるということが今はございます。

藤森: ですから、そういう面では単に傷ついているとか、つらいとかいうのではなくて、そういう診断基準の枠組みの中に入れることができる対象となっているのだということが一つ言えるかなというふうには思います。

 一般の被害者の方だと、それが障害や病気等と言われるのはむしろ抵抗があったりするのだと思うのですが、カウンセリングを受けるというのは、お子さんの場合ですと学校にはスクールカウンセリングがいるのですが、学校のスクールカウンセラーのところに、例えば被害を受けた兄弟姉妹の方や被害を受けた子でも通うというのは、学校は子供にとってすごく普通にしていたいところであるので、嫌がる子が多いのです。「あの部屋に消えていった」とか、「あの部屋で何話しているんだろう」とかいうふうに勘ぐられることが嫌だし、部活を休むのも嫌だしというふうに言うと、学校外の何か支援を受ける場所でカウンセリングなり、心理教育といって、まずはこういうことが起きるかもね、起きているかもねというようなガイダンスのようなものを受ける必要があるのですけれども、そういう資源を提供していくことが必要かなということを考えたりしています。

 土師さんはお知り合いに精神科医の方がいらして、アドバイスを受けてとても良かったというふうにおっしゃられたのですけれども、お知り合いの紹介ですね。直接のお知り合いではないという方。

 そこで、お話をしてみて、自分で良かったなと思うようなところがあったら少し具体的にお話をしていただけると、皆さんに専門家に相談することの良さということが分かっていただけるのではないかと思います。

土師: 当時、相談したときは、はっきり言いまして学校には通えていない状況になっていましたので、そういう状況で中学校3年生になって、2年のときから昼夜逆転している状況で、学校に行っても寝ている。3年になったらもう学校には行っていない状況でした。家にいるときは、話はするのですけれども、そこら辺を親としては「このままでいいのか」というものがありましたので、児童精神医学の専門家を紹介していただいて、とりあえず電話では相談していたのですが、先ほどお話をされていましたけれどもどこかに行くというよりも、その先生に来ていただく、直接、家を訪問していただいて、そこできちんと見てもらうということが私自身も重要じゃないかと思っていまして、どこかに連れていくというよりは、どちらかというと、その家に行って、その環境で話を聞いてもらうということが実は一番負担が少ないというふうに思います。

 実際に、その精神科医以外にも、中学校のスクールカウンセラーの人にも来てはいただいたのですけれども、それも向こうに行くというのではなくて、来てもらった。中学校としても非常に気を遣って、そこら辺まではしてもらったのです。

 やはりサポートという意味で言うと、どこかに行ってもらうではなくて、やはり出てきてほしいというのはものすごく思うので、今後、もしそういう子供をサポートする場合、事件があって、直接の被害と周りの生徒というのとやはり種類が違うので、全体、マスとしての生徒を相手にするのと、個人の被害者、遺族を相手にするのと少しレベルが違ってきますので、そこは別の考えでしてほしいなというのは私の考えです。

藤森: そうですね、訪問、アウトリーチをしてもらう。中には自分のエリアの中に入ってきてほしくないということもあったりするので、それは通ってもらうとか、メニューをたくさん持って提供できるということは一つの利用していただけるためのサービスの考え方なのではないかなというふうに、今、土師さんの御意見を伺って思った次第です。

 御手洗さんは保健室の先生が相談に乗ってくれたというのですけれども、保健室は行きやすかったですか。

御手洗: そうですね。全体的にカウンセリングという部分で少し話をさせてもらいますと、ポイントとしては2か所ありまして、一つは事件直後の部分なのですね。事件直後に父親の下に来た精神科医の先生が自分に対して声を掛けたと。そのときは、どうしても自分の状態を父親に知られたくないという気持ちがあったので、父親の前で声を掛けられたとしても「大丈夫です」と一言答えて終わったのです。

 2回目が高校に行けなくなって、辞めたあとに行ったカウンセリングなのですけど、こちらのほうでは、飽くまでカウンセリングの中で最初に今の自分の状態をお話しするのですけれども、どうしても言葉にできない部分があって、どういうふうに言えばこの人に伝わるのか分からないという部分が出てくる。そういう部分をうまく引き出してもらえなくて、それを何回も何回も繰り返すことがきつくなって、もういいかなというふうになってしまって、カウンセリングそのものをやめたという経緯があるのです。

 ですので、事実上、自分はカウンセリングを一度も受けていないというふうな状態になっているのです。

藤森: 2回目のカウンセリングではなく、何回かというのはどのくらいでしょうか。

御手洗: 何回というか、何箇所かという言い方のほうがいいですね。1回行って、この人に話をするのはきついかなと思ったら、次に行ってというのを繰り返していたので、どうしても一番初期の段階の説明から入らなければいけないので、それを何度も何度も繰り返すということがきつかった。それをある程度、簡略化できるような状態であれば、もう少し続けられた部分はあったのかなというのは思います。

藤森: そうですか。難しいですね。よく、他の案件でも、特にこういう非常に重い事件の被害者であるとか、性被害の方が一から話さなくてはいけないと思ってしまってということがあるので、なかなか厳しいところではあるのですが、齋藤先生は都民センターの中でその辺の被害者へのアプローチというところで工夫なさっているところはありますか。

齋藤: 繰り返し何度もお話しなければならない、ということについて、ですね。都民センターは東京都公安委員会より犯罪被害者等早期援助団体に指定されています。早期援助団体というのは警察の方が被害者や御遺族の許可があれば、事件概要やどうやって連絡をとるかということを教えていただけるというものなのです。事件概要をほとんど知ったままで入るので、そんなに御本人に詳しく聞かなくていいということがあります。そして、センターでは、犯罪被害相談員が概要を聞けば私たちは聞かなくていいので、心理支援については、概要をほとんど知っているところから入れるため、お話いただく必要がありません。あと、私たちが例えば医療機関等を御紹介する場合には、情報提供の紙を書きまして、そこに被害の概要も書きまして、それを御本人に見ていただいて、「これでいいです」ということの確認をいただいて先方に出すので、それもまた一からは説明しなくていいというような状態をつくるようにはしています。

藤森: 今、振り返って、御手洗さん、何回も話さなくてはいけないのですけれども、来てもらったカウンセラー側ではいろいろ経過を聞かないと、というところがどうしてもあるのですけど、今、初期からだったら大丈夫という話があったのだけれども、初期は初期でお父さんの前で余り言えないしということはあるので、どんなシステムだったらもう少し続けられたかなとか、何かお知恵があれば。

御手洗: 正直なところ、カウンセリングに関しては自分に合わなかった部分ということが一番大きいです。性格的な問題ですね。これに関しては、子供の特性に合わせたという意味で、自分にとってこのやり方が合わなかったという部分はあると思います。ただ、自分の中でこのカウンセリングを通して唯一得られたいい点としましては、一番知られたくなかった父親が自分の状況を知ったとしても、決して自分の命を絶つことがないということが分かったということなのですね。家族に自分の状況を知られるということを経験する場所としてカウンセリングを行うというのは一つ大事なのかなと思います。

藤森: お父さんが、もしかしたら最初に会ったとき、「この人、死んじゃうんじゃないかな」と思った、その最初のインパクトというのは、1年後くらいとおっしゃっていたんですけれども、何が気持ちを安心感に変えていくお父さんの変化だったのでしょうか。

御手洗: 一番の変化は父親が仕事に戻ったことです。いわゆる日常の生活を送るようになった。自分の家族や周りの人たちも含めて、事件の前と同じように仕事に戻って、日常生活を送るようになったという変化ですね。その変化を見たときに、自分の中で我慢している必要性というものを、一つとめていた留め金みたいなものが外れたきっかけになったのかなと思います。

藤森: 非常に印象に残るというか、心に残る気持ちの変化というところ、お父さん自身はその現象を当時どのように捉えていて、今どのように語られているのか、少しお父さんの気持ちを代弁できますか。

御手洗: 最初の頃、要するに自分がいい子にしていた頃という部分に関しましては、父のほうから「全く気付くことがなかった」とはっきりと言われました。正直、本当に気付かなかった。自分としては、できることは全部やって、順調に学校に戻ることができて、順調に進学やそういった過程を踏んで普通の生活に戻れているというふうに思っていた、だから自分も自分の生活に戻ることができていたと。

 完全に父親を騙していた状態というか、反対に言えば「騙されていた」というふうに父のほうからは言われています。

藤森: 逆に安心して、堰を切ったように自分の気持ちが出せるとなったときのことを、お父さんはどういうふうに今は捉えていらっしゃいますか。

御手洗: 正直、後悔しかないというふうな感じですね。「その当時、できていたと思っていたことが全くできなかったということを知らされた。打ちのめされる思いだ」というふうに、はっきりと言葉にしていますね。

藤森: でも、お気持ちを行動で出せたことは、御自分としてはすごく良かったですね。

御手洗: そうですね。要するに、自分が苦しい状態にあったとしても、きついという言葉を発するということ自体は、悪いことではないというふうに自分の中で思うことができた。それを得られたことが、ある意味、そのあと自分が普通の日常の生活に戻る上で第一歩だったのかなと思います。

藤森: 本当に大きな教訓で、大人や子供の周囲の保護者や支援者は、学校に行ってくれていると子供は大丈夫だって、本当に思ってしまうのですね。子供の名演技にすっかり騙されているということは、しばしばあります。本当によくあって、いい子を演じている、いい子になりすぎているときに、「あれ?こんなにいい子になっていていいのか」と思うところを、少なくとも学校ではなかなか見つけられないです。学校は荒れ狂っている生徒とか、それこそはっきりと不登校になるとかいう形だと、「すわ、手を差し伸べなければ」となるのですが、とりあえず学校に来てくれていると問題なしというふうに捉えることがすごく多いですし、親御さんもそういう点では、自分のことが精一杯で、子供がそれを乗り越えて学校に行ってくれている。しかも受験も乗り越えてというところではあるのでしょうけど、あとから知らされると結構衝撃的なことではありますね。

 でも、多分そのときに両方やってしまうと、御手洗さんがおっしゃったように、父も更にストレスフルになり、御手洗さんも頼れる父がグズグズになってしまうのはとてもつらいだろうし、というところがあって、やはりその時期を待っていて、しかもちゃんと言語化や行動化ができる時期に熟成して出してきたという感じがあるので、その時差はとても意味があったのだろうなというふうに思います。

 お父さんは、多分、「うーん、騙されていた」という感じがするのか、それも、お父さんは、言語化できるからいいですよね。大人になった御手洗さんと一緒に話せるのですものね。さっきお話の中で、当時から余りお話ししなかったというのは何か。お父さんがお忙しかったからでしょうか。

御手洗: そうですね、仕事柄としても不規則といいましょうか、決まった時間帯に行動するお仕事ではないのでどうしても家にいない時間も長いですし、何かあれば必ず現場に向かわなければいけないというお仕事ですので、家に父親がいない生活が当たり前だったのですね、元々。

 初めて佐世保に異動してから、父親と暮らすということをやったという印象なのです。小学生までは父親がいない暮らしが当たり前で、中学生になってから初めて父親がいるという生活になったという変化はありますね。

藤森: そうなのですね。それは初めてお聞きしたので少しびっくりしましたけれども、中には転勤でなかなかお父様と暮らせないという方もいらっしゃるので、そういうこともあるのだなというふうに思った次第です。

 今、お父さんの話が中心に出てきたのですけれども、お兄ちゃんのお母さんですね、奥さんとお兄ちゃんとの関係を土師さんの視点から見るといかがでしたか。

土師: 先ほども言いましたけれども、反抗期というほどのものはなかったと思うので、妻ともそれなりに家の中でも話をしていましたし、家族で食事に行ったり、映画を見に行ったり、そういうことは結構ずっとしていましたし、1年後もしていますので、そういう意味では話をしないほうではないとは思いますね。

 他の家庭のことはよく知りませんけれども、少なくとも部屋に鍵を閉められるようにはしていませんし、逆に部屋のドアにすりガラスを入れて、電気がついているかついていないかくらいは分かるという部屋にしていますし、そういう意味でもつながりは保たれていたとは思っています。

 ある程度大きくなってきますと、それなりに口答え的なことはしますし、反抗的なことは言いますし、それは当然のことだと思うので、自分の意見があるということなので、それはそれでむやみに何もかも反抗するということとは違いますから、それは成長とみなしていいのではないかなという、そういう関係ではあったと思います。

藤森: 多分土師さんが非常に理性的なお父さんでいらっしゃるから、そういう子供の成長は当然のこととしてあるものだというふうに理解している、非常にいいお父さんだったというふうに思うのですね。でも、なかなか思春期の子は扱いづらい、中学2年生くらいの女子も男子もとてもいろいろなことを引き起こしますし、全然口を聞かなくなるとか、よく授業でも言うのですけど、「飯、風呂、金」しか言わないとか、そういう子供たちも珍しくはないのですけれども、反抗期を経て、また高校や大学になってきたときに親子関係が再構築されるというか、それがあってからの親に対する尊敬や親に対する自立した人間として付き合えていくということがあるのかなというふうに思ったりします。

 今、思春期くらいのお兄ちゃんの話が少し多かったのですけれども、小さいお子さんの場合もあります。一つ気になったりするのは、実は被害者の兄弟姉妹はまだ生まれていない子もいたりするのです。被害者が亡くなったあと、子供さんが亡くなったあと、若いカップルですとそこから兄弟姉妹が生まれて、もう一回、出産にチャレンジしてということがあったりするので、そのときの兄弟姉妹の受け止め方。要するに、既に亡くなっているお兄ちゃんやお姉ちゃんのことを親から聞かされるというのもなかなか複雑なものだなというふうに思っています。

 私自身、6歳くらい上に兄がいたらしいんですね。それは病気で亡くなったのですけれども、私も反抗期もありますし、いろいろ親に叱られたりするときに、「あの子が生きていたら」というのを言われて、1歳で亡くなっているのですけれども、母の中ではすごく勉強ができて、すごくいい子で、絶対超えられない人になっていて、その人と比べられるというのは常にすごくつらかったという記憶が子供ながらにあった、「あのお兄ちゃんが生きていれば」というふうに言われたりする記憶があったので。そういう子たちに被害者の御両親がどういうふうに亡くなったお子さんたちのことを語っていくかというのも、実は課題なのだろうなと思ったりしています。

 いろいろな発達段階の被害者の兄弟姉妹を見ていらっしゃる齋藤先生、何かそういう親御さんの年齢や子供さんの年齢等で印象に残っているケース等はございますか。

齋藤: そうですね、スクールカウンセラーのときの経験のほうが多いなと思うのですけれども、上のお子さんが亡くなったあとに生まれたお子さんが、上のお子さんと同じ年代になるに近づいて、すごく御家族が落ち着かなくなっていたりとか、すごく不安定になっていたりといったことがあって、そのときにわりと集中的にお会いしたりとか、その不安定になっている様子を子供はなぜ不安定になっているのか全然分からなくて、そういうところの子供とどういうふうに話をするかという、この場合、お子さん自身へのアプローチはそのときはしていないのですけれども、親御さんと「どんなふうにお話をしていくか」とか、「なぜ今落ち着かなくなっているのか」みたいなことのお話をしたなという記憶はあります。

藤森: そうですね、そのときに同じくらいの年齢になったりすると、また何か起きるのではないかということがとても御心配になるというのは分かる気がしますし、子供さんはなぜそんなに親御さんが心配になるのか、それほどリアルに共感できるわけではないので、少し面倒くさいなと思ったりするというのはあるかもしれないですね。

 あと、私が思うには、自分がこの年齢になって自分が子供だったときを思い出したときに、親は、子供の年齢が小さければ小さいときほど、すごく完成された大人として映っているんですね。生まれたときから親ですので、立派な人だ、超えられない感じというものがあって、でも自分がこの年齢になると、この年齢にならなくてももう少し若いときでも、結構内面的にそんなに成熟しているわけではないなと気付くことがあって、子供の持つ親に対する気持ちの期待像と、実は本来の親の姿は結構ずれがあったりするので、その辺の自分自身が親の役割をしているとき、また逆に、御手洗さんなんかは子供の役割を演じ切ったということがありましたけれども、親御さんに対してどんな気持ちを抱いていたかとか、土師さん自身は親としての自分という意味では、親の役割と土師さん自身の成長とかいう意味で、何か変化があったとか、こういうことを感じたということはございますか。御自分とお父様の関係になるのかもしれませんけれども。

土師: 自分の両親のことは端に置いておきますけれども、子供に関して言いますと、一緒に遊ぶという形のほうが強かったのではないかと思うので、どちらかというと子供と一緒に成長していったのではないかなと思いますね。自分が親として、特に事件のあと、いろいろやっていますけれども、確かにそのときは真面目そうな顔をしてやっていますけれども、実際の中身はいつも不真面目ないい加減な人間なので、やはりそこら辺はそういう息抜きの部分も当然ありますし、子供にしてもスーパーお父さんみたいな人は息苦しいと思うのですけどね。私はどちらかというと子供と一緒に映画を見たら「面白かったな」とかそんな話をしながらおいしいものを食べてとか、現在もそんな形でやってきている。別に尊敬されるべき人間ではないだろうと思います。それを演じようとは別に思っていませんので、それぞれの考え方があると思いますけれども、そこまですばらしい人間に自分がなろうとは思っていませんし、なれるとも思っていませんので、そういう形が気分的にも楽だと思います。

藤森: 御手洗さんは、一緒に暮らしている時間がなくて、お父さんのことをいきなり心配するところから入ったのですけれども、お父さんの表情を見て、「あっ」と思ったときには「守ってあげよう」という感じになってしまったのでしょうか。

御手洗: そうですね、事件直後の部分に関しましては、父が死なないようにといいましょうか、正直なところ、そういうふうな思いで父親に接するようにしていました。

藤森: そういう面で親子関係はそれこそ個別性が高いし、お父さんと子供、お母さんと子供という問題があったりしますし、その時期その時期で関係性も少しずつ変化していくので、これがゴールドプランですよというようなことは言えないと思うのですけれども、そういう面でその多様性に応じて支援が入るような仕組みづくり、またはセーフティネットの網を何重にも掛けていくことが必要なのだろうなというふうに今日は思いました。

 あと残り少ない時間の中で、今日のパネラーの方同士で何か御質問が相互にあるようなことがございましたら、パネラーの方たちの中で誰々さんにお話が聞きたいとか、こういう質問があるのだけれども、ということでありましたらいかがでしょうか。

土師: 質問といいますか、事件後の環境、周囲の環境の整備といいますか、そういうことがあるかなと思うのですけれども、結構子供は残酷なところが非常にあると思うのですね。同じ学校の生徒には言われていないのですけれども、他校の生徒等に言われているのですが、事件の被害者のお兄さんやということを教えられてでしょうけど、町中で声を掛けられて「弟、殺されてどんなやったんや」等ということを言われたことが実際あるらしいのですね。そういうことを無責任に聞く環境は、そういうものを抑えることができないのかなというのは非常に思いますね。

 興味だけなのでしょうけれども、そういう質問をしたら相手が傷つくだろうということを、学校でも、それは基本的なところだと思うのですけれども、そういう教育をきちんとするべきではないかなと思っていましたので、その点、どういうふうにお考えなのかなと。臨床心理士の方等に少し聞いて、そういう事例が実際にあったかどうかも含めて教えていただけたらと思います。

藤森: どうですか、スクールカウンセラーの立場からその辺は。

齋藤: 御兄弟が亡くなった場合ではないのですけれども、例えば親御さんが亡くなったといったとき等に、不躾なことを言ってくる子供がいるということは、関わっている方の中ではあったなと思います。そのときは学校の先生たちも会議を持ってくださって、こういったことが起こることをどうやって防いでいくかという話をしたり、もちろん言った子たちは個別に呼び出して話をするといったりしたことはしました。また、子供たちだけではなく、学校の先生も、すごく傷つくような二次被害的な質問をしたり、言葉を掛けたりといったことがあって、こういう被害に遭うとか、こういう出来事を体験したあとに気を付けることとか、当たり前に人間として考えなければいけないことは、そもそも、こういった出来事が起こる前から教育をしていかなければいけないのだなということを、そのときにとても思いました。

 もちろん事件が発生したあとに、保護者会や全校の説明会、職員会議等で話をしますし、二次被害についても話をするのですけれども、でもその時点に話をしただけでは本当に足りなくて、遅くて、もっと事前に必要だったなということをすごく痛感しました。

藤森: ある意味では家庭教育だというふうに私は思っていて、家庭の中で相手が傷ついたり不愉快に思うとか、または遺族や被害者の方がどういうお気持ちになるかということを考える、しつけのようなものが今すごく乏しくなっているなというのはあります。

 保護者の方は「学校で教えろ」というふうに言うのですけれども、もちろん学校でも人権教育はやりますけれども、毎日やるわけではないので、カリキュラムの中できちんと教えていくし、日々の中で人を傷つけてはいけないということを教えているのですけれども、どうしても入らない自分がいるというのは現実ですし、今の毎日ワイドショーから流れてくるメディアの質問は、今、土師さんがおっしゃったように「離婚してどうですか」とか、彼らはそれが一つのアピールになるかもしれないのですけれども、そうではない一般の方にもかなりいろいろな突っ込んだ質問をするのをほぼ一般の人たちは見ている。そことの境界線がすごくなくなってきているような感じがして、不躾な質問をするということがあるのだろうなというふうに思います。

 例えば自死で亡くなったお子さんについての質問等も結構出てきたりとか、病死でも何の病気で亡くなったのだとかいう、子供たちの中には「自分たちは知る権利があるのだ」と言わんばかりに質問をしてきたり、それこそSNS上で発信したりとかいうことが今は本当に日常的にあって、それはだめだよというふうに事前に教えていても、事後に教えていてもなかなか止めらないという現状にあるなというふうにあって、それが罰則規定がないので、人の善意の中で思いやったり、思ったりという形でとどまっている範囲ではもうなくなってきているというのはすごくあると思います。

 匿名で書くとか匿名で言うということに関しては、今の若い人たちは本当にすごく強硬に出てくるので。あと知らない人からそういうふうに言われたということは、本当に人間の好奇心を丸出しにして、相手のことを慮らない、非常に残酷な質問だなというふうには思います。

 だから、そのときに、「じゃ、どう答えるの」といったときに、私は被害に遭った生徒等に「関係ないでしょ」ともう言ってしまいなさいというふうに、そしてその場を離れなさいというふうに、とにかく自分を守る方法も身に付けようというふうなことを面接の中で話したりすることはあります。相手だけに期待していると、少し守り切れないかなというようなこともあったりします。

 とてもつらい質問なのですけれども、御手洗さんはそういう似たような質問をされたことはありますか。

御手洗: 幸いなことにそういった質問等はされたことはないですね。実際、自分が学校に復帰する前に、クラスメートの人たち、逆に「御手洗をどうやって受け入れていいか分からない」と。だから、そういう相談を担任にもしていたというふうに聞いています。担任の先生のほうからは「とにかくいつもどおり、事件の前と変わらないように過ごしていい。普通に遊んでもいいし、普通に声掛けしていい」と伝えていたそうで、それをそのまま実行してくれた。ですので、そういう不躾といいましょうか、きつい言葉を掛けられたということはなかったので、ある意味、学校の中にいる間だけは事件の前とほぼ同じような日常が歩めたというのはあります。

藤森: 当事者の方に「どういうふうに受け入れたらいいか」というのを聞いて、「彼はそう言っているよ」とか「彼女はそう言っているよ」とか、「遺族はこういうふうに伝えてほしいと言っているよ」というようなこと、嘘はつかない形でなるべく意向に沿った形でやっていって、その都度、困ることはいっぱい出てくるので、そのときはまたその都度問題解決について話し合いましょう、みたいなことを言ったりしています。

 その辺の問題が出てくることと、少し気になったのは、最近少し増えてきているということで、一般の方にお分かりになるかどうか分からないのですが、コミュニケーションの障害を持っているお子さんがいたりするのですね。言ってはいけないと言われると言ってしまうとか、相手の気持ちが全然分からなくて言ってしまうなどという子がいて、その子に例えば「この子にそういうことを言ってはいけないよ」と指導すると余計言ってしまうという子がいたりするので、中には診断名がつくような発達の偏りがあったりする子で、コミュニケーションがとても苦手な子がいて、相手を傷つけてしまうということも中にはあるのかなというところは、最近、学校に入っていて思うところではあるので、見知らぬ人だと少し難しいのですけれども、学校の中だったら少しマークしておいてくださいということをお願いしたりします。御質問ありがとうございました。

 他にどなたか御質問ありますか。

齋藤: 例えば先ほどの二次被害や教育、広報啓発といったことについて、行政で何か対策を考えるようなことはございますか。

服部: 行政の場合ですと、いわゆる子供さんのカウンセリング以外に、やはり周りにいる大人、保護者、あるいは学校の先生、それから地域社会の近所の大人たちへの被害者を取り巻く、被害者家庭への正しい理解ということが一番課題かなというふうに思っています。

 行政としては、こういったいろいろな直接的な経済的なメニューを掲げても、実際に行政と被害者あるいは子供さんというだけの関係にとどまってしまっていて、先ほども少し説明しましたが、元々ありました「神戸市民の安全の推進に関する条例」の第13条にもあるのですけれども、犯罪被害者の支援を推進している人材育成をしなければならない、すること、というふうに書いてあるのですが、やはりそういう部分を行政としてはもっともっとやっていかないといけないかなと。それは専門的なレベルではもちろんないのですけれども、一般の市民で分かるようなレベルで被害者の置かれている立場や心情を少しでも分かっていただける機会や啓発、こういったものをもっとしていかないといけない。

 その前に、それをする我々行政の職員がもう少しこのことについて真摯に取り組まないといけないかなというふうに思っています。土師さんのお話にもありましたけれども、いくらいいものを持っていても、それを活用できないと全く被害者、子供たちにも届かないと思いますので、これからは活かすところが大事かなと。そこについてもっともっと注力していかないといけないかなというふうに思っています。

藤森: ありがとうございました。そろそろお時間が迫ってまいりました。コーディネーターの技術不足で十分に皆さんの御意見が参加者の方々にうまく伝わったかどうか、本当に未熟な点、どうぞお許しください。

 長時間にわたり、それぞれの立場から非常に率直にそれぞれの体験や活動、そして御希望または課題についてお話ししていただけました。ここにいらっしゃる皆さんにそれをお届けすることによって被害者支援、その中でも被害者の兄弟姉妹に対する、今までなかなか光が当たらなかったところにも目を向けていただいて、今後ともより一層手厚く温かい支援が隅々まで届くようにしていただければと願っております。どうもありがとうございました。

    警察庁 National Police Agency〒100-8974 東京都千代田区霞が関2丁目1番2号
    電話番号 03-3581-0141(代表)