中央イベント:基調講演

「途切れない支援の重要性~亡くなった子供・遺された子供への想い~」

土師 守 (公益財団法人ひょうご被害者支援センター理事、元あすの会副代表幹事)

 はじめまして、先ほど御紹介いただきました、私、神戸から参りました土師と申します。最初にこのような機会を与えていただきました主催者の方々にお礼を申し上げたいと思います。

 さて、御記憶の方もまだ多いかと思いますけれども、今から21年前、1997年5月、神戸児童連続殺傷事件と呼ばれている事件が発生いたしました。この事件では当時14歳、中学3年生の少年が小学生2人の命を奪い、数人に重軽傷を負わせました。私の次男もこの事件で尊い命を奪われてしまいました。

 事件が発生した21年前は、犯罪被害者を取り巻く環境は非常にひどいものでして、私も幹事をしておりましたけれども、今年6月に解散いたしました全国犯罪被害者の会「あすの会」の活動等によりまして、現在では非常に改善いたしましたけれども、まだまだ積み残された課題は多数あります。本日の主要なテーマである兄弟の問題はその大きな一つの課題だと認識しております。

 さて、本日の講演ですけれども、テーマとしましては「途切れない支援の重要性~亡くなった子供・遺された子供への想い~」ということでお話をさせていただきたいと思います。内容といたしましては、まず私たちの子供の事件を通して、どのような支援が必要かについて、そして、今後の被害者支援に望むこと、途切れない支援の重要性について、私がお話しできる範囲でお話をさせていただきたいと思います。次に、犯罪被害に遭った少年、そしてその兄弟たちの問題について、親としての立場からお話しさせていただきたいと思います。最後に、先ほどもお話ししましたけれども、今年6月に解散いたしました全国犯罪被害者の会「あすの会」の活動について簡単に振り返りをさせていただけたら思います。

 さて、犯罪被害者になるということはどういうことか。これは被害者になってみないと分からないというのが本当のところです。私たちの子供の事件が発生する少し前にも、東電OL殺人事件とか、奈良月ヶ瀬村の女子中学生殺人事件等、世間を賑わせた事件が発生しておりました。特に、東電OL殺人事件では、被害者のプライバシーがこれでもかというくらいに、嘘か真かの検討もなされずにテレビや紙面上に連日のように垂れ流されていました。私自身は細かい内容まで読んだことはありませんでしたけれども、見出しを見るだけで、ここまで被害者の方を貶める権利がマスコミにあるのかと思い、非常に気分が悪くなったことを覚えております。しかしながら、そうは思っておりますけれども、まさか自分がそういう立場に置かれることになるとは全く思っておりませんでした。

 犯罪による被害というものは、犯罪そのものにより直接的な被害を受けるだけではなくて、被害後に生じる様々なことで二次被害に苦しめられることになります。また、“被害者”と一言で言いますけれども、それぞれの事件により事情が異なっています。そして、兄弟、親子、父親か母親かの立場の違いによって状況が異なってきます。被害者が100人いれば100通りの状況があると言えます。

 実際、私たちの場合はどのような状況であったかということを簡単にお話ししていきたいと思います。

 皆様の中でもまだ記憶されている方も多いと思いますので、私たちの子供の事件の詳細につきましては割愛させていただきたいと思います。しかしながら、内容としましては極めて残酷で、猟奇的な事件でした。そして、この事件については報道被害という問題は避けて通ることができない問題でした。

 事件が発生しましたのは1997年5月27日の朝でした。当時、14歳だった加害男性が通っていた中学校の正門の前に、私の次男の頭部が置かれているのが見つかりました。連絡を受けて、私は妻とともに急いで現場である中学校に車で向かいましたけれども、現場に到着いたしますと、警察官に「須磨警察のほうに行くように」という指示をされました。その指示は私たちにとっては最悪の事態であることを意味していました。そのため、私たちは悲しみの中、夢遊病者のような感覚で須磨警察署へと向かいました。

 須磨警察署で、私たちが「どのような状態で見つかったか」等を聞き、更に私は遺体確認をしたあと、最初の調書にサインいたしました。このときの状況というものは、本当に映画の中のワンシーンという状況で、私たちには全く現実感のない、夢の中で起こったような感覚でした。

 その後、疲れ果て、悲しみに沈んだ私たちがマンションに帰り着いたときに、最初の「取材」という名の暴力に遭いました。私たちが帰宅したときには、既に何社かのマスコミ関係者がマンションに来て待ち構えておりました。子供をあのような状態で亡くした私たちの悲しみを全く無視して、彼らは無遠慮な質問とフラッシュの雨を浴びせました。

 次の日、朝起きてからカーテン越しに家の外を覗きますと、マスコミ関係の車が周囲の道路を埋め尽くしていました。事件発生後の取材攻勢は本当にすさまじいものでした。インターホンは数え切れないほど押されましたし、電話も鳴りっ放しでした。その日から連日、朝から晩まで多数のマスコミ関係者がマンションの周囲を何重にも取り巻きました。

 通夜と告別式が行われた会場でも、本当に多数のマスコミ関係者が会場周囲に充満しており、また多数のカメラが会場入口に向けられておりました。

 この写真は告別式の会場から周囲の状況を撮影したものです。もちろん、私が撮影したものではありません。当時は、まだ犯人も分かっていませんでしたので、犯人が告別式会場に来ている、そういう可能性もあるということで、会場の内外を警察の方が写真撮影をしていました。そのときに撮影された写真の中の一部です。

 “鈴なり”という言葉が当てはまるのではないかと思いますが、少し離れた2段目の部分までたくさんのマスコミ関係者で溢れ返っているのがよく分かります。私たちは単なる一般人であり、芸能人でも、有名人でもありません。そのような普通の一般人である私たちが悲惨な事件の被害者家族になり、精神的にもどん底の状態に突き落とされた挙げ句に、このような環境に放り込まれてしまったわけです。皆様にも、この状況を自分に置き換えて想像してもらえればと思います。

 電話とインターホンによるすさまじい取材攻勢はその後も続きました。神戸新聞社へ犯人からの第2の手紙が来たときには夜中12時頃までインターホンは鳴りやみませんでした。マンションの南側にマスコミ関係者の車が朝から夜遅くまで停まっており、私たちの部屋を監視していました。また、南側のマンションの部屋を借りて、そこから私たちの部屋を隠れて撮影しようとまでしておりました。本当にしばらくは外に出るどころか、家のカーテンも開けることができない状態が続きました。カーテンを開けたのは事件発生後2か月近くが経ってからのことでした。

 一般的に被害者遺族には「大切な家族を助けてあげることができなかった」とか、「もっと何かしてあげることができたのではないか」という悔恨の想いが非常に強いものです。第三者的に考えますと、それは仕方がないことで、遺族にはどうしようもないことだということがほとんどに違いありません。そして、被害者遺族も頭の中では理解できている場合が多いのではないでしょうか。しかしながら、被害者遺族は他の人から見ますと、そんなことで悩まなくてもいいようなことで非常に苦しみます。このことは私たちにとっても同様でした。

 例えば、私たちの長男は「あのとき一緒に祖父の家に行っていれば弟の命は奪われなかったのではないか」と思い、妻は「出ていくときにちゃんと子供を見て、もっと声を掛けてあげればよかった」と思っていたようです。私自身についても同じ思いがありました。次男が出ていって間もなくして、私は研究会に参加するため、バスに乗って出掛けていきました。私がもう少し早く出ていれば、犯人と会う前、もしくは会ったくらいの子供を見ることができたかもしれません。そして、そのときには少なくとも事件が起こらなかったかもしれません。

 次男がいなくなった当日、私たちは次男を探し回っていました。警察がその日の捜索を終えた後も、私は父とともに車に乗って探し回っていました。そして、その日の最後に、私は父とともに次男が殺害されたタンク山というところに行きました。私と父は車を降りて、タンク山のチョコレート階段と呼ばれる通路を懐中電灯を手に登っていきました。タンクのところまで行きましたけれども、周囲の草むらの中に何も見つけることができませんでした。私たちは諦めて家に向かいました。しかし、そのとき、子供はすぐ近くにいました。見つけてあげることができなかった悔いは今も残っています。あのとき見つけてあげることができていれば、殺害されることは避けることができなかったとしましても、あのような目には遭わされていなかったのでは、という思いは今も強く残っています。被害者遺族は不当な犯罪被害に遭い、苦しみに遭いながら、更にその上に悔恨の思いに苛まれることになります。

 私たちの家には事件発生直後より兵庫県警本部より派遣されました逆探知グループの方々3組が交代で24時間体制で逆探知業務に携わるために滞在しておりました。1組は3人で構成されていまして、そのうちの一人は女性でした。この方たちは本来の逆探知の業務に携わる傍ら、私たちの話し相手や相談相手になってくれていました。また、女性の刑事さんは外出することができない妻の代わりに食料品等の生活必需品の買い出しもしてくれていました。そして、横暴な取材をしようとするマスコミ関係者から私たち家族を守ってくれたのもこの方たちでした。

 私たちの自宅マンションは事件後より膨大な数の取材陣が取り巻いており、私たち家族はとても外出できる状態にはありませんでした。一歩も外に出ることができない状況の中、私たちがとりあえず生活することができたのは、本当にこれらの逆探知グループの方々のおかげでした。当初、自宅に刑事といえども他人が四六時中滞在することにつきましては、私自身もですけれども、妻も子供も嫌な思いがあったのではないかと思っております。しかしながら、しばらくしますと犯人は捕まっていない、マスコミの取材攻勢は激烈をきわめているということもあり、逆に彼らの存在が私たちの心に安心感を与えるようになったというふうに思っております。

 さて、犯罪被害者支援を行う上で、どのような支援が必要かを考える場合に非常に重要なことがあります。被害後、どのような時期かにより、被害者の状況は大きく変化するということです。当然、必要とされる支援もどのような時期かにより異なってくると思います。

 私が理事として参加しています「ひょうご被害者支援センター」は2002年に設立されましたけれども、その年から電話相談員の講習会に犯罪被害者の自助グループである「六甲友の会」が被害者の生の声を聞く、そういう講習を受け持っています。この講習では、犯罪被害者遺族5、6人が参加しまして、自分たちの被害の状況を受講生の方々にお話をします。当初は私が進行役をしておりましたけれども、話を進めるに当たりまして、受講者の方々に被害者遺族の心の動きをできるだけ正確に理解してもらおう、そういう意図からそれぞれの状況を時系列で話してもらうことにしました。それは事件発生直後から初七日くらいまで、その次は事件後2~3週間、大体四十九日くらいまで、その次は2~3か月、そして1~2年、すなわち一周忌から三回忌くらいまで、そしてそれ以降と、大きく4つの時期に分けて話をしてもらっておりました。これは犯罪被害者を支援することを考える上で非常に重要なことだと考えたからです。

 事件直後の支援ということは、いわゆる“危機介入”という言葉で表せると思います。まさに“危機介入”というものは早期援助、そのものではないかと思っております。事件直後では犯罪被害者遺族は現実感が乏しく、あらゆる事柄に対する決定権が低下することが多いと思います。何をすればいいのか、それすらも分からない状況に陥ってしまいます。事件直後の犯罪被害者に対しては、事件発生後に待ち受けている課題、例えば司法解剖の手続であるとか、マスコミ取材、葬儀、警察対応等について前もって説明できるような支援者の存在が実は非常に重要なものだと思います。

 さて、私たちの子供の事件においては、特に事件直後に必要な支援のかなり多くの部分を警察の方が行ってくれています。事件発生の前年に、警察庁から被害者対策要綱が出され、被害者に対して支援しやすいという事情があるにしましても、やはり特殊な状況であったと思います。私たち家族に対する兵庫県警の細やかな対応というものは、私たち家族にとっては非常にありがたいことだと思っております。

 しかしながら、実際のことを考えますと、このような支援は警察が中心になってすることなのか、という思いは持っておりました。当然、警察としての被害者支援は必要だと思いますけれども、どこまで警察が受け持つか、という問題はあるかと思いますが、ある程度の重なりはあるにしましても、例えば生活支援のような支援は基本的には警察ではなく民間の支援センターが行うべきではないかと、私自身は思っています。人材の問題もあり、現時点では民間で対応するのは非常に困難なことは多いと思いますけれども、やはり一歩ずつでもいいですので進めていただければと思っております。

 次に「被害者にとって必要な支援」について、経済的な支援を除いてお話をさせていただきたいと思います。

 一般的に言いまして、被害者や被害者遺族は前もって被害者になるための準備をしている、そのようなこと等あり得ません。犯罪被害に遭ったときにはこういう機関に行って相談をして、弁護士が要るときはどこそこに行って等ということをあらかじめ準備するということは全く不可能なことです。そういう意味で事件発生すぐからの支援というものは被害者にとって非常に心強いことだと思います。

 次に、「情報提供」の問題があります。事件直後から、そしてある程度の時間が経ってからでも被害者や被害者遺族にはあらゆる情報が不足しております。被害者や被害者遺族には法的にどのような権利が保障されているのか、またどのような制度があるのか、捜査は、そして裁判はどのように流れていくのか、事件の情報はどこからどのように入手できるのか、今後の生活はどうなるのか、被害者や被害者遺族には他にも多くの知りたい情報があると思われますが、実際にはどのような情報が知りたいのか、それさえもまとめることができないほどの被害者も存在します。警察から説明されたとしても、混乱している状況では聞いたことさえも覚えていないことも多々あります。

 次に、「紹介」ということがあります。被害者や被害者遺族にとって、自分たちのためにきちんと相談にのってくれ、動いてくれる弁護士や精神的なケアをしてくれる精神科医、臨床心理士は必要不可欠な存在です。しかし、現実的にはどの弁護士に頼んだらよいのか、どの精神科や臨床心理士に受診したらよいのか、全く分かりません。また、相談内容により適当な行政機関への紹介も重要なことです。被害者にとって、問題を訴えたいときに、たらい回しにされるということは犯罪による被害に加えて更なる精神的被害につながるからです。

 このように、今までお話をしたような支援、また経済的な支援を行うに当たっては、国及び地方公共団体の果たす役割が非常に重要になってきます。地方公共団体の被害者支援への関わりということで言いますと、犯罪被害者支援条例が多くの自治体で成立しています。私が住んでいる神戸市でも、私も検討委員のメンバーに選ばれましたけれども、5年前の7月に神戸市犯罪被害者等支援条例が施行されました。今年の6月には更に内容が充実した改正案が可決しました。この内容については、後ほど改めて触れさせていただきたいと思います。そして、神戸市に隣接する明石市では、当初の条例から2度の改正を行って、進歩した明石市犯罪被害者等の支援に関する条例が今年4月から施行されました。

 被害者支援条例の内容についてですけれども、各自治体で余り大きな違いはないように思いますが、もちろん地方自治体の犯罪被害者に対する対応が大きく改善されるであろうということは非常に重要なことだと思っています。しかしながら、この条例が制定されるということの最も重要なことは、「犯罪被害者にとっての拠り所ができる」ということだと思っています。 

 この条例が制定される以前は、犯罪被害者等基本法ができ、自治体の対応する窓口が決まったとしても、その窓口に行っても、それなりの対応を受けることはできませんでした。しかしながら、この条例が制定されることにより、犯罪被害者としての権利を主張しやすくなります。このことは精神的には非常に大きな影響を及ぼすことになると思います。もちろん、当然、条例の制定だけでは十分ではありません。いくら良い条例や施策をつくっても、それが機能しなければ何の意味もありません。絵に描いた餅では全く意味はありません。条例や施策をいかに活かして活用するかが重要な課題だと思っています。被害者支援の条例や施策を有効に活かし、縦割りではなく縦横無尽でスムーズで素早い対応をできるような体制づくりが実際には非常に重要なことではないかと思います。

 被害者支援の基本は、やはり被害者の視点に立った支援だと思います。被害者支援とは、あくまで被害者が中心であり、支援者が中心ではありません。この根本がずれてしまうと、支援が支援者の自己満足になってしまう危険性が高いと思います。被害者支援と言いながら、本当に被害者のニーズに対応しているかということが非常に大きな問題だと思います。犯罪被害に遭っていない人が「被害者はこのような支援を必要としているに違いない」と頭で考えることと、実際に被害に遭った人たちが望んでいる支援とは異なることが少なくないのが現状です。ややもすれば自己満足的になってしまい、せっかくの支援が支援にならないどころか、被害者を傷つけてしまい、次なる被害につながってしまうようなことにさえなりかねません。

 そのためにも被害者の声を聞きながら、どのような支援が必要なのか、どのように支援していくべきかを考えることは非常に重要になってきます。せっかくの支援が支援にならないようになっては絶対にいけないと思います。これからの被害者支援は支援をする人の気持ちを活かし、有効な支援に結びつけるとともに、更に発展させていくことが重要なことではないかと思っています。

 次に犯罪被害に遭った少年、そしてその兄弟たちの問題について親としての立場からお話をさせていただきたいと思います。

 犯罪被害に遭った少年及びその兄弟たちの問題に関しましては、犯罪被害者を取り巻く多くの問題の中でも今までは余り取り上げられていなかった問題ではないかと思っております。この兄弟たちの問題についてですけれども、通常は兄弟間での想いや、第三者の大人がこれらの兄弟たちの精神的ケアを十分に考慮することもせずに対処することによる更なる被害、二次被害について語られることが多かったのではないかと思います。

 今日は親としての立場から犯罪被害に遭った子供、そして遺された子供への想いについて、そしてこれからの子供たちにおける問題点について私の経験からお話をさせていただきたいと思います。

 私の次男の場合ですが、事件に遭ったこと以外に知的発育障害という問題がありました。知的発育障害は程度には差がありますけれども、かなりの割合で発生します。そして、その多くは原因が不明です。当然ですけれども、子供がそのような状態と分かったときの両親の精神的な状態というのは非常に混沌としたものになります。本日、まず次男の誕生から事件発生までの状況について、私たち夫婦の心の動き、葛藤も含めてお話をしたいと思います。そして、次に事件の発生からその経過について、更にその後の状況についてもお話をしたいと思います。

 1986年2月10日に、私たち夫婦の次男は生まれました。次男の身体的な発育は順調で、歩けるようになったのも1歳前であり、特に問題はありませんでした。しかし、だんだん言葉の発育が遅い傾向が見え始めました。幼稚園は地元の幼稚園に入園しましたけれども、そのときは既に他の子供に比べ、言葉の発育については明らかな差が生じていました。

 個体差にしてはちょっと差が大きい、そういうことは私も医師をやっておりますので分かっていました。しかしながら、人間というものは、多くの人がそうではないかと思いますけれども、悪いことは否定したいという想いが強いのではないでしょうか。他の子供と比べて言葉の発育は遅れている傾向はあるけれども、運動能力は問題がないし、徐々に追いついてくるのではないだろうかというふうに無理に思おうとしているところがあったかもしれません。

 専門医の診察も受け、「経過観察」という経過でしたけれども、その後も特に改善は見られず、他の子供たちとの発育の差は徐々に広がっていきました。やがて、みんなが小学校に入学しましたが、言葉自体の発育が遅れていた次男には、学校の授業はとても理解できるものではなかったと思います。次男が小学校2年のときに、仲良し学級がつくられまして、次男もそこに所属して勉強を始めました。他の子供たちと同じ授業では理解することができませんし、その意味では次男にとっても非常に良いことだというふうに思いました。

 子供が知的発育障害であると分かったとき、親として考えることは、どのようにして教育していくのか、どのような環境をつくってやる必要があるのか、今後はどのようにしていけばよいのか等だと思います。そして、自分たちでできること、行政に頼るべき部分等、関係者に相談しながら進めることになります。これらのことにつきましては、理性的に考えることができますし、理性的に進めていくことも可能だと思います。しかしながら、自分たちの子供が知的発育障害であるということを自分自身の気持ちの中にすんなりと受け入れることができるかということは全く別の問題です。

 私の場合は、この事態を受け入れるのに随分時間がかかったことを覚えております。やはり、「なぜ、自分たちの子供が」「この子の将来はどうなるんだろう」とか、そういう思いが頭の中を駆けめぐりました。もちろん、私は次男のことを心から愛しておりましたし、大事に思っておりました。しかしながら、次男への愛情とこの現実を受け入れることができない気持ち、この心の葛藤はなかなか収まりませんでした。

 次男の状況を受け入れるのには時間はかかりましたけれども、親としてするべきことについては理性的に進めていけたと思っております。学校の先生方とも相談しながら、次男にとって良いだろうと思うことはほとんど行っていました。私の妻は私とは異なり、穏やかな性格で、ヒステリックになることもないような女性です。次男に言葉の発育が遅れているのではないか、ということが分かったときも、特に慌てた様子は見せませんでした。非常に淡々と対応しているように思いました。私と同じように心の葛藤は非常に大きかったと想像するのですけれども、私とは異なりまして、表には一切出さないタイプの人間でした。それだけに次男に対する想いは非常に強いものがあったのではないかと思います。

 私たちの長男の場合も、弟が知的発育障害であるということを受け入れるに当たっては、私たち親とは違った葛藤があったのではないかと想像しています。長男は弟のことを本当に可愛がっていました。次男も「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言って、本当に慕っていました。言葉の発育が遅れている次男が自分の思いを言葉にして伝えられなくて、それで苛立つことが時々ありましたけれども、そのようなときに一番次男の思いを理解していたのは長男ではなかったかと思います。小さいときは分からなかった発育の遅れも成長につれてはっきりとしてきます。自分も成長しながら、2歳年下の弟の発育の遅れを受け入れていったのではないかと思います。

 そして、長男の場合には、他に違った意味での影響がありました。昨今、特に問題になっております「いじめ」の問題です。みんなと少しでも違っているところを探して、そのことでいじめの対象にする場合があります。私の長男には、身体的な異常はありませんでしたけれども、弟が知的発育障害であるということで、いじめの対象にされました。長男が小学校のときからあったようですけれども、特にクラスで成績のよい子供たちが中心になっていじめていたようです。長男が中学校に進学してからもいじめは続き、中学校1年生のときは最もひどかったようです。余談ですけれども、そのときにいじめていたグループの中の一人が加害男性の弟でした。

 私の長男はそのような理不尽ないじめに何とか耐えましたし、そのことで弟につらく当たるようなこともありませんでした。今から考えますと、彼なりによく頑張っており、優しいお兄ちゃんだったと理解できます。次男も小学校6年生になるときには少しずつですけれども、成長の跡が見えるようになってきていました。「陶芸なんかはどうかな」と妻は次男の将来についてそんなことを考えていたようでした。親がいなくなったあと、どうすれば次男は自立ができるのだろうか、私も妻も漠然とそんなことを考え始めていました。次男の将来について、親としてどうしてやれば一番良いのかを考えなければいけない時期になってきておりました。

 そのようなときに、あの忌まわしい事件が発生いたしました。

 次男が失踪後、事件発生までの3日間、私たちは寝る間を惜しんで次男を探し回りました。そのため、事件発生時に本当に疲れており、精も根も尽き果てた状態でした。事件発生当日は、残された3人の家族で本当に久しぶりに一緒に寝ましたけれども、とても眠れるような状態ではありませんでした。この先々のことを想像することも全くできないような状態でした。家族3人それぞれが家族のことを考え、思いやり、必死で頑張ろうとしていたと思います。私自身は自分が頑張らなくてはいけない、妻や長男を守らなくてはいけない、そして次男を殺害した犯人にも負けてなるものか、本当に気負っていたと思っています。しかしながら、そのようにピンと張りつめた精神状態が何事もなく続くはずがありません。逆探知グループの方々が自宅に滞在しているときはまだいろいろと相談ができたこともあり、何とか破綻するところまではいきませんでした。しかしながら、犯人が逮捕され、逆探知グループの方々も去り、私たち家族の3人の生活が始まってからが非常に厳しい状況だったと思います。

 当初の私たち家族3人の生活ですけれども、家の中の雰囲気は、当然のことですけれども、明るいわけはありませんでした。私自身は自分が頑張らなくてはいけない、そういう気持ちが先に立ちすぎていたと思います。そして、精神的にもギリギリの状態だったと、振り返って考えればよく理解できます。このような状態のときというのは、自分自身では周りのことを考えているつもりでも、心に余裕がないため、大事なことが見えなくなってしまい、大きな失敗を犯してしまうことがあります。

 家族3人での暮らしが始まってしばらくした頃、7月の末頃だったと思いますけれども、私たち3人はそれぞれがピンと張りつめた、本当にギリギリの精神状態で生きていくために頑張っていました。笑い声もありませんし、本当に寂しくて、つらい生活でした。私たちの長男は中学校2年生と、まだ精神的にも肉体的にも発育段階のときに自分の能力以上の精神的な圧力に一生懸命耐えていたと思います。心に余裕がなくなっていた私は、子供のそのような状況を酌み取ることができませんでした。ある日、私は些細なことで子供に怒ってしまいました。子供のピンと張りつめた気持ちがその言葉で切れてしまったのだと思います。「こんな家、嫌や」と言って飛び出してしまいました。私はその瞬間、しまったと思いましたけれども、後の祭りでした。私は担当していた警察の方々にも協力していただいて、近所を探し回り、やっと本屋に子供を見つけたときには、私自身、ホッとするとともに自分が情けなくなってしまい、涙が出そうになりました。このときは自分でも反省したのですけれども、またそれ以降にも同じような失敗をしてしまいました。そのときは、本当に自分自身に腹が立つと同時に、最低の親だなというふうに自分を責めていました。あとから振り返るとよく分かるのですけれども、本当に心に余裕がなかったと思います。頑張りすぎる部分を少し減らしてでも、特に子供のことについてはもっと気をつけてあげるべきだったと強く反省しています。

 私たちの子供の事件の発生後にも、子供が被害者になる悲惨な事件が多数発生いたしました。そのような事件の報道を見たときに、私はいつも自分が犯した失敗のことを思い出していました。特に、殺害された子供に兄弟、姉妹がいる場合には、人ごととは思えず、両親はちゃんと対応できているのかと陰ながら心配しておりました。

 今日、このあとに行われるパネルディスカッションに御手洗さんがパネリストとして参加しておりますけれども、御手洗さんの妹さんが命を奪われた事件の報道を見たときにも、これはいけないというふうに私は思いました。皆さんも御記憶の方が多いのではないかと思いますけれども、御手洗さんのお父さんは新聞社の記者をしておりました。その関係だとは思うのですけれども、事件直後にもかかわらず、マスコミのインタビューを健気に受けておりました。この報道を見たときに、私自身の失敗の経験とも併せて考えて、こんなことをしていると精神がもたないし、絶対に残された子供への対処が不十分になる、特にその点において危惧いたしました。

 私は、余計なお世話かなと思いましたけれども、御手洗さんのお父さんに手紙を書きました。住所も当然分かりませんでしたので、私が知っていました同じ新聞社に勤務する記者にお願いして、直接渡してもらいました。私からの手紙ということで、なかなか読んでもらえなかったようですけれども、内容としましては、命を奪われた娘さんの御冥福を祈っているということと、残された子供さんのことに気をつけてあげてほしい、そういうことのみでした。この手紙が役に立ったかどうかは分かりませんけれども、事件後の親の精神状態というものは本当に脆弱なもので、頑張っているようでも、特に子供についてはその変化が見えていないことが本当に多いのではないかと思います。

 ここで少年事件について考えてみたいと思います。被害者が少年であれば、発育過程にある未成年の兄弟がいる可能性は非常に高いと思います。これらの被害を受けた少年の数は、統計はされていないでしょうけれども、現実的には加害少年の数よりも多いのではないでしょうか。例えば、私たちの子供の事件の場合、加害少年は一人ですけれども、殺害された少年は2人、重傷が1人、軽傷が2人、それに兄弟を加えると優に10人を超えてしまいます。加害少年は法律によって厚く保護され、守られています。国の加護の下に更生という名の道を進み、勉強することも職業訓練を受けることもできます。しかしながら、被害者の未成年の兄弟たちの現状はどうなっているでしょうか。

 私たちの場合も、長男がいました。長男は事件当時、13歳であり、非常に多感な時期でした。日頃から可愛がっていた弟があのような形で命を奪われたわけです。頭部が置かれていた中学校は、犯人の少年が通っていた学校であると同時に、私の長男が通っていた学校でもあります。しかも、犯人は長男より学年が1年上というだけではなく、クラブの先輩でもありました。非常に精神的に厳しい状態だったと思います。

 そのような状況の中で、学校に通うことができるでしょうか。よほどのスーパーマンでもない限り、絶対に不可能なことです。私の姓が変わっていることもあり、引っ越しをしてもすぐ分かりますし、転校もできない状況でした。

 中学校の先生は、彼らのできる範囲の中ではよく対応していただきましたけれども、学校に行けないことには変わりはありませんでした。授業を受けることができませんでしたので、家庭教師を雇い、勉強するようにはしましたけれども、当然、成績は落ちますし、出席日数も足りませんでした。そのため、公立の高校には行けませんでした。自宅からかなり離れた私立の高校に行きましたけれども、3年間、学校まで私が車で送りました。

 問題は教育上のことだけではありません。精神的にも肉体的にも発育途上にあり、また感受性の高い時期に兄弟が悲惨な事件に遭ったとすれば、それは大人とは違った意味で、非常に大きな精神的ダメージを受けます。それに対して親だけで対処することは極めて困難なことです。その症状も、もちろん親が気付いていないこともあるとは思いますけれども、事件直後から症状が出るのではなく、ある程度、時間が経過してから出てくるようなことも多いと思います。その上、特に事件直後は親たちも家族を守るために非常に頑張っており、精神的にも全く余裕がない状態で、子供のことを見ているようでちゃんと見ることができていない、ということがほとんどだと思います。

 先ほどもお話ししましたけれども、私の場合も同様な状態で、家族を守らなければいけない、加害者やマスコミに負けないと心に決めて頑張り続けておりましたので、本当に精神的にも厳しい状態が続いていました。そのために私自身も子供の精神的ダメージについて十分な気遣いができていませんでしたし、そのため、気付くのが遅れてしまいました。

 そして、子供に精神的ダメージの症状が出たときには親だけで対処することは非常に困難なことが多いと思います。そのときに相談できる児童精神医学の専門医や臨床心理士の存在は非常に重要であると思います。私たちの場合、この問題で救いになったのは、私の仕事の関係もありまして、児童精神医学の専門医を紹介してもらえたことでした。私自身が長男に対する悩みを相談することができましたことは非常に心強いことでした。このように犯罪被害を受けた少年及びその兄弟姉妹における非常に重要な問題として、学校に通えなくなる少年たちの教育の問題と、彼らに対する精神的サポートの問題があると思います。これらの問題の解決法はそれほど簡単なことではないと思います。

 教育の問題についてですけれども、学校に通えなくなった少年に対して、授業に関しては学校ができることはほとんどありません。確かに、自宅に様子を見に行ったり、話を聞いたり、励ましたりすることはできるでしょうけれども、少年の自宅で勉強を教えることはできません。学校に通えないということは、他の少年たちと比べて勉強が遅れてしまうということにつながります。通えない期間が長くなればなるほど勉強も遅れますし、学校に復帰するためのハードルが、時期が遅れるほど高くなっていきます。

 先ほどもお話ししましたけれども、私たちの長男の場合は家庭教師を雇って主要科目だけでも勉強するようにしました。主要科目だけでも最低限の遅れで抑えることができれば、学校に復帰できたときの遅れも最小限で済むのではないかという考えからです。また、出席日数の関係で公立高校には入学することは困難かもしれませんけれども、受験科目の少ない私立の高校であれば入学できるのではないかというふうに考えたからです。

 私たちの場合は家庭教師を雇うことができましたので、最低限の勉強をさせることはできたとは思います。しかし、このようにできる家庭はやはり多くはないと思います。先ほど地方公共団体の支援条例についてお話をしましたけれども、私が居住する神戸市は、今年6月に犯罪被害者等支援条例を改正しまして、教育支援の項目を付け加えました。このあとのパネルディスカッションで神戸市の服部さんが詳しく説明されると思いますので詳細は省きますけれども、被害に遭った少年に対する全国で初めての実効性を伴った教育支援条例だと思います。金額等はまだ十分と言えるほどではありませんが、3か月程度の家庭教師を付けることができれば、かなり勉強の遅れを抑えることができると思います。服部さんはじめ担当された方々が被害者の話に耳を傾け、今の枠組みの中でできることはないかと一生懸命考えていただいた結果だと思っています。教育に対する支援については、リタイヤしたOB教師の活用等も含めて公的な支援をぜひとも考えてほしいというふうに思っております。

 精神的なサポートについてですけれども、被害に遭った少年へのサポートという場合は、通常は少年本人へのサポートを指すと思います。しかしながら精神的に全く余裕がなくなっている親のサポートも、実は間接的ではありますけれども、これも少年へのサポートにつながると思います。

 私の失敗を思い出していただければお分かりになると思いますけれども、精神的な余裕を失っている親は、自分たちの子供への注意が非常に散漫になってしまい、子供たちの重要な兆候を見落としてしまうことにつながり、状況によっては回復を遅らせてしまう結果になってしまうと思います。そのため、親への精神的サポートは子供へのサポートを考える上で、実はかなり有効な対策ではないかと私自身は考えています。

 精神的なサポートの重要性は、皆さんも御理解いただけると思うのですが、次に問題になるのが、一体、誰がその精神的なサポートを行うのか、ということだと思います。臨床心理士や精神科医であれば誰でもいい、というわけではありません。スクールカウンセラーをしている臨床心理士であればできる、そういうものでもありません。被害者、特に精神的にも肉体的にも発育途上にあり、非常に感受性の高い時期に大きな精神的ダメージを受けた被害少年に対するサポート、これをするためにはそれに応じた研修を受け、十分なスキルを身に付ける必要があります。

 「精神的なサポート」と口で言うのは非常に簡単なのですけれども、実際に行うに当たっては、人材の養成から考えていかなければいけません。人材の養成というものは一朝一夕でできるものではありません。時間も資金も必要ですし、そして「そういうサポートをしたい」という心ある人たちがいなければ成り立ちません。

 被害に遭った少年たちの必要な支援について話をしましたけれども、現時点では彼らには公的な支援は全くないのと同じような状態です。行政からは完全に見放されており、自分たちの力だけでどん底の状態から立ち直らなければいけない、それが現状だと思います。第3次基本計画ではやっと被害少年たちへの精神サポート体制整備についての記述が入りましたけれども、まだまだ十分であるとは言えないと思います。被害者の兄弟たちに対する公的な支援はぜひとも必要なものであり、体制を早急に整備してほしいと切望しております。また、民間の支援センターは、これらの支援においても重要な役割を担うことができるものではないかと期待しております。

 さて、本年6月3日の最終大会をもちまして、全国犯罪被害者の会「あすの会」が18年に及ぶ活動を終了して解散いたしました。「あすの会」は2000年に、当時、何の権利もなかった被害者の権利を確立するために、元日弁連の副会長の岡村勲弁護士を中心として設立されました。私は解散時には副代表幹事をしておりましたけれども、当初からの設立メンバーではありません。光市の本村君とはお互いの事件の担当刑事の橋渡しがありまして、電話で話をしたことがありました。あの苦しい状況の中、本村君が頑張っているのに、自分はこのままでいいのか、何か手伝えることがあるのではないか、また、何かをしなければいけないのではないかという気持ちになり、「あすの会」に参加することにしました。

 岡村先生やメンバーたちと活動しているときは、ただ一生懸命やっていただけで、その活動の成果がどれほどすばらしいものであったかということは十分には理解していなかったかもしれません。「あすの会」が解散するに当たり、「あすの会」の活動とその成果を振り返ってみたときに、初めて「あすの会」が成し得たことのすばらしさ、すごさを理解したように思います。

 「あすの会」設立当時は、被害者を取り巻く状況は極めて悪く、権利はないのと同じ状況でした。「あすの会」はヨーロッパの主要国に調査団を派遣して、ヨーロッパでの被害者の状況の調査を行い、そして公訴参加、付帯私訴の実現を目指した署名活動等の活動が実りまして、2004年12月に、先ほど紹介がありましたけれども、犯罪被害者が求めてやまなかった犯罪被害者等基本法が超党派の議員立法で成立しました。この法律に基づいて、2005年12月には基本計画が閣議決定されました。やっと犯罪被害者に対する施策が大きく進み始めたのではないかと思います。

 2007年には「あすの会」が署名活動を行った重要項目である公訴参加、付帯私訴を実現した被害者参加制度、賠償命令を盛り込んだ刑事訴訟法の改正が成立し、2008年12月から実施されまして、被害者にとって大きな権利の獲得へとつながりました。2008年には犯罪被害者等給付金法と少年法が改正され、少年審判において被害者の審判傍聴が可能になりました。2010年には殺人事件における公訴時効が廃止されました。

 被害者問題においてはまだまだ課題は多く残されていますけれども、2000年当時から考えますと、犯罪被害者を取り巻く環境は劇的に改善されたと思います。しかしながら、「あすの会」のほとんどのメンバーは「あすの会」の活動で得られた、この成果の恩恵を受けていません。事件当時、自分たちが抱いた悔しい気持ちを考え、次の被害者が自分たちと同じ思いをしないように、という思いで頑張ってきたことにつきましては、メンバーはそのこと自身、誇りに思っております。

 犯罪被害者問題については、まだまだ課題が多く残っていますけれども、「あすの会」のこの18年間で犯罪被害者問題において、大きな幹の部分はつくったのではないかと思っております。枝葉の部分については、今後は、支援者や自治体の関係者等含めて、改善に努めていただきたいと思います。そして、私自身といたしましても、できる範囲で訴え続けていきたいというふうに思っております。長い時間、御清聴、ありがとうございました。

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