中央イベント:基調講演

「少年犯罪で息子を奪われた母の想い」

武 るり子 (少年犯罪被害当事者の会代表)

 こんにちは。初めまして。今紹介していただきました武るり子といいます。本日は、犯罪被害者週間中央イベント開催、本当におめでとうございます。私はこのイベントに参加ができることを心から喜んでおります。それだけで胸がつまる思いです。今日は一生懸命、話をしますので、どうぞよろしくお願いします。

 今日は、私が話をする前に、私たちの会で作っていますDVDの映像を先に少しだけ見てもらいたいと思います。ではお願いします。

<ビデオ上映>

 ありがとうございました。私たちの会は1年に一回だけ集まりをしています。そのときの名前を「WiLL」とつけています。今の映像はそのときの最初に流していますプロローグです。

 なぜ私が「WiLL」という集会をしたいと思ったかと言いますと、社会で大きく扱われた事件であれば、あの事件から1年たちました、2年たちましたと思い出すことがあると思いますが、私たちの会員の人の事件は、みんなではありませんが、ほとんどが地域で起こる普通の事件として扱われます。そういう事件はどのような扱いかというと、地方の新聞では一回載るか載らないかです。新しい事件が起こると前の事件、古い事件としてすっかり忘れられてしまうのです。

 私は、そのような忘れられた子供たちを、1年に一回でいいから主役にしたいと思いました。その子たちのために過ごしたいと思って作ったのが、この「WiLL」という集会です。

 私の息子は今から21 年前に、少年犯罪で命を奪われました。私は21 年前、日本中を探しました。私のような遺族が集まるところがないか、話をするところがないか探しました。でも当時は、私たちのような少年犯罪に遭った人達だけで集まる場所はなかったのです。それだったら私は同じような思いの人を探そうと思い、一所懸命探しました。1年掛かりました。そしてようやく4家族が知り合ったのです。

 最初から会を作ろうと思ったのではありません。とにかく話がしたいと思って大阪で4家族が集まったのです。最初の家族は、沖縄の石垣島の人が2軒、岡山の人が1軒、そして私が大阪の4軒でした。そして、大阪で集まったとき、一生懸命みんなで時間が足りないくらい話をしました。それで共通することがたくさんあると初めて気が付いたのです。それぞれ別の場所で暮らしているので、自分だけがひどい扱いを受けているとか、自分だけが大変な思いをしていると思っていたのですが、共通することもあると気が付いたのです。

 もちろん子供を殺された思いは似ていました。それから、法律が関わると気が付いたのです。それが少年法でした。私たちが苦しかったのはこの壁があるからだと気が付いたのです。例えば、加害者の名前を教えてもらえない。事件の内容を教えてもらえない。当時はまだ少年法が改正になっていなかったので、何も教えてもらえませんでした。なぜですかと聞くと、「少年事件だからですよ」。それだけを言われていたのです。自分たちだけがそのような扱いを受けていると、法律のことを深く知らないので思っていたのですが、共通するんだね、では話をしていこう、ということになりました。自分たちは法律のことを勉強したわけではないから、法律のことをどうのこうの言うことはできない。でも、自分たちの経験は話せるということになり、必要に迫られて会が生まれたのだと私は思っています。それが「少年犯罪被害当事者の会」です。

 そして私が連絡を取っていたので、自然とうちが事務局になり、私が代表になったのです。事務局といっても、会の電話と家の電話を分けているだけの、家の中でやっている事務局です。今も同じです。そして、せっかく会を作ったのだから、何かしたいと、主人と話していましたが、何をしていいのか分かりませんでした。見本がなかったのです。

 そんなときに知り合ったのが、若い学生さんたちでした。家の会の電話番号をオープンにして、どこにでも載せてもらいました。それから、ホームページを立ち上げました。今は珍しくないですが、20 年ぐらい前のことで、とても珍しく、それだけでニュースにしてもらいました。そのホームページを見たり、何かの記事を見たりした若い学生さんが連絡をくれるようになったのです。最初はグループの代表の学生さんから電話がありました。私が電話を取ると、一生懸命話を聞くのです。その一生懸命さで私は話をしたのですが、最後に「武さんたちの話をもっと詳しく聞きたいです。行ってもいいでしょうか」と言いました。でも、私が遺族だからすごく気を遣っているのが分かりました。話を聞きたいけれども、もしかしたら自分たちが失礼なことを言うかもしれない、傷つけることがあるかもしれない、でも行きたいと言うのです。中には、興味半分と思ったら武さんがまた傷つく、でも、行きたいと言う人もいました。

 私と主人は最初から、興味半分でも構わない、入口は何でも構わないから、話を聞きにおいでと言いました。今でも毎年何人かの学生さんが話を聞きに来ます。興味という言葉だけを取ると、すごく悪く聞こえますが、興味も関心も、何も感じない方が悲しいと、私たち二人は思ったのです。だから入口は何でも良かったのです。

 その学生さんたちが恐る恐る家に来ました。最初は10 人近くの学生さんたちでした。そして、一生懸命話を聞いてくれました。私たちと一緒に泣いてくれる学生さんもいました。その学生さんたちが熱心なので、私と主人は一生懸命何時間も掛かって話をしたのです。学生さんが帰るときに、私は「外国には遺族が集まる場所がたくさんある。でも、日本にはまだない。何かをしたい」と言いました。すると、その中の一人の学生さんが「武さんたちがしたいと思うことのうち、自分たちができることは手伝います」と言ったのです。そのたった一言に後押しされて作ったのが、「WiLL」という集会です。

 学生さんと作っています。見本がないので手探りです。横断幕はどうしようとか、献花はどうするんだろうとか、内容はどうしようか、それも全て、学生さんと話し合って決めてきました。そして、今年で19 回目を迎えることができました。その学生さんが手伝ってくれているから、「WiLL」は続けてこられたのです。

 私は、被害者支援という言葉が最近はいろいろなところで聞こえてきてうれしく思っています。でも、被害者支援と聞くと、被害者に関わるのは難しいと思うと思います。もちろん難しいこともたくさんあります。でも、私は、誰でもできることがあると思うのです。それは、この学生さんの姿が原点だと思うからです。できることを、できる人が手伝ってくれています。それも、できる限り長く関わってくれています。一回目から関わっている人は、もう20 年ぐらいの付き合いになっています。今は社会人になっていますが、今でもWiLLに来たら、スタッフとして手伝ってくれているのです。卒業後、しばらく来られなくなっても、また来られるようになったら来てくれたり、とにかく割と長く関わってくれています。私は、この子たちの姿が原点だと思うのです。良かったら一度、見に来てください。WiLLは大体10 月体育の日のある連休の日曜にやっています。大阪でやっているのですが、観光を兼ねても構いません。良かったら見に来てほしいです。もちろん遺族の話も聞いてもらいたいです。でも、陰で一生懸命、黒子に徹して動いている、この学生さんの姿を見に来てほしいと思います。

 WiLLはオープンにしています。私と主人は、会を作る前から何もかもオープンにしようと決めていました。どういうことかというと、私と主人は、被害者感情が強いです。多分人一倍強いと思います。加害者が憎い、許せない。一生この強い思いを抱えると思います。私はこの被害者感情はすごく大事だと思っているので、大切にしたいと思っています。でも、外に向けて話をするとき、法律のことを言うとき、制度のことを言うとき、そして、一般の人たちに理解してもらおうと思って話をするとき、それだけではいけないと、主人と話をしていて、何もかもオープンにすることを決めていました。遺族だけで集まってしまったら、間違った方向に行っても気が付かない怖さがあると思ったのです。だから、会を作るときから、いろいろな人に入ってきてもらっていました。若い人もいて、私の近所の人もいて、マスコミの人もいて、その中で会も作ったのです。何もかもオープンにしています。

 いつも言っていることがあります。まず、話を聞いてくださいとお願いして、一緒に問題を考えてくださいとお願いしています。もう一つ大事なことは、私たち遺族が、もし間違っていることを言っていたら、「それはおかしいんじゃないですか」と、ちゃんと教えてくださいと言いながら、オープンにしているのです。でも、遺族の人、参加をしている人の中に顔を出せない人、名前を出せない人は必ずいます。それにはちゃんと配慮していますので、安心して見に来ていただきたいです。

 私は、現在も少年犯罪被害当事者の会の代表をしています。気が付くと会を作って20 年になります。今ではこうしていろいろな所に出掛けていって話をしています。先ほども言いましたように、国会の中の法務委員会で参考人にもなって話をしてきました。どうしてもそういう公の場所に行くと、行く前からいろいろなところに名前が書かれます。会の名前が出て、代表、武るり子といろいろなところで言われます。それだけで、凄いイメージを持たれてしまいます。

 21 年たった今でも、「武さんって活動家ですか」と聞かれます。「今までも活動していたのですか」と聞かれることがあるのですが、私は活動家でも、活動していたわけでもありません。専業主婦なのです。専業主婦といっても、実は、こうして人前に出るのはとても苦手な性格です。子供の頃から発表は苦手でした。人の前に出ることはできない性格なのです。引っ込み思案なのです。それから、小心者でもあります。でも、そんな私が、こんなに苦手なことなのに、なぜこの21 年間続けてきたかというと、21 年前の社会は、私たちのような犯罪被害者のことは全く考えてはいませんでした。法律、制度も整っていませんでした。守ってくれるものが何一つありませんでした。だから、声を上げざるを得なかったのです。それからもう一つ、やはり大切な息子のことだったから、続けてこられたのだろうと自分で思っています。

 私と主人は、事件と分かった直後から、声を上げました。事件と分かったときに主人が私にこう言ったのです。「俺たちは見世物パンダになってもいいな。プライバシーも何もないぞ」と。とにかくこんな理不尽なことがあってはいけない。言っていこうと言ったのです。まだその頃は法律のことが分からないので、何も悪いことをしていない、殺される理由がないのに、殺されている。こんな理不尽なことがあってはいけないということで、とにかく声を上げようと主人が言ったのです。都合の良いことだけを言っても伝わらないから、全てをさらけ出して話をしようと言い、その覚悟はあるかと事件直後に聞かれました。私は「はい」と答えて、この21 年間、全てをさらけ出して話をしてきました。これからも変わりません。

 でも、当時、そんな思いで一生懸命声を上げても、どこも私たちの声を拾ってはくれませんでした。マスコミにも情報を自分で流しました。当時はファックスしかないので、ファックスで流したのですが、相手にしてもらえませんでした。多分、私たちの息子の事件は、特殊性、話題性がある事件ではなかったし、社会的に大きな影響力があるような事件ではなかったということも、大きな理由だったようです。後で分かりました。

 もう一つ、当時は、少年犯罪に遭った被害者のことを取り上げるのは難しいとはっきりいわれました。私たち遺族が声を上げたら、加害者の更生の邪魔になるとも言われたのです。私たちは加害者のことをどうのこうの言っていたのではないのです。なぜ、私たち親に、大切な息子のことなのに、事件の内容を教えてくれないのですかとか、なぜ加害者の名前を私たちに教えてくれないのですかということを言いたかったのですが、声を上げる前から蓋をされて、どこにも相手にされませんでした。でも、私たち2人は諦めませんでした。ずっと頑張って言い続けたのです。

 そこでも決めていたことがありました。どんなにひどい扱いを受けても、自分たちはルールを守ろうと。そういうことはしっかり決めていたのです。加害者のようになっては絶対いけないという思いがあったので、ルールを守りながら頑張ろうと決めたのです。例えば東京に出かけても、ルールを守るので、手を挙げても指してもらえなければ言えないわけです。何も言えず帰ったことも何回かあります。歯がゆい思いもたくさんしたし、悔しい思いもたくさんしたのですが、とにかくルールだけは守って、頑張ろうと決めたのです。

 今考えると、それは良かったと思います。なぜなら、この21 年間で社会が変わったからです。だから、諦めずに頑張り続けてきて、そして、ルールを守ったことも良かったと今は実感しています。ですから、この犯罪被害者週間ができたときは本当にすごいと思いました。各地でいろいろなイベントが開かれています。本当に21 年間で変わったのだと、どこに行っても実感しています。それだけで胸が熱くなってしまいます。

 でも、もう一つ思うことがあります。21 年前にこんなふうに社会に理解があったり、法律、制度が私たち家族をもっと守ったりしてくれていたら、私たち家族はあれほど苦しい思いをしなくて済んだのではないかと。当時、地獄のような思いをしましたのでどうしてもそう思ってしまうのです。だから私はこうして話をするたびに、複雑な思いを抱えながら足を運んで話をしています。私にとってとても大事な時間です。でも、これから話をする内容は、重くてしんどいものになってしまいます。だから、少し肩の力を抜いて聞いてもらえたらいいかなと思います。

 その前に、私は犯罪被害者になって、まずびっくりしたことがありました。偏見があることが分かったのです。被害に遭うだけで言われるのです。見られるのです。それなりの生活をしていたから被害にあったのだろうと。それまでも犯罪に関わっていたのではないかなどと、言われたり見られたりするのです。私たちの場合、少年犯罪で、加害者が少年です。先ほど紹介したように、子供たちが被害に遭っていることが多いのです。そうなるとどう言われるかというと、けんかだと簡単に言われるのです。当時、私たちの頃は、会の人達みんなが、けんかという報道をされているのです。一方的でも、リンチでも、集団暴行でも、けんかという報道をされてしまうのです。だから、どっちもどっちだと言われてしまうわけです。それは遺族にとってはとてもつらいことです。

 殺される理由などない。それだけで理不尽なのです。かわいそうでならないのです。でも、その上にけんかだと言われると、名誉まで傷つけられているとどうしても感じてしまうので、殺された子供がかわいそうでならないのです。でもそういうことは何一つ考えられていませんでした。けんかと報道されたままになってしまっていました。

 そうすると、どんなことが起こるかというと、ある家族が事件の内容を知るために、民事裁判を起こしたとき、あそこの家はけんかなのに金まで取るのかと言われたそうです。そんなふうにいろいろなところに影響が行くのですが、そういうことは何一つ考えられていなかったのです。今でこそ気を付けてくれますが、まだまだ間違った報道はあります。

 女の子が事件に遭っている人もいます。そうなると、面白おかしく報道されてしまうことがあります。新聞、テレビだけでなく週刊誌もあります。本当にひどい内容が出てしまうのです。事実とは全く違うことも出てしまいます。それは違うと遺族の人が言えればいいのですが、言う力がないわけです。そのままになってしまいます。そうすると、周りでうわさが流れてしまうわけです。とてもつらい思いを今も抱えている人がいるのです。

 今は情報社会です。例えば、情報が流れてきます。これはいじめの問題にもつながるのですが、うわさが流れてきます。それが間違っていても、大きくて強い声に、みんなが流されてしまうのです。その怖さがあります。だから私は思うのです。これは子供たちにも話をすることなのですが、見る目を持っていただきたいのです。考える力を子供のときから持ってもらいたいのです。うわさが流れてきても、情報が流れてきても、これが本当に、ちゃんとした正しい情報なのかどうか、しっかり見る目、考える力を持ってほしいと思うのです。そうしたら、いろいろな偏見、そしていじめ問題にもつながるのですが、そういうことも少しは解決に向かうのではないかと私は願っています。

 いろいろな遺族の人と知り合って、私は思いました。正直で、真面目で、おとなしい人は声を上げられないのです。そういう人が小さくなって生きているのです。何も悪いことをしていないのに、地域で心細い思いをして生きているのです。私は、この国は守らなければいけない人が守られていないという現状をたくさん見てきました。だから、守らなければならない人が守られるようになってもらいたいと願っています。

 息子との16 年間を少し話していきます。私の息子は、今から21 年前の16 歳のときに、同じ16 歳の見知らぬ少年たちに因縁をつけられ、何度も謝っているにもかかわらず、追い掛けられ、一方的な暴行で殺されました。私は、自分の息子がまさかこんなことで親より先に死んでしまうなどと思ってもみませんでした。それまで多くなっている少年犯罪のニュースを見ていても、かわいそうだなとか、大変そうだなとか、他人事としてしか考えていなかったのです。そんな我が家に突然事件が降りかかりました。

 私は1955 年、主人は1948 年、同じ鹿児島で生まれました。そのあと別々に大阪に引っ越していて、1976 年、私が21 歳、主人が28 歳のときに結婚しました。現在私は62 歳、主人は69 歳になりました。結婚して1年余りで妊娠しましたが、10 か月間おなかの中で育った子供は死産でした。私はそのときのショックで、なかなか次の子供を産む気になれませんでした。でも、ようやく産む決心をして、生まれてきたのが事件に遭った長男孝和でした。1980 年10 月のことでした。待ちに待ってできた子供でした。心の底から幸せだなと、本当に実感できた誕生でした。主人もうれしさの余り、雨の中を泣きながら、田舎のおばあちゃんに連絡をしたと聞いています。

 その後、私たちは、1984 年に長女が生まれ、1987 年に次男が生まれ、3人の子供に恵まれました。長女が生まれた頃、独立したばかりの内装業の仕事で、生活はとても苦しく、食べたいものも食べられないこともありましたが、3人の子供たちの成長を楽しみに頑張りました。その頃は二間のお風呂のない長屋に住んでいました。狭い部屋なので、家具は最小限にしていました。子供のベッドも手作りで、食台や棚、ほとんど主人が作ったものでした。

 その中で一つ、部屋に似合わない立派なものがありました。それはビデオのセットでした。ビデオカメラもありました。長男が1歳のとき買ったものでした。今から36、7年前のことです。今は珍しくないですが、その頃、持っている人はまだまだ少なかったです。主人が息子の思い出を残したいという強い思いで買ったものでした。買ったことに、もう一つ理由がありました。息子が生後11 か月の頃、血友病と分かったからでした。ふだんでも子煩悩な主人でしたから、より思いが強かったのだと思います。血友病という病気は血が固まりにくい病気です。軽症ではありましたが、やはりその病気を一つ持っていたので、息子とは体の話や、守らなければいけない命の話などを、割とする方でした。だから、自分の命の大切さも、人の命の大切さもよく分かっている息子でした。

 そんな息子の命を突然一方的な暴行で奪われたのです。相手は息子と同じ16 歳で、全く面識のない見ず知らずの少年たちでした。その日は、高校1年生だった息子の高校の文化祭でした。いつも朝寝坊の息子が、自分で起きて、慌ただしく着替えをして、朝ご飯も食べずに、うれしそうに、楽しそうに、急いで出かけていったのでした。それまで子供たちの行事には、必ず参加していた私たちでしたから、主人は文化祭に行こうと思って準備をしていました。でも私は、親が来るのを恥ずかしがる年頃だったのと、高校生になり、ほっとしていたので、少し距離を置いてみようよと、文化祭を見に行かなかったのです。このことは、自分を責める材料となりました。ずっと、あのとき行っておけばよかったと責めているのです。

 私たちの会の人は、ほとんどが子供を失っているのですが、やはり子供を自分より先に死なせてしまった親は、たとえ事件であっても、たとえ加害者がいたとしても、まず自分を責めるのです。うちであれば、私は、ほんの小さなことを思い出しても、あのときこう言ったからではないかとか、こんなことをしたからではないかとか、全て自分のせいだと思いました。遡れば、自分が生んだからではないかとまで私は思いました。当時は、夜中に一人泣きながら遺書を書いたこともありました。

 主人は主人で自分を責めていたのです。当時は、自分のことだけで精一杯の私は、主人のことを思いやる余裕がなかったので、分かりませんでしたが、だんだん分かっていったことがありました。やはり、主人は救えなかった自分を責めているのです。あのとき、文化祭に行っていたら、自分が何かできたのではないかと責めていました。それから、日頃、「けんかになりそうになったら、まず謝れ。それで駄目だったら逃げろ」と言っていました。「それで駄目だったらどうするの」と聞く息子に、「2、3発殴られても死にはしない。とにかく悪い人たちに関わってはいけない」と徹底して言ってきたのです。そう教えてきた自分を責めているのです。もちろん間違いではないのですが、もっと違う方法があったのではないかと責め続けています。

 もう一つ、主人は男親です。ものすごく思いの強い、深い人です。敵討ちをしたいのです。もちろんしてはいけません。分かっています。でも、敵討ちさえしてやれない、情けない父親だということで、やはり自分を責めているのです。21 年たった今でも、たまに無性に悲しい顔をするのです。当時のような顔をするときがあります。「また思っているんだな」と思うのですが、そんなふうに自分を責めているのです。私たちのような思いを絶対にしてはいけない。だからまず、犯罪が起きないようになってもらいたいです。そんな社会作り、国作りが大事です。

 それから、もし悲しいことに、事件に遭った人がいたら、もう少し優しい国であってほしいと思います。加害者にはいろいろな手厚い支援があるのですが、被害者の支援はまだまだ足りないことが多いです。お金の面でもそうです。加害者に出すお金は何千億単位ですが、被害者側には10 億か11 億と聞いています。お金の面でも、法律の面でも、全てが加害者に比べれば同等にはなっていないのです。もう少し優しい国になってほしいと願っています。親は一生そのように責め続けて生きなければいけないのです。こんな想いは本当にしてはいけないです。

 その日の話をもう少し詳しくしたいと思います。私たちは文化祭に行かずに、下2人の子供と4人で買物に行き、主人は息子のためにMDのコンポを買いました。家に帰ってそのコンポの線をつないでいた3時半頃のことでした。いつも仲良くしている高校の友達から電話があったのです。自転車でこけて鼻血を出している。そして、言っていることがおかしいので迎えに来てほしいというのです。私たちは慌てて家を出ました。少しぐらいのことでは電話してこないと思ったのと、先ほども言いましたように、軽症ではありましたが血が固まりにくい血友病という病気をもっていたこともありました。

 車で10 分ぐらいで現場近くの友人宅に迎えに行くと、息子はぼーっとして、ふらふらしていましたが、自分で歩き、手を貸そうとしても、「大丈夫や」と自分で車に乗るほどでした。でも、頭が痛い、気分が悪いというので、いつもの掛かり付けの病院に急ぎました。病院に着くと、息子は車も自分で降りて、私が「名前は」「生年月日は」と聞くと、ちゃんと答えたのです。ところが、診察室に入ってからは状態が悪くなり、CTスキャンを撮る頃にはもう話などできない状態でした。診察室に入ったとき、「今日は約束があるから行くで」というので、私が「何を言っているの」と、いつもの調子で交わしたのが、最後の言葉になってしまいました。それは、初めてできたガールフレンドとの約束のことでした。

 その後、息子は容態が悪くなり、手術をしました。手術が終わった後、お医者さんは「成功しました」と告げたものの、息子の様子は変わり果てていました。頭には包帯、たくさんの管や機械を付けられ、人工呼吸器も付けられていました。触ってもピクリとも反応しなくなっていたのです。ほとんど脳死に近い状態でした。私は息子が仲の良かった中学時代の友達や、そのお母さんたちにすぐ電話を入れました。息子の容態が悪いので祈ってほしいとみんなにお願いしたのです。みんなで祈れば、きっとそれがエネルギーとなって息子に届くと信じていたのです。その後みんな病院へ来てくれました。振替休日だった高校の担任の先生にも、連絡を入れました。その先生が飛んできてくれました。その先生が、当日一緒にいた高校の友達に連絡を入れてくれたのです。

 事件の2日後、初めて息子の容態を聞いて、あまりの悪さにびっくりした高校の友達が、十数人で病院へ来ました。するとその友達は「すみませんでした。自転車でこけたというのはうそでした。本当は他校の生徒に殴られたんです」とすまなそうに言うのです。私は主人と一緒に事情を聞きました。「なぜ、うそをついたの」と子供たちに聞くと、「仕返しが怖かったから」と小さな声で答えました。泣いている子もいました。でも早く本当のことを言ってくれていれば、何かが変わっていたかもしれないと、悔しくて怒りがこみ上げました。でも、子供たちを責めることはしませんでした。相手がプロレスラーみたいに大きくて年上だと思ったし、とにかくとても怖かったということでした。

 訳が分からない状態の中で何もできない私は、息子の命が助かることだけを祈るしかありませんでした。主人はそんな中、私に負担をかけないように、警察との対応を全てしてくれていました。事件と分かり、まず学校の先生と被害届を出しに行くことになりました。そのとき、夕方5時を過ぎていたので、学校の先生が「今日出すのも明日出すのも同じだと言っていた」と言うのです。そのとき息子は、ほとんど脳死に近い状態だったので、命が関わっている事件なのに、すぐに動いてくれないのかと怒りがこみ上げました。

 でも、その怒りを警察にぶつけることはしませんでした。被害者側は弱い立場にあります。ちゃんと調べてもらわないといけないと思ったし、悪い心証を与えてはいけないと思ったからです。私たちはとても遠慮したのです。警察となるとやはり敷居が高かったです。日頃、私が警察に関わるといえば、自転車が取られたときぐらいでした。だから、聞きたいことも、言いたいこともぐっと我慢しました。今はすごく後悔しています。あのときにもっと法律のことや専門のことが分かっていたら、もっと警察にいろいろなことが言えたのではないか。私たちの話をもっと聞いてもらえたのではないかと。

 息子の事件は刑事裁判にはしてもらえなかったのです。それは、親に力がなかったから、刑事裁判にさえしてもらえなかったのではないかと、今でも悔しい思いを抱えています。今はいろいろな支援の窓口ができました。あのときも欲しかったと思います。まず、警察の中にも窓口があるので、そこに行けば相談に乗ってくれるし、いろいろなことを教えてもらえるわけです。当時はなかったので、自分たちで調べた範囲しか分かりませんでした。専門のことなど何一つ分からなかったのです。これから事件がどうなっていくのか、絶対刑事裁判があると信じていたので、少年審判という非公開のものですが、それで済まされるなどと想像もしていなかったのです。もっと法律のことを分かっていたら、息子に何かしてやれたのではないかと、今でも悔やんでいます。

 今は窓口がそれぞれできていますが、私はすごく心配性なもので、窓口の人がちゃんと対応してくれているだろうかと心配になるのです。遺族の人から相談事が入るのですが、当たった人が悪かったねということが結構あるのです。窓口に行ったときに、担当の人がちゃんと対応してくださらなければ、私たちと同じような思いをまた抱えると思います。だから、窓口の人たちは、ちゃんと意識を持って対応していただきたいと思います。まずは、しっかり話を聞いてもらいたいのです。遺族が事件直後に相談窓口に行くときは混乱状態にあるのです。相談事を順番に書いて持っていく人は少ないと思います。だから、話が前後したり、同じことを言ったりするかもしれません。でも、最初から最後までしっかり話を聞いてもらいたいのです。そして、一緒に考えていただきたいのです。

 例えば、警察であれば、話を聞いたことで、こういうことは自分たちが相談に乗れます、でも、こういうことには違う窓口がありますとしっかり教えていただきたいのです。そして、もし、違う窓口を教えたら、「今日、こんな方が来られて、そちらの窓口を教えました」と電話1本を入れていただきたいと思います。教えてもらった人が窓口に行くかどうかは分かりません。でも、行ったときに話がスムーズに行くと思うのです。そういう連携はすごく大事だと思います。

 遺族によっては、警察から相談に入る人、市町村から入る人、民間支援団体から入る人、いろいろな窓口があるので、どこから入るか分かりません。だから、日頃から連携をしっかり取っていただきたいのです。それには、信頼関係が大事なので、それぞれの仕事が何なのか、どうことをしているのかをちゃんと把握していただきたいのです。そういう連携をしっかり取っていただけば、私たちは救われると思います。そんな窓口になってほしいと思います。

 事件に遭った当時の話をしますと、家族が本当にひどい状態になりました。私は毎日地獄だと思っていました。今まで5人家族だったのが4人になるだけで、受け入れられないのです。お兄ちゃんがいないということが、現実として受け止められなかったので、4人でいるのがすごく怖かったのです。うちの家には、高校1年の息子が事件に遭って、その下に中学1年の娘がいました。小学校3年の息子がいました。だから、しっかりしないといけないと分かっていました。でも、力が出せなかったのです。親がしっかりすればいいことなのですが、やはり突然大切な子供を事件によって理不尽に奪われた後、親というのは、気が狂わんばかりの状態になるものですから、残された子供たちを思いやる余裕がなかったと思います。だから、4人家族になるととても苦しかったのです。

 息子のことが重なって、主人が食台をひっくり返したことも何回かあります。電化製品も何個か壊しました。順調に来ていた仕事も、主人は職人任せになって、朝昼晩お酒を飲むような生活をしていました。その中でも色々な場所を見つけては、2人で出かけることはしていたのですが、家に戻るとそういう状態だったのです。子供たちも大変だったと思います。小さくなって、とにかく悲しい、苦しい、いろいろな思いを抱えたと思いますが、親がそれを思いやる余裕がなかったのです。

 そんな家族を助けてくれたのが、地域の人たちでした。私は、地域の人たちに言ったのです。「うちの家、大変やねん」と。助けてほしいと言いました。それまでの私は、家の悪いことは、絶対外に漏れてほしくありませんでした。例えば3人子供がいて、忙しくていらいらして、大きな声で怒鳴ることがありました。そうなると、どこか家の窓が開いていたら、「しまった」と思って慌てて閉めるくらいでした。でも、事件の後、うちの家は、私は泣き叫ぶ、主人は1階の部屋に閉じこもって、怒りのような声も上げていました。物が壊れる音、もう隠しきれなかったのです。もういいと思いました。だから言えたのです。

 それは、今考えると良かったと思います。近所の人たちが入ってきてくれたのです。「おはよう」と誰かが来ていました。「御飯、食べたん?」と言われて、「食べてない」と言ったとします。「あかんやん」と言って、家に上がって作り出すのです。人が作っていると「あかんわ」と思って、釣られてできたのです。

 御飯を食べるのも苦しみだったのです。息子は御飯が食べられないわけです。おいしいものなど一生食べられないから、私は一生おいしいものは食べてはいけないと思っていました。力を入れて生きていたのです。子供たちがいるからそんなことでは駄目なのに、ものすごく力を入れていました。でも、来た人が「一緒に御飯食べよう」と言うと、食べられたのです。人の力を借りたら、我が家は日常生活が送れたのです。

 買物一つ大変でした。例えば魚を買いに行きます。今までは5人分だから5匹買うのですが、4匹になると手が出ないのです。4匹と頭をよぎると、お兄ちゃんがいないと思うので、買物ができないのです。そんなときに、一緒に行ってくれたり、買ってきてくれたりを周りの人たちにしてもらっていました。それがなければ、我が家は崩壊していたのではないかと今も思っています。

 いろいろなことも教えてもらいました。例えば、私が外を歩いていると、パーッと散っていく人がいたのです。私は「ひどい人だな」と思いました。うちが犯罪に遭ったから私を避けていると思ったのです。いつも来ている人にそれを愚痴ると、「あんたね、外を歩いているときに、どんな顔をしているか分かるか。すごい顔して歩いているんやで」と言われたのです。「そんな人に、何て声かけたらいいんや。心配している人も本当はたくさんいるんやで」と言われたのです。私はそのことを言われていなければ、今も分からないと思います。

 そのことがしばらく頭にあって、思い返してみました。外を歩くたびに腹を立てていたことに気が付いたのです。もちろん加害者に腹が立ち、国にも腹が立っていました。でも、ほかにも、目に映るものにも腹が立つのです。家の前に神社があって、木が枯れるのですが、また芽が出ます。腹が立つのです。「芽が出るんや」と。お兄ちゃんは戻らない。それも腹が立ちます。家の前の道を曲がると、いつもの場所にいつものお店があって、いつものおじさんが座っています。いつもと変わらない光景、それも腹が立つのです。うちの家は大変な状態になっている。お兄ちゃんは戻らない。なのに、一歩外に出ると、何も変わらないと思うと、無性に腹が立ったのです。すごい顔をして歩いていたと思います。でも、言われなければ分かりませんでした。

 少しずつ、私の何かが変わったのだと思います。寄ってくる人が増えたのです。民事裁判をしたときには、その人たちが応援に来てくれました。私は遺族になって気が付かなければいけないことがあると分かったのです。何年か経ってから当時のことを聞いたのですが、大変でどうしていいか分からなかったと言いました。でも、うちの家を放っておけなかったと思ったというのです。それだけで行っていたと言われました。うちの家に入るときは深呼吸をして入っていたというぐらい、うちは大変だったのです。みんな特別な人たちではないです。日頃、地域に住んでいる人たちが私達家族のことを助けてくれたのです。そんな思いで関わってくれた人たちがいたので、私たち家族は救われたのです。警察に行くときには付き添ってくれたり、学校内で起きた事件だったので、学校の先生が来て説明があるというと、3家族ぐらいが集まってメモを取ってくれたり、現在、被害者支援に書いてあるようなことを、地域の人たちにしてもらったのです。本当に有り難いと思っています。でも、専門のことは分かりませんでした。だからそこに専門のことが分かる人がいてくれたら、もっと我が家は違ったのではないかと思っています。

 今21 年になりますが、私たち家族は、元に戻ることはありません。やはりお兄ちゃんが戻らない限り、元には戻れないです。でも、違った形の家族、違った形の夫婦にはなってきていると思います。それには、たくさんの人たちの理解が必要でした。そして、たくさんの人たちの力が必要でした。それがあるおかげで、我が家は何とかですが、穏やかに過ごせています。

 当時を思い出すと、21 年前、私は死ぬことばかり考えていました。息子は死んでしまったのに、なぜ私が生きているのだろう。生きていてはいけないと思ったからです。でも、やはりもらった命は大事に生きなければいけないのです。だから、一生懸命頑張って生きてきました。そうしたら、子供たち二人も成長し、孫も二人できました。当時は、こんな日が来るとは想像もつきませんでした。だから、これからも、どんなにつらいことがあっても、どんなにしんどいことがあっても、一生懸命頑張って生き続けなければいけないと思っています。

 被害者支援となると、いろいろな難しいことを言われると思います。例えば、被害者を傷つけてはいけない。被害者に言ってはいけない言葉がある。励ましてはいけない。項目がいっぱいあります。分かります。そういうことは必要です。でも、私がいつもWiLLのスタッフの学生さんに言っていることがあります。学生さん達は、遺族を傷つけてはいけない、失礼なことを言ってはいけないと、とても遺族に気を遣います。もちろん気を遣うことは大事だけれど、異常にしなくていい、普通でいいと。すると、「どうすればいいですか」と言うので、人としてしてはいけないことはいけないし、言ってはいけないことはいけない。それでいいのではないかと言います。もちろん事件直後の人にはいろいろな配慮が必要ですが、少し時間がたってWiLLに参加できるようになった家族には、それでいいのではないかと言っています。

 もう一つは、手伝いをしている学生さんも、傷ついてはいけないと言っています。私たち遺族もやはり支援をしてくれる人を傷つけてはいけないと思っているのです。だから、学生さんには、何かつらく思ったとき、言われて傷ついたときは必ず私に言ってほしいと、私たち遺族もあなたたちを傷つけてはいけないのだといつも言いながら、仲良く頑張り続けています。私はいつもそれを大事にしているのです。私たち遺族も言ってはいけない、してはいけないことがあります。遺族だから何をしてもいい、何を言ってもいいというわけではないと私は思っています。そのことを言いながら、学生さんと、最初に紹介したWiLLをこれからも続けていけたらいいなと思っています。繰り返しになりますが良かったらのぞきに来てください。

 私の話は、とても重い話、しんどい話だったと思います。でも、今日、一生懸命話を聞いてくださったことに、心から感謝をします。もし、私の話で利用できることがあったらどんどん利用してください。今日は貴重な時間を本当にありがとうございました。

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