北海道大会:基調講演

「悲劇をなくすために」

高石 洋子(「飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会」共同代表)

 皆さんこんにちは。今、紹介していただきました高石洋子と申します。今日は、私の拙い話を聞いていただきたいと思いますが、犯罪被害者週間北海道大会というこの場に私みたいな者を呼んでくださいましたことを驚きますとともに、感謝して、一生懸命お話しさせていただきたいと思います。

 犯罪と一言で言いましても、犯罪の形にはたくさんの形があります。それぞれだと思います。私は、その中の交通犯罪で息子を亡くしました。その交通犯罪の中で、皆さんの耳に聞き慣れている言葉だと思います飲酒運転という形で息子を亡くした母です。これからそのときの状態などを赤裸々に話しながら、2003年の事故でしたので13年前ですけれども、2月の事故でしたから、あと3か月たちますと丸14年ということになります。その14年の今日まで、私がというよりも私たち高石家がどのようにして生きてこれたのか、そして、どのような形で友人、知人たちの支援を受けながら頑張ってこれたのかということを話すことによって、皆さんに少しでも理解していただけたら有り難いなと思います。

 もうかれこれ14年ぐらい前の話なのですけれども、事故に遭った息子は当時高校1年生の16歳でした。朝、新聞配達のアルバイトをしていました。高校生になってすぐ見つけてきたアルバイトが新聞配達でした。バレーボールをしていたので、放課後、学校が終わってからのアルバイトよりも、朝早い新聞配達をきっと選んだのだと思います。自分で得た収入で携帯電話を買っていました。少しずつ貯金をするんだという楽しみがあったことを友人に話していたようでした。

 悲劇は、その新聞配達に向かう途中に起きました。高校生になって、もうそろそろ高校2年生になろうかという頃の2月の事故でした。朝6時に家の電話が鳴って出ましたら、「江別警察署です。お宅の息子さんが事故に遭ったので、急いで市立病院に行ってください」という電話から始まりました。主人の運転する車で、当時中学校2年生だった娘と3人で病院に行きました。病院で会った息子は、もう二度と目を覚まさない状態でした。ストレッチャーに乗ったまま、ジャンパーも着たままです。顔に数か所、血が付いていたような気がします。私は現実を受けとめることができず、その場に座り込みました。病院中に響き渡ったのは、主人のうめき声とも鳴き声とも言えないような、「ウワーッ」という声でした。娘が「アアッ」と言いながら走り回っていたような姿を何となく記憶しています。

 私は、病院で誰からも「お宅の息子さんは亡くなりました」という言葉を一度も聞くことができませんでした。ただ、会いなさいと言われ、そして触りなさいと言われました。触ることもできませんでした。ただただ私はそのとき恐怖を感じました。恐怖が私を襲ってきたんです。突然子供が亡くなるという事実をはっきりとこの目で見てしまったとき、襲いかかってきたのは恐怖でした。ガタガタ、ガタガタと震える体をどうすることもできないで、私はその場で寝かせられました。

 主人は多分、病院の先生に「運ばれてきたときにはもう駄目だった」という話を聞いていたと思います。看護師さんが私の手の上に、息子が大事にしていた携帯電話を乗せてくれました。「息子さんのジャンパーのポケットで鳴っていました」ということでした。娘は、私の手のひらからその携帯電話を取って、走っていなくなりました。「お母さんは寝ていて。あとは私がするから」、その言葉だけははっきり覚えています。娘は、震える体で必死になって、大事な大事な大好きなお兄ちゃんが亡くなったことを親友たちに連絡し、学校に連絡し、身内に連絡していたことを私は後に知りました。大変なことをさせていました。

 そんなとき、また1つとてつもない重たい石が私の上にのしかかってきました。男性の声で、「江別警察署です。これはひき逃げですから」という言葉が病院に響きました。一体何だっていうのだろうと思いました。「お宅の息子さん亡くなっています。会いなさい」と言われて、変わり果てた息子に会わされて、触りなさいと言われて、私はそれを拒否し、訳が分からないんですね。ひき逃げだと言われ、一体何がどうなっているのか、とにかく頭の中がめちゃくちゃでした。新聞販売所の人が来てくれたり、学校の先生、校長先生、親友たちがどんどん集まってきたのを覚えています。私たちの考えが全く無視をされるかのように勝手に司法解剖に連れていかれ、息子が家に帰ってきたのは、朝早い事故だったのですけれども、その日の夜7時ぐらいだったことを何となく覚えています。

 家には、息子を慕っていた仲の良かった友達であふれんばかりになったことを何となく覚えています。葬儀が始まる前には刑事さんが来てくれて、加害者が逃げているということで、どのようにして加害者を捕まえるか、加害者を確定していくかという話をしてくれたことは何となく覚えています。

 私の頭の中では、ひき逃げだったということはぐるぐる渦を巻いていたのですけれども、息子がもう二度と帰ってこない、死んでしまったということだけが頭の中にあって、長男もいました。下の娘もいます。だけど、ほかの子供のことを考えてあげる心のゆとりは一切ありませんでした。拓那という名前の亡くなった息子のことだけしか頭になかったのです。「拓那、拓那、拓那、拓那」、私の頭の中はそれだけでした。「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、拓那、拓那、拓那、拓那」。

 私は家に帰ってきてから暴れたのを覚えています。どうしてもじっとしていることができないのです。体を壁にぶち当てて、自分の体を痛くしたくなりました。切り刻みたいとも思いました。もうとにかくどうやって息をしていいかも分からないぐらい恐ろしかったです。突然子供を亡くすということは、こんなにも苦しく、こんなにも恐ろしい恐怖なのだということを私は初めて知ったのです。そして、このような恐ろしい体験をしている親がどれだけいるのかということも知ってしまったのです。

 何という恐ろしいことなのでしょう。私は、テレビのニュースなどで人が亡くなる事故のニュースを他人事のようにして見ていた愚かな一市民でした。うちには絶対こういうことは起こらないと思い込んでいた愚かな人間でした。だからこそ、私はそういう自分を反省して、今も生きているのではないかと思います。

 葬儀が始まる前には、加害者逮捕の知らせがありました。2月12日のとても朝の早い事故でした。5時過ぎだった事故だと思いますが、私が警察から電話を受けたのは朝の6時でした。加害者らしき人が身柄確保されたという知らせを受けたのは、その日の夜8時を過ぎていたかと思います。そして、日が明けて、次の日の午前3時ぐらいに逮捕したという知らせを受けました。明るくなってから刑事さんが家に来てくれて教えてくれた事実というのは、また私たちを苦しめるものでした。

 息子をはねた加害者は、朝早い事故だったのですけれども、その前日のお昼からビールを飲みながらマージャンをしていたそうです。その流れで彼女を誘って、新札幌のパブにお酒を飲みに行く目的で、自分の運転する車で新札幌をうろうろしていたようです。夜中の12時に店に入り、明け方4時過ぎまでお酒を飲んでいたそうです。私が後に見たレシートは9,800円ほどの値段がついておりました。

 4時過ぎにお店を出て、加害者は車のエンジンを掛け、車が暖まることを待ちもせずに、助手席に彼女を乗せて、野幌の彼女の住むアパートに向かったんだそうです。家は野幌にありまして、野幌に住んでいるので、野幌駅の割と近くに家があります。息子は家を出て、江別方向に販売所に向かって自転車を走らせておりました。そこを朝方、夜明けまでお酒を飲んでいた加害者が通って、脇見運転ということで息子をはねるのです。自転車をガラガラと50メートルも引きずった音がうるさかったというのも、後の供述文で読みました。そして、自転車の音がうるさいので、はねたかなと思い、Uターンをして戻ってきて、倒れている息子を見ています。ですが、あたりは薄暗く、車も人影もないので逃げ切れると思ったのだそうです。そして、彼女とともに彼女のアパートに2人は逃げました。そして、昼まで彼女は眠っていたそうです。

 彼女が座っていた側のフロントガラスの車の破損状態は、後に写真で見たのですけれども、相当なものだったのですね。よく眠れていたなと思って、その神経も私は疑います。昼ぐらいになってから車の様子を見に行ったら、すごい壊れ方をしているのです。テレビで高校生が亡くなったというニュースもやっていて、自分たちがはねた子に間違いないと思ったのだそうです。逃げる計画も立てたそうです。そして、外に出て車を見ているところを、江別中に張っている道警の方々に職務質問されて、逃げようとしたところ、身柄確保したという形で逮捕になったと聞きました。

 私は、もう一つびっくりしたことがあったのですけれども、一緒に遊んでいた女の人は、女の子のお母さんでした。当時、加害者は28歳の無職の青年で、彼女は30歳の小学校3年生ぐらいの女の子のいるお母さんだったのです。母子家庭なのです。母子家庭は決して悪いことではありません。遊ぶことも私は否定しません。ですが、子供を育てているお母さんがなぜ一緒に逃げたのかが、私には理解できませんでした。彼氏が「逃げよう」と言っても、陰で隠れて救急車を呼べる唯一の目撃者であり、唯一救急車を呼べるその人が、その人さえも一緒になって逃げたということが、私の心をより一層深く傷つける現実となりました。私はやっぱりどう考えても、あのときの彼女のした行動は今も許すことができません。

 私はとても心配しました。彼女の子供がちゃんと大人になれるのかということです。道徳心のない人に育てられて、その女の子はちゃんと成長することができるのかということを、そのときふと心配したことも覚えています。

 私たち家族が苦しんだのは、この加害者のした飲酒・ひき逃げです。その場で救急車を呼んでもらいたかったです。救急車が来るまで息子の手をとって握っていてほしかったです。「もう少しだぞ。頑張れ」と言っていてほしかったんです。そして、加害者とは病院で会いたかったです。それで駄目だったと知ったら、私たちはここまで深い深い傷を心に残すことはなかったのだと思います。自分たちの保身のため、お酒を飲んでいるのがばれるのが怖い。そんな思いで逃げた加害者の気持ちは分からなくもありませんが、私はやはり加害者には病院で会いたかったです。救急車に一緒に乗ってもらいたかったです。そのことが結局私たち家族を一生苦しめる彼らのした行為なのです。

 葬儀は大変なもので、1,000人を超える人が集まってくれました。ほとんどが学生でした。息子がどれだけ中学校の頃からバレーボールというものを通じてたくさんの人と出会っていたのかということをまざまざと見せつけられるような、そんな葬儀でした。たくさんの人が、まだ16歳の子供の死を悼み、泣いてくれる。何ということだろうと思いました。びっくりするほどでした。葬儀場に人が入れなくて、外にまで並んでいるという話を聞きましたが、私はその人たちに頭を下げることすらできないぐらい憔悴し切って、最前列に座っておりましたが、起き上がることはできず、横に寝ていたのです。お客様一人一人に頭を下げていたのは長男と長女であったことを、後に出てきた写真で知ることになりました。

 ずっと事故が起きてから高石家にはたくさんの学生がぎゅうぎゅう詰めになっていました。まるで拓那がそこにいるかのように、彼らはそこで笑いながら冗談を言って、和ませてくれるような状況を作っておりましたが、彼らもきっと必死だったのだと思います。親友の死をどうやって受け止めていいか分からなくて、一生懸命もがいていたのだと思います。仮通夜のときも、お通夜のときも、彼らはずっと拓那のそばから離れませんでした。

 告別式に拓那のひつぎが中央に運び出されて、最後のお別れになったとき、初めて拓那の周りでそれまで笑っていた彼らが、急に「ウワーッ」と叫び出して、「拓那、拓那、拓那!」と叫び出して、床に伏して「拓那、拓那、拓那!」と泣き始めたのです。そのとき、私は心の底から悔しいと思いました。何にも悪いことなんかしていないのに、人を傷つけることもしていないのに、小さい頃から友達が大好きで、友達の悪口なんか1回も言ったことがないのに、友達の自慢話ばっかりしていたような子なのに、何でこんな目に遭わなきゃいけないのか。私の前世が悪いのか、私の日頃の行いが悪いのか、私が悪いのだったら私を連れていけばいいのに、何でこの子なんだと、私はとても悔しかったです。悔しくて悔しくて、でもどうしていいか分からない。私はその場で一生懸命その光景を遠くから見るのがいっぱいいっぱいでした。

 私は火葬場にも行きませんでした。自分の子供の骨を拾うなどということは私にはできません。今考えても、そのことを後悔しているかと言われたら、全然後悔していません。やはりできません。私は葬儀場で息子の帰りを待ちました。私と主人が葬儀場で待つかわりに、バス1台をチャーターしてもらって、息子の親友たちに乗ってもらいました。すごい勢いで男子たちが乗っていくのが遠くから見えました。立っている子もいました。火葬場でも、こんなことは例がないと言って怒っていたそうですけれども、うちの身内が「この子たちは特別なんだ」と言ってくれて、最後に彼らに骨を拾ってもらったということを聞きました。何年もたってから聞いた話ですが、彼らが小さい声で、「全部拾え。1粒もこぼすな。全部拾え」と言いながら拾っていってくれたのだそうです。

 葬儀場で待っていた私に、お骨になった拓那を渡してくれたのは、当時中学2年の娘でした。どれだけ泣いたか分からないぐらい目が真っ赤に腫れていました。どれだけつらかったろうと思います。でも、娘は一生懸命私に笑顔を見せようとして、口角を一生懸命上げて、私に拓那を渡しながら、こう言いました。「お母さん、たくちゃんね、骨になってもかっこよかったよ」と言ってくれたんです。この言葉が私の宝物です。そして、何よりもひどいことを娘に、子供たちにさせてしまっていたのだということを気付かせてくれる恐ろしい言葉にもなっています。

 本当に親は何もできません。ある日突然子供が亡くなって、きびきびと動いて葬儀を出せる人がいます。たまにニュースでそういう人を見ます。そういう人たちこそ実は気がふれてしまって、何が起きているのか自分で分からないから、みんなに気丈だと言われながら葬儀を済ませています。でも、その後、大抵の人がみんな倒れ込んで、病院にかかっている人たちばっかりなのだということを、私は後にたくさんの人と出会うことによって知りました。

 事故からあっという間に裁判が始まりました。2月の事故だったのですけれども、3月の末にはたしかもう第1回公判が始まっていたような気がします。裁判が始まる前から、危険運転致死傷罪が当時できたばかりで15年という最高刑があったのですけれども、それは適用にならないことを教えられていました。なぜならば、10時間以上も逃げていた加害者はアルコール検知されていなかったのです。レシートを押収されていても、逃げる計画を立てていた加害者は、お店の人とも口裏を合わせていたようで、自分たちは2杯ずつしか飲まないで、あとは全部従業員に振る舞ったという供述が全部まかり通ってしまいました。

 驚くことばかりで、裁判は始まっていました。最初から危険運転致死傷罪は適用にならないと言われて、最高刑はどれぐらいかと聞いたら、業務上過失致死傷罪とひき逃げの道路交通法違反の併合罪で7年6か月がいっぱいいっぱいで、そこから争うと言われました。最初から低い刑で戦わなければならない裁判に私たちは絶望を感じていました。何度も担当検事とけんかしました。検事さんはこう言いました。「そもそも今の道路交通法は明治の頃にできたものなんですよ。まだ馬車しか走っていない頃なので、不完全で当たり前なんです」と平気で言いました。私たちはびっくりしたのです。飲酒運転をして事故を起こして、その場から逃げてしまう加害者。そしてその場で助けた加害者。この違いはどうなのかと聞きました。「その場で助けた加害者はアルコール検知されるために、危険運転というものが立証されるので重い罪になったでしょう」、そう平気で言いました。「じゃあ、逃げた方が罪が軽くなるじゃないですか、逃げ得ですか」と聞きましたら、「そうです」とはっきり言いました。逃げ得がまかり通っていても平気な顔をしている検察官に対して、そういう司法に対して私たちは憤りを感じました。いらだちと焦りと怒りでした。悔しかったです。

 自分たちはこれから先どうやって生きていっていいか分からない。私は外に出ることもできないで、やっとの思いで裁判所にまで行っているのに、これから先、本当にどうしよう、どうしようと思いながら生きているのに、加害者には軽い罪しか科せられないのか、どうにかならないのか。せめて7年6か月いっぱいいっぱい使ってほしいと思いましたが、担当検事さんが求刑4年と言いました。そのときもけんかしました。7年6か月とどうして言ってくれないのかと聞きました。そしたら、「自分の言った求刑に対して高い刑が出てしまったら自分の負け裁判だ」とはっきり言いました。「自分が出した求刑よりも低い刑になって、それで自分の勝ち裁判なんだ」。びっくりしました。私たちの大事な息子の裁判が、たかが担当検事さんの自分の出世欲に踊らされているということを初めて知ったのですね。テレビドラマや小説で出てくる検事さんはいないということが、はっきり分かりました。現実とは恐ろしいことです。

 息子をはねた加害者に科せられた刑は、実刑2年10か月というものになりました。担当検事は、「勝った」と言って私たちにガッツポーズを見せました。そのガッツポーズの意味は、私はいまだによく分かりません。ただただ悔しかったです。裁判所の1階のロビーで拓那の親友のお母さんたちと泣きました。「悔しいね」と言って泣きました。そんな泣いている私の横を加害者のお母さんは、うれしそうににこにこしながら、国選弁護人とお話をしながら裁判所を出ていきました。その後ろ姿を見ながら私はこう思いました。「間違ってる。絶対違う。これは違う、絶対間違ってる」、そう思いました。こんな裁判結果を子供たちに告げることはできない。どうしたらいいのだろうとさえ思いました。でも、結局みんな知ってしまって、お家でみんなで泣きました。どうしてなのだろう。

 ある子が言いました。「おばさん、この間ね、ある工場に窓ガラスを割って侵入してお金を取った人が実刑5年になったんだよ。誰もけがしてないんだよ。でもね、たくちゃん死んじゃったのに、何でたったの2年10か月なんだろ。ちょっとお金を取っただけで誰もけがしていないのに、その人は実刑5年だったんだよ。この違いは何なんだろう」って高校生の男の子に言われたときに、私は返す言葉もありませんでした。悔しかったです。

 何度も何時も上申書を提出して、裁判所や検察官に持っていったのですけど、けんもほろろな扱いを受けて、裁判のやり直しは結局してもらえませんでした。検事さんに言われたのは、「こんないい刑をもらっておいて、何で裁判のやり直しをしなければならないんだ」と怒られました。せっかくこんないい刑を取っていて、もし裁判をもう1回したとしたら、この刑よりも低くなると言われました。それは正に脅されているかのようでした。

 私は裁判の途中で一度言ったんです。「署名を集めてきて、危険運転になるように働き掛けをしたい。いっぱいいっぱい署名を持ってきたい」と言ったのです。そしたら、担当検事は、「何言ってるんですか、お母さん、署名用紙なんてしょせん紙切れにすぎませんよ。そんなの何の効力もありません」と言って鼻で笑われたのをはっきりと覚えています。

 でも、私たちはこの裁判の結果にとにかく驚いたのですね。飲酒運転でひき逃げをしてしまうと、逃げ得で刑が軽くなる。証拠隠滅さえも免れる。何ということなんだろう。世の中こんな状況の中でずっとずっと私たちの知らない間にこういうことがまかり通っていて、たくさんの人が泣き寝入りをしていたのだということにびっくりしました。

 そのとき、私たちは北海道交通事故被害者の会というところに入って、たくさんの相談をしていく中で、主人はもう腹に決めていました。新しい法律を作ってもらうという活動をすることを心に決めていたようです。私はびっくりしましたが、でも毎日のように家に来てくれる拓那の親友たちが、「おじさん、おばさん、やろう」と言ってくれました。飲酒運転ひき逃げ犯に厳罰を求めるという署名活動です。しっかりとした法律を作ってもらうというのが目的です。

 今、教育を受けている子供たち、今これから生まれてくる子供たちが、いつか運転免許を取ってお酒を飲める年になったときに、誰もが飲酒運転をしない、そんな世の中にしてもらうためには法律が必要だと考えました。そして、今でも飲酒運転を繰り返し、やめられないでいる人たちに対して、はっきりとしてはいけないことなのだと教えることにも、法律というのを掲げることが大事なことだと私は思いました。だから、主人が言ったときにはびっくりしましたけれども、私も一生かかってでもやれることなのだったら、その活動があるのだったら、息をして生きていけるような、そんな気がしたのです。そして、息子が「母さん、頑張れ」と背中を押してくれているような、そんな気がしたのです。

 だから、事故から間もなく半年後の8月に署名活動を江別市でスタートさせました。飲酒・ひき逃げ犯に厳罰を求めるという活動の産声を上げたのが、事故から半年後の8月12日。そして、それを支えてくれていたのが何十人もの学生たちでした。当時、大学生だった長男も友達を連れてきてくれました。たくさん連れてきてくれました。中学3年生になった娘もたくさん友達を連れてきてくれました。そして、高校2年生になった息子の友達も50人、60人と集まって、札幌の街の中に出て、三越の前などに立って、知らない人に頭を下げて署名を集めてくれるのです。

 私は彼らのためにおにぎりを作るのがいっぱいいっぱいでした。でも、遠くから見ていると、彼らは必死で署名を集めていました。道行く人々に頭を下げて、「署名に御協力をお願いします。僕の親友が飲酒運転の事故に遭って亡くなったのに、刑が軽かったのです。飲酒運転をなくすための署名に御協力ください。新しい法律を作ってもらうための署名に御協力ください」、そうやって声を張り上げて署名を集めている彼らの姿に私は胸を打たれました。

 果たして自分の友達がこういう形で亡くなって、その両親がこういう法改正の活動をすると言ったときに、どれだけの若者が今動いてくれるだろうかと思います。そして、それを許す親がどれだけいるのかと思うのです。そう考えたとき、私は拓那に心からありがとうと思いました。こんなにすばらしい友達をいっぱい作っておいてくれてありがとう。そして、その友人の親御さんたちにも、こういう活動を一緒にさせてくれることをありがとう、毎日のように家で御飯を食べさせてくれることにもありがとう。感謝の気持ちでいっぱいです。今でもそうです。あのときの彼らの温かさ、そしてその御両親の温かさが、高石家をしっかりと支えてくれてました。

 いつの間にか私は仕事にも復帰していたし、そこでは何事もなかったかのように私と話をしてくれる楽しい仲間がいて、私はそこで現実逃避をすることができました。私にもすばらしい友達がたくさんいたことに、今でも感謝しています。

 買物に行けるようになったとき、同級生のお母さんとか、余り親しくない人と会うことがあります。そういう人たちに限って、「あ、もう落ちついたの」と言います。その言葉で私はショックで買物ができなくなります。「あらあ、元気そうでよかったわ」、その言葉がショックで私はまた外に出られなくなります。そんなことが繰り返されて気付きました。私もひょっとしたら同じようなことを言っていたのかもしれない。子供を亡くした人に「落ちついた?」なんて聞けるはずがない。そんなことを私は自分の子供の死を通して、初めて知ったのです。

 「私も気持ちが分かるわ」と言ってくれた人がいました。なぜかと聞いたら、「私もお父さんを亡くしたとき、すごく悲しくてショックだったから」と。「そのお父さんは事故で亡くなったの」と聞いたら、長患いで亡くなったということでした。私はその人となかなか口がきけなくなりました。親は自分よりも先に死ぬのが当たり前なのです。それなのに子供を亡くした人に対して、「自分の親が亡くなったとき悲しかったからあなたの気持ちが分かるわ」と言われたことがとてもショックでした。

 私は北海道交通事故被害者の会に入って、たくさんの御遺族の方たちと会い、たくさんの裁判を傍聴しました。自分たちも活動しながら、一生懸命いろいろな人たちの裁判を傍聴していく中で、泣き崩れていく御両親たちをたくさん見ました。ショックでした。世の中、何ていうことになっているのだろうということに気付きました。自分の子供にこんなことがあって、私は初めて子供を亡くす親の恐怖というものを知ったし、言ってはいけない言葉ということも知りました。そして、本当に必要なのは、同じ思いをした人がそこにいてくれることだということも知りました。経験したことのない人に気持ちが分かると言われると、その人に対してどうしても親しみを感じられなくなるんだということも知ってしまったし、そう思う自分もすごく嫌です。

 私はこういう活動を通して、たくさんの人と出会っていきました。活動し始めてわずか3か月で5万筆という署名が集まっていました。それはそれは大きな数字でした。そして、驚くことに、私たちの活動を知っていた江別市から出ていたある国会議員の先生が、私たちを法務大臣に会わせてくれました。それはまるで奇跡のような出来事でした。息子は一生懸命生きることを私たちに教えてくれていました。それは息子が亡くなってから知ったのです。一生懸命生きていたということを私たちは無駄にしたくなかったから頑張っていました。

 息子が亡くなってからたくさんの友達がいろいろなことを教えてくれました。中学校の同級生の女の子は、拓那にいっぱい励まされて頑張ることができた。あのとき励ましてくれなかったら、夢を諦めていた。あと、高校生になってからも、男子バレー部が弱小でどんどん駄目になっていって、どんどん部員が減っていって、誰もいなくなって、最後に拓那1人だけになってしまっても、拓那は1人でバレー部を守り、練習も1日も休まず頑張っていた。その頑張っている姿を、結局校長先生さえも、「今日も高石は1人でバレーボールをやっているのか」と体育館に見に行くような状況になっていたということも後で知りました。

 休み時間を惜しまず、たくさんの教室に行っては、にこっとした笑顔で「男子バレー部に入りませんか」とみんなに声を掛けていったから、いつの間にかたくさんの友達ができていたということも知りました。一生懸命生きていました。前を向いて生きていました。未来を考えて生きていました。そんな16歳の息子が突然後ろから悪いことをした大人に殺されたのです。悲鳴を上げたのかも知りません。何時何分に息を引き取ったのかも知りません。その日はしんしんと雪が降り積もり、息子の体にはどんどん雪が降り積もっていったそうです。第一発見者の人の話によりますと、「白い塊のようだった」と聞きました。それでも、救急車を呼んでくれたことにとても感謝をしています。だからこそ、逃げた加害者はやっぱりその行為というものは許されることではないと私たちを苦しめています。

 私たちがこのような活動をたくさんの学生たちに支えてもらいながら、そして初めてその年の11月に法務大臣に会うことによって、私はうそつきにならないで済んだことでほっとしたことを覚えています。法務大臣に会うなんて、一般市民の人がそうやって掲げて署名していたところで、私は一生かかっても法務大臣には会えないと実は思っていました。国会議員の先生にさえも会えるはずがないと思っていました。そんなつてもないのに、法務大臣に宛てて、署名を一生懸命集めてはいるけれども、この先どうなるのだろうと思っていたのです。でも、夢を諦めないで必死で頑張れば、その姿を見ている人の目にとまって、きちんと正しい方向に道ができていくのだということを考えさせられました。びっくりしたのですね。法務省に行って、法務大臣室でちゃんと大臣と面談しました。

 大臣はこう言いました。「今、まさに日本は交通戦争なのだ」と。あの13年前、年間で7,000人以上の人が交通事故で亡くなっていたそうです。その二、三年前は9,000人、そのちょっと前は1万人だったそうです。国としてもいろいろ考え、罰金刑を引き上げる。道路を整備してきれいにするなどを考えながら、少しずつ減っていった。それでも7,000という数字は、まさに交通戦争だ。戦争で一遍に人がなくなる数字だ。そして、「苦しい思いをしている親御さんにこのような活動をさせて申し訳ない」と、当時の法務大臣が言ってくれた言葉を今でもずっと胸にしまっています。

 私たちは、まず1回の署名を提出し、そしてほっとしましたけれども、それで終わりではありませんでした。本当に法律ができるということは大変なことなのだということを、そのときの大臣はとても丁寧に私たちに教えてくれました。そこから私たちはずっと署名を集め続けました。主人が言いました。「自分たちがこうやって声を上げて署名を集めるということは、人々に逃げた方が罪が軽くなることを教えていることなんだ。だから、早く法律ができたらいいな」と言いました。私たちは活動をしながら、国会議員の先生たち、いろいろな方たちに会いに行きました。そして、国会議員で作られている交通事故問題を考える会というのがあります。これは逢沢一郎さんという方が会長になって作られている会なのですけれども、そこの勉強会に何度も参加させていただき、いろんな意見を言わせていただきました。

 そして、事故から次の年に、大分のあるお母さんからファクスが届きました。その内容は、同じような事故で息子を亡くしたということでした。そして、同じような判決だったのです。そして、「今は苦しくて何もできないけれど、いつか高石さんと一緒に署名活動をしたい」と書かれていたファクスを見て、私はすぐさまそのお母さんに電話をしました。そして、何時間も何時間もお母さんと話をして、気が付いたら今では大の親友です。「北海道と九州で署名を集めて、東京で会おうね」を合い言葉にして、私たちは活動を始めていました。

 そして、活動してから3年目ぐらいで、私たちは飲酒・ひき逃げ犯に厳罰を求める遺族関係者全国連絡協議会という協議会を発足して、全国の仲間とともに全国で署名を集めるという活動をしました。この活動の幹事になってくれているある御夫婦がいます。井上保孝さん、郁美さんという御夫婦です。この御夫婦は、皆さんの記憶の中にあってくれたらいいのですけれども、20年ほど前、東京の東名高速道路で泥酔していたトラックに乗用車が追突されて車が炎上して、お父さんとお母さんは助かったのですけれども、後部席で当時義務付けられていないチャイルドシートにしっかりと座っていた幼い娘さん2人が目の前で焼き殺されるというと恐ろしい事件があったのですね。でも、あの頃は危険運転というものもなく、本当に軽い刑で済んでしまった。どれだけ悲しい、悔しい思いをしたことでしょう。

 その井上さんたちは後に、いろんな御遺族の方たちと一致団結して、4年かけて活動をして、危険運転致死傷罪というものを国会で作っていただいた方たちなのです。その人たちが、せっかくできた危険運転致死傷罪がザル法と呼ばれ、ちゃんと適用になっていないということに本当にがっかりされていたようで、私たちの会の幹事となってくれて、中心人物となってくれて、私たちを突き動かしてくれて今日まで来ています。

 たくさんの血が流れて、あの危険運転致死傷罪ができました。何と悲しいことでしょう。これ以上犠牲者を出してはならないという思いで、きっと当時の御遺族たちも動いていたのだと思います。それでも、たくさんの血が流れていました。

 私たちがこの会を作ってすぐの出来事でした。福岡で幼い子供3人が一遍に命をなくすという海の中道事件が起きました。それも飲酒・ひき逃げでした。私たちは、あうんの呼吸で九州福岡に行きました。そして、大上さんと会ったのです。いろいろな記者の方たちをまいて、必死の思いで大上さんに会うのは大変だったのですけれども、会ってよかったと思います。今でも時々電話のやりとりなどをしておりますが、当時会ったときの大上さんの様子というのは本当に目に焼きついています。

 一遍に3人もの子供を亡くしたあの御夫婦は、本当にたくさんの被害を受けていました。それは言葉の暴力でもありました。身内であって家族であったとしても、お父さんやお母さん、兄弟たちでさえ私たちの気持ちというのをきちんと理解することができません。「いつまでも泣いているんじゃない」と平気で言われます。びっくりすることを平気で言ってきます。私もだから、結構親兄弟が苦手になりました。大上さんもその例外ではありませんでした。親と一緒に住んでいたのですけれども、住めなくなって、本当に林の中にひっそりとあるような家でひっそりと暮らしている2人を見たときに、胸が痛くなったのを覚えています。

 彼らの加害者というのが、また驚くことに、まだ24歳という若さですが、その行動は依存症ではないかと思われるような行動ばかりをとっているということも知りました。この悲劇は、彼がしたことですけれども、彼の周りにいた家族であったり社会であったり、そういうところにもたくさんの責任があるのではないかと私は考えます。

 彼は日頃から飲酒運転をしていました。それを止める家族は1人もいませんでした。だから、起こすべくして起こした事故だと私は思います。でも、犠牲になった方はたまったものではありません。でも、加害者の親はどうしたでしょう。加害者の親は、あのとき救護隊長となって救護をしていた人でした。でも、自分の息子が事件を起こしたということを知って、手のひらを返したかのように人間が変わりました。自分の子供を危険運転致死傷罪にしないようにするために署名活動を始めたのです。そして、小さなお骨が3つ並んでいる大上さんの家にずたずたと上がってきて、100円玉を3枚転がして、「これでアイスでも買ってやりな」と、そう言ったんです。どういった神経でそういうことができるのかと考えたときに、自分の子供が加害者になってしまうと親は鬼になってしまうのかなと思いました。私は嫌だなと思いました。大上さんは、そのことがずっとずっと心の中にいるのですよね。そのときの加害者の親が。その悔しい思いをまだまだずっと背負って今も生きています。

 いつだったか、大上かおりさんが私に言ってくれた言葉があります。「あのね、高石さん、報道とかでもみんなね、3人の命、3人の命って言うでしょう。でもね、3人の命じゃないのよ。あの子たちが大きくなって、いつか結婚したら、どれだけたくさんの命につながっていったか分からないの。どうして3人の命と平気で言うのだろう」。それを言われたとき私はびっくりしました。すごいことに気付かされました。そうか、私の大事な息子の命も1人の命ではなかったのだ。これから結婚して何人の子供に恵まれたか分からない大事な尊い命だったのだ。そう思ったときに私は、まだ私よりもずっと若いかおりさんが、そんなものを思い、背負って、これから先も生きていくのだと思ったら、何も言う言葉はありませんでした。

 でも、私たちはこういう事故はこれで最後にしたかったのです。うちの子供の事故のときも、これで最後にしたいと思って署名活動を始めました。こんな苦しい思いをする親は、二度ともう作ってはいけないと思いました。でも、どんどん飲酒運転の事故が後を絶たず起こっていました。

 大上さんの事件の後、道路交通法が一部改正されて、私なんかが国会に呼ばれて一生懸命意見を言わせてもらいましたが、あのときは道交法を変えるということだったので、法改正とは違うので、私たちが求めているところとは違ったのですけれども、いろいろなところが変わって、それはそれですばらしいものになりました。そうやって、いろいろ今まで40年近くも変わらなかった道路交通法を一部改正してもらえたということにもつながったのですけれども、やはりたくさんの血が流れてから、やっと国が動いたということになります。それは悔しいことです。

 そして、私たちは、これで本当にもう同じような事故が絶対起こらないよねと、そう思っていましたけれども、全国のあちこちで同じような事故が起きては、その御両親たちと会って、その街で署名を集めていました。私たちは、高石家で始めた署名活動から10年もの間、毎年毎年全国のいろんなところで署名を集めては、1年間集めた分をその年の法務大臣に提出していました。一生懸命問題提起していました。いろいろな自助グループの方たちと連携をとって、上申書を書いて、要望書を提出して、そういうことをしながら一生懸命生きていました。

 私はいつか拓那に会えると信じて頑張っています。いつか会ったときに、「何やってたんだよ、母さん。俺が逃げ得を教えたのに、何にもしなかったのか」と言われたくなかった。いつか会ったときに、「頑張ったね。見てたよ、よくやったね」と言ってほしい、そんな思いだけで一生懸命やっていました。法律はそう簡単にできるものではない。本当に道交法が改正されるときも、うれしかったのですけれども、やっぱりどこか逃げ得という法の穴が埋まらなかったところで、落胆のため息を私たちはついてしまったのです。でも、二度とこの恐ろしい、一遍に命がなくなるような事故はなくなるのだと、そう思いました。

 でも、全然なくなりませんでした。本当にあちこちで事故が起きました。飲酒だけではなくて、持病を抱えている人が薬を飲み忘れて、何人もの幼い命を亡くしたという、とんでもない事故が起きました。朝方まで遊んで、車を運転していた無免許の男の人が、朝の学校に行くバスを待っている子供たちの列に突っ込んでいって、お腹の大きいお母さんや子供たちを含め、命が亡くなるという恐ろしい事故も起きました。あちこちでどう考えても危険運転であろうという事故が後を絶たずに起きていました。

 私たちは、署名活動をしているとき、苦しかったです。署名活動は決して楽しいものではありません。一番遠いところでは沖縄までも行きました。なるべくたくさん人が集まるところで署名をしていました。そこで何度も何度も苦しい思いをしました。酔っぱらっている人に絡まれたこともあります。「おまえらみたいな者がいるから酒がまずくなるんだ」と因縁をつけられたり、「あんたたちのせいで、うちの父さんの店がつぶれた」と因縁をつけられたり、子供を抱えた若いお母さんが、「飲酒運転をするから、そんな署名はできない」と言われたことも何度もあります。そんな思いをしてでも、私たちは声を上げて署名を集めなければいけませんでした。たくさんたくさん署名を集めて、一体どれだけ集めたら法律が変わるのだろう、そう思っておりましたけれども、後から後からたくさんの被害者が現れて、そして遺族がどんどん増えていくのです。とってもとっても嫌でした。つらかったです。

 そんな中で、危険運転致死傷罪そのものを考えようとなったのが、3年前でした。その春から法改正がいよいよされるという準備に入りました。私たちは、法制審議会にもちゃんと第1回の勉強会から参加させてもらって、その年の秋に、衆議院も参議院も全部反対者数ゼロで通って、新しい法律ができました。自動車運転処罰法というふうに形が変わりました。その中に、私たちが求めている逃げても特にならない法律が入っています。それは、アルコール等影響発覚免脱罪というものです。アルコール等の「等」という字は等しいという字で、お酒のことだけを言っているのではありません。薬物のことも言っております。影響発覚免脱罪、この「免脱」という言葉に、逃げても得にならないという言葉がちゃんと入っているのだということだそうです。

 この法律は12年以下という極めて低い刑だと私は思います。以下ということは、下がゼロだということなのです。だから、免脱罪で処罰されたとしても、ゼロがあるわけですから、無罪であったりとか、執行猶予がついてしまうのが目に見えるのですね。でも、私たちは法律ができるということに希望を持ちました。なぜならば、この新しい法律を併合罪で使うことができるからです。この免脱罪というものにひき逃げ罪というのを併合させると、18年というところまで持っていけます。そして、危険運転致死傷罪の下に、もうちょっと緩い準危険運転致死傷罪というのがあるのですね。その準危険運転致死傷罪との併合罪で22.5年まで引き上げることができます。そして、もっとすごいのは、危険運転致死傷罪との併合罪で30年まで持っていくことができるという計算が成り立つのです。

 私たちは、もし間違って同じような飲酒運転のひき逃げの恐ろしい事件が仮に起きたとしたら、このような併合罪を使っていって、重い刑というもので加害者が罰せられて、そして今でもなお飲酒運転を繰り返している人たちにすごい警笛を鳴らせることにつながるのだと思ったのですね。そして、司法がこの新しくできた法律を正しく運用するのを見届けたいと思いました。

 私たちは、法律ができたら解散しようと言っていたのですけれども、実はこの法律が施行されるというふうになった、法律ができて年が明けての5月、やっと施行されるとなって、ほっとしていたのもつかの間、その年の7月に小樽のドリームビーチで女性4人が死傷するという、飲酒運転・ひき逃げの恐ろしい事件が起きてしまいました。私たちは、どうしようかと思いました。たくさんのマスコミの方たちに意見を求められました。「どうしたらこのような事故がなくなると思いますか」とみんなが聞くのです。でも、私は逆に、私の方こそ、「どうしたらみんなやめてくれるのですか」と聞きたくなりました。とってもとっても悔しかったです。

 そして、私は恐ろしい事件がちゃんと危険運転致死傷罪で重い刑で処罰されるものだと思って、見守ろうと思っておりましたら、いとも簡単に過失という形で報道されました。過失というのは、ついうっかりやってしまったということです。冗談ではないです。13時間もの間、お酒を飲み続けていたあの青年は、ついうっかりの事故ではありませんでした。運転しながら前を見ていたわけではなく、下を見てスマートフォンをいじりながら運転していたということもはっきり後で分かるわけですけれども、なぜ検察はあの恐ろしい事件を過失と最初にしてしまったのか。そして、うなだれて何もできなくなった御遺族に対して、あなた方にすることは何もない、何もできないんだと頭の上からふたを押しつけているような、そんな状況でした。

 私は何とかしてあの御遺族に会いたかった。いろんな記者の方たちに私の名刺を配りまくって、チラシやら何やらを配りまくって、何とか道筋を通そうと思いました。そしたら、その夢がかなって、あるお母さんから電話が来ました。「高石さんは、過失を危険運転にする方法を知っているんですか」と言うその声は、悲鳴のようにも聞こえました。そこから私たちは小樽のあの御遺族たちと出会うことができました。

 そして、苦しいけれども、署名を集めて、そして何度も何度も検察に行って、これは危険運転なのだと。12、3秒の脇見運転は、海の中道で起きた事件と何ら変わらない。あのときも最初はとても軽い罪だったけれど、何度も裁判をやり直していって、最高裁でやっと危険運転だと認められて、20年の刑を取ることができた。10秒以上もの脇見運転は、飲酒していたからこそできる長い時間の脇見運転だということの判決なのですね。だから、小樽もそれと同じなのに、なぜ過失なのかというところを焦点に合わせていって、私たちは署名を集めました。2か月ちょっとで8万近い署名が集まっていました。

 私や、私たちの会の仲間や、北海道交通事故被害者の会の会長とともに、私たちは偶然、内閣府に呼ばれて、その小樽の署名を集めている期間、東京に行くことがあったので、最高裁に行きました。そして、この事件と海の中道事件を比べても変わらないのに、なぜこれが過失なのかということで考えてほしいという意見を言わせてもらってきたのですね。それから数日してから、札幌の地検がやっと重い腰を上げて再捜査をするという形になり、そしてあれよあれよという間に危険運転致死傷罪で訴因変更することができました。あのとき、御遺族の方たちが私に駆け寄ってきてくれて、「高石さんに会えてよかった」と言ってくれたことがうれしかったです。

 でも、違うんですよ。被害に遭ったり、遺族になってしまった私たちが声を上げて、マスコミに顔を出して、名前も住所も年齢も全てさらけ出して活動しなければ新しい道が開けないのは間違っています。悔しいと思います。本来ならば、加害者が「自分はこういうことをしてしまった人間です」と出てきて、「みんなもうしないで。自分も苦しいからもうしないで」と言ってほしいです。なのに、子供を殺された私たちのほうがこうやって表に出て事を動かさなければ世の中が変わらないということは、本当に悔しいです。

 あの小樽事件の後、訴因変更がされたということで、最高検から通達がおりました。被害に遭った方々にこのようなことをさせてはいけないということなのです。それでも、さてどうでしょう。小樽の事件は今、加害者が上告しておりますので、最高裁の判決を待っているような状況なのです。まだその結果が出ていないので、あの22年という刑はまだ確定しているものではないので、小樽の御遺族の方たちは、いつも心が不安定なまま今も生活しています。

 そんな中で、昨年6月、砂川でまた恐ろしい飲酒運転のひき逃げが起きてしまいました。先日、本当についこの間、その判決がやっとおりて、23年という求刑どおりの判決という異例の判決が出ました。でも、この判決は、私の中では実は納得できるものではありませんでした。小樽のときは求刑よりも重い判決になったので、ざわめきがありました。「うわあっ、すごい、やったあ」という声が至るところで響いたのですけれど、今回の砂川の事件の判決のときは、一瞬静寂したような不気味な空気が流れたのを、「何なのだろう、これは」というふうに感じました。

 そして、私はこの数日ずっと、あの一瞬の静けさは一体何だったのだろうと考えてみました。私の中で一つ一つ理解できていることがあります。1つは飲酒運転であったのです。血中アルコール濃度は基準値をはるかに超えている数値が出ているのです。でも、この事件は飲酒というところの問題を重視せず、2人とも共謀して行われたレースをしていての事故であるというところで、共謀罪を適用していって重い刑にするというところが重視されていたのです。だから、飲酒というところをはっきりさせないまま判決はおりました。

 そして、私はあの事故の後、すぐ事故現場に行ったのです。小樽事件で一人っ子のお嬢さんを亡くされた原野さんというお父さんと一緒に事故現場を見に行ったのです。まだ生々しく血の跡がありました。後車を走っていて、お兄ちゃんをひきずって死なせてしまった加害者は、自分の友達が事故を起こしたのを分かっていたのですけれども、急ブレーキも掛けず、そのままお兄ちゃんをひきずってその場から逃げるのですけれども、信じられないぐらいの左折、右折を繰り返して、その間、ものすごくキュッ、キュッ、キュッとお尻を振るのです。大きな車だったらしいのですけれども、お尻をキュッ、キュッと振っているタイヤ痕がまざまざと残っていて、そこには血が付いていました。そして、最後にお兄ちゃんを車から引き離した跡までありました。車の底からひきずってお兄ちゃんを出して、それから加害者は2人して逃げるのですね。その状況があの事故現場ではっきりと分かる状況を見てきたのに、それは殺人事件ともされずに、私にしてみたらまだ生きていたであろうお兄ちゃんが、あの場ですぐに助けられていたら軽症で済んでいたであろうお兄ちゃんが殺されているにも関わらず、そこの部分がきちんと処罰されないままで終わってしまったこの裁判に矛盾を感じています。あれは殺人です。本当に殺人です。

 人だと思わなかったと最後まで加害者は言いました。でも、人だと思っていたから、あのようなものすごい腰の振り方をする運転をしていたのです。でも、それが証明されないままであの判決を出した。それはすばらしいことなのです。重い量刑があってこそ、今でも飲酒運転をやめられないでいる人たちに警笛を鳴らせることにはなるのです。でも、私は後続車であった加害者が起こしたものは、ただの交通事故ではなく、あれは殺人だと思っています。せめてあのお兄ちゃんだけでも生き残ってくれていたら、残された12歳のあの女の子の将来のことを考えたら、本当にせめてあのお兄ちゃんが生きてくれていたらと思ってなりません。

 今、意識障害があって当時のことを覚えていないそうですけれども、いつかあの子が大人になってはっきりと何かを思い出したとき、裁判の記録を見るときがあると思います。そのときに憎悪であったり憎しみというのが、そのとき初めて彼女の心の中に生まれるのだとしたら、そのことの罪というのはすごく恐ろしいものです。私は、あのお兄ちゃんを殺した加害者は無期懲役でもいいと思っています。これは被害者感情と言われるものなのでしょうか。私は、お兄ちゃんの無念を考えると本当に悔しいです。

 これから先もこのような事件が起きてほしくなくて、私はもがきます。でも、今年の5月にあるテレビ局の方から連絡がありました。「旭川で飲酒運転の事故があったのだけど、過失になってしまったので、高石さん、御遺族に会ってちょうだい」。その記者の方は私をわざわざ迎えに来てくれて、旭川まで連れていきました。そして、御遺族と会いました。

 旭川の事件は、中島朱希さんという小学校の先生をしていた30代の女の人が、とてつもない飲酒をしていた人に車をぶつけられて、ほぼ即死状態で亡くなりました。彼女には旦那さんと6歳の男の子がいました。御主人も小学校の先生でした。事故が起こるぎりぎりまで、フリー何とかというやつですか、私は余り詳しくないのですけれども、手を使わないで携帯で話ができるハンドフリーとかいうやつで、息子さんと御主人と話をしていたのだそうです。「もう家のすぐそばの道路を走っているよ。もうすぐ家に着くよ。待っててね」という会話のすぐ後、ガシャーンという音とともに、それが最後の会話となったそうです。

 そして、記者の方がなぜ私をそこに連れていったかというと、この加害者のしていたことを調べた結果、とんでもないことが分かるのですね。加害者は朝からビールを5缶ぐらい飲んで、農家をしていたのです。お母さんと2人暮らしの50代の加害者なのですけれども。毎日ビールを飲みながら耕運機で耕して、それでトラックに乗って米を配達したりして、夜になるとまたビールを飲みながら猛スピードで車を走らせるのが好きな加害者でした。スピード狂だったのです。誰1人自分の前を走らせないという、そういう運転をするのが日課だったそうです。だから、起こすべくして起こす事故だったそうです。車を運転しながらビールを飲んでいたそうです。とんでもないことです。家の納屋には信じられない量のビールの缶があったということです。

 記者の方が母親に話を聞こうと思ったら、「私は関係ない」と言って、母親は逃げて家に入ったそうです。これも愚かな家族がいたのですね。本来だったら、自分の子供が依存症であるのであれば、病院で治療させなければならない家族が、見て見ぬ振りをして、そして罪のない人がまたこのような犠牲になった。そして、とんでもない恐ろしいスピードで走って事故を起こしているにも関わらず、旭川地検はこれをまた過失にしてしまいました。

 私はどうにかして署名をしないで、これを過失にしない方法があるはずだと考えました。小樽の事件がいい例です。そして、いい弁護士さんと出会うことを一生懸命話をして説得して、私の薦める弁護士さんと会ってくれました。そのことでみんなして上申書を書いて、何回も何回も検察官に会いに行って、お願いをして、そしてわずか1か月ぐらいで訴因変更することができました。

 このようにして今もなお遺族となった方々がつらい思いをして、何度も何度も足を運んで頭を下げて一生懸命お願いをしていかなければ、自分たちの思いを晴らすことができない。そして、いざ裁判になっても、結果がどうなるか分かりません。旭川の事件は、やっとこさ危険運転になりましたので、来年早々にでも裁判が始まるのではないかと思いますので、私はまた遠くから見守りたいと思います。

 私は、自分の事故を通して、このような活動をすることになりました。そして、子供を亡くすことの恐ろしさも知り、たくさんの遺族と会い、たくさんの裁判を傍聴してきております。何と皮肉なことでしょう。私はこの経験がなかったら、今もなお自分には関係ないことだとそっぽを向いていた愚かな一市民にすぎなかったと思うと、何と皮肉なことなのだろうと思います。こんな形で子供を亡くして、初めてやっと分かったのです。だから、私は「みんな人ごとではないのです」と一生懸命言っています。それが皆さんの心に一生懸命響いてくれたらいいなって、そう思います。

 ここに1通のメールがあります。息子が亡くなったとき、小学校の頃からの同級生だったある男の子が息子の携帯にメールをくれました。このメールが当時まだ16歳だった子が一生懸命打ったものだと思うと胸が熱くなるので、ここにいる皆さんに聞いてもらいたいと思います。聞いてください。拓那に来た最後のメールです。

 「拓那、多分最後のメール、ちゃんと俺の気持ち見とけよ。無駄に生きる、この言葉は僕のためにあるような言葉だと思う。将来の夢もない。ただぼんやり1日を過ごし、明日があるのが当たり前だと思っている。夜寝る前になると、もう1日過ぎていると思い、何もためになることをしていない。でも、今日は僕の人生観を変えることがあった。親友の死だ。こんな日が来るなんて夢にも思ってなかった。4時50分、こんな早い時間にひき逃げされて、寒かった? 痛かった? 大丈夫? の声も掛ける時間がなかったなんて。昨日の夜、「雪道、気をつけてね」のメールを送っていれば、もしかしたら。でも、もう帰らない。昨日少しでも何か言ってやれば。人が生きる上で無駄なことは何もないと思っていた。でも、僕の昨日の夜は何だったんだろうか。ほんの少し何かメールしていれば、違う結果が残ったのかもしれない。涙があふれてとまらない。事故に遭ったのは、神様のほんの少しの間違いだったのかもしれない。でも、僕は無駄なことは何もなかったと信じたい。人は生まれると同時に、死に向かって歩いていく。僕らは生と死を背中合わせに生きている。もう僕は後悔したくない、後ろを振り返りたくない。あした、いや今から1秒も無駄にしない。拓那、僕の声が聞こえますか」というメールです。

 私は、拓那の親友たちにずっと支えられて、今も生きています。彼らはずっと家にいたけど、ちゃんと進学してくれました。その裏にはどんな努力があったかと思うと、私もめげないで生きていかなければと思います。十数年たっても事あるごとに彼らは来てくれます。担任の先生も、誕生日、命日、必ず欠かさず来てくれます。このことが私も自分自身、しっかり生きていかなければならないという戒めと考えて、これからも何とか生きていきながら、起きてしまった事故、そしてそれに向かう御遺族たちの支えになるかどうか分かりませんけれども、自分のできることを一つ一つやりながら生きていきたいと思います。

 そして、昨年の12月1日に道では飲酒運転根絶のための条例ができまして、私も第1回目の勉強会から参加させていただきましたが、罰則のない条例ですので、これからこの条例を強いものにしていくための働き掛けなどをしていきたいと思っております。皆様もどうかお体、御自愛ください。

 そして、いつか今の子供たちが大人になったとき、日本でこういううわさ話をしてほしいのです。「ねえ、知ってる? 日本でね、昔、飲酒運転をしてる人がいっぱいいて、たくさんの人が亡くなったんだって」、「ええっ、信じられない」。そんなうわさ話が出る未来を作るために、私たちはその礎を作っていきたいと思っております。そして、これからも頑張ります。皆様もお体、御自愛くださいますよう、これからも元気で頑張っていただきたいと思います。

 今日は私の話を聞いてくださってありがとうございました。

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