広島大会:基調講演

「天使が空に帰った日」

清水 誠一郎

 本日は、被害者支援週間広島大会にお招き頂き、内閣府、広島県、広島県警察、広島被害者支援センター、そして今日御参加いただきました皆様に心から感謝いたします。ありがとうございます。

 今から講演をさせていただきますが、初めに娘が生きた3年間、そして事件当日の家族の様子、それから今後社会に求めることを私たちの考えでお話をしたいと思います。話の中で失礼な点や、また話ができなく、詰まったり、泣いたりする場面もありますが、これも被害に遭った者の姿と思っていただき、最後までお聞きいただければと思っております。どうかよろしくお願いいたします。隣に妻が同席しておりますが、本日は私からのお話ということでさせていただきます。

 娘の心(ここ)は、平成19年9月21日、清水家の4番目、長女としてこの世に生を頂きました。それから天国へ行くまでの3年と半年、月に直しますと42カ月があの子のこの世での人生でした。娘は、生まれてすぐから私どもが仕事をしている都合で保育園のほうへ0歳からお預けしました。手放す娘を見る毎日も、保育園に置いていく毎日はつらく、それでも成長していく姿は親にとって誇らしいものでした。それから、1歳、2歳、3歳と成長していく娘を見ながら、家族の中に女の子がいるということは、妻にとって、また私にとっても本当にうれしいことでした。上の3人のお兄ちゃんも、いつも心を真ん中に笑顔あふれる家庭でありました。心がいる家庭は、心を真ん中にいつも太陽の周りを回っている私たちを照らしてくれていました。

 そして、そんな中、普通に過ごしていた何もない普通の一般家庭の私たちに、突如地獄へと下りる階段がおりてきました。それは皆様も報道等で少しは御存じかと思いますが、平成23年3月3日、雛祭りの日です。その日が私たちにとって一生忘れることのできない苦しい、つらい日になりました。それは、3歳の心が私たちの家庭から消えた日でした。

 夕方のお迎えを妻が行き、その日、雛人形を手作りで保育園で製作しておりました。その雛人形を持った娘を妻が迎えに行き、そして私の帰りをいつものように家族みんなで待っておりました。そして、私が帰宅し、いつものように私がお酒を飲んでおりましたので、その日は妻と、そして私と3番目のお兄ちゃんと、それと心で、いつものスーパーへ日ごろと変わらない状況でお買い物に行きました。

 そこへ買い物に行き、本が大好きだった娘は、お兄ちゃんと2人でスーパーの中にある本屋さんでいつものように大好きだったアンパンマンの本を楽しそうに見ていました。その間、私と妻は買い物をし、そして私が買い物をしたものを袋に詰めておりました。そのとき、心が走ってまいりまして、「パパ、トイレに行っていい? おしっこがしたい」と言って私のところへ来ました。1人で行くのがまだ不安な私は、「ちょっと待ちなさい」と娘に言葉をかけました。しかし、娘は「どうしても今行きたい」と言い、その足で私の前からトイレのほうへスキップをして、トイレへ向かいました。私の場所からトイレまでは15メートルぐらいの距離しかありませんでした。私の目でずっと娘を追い、娘がトイレの角を曲がるところまで私はしっかりと確認し、そしてその後、すぐに娘のほうへ向かいました。スキップをしてトイレへ向かっていく娘の姿は、今でも私の目に焼きついて離れません。

 そして、迎えに行った私を待っていたのは、不安という2つの文字でした。呼びかけても娘の声は返ってきません。何度も何度も「心、心」と呼びましたが、「パパ、ママ」という娘の声は返ってきませんでした。しかし、トイレに行っているものだと思っている私は、まず男性トイレを探しに行きました。しかし、そのトイレの中には娘の姿はありませんでした。その後、妻と合流し、妻が女性のトイレを見に行きました。しかし、「心はいないよ」という返事が私に返ってきました。そのときに思ったのは、隣にある100円ショップに私が目を離した隙に行ったのだと思い、不安が普通の日常に変わりました。しかし、100円ショップを探しても娘の姿はありませんでした。その後、やはりトイレから出ていった姿も見ていませんので、もう一度トイレへ帰り、娘を探しました。何度探しても、何度呼んでも心の声は返ってきませんでした。

 そこで、近くにいたガードマンの方に、娘を探してくださいと。もしかしたらどこか裏のほうに間違って入っていったのではないかと頼み、ガードマンの方と一緒に娘を捜索しました。その後、どうしてもトイレから出てきた姿を見ていない私は、もう一度トイレへ行き、そしてまた娘を呼びました。しかし、そのときにも娘の声は返ってきませんでした。

 その後、警官の方が2名来られ、そしてそれから熊本の私たちの管轄である熊本北警察署のほうへ警官の方から連絡が行き、そこへ警官と、また鑑識の方が数十名来られたのを覚えております。その間、私と妻はあらゆるところを探し、そしてどこかに隠れているのだと、どこかにいるのだと思い、必死に探しました。しかし、どれだけ探しても娘の姿はありませんでした。

 そのときです。私が一度だけノックをした場所がありました。それは多目的トイレと言って、今は名前が変わっておりますが、私たちの事件があったその時期、まだ障害者トイレとなっておりました。私は仕事上、身体障害者の方と一緒に生活をしております。障害者のトイレをむやみに開けることは、私にはできませんでした。ノックをしたとき、中から使用していますと男性の声で返事が返ってきておりました。そのとき、娘はそこにはいないと私は思っておりました。その後、自宅へ帰り、不安と絶望の中、家に閉じこもり、警官とそして妻と2人での夜が始まりました。

 家の通信機器には、警察の方が逆探知装置、また機材を取りつけられ、初め身代金目的での犯行だということで捜査が始まりました。そのため、どうしても探しに行きたいという私たち2人を、警察の方から「外へは出せません。お父さん、お母さんは電話に対応してもらいます」ということで、自宅から出ることはできませんでした。その間、娘がどこにいるのか、今何をやっているのか、そして頭の中によぎったのが、生きているのかということでした。そして、妻と2人、手を握り合い、絶対生きていると。明日の朝になれば、警察の方がしっかりと抱えて家に連れて帰ってきてくれるよと、そう信じて朝を迎えるまで必死に頑張りました。

 しかし、その中で夜の12時を過ぎるとき、私の心の中には、もしかしたら娘はもうこの世にいないのではないかと、今でも娘にすごく悪いと思いますが、思ってしまいました。

 そして、朝を迎え、帰ってくるという状況を想像しながら、私と妻は少し疲労もあり、無心になっておりました。そんな中、妻から「ちょっと見て」と言われ、見た携帯のテロップには、「3歳女児、遺体で発見」という文字が流れておりました。しかし、私にはそれがどうしても娘だということを認めることができませんでした。

 そして、そこにおられた警察の方に、「こんなのが流れています。本当ですか」と問い詰めました。すると、「本部のほうからまだ連絡が入っておりません。そういう事実は一切ありません」というのが警察の方の答えでした。その言葉に私たちは、良かったと、やはり心(ここ)はまだ生きているんだと。警察の方が今必死に見つけてくれているのだと、そう信じて、時間が来るのを待ちました。

 しかし、その後、また同じ警察官の方から聞いた言葉は、「病院へ運びます。搬送します。お父さん、見つかりましたよ」と。病院へ搬送ということは、けがをしているのだと。でも、生きているぐらいのけがなのだろうかと私と妻は思いました。しかし、命があるから良かったねと。やはり警察の方が一生懸命見つけてくれて見つかったのだよと、妻と2人、安心しました。

 しかし、そのまた数秒後、警察の方が、「お父さん、先ほどの連絡は間違いでした」と。私は「無事にそのまま帰ってきます」と聞きたかったというのが本心でした。しかし、警官の方から出た言葉は、「今から警察署へ運びます」と。「警察署へ運びます」の意味が私には分かりませんでした。無事だから一度警察で保護されているのだと、初めはそう思いました。しかし、警察の方の表情は固く、「良かったですね」という言葉もありませんでした。なぜ警察署へ行くのですかと聞いた私に、返ってきた言葉は「遺体の確認です」と。「遺体の確認の意味が分かりません」と、私は警察官の方に強い勢いで詰め寄りました。しかし、答えはそれから変わることはありませんでした。

 そして、その後、警察署のほうへ警察車両に乗り、娘の待っている場所へ行きました。その場所は地下にある冷たい狭い部屋でした。そこに小さいテーブルのようなものがあり、その上に緑のシートをかけた何かが横たわっていました。私は、それが娘だと思いませんでした。妻と2人、絶対違うと。これは何か娘の持っていたものではないかと。しかし、警察官の方が「確認をお願いします」と言われ、めくられた緑のシートから見えたのは、紛れもなくうちの長女の心(ここ)でした。目を閉じて、ぴくりとも動かない娘でした。その時点で、私も妻も娘の死を見つめることはできませんでした。

 そのとき、もう一つ言われた言葉が、「娘さんを今から解剖します」と。何の状況かも把握できていない状況で、娘を解剖しますと聞いた私たちは意識がなくなりました。妻はそのときのショックで、今奥歯がありません。奥歯をそのときかみ砕いたそうです。そのぐらいのショックが、そのとき私たちに訪れました。それから、何時間かの記憶が私にはありません。それから、どうやって自宅へ帰ったのか、そしてどうやって娘は運ばれたのか、そういうことも考えることができませんでした。

 そして、その後始まったのが、マスコミとの戦いでした。自宅の周りには、ドアを開けられないぐらいのマスコミ、そして家の周りは畑ですが、その中にもいっぱいたくさん脚立、そしてマスコミのカメラ、それから上空にはヘリコプター、何かお祭りでもあるかのように家の周りは騒がしくなっていました。何も分からない私は、一度ドアを開けてしまいました。そのドアを開けた瞬間に見えたのは、知らない女性と知らない男性とたくさんのカメラでした。私たちが置かれた状況は見せ物でした。娘が亡くなったという事実も把握できていないときに、家の周りはそんなふうになっておりました。

 そして、そのとき妻と2人で思ったのが、子供たちを守ろうと。そこで、私が行動したことは、家に閉じ込めることでした。家の中から子供たちを外に出さないことでした。そして、子供たちを2カ月、家の中に監禁状態にしました。それは、外に出て、また命を奪われることが嫌だったからです。家族以外、誰一人信じることができない状況になっていました。そして、警察官の方のおかげでマスコミは一たん引きました。しかし、その後、御近所を回っているマスコミのおかげで、御近所の方にも御迷惑をかけているということが分かり、近所の方とも目を合わせることができなくなりました。

 その後、家にいることのできない私たちは、一度、妻の実家のほうへ身を委ねました。そして、私たちの生活が始まりました。その間、3人の兄たちは学校へ行くこともできず、外にも出ることができず、家の中でずうっとテレビ鑑賞をしておりました。しかし、テレビに妹のニュースが流れるたびに、テレビを消して、そして1人ずつ各部屋に散っていっていました。子供たちもすごい傷を心に負っていたと、そのとき私はようやく気付きました。

 そして、時が流れ、4カ月が経ったとき、長男が「お父さん、学校に行っていいね」と聞いてきました。しかし、外に出したくない私と妻は、「学校は行かなくていい。外に出ると危ないから」と、長男を1回止めました。それでも、その数日後、もう一度「やはり学校に行かせて」と言うので、長男を長男の意思のとおり、学校へ行かせることにしました。それが私たちがもう一度家族として歩み出した一歩でした。

 そんな中、支援センターの支援が始まりました。しかし、人を信用することのできない私たちは、知らない顔の女性が2名、そして男性が1名、3名の人が家に来られ、「私たちが支援をします」というお言葉をかけていただきました。しかし、私は「そういうのは要りません。私たちはもう誰かから助けてもらうこともしなくていいし、生きていくつもりもありません」と、そこで支援員の方にお断りをしました。しかし、その後、何回も何回も家へ訪問される中で、私たちも少しずつ心を開いていきました。それから、支援員の方と私たち家族との二人三脚が始まりました。長男の一歩をきっかけに、次男、三男も学校へ行くようになり、少しずつ日常生活が戻ってまいりました。

 そんな中、火葬の日に戻りますが、葬儀の日、娘を大学病院へ引き取りに行き、やっと帰ってきた娘を私たちは1日、家族と娘と一緒に過ごしました。その娘の姿は今でも家族の宝物になっています。しかし、葬儀の日、皆さんが泣いている姿、また黒い服を着て葬儀場におられる姿を見たときに、私は娘をこんな目に遭わせてしまったと、殺してしまったと、全部私が父親として果たす責任をやっていなかったと、責任は自分にあると、そのとき心に思いました。

 そして、私と妻が1回死んだという場面があります。それは火葬をするときに、火葬場でボタンを押す瞬間です。普通、押すのは息子だったり次の者ですが、私たちは自分より先に我が子の火葬のボタンを押しました。それは私たちにとって死の瞬間と全く一緒で、今でもその瞬間を思い出すと死にたくなります。

 しかし、そういう気持ちでいた私たちに、先ほど言いました支援員の方との二人三脚が始まり、そして精神的に追い込まれていた私たちは、支援員の方の御紹介で今でも通っております心療内科のほうへ通うようになりました。

 皆さんは、恐らく家族がそういう目に遭ったら犯人を責めるだろうと思われると思います。しかし、それは違います。私たち被害者は、まず自分を責めます。犯人にそういうチャンスを与えたのは自分だと、そうしか思えません。それは今でも一つも変わっておりません。そして、その思いで裁判を始めました。

 裁判というものが私たちに必要なのかと。それは、今も言った言葉のとおり、自分が悪いのですから裁判をする必要もないし、犯人と会うこともない、それが本当の気持ちです。しかし、娘を殺した犯人にだけは仕返しをしたいと、その気持ちはありましたので、裁判をすることにしました。本来なら、私が犯人を殺し、そして私もその場で死ぬつもりでした。犯人にとっては知らない私ですが、私にとっては大事な娘を殺した人、そしてその前にいる私は、大事な娘を犯人に渡した人間です。私にとって犯人と私は同等だと、今でも自分の中にはそういう気持ちがあります。しかし、子供のために裁判をしようと言ってくれた支援員の方もおられましたし、犯人を裁くには裁判しかないと。今この日本で裁判でしか犯人に仕返しをすることはできないと言われて、必死に裁判を行いました。

 1年半、娘の死から裁判まで時間がありました。それは、娘を殺した犯人が「私は精神的疾患があります。病気なのです」と訴えたことによって、精神鑑定という場所へ送られたからです。今、精神鑑定と必ず付いてきますが、私にはその精神鑑定の意味も分かりません。仕事上、精神の障害を持っている患者さん、そして身体の障害を持っている患者さんと一緒に私は毎日過ごしております。これだけは言えますが、そういう人は人を殺したりは絶対しません。正常な者でなければ人を殺すことはできないと思います。

 そして、そんな中、裁判が始まりました。1年半かけて私はようやく心療内科の先生のお力もあり、裁判の調停の場所に着くことができました。そこにいたのは、犯人の大学生の男性でした。初めてそのとき彼の顔を数メートルの近くで見ました。下を向き、そして無表情で座っている犯人は、私にとって人としては見えませんでした。その犯人に今から証言をする私は、何なのだろうと。こんな人間に話は、私の気持ちは伝わるのだろうかと。

 しかし、思っていたとおり、その私の思い、家族の思い、娘の思いは、犯人には少しも伝わりませんでした。それは取り調べ中の映像を見て、私は思いました。生年月日や自分の身の回りのことを聞かれている犯人が、笑顔で取り調べを受けていました。そんな映像を裁判中、私たちは見ることになりました。殺された私たちは、こんなにおかしくなっているのに、犯人は笑顔で取り調べを受けている。これは何なのだろうと。私たち家族は、世の中に対してそんなに悪いことをしたのかと。犯人が悪いのではなくて、もしかしたら私たちが悪いのではないかと思ったのが、裁判所での私でした。

 そして、裁判員裁判制度を使い、被害者参加制度で私は必死に自分なりに一生懸命闘いました。そして、一般の裁判員の方から無期懲役という形で犯人に刑を頂きました。しかし、私たちは極刑を望んでおりましたので、裁判に対して満足ではありませんでした。しかし、その後、裁判員の方が私たちの娘の映像を見て、精神科に通われたり、倒れられたり、嘔吐されたり、家で苦しんでいるというのを聞いたとき、私たちは苦しんでいるのは自分だけではないのだと、裁判員の方も苦しんでいるのだと。そのとき、娘が亡くなってから初めて人への感謝という気持ちが生まれました。

 その後、息子たちも普通に生活をするようになり、そして2年かかりましたが、私も職場へ復帰しました。これでようやくもしかしたら生きていける道ができてきたなと思っておりました。しかし、そんな中、もう一つ家にショックを与える事件が起こりました。それは私たち家族を一番初めに前へ進めようとした長男が、事件のショックで今、片耳が聞こえなくなっていたことです。

 長男は、大分前から耳がおかしいと自分では思っていたそうですが、2年たったときに初めて耳が聞こえないと私たちに言ってきました。そのとき、私は娘も助けることができなかった。そして、息子も片耳を聞こえなくしてしまったと、やはり親として人として生きていていい人間ではないのだと、もう一度思ってしまいました。しかし、その息子が「これは自分でなったのだから、大丈夫だよ」と言ってくれました。でも、あの耳はもう聞こえることはないということで診断を受けております。

 家庭がそんな犯罪を受けて、どんどんいい方向から悪い方向へしか進まないようになりました。次男も学校へ行くときに、今でもパニックになって、朝から登校できないことが何回もあります。三男はまだ5歳でしたので、あまりよく分かっていませんが、あの子の心の中には心ちゃんを守れなかったという気持ちが今でも根付いています。なぜかといいますと、事件の後、5歳の息子がうちの妻に言った言葉が、「僕が代わりに死ねばよかった。僕が死んどったら、心ちゃんは死なんでよかったんだ。だから僕が心ちゃんを殺したんだ」と、そういう言葉を妻に言っています。しかし、みんな少しずつですが、今前へ進んでおります。これは私たちの力だけではなく、周りに支えてくださった方々がいたからだと今はすごく感謝いたしております。

 しかし、人の命を奪うということがどれだけのことなのかというのが、この世の中に分かっているのだろうかという事件が、娘の後も続いております。人の命は、その人のものだと。親であれ家族であれ親戚であれ、その人の命を奪う権利は誰にもありません。人一人の命は、その人のものなのです。それが娘が死んだ後、続いている事件を見るたびに思います。

 犯罪で人を亡くすと、もう一度昔には戻れません。普通の家庭に戻るには死ぬしかないと私は今思っております。私たち家族も今、普通に生活しているように見えますが、隣には常に真っ黒い大きな穴が開いています。後ろから少し押してもらえば、すぐその穴に飛び込んで、心ちゃんのところに行けるという考えが家族みんなの中にあります。こうやって話している間も、生きていていいのだろうかと考えることが何度もあります。

 しかし、私がなぜ苦しみながらも講演をしているかといいますと、私1人ではできないことが多過ぎて、犯罪をなくすために皆さんのお力をおかりしたいということで、ずっとこうやって話をしております。

 犯罪者は今、刑務所に入っております。そして、刑務所の中にいて、世間から責められることもなく、毎日御飯を食べ、そして生きております。私たちは、ここに来るまで4年間、いろいろなバッシング、そして横におります家内も何度も自殺未遂をしております。これは、私は被害に遭った者として、なぜ犯人よりも被害に遭った者が苦しまないといけないのかと、今でも毎日考えるところです。

 被害に遭うといいことがないと、私は今でも妻に言います。しかし、どうにか子供たちのために生きようと必死に進む妻の姿に、私は今連れていっていただいているだけで、いつでも私には死というものが見えます。こんな生活をしているのに、犯人は塀の中で平然と毎日過ごしているのだと思うと情けなくて、自分が何もできない男として悲しくなります。

 4年経ちましたが、犯人から、また犯人の家族から一切の謝罪もありません。犯罪者が刑務所に入り、刑を終えるまでに本当に反省するのかと、私は今でも思います。裁判所で、若い人だったら将来がある。だから刑も軽くなりますと、そういう話を聞いたことがあります。しかし、亡くなった娘は3歳半でした。あの子にもう将来はありません。20歳で犯人は刑務所に入りましたが、話だと30年ぐらいで出られるかもしれないと聞いております。もしかしたら、50歳でこの世に帰ってきます。しかし、30年たとうが、娘は世の中に帰ってくることはありません。犯人に未来があるのに、娘には未来がありません。

 しかし今、犯人に対してどうしてほしいということは、私の中にはありません。ただ、今思うのは、犯罪に遭った者が普通に生きていける世の中が欲しいということです。それは犯罪というものを見たくない、それがなくなる世の中です。私たちは、いろいろな場面で新聞やテレビで今でも犯罪を知ります。ただ、また命が奪われたことに関して、いつも同じようにあのときに戻ってしまいます。被害者は人のことではないのです。同じ人間が亡くなるだけで昔に戻ってしまいます。恐らく皆さんそうだと思います。犯罪で命を亡くされた形は違うかもしれませんが、みんな同じ状況に置かれると思います。私が私を責めたように、みんな自分を責めると思います。

 私も世の中からあのときいろいろな御意見を頂きました。そういう家庭だから子供も死ぬんだと。私だったら絶対に1人でトイレにやらない。親がしっかりしていないから、そういう目に遭うのだと、今はインターネットがありますので、いろいろな御意見をたまたま見たサイトで見ました。しかし、それを私たちが言われることもないのではないかなと今は思っております。なぜなら、私が今こうやって講演をしておりますが、私の話を聞いて共感してくださる方がここにはたくさんいらっしゃるということです。

 ここまでたどり着くのにいろいろな場所で話をしてきました。しかし、初めのうちは本当に助けてもらえるのか、手伝ってもらえるのかというのが本心でした。しかし、今はそれは違います。講演していく中で、皆さんにお願いし、そして皆さんに助けてもらおうと今は思っております。

 国に対して失礼なことかもしれませんが、裁判所でも私たちは被告人と同じぐらいの立場だったと思っております。それは弁護人にしろ、犯罪者にはすぐ国選弁護人がつきます。しかし、私たちには自分から請求しないとつきません。そういった面もありますが、何か被害者を後ろに置いているような気持ちも少しはあります。ただ、皆さんの力があれば、もっと被害者が前向きになれる生活ができるのではないかと今は思っております。

 今、私は45歳になりました。あと何年こういう話を続けられるか分かりませんが、命のある限り皆さんの前でお願いし続けたいと今思っております。そして、犯罪というものを遠く感じるかもしれませんが、犯罪は自分たちのすぐ横にあります。この世の中、今は便利になり、そして防犯カメラもあり、安全な世の中に見えますが、うちの娘も防犯カメラがある状況で、また人の多いスーパーで殺害されました。隣に犯罪があるというのをもう一度見ていただいて、昔の日本みたいに近所の子供なり1人で遊んでいる子に声をかけたり、そういうことをやっていく世の中でいいのではないかと今思っております。

 娘が生きた3年間は、私たちにとって素晴らしい宝物です。その宝物を私たちは大事にしていきたいと思います。そして、今日、少しですが、娘が3年間生きた記録をお持ちしました。今日、来ていただいている皆さんに、娘の生きていた姿を少し見ていただきたいと思います。今からDVDを映像に流しますので、少しの間おつき合い願えればと思います。よろしくお願いいたします。

 今、後ろに流している音楽は、娘が生前、私と一緒に車の中でよく聞いていた曲です。これが大好きで、いつもサビの部分を歌っていましたので、この映像の後ろに流しております。

(映像)

 ありがとうございました。今、見ていただいたのが、娘が3年間生きた記録の一部です。映像の中にありました、最後から2番目にあった白い服、ほっぺたに両手の人差し指を当てている写真は、事件当日の夕方、保育園で撮った写真です。あの写真の約3時間後に、娘はこの世を去りました。といったように、たった3歳で娘は幼児性愛の男性に性的虐待を受け、そして冷たい川の用水路で息を引き取りました。最後に、暖かい場所でと思っていた私たちの願いもかなわず、娘は天国へと行きました。

 こういうふうに犯罪に遭った者は、生きていく中でも必死で毎日生きております。どうか今日この大会に御参加された方々にお力を貸していただき、この世の中がもっと安全な世の中になりますように御協力をお願いしたいと思います。

 最後になりましたが、今日、こうやって私の講演をお聞きいただきまして、ありがとうございました。皆様に今日頂いたお気持ちと、また御恩は一生忘れることなく、今からも一生懸命生きて、必死に前へ進んでいきたいと思います。また、いつの日かどこかで見かけられたら、まだ頑張っているんだと思っていただければと思います。

 あまり大した講演ではありませんでしたが、本日は最後まで御清聴いただきまして、本当にありがとうございました。妻、また清水家の家族ともども皆様に感謝いたします。本日は本当にありがとうございました。

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