中央イベント:基調講演

「基本法の制定によって何が変わったのか-被害者支援の歩みと、今後の課題-」

山上 皓 (公益社団法人被害者支援都民センター理事長・東京医科歯科大学名誉教授)

皆さん、こんにちは。ただいま御紹介いただいた山上です。御紹介いただいたように、二十数年前に犯罪被害者支援の民間団体を立ち上げて、長く支援にかかわってきました。本年は、国の基本計画がつくられてから10年という節目のときということで、このイベントに講師としてお招きいただいたことを大変光栄に思います。私の今までかかわった経験から、基本法ができてからどういう変化が起きてきたか、そして今後どういう課題が残されているかということをお話させていただきたいと思います。

連日のように凶悪な犯罪についての報道がされておりますが、そのたびに新たな被害者あるいは遺族が生まれて、それから大変苦しい困難な生活が、人生が始まっているわけであります。日本では通常、自分が犯罪の被害に遭うなどとはほとんど思いもせずに生活をしております。でも、突然その被害に遭うと、人生が一変してしまうことがしばしばあります。それまで当然あると考えていたもの、自分の支えとしていたもの、あるいは将来の夢なども一気に奪われてしまうことがしばしばあるわけです。お子さんを亡くされて、自分を責め続けるお母さんもおりますし、傷ついた家族が互いを責め合って家庭が崩壊していくようなお家も見られます。家計を支えていた方が倒れて生活に困難をきたす人たちもおればし、心身に重い傷を負って、生涯苦しまれる人たちもおられます。

そういう人たちを見ると、本来これが医療の領域であれば、突然襲う重い病気とみなされるようなものですから、看護師さんとか医者とか、そういう専門家がきちんとサポートして回復まで応援してくれるのですが、犯罪被害者の場合にはそのような支援がほとんど何もありませんでした。こういう一瞬にして生ずる人生の大きな落差を乗り越えるというのは、私たちを含めてどんな人にとっても決して容易なことではありません。社会的な支援が必要なのですけれど、それが従来ほとんど何もされてきませんでした。

司法、法務の領域では、被害者はほとんど放置されてきたわけですが、一方で加害者である被疑者、被告人の人権が声高に叫ばれるという社会であったわけで、そういう社会のありようが被害者・遺族の気持ちをさらに深く傷つけてきたという歴史がございます。そんな時代に被害を体験した方の1例を紹介します。私は、法務省で中央更生保護審査会の委員をしていて、犯罪者、特に重い罪を犯して無期懲役などの刑を受けた方が、後に更生の道を歩み、仮出獄し、そして更生の実が上がったときには恩赦により刑を免除されるという制度の審査に関わったことで知った被害者・遺族の事情でした。

この加害者は、犯罪を行ったときには19歳の少年で、実は名前も年齢も隠してそのまま無期懲役の刑を受けて刑務所に入っていて、十数年後、その刑務所で隠していた名前も言って、身元もわかり、家族も応援してくれ、職員もいろんな援助をしてくれて、刑務所の中で勉強をし、いろんな技術を身につけて社会に出て、社会的にもある程度の成功をおさめて、老齢に達して、できれば恩赦をしてほしいという申請をしたわけでございます。

一方、被害者の遺族であるAさんというのは、生まれて間もないころ、お父さんが少し前に病気で亡くなっていましたので、お母さんとおばあさんの手元で育てられたところ、女ばかりの家だということで少年グループが強盗に入って、そして殺すつもりはなかったのかもしれませんけれども、時間稼ぎのために、もがくと首が絞まるような特殊な縛り方をして逃げたのです。そばで生後2カ月の赤ん坊が泣くわけですから、お母さんが動いてしまったのだと思います。お母さんが亡くなっております。Aさんは非常に苦労して、しかし本当に強く生きられて、自分の子供たちも立派に育て上げられ、そして46年後に自分の親の事件について初めて詳しく知らされるのが、加害者の恩赦の審査のための調査が行われた時のことです。法務省の保護観察所から来られた保護司さんからの話で、犯人が十分に更生しているので、恩赦についてどう思いますかというお話を聞かされたわけです。

そのときに、その後でAさんが保護観察所に送られたお手紙がございます。
「私は46年間放って置かれました。本人からも、国からも、誰からも、何の償いも受けることなく、ただ放って置かれました。本人の行為により、生活のすべてに、どれほど筆舌に尽くしがたいつらい影響を受けたか、計り知れません。なにより、乳飲み子を残して死なざるを得なかった母の無念さを思うと、絶対に許せません。母の無念を誰が代弁するのか。本人の恩赦については承伏しかねます。本人に恩赦を与えなければならない必然性が理解できません。いったい何のためなのか。私たちが受けた苦痛が癒されていないのに、本人が許されるということ、また許す必要があるということが、納得できません」と記されていました。

そういうお気持ちになるのは当然のような状況があったわけで、国がそれまで加害者をお世話したのと比べて、被害者に何もしてこなかったことの結果が、このお手紙に表れているのだと思います。 この事件については、その後、保護観察所の観察官や保護司さんがいろいろ加害者を指導して、慰謝もきちっとされて、その5年後にはこのAさんも、お母さんが納得してくれると思うというので、墓参りを保護監察官と一緒にして、それで受け入れられたという経緯がございますけれども、やはり国が加害者のお世話をしっかりとしながら、被害者をずっと放置してきたことの責任というのは、非常に大きなものがあったのであろうと思います。

犯罪被害者は、被害の直接の原因に加えて二次被害というのを次々と二次的に受けることになります。この被害者の場合は、電車で痴漢に遭って思い切って告発したところ、加害者にすぐ弁護士がつきますから、相手の弁護士に呼び出されて、「本人と同居している高齢の両親のことを考えてほしい」と言われたのだそうです。この被害者は、自分が悪いことをしていると、そんな思いになって、納得がいかなくて10日ほど眠れず、一晩中泣いたりして悩んだ結果、告訴を取り下げたといいます。そのときが一番つらかったといいます。今では被害者にも弁護士が国選でつけられるように、今度の基本計画で変わりましたけれども、犯罪被害者がさらに被害の後で傷つけられていることがしばしば繰り返されていたわけです。

これは殺人被害者の遺族の方です。高齢のお姉さんがシンナー乱用者に頭部をハンマーで乱打されて入院して、包帯をぐるぐる巻きにされたまましばらく放って置かれて、そこに付き添っていたのだそうです。病院側は、手をつけられなかったのか、傷口の手当もせず、後から院長が見に来て、「どの人?この人?もうだめだ」と大声で言ったと。残酷な事件とともに、病院のこの対応がいつも一緒に思い浮かび、胸の締めつけられる思いがすると言っています。被害に遭って、何とか助からないかと一縷の望みを持っているところで、こういう残酷な仕打ちを受けられた。二重の苦しみとしてずっと残っているということであります。

最後の方は、治療施設で患者を装った犯人がご主人に近づいて、突然刺して逃げたものです。加害者がその治療施設の関係者と思われたため。警察が直ちに奥さんを事情聴取して、長時間拘束されたため、おばあさんのところに子供を残していったのだけど、おばあさんが心臓が悪くなって入院して、子供もさらに他の方に預けられて、しばらくおかしな状態が続いたと言っています。また、ワイドショーのテレビ報道関係者が次々と押しかけてきて、それから逃げるのに必死であったということ。また、犯人からは、捕まった後でも自分が悪いわけではないというような、脅すような手紙が送られてきたという、そういうことでまた傷ついておられます。

犯罪の被害に遭うと、こういうトラウマですね、非常に激しい心理外傷的な体験をしますと、それが非常に大きくその人の精神状態に後々まで影響することがございます。トラウマ反応と言いますけれども、ここに挙げたのは殺人の被害者の場合に、なぜそういうトラウマの影響が強く残っているかということで調査したときに挙げられた項目です。

殺人という突然の不遇の死に伴う感情的な衝撃の大きさ。それから、悲惨な事件についての再体験。何度もその場面を思い出してしまう。あるいは、夢の中で見てしまう。こういうことが続くと、PTSDという本格的な治療を必要とするような障害に至ることもあります。それから、加害者に対する怒りも激しくありますし、加害者が逃亡しているときは、自分も被害を受けるかもしれないという恐怖もあります。それから、殺人被害に遭うというのは、本当にその地域社会の中で、少数の人間ですから、社会から孤立してしまうことがしばしばあります。それから、生き残ったことで自分を責める人たちもおります。

こういう激しい感情を伴う体験が複合的に作用して、普通であれば家族が亡くなったということを癒していくようなプロセスというのがあるのですけれども、その普通のプロセスを踏めなくなってしまうことがしばしばあるわけです。 それにまた加えて、捜査には協力しなければならないし、それから遺体の確認とかもしなければいけない。あるいは、メディアの対応もしなければいけない。また、被害に遭ったことで、生活を変えないといけない。例えば、学校を続けられなくなる、あるいは同じ職場にいられなくなるとか、あるいは転居しなければならなくなるというようなこともしばしばあります。そういう多様な困難があるわけで、これを1人で乗り越えるというのはとても大変なことなのであります。

こういう被害に遭ったときの心理的な外傷的体験というのは、通常は激しいものでも、ある期間を過ぎていくと自然と回復に向かうものですけれども、その程度が強いもの、あるいはそれが身体的にいろんな症状があらわれてしまうような状況になると、より専門的な、治療的な援助が必要になります。また、そういうように悪化するのを防ぐためにも、犯罪被害者のそばにはすぐに、できるだけ早い時期に、そういう被害者の気持ちに理解がある支援者がきちんと付き添うこと。そして、感情や言葉をきちんと受け止めるようにすることが大切であります。
また、それでもさらに重い症状が残る兆候があるときには、できるだけ早い時期に専門的な治療的援助をすることが大切で、そうしないと2年、3年、4年と多く長い時間を自分の家から出られなくなってしまうような人も中にはおります。できるだけそういう人を早く見つけて、適切な援助をすることが大切であります。

こういう犯罪被害者・遺族の方たちの支援のために、犯罪被害者等基本法というのがつくられました。これが平成16年12月1日のことであります。これは、初めて被害者・遺族の方たちの声、あるいは我々支援にかかわる者たちが一斉に行動を起こし、要請することで、国がようやく動いてつくった法律でございます。

この法律は、犯罪被害者支援を国、地方公共団体、国民の責務として定め、そして政府に犯罪被害者等基本計画の策定を義務づけて、内閣府に犯罪被害者等施策推進室を設け、そこが犯罪被害者等施策推進会議をちゃんと支えて、施策を進めていくということになっております。
基本理念としては、犯罪被害者等が個人の尊厳を重んじられ、その尊厳にふさわしい処遇を受ける権利を有することと、それから被害者のための施策が個々の被害者のニーズに応じて、それを必要としなくなるまで継続的になされるということを掲げております。そういう理念のもとで12の施策を挙げて、それを13番目で透明性をもって実行に移していくようにということが定められたわけでございます。そこで、基本法が制定されるまでの過程、どのようにしてつくられてきたかという、被害者支援の長い歴史を少し振り返ってみます。これは私たちがつくった被害者支援に関する歴史的な出来事を示す年表です。

私たちが民間で被害者支援を始めましたのは、1991年の「犯給法制定10周年記念シンポジウム」がきっかけになったものです。歴史を振り返って見てみますと、この犯給法制定にも、それに至る過程で、犯罪被害者・遺族の方々が大変大きな貢献をしております。市瀬朝一さんという、息子さんを殺された方が、「殺人犯罪を撲滅する遺族会」というのをつくって、その方たちが犯給法、被害者に対する給付金をつくるというときに積極的に協力して、こういう給付制度ができたという歴史があったわけです。私が被害者支援の活動を始めたのは、この91年のシンポジウムで、ある遺族の方が支援を求める発言をされたことがきっかけとなりました。 2000年から私たち支援スタッフもそうですけれども、被害者・遺族の方たちが全国的な活動をしました。それで、次々と新しい法律が改正され、2004年に犯罪被害者等基本法ができ、そして翌年、基本計画ができたということになります。

これが先ほど言いました1991年10月3日に開かれた犯給法制定10周年のシンポジウムを報道する写真です。シンポジウムの企画・運営を行ったのは警察庁の担当者です。このシンポジウムには、マリーン・ヤングさんというアメリカの民間被害者援助団体の代表を務める方が、アメリカでの取り組み、もう20年近く私たち日本よりも先行して活動していたわけですけれども、そこでの活動の様子。それから、精神的な被害の重さ、二次被害の問題、そして被害者への支援サービスについてお話をされました。 そのシンポジウムには、被害者学を専攻する法律家が招かれており、私はたまたまその前年にアメリカの犯罪の事情調査に行ったときに、アメリカでは、被害者支援を非常にしっかり社会を挙げて取り組んでいる様子を見ていたので、そのことを報告書に書いたことがきっかけで、このときのシンポジストの1人として招かれ、そして発表、意見を述べたわけです。

私はそのころ、日本の犯罪被害者の実態をほとんど知らなかったわけですが、それでもアメリカでの支援の状況を見て、日本でも毎年多くの被害者が生まれていることを考えると、日本でも同じような支援の活動が必要ではないかと言いました。けれど、日本ではそういう被害者の実態があまり知られていないこともあって、法律家の方は日本の被害者はあまり支援を求めたりはしないかもしれないと、そのように言われた方もありました。

そこで、フロアから富山の大久保恵美子さんが、日本の被害者は大きな声で泣くことさえできない、我慢していることしかできないのだと。子供を殺された親は、ほかの親たちに同じ思いを決してしてほしくない。アメリカのようなサポート体制を是非つくってほしい。自分たちもできるだけ協力するのでと言われたわけです。私は、たまたまその被害者支援を見てきていましたし、また精神科医としてトラウマの問題を理解できましたので、アメリカの支援に学んで日本でもそういう支援の試みを始めたいと思ったのです。

アメリカとイギリスの支援の歴史を簡単に示したものです。アメリカにはNOVAという団体があって、この組織自体は大きくありません。十数人のスタッフで、そのかわり全国に何千とある民間あるいは公的な支援センターの傘団体となって連携をしているところです。そして、全国的な研修会とか、そういうものを開催している。ここで私たちのスタッフも研修させてもらいました。アメリカは犯罪が非常に多いこともありますけれども、現在では年間2億ドル以上の予算が被害者支援の活動に投じられていると聞いています。

イギリスもそうですけれども、公的な機関、民間団体とであまり区別することなく、行政機関と民間が非常に密に連携していて、ボランティアの活動にも積極的に財政的な支援をしているところが特徴的と言えるかもしれません。イギリスでは、ロンドンにVictim Support、VSと今言いますけれども、その本部があって、全国に370の支部があり、50億円ほどの予算をもって、全国で被害者のお宅を直接訪ねて、必要なサポートをする支援活動を行っております。

私は、1992年に相談室を開いて、犯罪被害救援基金の機関紙にその開設の挨拶を載せました。すぐに被害者・遺族の方からお手紙が私のところに来まして、「被害者の人権が尊重される社会を」という見出しを見て、涙があふれましたと。この方のご主人は、45歳の働き盛りに突然、精神病患者に殺害されて、自分は4人の子供を育てて大変苦労していると。たまたまふと気がついて、犯人が病院に入れられたというので、病院に「どうしているか」と聞いたら、「患者さんの人権がありますから言えません」と言われて、被害者の人権はどうなっているのだろうかと悔しい思いをしたと言っておられました。

ここに「昭和43年8月5日」とありますが、犯罪被害者・遺族の方は皆、年月日がきちっといつも頭にあって、そのときで半ば時間がとまって、また新たな人生を平行して生きているような、そのような感覚を持っている方が少なくありません。被害者の人権が加害者の人権ほどにも大切にされていないということ。それから、被害の回復を促す社会的な支援が欠けているということを改めて感じさせられました。

相談室を開いて、いろんな広報活動をします。そして、最初は電話相談とカウンセリングから始めました。自助グループへの支援をしました。それから、裁判の傍聴を始めるというところで、新たな活動、被害者支援都民センターに発展的に解消していくことになります。

被害者支援の歴史の中で、1996年に警察庁が被害者対策要綱を策定しました。これが非常に大きな意味を持っていて、警察が被害者支援をみずからの職務として位置づけ、そして警察に担当部署をつくったのです。そのことにより、警察だけではできる支援が限られているので、欧米に倣って民間の支援団体の協力を必要とするという状況になったものです。私たちもそれに呼応する形で、全国の仲間に呼びかけて、次々と民間援助組織を立ち上げていって、1998年5月9日にその連合体としての全国被害者支援ネットワークを設立したわけです。そして、一緒に研修をし、一緒に広報をし、そして権利擁護のために活動を始めていったわけです。

翌年、1999年の5月、設立して1年で犯罪被害者の権利宣言というのをつくりました。これは犯罪被害者を支援するのは社会の当然の義務であるとした上で、犯罪被害者の7つの権利を宣言したものです。この権利宣言の主要な部分は、基本法の中に取り込まれております。 被害者支援にはとても多くの協力が要りますから、私たちは全国に働きかける仲間を増やしていくフォーラムを毎年開催してきました。また、被害者という心理的に深く傷ついた方たちのそばにつくわけですから、支援者にはきちんとしたトレーニングが必要ですので、そういう研修をしっかりとしてやってきました。そして、2009年4月に、ようやく全国48団体が連携して活動できるようになりました。

この間、2000年4月に犯罪被害者相談室は被害者支援都民センターへと、警視庁と東京都の応援を得て、法人として設立されたものへと発展し、スタッフも充実してきて、欧米並みの早期直接的な支援の活動に取り組み始めました。それは被害者のお宅を訪ねたり、あるいは裁判所に付き添ったりとか、そのようなことでございます。そういう活動が次第に増えていきます。 これは都民センターが設立して、その次の年に開催したキャンペーンの様子です。東京駅の地下で行ったのですが、ここの下に人型のボードと写真があります。下に靴もあるのですが、こうして亡くなった人たちの思いを記して、そして命を大切にするように、こういう犯罪を繰り返さないで済むようにというキャンペーン活動をしたわけです。

このボードをつくられたのが、被害者支援都民センターが早期支援をすることができた最初の方でした。その方は遺族の会にいつも出ていらしたのですけれども、ほとんど発言しないで、後に、そのころに書いていた詩を後で見せてくれました。お子さんを亡くして、大学に入ったばかりの子でした。母1人で男の子を育てたのが、その子が酔っぱらい運転の車にはねられて亡くなり、絶望の淵にあったということを書いてあります。でも、その方がその6カ月後に、このキャンペーンのためのボードをつくってくれて、そしてそれが命のメッセージ展という大きな活動へとつながっていったのです。鈴木共子さんという方ですが、この方が講演で言っておられましたけれども、被害に遭った直後は本当に何も手につかず、何もできなかったけれども、本当に早い時期に訪ねてきてくれて、そして支援センターに連れていかれ、カウンセリングを受け、また被害者・遺族の同じグループの中に加われたことが回復につながったと。そうすることで、自分はそれまでの怒りや、悲しみなどの負の感情をプラスに変えて社会に前に向けて出すことができるようになったのだと言っておりました。被害に遭った方が孤立して苦しむ時期をできるだけ短くして、早く援助することがとても大切なことだということが改めてわかりました。

それで、警察庁ではそれを応援する形で、犯罪被害者等早期援助団体という指定制度をつくってくれました。犯給法の中に支援に関する条項を取り入れて、民間の援助団体が警察の情報を得て、また警察の協力も得て、早期に援助のために被害者のもとに訪ねていける、そういう制度がつくられたのです。それによって被害者支援センターも随分活動がしやすくなりましたし、被害者にも早くに支援の手が差し伸べられるようになっていきました。ネットワークの全組織がこの指定団体となって取り組めるようになることを目指しております。

先ほど被害者・遺族の自助グループのことにふれましたが、遺族のグループは今全国各地にできています。中には、支援センターが協力して御世話をして、自助グループ活動をしているところもございます。多くの犯罪被害者は、特に殺人の被害者もそうですが、孤立してしまうのです。自分の気持ちはずっと事件のことに捕らわれているけれども、その周りの人は皆それを忘れ去っていきます。孤立して自分の感情をうまく吐き出せなくなってしまう。そういう人たちが同じ体験をしてきた人たちと会うことで、本当に安心して一番つらいこと、一番大切にしていることを自由に話ができる、そういうところとしてこの自助グループは非常に大きな意味を持っています。

自助グループでは、事件に遭った直後でとても動揺している方でも、事件後何年かたった方が、きちんとサポートしたり、適切な助言をしたりすることもできます。新しく入られた方も、自分もいずれそのように立ち直ることができるんだということを学ぶこともできるのです。自助グループの存在は被害者支援の中で非常に大きな意味を持っております。

私が個人的にかかわっていた、地方で裁判を起こしていた遺族の方が、初めて自助グループに加わったときにくださった感想の手紙です。初めて会った人とは思えなかったと。同じような体験、同じような気持ちを持って、同じような思いを語り合えたということ。それから、言葉にしなくても気持ちが通じ合えたということ。そして、私の話を非難することなく、涙を浮かべて聞いてくれたと。非難することなくというのは、この人は地域社会の中では孤立していて、その加害者である精神障害者を訴える遺族として非難されることもあったものですから、そういう気持ちを率直に書いておられます。同じ被害者遺族としての仲間の存在が非常に大きな意味を持っております。

私たちは被害者支援の活動を進める上で、いつも遺族の方たちと連携して、一緒に遺族の方たちの言葉も聞いていただくようにして活動を進めてきました。 これが基本法を目指しての活動になります。2003年10月3日、この10月3日というのは記憶にあるかもしれませんが、先ほどの最初のシンポジウムが開かれた日、それを被害者支援の記念の日と定めて、私たち全国の支援センターが一斉にキャンペーン活動を行いました。

そのとき、東京では中央大会として、全国の被害者・遺族の方たちに呼びかけて会を開きました。そのとき14の被害者団体が集まり、団体に入っていない方も含めて多くの被害者・遺族の方が一斉に集まって、被害者支援関係者と一緒に支援のあり方、将来を話し合いました。14団体を支える方々は、それぞれに深く傷ついていますし、経済的にもゆとりがある方はそんなにいないのですが、亡くなられた方の犠牲を何とか大切にして社会に生かしたいという思いから、いろんな活動を展開しておられました。

私たちも一緒にその日は街頭行進をして、新しい法律の制定を訴えたわけです。それが小泉総理の時代ですけれども、政治家に届き、自由民主党に委員会がつくられて、そして保岡会長、塩崎委員長、今の厚生大臣ですね、上川座長、上川さんは今法務大臣になられました。本当にすぐれた方たちが、私たち被害者団体や支援団体の様子、あらゆることを細かく聞いて、その必要な施策、あらゆるものを書き上げて、それを基本法として定めた。そういうすばらしい法律ができたものですから、基本計画もそれにのっとって着実に進むようになったと思っております。

そこで、基本法ができてからの取り組みです。先ほど紹介した基本理念のところだけをここに挙げております。基本理念の一番大事なところ、この法律の一番大事なところですけれども、初めて被害者に固有の権利を認めた。個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇が保障される権利を有すると。これは例えば、裁判の場における被害者の立場についていうと、その当時は被告人についてはきちんと立場上守られて、いろんな規定があったわけですが、被害者には法廷に入る権利さえ、必ずしも優先されるというようなこともありませんでしたし、また写真を持っていっても罰せられるようなことだってあるような状態でした。被害者・遺族としての個人の尊厳が重んじられ、それにふさわしい処遇をというと、従来の被告人を中心とした制度のあり方から変わらなければいけないということを意味しているわけです。

被害者のための施策はその人の状況に応じて、個々の事情に応じて適切に講じられること。そして、それが必要とされる間は途切れなく支援することということが規定されているわけであります。それに沿うように基本計画がつくられることになりました。内閣府に犯罪被害者等施策推進会議を置いて、犯罪被害者等施策推進室が事務局となって進めております。基本方針は、基本理念に沿う施策を国民の総意を形成して実現するということで、全国から施策の要望を集めて、それを医学・心理学専門家、マスコミ関係者、法律家、それから被害者・遺族の方たちなどと、それから政府関係省庁の委員が一緒になって検討していってつくったものであります。

これは、基本計画の主なものであります。各省庁で進めたこととして、内閣府は地方公共団体に被害者のための総合窓口を置くということ。というのは、被害者が支援を求めても担当の部署がどこにもないというのがそれまでは普通でした。どこにも相談に行ける窓口がなかった。それを置くように進めたということ。それから、犯罪被害者週間の制定、これは今日のような形での発展がございます。

警察庁は、もともと犯罪被害給付制度を担当していたところですので、その給付範囲の拡大と、それから被害者に直接接するということで、性犯罪被害者への対応。それから、民間団体の連携がありますので、そこを密にする施策が立てられています。

法務省も初めて被害者に対する対応を始めました。そして非常に大きいのは、刑事訴訟法の改正による被害者参加人制度、それから損害賠償命令の制度ですね。従来、被害者が求めても決してできないだろうと思われていたものが、初めて可能になりました。これは法務省自身の努力もありますけれども、それを強く求める被害者・遺族、あるいは支援にかかわる者たちの声が政治家を動かし、また行政も動かした、そういうことであったと思います。更生保護の領域でも初めて被害者支援の活動が入ります。

それから、国土交通省でも公営住宅への優先入居の制度をつくってくれました。これまで被害者が本当に家を必要とするときでも、「被害者を特別扱いすることはできません」と断られるのが普通でしたけれども、ここで初めて特別扱いされるようにはなった。ただし、優先されるとはいっても、必ずしもすぐに支援の要請に応えるものになるとは限りません。

また、幾つかの省庁にまたがって課題となるものについては、検討会がつくられて論議されていき、そこで非常に大きかったのは、この経済的支援に関するものですね。犯罪被害給付金の自賠責並増額という、これも初めて、これもまたほとんど不可能だろうと思われていたことですが、それを乗り越えることができました。それから、公費による弁護人選任制度ができ、被害者が訴訟に参加するときには、弁護人が必要な場合には公費でつけられるようになりました。民間団体の支援活動への国の援助の検討、支援のための連携といったことで、それぞれの成果を上げております。

これと並んで、これは非常に早く、基本法が成立するころに動き出していた杉並区の犯罪被害者等支援条例というのがございます。これは区民、あるいは区に職場のある人、あるいは学校のある人、そういう人たちが被害に遭ったときには、生活支援、あるいは資金援助を含めて援助ができるという先駆的な試みであります。これはなかなかほかの自治体に広がるのが遅かったのですが、それでも内閣府が努力して今広げておりまして、今ではこういう条例ができたのが31都道府県及び政令指定都市でありますし、また市町村でも332にできていて、少しずつ着実に、少し時間はかかりますけれども、大きな変化が生じていっているわけであります。

これは私たちの民間支援団体のことでありますけれども、国の内閣府の検討の中でも、民間の支援団体が犯罪被害者支援の中核的な拠点として、欧米の民間団体と同じような活躍ができるように期待されるようになりました。そして、ようやく国の資金なども投じられるようになりました。仕事の業務、活動自体にはお金が投じられますけれども、職員の給与とか、あるいは建物の管理とか、そういうものにはなかなか国のお金というのは民間団体には出せないものなのです。日本の場合は官民の区別が非常にはっきりしていて、それが厳しいところで、ですからこの前のリーマンショックのような大きな不況のときには、給与の支払いも困難になって活動が行き詰まるような支援センターもでてきました。そこはやはりきちんと乗り越えて、欧米のようにもっと十分な支援があるとよいと願っています。

第2次犯罪被害者等基本計画の概要で、ここでも損害回復・経済的支援等への取組と、精神的・身体的被害の回復・防止への取組、それから刑事手続への関与拡充の取組、それぞれ分けて検討会が持たれて、施策の検討が進められました。最後の3番目は、検討会ではなくて法務省の中での取り組みとなるかと思います。第2次犯罪被害者等基本計画の進捗状況として最近聞いておりますのでは、犯罪被害給付制度の拡充、新たな補償制度の創設ということが課題となっていて、それが今着実に進んでいるところであります。

それから、精神的・身体的被害の回復・防止への取組では、性犯罪被害者のためのワンストップ支援センター、これは性犯罪の被害に遭った方が警察に行き、病院に行き、支援センターに行きと、そのようなぐるぐる回しにされるのではなくて、1カ所できちんと医療も受けられ、事情聴取も受けられ、カウンセリングも受けられと、そのようなことができるようにということを目指すもので、是非全国に必要なものですが、それが今7カ所できたと報告を受けております。

今後の課題として、被害者の安全の確保、ストーカーとかDVの被害者が、被害が知られていながらさらに再被害を防げないというような状況があります。それから、潜在化しやすい被害者への対応。今日の後のパネルディスカッションのテーマでありますが、私たちも経験がありますけれども、被害者が声を上げられない状況というのがいろいろな状況でつくられております。そういう人たちが少しでも早く支援につながり、そして立ち直っていけるという支援ができる社会になれるといいと思います。

3番、4番目は従来あったものでありますけれども、私たち民間支援団体からすると、これがもう少ししっかりできると欧米並みの活動ができるのだけれどという意味で、大事なところでございます。 民間団体への国による財政支援の拡充の必要性、これは少し今日のテーマとは違うかもしれませんが、ちょっとつけ足しとして書いておきます。イギリス、フランス、アメリカを挙げましたけれども、これは日本よりずっと人口の少ないところですが、こういうヨーロッパ、アメリカの社会では、ボランティアを生かして市民を巻き込んで、民間団体を十分に活用してということで、きちっと国の財政的な支援もできて活動ができているという状況にあります。なかなかそこが日本では難しいところです。

同じアジアで、台湾とか韓国でもやはりボランティア活動から民間でつくっていこうという動きもあったのですが、なかなかボランティアの活動が広がっていかないので、向こうでは法務省が犯罪者の更生保護に係る保護局の下に、更生保護協会と同じように、被害者保護の協会をつくって、半ば公的にボランティアを入れながら進めるという形をとっています。資金的には安定していますので、私たちはボランティアの活力を生かすという欧米型を目指していますけれども、恵まれているなと思うところがございます。

更生保護と比較してみるとやはり加害者への支援というのでは更生保護施設があって、そして社会復帰した犯罪者が立派に立ち直っていけるようにということで、しっかりと民間の団体、更生保護施設で支援し、保護司さんが何万人ものサポートをしているという体制があるのですが、そこにはやはり歴史がきちっとあることもあって、スタッフの給与をちゃんと国が援助するような形で、またボランティアにも実費援助ということでお金が出されている。なかなか日本の犯罪被害者支援の領域では、まだそういう支援がほとんどできていません。この支援に関する被害者と加害者の格差というのを何とか改めてほしいなと思っています。

被害者団体・自助グループのことでございます。先ほどの大会で遺族の方たちに集まっていただいて、それがきっかけになって、毎年、つい先日も開かれたのですけれども、ハート・バンドの大会ですね。犯罪被害者団体の連合で、全国から一緒に集まる会があります。犯罪被害者・遺族、特に殺人被害者の遺族などは、その地方では本当に孤立しているので、年に1回、仲間が会って話し合うことで支えにして、ただなかなか国の財政的援助はありませんので、続けられるかどうかと危ぶまれながら、それでも犯罪被害救援基金の応援を得て、また今年も実現できたようでございます。こういうところも、被害者支援センター、あるいは犯罪被害者団体・自助グループというのは、被害者のあらゆる情報が集まるところです。本来なら救えるような人たちが救えないことがたくさんあるわけですけれども、そのような情報がたくさん集まっておりますので、行政側はこういう人たちとの連携や協力をできるだけしていただきたいと思います。

これは被害者支援の意義を、私なりに整理して記したものです。本来、医療と同じで、急激にいろんな困難に直面する人を支援するシステムが要るのだということ。それを制度として確立するということですが、その点は今までの支援の施策の進行状況を見てきて、随分被害者の支援を地域社会で、あるいは国の責任で、あるいは警察で、あるいは民間団体で、いろんなところで取り組むようになってきた。それはかなりの成果が得られているのだと思います。

次に、被害者の権利の回復と、刑事司法の改革ですね。裁判では被告人と弁護士が権利を主張し、被害者はほとんど隅に追いやられていた状況が、随分と大きく変わり、被害者も自分の権利を主張できるようになったという点では、制度の大きな変革がなされたわけです。市民としての被害者への連帯。これは広報活動というのは、犯罪被害者週間を迎えて全国で、都道府県あるいは被害者支援センターが連帯して一斉に展開して広がっていっております。そういうことで、着実にあらゆる領域で被害者支援が大きく進展してきたと言えると思います。

残された課題として、先ほどの声を上げられない被害者の問題というのが、これから後にパネルディスカッションでお話しいただけると思います。

私たち被害者支援の現場で見ていますと、基本理念に照らすと、本来当然受けられると思うような支援をやっぱりまだ受けられないというのがたくさんあります。制度は整ったけれども、まだ被害者に届いていないということですね。例えば、国土交通省が公営住宅への入居を優先すると言いましたけれども、それは何十倍という倍率から優先して何倍かになるので、例えば性犯罪の被害者で、家までつけられてきて襲われて、犯人が捕まっていない。怖くて学校にも行けない。親も経済的に苦しくて、子供の送り迎えもできないと、そのような状況で、できれば急いでほしいと言っても、5倍の倍率で落ちましたとなれば、半年、1年とずっと延びていくものですから、やはりもっと緊急性とか状況に応じた対応ができなければいけないかなと思います。

また、非常勤で勤めに出たばかりのある若い青年ですが、両親と暮らしていて、父親が突然病的になって母親を刺し殺してしまい、拘置所に入ってしまったのですね。そうすると、会社ではこんな状況では仕事は無理だろうからと、1カ月分の給与をもらって、やめていただくというようにされてしまい、生活費にも困るようになってしまいました。親の貯金とか親の財産はあるのですが、父親は拘置所にいて、母親は亡くなっていますから、本人の自由になるお金がない。血まみれになった家で寝泊まりしながら、新しい仕事を探さなければいけない状況がしばらく続いて、何とかできないかということで相談を受けたけれども、そう簡単に物事は動かないということで、しばらくそういう状況が続きました。本来こんなことがあってはいけないと思うのですけれども、清掃する業者を頼めば頼めるのでしょうけども、お金を一銭も動かせないものですから、それもできないということでした。

また、ある少年の両親からの相談でしたけれど、不良グループに殺害されて遺体が見つからないと。グループは捕まって裁判が進んで、次々と共犯者が有罪になっている。その裁判中に、遺族である両親が葬儀を行いたいと思って役所に行くと、死亡した証拠がないと死亡届を受け取れないと言うのですね。裁判で検察官が殺されたのだと強調しているわけで、しかも裁判所でも一審でそれを認めて有罪になった人もいるわけだから、そういうことが当然できてもいいと思うのですが、そう簡単にはできませんで、よほどあちこちに折衝して、ようやく可能となったという経緯がございました。全国各地で、そういうことはなかなか通せないということなのかと思います。本来それは死亡届というのを、国の機関が殺人だと言っている以上は、ちゃんと死亡届を受け取れるような何らかの制度が考えられてもいいのではないだろうかと思うこともありました。

最初に触れましたが、私たちの犯罪被害者支援活動はあるシンポジウムでの遺族の声に応えて始められたものです。そのシンポジウムというのも、26歳のお子さんを殺害された市瀬さんという方が全国に働きかけて、そして犯罪被害給付制度との制定を促してくれたことが、また背景にあったわけでございます。

これはネットワークの活動についてです。ネットワークは民間団体ですが、できれば、「いつでも、どこでも、等しく、必要な支援サービスを」できるようになりたいと願って活動を進めています。私たちの被害者支援の活動は、いつも被害者の方たちと一緒に連携してやっております。

社会には、犯罪被害者の立場になってみて初めて見えてくる多くの深刻な矛盾や欠陥があります。それを告発し、正義の実現を求める被害者・遺族の声の源には、痛ましい犠牲をせめてこの社会の改革に生かしてほしいという、決して無にはしてほしくないという願いがあるのです。被害者・遺族の方々の勇気のある発言は、その意味であすの社会に向けての貴重な提言であり、それに応える努力を重ねることで社会はよりよい社会へと変わって行けるものと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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