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第5章 国民の理解の増進と配慮・協力の確保への取組

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1 国民の理解の増進(基本法第20条関係)

コラム8 たった一人の弟を亡くして思うこと

公益社団法人京都犯罪被害者支援センター

五十川 万紀

1996年9月、朝夕にはひんやりとした風が吹き始めた頃のことでした。北京大使館からの1本の電話により私達家族の人生は一変しました。

私のたった1人の弟は、その年の8月、大好きな龍笛を携えて、中国へ一人旅に発ちました。もう二度と会うことが出来なくなるなど夢にも思わず、大阪港で中国へ旅立つ弟を見送りました。

弟は、毎週末、両親に元気であることを知らせる電話を架けてきていました。当時は、今のように携帯電話が普及していませんでしたので、弟からの電話だけが私達家族を繋ぐ大切なものでした。

その日も家の電話が鳴り、母は「今週も電話を架けてきてくれた」と思い、受話器を取りました。しかし、その電話は弟からではなく、北京大使館からだったのです。

北京大使館からの電話は、「弟が滞在中のホテルの部屋で死亡していた」という内容でした。弟は、北京の地で心ない強盗によりたった23年で命を奪われたのです。1本の電話からの小説やドラマの一場面のような言葉を受け入れられるはずもありません。何かの間違いではないか…、人違いではないか…、いろんな思いが頭の中を巡りました。

北京へ向かうための手続きをしている父の背中。泣き崩れる母の姿。耳鳴りのように離れないマスコミが嗚らし続けるインターホンの音。私の心の中で、繫がらない光景が1枚1枚の写真のように写っていました。

翌朝、北京へ向かう両親を見送り、日本に残った私は多くの方々に支えられながら弟の告別式の準備をしていました。弟の死亡を伝える大きな新聞記事。弟の死を確認したという両親からの電話。私は1粒の涙も流すことはありませんでした。その時、私は何を感じていたのか、思い出すことができません。何の感情もなかったのかもしれません。

4日後、弟は両親と一緒に北京から日本へ帰ってきました。私はやっと弟に会えるという安堵感のような感情を持って、弟が眠っている部屋へ向かいました。入り口まで来たとき、広い部屋の奥に横たわっている弟の姿を見た途端に足が前へ出なくなりました。父が「水を!水を!」と叫んでいる声ではっと気がつきました。一瞬、気を失ってしまったのかもしれません。

そして、通夜、告別式を執り行い、延べ約二千名もの方々がお別れに来てくださいました。弟の多くの友人達が歌ってくれた歌声に包まれながら、弟は自宅を離れました。私は、眠っているような弟の姿を前にして、「なぜ弟が命を落とさなくてはいけなかったの?」「なぜ!」と心の中で叫びながらも言葉にならない状況であったことが今も記憶に残っています。

私は、お参りに来てくださった多くの方々から「御両親を支えてあげてね」「万紀ちゃんがいてくれてよかった」という言葉をかけられ、私自身もそのことを当然のこととして受け止めていました。それでも両親の心の中の「息子を亡くした穴」というものは、決して私が埋められるものではありません。そのことに思い悩み、何度となく遺影の弟に助けを求めました。

たった1人の弟を亡くした悲しみをどう受け止めればよいのか。私はこの思いを誰にも打ち明けることが出来ず、自分の心に閉じ込めていきました。

溢れ出すような悲しみの中にある私達家族も現実的には月日というものが流れていきます。1年、また次の1年、毎年8月から9月にかけて、言葉で言い表せない感情に襲われ、当時の状況が何枚もの写真のようになって、私を襲ってきました。言葉には出さずとも、両親も同じような苦しみを感じていたと思います。このような1年、1年を噛みしめるように過ごし、10年程経った頃のことです。私は、「自分の存在」を受け入れられず、夜、1人で床につくと、とめどなく涙が溢れ、自分の存在を否定するような気持ちで一杯になっていました。それでも毎朝目が覚めると、息をしている自分に「今日も頑張らなければ」と言い聞かせるようにしていました。この頃も私は抱える苦しみを誰かに打ち明けるということが出来ませんでした。それは、私は弟の死を受け止め、乗り越えたと思っていたからなのかもしれません。自分の心の中で何が起こっているのかを自覚することなく、過ごしていたのです。

私は被害者支援に携わる父の背を見ながら、「私も弟の死を無駄にせず、自分が出来ることをしたい」と思うようになり、京都犯罪被害者支援センターで携わる機会を与えていただきました。それは弟を亡くしてから12年余り経った頃でした。

センターに関わらせていただく中で、私は徐々に自分の心の中で起こっていることに気付き始めました。そして、自分には必要のないことと考えていたカウンセリングの扉を叩くことになったのです。カウンセリングでは堰を切ったように溢れ出す自分の感情に驚き、衝撃を受けました。「暴露法」という治療は、弟を亡くしてから封じ込めてきた悲しみや怒り、いろいろな感情を順序立てて整理していくものでした。

私は、一度も弟の亡骸に寄り添えなかったこと、きちんとお別れができていなかったことに気づいたのです。弟に対して謝りたい気持ちで一杯になりました。その時、私の脳裏に浮かんできたのは優しい弟の笑顔でした。つらく、苦しいカウンセリングでしたが、受けて良かったと思える瞬間でした。

その後、これまで「自分」というものを抑えて月日を送ってきた私は、しばらく「自分」を大切にする時間を過ごすことが大事だと考えました。そのように考えて過ごす時間は、私に心からの笑顔をもたらしてくれました。「心が豊かになる」というのはこういうことなのかと思うようになりました。そう思えた時、長い間「頑張らなければ」と奮い立たせていた鎧のようなものを取り除くことができたような気持ちになりました。

5年以上にわたり京都犯罪被害者支援センターに関わらせていただきました。被害者遺族である私を温かく迎えてくださり、いろいろなことを教えてくださいました。また、私の話に心から耳を傾けてくださった時には、これまで感じたことがなかった「温もり」を感じたことが忘れられません。私がカウンセリングを受けようと思えたのもセンターで関われたからこそ、できたことです。私が弟を亡くした悲しみを受け入れ、一歩前へ踏み出せたのもセンターの存在、センターの皆さんのおかげであると感じています。私は、自分を見つめ直すための時間を持つために被害者支援という立場から少し距離を置こうと考えました。そんな私を温かく送り出してくださったセンターの皆さんに心から感謝しています。

弟を亡くしてから23年余り、今でも悲しみやつらさは決して消えることはありません。しかし、私は京都犯罪被害者支援センターに関わったこと、カウンセリングを受けたこと、そして家族や友人達の支えにより悲しみ、つらさ、苦しみを受け入れることが出来るようになったことをありがたく思っています。特に弟の友人が23年間毎年9月になると弟のお参りに来ていただくとともに、私達家族を囲んで弟のこと、今の生活のことなどを話してくれます。友人の多くは結婚し、子供も生まれ、新しい道を歩んでおられますが、会話の中で新しい弟を発見したり、友人と共にいる弟に励まされ、私の被害回復の大きな助けになりました。

これまでの様々なことを受け入れ、前向きに生きていこうと思えるようになった私は、これから社会で役に立てることは何だろうかと考えています。そのために今、英会話のレッスンに取り組み、大学の通信教育課程に在学し、福祉講座を受講しています。

私に何が出来るのか、それは今私の前にある扉の向こうに広がっているのかもしれません。その扉を開けることができるよう、努力を重ねていきたいと思っています。

この扉の向こうに亡き弟がいるならば、今の私は笑顔で弟にこう話したいと思います。「ありがとう。改めて考えることはなかったかもしれない『生きること』について深く考えさせてくれたのは弟のおかげ。私の人生をこんなにも深く温かいものにしてくれたのも弟のおかげ。本当にありがとう…」

そして私は自分に与えられた残りの人生を亡き弟に応援してもらいながら、一日一日を大切に送りたいと思っています。

今、私は空を見上げることが出来るようになりました。私の前に広がる空は、悲しみを含みつつも真っ青な空です。

※ 「犯罪被害者の声第13集」のために、公益社団法人京都犯罪被害者支援センター発行の手記集「ともしび第4集」掲載の手記に加筆修正されました。

道路に置かれた鞄と靴

公益社団法人全国被害者支援ネットワーク発行

「犯罪被害者の声第13集」より

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