第2節 精神的・身体的被害の回復・防止への取組


COLUMN 4

「私たちの望んだ支援、受けた支援」

酒井 肇

智惠


2001年6月8日、私たちは、最愛の娘、麻希を大阪教育大学教育学部附属池田小学校において発生した児童殺傷事件によって奪われました。同時に私たちは犯罪被害者遺族となりました。私たちの家族が被害に巻き込まれるなど、想像すらしたこともありませんでした。何が起きたのか、これは現実のことなのか、まさに混乱の極みでした。

麻希の死とともに、「すべては終わってしまった」と感じました。しかし、現実社会は、娘を亡くした喪失感と向き合う時間さえ、私たちに与えてくれませんでした。葬儀の準備、警察や検察とのやりとり、群がる報道陣への対応、事件の発生現場である小学校との連絡調整、文部科学省との話し合い、刑事裁判への関わり……。経験したこともない難題が、次から次へと私たち家族に押し寄せました。そして、私たちの生活は一変しました。

「これからどうなっていくのだろう」

私たちは、絶望感と不安感を強く感じ、それでも社会の中で生きていかなければならないことに、意味があるのかどうかさえわからなくなりました。


1.すべての事を知る

事件後3か月あまりが経過した9月21日、犯人が起訴された翌日に大阪府警によるDNA鑑定を通じて、麻希の最期の様子を知ることができました。

事件の当日の朝、私たちは麻希を学校に送り出し、次に会ったときには、麻希は阪大病院の救急部の処置室に横たわっていました。麻希はすでに心臓マッサージを受けている状態でした。そして、小学校2年生になったばかりの小さな体を4か所も刺されて失血死したという事実だけを突きつけられました。

私たちの場合、麻希に何が起きたのか、すべてを知りたいと思いました。「すべて」とは何か、と問われれば、本当に「すべての事」としか答えられません。事実関係がどんなにつらいものであっても、麻希に関わるありとあらゆることを知りたいと思いました。私たちにとって、子どもが亡くなったという事実以上に、もうつらいことはありません。何を聞いてもどんなことを知っても、子どもが亡くなったという、そのこと以上に衝撃を受けることはありません。ですから、私たちは、情報をすべて開示してほしいと願いました。

「事実を知りたい」という私たちの願いを真摯に受けとめてくれたのでしょう。大阪府警は校舎に残る血痕を一つひとつ精査してくれました。その結果、麻希は教室の後方出口付近で犯人に刺されたことがわかりました。その後、自力で廊下を50メートルほど移動して力尽きたのです。廊下の壁には3か所、刷毛で書いたような血痕があり、それも麻希のものとわかりました。恐らく、時折よろけて廊下の壁に体をこすりながら走ったのでしょう。麻希が倒れていたところには、血だまりと左右の手形が残っていました。左の手形には、床を引っかいたような跡が残っていました。一歩でも前に逃げようとしていたのだと思います。

DNA鑑定から、私たちは、麻希からの大切なメッセージを受け取ることができました。「生きたい」というたましいの叫びに触れることができました。麻希が最後までがんばって生きようとした事実を知り、私たちの今後の人生、さまざまな活動に、新たな「意味」を見いだす契機になりました。


2.「出会い」と「つながり」

事件翌日、保護者会で事件の対策のために派遣された文部科学省側から、校舎の建て替えを示唆されたことを発端に、事件が起きた校舎の建て替え問題が生じました。

当然のことながら、私たち遺族は子どもの葬儀などで混乱の真っ只中であり、保護者会が行われていることすら知らされずにいました。子どもたちの被害状況もわからない時期に、いきなり「校舎を取り壊すかもしれない」というのです。もし、取り壊されてしまったら、もう二度と麻希の足取りをたどることができないかも知れないとあせりを感じずにはいられませんでした。

そんな矢先、この問題を扱った「建て替え遺族いやさない」という題目で6月26日の新聞に掲載された常磐大学教授の長井進先生の記事をある遺族から見せてもらいました。

「『事件のあった場所に通うのはかわいそう』という意見があるのは、わかります。でも、理不尽な犯罪で家族も生活も根底から失ってしまった遺族のことを考えてほしい。その体験を思い出させるものが一切なくなってしまったとき、遺族がどんな思いをするか、想像してみてほしいのです。……以後略」

平成13年6月26日朝日新聞(大阪版)より


遺族として、校舎建て替え問題の解決策を見出したいと思い、長井先生に連絡を取ることを考えました。まず常磐大学の代表番号に電話しました。事件から約1か月後のことです。しかし、報道被害や支援者からの二次被害で疲労困憊し、あらゆる人に対して疑心暗鬼になっていたので、いきなり長井先生と電話で話すことに抵抗がありました。どのような人か、何を専門にしている人なのか、まったくわからなかったからです。まず、総務課に、大学の代表メールアドレスを教えてもらいました。そこに長井先生宛てのメールを送ると、長井先生から返信が届きました。このようにして、長井先生とのメールのやり取りが始まりました。最初は校舎問題に関することでのやり取りでしたが、その頃、頭を悩ませていた犯人起訴と厳罰を求める「署名活動」の方法についても、信頼をする気持ちが芽生えてきた長井先生に相談をしました。そして、長井先生の紹介でさまざまな署名活動の経験者からアドバイスをもらうことができました。

このように、校舎問題を取り上げた新聞記事から長井先生の存在を知り、最初は電子メールでやり取りをしながら、校舎問題や署名活動に関するアドバイスを受けるようになりました。長井先生から被害経験をもつ多くの方を紹介してもらい、支援の「つながり」が広がっていきました。

▼図1 コーディネーターとしての役割
図1 コーディネーターとしての役割

※図1については、ミネルヴァ書房発行の上記著書を基に作成、図2については同書より引用。


また、私たちは、文部科学省との安全管理の責任の所在に関する交渉の際や、それと並行して行われた刑事裁判と向き合うために弁護士の支援が必要となりました。長井先生に相談すると、長きにわたって犯罪被害者支援に携わってこられた垣添誠雄弁護士を紹介していただき、その後、支援を受けることになりました。すべてが最初からうまくいったわけではありません。長井先生から支援弁護士に私たち犯罪被害者の生活や数々の制約、心理、私たちが弁護士に対して望んでいることなど、被害者支援を行う上で、基本的なことを話してもらいました。ぎくしゃくした関係も改善され、時間と共に信頼関係が生まれました。(図2)

事件直後の報道による二次被害に関してマスコミ関係者に対しても同様、関係の改善も図れました。

▼図2 仲介的役割
図2 仲介的役割

私たちは、事件後、いろいろな方からカウンセリングを打診されました。このとき、「カウンセリングの専門家」というだけでは、いったいどのような支援を受けることができるのか、全くわかりませんでした。支援弁護士の場合も同じです。当初、大阪弁護士会から50人体制で私たち遺族を含む池田小学校を支援するという申出がありましたが、私たちはそれを受け入れる事はできませんでした。たとえ専門家であっても、何のために接点を持つのか、その理由がはっきり理解できないまま、見ず知らずの人と関わりを持つこと自体、大変なエネルギーのいることでした。

長井先生とのつながりは、私たちが、今、まさに一番困っていることを解決し、その手助けをしてくれる人を探しているときに、私たちのニーズに一致する情報としての新聞記事を目にしたことから始まりました。


3.寄り添う支援

事件発生直後から、私たちの生活状況にあわせた家族支援が必要でした。駆けつけた病院で娘の死と対面し、私たちが葬儀の準備のために自宅に帰るとき、送ってくれたのは大阪府警被害者対策室の女性警察官たちでした。わずか11日間でしたが、生活に関わることも含め、実に具体的な支援を受けられたと感じています。

その他にも事件直後から、私たちの気づかないところで、多くの支援の手が差し伸べられようとしていたのかもしれません。大阪府警被害者対策室から民間支援団体のパンフレットも、もらいました。しかし、その時は、私たちにどのような関わりを持つのか、想像さえできず、そのパンフレットはただの紙以外の何にもなり得ませんでした。

私たちの場合は、麻希のきょうだいが通っていた幼稚園に、子育て支援で関わっておられた、武庫川女子大学の臨床心理士であり、ソーシャルワーカーでもある、倉石哲也先生から家族支援を受けることを選びました。それは、以前から信頼する幼稚園の先生からの信頼のつながりでした。倉石先生が何をしている人なのか、どんな人なのか、幼稚園の先生を通じて、私たちにとって、顔の見える人になりました。

倉石先生は私たちの手に届くところで寄り添い、私たちが何を心配に思っているのか、話を聞き、何を望んでいるのかを一緒に考え、できることをわかりやすく提示してくれました。そして、少しずつでも、被害を受ける前まではできていたように、私たちの生活を自らが選び、決めていく作業を支えてくれました。そんな姿勢に安心感を抱いたのだと思います。決して「何でもおっしゃってください」、「カウンセリングを受けますか」とか「裁判の付添いに行きますよ」といった、マニュアル的な一方通行のコンタクトの仕方ではありませんでした。

最初は混乱した状況の中で大切な家族である遺されたきょうだいに、どのように接していけばいいのか、事件と麻希の死をどのように伝えたらいいのか、その具体的な対応を相談したことが始まりでした。やがては、家族カウンセリングだけではなく、事件現場の小学校での検証作業の付添い、また、刑事裁判の傍聴に出かける際のきょうだいのサポートにいたるまで、私たちのニーズに合わせ、時にはそれに適する人を紹介していただきながら、支援を受けることができました。それは事件から7年が過ぎた今でも続いています。

私たちを支えてくださったのはけっして支援の専門家だけではありませんでした。それは、事件以前から関係のあった人、事件後に関係を築いた人、いずれも、私たちと同じ目線で、同じ歩調で寄り添ってくれました。


最後に

犯罪被害者のために具体的な施策や支援の取組が行われています。それら支援の手が被害者に届くためには、一般論ではない目の前にいる被害者が、何を感じ、何を考え、何を求めているのか、寄り添ってみてください。ちょうど、大切な家族を思いやるように。

私たち家族は犯罪被害者遺族になって、いろいろな方から慰め、励ましの言葉をかけられました。なかでも、学生時代の恩師からかけられた、心に温かく響き、慰められた言葉を紹介します。

「いつもあなたのことを想っていますよ。

あなたがた家族がこれからよくなるように祈っていますよ」


※犯罪被害者等施策は、犯罪被害者等一人ひとりの声が社会を動かして始まった施策です。施策の推進のためには、本書に述べられている具体的施策と併せて、国民の一人ひとりが犯罪被害者等の置かれた状況などについて理解を深めることが重要となります。

ここでは、本白書の作成に当たり、酒井様御夫妻からお寄せいただいた手記を紹介しました。なお、酒井様御夫妻と支援者による著書「附属池田小学校事件の遺族と支援者による共同発信『犯罪被害者支援とは何か』」では、酒井様御夫妻に押し寄せた多くの課題や波紋、あらゆる難題に向き合わなければならなかった実情などが詳しく紹介されています。


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