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第4章 支援等のための体制整備への取組

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1 相談及び情報の提供等(基本法第11条関係)

手記 警察職員による被害者支援手記

警察においては、毎年、犯罪被害者等支援に関する警察職員の意識の向上と国民の理解促進を図ることを目的に、犯罪被害者等支援活動に当たる警察職員の体験記を広く募集し、優秀な作品を称揚するとともに、優秀作品を編集した「警察職員による被害者支援手記」を刊行し、これを広く公開している(警察庁ウェブサイト「警察職員による被害者支援手記」:https://www.npa.go.jp/higaisya/syuki/index.html 参照)。

令和4年度優秀作品の中の一つを紹介する。

● 未来へ繋ぐ架け橋

警察本部勤務 警部補

「○○高校、合格しました!」

これは、交通事故により妹を失い、自身も大怪我を負った兄の○年後の言葉である。

当時、犯罪被害者支援室に勤務していた私は、その日午後○時頃、事故の第一報を受けた。しかし、それは「小学生の列に多重衝突された車が突っ込み負傷者多数。現在、病院に搬送中。重傷者もいる模様」というだけで、詳細は全くわからなかった。

私は、すぐさま発生署に向かったが、その道中、遺族講演で聞いたことのある死傷者多数を出した交通事故現場のすさまじい状況が頭を過った。「混乱した状況下で、どんな体制で何を優先して動けばいいんだろう。」考えがまとまらず、四十分程の道のりがとても短く感じた。

そして、警察署に着いた私は、この事故がどれほどの事故かということを思い知らされることとなった。署の玄関付近には、既に多くの報道機関が押し寄せ、署内の動向を探っていた。無線台には警察官が溢れ、情報が飛び交うものの、発生から一時間を超えているにもかかわらず、衝突した車が何台なのか、被害児童が何人いるのかも掌握できていない状況であった。ただ、兄妹で事故に遭った○年生の女児が意識不明の重体ということだけは間違いのない事実であった。

そんな中、ある警察官から「意識不明の女児の両親は兄が運ばれた病院におり、妹のことは何も知らない模様」との報告があった。

私はすぐに上司に「両親を妹の病院に搬送しますが、まずは電話でこの状況を伝えるべきだと思います。」と進言した。過熱する報道下で、遺族が最初に報道から悲惨な事実を知ることだけは絶対に避けなければならないと思ったからだ。

私は車を走らせながら母親に電話をし、「娘さんが重篤な状態です。病院へお連れするので、そこで待っていてください。」と伝えた。しかし、その直後、私の電話に最悪な知らせが入ってきたのだ。

病院に着くと、事故の被害者家族と思われる多くの人がフロアーにごった返していたが、女児の母親が誰なのかはすぐにわかった。私からの電話を受け、立つこともできず車椅子でうな垂れた状態で玄関にいたのだ。

そんな中、私は最愛の娘の死を伝えなければならなかった。

その後、重傷の兄を親戚に任せ、両親と共に悲しみが待つ病院に向かった。病院の待合室では、女児の祖父が血だらけのランドセルを抱きしめながら肩を震わせていた。その状況を目の当たりにした両親はその場に泣き崩れた。そして、娘と対面すると、廊下にまで、家族の泣き声、嗚咽が響き渡り、私は胸が張り裂けそうな気持ちになった。

私は今まで、多くの事件の支援を担当し、自分の中で、「こういった場合はこう対応する。これをしたら次はこれをする。」といったマニュアルが頭の中に入っているような気持ちになっていた。しかし、この時は、自分が次にどう動いたらいいのか、どんな声掛けをしたらいいのか、頭に浮かぶどころか、目が熱くなり手足が震えていた。

ご遺体を一旦ご自宅に安置させた後、私は家族と共に、兄が入院している病院へ向かった。何も知らない兄に、妹の死を伝えるためだった。妹の死を知った兄は、最初は泣いていたものの、葬儀場では、家族と普通に会話をし、車椅子をうまく操作できないことを笑ったりもしていた。私は、この様子がショックを隠して気丈に振舞っているのだとわかりながらも、私自身が、どこかその表情に救われているのも事実だった。

しかし、彼がどれ程苦しんでいたのか、私は知らずにいたのだ。

当時、事故に関わった被害者は、車の関係者を含めると二十人を超えていた。そんな中、心の不調を訴える人は、ご遺族だけではなかった。自分の体が痛いにも関わらず、一緒に帰っていた友人の死を受け止めることができず心を病んでいく児童、それを取り巻く家族についても支援をしなければならなかった。

私は、公費負担制度により、多くの民間のカウンセラーにカウンセリングを依頼し、支援対象者に適した環境を整備するとともに、送迎もできる限り行った。その結果、少しずつではあるが、それぞれが事故前の普通の生活に近付いている状況が窺えた。それは、亡くなった女児の兄も同じであった。

カウンセリングの送迎の際、聞く言葉は、学校の楽しい日常が多く、サッカーで日焼けした笑顔に曇りを感じることはなく、私は安堵するとともに、いつの間にか達成感すら感じていた。

兄が精神的に回復に向かっていると認められたことや、当時、カウンセリングの公費負担については一年が期限だったため、カウンセリングの打ち切りの時期についても検討が進められることになった。しかし、カウンセラーからは「今でも妹の話は全くしない。そこに話を向けるとはぐらかされてしまう。」と聞かされた。また、兄は地元の中学校ではなく、隣町の中学校への進学を選択していた。

心が苦しくなった。私は、兄の表面的な部分を見ただけで、本当の心には全く近付けていなかった。いや、知ろうとしていなかった。だから、色々なところで出していた小さなサインを、私は見逃していたのだ。私はすぐに、兄と二人で話をする時間を作った。兄は、この時も不安や悲しい気持ちは一切口にしなかったが、カウンセリングを止めるとは一言も言わなかった。私は、これが小学生にできる精一杯の心の叫びなのだと感じた。

そこで私は、市の被害者支援担当者、県と市の保健師、市の教育委員会、小学校の校長や担任、進学する中学校の校長、担任、部活動の顧問、そして兄を一年間見てきたカウンセラー、更には被害者支援弁護士にも集まってもらい、兄の支援について協議を行うこととした。

彼らの多くとは、事故発生当時から、積極的に連携を図り、情報を共有しており、私にとっては行動を起こす際の心の支えであった。その中で出た答えは、市の教育委員会が予算を取り、引き続きカウンセリングを継続するというものであった。大勢の人の「兄に何とか安心して楽しい中学生活を送らせてあげたい。」という気持ちが導いた答えだった。

兄のカウンセリングは中学を卒業するまで続いた。カウンセラーからは、警察の制度外で行われているものの、兄の状況は定期的に私の元に届いた。回数を重ねる毎に、妹の話をするようになり、当時の辛かったことを話してくれるようにもなったと聞いた。

妹を守ってやれなかった自責の思い。「将来の夢」という作文を書きながら、自分が今生きていることが何より苦しかったこと。そして、後ろから突然車に撥ね飛ばされ、痛みに苦しみながら段々と意識が無くなっていく妹の姿が今もなお頭から離れないこと。

涙が止まらなかった。苦しくてたまらなかった。私は、兄に何ができたのだろうと思いながら、○回目の命日が過ぎていった。

そして今年三月「○○高校、合格しました!」

思いもしない連絡だった。後悔ばかりの自分なのに、何もわかってあげられなかった自分なのに、それなのに連絡をしてきてくれた。両親からは「カウンセリング、高校に行っても続けられることになったんです。警察が最初に繋げてくれたから、あの子の安心がこれからも続くんです。」と言われた。高校からは、新たなカウンセラーの元で、前に進むこととなるらしい。周囲の人が今もなお、支援を繋げている現状を知り、少しだけ救われた気持ちになった。

私は今回初めて、死傷者多数の事故を担当し、当初は慌ただしさの中、やるべきことを着実にこなすという状況だったが、時間の経過とともに、自分で解決できることが少なくなり、日々、無力感を感じるようになった。支援自体が、荷が重く、自分にできる事など何もないと感じ、無気力になった時もあった。

しかし今回、多くの方から「警察が真ん中で調整してくれたから、私たちは安心して動けた。」と言ってもらえた。警察が被害者やご遺族を支援するためにコーディネーター役となり、関係機関に橋渡しすることで、ご遺族にとって未来に繋がる架け橋となり、今を支えていると気付くことができた。

警察だけでできる支援は、やはり限界がある。そんな中、数年経った今でも支援が継続しているのは、事故発生当初から地域にあるネットワークに移行できるよう行政を巻き込み、情報を共有し、全員が心を寄せてきたからである。

私は、これから先、後悔のない支援ができるよう公認心理師の受験にチャレンジした。今後、どの分野で仕事をしようが、このご遺族との出逢いを、そして、警察だけでなく多くの人たちで繋げた支援を、私は忘れることはないだろう。

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