中央イベント:基調講演

「犯罪被害者が前に進むために~突然の犯罪被害、衝撃と絶望の中で様々な対応に追われた日々を振り返って~」

澤田 美代子 (犯罪被害者御遺族)

 改めまして、千葉県の澤田美代子と申します。今日はこのような機会を与えていただいたこと、感謝しております。どうぞよろしくお願いいたします。

 本日12月1日は私にとって忘れられない日です。13年前の2008年12月1日から犯罪被害者が刑事裁判に参加できる被害者参加制度が始まった日であり、犯罪被害者遺族となってしまった私達がこの制度のことを全くと言っていいほど知らなかったにもかかわらず、裁判参加を前提に支援しようと考えてくださった弁護士さんが家まで来てくださった日でもありました。

 事件に巻き込まれてから3週間、その時期、悲しみが深く、絶望感が増していました。事件の被害者となってしまった亡き息子の高校時代の恩師が被害者支援に力を入れておられた弁護士さんへつないでくれた結果、新しい制度の始まりの日に、私達は先生と初めてお会いすることができました。その先生の紹介でもう一人の先生も加わり、お二方の支援を受けて、刑事裁判に参加するということが実現できました。犯罪被害者という、考えもしなかった立場になってしまった私達家族が、事件後、前に進む大きなきっかけになったと思っています。

 智章のことをお話しさせていただきます。1984年3月誕生、標準よりは小さく、体も多少弱かったが、2歳上の兄とともに育っていきました。3歳くらいからおしゃべりでひょうきんな性格が表れてきて、家族を和ませていました。小学校に入学して間もなく下の妹が誕生し、可愛がっていた姿を思い出します。小学校卒業直後、友達関係のことで問題の当事者となり、私は親としてきちんと子供の気持ちをサポートできず、息子は落ち込み、それまでの性格とは違い、何事にも消極的な状態で、中学校入学式を迎えていました。それから少しずつ自信を取り戻せたのは、自分の得意なものを見出せたからだと思います。高校へ入学して間もなく少林寺拳法部に入り、そこで顧問の先生、先輩、同期の仲間、後輩との出会いは、智章のそれまでを振り返るととても大きなことだったのではないかと私は思っています。弱かった体や心が強くなっていくのを日々感じた3年間でした。

 大学に入って1年間は、都内の新聞専売所へ住み込みで入りました。自分で選んだとはいえ、それまで賑やかだった家庭環境から、寂しく、つらいと感じながらの新聞配達と学業の両立に、時には弱音を吐いていたこともありました。それでも夏休みに帰省したときにはすっかり元気になっていたのを見て、私はホッとしました。息子はこのときの経験から社会の中で生きる厳しさも感じ、また将来進む道もはっきりと見据えたと思います。それからは数字が好きだと言っていたこともあり、簿記の資格をとるために努力を重ねていたようで、時折、電卓を打ち込んでいた姿を思い出します。

 就職は最終的に金融機関に決めました。他県の大学に進んで、親と離れていたから、家から通える地元の銀行に決めたと話していたことを、事件後、同僚の方から聞きました。そこでも多くの友人との出会い、更に将来の夢や目標をかなえるために頑張っていました。銀行に入ってからも多くの資格をとり、事件後も前月に受けた試験の合格が届いたときには言いようのないほど、つらくなりました。社会人となって3年目、事件によって全て奪われてしまった息子の計り知れない無念を思うとかわいそうでならず、生きている限り、この思いは消えることはありません。

 私の次男、智章、当時24歳は2008年11月10日の夜、会社から帰宅するため、徒歩で同僚の方と駅へ向かっていたところ、当時19歳の少年が運転する軽トラックにはね飛ばされ、翌朝、息を引き取り、殺人事件の被害者になってしまいました。

 加害者の少年は父親の経営する土木会社に勤務、軽い知的障害があった少年は、仕事上でのミス等から日ごろから父親に叱責されることも多く、その父親を困らせたい、離れたいとの思いで、誰でもいいから人を殺して刑務所に入る、そんな理由で無差別殺人とも言える事件を起こした。それも保護観察中であったと知ったときの悔しさ、怒りは言葉では言い尽くせないほどでした。何の落ち度もない我が子が事件に巻き込まれ、更に少年事件ゆえの理不尽さに、私達は無念が募っていきました。

 あの日の朝、息子は「行ってきます」と言って、私は「行ってらっしゃい」と送り出し、それが親子の最後の会話となってしまいました。元気な姿を見ることができたのは、そのときが最後になってしまうなんて、息子は人生を絶たれ、残された私達家族みなの人生も変えられてしまいました。

 夜8時ごろにかかってきた電話、「智章さんが事故に遭われました」。一瞬、エッと言葉に詰まり、そのあとは心臓の鼓動が高まっていきました。その方は「どこへ運ばれるか、まだ分かりません。分かり次第連絡しますので、準備をして待機していてください」と告げました。その電話の直前まで、呑気に主人と週末に出掛ける話をしていました。そこへ思いも寄らない電話が入ってきて、信じ難い状況になっていき、血の気が引いていくのを感じました。その電話の向こうから、緊迫した現場の状況を表すかのように救急車のサイレンが聞こえてきて、一気に不安が増しました。主人は台所で電話を受けていた私の様子に何か異変を感じたと思います。すぐに、「智章が事故に遭ってしまった」と伝え、それまでの雰囲気が一変しました。それからはショックを受けた状態で、次の電話を待ちながら、何を準備すればいいのか、気が動転して、判断もつかない。そして、電話が入り、「旭中央病院に運ばれます。すぐに向かってください」と伝えられました。

 私は次女に「智章兄ちゃんが事故に遭ってしまった」と告げると、娘は一瞬にして不安な表情になってしまいました。早くしなければと、気ばかり焦り、晩酌して運転できない主人に代わり、私が運転席に乗り込み、状況が分からないまま病院に向かいました。一、二度は行ったことのある病院でしたが、衝撃と不安で体は震えながら、ハンドルを握り続けていました。息子の状態はどうなっているのか、運転しながら、早く子供に会いたい、どんな怪我なのか自分で確認したい。そのときは、たとえ重傷であったとしても、まさか死に至るような怪我ではない、勝手に思い込んでいました。そうあって欲しいという気持ちが強かったからだと思います。

 事故を起こしたら、息子のところにたどり着けない、落ち着かなければ、自分に言い聞かせながらも焦る気持ちもあって、途中、道を間違えてしまい、1時間余りかかって駐車場に着き、必死に救急救命棟の入り口まで走りました。ドアが開き、その場の光景は、それまで思っていたことが一瞬にして変わるものでした。大きなビニール袋に息子のものと思われるシャツ、ズボン、片方だけの靴等が入れられてあるのを目にした途端、大変なことになっていると直感しました。周りには警察官2、3名、勤めていた会社の方々が3、4名、一様に無言で立ち尽くしていました。私達は息子の容体の説明を受けるために呼ばれました。出血がひどいので止める手術をするなどの説明を受けたものの、救命医の苦渋の表情に不安が増して、内容がほとんど耳に入ってこず、先生が説明の最後に言われた言葉だけが記憶に残っています、「若さに期待しましょう」と。その直後、ストレッチャーに乗せられ、顔面蒼白の息子を呆然と見送るしかありませんでした。朝、いつものように元気で出ていった息子とは信じられないほど変わり果てた状態でした。そのあとも薄暗い病院の廊下で、何枚もの手術承諾書に、これを書けば助かるんだという、祈るような気持ちで署名し続けました。入院手続の書類も渡されて、息子の性格や好きな食べ物等を書き込んだように思います。この書類を書くのなら助かるんだと希望が湧いてきたのはほんの一時でした。このこともあとになれば悲しい記憶になってしまいました。

 日付が変わった午前1時半ごろ、警察官から単なる轢き逃げ事故ではなく、故意にはね飛ばした殺人未遂事件ですと報告を受けました。犯人は19歳の少年、名前も判明、息子の容態は悪化していく一方で、少しずつ真相が明らかになっていき、怒りを通り越して、言葉にできないほどの衝撃を受けました。でも、そのときは息子が助かってほしい、その気持ちのほうが強くなっていました。備え付けられていた心電図、脈拍を表す機械の表示からも、容体が悪化していくのを目の当たりにしていました。

 病院に着いてからどのくらいたったころかはっきり覚えていませんが、娘のことが気掛かりになってメールを確認しました。「お父さんかお母さん、どちらか迎えに来て。智章兄ちゃんに一目だけでも会いたい」とありました。私は「今危険な状態なので、二人とも智章のそばを離れられない」、そう返事するしかありませんでした。そのあと、再び先生から容体の説明を受けるために呼ばれました。私は先生の険しい表情から、息子はもう助からないと悟りました。主人と私は、横たわるベッドの両脇で意識もないような息子の手を握っているくらいしかできませんでした。あんなに元気だった息子が、輸血で体が2倍になっていました。看護師さんが呆然としていたであろう私達に言ってくださった「声を掛けてあげてください。耳は最後まで聞こえていますから」と、何か言いたかったのか、訴えたかったのか、息子の片方の目はかろうじて開いていました。信じられない息子の姿、私は一言二言やっとの思いで話し掛け、主人は看護師さんの言葉に「頑張れ、頑張れ」から、次第に名前を呼び続けていました。私はそこに無言で横たわる息子が昨日の朝、元気に出掛けて行った我が子だと信じたくなかった。医師から死亡宣告されてしばらくして、刑事さんから事件なので司法解剖しますと言われたことにも動揺しました。事件で酷く体中、傷ついてしまった我が子の体に、更にメスが入ることがかわいそうでならなかったのです。

 我が子の死を、親戚や予定があった関係する方々に連絡することも本当につらいことでした。「智章が……」、その次の言葉がなかなか言えない。事件に巻き込まれて殺されてしまった。今も口にしたくない、できない言葉です。病院でのあの時間を思い出すたび、犯罪被害者、遺族が受ける残酷さがどれほどのものかということを身をもって知りました。警察車両で運ばれていく柩を目にしたとき、それが現実なのか、悪夢の中にいるのか分からなくなりました。そのあとを追うように、私達が警察署に向かう道すがら、青空が広がっていたあの朝は、深い悲しみと苦しみの始まりとなってしまって、生涯、忘れることはありません。警察署には既に報道の車が停まっていて、署内に入る際、建物の後ろから身を隠すように入るしかありませんでした。犯罪に巻き込まれた遺族になってしまったことを思い知らされた瞬間でした。

 刑事さんへの対応や、それが事件で奪われた死であっても自分達で葬儀の準備も進めなければならない。加害者家族が来る可能性も想定されていたこともあって、息子が勤めていた銀行からお通夜、葬儀の際に支援の申し出をいただき、それがとてもありがたく、助かったことでした。息子が勤めていた支店に挨拶に行き、遺品となったものを引き取りに行くときもつらく悲しく、主人と二人だったからどうにか行けたと思っています。

 最初にお話ししたように、葬儀が終わったあと、亡き息子の恩師から電話をいただき、「これは事件だから20日以内に弁護士と連絡をとったほうがいい」と助言があって、弁護士さんとつながることができました。もし、早い段階でお二方に出会えなかったら、少年審判傍聴と、被害者参加制度を利用して刑事裁判に参加することができなかったのではないかと私は思っています。現在のように、以前に近い生活を送っていたかさえ分かりません。

 事件から1か月も経たない2008年12月4日、最寄りの警察署において私への事情聴取がありました。検事さんを前に、泣きながらやっとの思いで、突然、犯罪で子供を失ってショックを受けている心情等を話しました。その際に、千葉県警の犯罪被害者支援室の方々、中には臨床心理士の女性も同席してくださって、喪失感や絶望感で心が不安定になっていたころでしたので、安心感があったことを覚えています。その日、帰り際の駐車場で、事件の担当刑事さんから「何でも言ってください」と声を掛けていただきました。その言葉には、私達への気遣いと、見守っていますからとのメッセージが込められていたように感じました。支えられているように思った、心に残る言葉でした。

 12月10日、主人と千葉家庭裁判所に出向きました。私達は、そこで子供を失った苦しみや無念を話せる、聞いてもらえるのかと思っていました。実際は、調査官が加害者の少年のこれからを決める方向性をつけるために、被害者遺族から事件後の様子、出来事を聞き出すための聴取であったことをその場で感じました。事件から半月の間に加害者の父親から電話が2回掛かってきて、とても動揺したことがありました。そのことを話した際には、それはいつのことかと詳しく聞かれたとき、それが少年に有利になることだからかなと、想像ですが、そう思いました。主人と家庭裁判所を後にしながら「私達、何のためにここに来たんだろうね」。私は我慢していた分、そんな言葉を口にしていました。私達はその日、家庭裁判所という機関に憤りを感じながら帰ってきたことも忘れられません。

 2008年12月26日、千葉家庭裁判所で少年審判傍聴の日は、その場に参加する全ての人間が緊張していたように感じました。残虐な事件を起こしたにもかかわらず、勾留中に傷害事件まで起こしていた加害者。いつ、どこで暴れるか、不安の中で始まった審判。家族3人で審判廷に入り、調査官からメモと鉛筆を渡された際に、音は立てないようにと注意がありました。あくまで加害少年への配慮しかないように思えました。審判廷の加害少年に反省の態度が見られるかという、私の淡い期待はすぐに消えていきました。キョロキョロと見回すのは、父親が出てくることの不安だけだったのではないかと気づいたのです。全く反省もせず、残虐な犯行だと判断された少年に逆送の審判が下ったとき、安堵しました。あの時点で遺族として加害少年を前に心情を述べることができたことは、気持ちの上で少しでも救われたことです。

 弁護士さんから言われました。この審判傍聴が最後の機会になってしまうか分かりませんので、思いのたけを言ってくださいと。少年に私達の悲しみが届いたとは思えませんでしたが、先に進む決意もできた日になったことも確かです。この日、事件を担当した香取警察署の犯罪被害者支援室の方々が千葉家庭裁判所への送迎をしてくださったことは、今でも感謝しています。事件発生から様々な対応に追われ、関わることなどないと思っていた関係機関に出向くことは、心身ともに大変なことでした。重要な審判日、万が一、交通事故を起こしてしまったらという心配もあり、送迎の支援はとてもありがたいことでした。

 日時が決まっている場所には、支援を受けながらも行くことはできたものの、それまでの生活はなくなっていました。どのように過ごしていたのか、食事はきちんとしていたのか、はっきりとは覚えていません。でも、大学受験を目前にした次女がいたので、最小限のことはしていたと思います。買い物に行くこともつらかった。車に乗り込むと、あの夜の衝撃と不安が思い出され、運転すると息子がはね飛ばされた瞬間や何回もぶつかった現場のことを想像して、涙が出ました。このくらいのスピードで、犯罪等でなかったら、息子は助かったもしれない、とも思いました。スーパーの店内にいると周りが灰色に感じたのは、私はもう以前とは違う、犯罪被害者遺族だという意識があって、人と目が合うことを恐れていたからだったのではないか、それが行動にも表れていたのではなかったかと、振り返り、思います。しばらくの間、孤独を感じる日々を送り、何をしても、何を見ても、気持ちは事件、我が子のことに行ってしまう日々でした。

 2009年1月4日、千葉検察庁の担当検事から「本日、起訴しました」と連絡がありました。そのとき、これから裁判準備が始まる、被害者参加制度についてまだわずかなことしか分かっていませんでしたが、心に決意した日でした。検察庁と弁護士さんの事務所へ行くことが増えていきました。回を重ねるごとに、制度のことも分かっていき、弁護士お二人の息子や私達に対しての深い理解と熱意も伝わってきたことが思い出されます。弁護士さんは裁判で「智章君の生きた証として写真を法廷に出しましょう。どんなに一生懸命生きていたかを表す裁判にしましょう」と言ってくださり、私達家族もどんなにか無念であろう息子のために、今やれることはこの裁判参加しかないという気持ちが高まっていきました。

 刑事裁判に参加する準備はそれまでの生活とはかけ離れたものでしたが、弁護士さんお二方は既に被害者参加制度を熟知されていたと思われました。私達は決心したものの、本当に法廷の中に入って自分達にできるのだろうかと不安もありました。準備で忙しくなっていく一方で、突然、我が子をむごい犯罪で失った喪失感、絶望感は広がって、特に事件から数か月は、もう生きていたくない、智章のところに行って、どんなに怖かっただろう、痛かっただろうと慰めてやりたい、そんな気持ちも抱えながらの毎日でした。自分一人の心さえ整えられずにいたので、残されたきょうだいである子供達の心の内を聞く余裕もない状態でした。胸が張り裂けそうな苦しみ、悲しみを、同じような経験、体験をした人に聞いてもらいたい、そんな気持ちが強くなっていき、報道で見聞きしたことのある、当時あった「全国犯罪被害者の会(あすの会)」に行ってみたいと弁護士さんに相談しました。先生は資料を取り寄せてくださって、すぐに書類を提出しました。

 2009年2月下旬、初めて集会に参加しました。そこでも泣きながら事件内容を話し、皆さんは静かに聞いてくださいました。少し落ち着いたころ、皆さんの様子を見ると、とても御遺族とは思えないくらい、強く、明るく見えて、驚きました。ある一人の女性が声を掛けてくださいました。「ここでは泣いてもいい、笑ってもいいんだよ」と。犯罪被害者となってしまい、笑える日など二度と来ないと思っていた私は、その言葉に驚き、救われました。「笑ってもいい」。事件から次々と対応することに必死で、でも心が壊れそうと思うほどの日々で、心身ともにガチガチになっていた状態から、心が少し軽くなりました。自分の居場所が見つかった、帰りの電車の中でしみじみ思った、その日のことも忘れません。そして、その会の方々が被害者遺族として我慢ばかりだった苦しみをこれからの人たちにはさせたくないとの強い思いで、署名活動等を行った結果、被害者参加制度ができたということを初めて知った日でもありました。まさか自分達が、その制度を使う遺族となってしまうとは。複雑な思いと、もし制度がなかったら、裁判で何も言えず、地域や社会に戻れたのだろうか、これまでの被害者御遺族の悔しさ、苦しみを考えることでもありました。それからは毎月、都内の集会会場に出向くことが事件後の励みになりました。被害者の現状を調べ、必要な法律ができるために訴え続けてこられた皆さんとのこの新たな出会いは心強いものとなっていきました。

 それからは初公判に向けて、アドバイス等をいただきました。1月から3月まで担当検事であった方とは裁判に向けて打ち合わせを重ねていき、この検事さんなら寄り添ってくれる、自分たちの気持ちも十分伝わっている、法廷でも何とかできるという思いに至ったころ、突然、異動すると報告され、本当にがっかりしました。次の担当検事にきちんと引き継ぐので大丈夫です、検事さんはそうおっしゃいました。書類上の引き継ぎに間違いはないと思いましたが、事情聴取のときから信頼関係を築いてきたと思っていた私達が公判日を目前にして急に別の検事が担当になると知って、とても落ち込みました。それまでのように続けられるか、不安になってしまいました。私達にとっては1度しかないことなので、検事が代わってしまったら、また一から気持ちを伝えなければ難しいと思い、なおのこと、動揺してしまいました。私達の場合は、できることなら起訴から判決まで同じ検事で対応してほしかったと、今でも残念に思っています。

 裁判準備のため、千葉の保護観察所に面会を申し込みました。許可され、私は弁護士お二人と2009年3月末、出向きました。保護観察中であったのに、どうして殺人という重大犯罪を起こすようなことになってしまったのかという思いが強くなっていました。どんな対応をしていたのか、実態はどうだったのか、普通だったら保護司や保護観察官の指導のもとで立ち直っていく段階にあったと思われるのに、こんな理不尽なことはない、悔しくて、苦しみが増すばかりだった私達家族は、保護観察中に担当保護司からどのような報告が入っていたのか聞きたいと思い、弁護士さん方の協力を得て、何とか責任者と面会ができたのです。そのとき中央に座っていた女性が「少年はちゃんと仕事等をやっていたと思いますよ。夜、徘徊等もなかったし」。もっと家庭内や父親に対する不満等を訴えていたはずだと思うのに、この程度の答えしか返ってきませんでした。

 2009年5月11日、初公判。6月25日、判決。5回の公判。初公判の日、我が子の命を奪った加害者が5人もの刑務官に囲まれて入ってきたとき、私は大変な裁判になるかもしれないと思ったことを記憶しています。少年審判のときと同様に、その場にいる関係者、傍聴席にいた人達も感じていたと思います。息子の無念を晴らすためにも最後まで頑張ろうと思いました。目の前の被告は傍聴席を見回すなど、落ち着かない様子が窺え、ちょっとしたことで感情が爆発して暴れるかもしれないという危機感もありました。この裁判が判決までちゃんとできるのかさえも、裁判官をはじめ誰もが心配する法廷でした。

 事前に読んだ調書や少年審判を傍聴したことで、この事件は食い止められた、加害者が保護観察中という状況だったことを考えれば、なおさら悔しく、我が子が理不尽に命を奪われてしまったことは諦めることなどできない。それまで補導歴もあり、遊び仲間の間でも殺人事件もあったことなども分かっていました。こんな重大犯罪を起こすまで、何度もこの事件を食い止める機会はあったとつくづく思いました。家庭裁判所等公的機関が少年が1度目の犯罪を起こしたとき、現地の調査内容や少年を取り囲む環境を十分に考慮し、早い段階で適切な対応をしていたなら、息子は被害者等にならず、少年は重大犯罪の加害者にならなかったという思いが強く、悔しくてなりません。

 弁護士お二人との打ち合わせのとき、先生が「智章君は寄ってたかって殺されたようなものだ」、そう言われたことは事件の悲惨さ、憤り、無念を表していると思ったことを忘れません。被告人質問は少年が何度も暴れて退廷させられ、次の公判日に何とか実現できました。少年のそれまでの言動を考慮した上で、わずか15分が限度だろうということで、主人と私がそれぞれ質問しました。弁護士さんとその場を想定して練習もしていました。被告を怒らせないように、そして本音を聞き出すためには、優しく、分かりやすい言葉で語りかけるように。それは我が子の命を奪った犯人に対して、そうしなければならないと分かっていても、正直悔しくて、つらかったです。でも、それが功を奏して、スラスラと答えました。少年だから軽い刑で済むと思って起こした犯罪であったこと、5年くらい刑務所に入って出たら住み込みで働く、というようなことなどでした。それまで、反省の態度も感じられず、弁護人や証人として出廷した方の言葉に激昂し、退廷させられたりを繰り返していた被告が、私達の質問に答えたというのは、奇跡に近いと思いました。その後も法廷の机を蹴飛ばしたりして、私達家族5名の意見陳述の際には、また退廷していて、遺族の悲しみ、苦しみの心情は届くことはなく、そのことも今でも悔しいことです。

 求刑意見も家族が分担する形で述べました。無期懲役、どんなに願っても息子は戻って来ない。反省もしないどころか、被告の少年は「出てきたとき、親父がいたらまたでかいことをする」と何度も法廷で言い放っていたのです。判決の日、私はいくら少年であっても、人の命を何とも思わない、何度も暴れ、裁判長にも暴言を吐く、世の中、特に地域の人々に不安を与える言葉を繰り返していた被告には、私達の求刑意見も反映するかもしれない、そんなかすかな望みも持ちながら、判決を聞きました。5年から10年の不定期懲役刑。がっかりした、次には虚しささえ感じました。反省もせず、法廷という神聖な場所でも暴れた被告、どんなに残虐という言葉があっても、「更生を望む」という言葉で判決文は終わりました。目の前の被告の何を見て、聞いて、あの判決を出したのでしょうか。私は少年法の壁というものを強く感じた日でもありました。

 被害者参加制度を利用して、裁判に参加したことで2009年8月に茨城県水戸市で開かれた被害者学会、その日、同時に開催されたシンポジウムに参加したことがきっかけで、「少年犯罪被害当事者の会」の会員の方と出会いました。その会のこともそのとき初めて知りました。その年の10月、大阪で開催されたWiLLに参加しました。たとえ遠くても、今の自分は同じような悲しみ、苦しみを抱えている人達に会いたい、その気持ちが高まっていきました。静かな音楽が流れる中、まだ幼さも残る少年、少女の写真が壇上に並んでいて、一人一人の事件内容がアナウンスされていきました。私はその子供達がむごく命を奪われた被害者だと分かったとき、悲しくて涙が溢れました。そして、その写真の最後に我が子の写真を見たときには、その場にいることもつらくなったことも思い出します。それから、毎年、WiLLに参加していくうちに、最初は涙で見えなかった子供達の写真を見て、今年も会いに来たよ、という気持ちになっていきました。子供達をこれ以上、被害者にも加害者にもしたくない、このことが会の一番の思いであり、願いです。皆さんが大事な我が子を少年犯罪で失ったことの苦しみを抱えながら行動し、訴え続けてきたことも、自分が少年犯罪で被害者遺族となってしまってから知りました。

 水戸のシンポジウムの際、多くの犯罪被害者団体の方が参加されていて、こんなにも多くの被害者の方々がいるということ、皆さんが行動していることにも驚きました。犯罪被害者遺族となって被害者の会に参加し出会いがあり、語り合うことも徐々に増えていきました。苦しみや無念を抱えているのは自分達だけではない、そう気づきました。法律によって被害者のために制度ができて、家族のために使う、それは私達にとって司法で救われ、やがて前に進むことにつながっていった大きなことであったと思っています。

 事件直後は御近所を訪ねることも勇気が必要でした。それは、もう自分はそれまでの自分ではなく、以前は当たり前にしていたこともできなくなり、普通の生活には戻れないと思っていたからです。そうした生活の中で、以前とは違う花の持つ力に気づきました。それは少年犯罪の御遺族の女性から花の種を送っていただいて育てたこと、以前から交流のあった人達と一緒に寄せ植えをしたことがきっかけでした。裁判等事件に関係することに出向くことは必死な分、気力が出ましたが、身近な生活というと、当たり前の日常がなくなったとの思いが強く出てしまって、何をするにもつらく感じていましたが、このころ、花によって心が少しずつ落ち着くことにも気づきました。

 刑事裁判、民事裁判、全て終わった直後、東日本大震災が発生し、それは子供を犯罪で失った私には、多くの命が一瞬にして失われた現実が我が子を突然犯罪で失った喪失感に重なったほど、つらいことでした。我が子が犯罪の被害者等にならなかったら、今はどんな人生を歩んでいただろうか。事件後、息子のアルバムをめくり、部屋に残されていた手帳等から将来のことをいろいろと計画していたことが分かりました。小さいころは体が弱かったけれど、少林寺拳法と出会ったことで心身ともに鍛えることにつながって前向きになり、いろいろなことに挑戦していました。将来に向かって目標を持っていた息子の人生が断ち切られた。親としてそのことが一番かわいそうでなりません。

 息子は、あの夜、自分の身に何が起こったのか、自分はどうなってしまうのか、薄れ行く意識の中で何を思っただろうか。何度も何度も私は思い続けました。もし、かなうことなら会いたい、話がしたい、何年経とうとその気持ちは変わらずに心の中にあります。息子の無念は親の私達でも計り知れません。それを思ったとき、親としてその無念の幾らかでも表していこうという気持ちが湧いてきました。

 千葉県警の犯罪被害者支援室の取組で、これまで主に千葉県内の中学校、高校で命の大切さを伝える授業に参加してきました。生徒さん達に家族の大切さ、そして他人の命も同じように大切に思うことが伝わってくれればいいという思いで続けてきました。私自身もこの活動で生徒さんから元気をもらい、時には感想を寄せてもらうことで、自分のほうが勇気をもらいました。そのような貴重な経験も前に進む力になりました。

 千葉犯罪被害者支援センターでは、犯罪被害者遺族として各自治体の犯罪被害者支援窓口担当の方々や犯罪被害者支援員としてボランティアを志し、養成講座に参加される方々へ被害の経験等をお話しする機会があります。そのことで事件、事故の被害者の心情、実態が伝わって、その方々によって被害者の直後からの支援につながることを願って参加しています。できることなら被害者遺族が出ないような世の中になってほしい、切に願うことです。

 本日、このような機会を与えていただいたことで、私自身もいろいろと考えることがありました。犯罪被害者が少しでも早い段階で被害者参加制度のように利用できる制度にたどり着けるような支援も重要だと思います。それには、生活の面でも早期のきめ細やかな支援があってこそ、裁判参加等を望む方々の気持ちも救うことにつながることだと信じています。

 多くの皆様の御努力で犯罪被害者支援はとても進んできたことを、私自身、この13年の年月で実感してきました。社会でも犯罪被害者支援について知られるようになってきました。更に犯罪被害者支援の気運が高まっていくことを願っています。これからも警察をはじめ、関係各所のより深い連携のもと、社会の変化に即した支援を心から願っています。以上で終わります。御清聴、ありがとうございました。

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