富山大会:基調講演

「少年犯罪で息子を奪われた母の想い」

武 るり子(少年犯罪被害当事者の会代表)

 こんにちは。はじめまして。今紹介していただきました武るり子といいます。本日は、「犯罪被害者週間 富山大会」開催、おめでとうございます。このような大会に私に貴重な時間をいただけたこと、心から感謝をしています。話をするときは座らせてもらいます。今日は、私が話をする前に私たちの会でつくっていますDVDの映像を先に少しだけ見てもらいたいと思います。

 では、お願いします。

<DVD上映>

 ありがとうございました。今、見てもらいました映像ですけど、私たちの会が1年に1回だけ集まりをしていてその名前をWiLLと付けています。今の映像はそのときの最初に流していますプロローグです。

 なぜ、私がこのWiLLという集会をしたいなと思ったかといいますと、社会で大きく扱われた事件であれば、あの事件から1年たちました、2年たちましたと思い出すことがあると思うのですね。でも、私たちの会の人たちの事件、みな、死亡事件です。内容は本当にひどい内容です。でも、ほとんどが地域で起きる普通の事件として扱われるのですね。そういう事件というのはどんな扱いかというと、地方の新聞であれば1回載るか載らないかです。新しい事件が起こると、前の事件、古い事件としてすっかり忘れられてしまうのです。私はそんな忘れられた子供たちを1年で1回でいいから主役にしたいと思ったのです。その子たちのために過ごしたいと思って、つくったのがこのWiLLという集会です。

 私の息子は今から23年前に少年犯罪で命を奪われました。私はそのとき日本中、探したんです。私のような遺族が集まるところがないか、話をするところがないか、探しました。なかったです。だったら、私は同じ想いの人を探そうと思って、遺族の人、探したんですね。1年かかりました。ようやく4家族が知り合ったのです。その最初の家族は沖縄の石垣島の人が2件、岡山の人が1件、そして、うちが大阪、4件の人が知り合ったのです。でも私は最初から会をつくろうなんて発想は全くなかったです。とにかく話がしたかったのです。私が連絡をとって、「じゃ、一回、話をしましょう」ということになって大阪で集まったのですね。そうしたら、そこでいろいろなことに気が付いたのです。いろいろ話をすると、子供を殺された親の想い、苦しみ、似ていました。それからもう一つ、あ、抱えている問題がどうも共通しているね、ということに気が付いたんです。それが法律、少年法という、とっても難しい法律だったのですね。どうも、私たち、話をしていると、この壁にぶつかっているね、と。日ごろ、いつも思っていたんですけども、みんなで話をして確認し合うことができたんです。だったら、自分たちは法律のことを勉強したわけではない、だから法律のことを一つ一つどうのこうの言うことはできない。だけれども、経験は話せるんじゃないか、ということになって、必要に迫られて会をつくったのです。

 その名前が「少年犯罪被害当事者の会」です。

 それで、私が連絡をとっていたので、自然とうちが事務局になりました。私が自然と代表になったのです。事務局といっても、家の中でやっています。会の電話と家の電話を分けているだけの事務局です。時々、事務局があると思って訪ねてくる人がいます。「あ、普通の家だったんですね」と言われてびっくりされることがあるんですが、今も家の中でやっています。そして、私と主人、話をしていたのです。せっかく会をつくったのだから、何かしたいね、と言っていたのです。だけれども、何をしていいか分かりませんでした。見本がなかったのです。

 そんなときに知り合ったのが若い学生さんたちだったのです。会の事務局の電話番号をオープンにしたんです。どこにでも載せてもらいました。それからホームページを立ち上げたのです。今は珍しくないですが、22年くらい前のことなので、とっても珍しくてそれだけでニュースにしてもらいました。そのホームページを見たり、何か小さな記事を見た若い学生さんからうちの家に電話が入るようになったんです。どんな電話かというと、電話がかかってきて、一生懸命、私に話を聞くのです。当時はまだ犯罪被害者のこと、話題になるころじゃなかったです。だけれども、そんな学生さんがいたんですね。一生懸命、話を聞いて、最初の学生さんがこう言ったんです。「武さん、武さんの話をもっと詳しく聞きたいです。行ってもいいでしょうか」って言うのですね。でも、私が遺族だからすごく気をつかっているのが分かりました。こう言うんです。「武さん、話を聞きたいけれども、もしかしたら失礼なことを言うかもしれない。傷つけることがあるかもしれない。でも、話を聞きたいです」と言うのですね。こうも言われました。「興味半分と思ったら、武さんが大変な思いをする。でも、行きたいです」と言ったんです。私と主人は最初からこう言いました。「興味半分でもかまわないよ。入口はなんでもかまわないから、話を聞きに来て」と来てもらったのです。

 私たち二人はこう思ったのです。“興味”という言葉だけをとるとすごく悪く聞こえます。だけれども、興味も関心も何も感じないほうが悲しいと思ったのです。だから、入口は何でもよかったのです。

 最初の子たちは10人くらいのグループでした。恐る恐る来て、一生懸命、私たちの話を聞いてくれたんです。その一生懸命さにつられて、私と主人は今まで話したことのないようなことまで、その一生懸命さにつられたことによって話せたんですね。時には涙を流してくれる子もいました。とってもありがたいと思ったんです。その子たちが帰る前に、私はこんなことを言ったんですね。「外国には遺族が集まる場所がたくさんある。でも、日本にはまだない。何かをしたいな」と言ったんです。そうしたら、その中の一人の子がこう言ったのです。「武さん、武さんたちがしたいと思うこと、自分たちはできることは手伝います」と言ったんです。そのたった一言、その一言に後押しをされてつくったのがこのWiLLという集会なのです。

 その学生さんたちとつくったのです。今もそうです。最初は横断幕はどうしようかとか、献花はどうするのだろうとか、まず場所はどこにしようかとか、そういうことも全てその学生さんたちと一緒に考えてつくってきたのです。毎年、学生さんの力があってできているWiLLなのです。今年で21回目を迎えることができました。21年間、続けてこられたのです。こうやって簡単に言いますけど、長く続けるって大事だけれども、大変でした。でも、その学生さんたちが毎年来てくれることによって、このWiLLというのはできているのです。毎年三、四十人の学生さんが手伝ってくれています。何カ月も前からの準備から、当日の進行、片付けまで、何もかも手伝ってくれているのです。ぜひ、このWiLLを見に来てほしいと思います。もちろん、遺族の話も聞いてもらいたいです。専門家の人の話もディスカッションでありますので聞いてほしいです。でも、私はいつも言うのですが、黒子に徹して動いている、この若い人の姿を見にきてもらいたいのです。最近は、日本も若い子がどうのこうのと悪いことを言うことが多いですが、私はそんな時には、どこでも手を挙げて、「日本もまだまだ捨てたもんじゃないんですよ。私の周りにはこんなに一生懸命な若い人たちがいるんですよ」ということをいつも言っています。

 本当に、その子たちがいなければできないんですね。私たちの会の宝だと思っています。この子たちが続けてくれる限り、このWiLLを続けていきたいなと思っています。最初から来ている子は、もう22年の付き合いなので、もちろん社会人になっています。でも、社会人になっても、ずっと来てくれるんですね。WiLLスタッフ、学生スタッフのOBとして来てくれたりしています。“被害者支援”という言葉を聞くと、ああ、難しいな、大変やなって、専門のことを知らないとできないんじゃないかと思われてしまうことが多いですが、私は誰でもできることがあると思っているんです。それは、この学生さんの姿だと思うのです。私は、この姿が被害者支援の原点だと思っています。できることをできる人が続けてくれているのです。途中、社会人になってしばらく来られなくなっても、また来てくれたりするのです。こうやってできることをできる人がする、そしてできる限り、長く関わる、こういうことが私は被害者支援の原点だと思うのです。本当に私たちの会の自慢でもあります。これからも一生懸命、これを続けていけたらなと思っています。

 私は、最近ではいろいろなところに出かけて行くようになりました。時には、法務省、内閣府、警察庁、国会の中の法務委員会というのがあって、「参考人」って聞かれたことがあると思うのですが、そこにも何度か呼んでもらって話をしてきました。どうしても公の場所に行くことが増えたので、そんな時には行く前からいろいろなところで会の名前、そして「代表、武るり子」と書かれたり言われたりします。そうなると、凄いイメージを持たれて「武さんって活動家ですか」「今までも活動していたんですか」と聞かれることがあるのです。でも、私は活動家でも、活動していたわけでもないです。専業主婦なんですね。専業主婦といっても、実はこうやって人前に出るのはとっても苦手です。引っ込み思案なんですね。子供のころから発表は苦手でした。その性格は大人になっても変わらなかったです。できるだけ、人の後ろにいようという性格なんです。

 でも、そんな人前に出るのが苦手な私が、こうやって、今ではこの23年間、北海道から沖縄まで、呼んでもらったなら、できる限り、足を運んで話をしているのです。なぜ、苦手なのに、こんなことをずっと続けてきたかというと、23年前の社会というと、私たちのような犯罪被害者のことを何にも考えてはいなかったです。守ってくれると思っていた法律、制度や、もちろん“支援”という言葉もなかったです。何にも守ってくれなかったのです。あるべきものがなさすぎて、声を上げざるを得なかったです。

 それから、もう一つ、やはり大切な息子のことだったから、続けてこられたのじゃないかなとは思っています。

 私たちは、事件に遭ったときから、声を上げました。主人が事件に遭った直後にこう言ったのです。「俺たちはもう見せ物パンダになってもいいな」って。「もうプライバシーも何もないぞ。とにかく言っていこう」と言ったんです。何も悪いことをしていない。それなのに一方的な暴力を振るわれる、そして命まで奪われる、こんなことがあってはいけないということで、最初から声を上げたのです。もうプライバシーがなくてもいい、とにかくこの理不尽さを訴えようと、そんな想いで声を上げました。

 もう一つ、主人が言ったことは、「声を上げるからには、都合のいいことだけ言っても伝わらないから、全てをさらけ出そう。その覚悟はあるか」って、23年前に言ったんです。私は「はい」と答え、私たちは全てをさらけ出して話をしてきました。これからも変わりません。だけれども、みんながしないといけないという話ではありません。

 必死で声を上げたのですが、当時は、その声はどこも拾ってはくれなかったです。どこにも相手にされなかったんです。門前払いでした。自分で、テレビ、新聞、週刊誌、当時はファックスで情報を流したんですが、どこにも相手にしてもらえなかったです。声を拾ってくれるところはどこもなかったんです。マスコミも、あとで分かったことは、うちの事件は社会的に大きな影響力がある事件ではなかった、ということも大きな理由だったようです。でも、そんなこと分からないので、必死で声を上げて、必死で情報を流したんです。でも、相手にされず、本当に悔しい思い、歯がゆい思いをしました。

 でも、私たちは、諦めなかったんですね。どんなにひどい扱いを受けても、二人で最初から諦めませんでした。そこで決めていたことはありました。どんなにひどい扱いを受けても、ルールは守ろうなって。絶対、加害者のようになってはいけないからルールを守りながら諦めずに頑張ったんです。今考えると、それは良かったなと思います。とっても時間がかかりました。歯がゆい思い、悔しい思いをたくさんしたんです。だけれども、ルールを守りながら一つ一つを、一生懸命、声を上げ続け、諦めずに頑張ってきて良かったと思っています。なぜなら、この23年間で社会が変わったからです。こうやって犯罪被害者週間ができるなんて、思いもしなかったです。それから、私たちのための法律、犯罪被害者等基本法もできました。そして、私たちの場合、少年法が関わるのですが、とっても難しい法律です。当時は、いろいろな人に言われました。「無駄だよ」って。「特に少年法は動かないよ。50年動かなかったのが、動くはずない」って、専門家等、いろいろな人に言われましたが、最初は二人で頑張り、そのあと会をつくって、会の人と応援してくれる人たちとルールを守りながら頑張ったら、4回変わったんです。

 ああ、本当に諦めずに良かったなと思っています。だけれども、もう一つ思うことがあるのです。こういう大会に出ると特に思うんです。諦めなくて、頑張って良かったなと思うのと、もう一つは、23年前に社会がこんなふうになっていたなら、法律制度が私たちを守ってくれていたなら、もっと“被害者支援”という言葉が広がっていたなら、私たち家族はもっと違ったと思うんです。そんなことを思うので、とても複雑な思いは抱えているんですね。

 この一回一回、話をするということは、私にとってとっても大事なことです。今日も一生懸命、話をします。このあとにするうちの家族の話というのはどうしても重たい話になります。とってもしんどい話なんですね。だから聞いている皆さんにとったら、とてもしんどいと思うんです。少し肩の力を抜いてもらって、聞いてもらったほうがいいかもしれないです。一生懸命、この大事な時間を使って話をしたいと思います。

 もう一つ、思い出したことがありました。その前に、こんなことがあります。私、犯罪被害者になってびっくりしたことがありました。「偏見があるんだな」ということでした。それにはびっくりしたんです。どんなことかというと、「ああ、それなりの生活をしていたから被害者も被害に遭ったのだろう」と言われるんです。そう見られたり、言われたりします。先ほど紹介した子供たち、そして一人、お母さんがいます。みんな、殺される理由はないのです。それなのに一方的に命を奪われているのに、いろいろなことを言われるんです。特に、私たちの場合、加害者が少年です。そして、先ほど紹介したように、子供たちが被害に遭うことが多いです。そうなると、どんなふうに言われるかというと、「ああ、喧嘩や」と、当時は簡単に言われていました。今でこそ、マスコミの人は気をつけてくれますが、当時、23年前、それから数年間の間は、ほとんどの人が「喧嘩」という報道をされているのです。

 私は、当時、聞いたことがありました。「喧嘩ではないんですよ。なぜ“喧嘩”という表現を使うんですか」と聞くと、当時、こんなことを言われました。「これはね、一方的でも、リンチでも、集団暴行でも、喧嘩でも、全部入れて“喧嘩”という表現なんですよ」って、簡単に言われたんです。遺族のことは何一つ考えられていなかったです。今はいろいろな人が声を上げるようになって少しずつ気をつけてくれますが、今でも少年同士となると、“仲間同士”と言われたり、被害者も悪かったように言われたりします。女の子が被害に遭っている場合がありますが、女の子が被害に遭うとおもしろおかしく言われることもあります。そのことで今でも傷ついている遺族の人がいます。本当に理不尽だなと思います。

 報道する側は、何も考えていないというのが本当に悲しかったです。“喧嘩”という表現をされたときに、どんな思いをするかというと、みんな、殺される理由なく、命を奪われているわけです。それだけで子供がかわいそうでならないんです。その上、“喧嘩”と言われると、更に名誉まで傷つけられているって、親は思うんです。だから、更にかわいそうでならないんです。そのために声を上げる人も多いのですが、その声はなかなか拾ってはもらえなかったです。

 そんなふうに、親がどんな思いを抱えるかということを、全く想像していなかったわけです。だから、私はまず、報道は間違えないでください、ということをお願いします。それから、もし間違った報道をしたなら、その後の報道が大事だということをお願いしているのです。今は、少しずつは変わってきていますが、まだまだ、やはり間違った報道はあります。

 私は、いつも話していることがあります。現在では、中学生、高校生を対象に命の授業というのがありまして、私も学校に出かけて行って話をすることが増えています。そんなときに子供たちにお願いしているのです。噂や情報に流されないでよって。

 今は情報社会です。いろいろな情報が入ってくるのですね。でも、怖いことは間違っていても強い声、大きな強い声に流されるんです。それに乗っかってしまうわけです。例えば、噂も同じです。これはいじめにつながることがあります。私たちの会には、いじめの延長上で事件に遭っている人もいるのです。例えば、噂が流れてきたら、大きくて強い声、間違っていてもそれに乗っかってしまうというか、流されるのですね。その怖さがあります。だから、子供のときから、ちゃんと、噂が流れてきても、情報が流れてきても、見る目を持ってよ、考える力を一人ずつ持ってよ、ということをお願いしているのです。これが本当に正しいものなのかどうなのか、一人ずつが考えるべきだと思うのです。そういう力を子供のときから付けてもらうことによって、偏見には、いろいろなものがありますが、それが少しずつはなくなるのではないかなと、私とそう期待しています。大人の人も同じなんですね。噂話、情報、大きくて強い声に間違っていても流されます。それはしてはいけないです。見る目と考える力を一人一人が持ってほしいなと私は願っています。

 では今から、家族の話から少しずつしていきたいと思います。

 うちの家族は5人家族でした。私と主人、そして長男が事件に遭いまして、高校1年生でした。そして、次に中学1年の娘がいました。その下には小学校3年の息子がいたんですね。5人家族だったのです。それが長男の事件によって突然4人家族になるわけです。それが、私はまず受け止められなかったのです。地獄のような日々を送りました。そんな話を少ししたいと思います。

 私の息子は、今から23年前の16歳のときに、同じ16歳の見知らぬ少年たちに因縁をつけられ、何度も謝っているにもかかわらず、追いかけられ、一方的な暴行で殺されました。私は自分の息子がまさかこんなことで親より先に死んでしまうなど、思ってもみませんでした。それまで多くなっている少年犯罪のニュースを見ていても、「かわいそうやな」とか「大変そうやな」とか、人ごととしてしか考えていなかったのです。そんな我が家に、突然、事件が降りかかりました。

 息子は事件当日まで、楽しそうに高校生活を送っていました。事件当日には、初めてできたガールフレンドとの約束がありました。高校1年生になってすぐだったので、その生活を楽しそうに過ごしていたんですね。夢も希望もたくさんありました。

 私は1955年、主人は1948年、同じ鹿児島で生まれました。そのあと別々に大阪に引っ越しをしていて、1976年、私が21歳、主人が28歳のときに結婚しました。現在、私は64歳になりました。結婚して1年余りで妊娠しましたが、10カ月間、お腹の中で育った子供は死産でした。私はそのときのショックでなかなか次の子供を産む気になれませんでした。でも、ようやく産む決心をして、生まれてきたのが事件に遭った長男、孝和でした。1980年10月のことでした。待ちに待ってできた子供でした。心の底から幸せやなって、本当に実感できた誕生でした。主人もうれしさのあまり、雨の中を泣きながら田舎のおばあちゃんに連絡したと聞いています。そのあと、私たちには1984年に長女が生まれ、1987年に次男が生まれ、3人の子供たちに恵まれました。

 長女が生まれたころ、独立したばかりの内装業の仕事で生活はとっても苦しくて、食べたいものも食べられないこともありましたが、3人の子供たちの成長を楽しみに頑張りました。その頃は二間のお風呂のない長屋に住んでいました。狭い部屋なので、家具は最小限にしていました。子供のベッドも手づくりで、飯台や棚、ほとんど主人がつくったものでした。その中で一つ、部屋に似合わない立派なものがありました。それはビデオのセットでした。ビデオカメラもありました。長男が1歳のとき買ったものでした。今からもう38年くらい前のことです。今は珍しくないですが、そのころ、まだまだ持っている人は少なかったです。主人が息子の思い出を残したいという強い想いで買ったものでした。

 買ったことにもう一つ、理由がありました。息子が生後11カ月の頃、血友病と分かったからでした。普段でも子煩悩な主人でしたから、より想いが強かったのだと思います。息子は一つ病気を持っていたのですね。血友病という病気は血が固まりにくい病気です。でも、ありがたいことに軽症だったので、普通の子と大体同じように過ごすことはできました。だけれども、やっぱり一つ病名を持っているということがあったので、体に気をつけないといけないとか、なるべく怪我をしてはいけないとか、そういうことは親子でよく話し合っていたんですね。人一倍、息子はそういうことを分かっている子供でした。だから、自分の命の大切さも、人の命の大切さもよく分かっている子供だったのです。そんな息子の命を突然に一方的な暴行で奪われたのです。 

 その日は息子の高校の文化祭でした。いつも朝寝坊の息子が自分で起きて、慌ただしく、そのときだけは朝御飯も食べずに、急いで2階の部屋を覗き込んで、「行ってくる」と出かけて行ったのでした。それまで子供たちの行事には必ず参加していた私たちでしたから、主人は文化祭に行こうと思って準備をしていました。でも私は、親が来るのを恥ずかしがる年ごろだったのと、高校生になりホッとしていたので、「少し距離を置いてみようよ」と文化祭を見に行かなかったんです。このことは自分を責める材料となりました。

 私たちの会の人は、ほとんどが子供を失っているのですね。どうしても子供を自分より先に死なせてしまった親は、たとえ事件であっても、たとえ加害者がいたとしても、まず自分を責めるのですね。我が家もそうでした。私は、いろいろなことを思い出しては、もう小さいことを思い出しても、あのときこんなことをしたから事件に遭ったんじゃないかとか、遡って、こんなことを言ったからじゃないかとか、もっと遡れば、私が産んだからじゃないかって、そこまで私は思ったのです。当時は、夜中、一人泣きながら、遺書を書いたこともありました。そのくらい責め続けて、生きなければいけないんです。

 主人は男親です。ものすごく想いの強い、深い人です。敵討ちをしたいんです。もちろん敵討ちをしてはいけないと分かっています。だけれども、敵討ちさえしてやれない情けない父親だということで、責めていたんです。私は、そのことがだんだん分かっていきました。

 主人は、悲しいことに、去年亡くなりました。主人は、その亡くなる前まで、意識が無くなるまで、そのようなことを言い続けていました。ずっと、やっぱり息子のことを想っていたんです。こんな生き方しか私たちはできないかというか、こんなふうに生きるんだと思うと悲しくてならないです。それは私だけではないです。ほとんどの遺族の人がそうです。だから、私たちのような思いは絶対にしてはいけないです。それにはどうしたらいいかというと、まずは犯罪が起きない地域づくりが大事だと思います。いろいろな人たちが協力し合って、安全な地域づくりが大事なんです。

 それからもう一つ、私たちが経験して分かったことは、芽を摘んでいただきたいということです。芽が摘めるときに摘んでほしいというのが私たちの思いなのです。加害者のことが全て分かるわけではないですが、分かっているだけを見てみると、ほとんどが突然に死亡事件を起こしてはいないのです。前があるんです。ちょっとした傷害を起こしていたり、万引きしていたり、前があって、その延長上に死亡事件を起こしているのです。

 うちの息子の加害者のこともだんだん分かっていったのですが、やっぱり前があったんです。調べると、地域で小さい子からお金を巻き上げていました。あるお母さんは、その子たちがたむろしているというか、たまっている路地は絶対通れないほどの怖さだったという情報ももらいました。6人グループで日頃からバイクを盗んで乗り回してもいました。中学のときには他の中学校に喧嘩を売りに行って、喧嘩になったりもしているんです。とっても有名だったのです。「それを警察の人は知っていますか」といろいろな人に聞くと「知っていますよ」と言いました。だったら、私は警察の人に聞いてみようと思って聞いたんです。「なぜ、前の段階で捕まえてくださらなかったんですか」と聞きました。そうしていたら、うちの事件がなかったんじゃないかとどうしても思ってしまうわけです。そうしたら、こうおっしゃいました。「大目に見たんだ」と。分かるんです。少年犯罪というのは大目に見ていいこともたくさんあります。たまたま友達に引きずられて行ったとか、たまたま出来心でとかあると思います。そういう場合、やっぱり大目に見ていいと思うんです。だけれども、大目に見るからには、その後の指導が大事だと思うんです。それををされていたかは分からないです。

 それから、やっぱり大目に見る範囲を超えたなら、何べんも何べんもいろいろな悪さというか、悪いことを繰り返していたなら、やっぱり警察がちゃんと関わって、捕まえて、それからしっかり調査、捜査をしていただきたいんです。そして、その後、事実認定をして、「誰にどれだけの責任があるんだよ」ってはっきり教えるべきだと思うんです。それが時には処分だったり、刑罰だったりすることがあるかもしれないです。だけれども、死亡事件を起こす前に、芽を摘んでいただきたいんです。そうしたら、私たちのような死亡事件の被害に遭わなくて済むと思うからです。

 私たちのような思いは絶対してはいけないです。それには日頃から地域の人たちの連携が大事だと思うのです。まず、親はしっかりしないといけないです。それから、地域のお世話をする人たち、学校、行政、そして警察、いろいろなところがあると思うんですが、日頃から、何もない時から信頼関係を結びながら情報交換をしていただきたいんです。そういうことをしっかりすることによって、芽が摘めると思うのです。例えば、地域で何か悪いことをしている誰かを見たなら、今は一人で注意するって、とても怖いことです。何か逆恨みされたり、何かをされたりすることがあるかもしれないです。だから、誰か悪いことをしているのを見たなら、皆さんで集まって話し合ってほしいんです。今日、ここでこんな子を見た。だったら、地域のお世話の人が関わるのがいいのか、学校が関わるのがいいのか、すぐに警察が関わるのがいいのか。みんなで一緒になって考えていただきたいんです。そして、芽が摘めるときに摘んでいただきたいなと思います。私たちのような苦しみは味わってもらいたくないです。

 息子の事件後、私たちは少年事件だったので、当時は何も情報をもらえなかったです。加害者の名前も教えてもらえない、事件の内容も教えてもらえない。国に絶望したんです。国は何もしてくれないと思うと、どこかの穴底へ落されたような、すごい思いを抱えたんです。それが家の中で出ました。加害者にぶつけることもせず、国にぶつけることもできず、そして、私たちの思いを聞くところもなく、家の中で出し合ったんです。我が家は、5人家族が4人家族になったことで生活が送れなくなったんです。ほとんどの家族が形は違うんですが、日常生活が送れなくなる人が多いです。

 まず、どんなことができなくなったかというと、御飯が作れなかったです。御飯が食べられないんです。私はこう思っていました。お兄ちゃんは、もう御飯を食べられない。だったら、おいしいものなんて、一生、食べてはいけないと思いました。すごく力を入れて生きていたんです。でも、子供が下に2人いましたので、ちゃんとしなければいけないと分かっていました。でも、できなかったんです。買い物も大変でした。買い物に行ったとします。いつも魚を買うときに5匹買うんですが、4匹になるんです。もうそれが頭をよぎっただけで、あ、お兄ちゃんいない、と思うわけです。手が出なくなるんですね。だから買い物もできなかったです。皆さんが行っている、簡単な日常生活が送れなくなったんです。そんなときに助けてくれたのが地域の人たちだったです。私は勇気を出して、地域の人に「うちの家、大変や。助けて」って言ったんですね。今考えると、それは良かったと思います。みんなに「助けてほしい」と言ったおかげで、入りやすかったんじゃないと思うので、少し扉を開けて良かったなと今思っています。毎日、いろんな人が来てくれました。特別なことをするんじゃないです。「おはよう」って来るんです。ある人はこんなことを言いました。「御飯、食べたん?」って言うんです。「食べてない」と言ったとします。「あかんやん」と言って、うちの家に上がって、御飯を作りだすんです。そうしたら、私も人が作っていると、あ、あかんわっと思って、作ることができたんです。自分からはできないけれども、その人たちがしてくれていると一緒に作れたんですね。その人たちと一緒だと、お兄ちゃんに悪いとか、いろんな思いをちょっと横に置けたというか、考えなくて、一緒にだと御飯も食べられたんです。色々なことを地域の人たちに支えてもらいながら、生活をして、一つ一つできるようになっていったのでした。毎日、誰かが来て、一緒になって泣いてくれる人もいました。黙ってそばにいてくれる人もいました。警察に行くときには付き添ってくれる人もいました。お花の手入れだけする人もいたし、今、思い出すと、できることをできる人がしてくれていたんです。本当にありがたかったです。その人たちのおかげで我が家は、とっても時間はかかりましたが、一つずつできるようになっていたんです。

 その人たちがもしいなければ、我が家は今ないんじゃないかと思います。当時の私は、もうわが家は崩壊する、と思っていましたから。主人と責め合うこともありました。主人は一階の部屋で一人でこもって、少年法という法律を読み込んだりしながら、当時はパソコンではなくてワープロで、いろいろな文章の文字を人差し指で一つ一つ打ち続けていました。そういうことばかりしていたし、時には怒りのような声も上げていました。私はいつも泣き叫ぶし、もうひどいものでした。当時、中学一年の娘が私に言ったんです。「お母ちゃんだけやないんや。私だってつらいんや。私だって学校だって行きたくないんや」と言われてハッとするんですが、でも分かっていても、力が出せなかったんです。だけれども、そうやって一緒に動いてくれる人、思いを共感してくれる人がいたことで、我が家は一つずつ生活を取り戻せたんですね。

 そんな崩壊しそうな家でも、後になって主人と笑い話にしたんですが、「自分たち夫婦はこの先どうなっていくか分からなかったね。だけれども、蜘蛛の糸のような細い糸でつながっていてそれで何とか保っていたんやね」。「こんな理不尽なことがあってはいけない、これは言っていこう」ということは二人で共通していたんです。それは本当に良かったなと思っています。でも生活はみんなにに支えてもらわないと家族だけではできなかったのです。

 私は当時、勘違いすることもありました。私が外に出るとパーッと散っていく人がいたんです。そんな時、「ああ、ひどい人やな」と思いました。「ひどい人やったんや」と思ったんです。それをいつも来ている人に言ったんです。「ひどいよ。私が外を歩くと、散っていく人がおるよ。私を避けている。うちが犯罪に遭ったからや」って、すごい勢いで言ったことがありました。そうしたら、その人に言われたんです。「あのね、外を歩いているときに、あんた、すごい顔して歩いているよ。そんな人に何て声かけたらいいんや。みんなね、悪い人ばっかり違うんやで。考えすぎやで」っていうことを言われたんですね。でも、言われても、すぐには気がつかなかったです。ずっと頭にあって、しばらくして思い返してみたんです。そう言えば、いつも腹が立っていました。もちろん加害者に腹が立ち、国にも腹が立ち、でも、目に映るものにも腹が立つんです。家の前に道があって、左に曲がるといつものお店があるんです。そこにいつものおじさんが座っていたんです。いつもの変わらない光景にもなんか腹が立ったんです。平和に見えたんですね。うちの家、お兄ちゃんはもう戻らないし、家の中はどんどん悪くなるのに、一歩、外に出ると何も変わらないと思うと、すごくなんか腹立ったんですね。

 家の前に神社があるんですが、木が枯れても、また芽が出るんです。それにも腹が立ちました。芽は出るんや、お兄ちゃんは戻れへん。もう何もかもが息子と重なるものですから、何もかもに腹を立てて、外を歩いていたんです。すごい顔をして歩いていたと思います。家に帰ると、たまに子供たちが「お母ちゃん、なに怒っているん?」と言うことがあったんです。だからすごい顔をして歩いていたんだと思います。

 でも言われなければ分かりませんでした。私、思ったんです。遺族になって、ああ、気がつかないといけないことがあるんや、と思いました。そうやって気がついたことを、言いにくかっただろうけど、ちゃんと教えてくれたことに、それに気がついたときには涙が出ました。ありがたかったなと思ったからです。それが分からないままだと、一生、私は今でも気がついていないと思うんです。みんなを敵にしていたと思うんですね。だから、教えてくれたこと、本当にありがたかったなと思っています。

 そのおかげもあって、我が家は孤立せずに済んだのだと思います。いろいろな人の力のお陰で、何とか今、穏やかに過ごしています。もちろん、苦しいこと悲しいこともまだまだあります。だけれども、何とか穏やかに過ごしています。それには、たくさんの人の理解、たくさんの人の力が必要でした。今思い返すと、今のように警察の窓口の人がいたらもっと違ったと思うし、安心して相談が出来る支援センターあったら、もっと違ったなとは思っています。

 どんなに苦しいことがあっても命は大事にしないといけないです。一生懸命に生きてきて本当に良かったと思います。今、孫も二人できました。こんな日が来るなんて、思っていなかったです。だから一生懸命、これからも自分にできることを頑張って生きていきたいと思います。でも、できないことがあるときには、いろいろな人に助けてもらいたいと思います。これからもよろしくお願いします。

 今日は、私の話を一気に話してしまいました。とっても重たい話、しんどい話だったと思います。私の話に付き合ってくださったこと、心から感謝をします。

 今日は、私の話をみんな聞いてくれるかな、ちゃんと話せるかなって。小心者なので怖かったですが、皆さんが聞いてくださったあと、勇気をいただきます。もう少し頑張ります。本当にありがとうございました。

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