山口大会:基調講演

「犯罪被害者に必要な支援」

糸賀 美恵((公社)被害者支援都民センター自助グループ)

 皆様、こんにちは。今日は、この犯罪被害者支援山口大会で貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。私は遺族になって14年半たつのですけれども、先にどういう事件だったかということから、話をさせていただきたいと思います。

 25歳の息子と加害者の女性というのは、専門学校の同級生でした。学校を卒業して2年半ぐらいたった同窓会で2人は再会し、3か月ぐらいお付き合いをしていたようですが、その後、年が明けて、一人暮らしをしていた息子のところに彼女が引っ越してきてしまいました。息子の住んでいる家と私の家というのは、小学校が1校挟まっただけで、歩いて3、4分のとても近いところに住んでおりました。

 そのときに、2人に話を聞くと、うちの息子は正和と言うのですけれども、「近いうちに、正和さんと結婚したい」と。そういう彼女の言葉を信じて、2人をうちに呼んで家族みんなで食事をしたり、息子と私と加害者の3人でボウリングに行ったり、映画を見に行ったり、お互いの誕生祝いをしたり、うちは団地で毎年、夏祭りとか秋祭りとかがあるのですけれども、そういうところにも誘っていったり。私には長男と次男の息子2人しかいなかったので、本当の娘ができたような幸せな生活が1年半ほど続いておりました。

 ところが、彼女は息子の部屋に住んでいるときに、ほかに好きな人ができたからという理由で実家に帰りました。実家に帰り、その男性とお付き合いをしていたようですが、たった2か月でその男性に捨てられてしまいます。自分の思いどおりにならない人生に絶望し、実家に引きこもってしまったそうです。3か月ぐらい実家で引きこもっておりましたが、親からは「ただのさぼり癖」だと、そう言われるのがとても怖く、その家には居場所がなく、自殺願望を抱くようになりました。

 しばらくして、「行くところがないから少しだけいさせてほしい」と、息子の部屋へ彼女はやってきました。そして、「私には、親も友達もいない。仕事もできなくなってしまった。ここを出ていったら自分は死ぬしかない」と、2回も息子の部屋にあった包丁で手首を切って脅していたことを事件後に知りました。子供の頃から優しかった息子は、1人では外に出ることもできない彼女を、仕事から帰って散歩に連れ出したり、買物に一緒に連れ出したり、食事を作って食べさせたり、数か月面倒を見て、うちに置いていたようです。加害者の親も迎えに来ていたようですけれど、「親には会いたくない。あの家には帰りたくない」と追い返していたそうです。

 息子は私に心配を掛けまいと、彼女がリストカットをしていたことなど詳しい話は一切することがありませんでした。でも、息子も限界だったのだと思います。平成14年の1月に彼女を親のもとへ帰しました。実家に帰っても自殺願望から抜け出せなかった彼女は、自分だけ死んだのでは、正和君がこれからずっと仕事をして、友達も大勢いて、普通の生活をしていくのが憎い。自分が頼れるのは正和君しかいない。もう1回付き合ってほしいと言ったのに、実家に帰したというとんでもない逆恨みで、殺害計画を立て、本やサイトでけい動脈を切ったら確実に殺せるということを勉強し、インターネットで刃渡り20センチほどのサバイバルナイフを購入し、そのナイフの代金を母親に払わせて、バッグの底にそのナイフを隠し持って、また息子の部屋へやってきました。

 そんなこととは知らず、以前からお付き合いしているときから親と仲が悪いと聞いていた私は、よほど実家にいづらいのかと、息子よりも彼女の方を心配してしまい、追い返すことをしませんでした。事件の数日前、この加害者の両親が娘を迎えに来たときに、偶然息子の部屋の近くで両親に会いました。母親は、「娘が黙って家を出て居場所が分からなかったのですが、正和君のところにいることが分かって2人で迎えに来ました。正和君には本当に迷惑を掛けて申し訳ありません」と私に深々と頭を下げました。私は、両親が迎えに来たことで、やっと家に連れて帰ってくれるものと安心してしまいました。

 ところが、彼女は両親の顔を見て逃げ出し、親が迎えに来たことで、早く息子を殺して自分も自殺をしなければ、あの家に連れ戻されると焦りを感じ、事件の前日の夜、「いろいろ迷惑掛けたけど、明日は家に帰るから」と息子を安心させ、翌朝、熟睡中の息子を十数か所めった刺しにして、息子の命を奪いました。

 事件の日の早朝、家の近くにパトカーとか救急車、消防車みたいな音も聞こえたのですけれども、私はそのまま何も気にすることもなく、そのまままた眠りについてしまいました。朝7時頃、息子と同じ団地に住む私の友人から、「警察から電話があった?正和君が刺されたみたいよ」という知らせに、主人も私も何が起こったか分からないまま息子の部屋へ駆けつけましたが、そこにいたのは数人の警察官と、彼女が怖くなって部屋の外へ出たということで、玄関の指紋を採っている鑑識の人でした。私と主人はそのままパトカーに乗せられて、最寄りの警察署に連れていかれました。そこから4時間も事情聴取を受け、病院に搬送された息子の死亡が確認されたということを、その事情聴取の中で聞かされました。

 昨日まで元気でいた息子が突然亡くなったと聞いても、とても信じることもできず、悪い夢を見ているようにしか思えませんでした。お昼頃、事件のニュースをテレビで見たらしく、そのニュースを見て大勢の友達がうちへ駆けつけてくれました。そのときに、私はこの現実から逃避をしていたのでしょうか。20人ぐらい集まってくれた友達のために、自分でビールを頼んだり、お寿司を頼んだり、涙を流しながら息子を見ている友達を、まるでドラマでも見ているような、そんな客観的に見ていた記憶があります。親戚も集まってくれて、翌日お通夜、その翌日に葬儀・告別式とやってくれたのですけれども、そこら辺の記憶も所々しかありません。

 それからは、眠れない、食べることもできない、外に出られない。しばらくの間はカーテンを閉め切ったままで、家の中に引きこもる生活が続きました。当時学生だった次男はしばらくして、「俺は学校に行くから」と家を空けるようになりました。主人は自営業なものですから、生活のために主人も仕事に行くようになりました。私が全く外に出ていないことを知った友人は、買物に行ってあげるとか、何か欲しいものはないかと電話をくれるのですけれど、そのときはなぜか知っている人に会いたくない。特に息子を知っている人には会いたくないという思いがとても強く、全ての人間関係を私の方から断ち切っておりました。

 事件は今年の5月で14年たちました。加害者が、自首、自白、最後にうちへ来た2か月以上前から、いつ殺そうかと思って狙っていたという殺意も計画性も全てを認めているということもありますけれど、事件からたった2か月後の7月に刑事裁判が始まりました。そのときに、私はなぜ息子が殺されなければならなかったか、それさえも分からずに、近くに住んでいながらどうして息子の命を救えなかったのかと、毎日毎日私は自分を責めました。私よりもずっと体の大きかった息子が、こんな小さな骨だけになってしまいました。その遺骨を私は毎日抱きながら、息子に謝り続ける日が続いておりました。

 当時の裁判は、裁判員制度も被害者参加制度もありません。月1回の割で4回の裁判がありましたけれども、裁判のときの検察官とは私は一度も会っておりません。話す機会がなく、どういう求刑をするか、そういう話も聞いておりませんでした。ただ、息子の事件の裁判だと思って、重たい足を引きずり、4回の裁判の傍聴に行きましたが、そのときの裁判は、ただ遺族は15分間、意見陳述ができると。それしかできませんでした。加害者の量刑を決めるためだけの刑事裁判を法廷の傍聴席でじっと聞いていることだけしかできませんでした。

 初公判の冒頭陳述で、被告人は寝ている被害者のけい動脈にナイフを突き刺し、目を覚ました被害者が口から血を吐きながら「救急車を呼んで」と言った、それが最期の言葉だったと。被告人は、もうどうせ助からない、早く楽にしてあげようと、頭や胸、苦しみながら寝返りを打った背中等、十数か所をめった刺しにして命を奪ったということを聞かされました。加害者の親も傍聴に来ておりましたけれども、私と顔を合わせても頭を下げることすらしません。裁判が終わると、弁護士と一緒に逃げるように帰っていきました。

 2回目の公判では、先に加害者の親が情状証人として証人台に立ち、その後、主人が意見陳述をすることになっておりました。私は、あの親が息子や私たちにどのように謝罪をするのかと待っていましたが、直前になって親は証人台に立つことを拒否しました。そして、そのときの裁判は主人の意見陳述だけになってしまいました。3、40分で裁判が終わってしまいました。涙でぐしゃぐしゃになりながら、主人の意見陳述は終わり、裁判長から今のお父さんの話を聞いてどう思うかという質問に対して、彼女は「何もありませ~ん」と首を横に振りました。そして、たった一言、「罪を償ったら、死んでおわびをします」、そう言いました。私はその言葉を今でも忘れることはありません。

 加害者の弁護士は、正和氏には何の落ち度もない事件なので、刑を軽くしてくれという弁護活動は一切要らないということを親と確認しました。情状証人として両親が証言することを考えたら、全てが言い訳になってしまう。しかし、事件を起こしたのは娘本人。事件の責任は本人に果たさせる、それを親として見守るのが一番いい方法だろうと。親が助け船を出すよりも、本人が一生かかって償うのが本人のために一番いい方法だろうと親と話していたようです。私は、言い訳でも何でもいい、裁判の中で本当のことを知りたかったのです。なぜあの家にいられなかったか。なぜ親から逃げていたか。そして、私は加害者本人には、謝って済むことではないと思っております。ただ、あの親には、息子に謝ってほしかった。でも、それさえもない裁判でした。

 検察側の求刑はたったの13年。私は、一生刑務所から出てくるな、そういう気持ちでおりましたけれども、自首をしていること、事実関係を認めていること、前科・前歴がないこと、被告人は若年であること、反省をしている、更生の可能性があると、お決まりの文句だと思いますけれど、という理由で1年減刑され、結局は懲役12年の判決でした。加害者は息子と同じ25歳。25歳が刑事裁判では若年と言って救われるのに対して、25歳で命を奪われた息子の人生は一体何で救われるのかと、とても悲しい思いがありました。反省しているといっても、事件から裁判まで2か月の間に、自分の親に迷惑を掛けた、自分の親に悪いことをしたと親に手紙を20通書いている。それが裁判の中で反省していると認められてしまったのです。

 1回の裁判は、2、3時間の簡単な裁判でした。これが逆に、うちが娘で、男性に娘が殺されたとなったら、とてもこんな裁判では済まないかと思いますけれども、この裁判の納得いかない判決にも、とても私たちは苦しみました。当時の裁判では、加害者の供述調書を取れたのも裁判が終わってからで、民事のためにしか取ることができずに、刑事裁判の中では、私たち遺族、そして殺された息子はもういないのだということを感じました。

 翌年の1周忌には、友達が100人以上も集まってくれました。1回で済まずに、1か月かかって法要も済みましたけれども、6月に入って、親の代わりに面倒を見ていた息子に謝ってほしいという手紙を、私は加害者の親に送りました。そしたら、「もう終わったことだと思っております」と短い返事が返ってきました。一度この両親に会ったのですけれども、親の言い分としては、「二十歳を過ぎた娘のやったことです。法律上、私たち親には何の責任もない。弁護士もそう言っています」と、法律を盾に謝罪どころか、母親からは娘を追い返さなかったうちの息子が悪かったような言葉にも苦しめられ、父親の口から出た言葉は、懲役12年に慰謝料は含まれていると、父親にはそう言われました。

 息子のところで2回も手首を切って、ここを出ていったら行くところがない、死ぬしかないと息子を脅していた。だから、息子は追い出せなかったのだと。それを知っていましたかと言うと、母親は「はい、知っていました。あの子は、離婚をしてうちへ帰ってきたときにも、うちの包丁で手首を切ってるんですよ」と、そういうとても信じられない言葉でした。加害者の親も、娘の犯した罪に苦しんで、息子に本当に悪かったと謝る気持ちがあったなら、私たちもこんなに苦しむことはなかったのです。

 私はこのような事件に遭うまで、法律も知らず、2人の息子に恵まれ、幸せな生活を送っておりました。事件後、法律を学んでみると、生きている加害者は様々な保護や人権に守られているのに対して、死んでしまった被害者には人権もない。裁判の中では、まるで品物扱い。そして、遺族には何の助けもない法律だということを、私は被害者になって初めて知りました。

 それまで私は、本来、加害者に付いた弁護士というのは、例えば正当防衛だったとか、被害者にも重大な過失があった場合に弁護をしているものだと思っておりました。私はこの数年間、いろいろな裁判を見てきましたけれども、いまだに現実は何の罪もない人の人生を自分の私利私欲のために奪った加害者に対しても、人権があるとか、心神喪失や心神耗弱により責任能力がない又は限定されているとか、生育環境が悪いとか、少しでも刑を軽くするのが弁護士の仕事であって、生きている加害者の人権を守るために被害者とか遺族はなおさら傷つけられてきました。私にとっての刑事裁判は大きな二次被害だったと思っております。

 私は最初、民事訴訟を起こすつもりはなかったのですけれども、1年半ほどしてやっと民事訴訟を起こしました。私たちが、その民事裁判に持っていったのは2つの理由がありました。1つは、なぜ息子が命を奪われなければならなかったのか。それさえも刑事裁判の中では分からなかった、知ることができなかったということ。もう1つは、加害者の父親から「懲役12年に慰謝料は含まれているのですよ」と、そう言われたことにあります。

 民事のために調書を入手してみると、彼女が引きこもりになったのは、小さい頃から親は3歳違いの妹ばかりかわいがり、自分には愛情を掛けてもらえなかった。そのため、妹をいじめると、なおさら自分は叱られ、親は妹ばかりをかばう。ずっとそんな寂しい生活が続いていた。家でも学校でも寂しい生活が続いていた。その寂しさを紛らわすために、学校に行って友達にちょっかいを出したり、ちょっと意地悪をするようになったのですけれども、すると逆に今度はいじめに遭ったり無視をされたり、仲のいい友達もできず、家にも学校にも居場所がなかった。大人になってからは、親からは受けなかった愛情を男の人に求めることで、親のことは何とも思えなくなってきた。だから、家にもいたくなかった、いられなかったということを言っておりました。

 彼女は、専門学校を卒業と同時に、あの家にいたくないと、息子ではない同級生と結婚するのです。これも1年半ほどで離婚してしまうのですが、その後も6人ぐらいお付きあいをしていた男性のフルネームが調書の中に出てきました。そして、息子の部屋に住んでいる間にほかの男性の子供を妊娠し、その中絶の同意書に息子のサインをさせていたということも知りました。それでも懲役12年です。とても納得のいく判決ではありませんでした。

 私は、1年半ぐらいたって、やっと少しずつ苦しみから立ち直っていたころに、ばったり加害者の母親に会いました。母親からは、「あ~ら、お母さん、元気でしたか」と、まるで友達にでも掛けるような言葉を掛けられました。私は、「同じ子供を持つ親として、こんな形で息子を殺された私の気持ちが分かりますか」と言うと、母親は謝罪どころか、逆切れして、私たちだって大変な思いをしたんですよ。事件当時は仕事にも少し行けなくなったし、警察だのマスコミだのがうちに駆けつけて、周りの人から変な目で見られるし、正和君が娘を追い出してくれたら、私たちもこんな思いをしなくて済んだんだと、そういう息子を責める言葉でした。私は悔しくて悔しくて、殺されても悪く言われる息子が不びんで、その夜はちょっとお酒を飲んでいたせいもありますが、走ってくる車のヘッドライト目がけて道路に飛び出しておりました。幸い、車がとっさによけてくれて大事には至りませんでしたが、そのときの私は、主人のことも、次男のことも、友達のことも何にも考えることができずに、死にたいというよりも死んだ方が楽になる、死んだら息子のところに行けるというところまで落ち込んでおりました。

 高校のときの同級生だった知り合いに、21歳の娘さんを強姦目的で殺されたお母さんがいます。その後、この犯人は、3年間逃げていたのですが、3年後に自首をしてきて、その後の刑事裁判で、傍聴席にいるお母さんに向かって、「あんたが迎えに来なかったからこんなことになったんだ」と、そういう暴言を吐きました。娘さんを殺されたことでひどいPTSDに陥ってしまっていたお母さんは、その刑事裁判で更にその被告人から傷つけられ、その後、娘のところに行きたいと線路に入ってしまって亡くなってしまいました。私は、そういう命を救わなければならないと思うようになりました。

 事件から2年ほどたったとき、私は東京に住んでいるのですけれども、被害者支援都民センターから自助グループへの誘いの手紙を頂いて、毎月出掛ける様になりました。事件から2年の間には、少しずつ私も仕事復帰をしていたのですけれども、仕事場とか友達の前では事件のことを一切話せないのです。友達もどう声を掛けていいか分からないということで、事件のことを一切話すことはありませんでした。仕事場や友達の前でも話すことができない悲しさやつらさを、いろんな被害に遭った人たちは自分のことのように聞いてくれました。自助グループに参加するまでは、息子が戻ってくるわけではない、そこに行って何の助けになるのだろうかと疑問に思ったこともありましたけれど、センターの皆さんのサポートや、同じ苦しみ、悲しみを持つ自助グループの人たちの話を聞いたり、またそれまで友人にも話せなかった自分の体験を口にすることで、2年間ずっと胸の中に封じ込めていた苦しみを吐き出せる場所があるということを知り、少しずつ心の中の傷が小さくなってきたということを感じております。

 事件直後から私は胃潰瘍がとても痛くて、苦しんでいたのですけれども、その後、病院の先生から胃がんだと言われてしまいました。先生にがん宣告されたとき、私は、もしがんで死んだら息子に会える、息子に会って謝ることができる。私にとって、死に対する恐怖というのは何にもありませんでした。ただ、入院中、主人は毎日病院に寄ってくれて、そのまま真っ暗な部屋へ1人で帰り、息子の仏壇に向かって、「お母さんを守ってくれ。まだ呼ばないでくれ」と、息子の遺影に向かってお願いしていたのだろうと思います。支援センターのスタッフや自助グループの皆さんからも、本当に励ましていただいて、大切な肉親を失った遺族は悲しみや苦しみと戦いながら、みんなで励まし合って、少しずつ前向きに生きていくことができるようになります。みんなの思いやりもとてもうれしくて、苦しいのは自分1人ではないのだと、そう思えることができるようになりました。そして、一度しかない命を無駄にしてはいけない、もっともっと生きたかった息子の分まで生きなければならないと、そう思うようになりました。

 そして、私はがんになったために、十数年勤めていた仕事をやめてしまいました。そして、ごろごろしているときに、東京の日比谷で全国犯罪被害者の会、通称あすの会というのですけれども、その全国大会が開かれました。私もその大会に行ってみると、そのあすの会の発起人である、御自身の仕事の逆恨みで奥さんを亡くされた弁護士の岡村先生という方に初めて会いました。皆さんもよく御存じだと思いますけれども、光市の本村洋さんもあすの会の幹事でありまして、この大会の司会をやっておりました。

 岡村先生は、今まで弁護士として被告人弁護を随分やってきた。でも、自分が被害に遭って遺族になって初めて、加害者の人権、権利は守られているのに対して、被害者の人権、権利は何もないと分かった。被害者のために法律を変えていかなければならないということを訴えておりました。私は司法にとても不信感を持っておりましたので、同じ弁護士の中にもこんな弁護士がいるのかと、すぐに入会させていただいて、今に至っております。

 そして、被害者支援都民センターの紹介で、2006年の10月から国の事業として始まりました日本司法支援センター、通称法テラスですが、そこの犯罪被害者支援のオペレーターをさせていただくことになりました。コールセンターに5年ぐらいいたのですけれども、5年後に仙台に移ってしまいまして、5年前から法テラスの東京地方事務所、今新宿にあるのですけれども、そこの犯罪被害者支援の情報提供職員として仕事をさせていただいております。

 コールセンター時代なのですけれども、コールセンターというのは全国共通の被害者支援という窓口なのですが、全国の犯罪被害者の方から1日何十件という電話がかかってくるのです。その中でもとても心を痛めていたのは、性犯罪の被害者といじめ、あとは少年犯罪の被害者です。私も自分が切られたり刺されたりしたわけではありません。でも、こういう性犯罪とかいじめ、そういう被害者というのは、遺族と同じように、傷はないにしても心が痛いのです。外傷がなくても心に大きな傷を負ってしまって、親にも友達にも誰にも相談できずに、学校や仕事に行けなくなって、孤立してしまっている被害者がとても多いということです。

 ある性犯罪の被害者は、被害から数日後、やっとの思いで警察に駆け込んだら、婦警さんから「外傷がないということは合意だったんじゃないの」と、そう言われたらしいのですが、なおさら傷ついて、「死にたい」と電話してきたことがあります。ある少年が同級生から暴行を受け、加害者は少年ということで、加害少年の親も学校も表に出したくないと保護されるのに対して、被害少年には何のケアもなされなかった。そのため、外傷はなくても心の傷は治らずに、その学校に戻ることができない。転校した学校で悪い仲間に入って、数年後、今度は大きな事件の加害者になってしまったというお母さんからの電話を受けたことがあります。加害者の人権、更生ということを考える余りに、被害者の心の傷というものに目を向けてこなかった。そのため被害者はなおさら傷ついてきたのだろうと思います。

 私も経験しましたけれども、自殺を防ぐとか犯罪を防ぐという意味からも、被害者支援は大変大きな役割があるのではないかと私は考えております。加害者ばかりでなく、苦しみながら生きている被害者にも目を向けてほしい、そういう被害者や支援者の願いは国を動かし、犯罪被害者等基本法が成立され、その後いろんな法律の改正がありました。

 2007年から始まりました裁判員制度ではありませんでしたが、私は更生保護法に申し込みまして、私が使えたのは更生保護法だけでしたが、当時、加害者の方は刑務所に入っていたものですから、半年に1回、その処遇状況なんかを送ってくれる更生保護法、そちらだけを私は利用させていただきました。

 あとは、2008年12月に始まりました被害者参加制度、被害者国選弁護制度、損害賠償命令制度、これらの制度が議決された際、私は、国会の傍聴にお伺いさせていただいたのですけれども、上川先生が、そのときの国会で、本当に透き通るような声で御発言されて、そこで議決された瞬間を私は今でも忘れることはありません。

 この被害者国選弁護制度、これは法テラスにも委託されているのですけれども、先ほど言いましたように、裁判の中で何もできなかったということは、本当に遺族にとって被害からの回復の妨げになってしまっていた。でも、今、性犯罪とかというと参加する方は少ないのかもしれませんけれども、たとえ性犯罪であっても、やっぱり裁判の中で何もできなかった、しなかったということが回復の妨げになるということを私は感じております。

 損害賠償命令制度、今これも2,000円の印紙代で利用できるということです。私は、もう一生息子に謝り続けろという意味で弁護士の先生に計算していただきまして、請求額が1億4,000万ぐらいだったのですけれども、そのときの弁護士費用と印紙代が合わせて80万円ぐらいかかりました。それも印紙代で四十何万ですから、印紙代が2,000円だけで済むということで、弁護士費用を多少払っても、私たちの時代14年前と随分この制度が変わってきたことを本当にうれしく思っております。

 ただ、こういう制度を被害者が利用するには、いかに早い時期にいい弁護士に出会えるかとか、その司法関係者にどこまで被害者のことを理解して運用してもらえるかということが一番の課題ではないかと思います。そのためには、事件や事故に真っ先に直面する警察とか検察の方が、この情報提供をしてほしいということを考えています。刑事裁判で何もできないで終わってしまうと、被害回復の本当に大きな妨げになってしまうということを分かっていただきたいと思います。

 私たちのような被害者になってしまうと、本当に元通りの生活には戻れませんけれども、元に近い生活には戻れるのだと思います。例えば、被害者はお金が欲しいのかと言われるかと思いますが、被害からの回復には、精神的、身体的、そして人間らしい生活を取り戻すには、償いというのも必要だと思っております。そして、周りの人からの温かい人間関係というのが、被害からの回復には何より必要だということを改めて感じております。

 私は刑事ドラマとかが好きなのですけれども、よく警察物のドラマを見ていると、逮捕されてガチャッっと手錠を掛けられたら、そこでドラマが終わってしまったり、刑事裁判の検察物なんかを見ていると、裁判でコンコンといって判決が懲役何年とか判決が下ると、そこで終わってしまいます。しかし、被害者にとって刑事裁判が終結ではありません。声を上げられない被害者も、被害に遭ったことを忘れたわけではありません。生きている限りずっと心の傷として持ち続けているのではないかと思います。ただ、どこかで区切りをつけて回復しなければなりません。そのための手助けを、例えば全国どこにいても自然に受けられるような、そういう社会にしていかなければならないということを私は考えております。

 幸いなことに、私の場合は息子が25歳ということもありまして、事件当初から息子の友達には本当に助けられておりました。そして、それが今でも続いております。私たちも、1年の中で息子の誕生日や命日が一番苦しいのです。そういうときにお友達がまた集まってくれたり、あとお盆とかお墓参りとかお友達が来てくれます。ただ、小さいお子さんを亡くした方とか、親とは遠くで事件に遭ってお子さんを亡くされた方というのは、そういう友達とかの関係も、人間関係も薄れてしまうのではないかと思います。周りの人は、本当に人事と思わず、もし自分が同じような被害に遭ったらどんな思いをするのだろうかという被害者の心の傷を思いやる言葉の理解を必要としております。

 もし私が被害者支援都民センターに出会うことがなかったら、苦しい、悔しいと人を恨んで、死んだ方が楽だという、そういう投げやりな人生で一生が終わってしまったのではないかと思います。また、そういう思いをしながら生活している被害者がまだまだ多いのではないかと、心が痛みます。不幸にもこれから被害に遭った人には、私たちみたいな苦しい思いはさせたくない、そういう思いで、今日遺族の1人としてお話をさせていただきました。

 私は今、先ほどから懲役12年ということを言っておりましたが、もう事件から14年半たちます。皆さんも多分その加害者がどうしているか、気になるところだと思いますので、最後にちょっとその話をしたいと思います。

 私は、被害者参加制度、被害者国選弁護制度、損害賠償命令制度、そういう制度を一切使えなかったのですけれども、保護観察所でやっている意見聴取制度、心情等伝達制度、被害者等通知制度、ちょっと難しい法律がいっぱいあるのですけれども、その制度だけは私は利用できました。加害者がまだ刑務所にいる間に、半年に1回、処遇状況を先ほど言ったように伝えてくれるのと、11年たったときに、保護観察所の方から仮釈放の審理が始まりましたという通知をまず頂きました。その後、数か月に1回ぐらい、その仮釈放の審理の状況も知らせてくれました。もしそれがなかったら、検察庁から何月何日に仮釈放になりましたと、そういう紙っぺら1枚の事後報告で終わってしまったのです。ただ、保護観察所の方からいつも、どういう処遇状況かはもちろんですけれども、審理状況なんかも送ってくれていたので、3年前の9月にまあそろそろ出てくるのかなという私も覚悟ができました。そして、10月18日に仮釈放になったのですけれども、検察庁からは19日に、18日の日付で、18日に仮釈放がされましたと通知があり、本当に事後報告なのだなということを思いました。もし前もってそういう仮釈放の審理という情報がなく、いきなり仮釈放されましたみたいな通知だけだと、本当にまたつらい思いをしたのではないかと思います。

 そして、12月に加害者の方が弁護士を通して、「お父さん、お母さんに謝りたい」と言ってきました。私はその弁護士に即答しました。人の命を奪うということは、謝って済むことではないのだと、そういうことを弁護士に伝えたのですが、主人と次男も、これで会うのも最後だろうからということで、3人で会うことにしました。そして、3人で加害者が仮釈放された後に会ったのですけれども、彼女は刑務所で賞与金を50万円ぐらいためていた、そのお金を渡したいと。刑務所の中で何十通も手紙を書いて、その手紙を渡したいと言ってきたのです。私は、そんなものは要りませんと。以前にも言っておりました。刑務所の中で書いた手紙を読みたくはないということも言っていたので、その前にもずっと何十通も書いた手紙を受け取らなかったのですけれども、それはなぜかというと、当時刑務所にいるときも加害者には弁護士が付いていて、修復的司法ということを教え込んでいたらしいのです。加害者は、修復的司法のためにどんどん手紙を書けと弁護士に言われて、手紙を書いて弁護士に送るのですけれども、弁護士から1通もこっちへ来ないのです。1通だけ中に4万円が入っていた手紙があって、お金が入っていたからこっちへよこさなければならなかったのだと思います。

 ただ、その中に書いてあったのは、弁護士から修復的司法のためにどんどん手紙を書けと、そう言われたと。彼女は、私たちがその手紙を読んでいたと思ったらしいのですね。だから、弁護士にちょっと聞いてみたのです。「先生は、なぜ先生のところで手紙を止めていたのか。息子を殺された親と殺した加害者と修復なんかできるはずがないと、先生もそう思ったから手紙をよこさなかったのではないですか」とその弁護士に聞いたところ、「ああら、読みたいんだったら送ってあげるわよ」と、そう言われました。私も、弁護士の悪口ばっかり言ってあれですけれども、そういうところでも私たちは本当に傷ついていることが多いと思いました。

 そして、その加害者から、私はその手紙とお金は受け取らなかったのですけれども、その代わり彼女に私は言いました。「一生息子のことを忘れるな。一生息子に謝り続けてほしい」と、そういうことを言いましたら、次の月から、月命日に毎月3万円ずつ送ってきました。あすの会の被害者の場合、無期だとか死刑だとか、あとは釈放されても逃げてしまったとか、そういう加害者ばっかりで、毎月3万円ずつ受け取っているなんていう被害者は本当にめったにいないです。まあ、その中で私は幸せな方かなと思って、1年半がたちました。1年半で54万ですか。それを振り込んできたら、ぴたっとそれがなくなったのです。私は弁護士にどういうことかと聞いたら、「彼女は一応仕事に行って、1、2か月勤めたのですけれども、うつ病になってしまって、今、実家に引きこもっています。もう仕事もできません。お金もお支払いできません。糸賀さんの方から本人には絶対に連絡しないでください」と。どこまで加害者は守られているのかと私は思いました。

 ただ、そういうところでまたまた傷つくわけですけれども、正直言って、被害者遺族は何だかんだ言っても、命がなくなってからいろいろ言っても遅いのかと思います。私が先ほど言ったように、こういう事件になる前に命を守る、そういう制度が必要です。警察の方だけではちょっと難しいと思います。例えば、ストーカー事件でよく警察に相談したとか何とかと言うのですけれども、警察だけでなく、支援の窓口、避難をする場所とか福祉、そういう連携があって初めてこういう事件に遭う前に被害者支援ができると思いますし、そういった連携がなされることを私は望んでおります。

 話がいろいろ途切れ途切れで申し訳ございません。このような山口大会で、私のような話を今日させていただきまして、本当に大変ありがとうございました。御清聴ありがとうございました。

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