島根大会:基調講演

「闇サイト殺人事件の被害者遺族となって」

磯谷 富美子 (殺人事件被害者遺族の会「宙の会」幹事)

御紹介にあずかりました、磯谷富美子と申します。今日は、「闇サイト殺人事件の被害者遺族となって」と題してお話しさせていただきます。

丁度新聞やテレビで、娘と同じような事件が起きたことを皆様御存知だと思います。闇サイトで集った3人の男たちによって女子中学生が誘拐されました。この方の場合は御両親に身代金の要求があったようですが、娘の場合は、暗証番号を聞き出そうとしましたので、娘本人にお金の請求があったようなものです。幸いにあの女子中学生の方は何事もなく御両親の元に戻られ、本当に心から「良かった」と思わずにはいられません。

では、本題に戻ってお話しさせていただきます。事件が起きると事件に関するニュースが流れますが、残された遺族のその後の生活は中々表に出てこないために分かりません。遺族は大切な人を亡くしたという被害以外に、様々な被害を被ります。今日は一遺族として、事件によってどのように生活が変化し、今日までどのように過ごし、何を思ったかをお話しさせていただきます。事件から6年以上経っていますので、既に行われていることや元々行われていたことなどがあるかと思いますが、私の体験として聞いていただきたいと思います。遺族の痛みや苦しみを少しでも御理解いただくことが、被害者支援につながる第一歩だと思います。被害者が二次被害等で苦しむことがないように、また同じような被害者や遺族を作ることのないように、司法を含め社会全体が変わっていくことを願います。

ここにいらっしゃる方は、自分や自分の身近な者は犯罪に巻き込まれることはないだろうとお考えではありませんか? 私ども親子はそうでしたし、考えたこともありませんでした。犯罪とは無縁の生活を送り、ささやかですがそれなりに幸せな毎日でした。しかし、突然、何の関係も落ち度もない娘が犯罪に巻き込まれ、惨殺されてしまいました。無差別強盗殺人事件です。今や誰が被害者になってもおかしくない社会であり、犯罪は遠いところに存在するものではないと認識せざるを得ません。

まず、どのような事件であったのか、DVDを見ていただきます。事件から1年1か月後の初公判前日にテレビに流れたものを録画したものです。ではお願いします。

(DVD 上映)

何度見ても辛くて苦しいです。同時に、犯人に対して強い怒りがこみ上げてきます。このような者でも自首減刑されるのかと思うと、納得がいかない気持ちでいっぱいになります。この加害者Aが出所して、皆様の家の隣や、大切なお子さんやお孫さんの隣に住んだとしたら平気でしょうか。どうか身近なこととしてお考えいただきたいと思います。

この裁判は、裁判員裁判がまだ始まっていなかったので、職業裁判官によって裁かれました。一審の判決は3人の死刑求刑に対し、加害者B、加害者Cに死刑。先ほどのDVDに出ていた加害者Aは自首減刑で、無期懲役でした。検察も被告3人を控訴しましたが、のちに加害者Cが控訴を取り下げ、加害者Cの死刑が確定しました。

二審判決は、被害者が1人である本件では死刑選択がやむを得ないと言えるほど悪質な要素があったとは言えないとし、加害者B、加害者A共に無期懲役でした。検察は加害者Aの上告を断念し、加害者Aの無期懲役が確定。加害者Bのみ上告していましたが、去年の7月11日付で最高裁は二審判決を支持し、上告を棄却。加害者Bの無期懲役は確定し結審しました。

ある日突然の悲報は、当然受け入れることなどできません。事件後、警察署で初めて会った娘は、ブルーシートに包まれて首から上だけが出ている状態でした。顔は何カ所も青あざが広がっており、パンパンにむくんでいました。眉間や左頬、顎には傷があり、髪はまるでのり付けでもしたかのようにバリバリに固まっていて、大量の出血を想像させました。その左側頭部にはガーゼが当ててあり、傷口を隠してありました。

そんな娘の姿を見て、強く抱きしめると痛いのではないかと思い、そうっとなでることしかできませんでした。当時の記憶は曖昧なままです。のちに姉から、「お母さんがいるからもう大丈夫よ。安心して、もう怖くないからね」と言いながらそうっとなでていたと聞きました。しかし今でもはっきり覚えているのは、頬を付けた時の、娘の頬の異常な冷たさです。亡くなったという現実を突き付けられたショックが、記憶として留まったのかもしれません。

警察署では顔の部分だけしか見ていませんでしたが、司法解剖を終え物言わぬ姿で帰宅した娘の両手首は、内出血のような青痣が広がっていました。娘の唯一の自慢は父親譲りのきれいな手です。その手が無残に変色し腫れているのを見ると、娘の恐怖が伝わってくるようで、何とも言えない悲しみに襲われたのを覚えています。のちに刑事さんに「手錠をかけられているだけで、あのように変色するものですか」と尋ねました。すると、「抵抗が激しいとなります」との言葉でした。

どれほど怖かったことでしょうか。どれほど苦しかったことでしょうか。どれほど痛かったことでしょうか。そしてどれほど生きたかったことでしょうか。顔の青あざが隠れるようにと、姉と二人で化粧をしてあげた娘は、白無垢をまとった花嫁のようでした。私には、解剖の痕を隠すように頭を覆った綿のようなものが綿帽子に見え、白装束が白無垢に見えました。

葬儀の手配は、司法解剖に回されている間にしなければなりません。精神的なショックに加え、一睡もしていない朦朧とした頭では、人の手を借りなければできない状態でした。幸いに身内が駆けつけてくれ、主になって手配をしてくれたので助かりましたが、このようなときに慣れていらっしゃる方の手助けがあると、心身の負担が随分軽くなるのではないかと思います。

この時点での私どもは、警察から事件の詳しい内容は聞いておらず、新聞で得た内容しか知りませんでした。そのため、まだ共犯者がいると思っていました。兄から、ネットで誘拐犯の仕業ではないかと流れていると聞き、娘の最後の姿を確認するために共犯者が通夜や告別式に来るのではないかと、とても心配しました。そのためピリピリした緊張感の中でとり行うこととなりました。警察は、マスコミに流すぐらいの情報は私ども遺族には教えて欲しいと思います。そうであったら余計な神経を使うこともなかったでしょう。

調書を取られるときに尋ねれば良かったのでしょうが、警察署に出向くだけで、とても緊張します。その上、姉とともに出向いた私どもは別々にされ、調書を取られました。まるで悪いことをしたかのような緊張感です。質問するのもはばかられました。警察の方の「やつら」という言葉尻から「犯人は1人ではないのですか」ということと、「娘はどのような状態なのですか」、「いつ会えますか」とだけ尋ねたのを覚えています。調書を取り終え部屋を出るときに聞いた「犯人は精神異常者でも少年でもありません。これは重大事件です」との言葉が何を意味するのか、当時の私には分かりませんでした。

調書といえば、警察での調書の作成ではとても不愉快な思いをしたという記憶しかありません。取る方にとってはいつもの仕事の一環でしかないでしょうが、遺族にとっては、受け入れがたい現実と向き合わなければならない不安な時間です。運転免許証を見せられ、「この人を殺したと言っているが娘さんに間違いないか」と確認された後、すぐに調書を取られましたが、娘の死を受け入れる以前に、事件をも受け入れきれずにいる状態のときに、軽い感じの話し方や、パソコンの文字が半角になっただの、プリンターとの接続はどうなどという緊張感のない会話が何度か交され、その心配りのない態度に苛立ちを覚えました。こちらがどんな思いで座っているのか考えていただけたら、直接の言葉はなくても、その態度や話し方で気遣いを感じることができます。どうか被害者遺族に私のような思いをさせないでください。調書を取られるという初めての経験で受けた印象は、警察官全体に対する悪いイメージとして残ってしまいます。

また、私は、娘が彼らに奪われたお金が全額戻ってくると思っていましたが、奪ったお金を使う時間がなかったにもかかわらず、全額戻ってきませんでした。彼らは奪ったお金を3人で等分していましたが、私の手元に戻ったのはその1人分だけです。なぜでしょうか? 1人からしか証拠として押収していなかったからです。例え元々持っていたお金と奪ったお金が一緒になっていたとしても、娘から奪ったお金をすべて証拠として調べて欲しかったと思います。娘が働いて得たお金は一円たりとも彼らに渡したくないからです。

このようないろいろな精神状態の中、事件からわずかしか経たないときに、何人かの見ず知らずの方から、励まし、いたわり、犯人に対する憤り等のお手紙をいただきました。住所や宛名が完全ではないために、配達の方が「受け取りますか、拒否されますか」と持って来てくれました。その中の1通に、「1人の被害者では日本の司法ではなぜか死刑にはならないだろう」と書かれていました。

当然死刑と思っていた私どもは、それ以外の刑は考えられません。法的知識など皆無の私どもが思いつくのは、3人の極刑を求める署名活動しかありませんでした。娘は殺されるために生まれてきたのではありません。しかし活動中何度も頭をもたげたのは、当然の刑を下してもらうために、一番辛い立場の人が一番辛い時期にこのような活動をしなければならないという、今の司法に対する疑問や憤りでした。

事件から20日ほどたった9月の半ば、姉と2人だけで活動をスタートさせました。当初は葬儀にご出席いただいた方、友人、知人、親戚など、住所の分かる方に封書を送りお願いしましたが、毎夜遅くまで続く宛名書きに、手首は腱鞘炎のような痛みを覚えるほどでした。署名活動をやることが新聞、テレビで報道されると、どうしたら署名ができるかとの問い合わせがマスコミにあります。そのため急遽、知人にホームページを立ち上げてもらい、用紙を印刷できるようにしましたが、立ち上げ早々は中々上手くいかず、多くの方に用紙を送らなければならない状況でした。

毎晩寝るのは2時、3時となり、寝る間を惜しんでの活動となりましたが、あとで振り返ってみると、悲しみに浸る時間がなく精神的には却って良かったと思います。もちろん、友人に助けを求める連絡をと何度も思いましたが、皆仕事をされているために遠慮が働き、できませんでした。友人も掛ける言葉に困り、訪ねていくことができない状態でした。

ある日勇気を持って訪ねてくれた友人が、私共の状況を見て、他の友人にも声を掛け、手伝ってくれることになりました。土日の貴重な休日を、朝から夕方まで封書の開封作業です。活動は封書だけではありません。9月の末に街頭署名4日間、1日2時間だけですが、名古屋駅周辺で行いました。市営住宅の同じ棟に住む方々、職場の友人、娘の囲碁関係者、姉の友人など、急なお願いにもかかわらず気持ちよく手伝っていました。

私はホームページのメールの処理に追われ、その時は参加できなかったので姉に代わりにやってもらいましたが、帰宅した姉から、署名をお願いした半分ほどの方がこの事件を御存知なかったと聞き、とてもびっくりしました。事件からひと月後のことです。それほど世の中の出来事に無関心なのでしょうか。そう思いたくはありません。しかし事件の内容を話し、署名をお願いした方は全員協力してくださったそうです。

署名は当初打ち出した10月1日までに、10万件を超える御協力をいただくことができました。ホームページを立ち上げた9月22日から計算すると、用紙を送り、送り返される郵送期間を除くと、ほぼ1週間の間に多くの方が協力してくださったことになります。10月1日までと打ち出したのは、法律をまったく知りませんでしたので、起訴のときに必要だと勝手に思い込んだからでした。

署名の御協力もそうですが、私どもに元気を与えてくれたのは、署名に同封された励ましのお手紙や、ホームページを通して送られてくる応援のメールでした。司法に携わっていらっしゃる方、犯罪や交通事故の被害者や御遺族、子を持つ親、娘と同年代の方、中高生、そして罪を犯した人、闇サイトを使ったことがある人など、男女を問わず様々な方が温かい言葉を添えて応援してくれました。

その中にはたくさん署名を集めてくださった方も多々いらっしゃいました。見ず知らずの方が事件を自分のことのように捉えてくださり、親戚や友人、知人に声を掛けてくださり、何百名、何千名と集めてくださったのです。中々できることではありません。逆の立場だったらと思うと、言葉で言い表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいになります。もちろん私どもの友人や知人、親戚もたくさん集めてくれました。当然のことですが、逆のメールも、極々少数ですがありました。でも、応援のメールを読む時間もままならない状態でしたので、それらのメールはしっかり読んでいません。署名活動はすべての裁判が結審したことを受け、娘の5年目の命日をもって終了しましたが、その間に御協力いただいた方は33万2,806名になります。皆様には只々感謝の気持ちでいっぱいです。

この活動にはマスコミの力が大きく影響を及ぼしたと思いますが、マスコミ被害がなかったわけではありません。犯罪に巻き込まれると、報道関係者が自宅に殺到します。当然被害者や遺族にとっては迷惑千万なことです。私どもも例外ではありませんでした。

旅先で事件を知り、警察署へ向かった私どもが調書を取り終え、署を出たのは午前1時を回っていました。警察署には既にマスコミが押し寄せていたので、裏口から出してもらい自宅へと向かいましたが、自宅周辺はマスコミらしき車が何台も止まっていました。そのため家に帰ることもできず、そのまま姉の家に一泊することとなりましたが、心身ともに疲れているはずなのに一睡もできませんでした。後に近所の方に聞いたところによると、私が帰宅しないので、近所の人を起こしていろいろ聞いて回ったそうです。時間は午前1時半頃のことです。後に御迷惑をおかけしたことをお詫びすることとなりました。

しかし、署名活動を開始すると、1人でも多くの方に活動を知って欲しいと、できる限りの取材に応じてきましたが、事件早々の取材ほど辛く苦しいものはありません。一番言いたくないことを聞かれます。答える度に、娘のむごい状態を思い出すことになります。取材は1社ではないために、何度も何度も傷口をえぐられる思いで取材に答えてきました。取材が終わるとぐったりして、しばらく横になって休んだこともありました。

こうして私は何度もテレビに出ることになりましたが、そのため「この人ちょっと出すぎじゃない」との声も人づてに耳に入り、悲しい思いもしました。そんな辛い思いをした甲斐があり、娘の事件は多くの人が知るところとなり、署名も予想以上に集まりました。あとは1日も早く公判が開かれるのを待つばかりです。

その間、被害者サポートセンターあいちの支援員の方に月に1度の割合でお会いし、心情を聞いてもらったり、いろいろな制度を教えてもらいました。一番最初にお世話になったのは、栄での街頭署名活動の警察への届出です。また、サポートの弁護士の先生御二方もセンターに紹介してもらいました。

では、サポートセンターはどうして知ったか。実は事件早々から警察署の住民サービス担当の方からパンフレットをいただき、説明も受けていました。しかし、署名用の書式の問い合わせはできても、支援をお願いする連絡は中々できない状態でした。名古屋には犯罪被害者遺族の自助グループ「緒あしす」があります。その会を立ち上げられた方が中に入り取り次いでくれました。その緒あしすの方を取り次いでくれたのは、実はマスコミでした。

このような経験から、重大事件の場合は直接警察の担当の方がサポートセンターを取り次いでくださると、もっと早い時期からセンターの支援が受けられるのではないかと思います。事件早々から警察と連動し、付き添い、動いて下さる方がいらっしゃったら、葬儀の手配や死亡届の提出、捜査協力など、事件早々にかかってくる遺族の負担が軽減されると思います。私どもは犯罪被害者遺族になった途端、未知の世界に放り出されます。様々な制度の紹介だけではなく、その窓口まで取り次いでくださるようなコーディネーターが必要だと思いました。

さて、弁護士の先生にサポートをお願いしてからは、公判前整理手続きが終わる度に毎回検察庁に同行してもらい、その内容を一緒に聞いてもらったり、公判が始まるとサポートセンターの支援員の方々も含め毎回一緒に傍聴してもらいました。皆様に同席してもらい傍聴することは大変心強く、助かりました。ただ、先生方には大変失礼なのですが、弁護士という職業柄、時には被告の弁護、また今回のように被害者側のサポートをされるかと思うと、複雑な心境になることも事実です。

ところで皆様御存知でしょうか? 罪を犯した者には、お金があろうとなかろうと国選弁護人が付きます。娘の事件の場合は被告が3人います。一審では1人の被告につき2人の弁護人が、二審では1人につき3人の弁護人がつきました。もちろんすべて国選弁護人です。被害者側も被害者参加制度で国選弁護人を付けることができますが、この場合、現金や預貯金の合計が150万円未満(12月1日から200万円未満)の人に限ります。犯罪が原因で3カ月以内(12月1日から6カ月以内)に治療費等を支払う見込みのある方は、その金額を差し引いた残りの金額が150万円未満(12月1日から200万円未満)です。それ以上ある方は、費用を負担して弁護人を依頼することになります。

ここにいらっしゃる方も預貯金や現金を合わせて150万円あるかどうかお考えいただければ、この制度の利用がいかに難しいか、お分かりいただけると思います。このような名目だけの制度ではなく、加害者同様に被害者側も国選弁護人を付けてもらえるよう、制度を改めて欲しいと思います。私の場合は、被害者参加制度施行前でした。その制度とは関係なく、費用を負担して弁護士をお願いしました。

また、証拠資料のコピーを手に入れようと思えば、罪を犯した者は弁護人を通じてただで手に入れることができます。被害者は、コンビニでは1枚10円のコピー代が、(証拠資料をコピーするとなると)1枚40円かかります。費用を抑えるために、欲しい資料も厳選せざるを得ません。実に不公平なおかしな制度だと思います。

皆様は、私のように一番大切な人を惨殺されたら、何を一番望まれますか?私は1日も早く3人全員が死刑判決で結審し、刑が速やかに執行されることを願いました。でも、加害者B、加害者Aの無期懲役確定でその願いが叶うことはもうありません。

娘の事件の第一審が開廷されるまで1年1か月の歳月を要し、判決までおよそ半年の裁判です。第二審はそれから1年5か月後に開廷され、判決まで8か月半掛かりました。公判を遺族が傍聴することはとても辛いことです。初めて被告を目にします。一度、その中の被告の1人と目が合い、数分間にらみ合いの状態になったことがあります。凶器を目にし、娘の殺害状況を3人の被告それぞれから聞かねばなりません。娘が彼らに首を締められ、加害者Bに頭をハンマーで殴打された後に言った「殺さないって言ったじゃない、お願い、助けて、死にたくない、お願い、話を聞いて」との、途切れ途切れの絞り出すような最後の言葉も、守ることができなかった私にとっては辛く苦しい言葉として残りました。

また、全員の死刑判決を望んでいた私は、一審の加害者Aの無期懲役に納得がいかず、検事さんに意見書を提出しましたが、その度に公判記録を何度も読み返しました。二審の加害者B、加害者Aの無期懲役にも当然納得できません。加害者は納得がいかないと控訴したり上告したりする権利がありますが、被害者には何もありません。検事さんにお願いするしかないのです。何とか上告してもらうように、何度も意見書を提出し、最高検察庁検事総長、名古屋高等検察庁検事長宛に上告のお願いの手紙も出しました。そのために、一審判決後と同様、判決文や公判記録を何度も読み返しました。実はこの公判記録を読む作業がとても辛い作業です。忘れたいはずの娘の殺害状況を、何度も何度も頭の中に刷り込むことになってしまいます。

また、裁判の場ではありませんでしたが、娘が発見されてから司法解剖に至るまでの100枚以上の証拠写真を見せてもらい、その数枚をコピーして手元に置いてありますが、一度もそのコピーを見ることができませんし、今後も見ることはないでしょう。しかし、一度見た娘の証拠写真の姿は、事件後初めて会った娘の姿同様に、一生忘れることはできません。私は検事さんに、裁判で初めて娘の殺害状況を聞くのは辛すぎるしショックも大きいので、犯人の1人がマスコミに宛てた手紙の中で犯行内容を書いているので、その手紙のコピーをもらっても良いかと尋ねました。そのこともあり、次にお会いしたときに詳しい内容を教えてもらいました。

事前に聞いていても、公判での傍聴はとても辛く大変疲れます。犯行状況を公判で初めて聞いたのであれば、最後まで傍聴できたかどうか自信がありません。それほど、遺族が公判を傍聴することは本当に心身ともに疲れることです。真実が知りたい、そして娘の味わった恐怖や苦痛を少しでも共有してあげたいという思いで、毎回足を運びました。

今、私が一番危惧し、悲しいのは、事件の風化です。事件は時間の経過とともに世間の人からは忘れ去られていきます。事件イコール娘のむごい姿につながる私は、事件を早く忘れたいと思っていますが、世間の人にはこんなひどい事件が起きたことを忘れて欲しくありません。そして二度と同じような事件が起きないことを願っています。しかし、残念ながらとうとう同じような事件が起きてしまいました。

事件は忘れたくとも、大切な娘を失った悲しみは時間の経過に関係なく、薄れることもなくなることもありません。深い悲しみに形を変えるだけです。1日たりとも涙を流さない日はありません。だからといって泣いてばかりいるわけでも、憎しみに満ちた生活を送っているわけでもありません。ここにいらっしゃる皆様方と同じように、普通に生活しています。ただ、二度と幸せを感じることはありません。

私は娘に、「いくつになっても働ける間は働くつもり」と言っていましたが、事件後仕事を辞めたまま、今日に至っています。四十九日が済むと職場に復帰しましたが、活動はまだ忙しい状態でした。仕事を終え活動する姿を見て体を心配した姉が、仕事を辞めるように説得してきました。確かに私が今ここで倒れると活動はだめになってしまうかもしれません。仕事はまた探せばいい、活動は今しかできないと思い職場を辞しました。これまでなら、遊んで生活する姿を娘に見せることはできないと、一段落すると就職活動を開始しているところです。でも今は、親の後ろ姿を見せる子どもが居ません。子どもが居たから私自身成長させてもらえたのだと、つくづく痛感しています。

また、私は一審の判決の出た年の夏に、30年住んだ娘との思い出の詰まった住居を替わりました。私は事件早々から署名活動をし、できる限り取材に応じたと申しましたが、そのことにより、私の個人情報はすべて流れてしまいました。女性の1人暮らし、娘の預金、そして用紙を求めて訪ねて行けるほど明らかになった住所。それに輪を掛けたのは、公判を傍聴して知った闇サイトに集う者の思考回路でした。未だに闇サイトは何ら法的規制もされずに存在します。そこにアクセスする者も後を絶ちません。彼らに死刑を科す活動をしていることを思うと、怖くてそのまま住み続けることはできませんでした。

実際に善意の方ばかりでしたが、見知らぬ方が何人か用紙を求めて訪ねて来られました。事件当初はしばらく姉に同居してもらったため直接お会いすることはありませんでしたが、私が1人で生活するようになった時も見知らぬ方が訪ねていらっしゃったらと思うと、強盗殺人という凶悪事件に巻き込まれただけに、一般の人以上に恐怖心がありました。一審の判決までは取材を受ける場所としての必要性から留まっていましたが、判決後は住居を替わることを考えていました。

事件があった年の12月、役所に市営住宅から市営住宅に替わることができるかどうかの相談に行きました。丁度、犯罪被害者等基本計画に基づき規定の変更がなされようとしていました。私どものような遺族をその対象に入れるように打ち合わせのときに言っておきますとのことで、住んでいた住居から遠く離れた2カ所の市営住宅が用意されました。これは決まった場所にどうぞという形でしたので、希望に沿わないと利用することができません。空いている住宅を選択できる方法にしていただければ、もっと利用できるのではないかと思います。私は用意された住居も利用することができず、他の方法を考えざるを得ませんでした。

これまでにお話しした事を短くまとめてみました。

「私はある日突然、見知らぬ3人の男たちによって、たった1人の家族である娘を惨殺され、亡くしました。そのことにより、仕事を辞め、30年住んだ住居を去り、裁判や署名活動に多額の費用を使いました。娘は真面目に生きてきただけなのに、31歳という若さで強制的に人生を閉じられ、夢や希望、未来のすべてを奪われてしまいました。片や罪を犯した者は3食税金で食べさせてもらい、体の調子が悪いと診てもらい、裁判では1人につき2人や3人の国選弁護人を付けてもらい、犯罪心理鑑定等の手厚い弁護を受け、挙句に好き勝手な言動で、より以上に遺族の心を逆なでします。娘の最後の言葉に耳を貸さずに命を奪ったのに、自らの命は守ろうとして、叶えてもらえます。これはとてもおかしなことに思えます。」

実はこの言葉は、二審の裁判のときに裁判長に向かって話した言葉です。3人の裁判官には遺族の気持ちは届かなかったようですが、皆様はどのようにお感じになられたでしょうか。

楽してお金を得ようと、真面目な若いOLを拉致し、暗証番号を聞き出し、預金を引き出し、最後は殺すと決めての犯行でした。娘が嘘の暗証番号を言ったため、娘から奪ったお金が少ないからと、娘を殺害したその日の夜にも同じような犯行を企てていました。それなのに、加害者Bを死刑から無期懲役に減刑した二審判決は、3人が初めて会ってわずか数日でこのような強盗殺人等、犯行を計画実行しているので犯罪傾向性は進んでいないとし、更生の可能性を選択しました。

普通の感覚は逆なのではないでしょうか?3人は初めて会ってわずか3日でこのような犯行を計画実行しているということは、人の命を奪うことに何ら躊躇をしていないということで、犯罪傾向性は進んでいると見るのではないでしょうか。心理テストやその他の手法を用いて行われた犯罪心理鑑定の結果も、犯罪への親和性は低いと結論付けました。攻撃性の少なさであるとか、穏やかさがむしろ表面に出ているとまで言いました。結果、被害者が1人である本件では死刑選択がやむを得ないと言えるほど悪質な要素があったとは言えないとし、最高裁もこれを支持しました。裁判が結審し私の心に残ったのは、娘の無念を晴らせなかった悔しさと、司法に対する不信感だけです。

しかし、これで終わりませんでした。最高裁の上告棄却で加害者Bの無期懲役が確定してから1か月も経たない8月3日に、加害者Bは14年前の夫婦強盗殺人事件の容疑者として逮捕され、加害者Bの手によって娘が拉致された日と同じ、5年後の8月24日に起訴されました。この日は当時と曜日まで同じ金曜日です。また、今年の1月には別の強盗殺人未遂事件の容疑者として逮捕され、2月に起訴されました。不思議なことに、この事件の犯行日は娘の30歳の誕生日の日でした。私には、娘が加害者Bの余罪を洗い出す応援をしてくれているように思えてなりません。

これで、二審の裁判官や犯罪心理鑑定士の犯罪傾向性は進んでいない、犯罪への親和性が低いとした判断が誤りだったことが明らかとなりました。どちらの事件も複数で起こした事件で、加害者Bは主犯とみられています。死刑選択基準となる永山基準の中には前科も含まれています。これまでに交通違反しかない、凶悪犯罪の傾向を示すものがないことが犯罪傾向性は進んでいないと判断された要因の1つでした。しかし、娘の事件の9年前に面識のない人を2人も殺害し、1年前には殺人未遂を犯していたのです。このように実例を前にすると、前科をどこまで量刑に反映させるのか疑問に感じます。

また、死刑選択に被害者の数が重要視されることにも疑問を感じました。計画的な無差別強盗殺人事件のどこが、死刑にするほど悪質でないと言えるのでしょうか。被害者の数がそんなに重要なのでしょうか。何の目的で誰をどのようにしたかという犯罪内容が一番重要なのではないでしょうか。その中にこそ犯した者の人間性のすべてが含まれているのではないでしょうか。

加害者Bは、二審の裁判で死刑から無期懲役に減刑された途端、謝罪の手紙を送りたいとの申し出もなくなり、何も言ってこなくなりました。本気で反省し謝罪する気があったら、自らが犯した犯行を自供していたはずです。現に二審判決も、自らがした行為に対し、正面から向き合って真摯に反省しているとまでは言えないとしています。凶悪重大事件を犯し、4年近く経っても反省できない人をどうして更生の可能性があると判断できるのか、とても不思議です。事件を犯したことについても「ばれなければそれでいいや」との気持ちで、事件を隠蔽することしか考えていませんでした。

もう1人、自首減刑で無期懲役が確定している加害者Aも、一審の判決が下されたその日の取材に対し「今でも悪いことはばれなきゃいいという気持ちは変わらない」と述べています。これまでの裁判を通し、身勝手な欲のために何の関係も落ち度もない人の命を簡単に奪える者は、善悪に対する根本的な考えが一般の人とは違うということを知りました。

被告の1人は、犯罪行為は仕事感覚だと言いました。ゴキブリを殺すのと一緒だと。人はどのような人でも最低限の道徳心は持ち合わせていると思っていましたが、それは大きな間違いで、本当にきれいごとでは済まされない、どうしようもない人間がこの世に存在することを認識する必要があります。このように考えると、加害者の更生という未来の不確定なことを前提に裁くのではなく、真面目に生きている人を守ることを優先して裁く司法であって欲しいと思います。

これまでに私が受けた最も大きな二次被害は、実はその司法の中にありました。先ほどから何度も言っている言葉ですが、裁判官の、被害者が1人である本件では死刑選択がやむを得ないと言えるほど悪質な要素があったとは言えないことや、弁護士の、被害者が1人で死刑になった事件に比べるとこの事件はそれほどひどい事件ではないなど、司法の世界では極々当たり前の文言がどれほど私の心を傷つけたことでしょうか。主人を急性骨髄性白血病で亡くした後、当時1歳9か月だった娘を生き甲斐に、事件までの30年間、ずっと一緒に過ごしてきました。1人の被害者といえども、私にとってはたった1人のかけがえのない大切な家族でした。

また、裁判官の、殺害の態様が残虐性を増したのは、被告人らが想像しているよりも被害者が中々絶命しなかったために殺害手段を次々に変えた結果である、との言葉は、残虐になったのは娘がさっさと死ななかったせいだと言われているような気がしました。残虐であろうとなかろうと、最後は殺すという目的のためには、どんな方法でも良かったのです。そして二審の裁判では、私が受取りを拒否した加害者Bの謝罪の手紙を、拒否できない裁判という場で弁護士は延々と読み聞かせました。私どもにとっては苦痛以外の何物でもありませんでした。

これとは逆に、多くの方々が遺族の心に寄り添ってくださったことは、とても有り難かったです。同じように犯人に対して怒り、死刑は当然として賛同してくださったことは、精神的に大きな支えとなり、暗くて深い闇の中を抜け出す元気と勇気になりました。

それと、手記を通しての御遺族や、直接お会いする御遺族など、同じような犯罪被害者御遺族の存在も大きな支えとなりました。何年経っても、何かの拍子にフラッシュバックして事件当時に戻ってしまい、どうしようもなく辛く苦しくなる時があります。そんな時は同じような御遺族のことを想い、辛いのは私だけではない、同じように辛い思いをしながら頑張っていらっしゃる方がたくさんいらっしゃるではないか。他の人にできることなら私にもできないはずはないと、自分自身を奮い立たせています。生きている限りこの繰り返しが続いていくのでしょう。

最後に皆様に、娘が残した言葉を贈りたいと思います。娘は囲碁をやっていましたが、その仲間との連絡はインターネットのミクシィを通じて行っていました。娘が亡くなった時、それをコピーしたものをもらいました。その中に「突然の死」という題で、会社関係の方が突然お亡くなりになったときに書いたものがありました。これはその一部です。娘が亡くなる3か月ほど前のことです。

「人と人とのつながりって、普通に今日も明日も変わらずに続くと無意識に信じてしまっていますが、今回みたいなことがあると思い知らされます。どうして明日もまた無邪気に会えると信じてしまっているのでしょう。もっと身の回りの人との関係を大事にしていかないとなって思いました。今、この時が最後になるかもしれないのですよね。」
これとは別に、私への遺言として受け取った言葉があります。
「悲しむよりも楽しかった思い出を大事にして、いつまでも忘れないでいよう。」
長い時間御清聴いただきありがとうございました。

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