特集:変革を続ける刑事警察 

第1節 刑事警察の歴史

 警察法は、「犯罪の捜査」が警察の責務であることを定めている。今日では、警察が自らの責任において犯罪捜査を行うことは当然のことだと思われているが、それは決して所与のものとして警察に付与されたものではなく、戦後の諸制度の改革の中で、新たに警察に認められたものである。
 以来、60年間、我が国の社会情勢、国民意識が変化を続けてきたのと同様に、犯罪捜査を担う刑事警察は、犯罪との不断の闘いの中で、捜査力を強化し、ち密かつ適正に捜査を遂行するための変革を続けてきた。
 本節では、刑事警察の変革の歩みを振り返る。
 
 勤務前に点検を受ける捜査員
勤務前に点検を受ける捜査員
 
 出動する捜査員
出動する捜査員

(1)第一次捜査権の確立
 戦前、犯罪捜査は、司法権の作用として裁判所に置かれた検察の事務とされ、警察固有の事務ではなかった。警察官は、検察官の指揮の下に、その補助者としての立場で犯罪捜査を行うものに過ぎなかったのである。
 戦後の混乱期において、民主的理念に基づく新たな警察組織・制度を確立し、混乱した治安を早期に回復することは非常に重要な課題であった。そこで、昭和23年に施行された旧警察法において、それまで検察官が主宰していた犯罪捜査が警察固有の事務であることが明確化され、新たに制定された刑事訴訟法により、第一次的な捜査責任が警察官にあることが明らかにされた。こうして、警察は、自らの責任において国民のための捜査を遂行すべき使命、すなわち第一次捜査権を担うこととなった。
 これに伴い、警察自らの手によって犯罪捜査に関する一般準則を定める必要が生じ、24年に国家地方警察本部長官訓令として犯罪捜査規範が制定された。そして、その翌年には、その内容を更に充実させた、国家公安委員会規則としての犯罪捜査規範が制定された。
 また、捜査部門の体制整備について、戦前においては内務省警保局防犯課の一係に過ぎなかった捜査担当部門が国家地方警察本部刑事部に昇格するとともに、その中に防犯課、捜査課、鑑識課及び犯罪統計課が設けられた。また、科学捜査を推進するため、鑑識課の附属機関として科学捜査研究所が設立された。

(2)刑事訴訟法の改正
 警察に独立した第一次捜査権が与えられたことで、警察官は、裁判官の発する逮捕状により被疑者を逮捕する権限を持つこととなった。しかし、当時の警察は国家地方警察と市町村自治体警察とに二元化しており、新制度の趣旨が隅々まで行き届かなかったことや戦後の混乱期という事情もあって、逮捕権の濫用を指摘する声が高まった。そのため、昭和28年、捜査の適正化を図る観点から、警察の行う捜査に関し、検察官が一般的指示を行うことができること、司法警察員が逮捕状を請求するには、検察官の同意を得なければならないことなどを内容に含む刑事訴訟法の改正案が提出された。この改正案に対しては、捜査に関する権限を警察と検察とに分散して人権の保障を図ろうとする戦後の制度改正の趣旨を没却するなどの理由から、有力な学者を含め異論も多く、国会において激しい議論が繰り広げられた。結果的には、一般的指示の強化を図る点に関しては、「一般的指示により、個々の事件の捜査を直接指揮しないように留意されたい」との附帯決議を付して、同年、政府原案どおり成立した。一方、逮捕状請求における検察官の同意に関しては、そのような同意を規定することに代えて、逮捕状の請求権者を公安委員会が指定する警部以上の者に限ることとされた。

(3)現行警察法の制定
 旧警察法は、市町村自治体警察制度による警察単位の地域的細分化が、広域的な犯罪等への効率的対処を阻害していたことなどの問題があったことから、昭和29年、現行警察法に全面改正された。これにより、国家公安委員会の管理の下に警察庁が置かれるとともに、都道府県公安委員会の管理の下に都道府県警察が置かれ、犯罪捜査の執行は都道府県警察が担うという現行の制度が確立した。

(4)刑事警察強化の歩み
 以上のようにして、警察が独立した第一次捜査権を新たに担うこととなったが、第一次捜査権を真に確立するためには、警察の犯罪捜査に対する国民の信頼の確保が必要不可欠であり、そのためには刑事警察に対する二つの要請を満たすことが必要であった。すなわち、犯罪に的確に対応した捜査を実行して犯人を確実に検挙するという「捜査力の強化」の要請と、そのような捜査が単に適法であるというだけではなく国民の納得する妥当な方法で行われるという「捜査の適正化」の要請である。これらの要請にこたえるため、刑事警察は、犯罪情勢の変化に的確に対応しながら、不断の変革を続けてきた。
 
 図-1 刑事警察強化の歩み
図-1 刑事警察強化の歩み

〔1〕 刑事警察強化対策要綱(昭和38年)
 昭和30年代においては、終戦直後の混乱期にみられた犯罪の多発傾向は沈静化したものの、高度経済成長や人口の都市部集中化に伴って、犯罪の都市集中化傾向が強くなるとともに、モータリゼーションの進展や生活圏の拡大に伴って犯罪の広域傾向が顕著になり、また、犯行手段の悪質化、巧妙化が進み、計画的な凶悪犯の多発等が目立つようになった。このような中で、38年に発生した吉展ちゃん事件及び狭山事件においては、いずれも警察が犯人と接触し逮捕する機会がありながら、犯人を取り逃がしたことから、捜査の不手際が厳しく批判された。
 
 盗難車両の捜査に当たる刑事(昭和30年代)
盗難車両の捜査に当たる刑事(昭和30年代)

 同年、刑事警察の充実強化を図るため、警察庁において「刑事警察強化対策要綱」が策定された。この要綱では、特に、刑事警察官の質的向上のため、刑事教養の徹底が図られることとなり、管区警察学校に刑事専門の研修課程が新設された。また、捜査用自動車、鑑識資機材等の設備の充実、刑事警察官の増員等の捜査体制の整備が進められたほか、42年には、警察大学校に特別捜査幹部研修所が設置され、上級捜査幹部に対する捜査の指揮及び管理に関する研修が行われるようになった。
 
 点検を受ける刑事(昭和30年代)
点検を受ける刑事(昭和30年代)

事例1 吉展(よしのぶ)ちゃん事件

 38年3月、東京都台東区に居住する幼児が自宅近くの公園で友達と遊んでいるところを誘拐された。同年4月、同児の自宅に身の代金50万円を要求する電話があったことから、その母親が身の代金を持って被疑者に指定された場所に出向き、身の代金を置いて帰宅したところ、同人にその金を奪われ、同児を取り戻すこともできなかった。40年7月、詐欺罪及び窃盗罪で服役中の無職の男(30)を任意で取り調べたところ、同人の持っている金は誘拐した幼児に関するものである旨供述をしたため、この男を営利誘拐罪及び恐喝罪で逮捕した。同日、同人の自供と同人作成の略図に基づき、荒川区にある寺の本堂裏墓地内を捜索したところ、墓石の下から幼児の遺体が発見された。なお、この男は、41年3月、東京地方裁判所から営利誘拐罪、殺人罪、死体遺棄罪及び恐喝罪で死刑判決を受け、42年10月、この判決が確定した(警視庁)。

事例2 狭山事件

 38年5月、埼玉県狭山市に居住する女子高校生が普段帰る時間を過ぎても学校から帰宅せず、その父親あてに20万円を要求する脅迫状が届いた。翌日の深夜、被害者の姉が被疑者から指定された場所に出向き、身の代金を渡すことを拒否する旨を告げたところ、被疑者は、その周囲で張り込みを行っている警察官に気が付いて逃走した。翌日、警察官が、被害者の通学道路付近の農道で最近掘り起こされたと思われる箇所を発見し、掘り起こしたところ、埋められた被害者の遺体を発見した。翌月、同市内のとび職手伝いの男(24)を逮捕した。なお、この男は、49年10月、東京高等裁判所から強盗強姦罪、強盗殺人罪、死体遺棄罪、恐喝未遂罪等で無期懲役の判決を受け、52年8月、この判決が確定した(埼玉)。

〔2〕 刑事警察刷新強化対策要綱(45年)
 40年代には、科学技術の進歩、経済の高度成長、都市化の進展等によって、従来我が国では考えられなかったような大型犯罪が発生し、交通機関の発達に伴って自動車利用犯罪が増加するなど、犯罪の広域化、スピード化の傾向が顕著になった。また、爆発物や銃砲を使用した凶悪な犯罪や、大量輸送時代を背景に、航空機、列車等の大規模事故事件の発生が目立った。
 また、都市への人口集中が地域社会の匿名化をもたらし、聞き込み捜査等の「人からの捜査」を困難化させたことなど、捜査をめぐる環境にも変化が現れる中で、検挙率は40年から44年まで連続して低下し、捜査力の強化のための更なる取組みが必要となった。
 さらに、このころから、米国連邦裁判所におけるいわゆるミランダ判決に触発され、学会を中心に、デュー・プロセス・オブ・ロー(適正捜査の確保)の思想に基づく捜査に対する司法的抑制の強化が主張されるようになった。
 
 昭和40年代の機動捜査隊
昭和40年代の機動捜査隊

 こうした動きに対応し、捜査体制を抜本的に強化することを目的として、警察庁は、45年に「刑事警察刷新強化対策要綱」を策定した。これを踏まえ、警察庁では、コンピュータを活用した犯罪情報管理システムの創設等による発達の著しい科学技術の犯罪捜査への活用、都道府県警察では、機動捜査隊及び特殊事件捜査係の設置、初動捜査活動の強化等を進めた。
 機動捜査隊とは、夜間における遊撃的捜査活動等の強化を図り、犯罪発生の初期段階で犯人を検挙するための執行隊であり、警視庁及びすべての道府県警察本部に46年までに設置された。特殊事件捜査係とは、大規模な業務上過失事件、航空機、船舶等の不法奪取事件、爆破事件等、高度の捜査技術及び科学的知識を必要とする事件捜査に即時の応援を行うための部署であり、警視庁及びすべての道府県警察本部に56年3月までに設置された。また、警察庁は、49年1月には、犯罪の広域化・スピード化に対処し、捜査の初期段階における犯人検挙の徹底を期するため、重要又は特異な事件を認知した場合に、他の都道府県警察に依頼して広域的な緊急配備を実施することとする「広域緊急配備要綱」を策定した。

事例 寸又峡逮捕監禁事件

 無職の男(41)は、43年2月、静岡県内のキャバレーで金銭賃借のもつれから稲川会傘下組織幹部等2人をライフル銃で射殺した後、自動車で逃走し、殺害現場から約45キロメートル離れた寸又峡温泉の旅館に従業員、宿泊客等13人を人質として立てこもった。男は自らが立てこもる部屋にダイナマイト数十本を積み上げて同旅館付近に配置された警察官等を威嚇する一方、人質の一部を解放したり、報道陣の記者会見に応じたりしていた。同旅館に立てこもってから3日後、記者会見の場で警察官に現行犯逮捕された。なお、この男は、47年6月、静岡地方裁判所から殺人罪、監禁罪等で無期懲役の判決を受け、50年11月、この判決が確定した(静岡)。

〔3〕 刑事警察強化総合対策要綱(55年)
 50年代は、経済が安定成長期へ移行し、社会的・経済的公正を望む国民の声が高まり、その裏返しとして、知能犯罪捜査力の強化に向けた国民の期待も高くなった。また、モータリゼーションの進展により、自動車利用犯罪や複数の都道府県にわたる犯罪も増加し、捜査活動も広域化した。さらに、いわゆる精密司法といわれるち密な事実認定の傾向が進み、より高度で信頼性の高い鑑定が必要となった。こうした環境に加え、経験豊富な捜査員の退職による捜査力の低下を防ぐため後継者の育成が急務とされた。そこで、警察庁は、55年10月、重要知能犯捜査力の強化、広域犯罪捜査力の強化、科学捜査力の強化、優れた捜査官の育成と指揮能力の向上の4つを柱とする「刑事警察強化総合対策要綱」を策定し、大都市圏管轄警察に企業犯罪特捜班を設置し、また告訴・告発事件処理体制の強化を図った。また、56年には、「広域重要事件捜査要綱」を策定し、各都道府県警察に広域捜査官を設置した。このほか、57年には、指紋自動識別システムを実用化するとともに、全国の鑑定技術職員に対し必要な専門的事項に関する研修を行う機関として科学警察研究所に法科学研修所を創設するなど、科学捜査力の強化を図った。
 
 昭和50年代の捜査本部
昭和50年代の捜査本部

事例 豊田商事事件

 豊田商事は、56年4月から7月にかけて、金利の2倍から4倍の利殖になると金地金を購入させ、購入の契約をすると、金地金は同社が預かるとして契約者には現金と引き替えに純金ファミリー契約証券なる書面を交付し、同証券の満期が来ると強引に契約の更新をさせ、中途解約には応じないという手口で、老人、主婦等約3万人から合計約2,000億円をだまし取った。62年3月、同社の代表取締役社長(47)ら5人を詐欺罪で逮捕した。平成元年3月、大阪地方裁判所から懲役10年から13年の判決を受け、4年までに判決が確定した(大阪)。

〔4〕 刑事警察充実強化対策要綱(61年)
 60年代に入り、来日外国人犯罪、海外における凶悪事件やコンピュータを悪用した犯罪の発生が目立つようになった。一方で、自白の任意性と信用性、証拠能力の有無等の各般にわたって精密かつ厳格な審理を行う裁判実務と活発な刑事弁護活動に対応し、より一層ち密かつ適正な捜査を推進する必要性が高まった。このため、61年10月、警察庁は、優れた捜査官の育成、科学捜査力の強化等を柱とする「刑事警察充実強化対策要綱」を新たに策定し、これに基づき、警察庁は、コンピュータを利用した各種捜査支援システムの開発整備等を進め、都道府県警察は、マンツーマン方式、長期実務研修方式の導入により実践的教養を強化するなどした。
 
 コンピュータを駆使した証拠分析
コンピュータを駆使した証拠分析

事例

 信用金庫職員の女(31)は、元住吉会傘下組織構成員の男(41)と共謀の上、為替係オペレータの権限を濫用して、信用金庫本部のコンピュータの端末機を操作し、60年6月から63年11月にかけて、前後73回にわたり、合計9億7,000万円をだまし取った。同年11月には女を、同年12月には男を、それぞれ背任罪及び電子計算機使用詐欺罪で逮捕した。平成2年4月、東京地方裁判所から女は懲役5年、男は懲役10年の判決を受け、それぞれ同年5月及び6年2月に判決が確定した(警視庁)。

〔5〕 事件に強い警察の確立のための指針(平成元年)
 昭和63年8月から平成元年6月にかけて埼玉県及び東京都において発生した連続幼女誘拐殺人事件を直接の契機として、捜査力の強化は警察全体の最重要課題として位置付けられたことから、同年11月、警察庁は、重要凶悪事件等への的確な対応、捜査力の向上と適切な配分、国民の理解と協力の確保を柱とする「事件に強い警察の確立のための指針」を示した。同指針に基づき、2年には、警察庁は「重要事件等捜査本部運用要綱」を制定し、被疑者写真検索システムの運用を開始した。また、同年、都道府県警察は広域的捜査訓練を実施した。さらに、3年には、警察庁は、犯罪手口画像情報検索システムの運用を開始した。
 
 広域捜査訓練の様子
広域捜査訓練の様子

事例

広域にわたる連続幼女誘拐殺人及び死体遺棄事件(警察庁指定第117号事件(平成元年9月1日指定))
 印刷業手伝いの男(26)は、昭和63年8月、埼玉県入間市の女児をその自宅近くで誘拐し、東京都西多摩郡の山林内で殺害した。また、この男は平成元年6月までに合わせて4人の女児を次々と誘拐して殺害した。同年7月に、この男は、別の女児に対する強制わいせつ罪でこの女児の父親に現行犯逮捕されたが、この男は逮捕されるまでの間、殺害した女児の遺骨を被害者宅に送り届けたり、犯行声明文を新聞社等に送付したりするなどし、その特異性と凶悪性から世間の注目を集めた。なお、この男は、9年4月、東京地方裁判所から誘拐罪、殺人罪、死体遺棄罪、死体損壊罪、わいせつ誘拐罪及び強制わいせつ罪で死刑の判決を受け、18年1月、この判決が確定した(警視庁、埼玉)。

〔6〕 平成時代の刑事警察
 平成に入り、暴力団や来日外国人による組織的な犯罪が一層深刻化するとともに、オウム真理教関連事件等の国民を震撼させる凶悪事件が発生した。また、いわゆるバブル経済の崩壊の過程で、金融・不良債権関連事犯や企業犯罪が多発した。刑法犯認知件数は、平成に入り増加し、8年から14年にかけては、7年連続で戦後最多の記録を更新し続けた。その後、15年から減少したが、140万件前後で推移していた昭和期と比べ高い水準にある(第2節参照)。
 
 現場で捜査に当たる刑事(平成3年)
現場で捜査に当たる刑事(平成3年)

 こうした中、昭和期とは比較にならないスピードで変化する社会情勢に的確に対応し、犯罪捜査の各分野を専門化させるために、その時々の重要課題について重点を志向した対策を講じてきた。具体的には、暴力団総合対策の推進(3年)、都道府県警察の科学捜査研究所におけるDNA型鑑定の逐次実施(4年以降)、刑事に関する教育訓練の刷新強化(5年)、オウム真理教事件を教訓とした科学捜査力の強化(8年)、財務捜査官、国際捜査官、科学捜査官等の専門性の高い捜査員の活用(5年以降)等が実施されている。
 また、国民全体が安心して暮らせる安全な社会の実現のために、警察全体が緊急かつ重点的に取り組んでいくプログラムとして警察庁が取りまとめた「緊急治安対策プログラム」(15年)、「治安再生に向けた7つの重点」(18年)等においても、広域化・スピード化する犯罪に対する捜査力の強化のための各種対策を盛り込み、それらを強力に推進しているところである。

事例1

 オウム真理教は、6年6月、長野県松本市の住宅地においてサリンを噴霧して7人を殺害し、多数を負傷させ(いわゆる松本サリン事件)、7年3月、東京都内の複数の地下鉄車両内で先のとがった傘でサリン入りのナイロン袋を突き刺し、サリンを地下鉄車両及び駅構内に漏出させ12人を殺害し、多数を負傷させる(いわゆる地下鉄サリン事件)などのテロを敢行した。オウム真理教による事件は、世界で初めて犯罪の手段として有毒ガス「サリン」が使用され、閉鎖的な宗教団体によって大規模かつ組織的に敢行されるなど、国際的にも犯罪史上例をみないものであった。地下鉄サリン事件以降、19年末までに、オウム真理教の代表である麻原彰晃こと松本智津夫を始めとする教団幹部及び信者合わせて500人以上を検挙した。なお、松本智津夫は、16年2月に東京地方裁判所から死刑判決を受け、18年9月、この判決が確定した。

事例2

 都市銀行元頭取(62)ら4人は、共謀の上、6年4月ころから9年10月ころにかけて、リゾート開発会社等に利益を与える目的をもって、同社に返済能力がなく、貸し倒れになる危険性が極めて高いことを知りながら、十分な担保を確保することなく、合計約96億円の融資を行い、同行に対し、同額の損害を与えた。11年3月、同人らを商法違反(特別背任)で逮捕した(北海道)。

 以上のように、刑事警察は第一次捜査機関としての責任を果たすべく、「捜査力の強化」と「捜査の適正化」のための変革を続けてきた。次節以降は、現在の刑事警察の姿について記述していく。

 第1節 刑事警察の歴史

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