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国際テロ情勢
1 「アル・カーイダ」の台頭と米国における同時多発テロ事件


1 「アル・カーイダ」の台頭

 1979年(昭和54年)12月、旧ソ連のアフガニスタンに対する軍事介入に際し、エジプト、サウジアラビア等多数のアラブ諸国から、イスラム教徒が義勇兵として集まり、旧ソ連軍と戦いました。2001年(平成13年)9月に発生した「米国における同時多発テロ事件」(以下「米国同時多発テロ事件」という。)の首謀者として国際手配されているオサマ・ビンラディンも、その中の一人でした。
 1989年(元年)に、旧ソ連軍がアフガニスタンから撤退すると、彼らと戦っていたイスラム義勇兵は、その多くが母国に帰国しました。しかし、彼らは、母国で必ずしも歓迎されたわけではなく、また、西洋文化が氾濫(はんらん)する母国の姿に失望し、そうした母国の西洋化が、彼らの目には「堕落」と映り、これが、彼らを過激化させたと指摘されています。
 こうした背景の下、オサマ・ビンラディンは、「アル・カーイダ」を結成し、帰還兵が結集したとされています。
 1990年(2年)8月、イラクがクウェートに侵攻したことに伴い、湾岸戦争が勃発(ぼっぱつ)し、米軍は、イスラム教の聖地があるサウジアラビア国内に駐留を開始しました。これが、聖地に足を踏み入れた米国と、それを受け入れたサウジアラビア王家の打倒を、オサマ・ビンラディンが目指すようになった理由ともいわれています。
 1998年(10年)2月、オサマ・ビンラディンは、エジプトの「イスラム集団」、「ジハード団」、パキスタンの「ハルカト・ウル・ムジャヒディン」、バングラデシュの「ハルカト・ウル・ジハード」等のイスラム過激派と連携し、「ユダヤと十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成するとともに、米軍がイスラムの地を出ていくまでは、米国人とその同盟者を、市民、軍人を問わず、また、場所を問わず殺害することを命じる宗教令(ファトワ)を発表しました。
 この宗教令は、米国権益に対するテロを宗教的義務とした点で、事実上の米国への宣戦布告とされています。

2 「アル・カーイダ」によるテロ事件

 1998年(10年)8月、ケニア及びタンザニアの米国大使館前で爆弾テロ事件が発生し、合わせて約300人が死亡、5,000人以上が負傷しました。
 米国は、本件にオサマ・ビンラディンが関与していたと断定し、アフガニスタン及びスーダンにおける同人に関連するとみられる施設に対して、ミサイル攻撃を実施しました。それまで、ケニアやタンザニアでは、イスラム過激派によるテロの脅威は低いとみられていたことから、この事件は、イスラム過激派の世界的なネットワークによる脅威を改めて示すこととなりました。
 「アル・カーイダ」は、その後も、アフガニスタン等のそれまでの主な活動拠点だけでなく、旧ソ連諸国や中央アジア、東南アジアにも影響を拡大させ、一般市民をも巻き込んだテロを相次いで実行していきました。2000年(12年)10月には、イエメンのアデン港沖に停泊していた米国海軍の駆逐艦「コール号」に、爆弾を搭載したボートを突入させ、米国人乗員17人が死亡し、39人が負傷するテロ事件を引き起こしたとみられています。
 そして、2001年(13年)9月、「米国同時多発テロ事件」が発生しました。本件は、旅客機4機を同時にハイジャックし、乗員・乗客と共に世界貿易センタービル及び米国防総省に突入するという前例のない手口により、テロ事件としては過去最悪の約3,000人の犠牲者を出し、世界に衝撃を与えました。
 同月、米国連邦捜査局(FBI)長官は、事件にオサマ・ビンラディンが関与していることを公表し、翌10月、米国は、オサマ・ビンラディンを庇護(ひご)下に置いているとして、アフガニスタンを実効支配するタリバーン政権に対する軍事行動を開始しました。同政権は、同年12月、最後の重要拠点であったカンダハルを明け渡し、ブッシュ米国大統領は、対タリバーン戦の勝利を宣言しました。

湾岸戦争(1991年(平成3年)1月)(時事)
炎上する世界貿易センタービルとマンハッタンの高層ビル群
(2001年(平成13年)9月)(時事)
黒煙を上げる米国防総省(2001年(平成13年)9月)(時事)


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