第5章 国民の理解の増進と配慮・協力の確保への取組

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1 国民の理解の増進(基本法第20条関係)

コラム5 犯罪被害者遺族の声

警察庁が主催する事業において実施した、これまでの講演の記録から抜粋した。

なお、講演者のプライバシー保護等の観点から、内容に影響のない範囲で修正を加えている。

【講演】
「最愛の息子を失って」
傷害致死事件被害者御遺族

はじめまして。ただいま紹介がありましたとおり、私は長男を傷害致死という犯罪で失いました。私は人前で話すことも苦手ですし、上手な話はできませんが、今日は私の最愛の息子の話をしたいと思います。

事件が起きたのは、今から10年以上前の4月のある日のことです。亡くなった息子は、3人きょうだいの長男で、このとき中学を卒業したばかりの春休み中であり、入学する高校も決まり、親子でほっとしているときでした。その日の夜、長男は中学の先輩などに呼び出され、通っていた中学校のグラウンドや母校である小学校のグラウンドで一方的に殴られたり蹴られたりして、そのまま意識が戻ることなく死んでしまったのです。

なぜこんな事件が起きてしまったのか、なぜ長男が殺されなければならなかったのかということですが、警察や検事さんからの説明によると、加害者たちは卒業アルバムの長男の顔つきが生意気だと、勝手な理由をつけて長男を暴力の対象にしたとのことでした。そして長男を中学校のグラウンドに呼び出すと、加害者たちはすさまじい勢いで長男に暴行を加え始めたのです。そのあと、人目につきやすいという理由から、ふらふらになっている長男を連れて近くの小学校のグラウンドに移動し、さらに殴り続け、加害者たちは1時間以上にわたって長男に暴力をふるい続けました。私はもっと詳しい事件の内容が知りたい、もっと長男のことが知りたいと思い、家庭裁判所で加害者たちが話した内容を文章にまとめた書類である供述調書を読ませてもらいました。そこに書かれている長男への暴力の内容は想像を絶するもので、その場面が目に浮かんでしまい、涙があふれ、長男のつらさを思うと切なくて、結局最後まで読むことはできませんでした。

長男が暴力の対象にされたきっかけは、卒業アルバムの写真が生意気だったからとのことでしたが、それはクラス写真ではなく、部活動ごとに写した写真のことでした。ユニフォームを持っていない部員がいたため、長男のいる部だけが全員学生服姿で写っていましたが、長男は別に生意気な格好をしたり、髪を染めているなどの特別な写り方をしていたわけではなく、少し格好をつけた感じにすました顔で写っているだけで、私から見れば別に変わったところのない、普通の写真なのです。なぜこの写真が暴力の理由になるのかいまだに理解はできませんが、加害者たちは逮捕されたあとに、「殴るのは誰でも良かった。ただ暴行を楽しみたかった」と言っていたことを検事さんから聞きました。結局写真のことなんて理由でも何でもなく、誰でも良かったのです。

この事件の日、春休みということもあって長男の友達の一人が家に遊びに来ていました。そして夜になると、長男たちは友達の家に行くと言って家を出たのです。既にこのときには、加害者たちに呼び出されていて、結局友達の家に行くというのはうそでした。後から分かった話ですが、加害者たちは携帯電話を持っていなかった長男を呼び出すために、長男の友達の携帯電話に何度も呼び出しの電話がかかってきており、呼び出しに応じれば暴行されることが分かっていたので、最初は居留守を使っていたそうですが、誰よりも責任感が強く、間違ったことが嫌いだった長男は「逃げ回るのは我慢できない、これで終わりにしたいからボコられてくる」と覚悟を決めて呼び出し場所に向かったのでした。

こんな話をすると、長男はいつでも夜中に遊びに出ていたというふうに感じられるかもしれませんが、それは違います。長男はそれまで外泊をしたことがないのは当たり前ですが、夜中に遊びに出るということは一度もありませんでした。ですから、この日遅くなってから友達の家に行くと言ったとき止めれば良かったのですが、春休みで友達が遊びに来ていたこと、高校進学が決まり、今が一番楽しいときであること、遊びに行くのは近所の友達の家であることなどの理由から、この日に限って私の考えも緩んでしまい、「今日くらいはいいかな」と心の奥で思ってしまったのです。だからといって夜中に出かける子供に、笑って「いってらっしゃい」と送ることはできなかったので、心では出かけることを許しつつも、口では「何でこんな時間に出かけるの」と怒りながら玄関から出る長男を見送ると、すぐに家から閉め出すかのようにガチャンと玄関の鍵をかけてしまったのです。

私はこのとき、長男が加害者たちに呼び出されていたことなど全然知らなかったので、長男が玄関を出るとき、どれだけの恐怖で、どれだけの勇気で、そしてどんな気持ちでいたのかさえ分からず、ただ夜中に出かけることを怒り、わざと聞こえるように鍵をかけてしまいました。長男にはその鍵の音が聞こえたのだろうか、長男はこのとき本当は母である私に助けを求めたかったのに、この鍵の音でその気持ちを遮ってしまったのだろうかと思うと、鍵をかけて閉め出したことを後悔するばかりです。今でも玄関に鍵をかけるときはこのときの感覚を思い出しますし、あのとき出かける長男を止めていればと、つらく悔しい気持ちがよみがえります。

長男が家を出てからちょうど1時間半くらいたったころ、長男と一緒に出かけた友達の母親から、「●●(長男)が大変」という連絡をもらいました。何が大変なのかも分からないまま、急いで現場となった小学校のグラウンドに行きました。グラウンドに着くと、長男はぐったりと地面に横たわっていて、名前を呼んでも何の反応もなく、私は何が起こったのか全然分からず、「どうしてこんなことに」と思うばかりでした。ただ、このときは長男の意識はなかったものの、顔が腫れていたり、大量の血が流れていたりということは全くなかったので、長男が死ぬなんて思いもしませんでした。でも、そのあと救急車が到着し、救急隊員が慌ただしく処置を始めたところ、瞳孔が散大していて危険な状態であるということを聞かされ、どんどん不安な気持ちになっていったのです。

病院に運ばれた長男は、救急隊員が言っていたとおり、いつ死んでもおかしくない、非常に危険な状態でした。わずかな望みをかけて頭の骨を外し、中にたまっている血を抜く手術をしましたが、脳の腫れがいつまでもひかず、ずっと頭蓋骨を外したままの状態でしたし、長男は目を開けることも、話すことも、一人で呼吸することもなく、ずっと意識が戻ることはありませんでした。そんな中でも長男は生きることをあきらめることはなく、危険な状態になっても私たちが必死に声をかけると、それにこたえるかのように持ち直しました。ベッドで横たわっている長男の手を握りしめながら、「絶対に大丈夫、元気になって家に帰ろうね、奇跡を起こしてみんなを驚かそう」などと励まし続けると、意識がないにも関わらず、大粒の涙を流してそれにこたえてくれました。

また、事件直後から、自宅や事件現場となった学校の周りにはテレビやカメラなどマスコミ関係者が押しかけて、普段静かな住宅街が騒然としていたそうです。そんな中、学校では先生たちが家から出ないようにと指導していたとのことでしたが、長男の友達はみんなで近所の公民館に集まり、長男の回復を願って千羽鶴を折ってくれたのでした。長男が病院に運ばれた次の日には祈りを込めて折った千羽鶴がなんと5,000羽も届きました。その千羽鶴には励ましの言葉や手紙が添えられていて、友達一人一人の長男を思う温かい気持ちが伝わってきて、本当にうれしかったです。長男の意識が戻ってその千羽鶴を見たらどんなに喜ぶだろうと思っていました。しかし、そんな家族や友達の願いが届くことはなく、事件から7日後、暴行による硬膜下血腫が原因で長男はたった15歳という短い生涯を閉じました。

長男は息を引き取るとき、意識はないはずなのに私の手をギューッと握りしめたのです。それはまだ死にたくないと言いたかったのか、加害者たちを許さないと言いたかったのかは分かりませんが、病院での7日間で顔の傷や腫れもきれいに治り、本当に安心した、笑っているような顔で息を引き取った長男を見ると、まるで15年間ありがとうと伝えてくれているようでした。

この亡くなった日は、ちょうど長男が入学するはずだった高校の入学式の日でした。その年は珍しく桜の花が例年より早く咲き始め、この頃には満開になっていました。長男も高校生になることを本当に楽しみにしていたので、その満開の桜の下、たくさんの友達と一緒に笑顔で希望の一歩を踏み出すはずでした。しかし、用意した新しい制服には一度も袖を通すことなく、亡くなってしまったのです。何も悪いことをしていない長男が加害者たちにどんなに謝っても許してもらえず、「勘弁してください」と何度も言いながら、たった一人で痛みや恐怖に耐えながら意識がなくなっていったのかと思うと、本当にいたたまれなく切ない気持ちになるばかりです。

今お話ししたのが長男の事件の内容ですが、このような事件や事故について毎日のようにテレビや新聞で報道されていますが、皆さんはそんなニュースを見てどんなことを感じているでしょうか。その被害者や家族がどんな苦しみや悲しみを抱えているか、その後どんな生活を送っているか、考えたことがありますか。事件の発生と長男が死んでしまったことは私たちにとって最大の悲しみでしたが、そのあと私たちの本当のつらさが始まったのです。

最初に訪れたのは司法解剖というものです。これは事件などで死亡した場合に、その原因をはっきりさせるために、体や頭を切り開いて中の状態を調べるものです。私は長男が亡くなったあと、1秒でも早く自宅に連れて帰りたいと思っていましたが、警察の人にこの司法解剖の実施をお願いされました。夫も私も、まだ長男が死んだということも受け入れられない状態でしたし、たくさん痛い思いをして苦しんだ長男の体にさらにメスを入れることに抵抗があり、司法解剖を拒否しましたが、「これはもう話せない●●君がどれだけ苦しんだか、どんな被害を受けたかを訴える唯一の方法です」と説明を受け、加害者の暴力行為を証明するために、この司法解剖を受け入れたのです。それでも長男の体にメスを入れるという決断は、親にとって非常に苦しいものでした。

次に訪れたのは、事件後に流れたテレビや新聞などの報道についてです。加害者たちは人を殺しても少年だからという理由で守られ、全てが明かされることはありません。でも、被害者の方は毎日何度も名前や顔写真がテレビや新聞に報道されるのです。長男の写真も事件発生後すぐにテレビで放送されたり、新聞に載ったりしました。また、近所に事実無根のうわさが流れたり、新聞等の報道で真実とは違ったことが伝えられたりして、周りにもこちらの思いは伝わらず、長男の方にも問題があったのではないかというような心ない言葉をかけられて、つらい思いもしました。

そのあと訪れたのは、だんだんと被害状況が分かってきたことで味わうつらさでした。長男が亡くなって3か月たった頃から始まった加害者に対する裁判で、長男がどれほどひどく殴られ蹴られたのか見えてきました。全く抵抗することのない長男に対し、加害者たちはまるでゲーム感覚で暴行を楽しんだと確信しました。裁判で初めて加害者たちを目にしましたが、本当に悔しくて、悔しくて、何度も「●●を返して」と叫びそうになりました。

そして私たち家族に訪れたのは、長男がいないという現実でした。時は傷を癒すという言葉がありますが、癒しきれない悲しみがあることを初めて知りました。みんなそうだと思いますが、どんなに嫌なことがあっても時間がたてば、あのときは嫌だったな、そんなこともあったかなと感じると思います。でも長男を失った悲しみはそんなものではありませんでした。時間がたてばたつほど長男がいないという現実が突き付けられ、どんどん悲しみが深くなり、やり場のない怒りや悲しみで頭がおかしくなりそうでした。長男はもう好きな物も食べられないと思うと、自分だけ食べることに罪悪感がわき、食事をする気にもなれませんでしたし、何を見ても、何をしていても長男のことが頭から離れず、何もする気になれず、心にぽっかりと空いた穴だけが残りました。

また、事件のあと、長男の夢をよく見るようになりました。長男の怪我が治って歩けるようになり喜んでいる夢や、長男が元気になってカレーライスやラーメンをおいしそうに食べている夢をよく見ました。夢の中で長男はうれしそうに笑っていて、みんなで良かった良かったと喜んでいるのです。目が覚めてもしばらくは記憶が混乱して、良かった、うれしいという気持ちが続くのですが、だんだんと現実に戻っていき、夢だったと気付くと、今まで以上に長男のいないことがつきつけられ、涙が止まらなくなりました。

長男には、当時中学1年生の妹と小学4年生の弟がいました。妹である長女は新しく中学校に入学したばかりであり、本来なら1日も早く新しい生活に慣れるように環境を整えるときだったと思います。でも、娘のことを気にかけるほど気持ちに余裕はありませんでした。弟である次男については、男の子というだけで私は長男の身代わりのように思っていました。今から考えると長男と次男は別の人間であり、顔も性格も全く違うのだから長男の代わりになどなれないのは当然のことなのですが、少しずつ成長していく次男の姿に長男を重ね合わせ、早く長男のように大きくなって、と思っていました。さらに、外出したときには長男がいつも中学校の学生服を着ていたこともあり、学生服姿の男の子を見つけると自然に目で追ってしまい、いるはずのない長男の姿を探していました。そして長男に感じが似ていると、うちの子にならないかと何度も言いそうになったものでした。冷静になると私は何をやっていたのだろうと思ってしまうような話なのですが、それほど私は長男の存在を求めていたのです。

こんな長男は私にとっての最愛の息子でした。我が家の長男として生まれ、小さいときからうれしいことや楽しいことがあると体全体で表現する、元気で明るい子供でした。仮面ライダーやウルトラマンなどの正義の味方が大好きで、変身ごっこをしたり戦いごっこをしたりしていました。元気いっぱいに動き回っていた長男でしたが、3歳の頃からぜん息になり、2週間おきに発作を繰り返して夜中に病院に駆け込むこともしょっちゅうでした。早く大きくなれ、早く丈夫になれと祈るように育て、長男は感情豊かな明るい子供に育っていきました。中学校に通う頃には心も体も丈夫になり、だんだんと頼もしくなっていくのがとてもうれしくて、長男の成長は私の生きがいとなっていました。そんな長男は私の希望であり、自慢の息子でした。

私なりに頑張って長男を育ててきたつもりでしたが、結局長男が一番悩んでいるときに、一番苦しんでいるときに、母親として気付いてあげることができませんでした。長男を守ってやることも、助けてやることもできませんでした。私たち家族から大切な長男を、そして当たり前の幸せを奪った加害者たちを絶対に許すことはできません。長男が味わったのと同じ痛み、同じ苦しみを味わわせて殺してやりたいという気持ちでいっぱいでしたし、この気持ちは今でも消えることはありません。私と夫は二度と同じ事件が起きないために、加害者にも周りの人にも罪の重さをしっかりと知ってほしいと思い、裁判で厳重処罰を訴えました。長男が死んだのに、普通に生きている加害者たちが許せませんでした。長男の一生を奪ったのだから、加害者たちにも一生つらい人生を送ってもらいたいと思いましたし、絶対に幸せになってほしくありません。加害者たちは、刑が終わったらそれで罪がなくなるわけではありません。加害者たちには、一生自分の罪の重さを見つめ続けながら生きていってほしいですし、一生長男の存在を忘れずに生きていくことが、長男と私たち家族への償いではないかと思っています。

私の家族は長男を失ったことで、それぞれ言葉では言い表せない感情を抱えてきましたが、周りの支えや協力によって少しずつ生活を取り戻していくことができたと感じます。私は当時もパートの仕事をしていましたが、とても働ける状態ではなく辞めようと思いました。しかし、辞めると言った私に職場の人は、「戻れるまで待っているから」と言ってくれたのです。結局、私はこの職場の温かい言葉に助けられ、仕事を辞めることなく2か月休んだあとに復帰することができました。復帰したあとも職場が病院の中にあるため、救急車が病院に着くたびに事件のことを思い出し、落ち込んだりふさぎ込んだりする日々が続きましたが、そんな私をみんなが温かく見守ってくれました。

また、事件のあとは私の親やきょうだいがいつもそばにいてくれました。私は生きる気力もなく、食べることも眠ることもできず、長女や次男の世話をすることもできませんでした。次男は小学生だったので、まだまだ手のかかる時期で、長女も次男もそれぞれつらさを抱え、気持ちも不安定になっていたので、いつも以上に生活面でも精神面でも私の助けが必要だったと思います。でも私は自分のことすら満足にできない状態であり、食事の準備や掃除など、普段の生活全てを全くする気になれませんでした。そんなとき、私のそばで助けてくれたのが私の親やきょうだいでした。私の代わりに食事を作ったり、掃除をしたりしてくれて、私の家族を支えてくれました。また、ときには長男を思って一緒に泣いたり、元気を出すために一緒に笑ってくれたりしました。

そして、子供たちにも助けてもらいました。当初、何をしていても頭に長男のことが浮かび、自然と涙が出てきてしまっていたのですが、2人の子供の前では泣いてはいけないと思い、頑張って泣かないようにしていました。しかし、トイレやお風呂、布団の中などで一人になるとやはり涙が出てしまい、こらえきれずに泣いてしまうときがありました。時々こんなふうに泣いている姿を子供たちに見られてしまうことがあったのですが、子供たちは黙って心配そうに私の肩をトントンと叩いてくれたり、わざと変な顔をしておどけてみたりしてくれました。この2人の子供がいなかったら、私は長男を失った悲しみから立ち直ることはできなかったはずですし、この2人の笑顔に支えられて今まで生きてきた気がします。2人の子供たちについても、それぞれが通う小学校と中学校で長男の事件が起きたことから、事件のあと学校生活が送れるかどうかと心配しました。しかし、学校の先生や優しい友達に支えられ、何事もなかったかのように通常の学校生活に戻ることができたのです。ここでもまた、周りの人に助けられ、感謝するばかりでした。

そして長男の友達にも支えてもらいました。長男は本当に友達が多く、みんなに好かれていました。毎年、命日には友達が来てくれます。私はそんな友達の成長した姿を長男と重ね合わせて、長男もこんなふうになっているのかなと想像してみたり、友達から私の知らない長男の一面を聞いて驚かされたりしています。

長男が二十歳になる年にとてもびっくりする出来事がありました。長男は15歳で亡くなったのですが、なんと長男の元に教育委員会から成人式のお知らせというはがきが届いたのです。同級生が参加する成人式に長男も是非参加してほしいという教育委員会の思いやりでした。私は夫と一緒に写真の中でほほえむ長男を連れて成人式に参加しました。成人式はスーツでびしっときめた男の子や、振り袖姿できらきらしている女の子であふれていて、私は長男が生きていたら今頃はスーツを着て誇らしげに成人式に参加していたのだろうなと思いました。会場で長男の友達を探しましたが、最後まで友達に会うことはできませんでした。長男だけでなく、みんなにとっても記念すべき日なので、それぞれが楽しんでいるのだろうと思い、寂しい気持ちを抱えながらもそのまま家に戻りました。友達と一緒に祝うことも、遊ぶこともできない長男がかわいそうになりましたが、その分家でお祝いをしようと思い、お赤飯を炊いていると、突然「成人式が終わってすぐに来た」と言って、スーツ姿の友達が12人も家に来たのです。本当に予想していなかった訪問であり、長男が忘れられていなかったことに感激し、うれしくて涙が出てしまいました。友達はみんなスーツ姿のせいか、急に大人びて見え、私の中で長男はいつまでたっても15歳のままですが、もう子供ではないのだなと実感させられました。この日は思いがけず成人式に参加できただけでなく、多くの友達と一緒に成人のお祝いができ、最高に思い出に残る一日となりました。ただ、やはりみんなが帰ってしまうと、言いようのない寂しさとむなしさだけが残り、どうして長男だけがいないのだろうと現実に戻されたりもするのですが、いつまでも長男を忘れないでいてくれることはうれしく、友達の成長が私の支えになっているのです。

このように多くの人に支えられ、なんとかこれまで生きてくることができました。長男はいつでも私たち家族を見守っていてくれると信じていますし、私たち家族や友達一人一人の心の中でいつまでも生き続けていると確信しています。当時小学生だった次男が中学に入学するとき、「お兄ちゃんの制服を着る」と言ったのです。長男の制服はあちこちほつれていたり、背中がアイロンでテカテカになっていたりしたので、周りが真新しい制服を着る中恥ずかしいのではないかと思い、新しい制服を買うことを勧めたのですが、「この制服を着ていればお兄ちゃんが守ってくれるから」と言い、結局中学の3年間ずっと長男の制服を着て過ごしました。いつまでたっても長男は頼もしい兄であり、私の大切な子供なのです。

最後になりますが、今日はこの講演をお引き受けするにあたり、研修担当の方から行政手続で困ったことや、こんな対応をしてほしかったということを話してほしいという御要望がありました。私たちの場合、事件後、葬儀会社の方で全ての手続をしていただいたので、市役所や区役所の窓口に直接行くことはありませんでした。ですから、市役所や区役所に何を求めれば良いのか、何を求められるのか分からなかったというのが正直なところです。ただ、私たちがもし当時事件直後に市役所の窓口に行って何かしら手続をしなければならなかったらと想像した時、長男の死を受け入れられない中、初めて会う職員の方に事情を話すことはとてもつらいことなので、事情は話さず必要な手続だけをしたかもしれません。ですから、対応してくださる職員の方には、窓口に来る人にはどんな背景があり、どんな困り事があるのかを考えて対応していただきたいと思います。

先ほども、市の教育委員会から成人式のはがきが届いたことをお話ししました。実は事件後の数年間、長男の命日には毎年教育委員会の方が自宅にお参りに来てくれていたのです。そして、成人式のはがきが事件から5年後の私たちの元に届いたのです。こういったことは私たち家族が教育委員会に求めたことではなく、教育委員会の方が長男や私たち家族のことを想って自主的に行ってくれていたことです。今は、私たちの方から教育委員会の方もお忙しいでしょうからとお断りして、命日に来てもらうことはなくなりましたが、そのときは教育委員会の方が毎年長男のことを忘れないでいてくれたことがとてもうれしかったのです。市役所の方、区役所の窓口業務の方も仕事によって対応する相手も異なると思いますが、こんなとき自分ならどう思うかを想像して、その人から申し出がなくてもその人に必要な情報を提供したり、その人が求めていることを考え、柔軟な対応をしていただきたいと思います。

また、市役所の方々は私たち市民の生活、暮らしに関わる仕事をされているので、事件の影響で私たち家族が生活上困ったことについても少しお話ししたいと思います。先ほど話したものと少し重なりますが、長男が入院しているときや亡くなったあとはとても仕事をする気にはなれず、2か月間仕事を休みました。当然その間給料はありません。それでも生活費はかかりますので、経済的な負担が大きかったです。また事件後、私たち家族は何も悪くないのに疎外感を感じ、孤独でした。知っている人に会いたくなくて、近くのスーパーに行くことすらできなくなりました。私の場合、この疎外感、孤独感が少し解消できたのは、ある方から紹介され、同じ境遇の人に会いにいき、話をすることができたからです。今の自分と同じような心を持っている人がいることを実感し、そのことが私を勇気づけ、つらさを共感して励まし合うことができたのです。これまで話したとおり、被害者家族にとって事件後に関わる様々な方の対応は、心情やそのあとの立ち直りに大きく影響します。このことを是非皆さんに知ってもらい、今後の仕事に役立てていただきたいと思います。以上で私の話を終わります。ありがとうございました。

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