第1章 損害回復・経済的支援等への取組

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1 損害賠償の請求についての援助等(基本法第12条関係)

コラム1 妹へ

公益社団法人くまもと被害者支援センター

犯罪被害者御遺族

私の妹は年齢的には四つ離れていました。

四歳の私は当時住んでいた、実家の近くの保育園に通っていました。

四歳というと、気になるような女の子もいまして、妹ができると知った私は『○○ちゃんと同じ名前がいい!』と、両親に話したのを覚えています。

妹は私たち兄妹の中では一番下で次女にあたります。八月生まれの妹はまるでひまわりのように、周囲を明るくしてくれるそんな子でした。末っ子ながら、とても周囲に気を遣える妹でした。両親や私や長女、あるいは友人や祖父母の誕生日には自分でためたお小遣いを使いプレゼントを買ってくれ、喜ぶ私たちの顔を見てもっと喜ぶような、そんな妹でした。

中学校・高校と進むにつれ、くだらない言い合いも減り、その代わり思春期特有の悩みが出てきたようでした。時折ですが、友人のこと、学校のこと、恋愛のことで相談のメールをくれることがありました。妹がそんなことで悩むようになったことに年齢の成長を感じると共に、兄として自分を頼ってくれることが嬉しくて真剣にアドバイスをしていました。そんな矢先の出来事でした。

妹が家に帰ってこない。

そう聞いたのは忘れもしない大学四年次のゴールデンウィークの日でした。

当時、私は中国地方にある大学の四年生で、卒業論文に追われていました。そんなさ中の父からの凶報でした。

『急いで警察に届け出たほうがいい』そうは父へ伝えながらも、「明日になれば帰ってくるだろう」と楽観的に考えていました。結果として妹はその約一か月後に無残な遺体として発見されることとなります。『やっぱり帰ってこん』翌朝、父からそう連絡を受けた私は、新幹線に飛び乗り実家へ急ぎました。実家に戻ってからの一か月は正直あまり記憶がありません。警察の方が自宅へ来られ、心当たりのある場所を探し、と目まぐるしかったはずなのですが、振り返るとほとんど覚えていないのです。「きっと帰ってくる」そう希望を持ち続け五月の下旬の私は大学のある街へ戻りました。講義も身に入らず、心配する日々が続きました。

そして、忘れもしない六月七日の日、父から『遺体で発見された』と連絡が入りました。直ぐに実家に戻ろうとしましたが、実家周辺にはマスコミがいる可能性があるので、長女が住んでいた寮に向かうこととなりました。駅からその寮までも高速で一時間以上かかります。事情を知っていた友人に迎えを頼み、新幹線に乗り込みました。学生の身分であった私にとって新幹線に乗るということは、帰省の一つの楽しみでもありました。普段駅に迎えに来てくれる、あるいは実家で待ってくれている家族みんなと過ごす時間が大好きでした。幼い頃から喧嘩ばかりでしたが、どんな時でも優しく、家の雰囲気を明るくしてくれた妹。自分が大学生になってからは、ちょっとしたお土産であったり少額ながらも兄貴ぶって小遣いを渡したり。それで喜んでくれる妹。

しかし、次に会ったときには、その笑顔を見ることも、「ありがとう!!にいちゃん!」の言葉も聞くことも叶いませんでした。DNA鑑定が行われ、見つかった遺体がはっきりと妹であると確認された時、父だけが泣いていました。私と長女は涙が出ませんでした。あまりにも現実味がなく、そこに自分はいるのだけれど、まるで夢でも見ているような、そんな気分でした。

その後しばらくして、遺体が見つかった現場に警察の方と行くことになりました。とても奥深い山の中。木の根元に横たわっていたそうです。しかし、その現場まで行くことはできませんでした。やはり、発見現場にもマスコミが来ていたからです。警察の方々の御配慮で、車の中から説明を受けただけでした。そして、警察署の安置所で、約一か月ぶりに遺体袋に入れられた妹と扉越しに対面しました。遺体を直接見たわけでもなく、DNA鑑定のみでの妹の死。まったく現実味のない話でしたが、安置所の扉の向こうには確かに妹がいるのだと、警察の方々は仰います。しかし、扉を前にした途端、私も長女も父も涙が止まりませんでした。約一か月越しの妹との対面は、あまりにも残酷で、非現実的で、信じられませんでした。もちろん父や長女にとってもそうです。三人で扉の前で声をあげて泣きました。もう二度と笑顔の妹には会えないのだと。もう二度と、話すことも、触れることも笑いあうこともできないのだと。初めてはっきりと実感した瞬間だったのかもしれません。

警察の方によると、外見からの判別は難しく、髪の毛も一握りしか残っていなかったと聞かされました。長女としては、『ちゃんと確認しないと信じない!信じられない!』と気持ちが強くあったようです。しかし、キレイ盛りだった妹。化粧やおしゃれを覚え始めていた妹。そんな記憶に残る可愛らしい妹のまま天国に送り出してあげようと説得しました。

葬儀の前夜、つまり通夜の日でした。荼毘にふす前にもマスコミが大勢家の周辺にいるからと結局自宅には帰れませんでした。しかし、妹は母からもらったぬいぐるみや、小物等を持っていましたので、兄としては何とか一緒に天国へ送ってあげたいという思いがありました。深夜に友人と二人、まるで泥棒のようにこそこそと自宅へ戻り、ほんの少しではありますが妹の持ち物を運び出しました。自宅に戻るのにもなぜこのように人目をはばからなければならないのか、とても悔しい思いをしたのも覚えています。

荼毘にふし、お骨の状態になった妹。お骨での葬儀でしたが、葬儀にはたくさんの方々が参列してくださいました。ここまで大勢の人に愛され、育てられた妹がなぜ、あのようなむごい仕打ちを受けなければならなかったのか。釈然としないまま葬儀を終えました。

葬儀を終え、皆様温かい言葉をかけてくださいます。『しっかりしなっせね』『いつまでも悲しんでると天国で妹さんが悲しみなるけんね』と気にかけてくださいます。しかし、私としてはこの時間が苦痛で仕方がありませんでした。果たしてどれだけの人々が、妹の苦しみをわかっているのだろうと。無責任な言葉をよく吐けるなと。当時は思っていました。特に辛かったのは『お父さんをしっかり支えてあげてね』の一言でした。では、私と長女のことは一体誰が支えてくれるのかと…。父だけが、母だけが苦しいわけではないのです。兄である私、姉である長女、兄弟姉妹も同じだけの悲しみを背負っているのです。たかが、一言です。父を思いやってかけてくださった言葉でしょう。しかし、ほとんどの方がこの言葉を仰います。涙をこらえて、来てくださった方を見送る中で、私と長女に何人も、何人も。もちろん、辛かったね。きつかったね。と私たちを思いやる言葉もありました。しかしその後に、『でもお父さんもつらいからね。しっかりね』と父への言葉が続きます。同じだけの辛さを遺族は抱えていることを知ってほしかった…。

事件に関して、妹の事件が発覚してから【くまもと被害者支援センター】から二名の支援員の方が、私たち遺族の支援に携わってくださっていました。裁判の手続や流れ、その他の事件に関することを支援してくださいました。支援員の方々は、私も父も同じ遺族として扱ってくださったように思います。

そして、私は裁判にも参加をしました。父と検事と同じ場で、被告の男が裁かれるのを待ちました。ある日の日程では、自分でも気付かないほど精神的に参っていたのでしょう。呼吸することもままならなくなり、救急搬送されました。父には裁判に残ってほしいと伝えたのですが、自分に付き添ってくれました。このことに関しては今でも申し訳なく思っています。

そして、私が退院する日が判決の出る日でした。私は裁判所に向かいタクシー内のラジオで判決を知りました。求刑より短い懲役刑。裁判は遺族のために行うものではありません。権利・理非に関する争いを、法の適用によって解決すること。また、その過程。だそうです。裁判員制度での裁判でしたが、一般市民が参加することも、裁判を行い被害者遺族の意見陳述も意味がないものだと痛感しました。私にはこれと言って法の知識があるわけではありません。しかし、手続にのっとって粛々と判決を出す裁判は無意味であると思います。過去の判例と照会し、判決を出す裁判長。私が病院に運ばれた時も最後まで気付かなかった裁判長。思い出しても腹が立ちます。所詮は仕事なのでしょうね。

犯人に対してもそうです。十八年の実刑判決が出たにもかかわらず、拘置所内で自殺した犯人。もちろん裁判では極刑を遺族は望みます。それでも、限りある十八年という実刑に対して、妹の死に対して、犯人にはきちんと向き合ってほしかった。その十八年すら妹は生きることができませんでした。これから就職し、家庭を作り、人並みの幸せを得ることすらできなくなった妹。自分の罪に対し、考えることを放棄し、自ら命を捨てた犯人。妹は生きたかったはずです。生きていたかったはずです。その命を簡単に捨て去った犯人。当時は、言葉では形容しがたい負の感情が湧きあがっていました。

妹に関しても、少なからず叱ってやりたい気持ちはあります。見知らぬ人と会うことの危険さ。高校生にもなって分からなかったのかと。しかし、反面、それを伝えてこなかったのは残った家族の責任です。もっともっと話をするべきでした。

社会は加害者に甘く、被害者遺族に優しくはありません。加害者は法に守られますが、被害者遺族を守ってくれるものはありません。もちろん警察の方、検事の方、被害者支援センターの方。様々な方々が私たち遺族を支えてくださいます。事件から数年たった今では一部のマスコミの方への印象も随分と変化がありました。報道の自由を語り、土足で気持ちを踏みにじろうとするマスコミの他に、使命感を持たれた方もいらっしゃいました。妹の命日には手紙や花束を贈ってくださり、遺族と向き合いながら、事件を風化させまいと、思いをもって関わってくださる方。そういった方がいらっしゃることも私たち遺族の大きな支えとなっています。私たちは一人ではないということを知らせてくれます。妹のことを知ってくださる皆様一人一人が妹が生きていたという証です。

実際問題、私自身もテレビやインターネットで報道される悲しい事件に関しても一定の関心は抱きながらも、あくまで他人事であり、画面越しの現実味のないものとして感じていました。妹のこととして、家族のこととして経験したときに初めて、現実にあることなのだと痛感します。世間の大多数の方々は、おそらく事件にあう前の私と同じ感覚であろうと思います。だからこそ、そうならぬように。事件の当事者となってしまった私から、妹のことを伝えていきたいと思っています。それが兄貴としてできることだと思っています。

最近では妹の声すら思い出すことが出来ません。失ったものばかりのこの数年でしたが、いまだに夢で妹のことを見ます。夢の中で会える妹は一番元気だった小学生時代の姿が多いような気がします。元気な声で『お兄ちゃん!遊ぼう』と声をかけてくれます。もちろん目が覚めると声は覚えていません。本当は一緒に酒を飲みたかった。自分の運転する車に乗ってほしかった。自分に子供ができたら抱いてほしかった。もっともっと話をしたかった。なんでもいい。生きてさえいてくれたら。兄貴として何もしてあげることができませんでした。それでも、妹が生きていたんだという証を残したい。その思いで今回手記という形で記させていただきました。

一人でも多くの方にこの証が届くよう。伝わるよう。願ってやみません。

兄貴より

生まれ変わっても、また、家族に。

※  「犯罪被害者の声第13集」のために、公益社団法人くまもと被害者支援センター発行の手記集「もう一度、微笑んで‐ 第八集‐ 」掲載の手記に加筆修正されました。

公益社団法人全国被害者支援ネットワーク発行
「犯罪被害者の声第13集」より

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