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第2章 精神的・身体的被害の回復・防止への取組

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1 保健医療サービス及び福祉サービスの提供(基本法第14条関係)

講演録 過去とともに生きるということ~性暴力サバイバーの闘いと回復~

工藤 千恵(性暴力サバイバー、大分県男女共同参画審議会委員)

工藤 千恵(性暴力サバイバー、大分県男女共同参画審議会委員)

初めまして、性暴力サバイバーの工藤千恵と申します。きょうは私が経験した被害のことや、その後の回復の道のりなどをお話ししたいと思います。

もうすぐ11月12日ですが、私は毎年この日に特注のケーキを買います。実は、私が被害に遭った日です。どうしたって、その日は必ずやって来ます。だとしたら自分から待ち構えてしまいたい。そう思って回復してきた自分を祝う、二つ目の誕生日にしようと決めました。ケーキの上に「Happy Re Birthday」と書いてもらうのが、お決まりです。「Re Birthday」には再生・復活・再誕の日という意味合いがあります。

あの日から42年がたちました。8歳の時、塾の帰りでした。一人で歩いていると見知らぬ男に手首をつかまれ「声を出したら殺すぞ」と言われました。「助けて」と声を出そうにも出ず、ビニールハウスのすき間に押し倒されました。ただただ怖かったです。

通りかかった人が通報してくれ保護されました。私は泣くこともなく茫然としていました。警察で私だけ殺風景な部屋に通され男性警察官にたくさん質問されました。今受けたばかりのことを話すのはつらくて、まるで責められているように感じたのを覚えています。

両親と家に帰って、やっと母に言えたのは「私、汚れてしまった」でした。母がお風呂で「きれいになるからね」と優しく洗ってくれました。うれしかった記憶ですが、そうしてもらったことで、やっぱり私は汚れたんだと思いました。

翌朝の新聞に小さな記事で載りました。「A子ちゃん8歳」というふうに出ました。母に言われて学校に登校しましたが、教室に入ると質問攻めに遭いました。「知らない、私じゃない」と言うしかできずに、その日から心を閉ざしました。学校では今まで通りにしましたが、また聞かれるかもしれないとビクビクして、どうしたら目立たないか、そんなことばかり考える毎日でした。

家では温厚な父が大声で怒鳴るようになり、ショックでした。なので、いつまでも落ち込んじゃいけない、何事もないように振る舞おう。心も体も感覚をなくしていきました。

中学生になって、みんなもあのことは忘れているだろうと、前向きに学校生活を送っていました。そんな中、2年生の時に友達とおしゃべりをしていて「小学3年生の時に事件あったよね」と突然聞かれました。目の前が真っ白になって、音を立てて何かが崩れるような気がしました。私は一生、被害者のレッテルを貼ったまま生きるしかないのかと思いました。やり切れずに非行に走りました。お酒を飲んだり、高校生のバイクに乗せてもらって事故で死ねたらと思ったりしました。3年生になると体が女性らしく変化してくる。きっとまた被害に遭う、自分のいやらしい体のせいだというふうに感じました。スカートをはかず、赤やピンク、花柄、レースは嫌い。胸をつぶしたくてサラシを巻いたりもしました。

高校でも部活で青春らしい時間を過ごすとか、勉強に集中するとかもできませんでした。

高校卒業後、人生をリセットさせたくて東京に進学しました。うまくいくと思ったんですが、体が悲鳴を上げ始めました。体重が10キロ減り、あばら骨が出て痛くて寝返りができないほどに痩せ、生理も止まりました。18歳の時に初めて病院に行きました。体調不良が被害とつながっているとは思わず、ホルモン注射とかの治療を受けましたが、副作用で肌がボロボロになりました。子宮の病気になって、子どもは産めないかもしれないと宣告をされ、自分の人生が終わったようにも感じました。そんな中でも進学した学校で映画に出会ったのが、私にはとても大きなことでした。週に5本は映画を見る生活で、映画の登場人物をとおして感情の疑似体験ができるのが新鮮でした。自分の中に感情があることを思い出し、生きている感覚になった。映画は回復へ向けての一つのツールだったのかなと思います。

もう一つ回復のきっかけは交通事故。20歳の時に横断歩道で車にはねられ、奇跡的に助かりました。こんなことが起こっても私は死なない。ずっと死にたいと思っていたけれど、死ぬことを前向きに諦めた自分がいました。

何か吹っ切れた気がして、仮面をかぶって自分を押し殺してきたのが、バカみたいと思ったんですね。好きなことをしたいと、旅に出たり、おいしいものを食べたり、自分のために生きることができるようになりました。

21歳の頃、高校の同級生だった今の夫と再会してお付き合いが始まりました。それまでは男性とのお付き合いや結婚なんて無理だと諦めていました。性暴力の被害を初めて話した相手も彼でした。一緒にいる時にフラッシュバックが起き過呼吸になり涙が止まらなくなった時でした。彼は少し驚いた様子でしたが、「大丈夫」と言って体を優しくさすってくれました。汚れ物のように扱われなかったことがうれしかった。否定されず受け入れてもらった初めての経験で、自分を自分が認めて受け入れるきっかけにもなったように思います。

回復の道を歩み始めたんですが、スムーズにいかないのも現実です。買い物依存症、アルコール依存症、性依存症で自分を見失いました。今では回復過程でさまざまな依存症になることもあると知っていますが、当時は情報がなかったのです。

もう一つ、私を苦しめたのは幸せへの恐怖です。少しでもいいことが続くと、幸せになれるはずがない、この幸せもきっとなくなってしまうと感じ、自分から壊していました。

25歳で結婚しました。生活は大きく変わりましたが、依存症は完治したわけではなく、衝動を抑え込もうとして反動が出て、家事もこなせない新婚生活でした。そんな中、奇跡的に子どもを授かり、子どもの世話をすることで人間らしい生活を送れるようになりました。

子どもの手が少し離れたかなと思い始めた頃、娘が8歳になりました。すると、8歳、8歳という年齢が私の中をグルグル回り始め、事件を思い出し落ち着かなくなりました。娘も被害に遭うかもしれないと不安が膨らみ、学校から帰宅が遅くなるとパニックになる。過呼吸で病院に運ばれることもあり、気持ちも体も疲れ果ててしまいました。でも、本当に不安だったのは夫や娘のはずです。そう気づいた時に8歳の娘に自分の被害のことを話したら「理由がわかってほっとした」と言ってくれました。私の症状も落ち着いてきました。

40歳を迎えて大きな転機がありました。客観的に過去にも向き合えるようになり、自分と同じような当事者に会ってみたいと、ネットの検索で団体を見つけ大切な仲間に出会いました。過去を振り返りながらも明るく共感し合える時間は私の心を溶かしていきました。地元で犯罪被害者支援ボランティアの研修を受けたところ、支援センターの方に声をかけていただき、2014年春に人前で初めて被害経験を語りました。間もなく地元の新聞社から取材依頼があり、記事が大きく載りました。以来、全国を講演に歩いています。性暴力は別世界の出来事ではないと感じてもらうために実名で活動をしています。

ただ、赤いワンピースを着て講演に行くと会場に戸惑いが広がるのを感じます。「被害者は被害者らしく」という偏見があるのだと思います。「かわいそうな人」のレッテルを貼られ、社会が思う被害者像を求められ過ぎると、笑ってはいけない、幸せになってはいけないと思い込んでしまいます。偏見が被害者の生きづらさを生んでいることを知ってほしい。

今は表面的には何事もなかったように過ごせています。ただ、後遺症が何もないのかというと、実はそうではありません。突然、涙が止まらなくなり、男性の大きな声でパニックになりそうな時もあります。完全に元に戻れないのも残念ながら現実です。乗り越えたものはたくさんありますが、苦しみがゼロになることもない。だからといって、人生は終わりじゃないと思っています。何の問題もない私になることは難しいですが、症状と付き合って幸せに生きることはできる。そのことを私の生き方で証明できたらと思っています。

サバイバーさんには「生きる力・回復する力・幸せになる力」があって、トラウマや苦しみを持ったままでも心から笑える日を迎えることができる。回復の先には光があるんだと伝えていきたいなと思っています。過去は変えられないけれど、未来はきっと一つではないし、変えていける。性暴力の被害者も加害者も傍観者も生まない社会になるように、一緒に考えてもらえたらと思っています。

※ 本講演録は、「全国犯罪被害者支援フォーラム2022」における犯罪被害者による講演「被害者の声」の概要をまとめたもの。

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