警察庁 National Police Agency

犯罪被害者等施策  >  犯罪被害者白書  >  令和4年版 犯罪被害者白書  >  講演録 犯罪被害者が前に進むために~突然の犯罪被害、衝撃と絶望の中で様々な対応に追われた日々を振り返って~

第3章 刑事手続への関与拡充への取組

目次]  [戻る]  [次へ

1 刑事に関する手続への参加の機会を拡充するための制度の整備等(基本法第18条関係)

講演録 犯罪被害者が前に進むために~突然の犯罪被害、衝撃と絶望の中で様々な対応に追われた日々を振り返って~

澤田 美代子(犯罪被害者御遺族)

澤田 美代子(犯罪被害者御遺族)

本日12月1日は私にとって忘れられない日です。13年前の2008年12月1日から犯罪被害者が刑事裁判に参加できる被害者参加制度が始まった日であり、犯罪被害者遺族となってしまった私達がこの制度のことを全くと言っていいほど知らなかったにもかかわらず、裁判参加を前提に支援しようと考えてくださった弁護士さんが家まで来てくださった日でもありました。

事件に巻き込まれてから3週間、その時期、悲しみが深く、絶望感が増していました。事件の被害者となってしまった亡き息子の高校時代の恩師が被害者支援に力を入れておられた弁護士さんへつないでくれた結果、新しい制度の始まりの日に、私達は先生と初めてお会いすることができました。その先生の紹介でもう一人の先生も加わり、お二方の支援を受けて、刑事裁判に参加するということが実現できました。犯罪被害者という、考えもしなかった立場になってしまった私達家族が、事件後、前に進む大きなきっかけになったと思っています。

【事件の発生】

私の次男、智章、当時24歳は2008年11月10日の夜、会社から帰宅するため、徒歩で同僚の方と駅へ向かっていたところ、当時19歳の少年が運転する軽トラックにはね飛ばされ、翌朝、息を引き取り、殺人事件の被害者になってしまいました。

あの日の朝、息子は「行ってきます」と言って、私は「行ってらっしゃい」と送り出し、それが親子の最後の会話となってしまいました。元気な姿を見ることができたのは、そのときが最後になってしまうなんて、息子は人生を絶たれ、残された私達家族みなの人生も変えられてしまいました。

夜8時ごろにかかってきた電話、「智章さんが事故に遭われました」。一瞬、エッと言葉に詰まり、そのあとは心臓の鼓動が高まっていきました。主人は台所で電話を受けていた私の様子に何か異変を感じたと思います。すぐに、「智章が事故に遭ってしまった」と伝え、それまでの雰囲気が一変しました。それからはショックを受けた状態で、次の電話を待ちながら、何を準備すればいいのか、気が動転して、判断もつかない。そして、電話が入り、「病院に運ばれます。すぐに向かってください」と伝えられました。

晩酌して運転できない主人に代わり、私が運転席に乗り込み、状況が分からないまま病院に向かいました。一、二度は行ったことのある病院でしたが、衝撃と不安で体は震えながら、ハンドルを握り続けていました。息子の状態はどうなっているのか、運転しながら、早く子供に会いたい、どんな怪我なのか自分で確認したい。そのときは、たとえ重傷であったとしても、まさか死に至るような怪我ではない、勝手に思い込んでいました。そうあって欲しいという気持ちが強かったからだと思います。

事故を起こしたら、息子のところにたどり着けない、落ち着かなければ、自分に言い聞かせながらも焦る気持ちもあって、途中、道を間違えてしまい、1時間余りかかって駐車場に着き、必死に救急救命棟の入り口まで走りました。ドアが開き、その場の光景は、それまで思っていたことが一瞬にして変わるものでした。大きなビニール袋に息子のものと思われるシャツ、ズボン、片方だけの靴等が入れられてあるのを目にした途端、大変なことになっていると直感しました。周りには警察官2、3名、勤めていた会社の方々が3、4名、一様に無言で立ち尽くしていました。私達は息子の容体の説明を受けるために呼ばれました。出血がひどいので止める手術をするなどの説明を受けたものの、救命医の苦渋の表情に不安が増して、内容がほとんど耳に入ってこず、先生が説明の最後に言われた言葉だけが記憶に残っています、「若さに期待しましょう」と。その直後、ストレッチャーに乗せられ、顔面蒼白の息子を呆然と見送るしかありませんでした。朝、いつものように元気で出ていった息子とは信じられないほど変わり果てた姿、状態でした。

日付が変わった午前1時半ごろ、警察官から単なる轢き逃げ事故ではなく、故意にはね飛ばした殺人未遂事件ですと報告を受けました。犯人は19歳の少年、名前も判明、少しずつ真相が明らかになっていき、怒りを通り越して、言葉にできないほどの衝撃を受けました。でも、そのときは息子が助かってほしい、その気持ちのほうが強くなっていました。備え付けられていた心電図、脈拍を表す機械の表示からも、容体が悪化していくのを目の当たりにしていました。

その後、再び先生から容体の説明を受けるために呼ばれました。私は先生の険しい表情から、息子はもう助からないと悟りました。意識もないような息子が横たわるベッドの両脇で、主人と私は息子の手を握っているくらいしかできませんでした。看護師さんが呆然としていたであろう私達に言ってくださった「声を掛けてあげてください。耳は最後まで聞こえていますから」と、何か言いたかったのか、訴えたかったのか、息子の片方の目はかろうじて開いていました。信じられない息子の姿、私は一言二言やっとの思いで話し掛け、主人は看護師さんの言葉に「頑張れ、頑張れ」から、次第に名前を呼び続けていました。私はそこに無言で横たわる息子が昨日の朝、元気に出掛けて行った我が子だと信じたくありませんでした。医師から死亡宣告されてしばらくして、刑事さんから事件なので司法解剖しますと言われたことにも動揺しました。事件で酷く体中、傷ついてしまった我が子の体に、更にメスが入ることがかわいそうでならなかったのです。

我が子の死を、親戚や予定があった関係する方々に連絡することも本当につらいことでした。「智章が……」、その次の言葉がなかなか言えない。事件に巻き込まれて殺されてしまった。今も口にしたくない、できない言葉です。病院でのあの時間を思い出すたび、犯罪被害者、遺族が受ける残酷さがどれほどのものかということを身をもって知りました。警察車両で運ばれていく柩を目にしたとき、それが現実なのか、悪夢の中にいるのか分からなくなりました。そのあとを追うように、私達が警察署に向かう道すがら、青空が広がっていたあの朝は、深い悲しみと苦しみの始まりとなってしまって、生涯、忘れることはありません。

【刑事裁判】

葬儀が終わったあと、亡き息子の恩師から電話をいただき、「これは事件だから20日以内に弁護士と連絡をとったほうがいい」と助言があって、弁護士さんとつながることができました。もし、早い段階でお二方に出会えなかったら、少年審判傍聴と、被害者参加制度を利用して刑事裁判に参加することができなかったのではないかと私は思っています。現在のように、以前に近い生活を送っていたかさえ分かりません。

事件から1か月も経たない日に、最寄りの警察署において私への事情聴取がありました。検事さんを前に、泣きながらやっとの思いで、突然、犯罪で子供を失ってショックを受けている心情等を話しました。その日、帰り際の駐車場で、事件の担当刑事さんから「何でも言ってください」と声を掛けていただきました。その言葉には、私達への気遣いと、見守っていますからとのメッセージが込められていたように感じました。支えられているように思った、心に残る言葉でした。

検事さんから「本日、起訴しました」と連絡がありました。そのとき、これから裁判準備が始まる、被害者参加制度についてまだわずかなことしか分かっていませんでしたが、心に決意した日でした。検察庁と弁護士さんの事務所へ行くことが増えていきました。回を重ねるごとに、制度のことも分かっていき、弁護士さんお二人の、息子や私達に対しての深い理解と熱意も伝わってきたことが思い出されます。弁護士さんは裁判で「智章君の生きた証として写真を法廷に出しましょう。どんなに一生懸命生きていたかを表す裁判にしましょう」と言ってくださり、私達家族もどんなにか無念であろう息子のために、今やれることはこの裁判参加しかないという気持ちが高まっていきました。

初公判の日、我が子の命を奪った加害者が5人もの刑務官に囲まれて入ってきたとき、私は大変な裁判になるかもしれないと思ったことを記憶しています。息子の無念を晴らすためにも最後まで頑張ろうと思いました。

弁護士さんお二人との打ち合わせのとき、先生が「智章君は寄ってたかって殺されたようなものだ」、そう言われたことは事件の悲惨さ、憤り、無念を表していると思ったことを忘れません。被告人質問は主人と私がそれぞれ質問しました。弁護士さんとその場を想定して練習もしていました。被告を怒らせないように、そして本音を聞き出すためには、優しく、分かりやすい言葉で語りかけるように。それは我が子の命を奪った犯人に対して、そうしなければならないと分かっていても、正直悔しくて、つらかったです。でも、それが功を奏して、スラスラと答えました。それまで、反省の態度も感じられず、弁護人や証人として出廷した方の言葉に激昂し、退廷させられたりを繰り返していた被告が、私達の質問に答えたというのは、奇跡に近いと思いました。その後も法廷の机を蹴飛ばしたりして、私達家族5名の意見陳述の際には、また退廷していて、遺族の悲しみ、苦しみの心情は届くことはなく、そのことも今でも悔しいことです。

求刑意見も家族が分担する形で述べました。無期懲役、どんなに願っても息子は戻って来ない。判決の日、私はいくら少年であっても、人の命を何とも思わない、何度も暴れ、裁判長にも暴言を吐く、世の中、特に地域の人々に不安を与える言葉を繰り返していた被告には、私達の求刑意見も反映するかもしれない、そんなかすかな望みも持ちながら、判決を聞きました。5年から10年の不定期懲役刑。がっかりした、次には虚しささえ感じました。反省もせず、法廷という神聖な場所でも暴れた被告、どんなに残虐という言葉があっても、「更生を望む」という言葉で判決文は終わりました。

【犯罪被害者が前に進むために】

我が子が犯罪の被害者にならなかったら、今はどんな人生を歩んでいただろうか。事件後、息子のアルバムをめくり、部屋に残されていた手帳等から将来のことをいろいろと計画していたことが分かりました。小さいころは体が弱ったけれど、少林寺拳法と出会ったことで心身ともに鍛えることにつながって前向きになり、いろいろなことに挑戦していました。将来に向かって目標を持っていた息子の人生が断ち切られた。親としてそのことが一番かわいそうでなりません。

息子は、あの夜、自分の身に何が起こったのか、自分はどうなってしまうのか、薄れ行く意識の中で何を思っただろうか。私は何度も何度も思い続けました。もし、かなうことなら会いたい、話がしたい、何年経とうとその気持ちは変わらずに心の中にあります。息子の無念は親の私達でも計り知れません。それを思ったとき、親としてその無念の幾らかでも表していこうという気持ちが湧いてきました。千葉県警の犯罪被害者支援室の取組で、これまで主に千葉県内の中学校、高校で命の大切さを伝える授業に参加してきました。生徒さん達に家族の大切さ、そして他人の命も同じように大切に思うことが伝わってくれればいいという思いで続けてきました。私自身もこの活動で生徒さんから元気をもらい、時には感想を寄せてもらうことで、自分のほうが勇気をもらいました。そのような貴重な経験も前に進む力になりました。千葉犯罪被害者支援センターでは、犯罪被害者遺族として各自治体の犯罪被害者支援室窓口担当の方々や犯罪被害者支援員としてボランティアを志し、養成講座に参加される方々へ被害の経験等をお話しする機会があります。そのことで事件、事故の被害者の心情、実態が伝わって、その方々によって被害者の直後からの支援につながることを願って参加しています。できることなら被害者遺族が出ないような世の中になってほしい、切に願うことです。

犯罪被害者が少しでも早い段階で被害者参加制度のように利用できる制度にたどり着けるような支援も重要だと思います。それには、生活の面でも早期のきめ細やかな支援があってこそ、裁判参加等を望む方々の気持ちも救うことにつながることだと信じています。多くの皆様の御努力で犯罪被害者支援はとても進んできたことを、私自身、この13年の年月で実感してきました。社会でも犯罪被害者支援について知られるようになってきました。更に犯罪被害者支援の気運が高まっていくことを願っています。これからも警察をはじめ、関係各所のより深い連携のもと、社会の変化に即した支援を心から願っています。

※本講演録は、令和3年度犯罪被害者週間中央イベントにおける講演の概要をまとめたもの。講演の全文は、警察庁ウェブサイト「犯罪被害者等施策」(https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/kou-kei/houkoku_r3/chuou_giji_kicho.html)を参照。

目次]  [戻る]  [次へ

警察庁 National Police Agency〒100-8974 東京都千代田区霞が関2丁目1番2号
電話番号 03-3581-0141(代表)