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犯罪被害者等施策
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地域の事業主に対する犯罪被害者等支援講演会



日時:平成21年7月14日(火)17:30~18:30
会場:ダイヤモンドホール(茨城県筑西市玉戸1053-4)


テーマ:「あなたの支援を 必要としている人へ」
高橋 シズヱ氏(地下鉄サリン事件被害者の会 代表世話人)
高橋 シズヱ氏 講演会の様子

○講演要旨(講演資料)
プログラム [PDF:336KB]レジュメ [PDF:190KB]配布資料 [PDF:454KB]

皆様こんにちは。ご紹介いただきました高橋です。

5年前なんですけれども、私は銀行の営業所で事件が起きたことを知りました。警察からの電話連絡ではなくて、テレビを見ていた妹からでした。主人の職場には家族の緊急連絡先が届けてあったはずなのですが、銀行の私への連絡はありませんでした。事件が起きたことが分かってからまもなく、銀行のロビーに電光掲示板があって、そこにどんどんニュースが文字で流れていきました。私がどうしていいのか分からずにいると、副支店長さんが銀行の車をすぐ出してくれまして、病院まで付き添ってくれました。子供たちも職場の人たちに送ってもらって病院に駆けつけてきました。今は、警察から事件の連絡を受け、病院に付き添ってくださいっていうと、支援者とか警察の方が付き添って、その事件現場なり病院なりに連れていってくれると思うのですが、地下鉄サリン事件みたいに大量に被害者が出た場合は、なかなか手が回らなかったりすることもあると思いますので、そういうときには身近にいる職場の方々の力が必要になるかと思います。

私が病院に着きますと、廊下も診察室も分からないくらいに、すごく混雑していまして、上司がいなかったら私は主人が搬送された個室にまでたどり着くことができなかっただろうと思っています。病室にはもう冷たくなった主人が横たわっていました。長男がベッドのそばにいました。長男も地下鉄に勤めていてすぐに病院に来て、先生が蘇生処置を行って、心臓マッサージとかやっていたのを見ていたわけです。私が冷たくなった主人にすがって泣いていたら、長男は「お母さんもう泣くのやめなよ。僕だって我慢してるんだから」と言ったことだけ、私も覚えているんですけれども。

被害者支援の一つにPTSDのような精神的な被害を回復するためのカウンセリングサービスというのが行われていますけれども、私はこの長男にはカウンセリングが必要だったのではないかと今は思っています。しかし当時は何も分かりませんでしたし、そういう研究もそれほどなされていたわけではありませんので、精神科に連れて行くということもありませんでした。今は長男も一切事件に触れようとしません。

それから大きな事件とか事故で被害者や遺族が必ず遭遇するのがメディアスクラムです。主人の遺体は病院から警察に移されて検視が行われて、私は夜になってから家にたどり着いたのですけれども、家の前でまさかと思うような光景がありました。いわゆるメディアスクラムといわれるものですけれども、家の中に入ることができませんでした。自分の家に入れないという不愉快さで、すごくイライラしました。後になって考えれば、遺族としても被害者の会の代表世話人としても、メディアの力というのは非常に重要になってくるわけです。そしてまたメディアも事件直後は何が起きたのかをすぐ報道しなければいけないのは分かるんですけれども、とにかくメディアとの最初の出会いは、非常によくない出会いでした。

被害者が、事件現場に行くときにも必ずそうやってメディアに阻まれるのですけれども、心無い言葉もかけられることがあります。中華航空機事故のご遺族はご主人と両親の3人をいっぺんに亡くされた方で、ご遺体が搬送されたのが飛行機の格納庫なんですけども、そこに駆けつけるときに報道陣に捕まってマイクを突き出されて「ご遺族ですか?」と言われ「まだ遺族かどうか分かりません」と言ったんです。こういう気持ちお分かりいただけるかと思うんです。まだ家族の死を自分で確認していないのにメディアからは「ご遺族ですか?」って言われる。そういう心境にはとてもじゃないけどなれないということです。

遺族や被害者が病院とか警察にいるときに、本人に代わって警察とか支援者の方、勤務先でしたら職員の方が窓口になることもあると思うんですけども、そういうときに遺族とか被害者が取材を受けたくないと言っていたとしても、それが「今は受けたくない。今は受けられない」っていうことだと思っていただきたい。今っていうのがいつまで続くのか分かりませんけれども、遺族が取材を受けなかったがために、警察発表が記者の勝手な言葉に置き換えられて報道されてしまったり、近所の人のうわさ話が一人歩きするようなことが時々起こります。あるいは加害者の関係者が言いたい放題を言って、それが周知の事実になってしまうということがあって、遺族が気づいたら、もう取り返しがつかないような状況になっていることがあります。ですから、メディアと被害者の仲介に入る場合には、取りあえず記者の名刺を受け取って被害者に渡したり、あるいは被害者のコメントが出るようでしたら代読するなどして、遺族が望めばその後いつでもメディアとのコンタクトが取れるような状況を作ってほしいと思います。

翌日は司法解剖でした。私は大学の法医学教室に10時に行くように警察から前日に言われて行って、待合室でも会議室でもないごちゃごちゃした部屋に待ってるように言われたのです。地下鉄の本社の人とか霞ヶ関駅の職員とずっと何時間も待たされてたんです。夕方になって解剖室のほうに降りていったら、警察の人に会って「まだですか?」と聞いたら、「もう葬儀屋に渡しましたよ」と言われてしまったんです。それが何年も何年も嫌な記憶として残りました。

松本智津夫の刑事裁判が始まってからですけども、主人を解剖した法医が出廷して、死因について証言したことがありました。保存していた脳細胞を使って研究して、サリンが人の脳からも検出され死に至ったという証言をしたんですけれども、このときに松本被告の弁護人の1人が立ち上がってこう言いました。「あなたは誰の許可を得て被害者の脳細胞を保管してるんですか。遺族に返すべきではないんですか」って言ったんですね。またそのことがずっと気になっていて、事件から9年後、主人の解剖のときに摘出された臓器がどうなっているのかって気になって、東京地検に聞きに行きました。そうすると検察官がわざわざ法医学教室に見に行ってくださいまして、「確かに高橋さんのご主人の臓器は保管されています」と言ってました。それをどうしようか、私は弁護士さんと相談していたのですけれども、検察官の方がまた連絡してきまして、冷凍保存されているのは血液とか尿なんですが、それを後任の教授が転勤したときに、持ち出していたということが分かりました。ほんとに驚きました。主人はお骨にしてお墓に納めて、いつもお参りをしてるのですけども、主人の体の一部が教授と一緒にどこかに行っているという、そういうことだったんですね。それを聞いて、私は遺族の知らない間に法医が臓器を私物化しているとしか思えなかったのです。

普通は臓器の一部を取り出して、プレパラートにしてサンプルにするらしいんですけれども、主人の場合にはサリンという特殊なケースだったので、臓器をそのままサンプルとして保管しているということでした。これは非常に心外なことで、その後、法務省とか厚労省とか警察庁に対して、死亡解剖のときの遺族対応を改善してくださいと要望書を出しました。また、そのことがきっかけで主人の解剖のときに助手として立ち会っていた先生から連絡をいただきました。直接お会いして主人の解剖のときの話を伺うことができました。実際には警察の方がきちんと遺族に説明をしてくれれば、私が法医を誤解するようなことはなかったということが分かりました。

今は少しずつ改善されてきているようです。司法解剖の後は遺体も返ってきましたので、お通夜、お葬式と続くわけですけども、よく「遺族が気丈に振る舞っていた」という言葉を使われますけど、私はそういう感覚ではなくて、世間のしきたりに従って言われるままに喪主として動いていたというような気がします。

そうやって遺族が自分の意思からということではなくて、呆然としていたというエピソードを一つお話ししますと、8年前にある地方の男性が奥さまを殺されたんですね。葬儀は、地区の自治会の世話人が取り計らってくれて、翌日はお通夜、その翌日は告別式となっていく。事件ですからその方も奥さまが司法解剖に回されました。ところが大学の教授が出張していて司法解剖が1日遅れたのですね。なので、奥さまの解剖されたご遺体が告別式の直前に戻ってきたのです。つい最近私はその話を聞いて、「そしたらお通夜はご遺体なしで行ったのですか」って聞いたら、その男性、「えっ、そうですね」って気がつかれたんですね。後になって考えれば、ご遺体なしのお通夜なんておかしいと分かるんですけれども、そのときには全然そんなことも気がつかないでやっていた。そんなことも起きたりします。

事件当日はメディアスクラムで家に入れなかった私なのですけども、その後もずっと、取材攻勢がすごかったです。連日のように取材があって、夜遅くまで続きました。プライバシーも何もないっていう感じでした。ひどいインタビューもありまして、よく聞かれるのが、「今のお気持ちは?」っていうことなんです。事件から10年経ったときにも「この10年を一言お願いします」って言われました。私は逆に「あなたの10年を今言っていただけますか」って質問したいぐらいでした。

それからノートに箇条書きで質問を書いてきて、それだけ聞いたら「どうもありがとうございました」って、さっさと帰って行った人もいましたけども、こういうことはメディアだけではなくて、いろんな人たちもそうですけど、相手がどう思うか、相手の立場になって聞いていただきたいと思います。

メディアにはいろんな不快な思いをさせられたのですけども、よい出会いもありました。事件から半年後に訪ねてきたテレビ局のディレクターですけども、取材依頼に来てその放送も終わり、その後にもう一度来て、私に密着取材をさせてくださいっていいました。ちょうど松本智津夫の初公判が最初に予定されていたときで、まだ被害者の会もできてない、民事裁判も起こしてないので、「私に密着しても何もありませんよ」って断ったんですけど、そのディレクターが「実は、僕は高橋さんに元気になってもらいたい」って言ったんですね。私は「高橋さんに元気になってもらいたい」って言われて、それまでと気持ちが変わりました。心がほっと軽くなりました。それまで新聞やテレビの取材っていうと、死亡者ですから主人に焦点が当たっていて、私の気持ちを聞かれるにしても主人を亡くしてどうだったのか、主人の延長上の私でしかなかったんですけども、その言葉で私に目を向けてもらった。私のことを気遣ってもらった。私に注意を払ってくれている。そう思うと、犠牲者の妻っていう役割から外れて緊張感がほぐれたような気持ちになりました。それから2年間、私はこのディレクターの取材を受けました。ことあるごとにマイクを向けられて、自分の気持ちとか自分の意見とかを言っていたということがあります。これは私にとって今考えるとカウンセリング的な効果があったのではないかと思います。

それからもう一つエピソードをお話ししますと、地下鉄サリン事件から社会が犯罪被害者に注目するというか、被害者支援の必要性が知られるようになってきたわけですけれども、その被害回復のためには早期に適切な支援がなされるべきだということが分かってきました。多分これは病気でも「早期発見」っていうことがありますし、何でも早くに手当てをする。例えば夫婦げんかでも早く解決すればこじれることはないというようなこともあると思うんですけけれども、早い時期にいろいろな支援をするべきだと。

そこで、事件から5年後ですけれども、他の事件の遺族と一緒にアメリカに研修旅行に行きました。その研修でもらった資料の中に「報道関係者に対する被害者の権利」という、例えば「取材を断る権利」とか「場所と時間を選ぶ権利」とかがあったんです。それを見て「これが私の事件のときに分かっていれば、私はひどい状況に置かれなかったのに」って思いました。帰ってきてから勉強会をやりました。有志の記者と一緒に勉強会をやったんですね。その勉強会の途中報告的なことで、そのレジュメの下に書きましたけれども、『〈犯罪被害者〉が報道を変える』という本を出しました。私はその勉強会を通じてとか、この本の編集をやりながら、メディアの都合とか記者の事情とか、つまり相手側を知るっていうことができました。いろいろな点で相手側を知るっていうことは大事なことだと思います。相手のことを知ると、こちらが知らないがために被害を受けることがない。メディアの場合にはそういうことで、私はその後にはいろいろびっくりしたり、不快な気持ちになることはかなり減ってきました。

職場での対応ということで、これが一番皆様方には関係あるかと思うんですけれども、とにかく私の何年間かメディアとの関係がほとんどでして、毎日毎日入れ代わり立ち代わり取材で、私はメディアのための私じゃないという意識があって、事件から半月後に職場に戻りました。自分の生活が前に戻ったっていうことではないのですけども、少なくとも職場にいれば事件からは離れていられ職場の人たちは根掘り葉掘り聞くようなことはありませんでした。それでもやっぱり私を心配してくださって、上司に、銀行の顧問弁護士にいつでも相談してかまわないからと言ってもらいました。私は主人がいなくなってしまったので、誰を頼りにすればいいかが分からなかったので、そういうふうに言っていただけると安心できます。

職場で事件の話をすることはなかったのですけれども、しかし悲しい気持ちを抑えていることに変わりはなくて、それはいつか誰かに聞いてほしい気持ちがあります。興味本位ではなくて素直に聞いてほしい、何にも言わないで聞いてほしいときが時々起こります。メディアは各社が訪ねてくるので同じ話を何回しても、それはそれでよかったんですけど、1人の人に同じ話をしてるといつまでそんな話をするのって、もういいかげんにしたらって、ありありとそういう態度が見えてくるのですね。

ところが同じ体験をした人同士、お互いに聞いたり話したりできる場があります。それが「自助グループ」です。自助グループっていうと、例えば病気の家族の人たちが集まってるグループとかあると思うんですね。交通事故の遺族の自助グループとか。未解決事件の人たちの自助グループとかあります。地下鉄サリン事件被害者の会は同じ事件の被害者遺族が集まっている自助グループ。地下鉄の場合には同じときから出発したんですけども、いろんな事件の人たちが集まってると、事件から間もない人もいれば、何年も経ってる人が集まってるということもあります。グループの活動に参加して共同作業をしたりして、少しずつ被害回復ができるという自助グループの効果があります。

それから皆様方にお願いしたいのは、支援の連携ということなんですけれども、裁判の傍聴とか被害者参加制度が始まっていますから、自治体とか職場がネットワークを作って、被害者支援のノウハウを共有することによって、被害者への適切な情報提供ができるのではないかと期待はしています。

それと刑事裁判に関わったりとか自助グループに参加するとか、被害回復に必要なときには気兼ねなく休暇が取れるようにしていただきたいということがあります。それから地下鉄サリン事件では被害者が職場から非常にいやがらせを受けたことがあります。退職させられるようなことがたくさん起こりました。サリン中毒で退院してから職場復帰したらもう机の上には何にも置かれていなかったとか、同僚から「サリンはうつるんじゃないの?」と言われたり、サリン中毒で通院して早退とか遅刻とかすると、「買い物ができていいわね」とか、言われました。無辜(むこ)の被害者というのは自分から好んで被害者になったわけではありませんし、また今の時代いつどこで誰が被害に遭うか分かりませんので、加害者にも権利はありますけども、被害者にもちゃんと権利がありますので、そういうところを認めて、会社でも事業主の方々でもそういう対応をしていただけたらと思います。

裁判ですけれども、被害者や遺族に何が起こるかというと、まず会うのが被告人です。被告人が罪を認めていても認めていなくても、やっぱり裁判というのは事件に引き戻されるということですから、辛いことには変わりないんですけれども、さらに証言するとか、謝罪の手紙を受け取るということがあります。それから判決が期待したとおりではないとかなり落ち着かない状況になったりします。それから法廷では被告人の家族と会うことがあります。オウム事件では、早い仕事を終えてから10時の開廷に間に合うように裁判に来ているお母さんがいました。息子の裁判の傍聴をするためにそういう仕事に変わったわけですけれども、そのお母さんには地裁のロビーで突然謝られたこともありました。大勢の人がいるから、私も困るので「やめてください」と言ったことがありました。その被告人はサリン散布の実行犯で死刑判決が出たんですけども、そのお母さんは廊下でぐったりうなだれていました。同じ年頃の息子を持つ私としても慰めずにはいられませんでした。ついお母さんの手の上に私も手を重ねてしまいましたけども、オウム事件っていうのはいろんな親の思いっていうのがあります。

弁護士さんもいろんな方がいます。大概の被害者遺族は、被告人の弁護士さんも被告人と同じように憎い存在になってしまうんですけども、私は休憩時間とか閉廷になったときに弁護士さんに声をかけて、被告人のことを聞いたり意見書とかもらったりしました。それから被害者の書いた手記とか本を弁護士さんに渡して、被告人に読んでもらうようにしました。被告人からの謝罪の手紙を受け取ってくださいって、あんまり接触のない弁護士さんから突然言われたりするようことも起きました。それから松本被告の裁判は延々と10年以上も引き伸ばしのような裁判が続けられていました。

ある弁護士さんが、私が証人出廷する前に「高橋さん、死刑って言うんでしょ。はっきり被告人に死刑って言ってもらってかまわないから言ってください」って言ったんですね。これはどうしてかっていうと、被告人は被害者や遺族の供述調書を読むんですね。それはあくまでも活字なんです。証人出廷するときは生の声で被告人に聞かせるわけですから、その弁護士さんは活字ではなくてそういう生の声を聞かせたいということだったと思います。そういう熱心な先生もいました。

私が裁判に関わって一番遠い存在に感じたのが検事さんでした。今は少しずつ変わってきてると思いますけど、私が関わった何年か前の検事さんはあまり被害者のことを理解しているとは思えませんでした。皆様、ご覧になったことあるかもしれませんけど、地下鉄サリン事件で車いす生活になってしまった女性被害者がいるんですね。どうして被害にあったかというと、彼女は3月20日、研修があるので、職場とは別のところに行かなくてはいけない。19日の日曜日にみんなでご飯を食べているときに、お兄さんにどうやってその研修所に行けばいいのって聞いたんです。こうやって乗り継いで行けばいいんだよって教わったわけです。それで3月20日になってお兄さんは自分の子供を保育園に送りがてら、彼女も最寄りの駅まで送ってってあげたんです。そしたらその電車にサリンがまかれたっていうことなんです。そのお兄さんがサリンを作った土谷被告の裁判に証人出廷したときに、検察官が「あなたが妹さんを送って行かなければ妹さんは被害に遭わなかったかもしれませんね」って聞いたんです。私は傍聴席でメモ取っていたんですけども、ほんとにこの質問にはびっくりしました。その検事さんはお兄さんに後で謝ってましたので、すぐ気がついたんだなって思いましたけども、こんな被告人に質問するようなことがあったりする。今は被害者参加制度ということで、検事さんの隣に被害者や遺族も座れますので、そういう制度になってよかったと思います。後は参加する被害者をしっかりサポートしていただければと思います。

職場の方でできることとしては、時間があれば応援傍聴に行ったり、被害者や遺族が署名活動をするとかいうときに協力をしていただけると遺族に孤立感がなく社会の一員という自覚を持って、社会復帰のきっかけになるんじゃないかと思います。

それから地下鉄サリン事件が起きたときには被害者支援っていうシステムがありませんでしたので、私たちは弁護団にいろいろサポート受けました。損害賠償訴訟も起こしましたけども、原告になったのが5,500人も被害者がいたのに、たったの40人という、つまりオウムに対して民事裁判なんか起こしたら、仕返しされるんじゃないかとかいう恐怖感があったわけです。これはオウムに限ったことではなくて、加害者に恐怖を感じる被害者、遺族も多いですし、また凶悪犯罪を起こした犯人のほとんどは賠償能力がないので、そういうようなことが起こるのかと思っています。

それから民事裁判だけじゃなくて、私たちはオウム真理教に対して破産の申し立てをしました。これは破産管財人が非常にご尽力くださいまして、「ずっと賠償責任を果たせ」ということでやっていただきましたけども、阿部三郎弁護士さん、管財人ですけども、今年はもう83歳になられるんですね。延々と破産管財業務をやっているわけにはいかないということで、去年の3月に終結宣言が出されて、今年の3月で破産は終わり国がオウム事件の被害者に給付金を支給するという法律ができて、今、手続きが行われているところです。この法律ができるまで13年間弁護団と管財人の先生方と一緒に活動してきたわけですけども、実は無償なんですね、これ。本当にありがたいことだなって思いました。

こういう被害者救済活動の中で私が記者会見をやったり、取材をいろいろ受けたりして、皆様方は「ああ、また高橋が出てる」って思われてたのかもしれませんけれども、私としては必死でした。主人の無念さとか遺族の悲しみ、悲嘆が言いたかったんですけども、それよりも私は代表世話人としての役割がほとんどでした。サリン中毒の後遺症で悩まされている人たちは自分たちが出るわけにはいかないので、私はその代弁でいろいろ言ってきました。

それと、私がもう一つ必死だったという理由が、私は事件が起きるまで普通の主婦でした。事件が起きたと同時に、警察とか検察の事情聴取とか司法解剖とか取材とか報道とか、民事裁判を起こすとか刑事裁判で証言するとか、いわゆるそういう専門分野の中に放り込まれるわけです。そういう中で話を聞いて自分で理解をしてその中で判断をして、しかも失敗しないように対応しなければならなかったので本当に必死でやってきました。ですから皆様方、いろいろなご経験もおありでしょうし、社会的ないろいろなことをご存じだと思いますので、何かしらそういう示唆をいただければ非常に心強いかと思います。

家族の話をさせていただきます。子供たちは事件の話とか父親の話は避けていて一切話をしなかった。でも私は代表世話人ということで仕事をしなければならない。事務所もありませんから、家の居間が事務所みたいな形になっていて、毎日毎日電話がかかってくるわ、取材は受けてるわ、パソコンに向かって被害者の会のお知らせは作ってるような状況で、子供たちが嫌な思いをしてたと思います。ですから子供たちと私の会話があるわけもなかった。そんな親子関係が続いていて、事件から10年、2005年のことなんですけど、追悼集会にシンポジウムをやろうということになりました。ニューヨークから9.11テロ事件のご遺族の人たちを招待して、アメリカのテロ事件の被害者救済を語ってもらう企画を立てました。それと同時にさっきも言いました、『〈犯罪被害者〉が報道を変える』という本を出版する。それから『人間ドキュメント』の取材も受けると、あんな忙しさはもう二度と私は対応できないというぐらいな忙しさだったんですけれども、その『人間ドキュメント』、実は私だけが取材を受けたのではなくて、子供たちも取材を受けてました。話をしない子供たちがカメラの前で取材を受けていたことで、すごい私は驚いたんですけれども、実は、2人のディレクターが来て、1人は私の取材、1人は子供たちの取材をして私がいないときに家で子供たちの取材をしているやりかたで、私は子供たちが何て言っているのか、私のことをどう思っているのか、被害者の会の代表としてこういう活動しているのをどう思っているのかを私は放送を見たときに初めて知って、ぼろぼろに泣いてしまいました。10分ほどなんですけど、ここで1部をご覧いただきたいと思います。すいません、お願いします。 (映写開始) (映写終了) ありがとうございました。

会話がなくても子供たちは心の中で私のことを応援してくれてたんだと、テレビを見ながら涙が止まりませんでした。  シンポジウムがあったのは3月19日だったんですね。翌日にリーさんと一緒に霞ヶ関駅で献花をしたのですけれども、娘がリーさんに自分の気持ちを打ち明けていたということがありました。このときに通訳をしてくれた女性が、私にその話をしてくれたのです。同じ家族の中ではなかなか言えない気持ちを、父親を亡くした娘が、息子を亡くした父親に打ち明けていたということでした。実は今日『ここにいること』というこの本を持ってきたのですけれども、この「ここにいること」というタイトルは、実はリーさんの言葉で、子供たちは積極的に活動には参加できないけれども、ここにいることを分かってほしいというそういうメッセージで、そういう人のために私は私のできることをやっていこうと、私もまた気持ちを新たにすることができました。

最後にもう一つ今年の追悼会で起きた出来事をお話します。今年の3月の追悼集会で私が知り合った3人の消防士の人が参加していました。1人は地下鉄サリン事件でサリンの二次被害に遭った消防士の人でした。それからその会場にご主人を亡くした、仮にA子さんとしておきますけども、そのA子さんも久々に参加していました。なんという偶然か被害にあったその消防士はA子さんのご主人を救助中に倒れたことが分かったのです。A子さんはその消防士と会場の別のソファでずっと話していたのですけれども、やがて戻ってきて、マイクを握り締めて、ご主人の最期の様子を聞くことができて今日はほんとに参加してよかったですと語っていました。

私は何日かしてからその消防士にメールをして、具合はどうですかと聞きました。彼は、ショックだったし辛かったと返事を書いてきました。何がショックだったのか辛かったのかといいますと、まずA子さんは警察とか検察からご主人の最期のことを聞いているのかと思った。あるいはその裁判を傍聴してご主人の最期の様子を知っているのかと思ったけれども、消防士の彼が話したことで初めて知ったということがショックだったと言っていました。それから入院してしまって、後でA子さんのご主人が亡くなったことを知ったのですけれども、消防士としてその人を救助することができなかったっていうことが非常に辛いと、そういうふうに言っていました。

私はまたその後に遺族にも電話をして、彼女と話しました。14年経って初めて事実を知るということはやはりショックなことですから、そのことを聞いてあげなければいけないと思って電話をしたわけです。

被害者や遺族は事件を目撃していても、そのときの記憶がすっぽり抜けてしまっているようなことがあります。忌まわしい事件を忘れたいと思う反面、記憶がなくてそこを知りたいのだけども、なかなかそういう機会がなかった。空白を埋めることができないで事件当日の苦しみのままでいるという遺族もいることも確かです。よく現実を直視するとか、家族の死を受け入れるとか簡単に言いますけども、当事者にはそんな簡単なことではありません。

私は結構裁判傍聴していましたけども、主人の最期を看取ってくれた先生とか主人を搬送してくれたテレビ局の人に会って話を聞いたりしました。そういうふうに自分から進んで最期を知ろうというようなことが、誰でも同じようにするとは限らないと思います。うちの子供ですら10年経ってやっと自分の気持ちを、画面を通じてですけれども伝えようと思って取材を受けたわけですし、今年の集会でのA子さんのように14年経って初めて知るというような機会に巡り合う人もいるということです。そうやって抜けているところ、空白を一つ一つ埋めていく。

事件っていうのは大きな重しがどんと体の中に入ってくるのと同じようなことなのです。だけどもその量は変わらないにしても、その石が大きいままではなくて、小っちゃく砕けていくということが、家族の死を受け入れて自分の身の一部、人生の一部として一緒に生きていくっていうことが、被害回復ではないかと自分の経験から思いました。

とにかく、犯罪被害者になってしまうということは赤ちゃんになってしまうということではないので、何から何まで面倒見てくださいということではなくて、そういう被害回復ができるようなきっかけを作っていただければいいのではないかと思っています。それが何年かかるか、人によって違うわけですけども、「そんな目に遭ったあなたは不運だった」とそんな感じで被害者、遺族に接することでなければ、法律もできましたし、支援を受けて平穏な生活に戻ることができると思っています。どうぞ犯罪被害者へのご理解とご支援をお願いしたいと思っています。よろしくお願いいたします。 以上で私の話を終わります。ありがとうございました。


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