川崎イベント:基調講演

「これからの被害者支援~私たちが望むこと~」

渡辺 治重 (犯罪被害者御遺族)

 ただいま紹介いただきました、渡邉治重と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 本日は「これからの被害者支援~私達が望むこと~」という大きいテーマの中で、遺族として生きてきた私の話と、被害者支援のボランティアの活動をしている私の話をさせていただきたいと思っております。

 私は大学生の長男を平成7年3月19日に交通事故で亡くしました。長男は20歳でした。27年前の事故なのですが、その当時はまだ被害者支援と言われるような制度はありませんでした。でもそのとき生きていられない程辛かった私はたった一つの頼りだった警察に「とても辛いのですが、悩みを話せるところは有りませんか?」と問い合わせの電話をしました。警察官の方は「そんな相談を受けたことが無い」と取り合って貰えませんでした。そのとき、私は先進国日本、満ち足りた国と言われている国で何かがおかしいとそのとき強く思いました。でも27年前はこれが現実でした。

 話は変わりますが、川崎では4年前にカリタス学園の生徒が巻き込まれた痛ましい悲惨な事件がありました。今でもとても忘れられない痛ましい事件で、ご遺族、被害者の胸の内を考えますと、私もつらさが増します。ご遺族の支援というのはとても大切な支援です。また、被害を受けた方々には丁寧な支援をこれからもお願いしたいと思っております。

 さらに、こどもたちにとって事件を目撃しただけのことだとしてもその恐怖はなかなか忘れ去れるものではありません。時間の経過とともにそれは薄れることはあったとしても、PTSDとして心の中に長く残ります。また、現場に居合わせなかったご両親もこどもの痛みを思うとき毎日不安や心の重さが長く続くことだと思っています。お子さんとともに、ご両親の心配や不安が取り除けるような心の支援がやはりとても必要だと思います。

 私はまず親が不安や心配をなくした態度で、つまり心の安定した状態でこどもに接してあげることが必要だと考えています。このことにより、こどもは親の態度からお母さんとお父さんが私を守ってくれるので安心だと少しずつ心の安らぎを取り戻せると考えます。こどもを守るのは親以外にありません。また、こどもは親を頼ります。

 私の場合になりますが、いくら年月が経とうと、あのときの衝撃と悲しみと苦しみは忘れることはできません。毎年訪れる命日には、心がふさぎ深い悲しみがぬぐいきれません。また、お誕生日やお彼岸などにはつらい日々が続きます。

 被害者支援に理解を深め、深めていくためには、遺族の私が真実をありのままにお伝えすることがとても大切なことだと考えております。それでは私ども、長男「龍」のことを話させていただきます。

 大学生の春休み、アルバイトをしていました。夜9時にアルバイトが終わり、オートバイで帰宅の途中、青信号直進中のところ、交差点で免許取りたての未成年の車が、無理な右折をしたため避けきれず衝突し、即死したと知りました。

 本当に私の場合も、ある日突然事故が起こり、大切なこどもが亡くなり、そのときから私は遺族になりました。その日の朝「お母さんアルバイトに行ってくるので夜ご飯頼むよ。」と元気な声で出かけた息子が、帰りには死んでしまっていないという現実でした。

 事故当日の夜、病院より電話が突然かかってきました。「渡邉龍さんのお宅ですか。龍さんが亡くなりました。」と唐突に言われたのです。私はそんな重大なことは、きっと警察から電話がかってくるものだと咄嗟に思いましたので、きっといたずら電話か間違い電話と思いました。「息子はもうすぐ帰ります、あなたの電話番号教えてください。」と私は電話番号を聞き、震える手で聞き直した電話番号に電話をかけ直しました。やはり総合病院でした

 主人はその時トルコに出張中でした。こどもが死んだ。どうしても信じることができませんが、高校1年生の次男と夢中で病院に向かいました。私と次男は、病院で既に息をしていない温かいこどもに会いました。私は声も涙も出ませんでした。まだ温かい体温の手を握り、そっと顔を撫でてあげました。私を待っていたように、透き通った薄い鼻血がスーッと流れました。私はこどもの顔見つめながらそっと拭いてあげました。最後に愛する息子の、こどもの最後にしてあげられたのはこれだけでした。

 それから私の目の前で用意されていた棺にこどもが直ぐに入れられました。長身で180センチの息子は、まるで死にたくないと叫んでいるように棺に中々入りませんでした。頭をずらし、足を折り曲げ、やっと安置できました。私はその時、こどもを見ているのがやっとでした。他人からは非常に冷静に映ったことと思いますが、私の体は金縛りにあったように硬直して動かないのです。そして声も涙も出ないのです。息子と2人、ただ黙ってその場に立って棺に入れられるこどもの様子を見ているのがもうやっとでした。もう一人の別の自分がいるようでした。

 それからすぐに棺が持ち運ばれました。このままどこかに連れていかれるようでした。私はこどものそばにいたかったので、「こどもから離れたくない。」とお願いしましたが「お母さんの行くようなところではない。」と断られました。こどもの姿が見えなくなりました。思ったことはずっと傍にいたかった。辛い辛い、引き裂かれ方でした。私と次男は震える体で家に戻りましたが、テレビの中で見たような大声で取り乱したり、大声で泣き叫ぶこともなく。涙さえ出ませんでした。心は空っぽのような、何も考えがまとまらないような、今どうして良いのか、気持ちも落ち着かず、何も考えることができませんでした。

 それでも家に着いて、やっと主人に国際電話をかけ、こどもの死を伝えすぐに帰えるように頼みました。トルコからは飛行機で二日間かかります。主人もその二日間、どんなに辛かったことかと思いました。私は次男に「お父さんが帰るまで何もなかったと思おうね。」「お兄ちゃんはアルバイトに行ったままだと思おうね。」と悲しい約束をしました。

 その夜も目が冴えて寝ることもできず、そのまま空が段々明るくなり朝が来ました。次男はその日、終業式で皆勤賞を頂けるとの事で休めないと聞いていたので学校に行かせました。

 私は警察からの電話で、こどもは警察にいるとのことで遺体を引き取りに来るように言われ急いで警察に行きました。こどもは棺に入れられたままでした。私は親として、死に水も旅装束も何もしてあげることができませんでした。そのときから私の記憶は途切れ途切れになっていました。昨日から寝ていないのに、体がふわふわしていてとても軽いのです。頭の中はしんしんと冴えわたっています。体は軽く眠くもなく、涙も流れず、お腹も全然空きません。体と心が別々のもののようでした。

 警察から家に戻ると、今日の新聞に、加害者の名前も住所も伏せられたまま、被害者である私どもの名前と住所が書かれた新聞を読んだということで、電話と弔問客で入り乱れました。私と次男の願いは通じませんでした。さらに葬儀社の人は、早く仏壇のランクを決めるように言いつのります。私は主人が戻るまで、待つようにお願いしましたが、用意があるから直ぐ決めるようにと、聞き入れてもらえませんでした。

 二日後、主人が戻りました。すぐに棺の中のこどもと会いました。その時信じられないことが起こったのです。こどもの真っ青な顔が、お父さんに会ったらみるみるうちに赤みを帯びて、まるで生き返ったようになったのです。これは本当です。私は大きな声で、お父さんに会えたからこどもが生き返ったと言い続けましたが、叶わぬ瞬間でした。

 お通夜、告別式を済ませて私は初めて悲しみに向き合いました。今度は体が濡れた重い布団を頭からかぶっているようでした。動きたくないのです。眠くもなく、お腹も空きません。声も出ないのにあふれる涙が止まらないのです。今、朝なのか夜なのか、外の明るさがわからないのです。私の体内時計が狂ってしまいました。体と心が別行動で動いています。

 主人も次男も私には目に入りません。亡くなったこどもだけのことしか考えられないのです。こどもの死を受け入れられない心と、死を受け入れなければならないこの現実に苦しみました。毎日毎日、仏壇のそばから離れられず、息子の写真を見ながら話しかけ、私は一日中泣き続けました。私は亡くなったこどもだけしか目に入りませんでした。

 亡くなった子は長男でした。初めて生まれた子に対して不安だらけの私は、育児書を頼りに一生懸命育てました。将来を期待して育てました。主人が留守がちでしたので、高校卒業するまで門限は9時に決め、好き嫌いもさせず贅沢もさせず、しつけに重点を置き、ひたすら親の務めと信じて厳しく育てました。

 こんなに早く死んでしまうのだったら、こんなに厳しくしなければよかった。大好きなチョコレートやケーキをもっと食べさせてあげればよかった。ゲームをもっとさせてあげればよかったと、いろいろ思い出し涙が出ました。なぜこどもを守ってあげられなかったのか。オートバイに乗ることを許さなければ死ななかったのにと私は自分を責め続けました。

 主人と次男も全く話をしなくなりました。家の中は重く暗い日々が長く続きました。私の家族は一人一人自分を支えるのが精一杯でした。次男は家にいるのが辛かったのか、毎日主人が帰る頃まで学校からは帰りません。私と話をしたくないのです。土曜日も日曜日も学校に行っていました。後から保健士さんから聞いたことですが、次男は授業中、ほとんど保健室にいたそうです。

 私は毎日遺影の写真を見続け、もう一度だけでいいから会いたいと泣き続けました。こどものもので埋まる長男の部屋に行き、まだこどもの匂いの残る布団や下着を抱きしめながら、私は泣き続けました。こどもの部屋に掛けてある時計がこどもの死亡時刻でなぜか止まっていました。信じられませんでしたが、それからも信じられないことが続きました。亡くなったこどものお友達が来てくださって、玄関から出てお帰りになると、その団らんをした部屋の電球が切れるのです。私のお友達が見えてお帰りになったときも、その部屋でお話したときにその部屋の電球が切れました。命日ころまで続き電球を20個以上変えました。本当に不思議なことでした。

 主人は、今まで外国出張や会社の仕事で帰りが遅かった会社人間でしたが、私は惰性で動くだけで、気力がなく何も出来なくなっていました。食事の支度も全然できませんでした。そんな私を見て、主人は私を心配して、食事の用意をするために5時には会社を出ていたそうです。もちろん会社では出張にも行かせられない、役に立たない、そういう人になっていたそうです。また対外的な顔もあり、私以上のストレスから髪が見る見るうちに真っ白になっていきました。体重も減り、ズボンがブカブカになったと言ってベルトを変えていましたが、私に代わって朝会社に行くまでに、次男に食事をさせて、私の朝食、お昼の用意をして会社に行っていました。必ずお昼ご飯を食べるように言われましたが、私はとても食べられませんでした。主人は帰りに三人分の弁当を買ってきたりしながら、夕食の支度を毎日してくれていました。私は泣き晴らし続け、顔はむくみ、幽霊のようでしたので、外に食べに行くことさえできない姿でした。何もできない、気力もない私に代わり、お茶碗を洗いながら、主人は「こんなことに耐えられなくてどうする」と自分に言い聞かせるような悲痛な言葉を何度も繰り返していました。

 こんなときにとても嬉しかったことは、近所のお友達などからいただいたおかずでした。薄味で煮た大根や、ジャガイモが入ったおでん、小松菜やほうれん草など、菜っ葉類を茹でただけのもの。また、薄味の混ぜご飯など家庭の味のものを届けていただくのが、とても美味しくて、今でも忘れられないくらい助かりました。また、返さなくて良い容器で届けてくださった方にも感謝しました。スーパーなどで買うお惣菜はみんな濃い味で弱った体が受け付けませんでした。ケーキやお饅頭とかではなくて、家庭で作るお惣菜とかおかず、それがとてもありがたく助かりました。

 次男は16歳でしたが、私は次男の悲しみ、悔しさ、苦しみを受け止め、受け入れてあげる余裕が全然なかったのです。自分だけで精一杯でした。家族は一人ずつ倒れてバラバラのようでした。

 ある時、次男がお兄ちゃんのTシャツを着て、お母さんって見せに来たのです。私はその時に大きい声で「お兄ちゃんのものはお母さんの大切なものだから触らないで。」と声を荒げて引き離したのです。このことは絶対やってはいけないことだと、後から学びました。これは突然兄を亡くした次男の悲しみを癒すチャンスでしたが、無残にも壊してしまいました。自分だけで精一杯で次男を思いやることができませんでした。悪い母親でした。それから次男は私に話をもっとしなくなりました。僕もこどもだ、僕が死ねばよかったのかと思えるほど、拒否され、無視され続けました。そんなときですが、私は毎日、平然と会社に行く主人を許せなくなりました。「あなたは毎日会社に行くけど、涙も流さないであなたは悲しくないの。」など、毎日言い続け、責め続けました。そして、夫婦間の問題は深刻になりました。本当の原因は、どこにも受け止めてもらえない私の悲しみと辛さを主人にぶつけていたのだと思います。最愛のこどもを亡くした私は、「こどもと生きた時間と現実。」「描いていた未来。」も同時に亡くしたのです。

 生きているのが信じられない毎日ですが、さらに、周りからは早く元気になるように励まされ続けました。「もう一人こどもがいるじゃない、この子ためにも頑張って。」「もっともっとつらい目に遭った人がたくさんいるのよ。」「加害者だってきっと後悔してつらい思いをしているわよ。」「罪を憎んで人を憎まず。」私は思わず「母親思いの優しい子だったの、私はもう一度会いたい。」と心に思ったことを言うと、「死んでしまうとみんないい子になっちゃうのよ。」などと言われて、もうたくさんでした。

 遺族にとってこれらの言葉は、言って欲しくない一番つらい言葉でした。悲しみをわかってくれないと思いました。そんなときでも外に出たときや、通りすがりにお会いして目が合ったとき、何も言わなくても、ただ目を伏せて頭を下げてくださる方にはとても救われました。このことは「私はあなたを無視していませんよ。」「私はあなたの悲しみがわかるけれど、どんなことを話していいのか言葉が見つからないのです。」というメッセージに私は受け取れました。また、「悲しいのは当たり前。」「無理をしないで。」と言ってくださる方にもとても感謝しました。

 それから、無理をして繕った顔をして生活するようになったときに、外でお会いしたときに、「思ったより元気になってよかった。」「もう事故から何年経つの。」「お子さんはいくつになったの。」などと突然聞かれることがあります。そんなときに私は答えなければ失礼と思いましたので、お答えしますけれど、あの当時を思い出して、とても心が痛みました。でも、そんなときにも、心のある方は事故のことも、息子の事も話題から避けて「渡邉さんこんにちは、お久しぶり。」「今日はお天気がいいですね。」「今日は寒いですね、暖かいですね。」と何気なく、声をかけてくださるのですね。「私はあなたを怖がっても避けてもいません。」というメッセージに受け取られて、私は本当にありがたいなと感謝しました。答える必要のない、気を張らなくてもいい会話、これがとてもありがたいと思いました。私は、どんな大切なこどもだったか、思い切りこどものことを話したかった。聞いて欲しかった。でも、話し続けると「またその話、その話はこの間も聞いたわよ、もう何度も聞いているわよ。」という声には出さないのですけど、顔に出ているのですね。そういう受けとめ方をされました。

 私は話す人も聞いてくれる人も段々いなくなりました。人と話すたびに心が傷つけられ、落ち込んでいき、次第に人と話すと声がかすれて出なくなりました。何の批判もアドバイスも質問もしないでただ聞いて欲しかったと思います。

 そのうち私は人を避けてビクビクしているような生活になりました。愛する家族を亡くした遺族というのは、もう生きているだけで精一杯なのです。私は朝目が覚めるときに、私は今日も生きていたのだ、今日はどうやって生きていこうかっていうような不安にいつも流されました。立ち直る気力なんかないのです。元気なんてないのです。悲しみを共有して、つらい気持ちを聴いて欲しかったと思いました。

 私は自分が遺族になって初めて、適切な慰めの言葉やマナーについて、私自身も何も知らなかった。そういうことに気づきました。誰からも教えてもらったこともない、どこからも学んでこなかったことに気づきました。

 私はそれまで、私のような遺族に精一杯選んだ励ましの言葉は、「頑張ってね。」「頑張って生きてね。」という言葉だと信じていましたが、実は、被害者や遺族を傷つける言葉で、言ってはいけない言葉であることに、私は気がつきました。本当に遺族にならなければわからない言葉でした。ですから、遺族になった私に突然会ったとき、慰めの言葉を何とかけて良いかわからない、拒否しているわけではないけれど、できれば話さないで通り過ぎた方がいいなと思われると思います。それはどこからも何も教えてこられなかったからだと思いました。

 また、耐え忍ぶのが美徳、という文化は今でも残っています。特に男の人は弱音を吐いたり、思い切り泣く場もありません。私がアメリカに勉強に行ったときには、アメリカでは涙の中に毒素がたくさん入っているという研究がされていました。ですから、何かあったときについて、涙がポロポロで出ると体がぱっと軽くなりますよね。男の人でも女の人でも。そういうふうに涙を流すと心が軽くなるので、涙は思い切り流しなさい。涙を我慢してはいけない、と学びました。涙は大切な心を優しく癒してくれてたのです。

 私は長い間、心の平穏をいつも持てず、どこか構えている自分に気づきました。長い間、寝られない、食べられない、思うように体が動かない、食べ続ける、集中力がなくなり、手紙も全然書けないのです。そんな中で食事の支度をできるときに、まず食事をするのにはメニューを考えて買い物をして、それから調理をしなくてはいけないのですね。買い物に行くときは、知り合いの人にやっぱり近くのスーパーなんかではたくさんお会いするのですね。その方たちに悪気がないのはよくわかっていますけれど、私に何か質問されるのは嫌なのです。みんながいる前で、何か自分のこどものこととか事故のことを聞かれるのが、すごくつらいのですね。それで私は知り合いに会わないように、夜遅く、遠くのスーパーに主人に連れて行ってもらいました。

 私は重く深いトラウマが始まっていました。そんな中でも私がこんなにつらいので加害者もつらいのかと思いある日主人の留守に一人で加害者の家の近くに何度か行ってみました。そこである日、偶然、車を運転している未成年の加害者見ました。こどもがぶつかり、死んでしまったその事故車をすっかり直し、加害者の隣には元気そうな母親が乗っていました。加害者は真っ赤なワイシャツにフェルトの帽子をかぶり、その帽子には20センチもあろうかと思うほどの長い鳥の羽がついていました。とてもおしゃれに思いました。私の打ちひしがれた幽霊のような姿とは対照的な親子が、楽しそうにしていました。

 加害者は未成年だったために起訴されることもなく、罰金もなく、作文一枚。これだけで無罪放免になったと聞いています。私は未成年でもスピード違反や駐車違反では罰金や点数を取られるのに、なぜ死亡事故ではそういうものがないのかと私はとても悔しかったです。

 私自身、遺族になってから、苦しい悲しみが長く続き、生きる理由が見つかりません。ある日、お風呂場に行き、ハサミで髪を短く切り刻み、尼さんにならなきゃ生きていかれないと思って、主人に「仏門に入って私はこれから生きていく。」と言いました。主人は家族がこれ以上バラバラになって、これ以上不幸になってはいけない。次男も忘れないでくれと懇々と諭されました。私は主人の涙声を聞き、話を受け入れましたが、長い間、白髪交じりの髪を、男の人のように短く自分で刈り上げ黒い洋服以外身に着けられませんでした。

 髪を伸ばしたのは、次男が30近くで結婚することが決まったときに、次男がかわいそうだと思って髪を伸ばして、そして真っ白、白髪交じりのメチャメチャの頭を染めました。

 こどもを亡くした年、阪神・淡路大震災が起こったのです。私はその阪神・淡路大震災でご遺族の悲しい手記が新聞に毎日、掲載されていたのです。私はその手記を読んで、私と同じだと思い泣きながら毎日手記を書き写していました。そのときの新聞に、被害者、メンタルケアー、トラウマ、PTSDなどが書かれていました。私は本屋に行って、この言葉が書いている本を選んで買い漁り、とにかく闇雲に学び始めました。本からカウンセリング講習会、被害者学、被害者支援のための勉強会などが行われているということを知りました。東京医科歯科大の山上教授、常磐大学の諸澤教授、長井教授、武蔵野大学の小西教授、私はそれぞれの先生のもとに行って多くを学ばせていただきました。世界被害者学会もありました。そして、そちらでは私が発言をする機会も与えていただきました。日本被害者学会もありまして、そちらにも参加しました。

 さらに、日本がこれから被害者支援を行っていくっていうことを聞いていまして、そのための目標としているのがアメリカの支援制度。アメリカの支援制度を勉強しに多くの教授のおかげで学びに行くことができました。アメリカというのはもう日本と違ってピストルとかがとても多いのですね。それでピストルでの死亡事故やそれから車社会ですから飲酒運転がすごく多かったので、自助グループというのがそれぞれありました。実際に参加させていただき、同じ涙を何度も流しました。検察、裁判所、警察、検事局での見学と研修。またMADD(マッド)Mothers Against Drunk Drivingという、飲酒運転の母親の会ですけれど、これでは自助グループですね、セルフグループの運営方法とか、それからNOVA日本の被害者支援の本当にここを基礎にしていると伺っていましたけれど、NOVAの副会長でピマ郡検察官ビッキー・シャープさんから、その危機介入の研修も受けました。

 私はとても勉強になりました。それぞれの機関で勉強会や講義で学ばせていただきましたが、どこでも温かく迎えてくださいました。こんな私でも温かく迎えてくださって、あなたは帰ったら、せっかく勉強したこの勉強を無駄にしないで、必ず被害者支援活動をするように強く言われました。

 主人は、アメリカの行く先々のホテルに時差を考えながら、夜9時に必ず電話をかけてくれて、心配してくれていました。私にも自分で信じられない行動力だったのです。食事の支度もろくにできないのに、なんでこんなことができるのだろうと思いましたが、主人の電話はとても助かりました。そのとき私の負のエネルギーと言うのですかね。なんかもうそのエネルギーがとても強くて、また私はこれが自分のための喪の仕事だったなと思いました。

 日本に帰りましてから、この悲しみを1人で耐えているうちには絶対癒されない。まず自分の置かれた境遇、現実を認識すること。つまり、自分自身で死を受け入れること。そして、そのためには「自助グループ」が必要だということを学びました。そのことが被害者支援という行動に繋がっていきました。アメリカでは被害者のための重要な支援で、癒しに繋がるプログラムの一つが「セルフヘルプグループ」自助グループでした。

 アメリカから帰国し、自助グループを行える場所を探しましたが、日本では認知度がなく、どこを探しても断られる。どこにも適切な場所が見つかりません。どこにも遺族の癒やしの場が見つからないので、私は自宅を開放し遺族の集まる場所にしました。アメリカでも被害者支援の自助グループの第一歩はご遺族が、自宅のキッチンを開放して始められたというふうに聞いたのです。私も自助グループで行うにあたり、日にちを決めて、その日開放した私の家にいつ来ても、いつ帰ってもいいようにして飲み物とお菓子を用意しました。涙が出るので飲み物は必要。何かつまむと心がちょっと落ち着くのでお菓子を用意しました。

 大きな事件、死亡事件では、同じ悲しみやつらさを持った人同士で話し合って、自然にその方たちが自助グループ活動の働きができるのですが、単独の事件、事故では、被害者は孤立して一人ぼっち、どうして自分だけが、どうして私の家族だけがと孤独な悲運に苦しめられます。

 被害者支援の自助グループ運営に関する決まりは、本当に厳しく決まっています。グリーフケアの役割として、信頼できるファシリテーターのもと、同じ悲しみ、同じ苦しみを持った遺族が心を開放して、思いの丈を話し、何度でも泣いたり笑ったりする事で、お互いを見つめ合い、お互いを支えあい、孤独でないことに気づく事ができる大切な場所なのです。また、新しくそこに参加する遺族は、生きる希望もありませんけれど、生きる気力がなくても、参加するだけで、あの人5年たったのかしら、私も5年たったら涙も止まるのかしら。5年後の姿に少し希望を持つことができる場所でもあるのです。大切なことは、被害者遺族が自助グループに参加することによって、失いかけていた人との信頼関係を築き、これがとても大切です。人を信頼できるようになるということです。そして、自分自身に起こった現実を自分で受け入れられるようになる。初めて自分の力で、新しい一歩を歩き始められるように支援する場所でもあるのです。

 ここにいらっしゃる皆様が、被害者支援として、具体的に何をしたらいいのだろうと迷ったときに、まず自分の身内、家族の身に降りかかったらどうなるかを考えていただきたいと思います。被害者支援を行うには、様々な支援が必要です。現在神奈川県で行われている支援はとても充実された、それぞれの専門家による支援体制が整っています。被害者支援をする上で一番大切なことは、「被害者遺族の立場に立つ。」ということです。この人のために何かしてやろうとか、支援してやろうとかという、同情する姿勢ではなく「傾聴」と「相手の言うことをしっかり何度でも何度でも聞いてあげる。心から聞いてあげる。」「寄り添う心」つまり気持ちを汲み取って受け止めてあげる精神的な支援がとても大切です。そしてお互いの信頼関係を築くことができたら、99%支援は構築されていきます。ともかく、悲しみという私の気持ちがわかってもらえた。受け止めてもらえた。この気持ちにさせてあげてください。

 未来をなくしたこどもの話は過去の話でしかないのです。過ぎ去った過去の話だけになりますが、同じ話でも何度も何度も話を聞いてあげてください。つまり話をさせて泣かせてあげることがとても大切です。話し続けるうちに、遺族の揺れている心に一筋のともし火が見え始めます。自分で少しずつ現実を受け止めることができるようになるのです。自分で徐々に立ち上がり、歩き始めることができるのです。元気な頃の自分、つまり生きる力が一歩ずつですがよみがえり、時間はかかりますけれど、明日を生きられるようになるのです。

 私は現在、民間ボランティア団体、被害者支援自助グループ「ピア・神奈川」の代表して活動しています。入口にチラシを置かせていただきましたので、皆さんのお手元に届いていると思います。活動場所は神奈川県民センターと茅ヶ崎の市役所で活動しています。ここでの特徴は、事件や事故を経験した当事者が、私を含めてですが、サバイバーとして支援活動を行っています。ですから、当事者による自助グループ活動とともにご遺族の苦悩や悲しみや苦しみに対する電話相談、面接相談、また裁判に関する協力や助言、弁護士の紹介、その他、様々な施設の情報を伝えることを支援しています。

 私は自分が遺族になることは、本当に夢にも考えたことがありませんでした。お正月には神社で安全祈願のお祓いをしていただいてお札をいただき、行く先々の神社仏閣でお参りもして、こどもには交通安全の札を持たせています。そんな生活でした。でも、被害は人を選んではくれません。

 突然、事件や事故で被害者遺族になってしまったとき、一番初めに接する場所が警察です。それからますます頼らなければならないところになります。警察には被害者支援対策室があり様々な相談や支援をしていただけます。神奈川県の各警察署に私達の活動のチラシは届けていただいていますが、民間の当事者のいる私達のような支援組織の情報は20年位近く活動していますが、現在のところ、まだまだ広まっていません。私どものもとにいらっしゃる方は、突然ご遺族になった方は今インターネットがありますので、インターネットでいろいろ検索していらっしゃる方も大変多いと聞いています。また、周りの民間の被害者支援があるのですけれど、そういうところから伺ったと言って来ていただくこともあります。

 でも、私の願いは、まずそういう事件や事故に遭ったときに、混乱して何をしていいかわからない、考えなんか何にもまとまらないと言っていう戸惑う遺族や被害者が望む被害者支援の場所を私達のような名も知らないグループも含めて一覧表とか一貫してそういうものを作成して、遺族に書類で渡していただきたいのですね。遺族は一回ぐらい渡していただいても、渡された記憶もないこともあると思います。だから何回かその書類を出していただく、そういうシステムができることを私は強く願っています。

 自分が探すのではなく、そういうものをいただいて自分はどこでも自由に選べて支援ができる場所を自分で選んで探していいのですよ。突然、被害者や遺族になったときに、自分の望む受けたい支援を、何箇所でもすぐにそこから選べて、受けられるようになることが理想の支援体制だと思っています。これからの支援体制として、アメリカの支援体制のように、被害者や遺族が自分の望む支援を選べて、すぐにたどり着けるシステムができることを私は願ってやみません。

 川崎市では4月より、被害者支援の条例が施行されました。皆様もどんなに心強いかと思います。現在、食事の支援もされていると伺いました。この支援は、神奈川県では2ヶ所だけだそうです。どんなに助かる支援でしょう。

 今日のお話の最後に、私がアメリカでとても心を打たれた、今でも忘れられないお話をさせていただきます。私はアメリカの多くの場所で研修をしましたが、同時に多くのご遺族の方々にもお会いすることができました。そのご遺族の一人が一枚の紙を見せてくださいました。そしてその紙をくしゃくしゃにしました。そしてその紙を伸ばしました。このことは、いくら紙を元に戻しても、いくらアイロンをかけてもしわは取れない。悲劇というのは、このように、どんなことをしても決して消すことはできない。忘れることはできない。でも、この悲劇を忘れて、乗り越えていくのではなくて、この事実を受け入れて、なお長い人生で新しい扉を開けて、これからの長い人生を歩いていってほしい。そう言われました。私は涙が出ました。日本ではそういうことを聞いたことがなかったのです。

 また、世界被害者学会のデュ―スイッチ教授が、「加害者を早く忘れなさい。」「いつまでも死ぬまでも忘れられない気持ちを持ち続けることはあなた自身が苦しむことから解放されない。」と言われました。その当時、加害者を死ぬまで許さないといつも思い憎しみを募らせていたので言葉に衝撃を受けました。その教授もお子さんを亡くされた遺族でした。私はその時はとても聞き入れられませんでしたが、今ではわかる気がいたします。加害者のことを忘れるようになるには本当に長い時間が必要です。確かに私の心は少し軽くなりました。やはり新しい扉を開けて生きていかなければならない。日本は本当に長寿社会なので、これからまだまだ生きていく時間が長いので、ぜひ新しい扉を開けて生きていきなさいと言われました。本当に新しい扉を開けるには、この問題も消化しなくてはならないことだと思いました。

 私はこれまでの27年間、急激に痩せて、もう本当お風呂も入らない髪もとかさない、もう顔も満足に洗わないという感じでしたから、痩せてしまって歯槽膿漏になったりして歯が何本も抜けました。またストレスから、なぜか痩せているのに糖尿病になってしまいました。また乳癌を手術したり、それから腰の手術をして、腰に4本もビスが入っています。そんな私です。

 でも現在我が家は、家を空ける私に代わってどんな活動にも後方支援をしてくれ、料理上手に成長した主人に見守られ、感謝しながら、犬1匹と共に暮らしています。孫も中学生になりました。これで私の話は終わりです。

 これからは、たった一人の被害者や遺族にでも心のこもった支援活動をさせていただきたいと心より思っております。今日の話を聞いてくださった方に、少しでもお役に立てられたらと願っております。最後に、悲惨なウクライナの戦争が早く終わることを深く願ってやみません。ご清聴、深く感謝いたします。ありがとうございました。

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