中央イベント:基調講演

「ある日突然、最愛の母を奪われて~残された兄妹の想い~」

栗原 一二三 (犯罪被害者御遺族)

 皆様、こんにちは。ただいまご紹介にあずかりました、栗原一二三と申します。この後、妹の穂瑞と私たち兄妹の母親の事件に関して「ある日突然、最愛の母を奪われて~残された兄妹の想い~」と題しまして、お話をさせていただきます。

 事件があったのが2012年8月25日。事件から10年が経過しております。私たち兄妹はその事件直後から様々な被害者支援をいただいて、今日に至っております。直後より埼玉県警犯罪被害者支援室の皆様、そして埼玉犯罪被害者援助センターの皆様、そういった方々からの大変ありがたいご支援をいただき、今日まで過ごすことができました。何よりも私たち兄妹が犯罪被害者遺族である、そういった認識のもと、様々なお心遣いをいただき、また私たち兄妹も支援室や援助センターのいろんな行事に参加させていただき、回復に努めるためその支援をいただき、今日まで来ることができたと、本当にこの支援には感謝の言葉しかありません。

 事件から10年が経過しておりますが、10年経過して変わったことと変わらないこと、自宅の窓からの景色は以前あった住宅が解体されて更地になったところもあります。また、新たに何件かの新築の住宅ができて、新たなご近所付き合い、そういったことも生じております。また、当時のことを知らない人たち、そうした方々との交友関係。やはり10年。時は流れている。それが実感であります。8月25日は私たち兄妹にとって非常に大切な日です。とても暑い、夏の1日でした。8月25日が近づくと必ず親友から連絡をもらいます。私は、その親友のご両親の命日すら思い出せないのに、その彼は必ず母の命日にお心遣いのメール、連絡をいただいております。そして、支援室の方から必ずお花を頂戴しております。これは10年変わらず、本当にありがたく、感謝しても感謝しきれない、そういった出来事であります。しかしながら、10年経過してこの8月25日が近づいても、やはり周囲の方々の記憶はかなり薄れてきているのかな。なかなかこの事件を知らない、周囲の人たちも増えておりますし、この母の命日、私たち兄妹が犯罪被害者遺族となったその日にち。私たち兄妹にとっては特別な日ですが、やはり365分の1日なのかも知れません。

 私の母親は、強盗殺人ということで命を失いました。強盗殺人。とてつもない恐ろしい言葉だと思いませんか。もし、こんなことが身近に起きたら。しかしながら私たち兄妹には現実としてこの恐ろしい出来事が起きてしまいました。こういった機会であるからこそ、強盗殺人という言葉を私の口から述べさせていただいておりますが、やはり心のどこかでこれを受け入れられない。まだまだ10年経っても到底心の整理はできない。そんな思いからこの強盗殺人というその言葉は、こういったお話の前でお話するときとかだけにとどめて、妹ともこの事件についての詳細を語ることは今でもありません。

 当然母親がいなくなっているのは事実です。亡くなったのは事実です。なので、妹とはお母さんはこうだったね。お母さんがこうしたからこうしなくちゃ、そういう過去の母親ということで、母の話はしますが、事件のことを何度も口にしたくはないです。この強盗殺人という言葉は、どうしてもまだまだ自分自身、受け入れることができないのは10年経っても変わっておりません。

 事件現場が自宅のキッチンでした。そこにかかっているカレンダーは、まだその当時のままです。母親は鋭い刃物で背後から複数回刺されて、その一つは貫通していたということを後から聞きました。したがいまして、私たち兄妹はいまだに最低限の刃物しか使うことができません。日常で包丁を使うということはまだまだできないのが現実です。

 それでは、事件の概要についてお話させていただきます。その事件の1週間位前ですかね。自宅周辺の不審者情報がありました。その不審者は他人の住居に不法に侵入し、その柵を乗り越えて何か物色するような、その複数の目撃情報がありました。実は私の母親もその姿を目撃しております。むしろその不審者情報を、そのご自宅の持ち主の方に情報提供もしておりました。そしてある日、自宅への窃盗事件が発生いたしました。私の仕事中、母親から電話がありました。何事かと電話に出ると玄関の鍵がない。通帳もない。気持ち悪いから早く帰ってきてくれないかと言われましたが、勤務時間中でしたので、仕事が終わってから、帰宅して母から状況を聞きました。どうしても鍵がないと、通帳もない。とりあえず今日は時間も遅いし、次の日に警察に相談しよう。とにかく今日は家の電気をつけて鍵をしっかり閉めて、とにかく今日は休もう。そして、明日、警察に相談するということで、その日は警察への通報はいたしませんでした。

 次の日が事件の当日となります。まず初めに、私の職場に警察から電話がありました。勤務してまもなく「栗原さん、警察の方から電話が入っています。」私も前日の窃盗事件等々のことがありますので、何かその問い合わせなのかなと。ただ、職場の方々には警察から電話があったということが伝わって決していい思いはしなかったのですけども、昨日のことがあったので、その電話に出ました。「妹さんから電話がありました?」と。「いや、ないのですけども。」「1回、妹さんに電話を入れてください。」何があったのかわかりませんが、とにかくその警察の方が言う通りに私は妹へ電話を入れました。妹からの返答は、早く帰ってきて、早く帰ってきて、早く帰ってきて、それを繰り返すだけです。そのときの妹の声はまるで他人のように、恐怖に打ちひしがれている。とにかく早く帰ってきてほしい、それを繰り返すばかりです。何か自宅でとんでもないことが起きたのだろう。嫌な思いを抱きつつ、上司に断りを入れて一旦自宅に戻りました。ちなみに私は職場から10分程度で自宅に戻れますので、自転車を飛ばして一目散に自宅に戻りました。自宅に着くと警察車両、パトカー、消防車、警察官、おびただしい方々が規制線の張られた自宅の周辺にたくさんいました。何が起きたのだろうか。とりあえずそばにいた警察官の方にこの自宅の長男でございます。すると、すぐに警察車両に招かれました。そして私の昨日からの行動、何時何分に何をして何時何分に何をして、とにかく事情聴取を受けました。そして、まもなく浦和署に移動しました。浦和署に行っても事情聴取は続きます。妹から、母親が刺された。緊急搬送されている。それを聞いておりましたので、この事情聴取を受けながら、頭に浮かぶのは母親の命です。母親の命はどうなっているのだろうか。浦和署から搬送先の日赤病院に移動をいたしました。緊急治療室の待合室で、そこでも事情聴取を受けたのですけども、まもなく病室に招き入れられて、4時間前に「じゃあ行ってくるよ。」玄関先で別れた母親は、全く別人となってベッドに横たわっていました。担当の先生からは搬送時にはもう既に心肺停止状態。おそらくはもう自宅でほぼほぼ即死状態であったのかなと。そういう状態で搬送され担当の先生からは、「これは事件ですので、あとは警察の方へ。」母親の命はこんな形で潰えてしまった。と同時に、私たち兄妹が犯罪被害者遺族としてスタートした瞬間だったのかもしれません。

 立会人として、自宅の現場検証に立ち会いました。自宅が事件の現場でありますので、警察官の方々の現場検証が自宅で続けられます。その現場検証においては、立会人が必要となる。その現場検証全期間を立会人として見守ることになりました。目の前に警察官の方々の懸命な現場検証活動。それを目の当たりにすることになりました。警察官の方から非常に激励を受け、励まされた言葉。私と妹に「悪いのは犯人なのですよ。絶対に捕まえますからね。」そのときの私たち兄妹にとっては、どれだけ心強い言葉だったでしょうか。テレビでしか見たことなかった、そんな光景が自宅で繰り広げられます。

 いろんな物証が出るたびに、立会人としてこれは決して捜査側の一方的な材料ではないのだと。そういったことを立証するために様々な場面で立会人として立ち会うことになりました。警察官の方々の一生懸命のその捜査活動。非常に私は心を打たれました。母親をこういった形で失って、立ち直れないぐらいのショックを受けているこの身を何か励ましていただいた。

 程なく犯人逮捕されるところですが、次に待ち受けているのがその裁判です。裁判員裁判への参加を私たち兄妹はいたしました。公判前整理ということで、何について争うか。どうやら捜査活動の一つが争点となりました。そもそも犯人検挙の決定的な理由は、犯人の衣服に付着した血液。そこに母親のDNAが検出されました。犯人から出てきた証拠ですから、これはもう犯人に間違いないのだな。そんな思いで捕まった犯人を裁くための裁判員裁判。当時の担当検事とのやり取りがあります。

 「栗原さん何が一番悔しいですか。」当然母親の命を奪われたそのことが一番の悔しさですけれども、そもそも不法侵入をして窃盗をして、その次の日に警察に相談しよう。言い換えれば戻る時間はあったはずです。それにもかかわらず、その犯人は何らかの理由で翌日に自宅に侵入し、自宅を物色し、最後は母親の命を奪っていったのです。担当の検事さんにはそこが一番悔しいところですねと伝えました。

 些細な不備を指摘してさもこの捜査活動に違法性があるのではないか。そんな争いにもなりました。当然当時の警察官の方々の証人としての出廷もいただきました。私は意見陳述で思いを訴えることにいたしました。とにかく立会人として関わったこの捜査活動、疑いの余地なし。その文言を盛り込みました。また意見陳述ではその犯人の黙秘、それとこの事件に対する否認、それに対する思いを訴えました。

 裁判の当事者として感じたことがあります。様々なことを加害者弁護人が投げかけてきます。当然裁判長からもそれについての質問があります。裁判の傍聴席には親戚ですとか、交友関係の方々が後ろに控えております。普段話をしないようなことも、その場で晒されてしまうのかなと。そんな思いが非常に理不尽に思いました。

 母親の事件の解決のために長男としてできること全てを行う。その思いに全くの迷いはないのですけれども、何かその裁判の当事者となって思ったことは非常に理不尽なことばかりです。また国選弁護人制度についてもなんとなく被害者遺族としては非常に違和感があります。犯人が黙秘をし始めたのは弁護人の方がついたその瞬間からです。やはり事件について真実を述べてほしい。ご自身のやったことの責任を取ってもらいたい。その思いは遺族として切実なものです。それが黙秘ということで、全くその事実がわからないまま裁判は進んでしまいます。また、そもそも面識がなかった犯人を目にし、到底有り得ないことが法廷で述べられる。犯人については母親の血液が証拠になっているのですけれども、窃盗に入ったときにもしかしたらその血液が付着したのではないか。もしかしたら母親は事前に大量に出血をしていたかもしれない。そのときに付いた血液であって、殺人のそのときの血液ではないという。そういうまさに理不尽な、そういった証言が法廷で繰り広げられました。なぜ罪を認めないのか。謝罪をしないのか。そもそも事件そのものが私達兄妹にとってダメージであるにもかかわらず、この裁判でも嫌な思いを強いられるのか。非常に理不尽な思いをいたしました。やはり加害者にも人権があります。権利があります。それは当然ではありますけれども、やはり遺族感情として、そんなことが法廷で繰り広げられる。まさに理不尽としか思えない気持ちになりました。

 事件から職場に復帰することになります。私は職場復帰に約50日を要しました。当然立会人として物理的に要する日時、時間。それよりもやはりこの事件のダメージからの回復。あまりにも仕事に戻る、そういったエネルギーはありませんでした。

 ようやく50日を得て職場に復帰いたします。当然休暇をもらって、職場の仲間には大変な迷惑をかけて。しかしながら、上司も上局に問い合わせていただいたところではありますが、なかなか前例なきは却下。自分自身の休暇にて対応いたしました。本来ならば他のことに使っていいこの休暇を、この事件のために使わざるを得ない。やはりそれも被害者に対してまだまだ社会が対応していただいていないのかなという、非常に実感したところです。

 職場に戻りますと、いろんな対応とお心遣いをいただきます。まずは私本人の健康について、またこの事件に及んで何て声をかけたらいいのだろうか。その重大さゆえに戸惑う周囲のそういった気持ちも痛いほど伝わってきたところです。

 ある人から「そろそろ落ち着いた。」という言葉をかけられました。職場復帰してもう立ち直ったのかと思っていただけたのかもしれません。決して悪気があるのではないのだと思います。しかし、私は笑いながら「いや、一生落ち着かないかもね。」という返答をしたことがあります。職場に復帰しての実情。やはり一旦職場に復帰して、社会に復帰してその1人として求められることはハンデも容赦もありません。役割に応じた負担は当然のことです。やはり仕事について失敗すれば上司にも叱られるし、お客様にも叱られる。だけどもう一つ自分の心の中には、見えないけれど大きく深い傷。決してそう簡単に癒えるものではありません。

 長らく職場に迷惑をかけ、そして裁判を迎えたある日、ある上司にそのことについてお話をしました。「わかりました。」あくまでも勤務に支障のない範囲で。これだけのことが起きていながら所詮他人ごとなのかなと、思った瞬間です。もう私個人の出来事としてこれを消化していくしかないな。強く思った瞬間です。

 そして、しばらくして犯罪被害者支援の輪に入ることになります。県警の支援室の方や他の遺族の方のお話を聞く機会や、いろんなお声かけをしていただいて、イベントにも参加をさせていただきました。1日も早く、社会復帰したい元に戻りたい。そういう気持ちはたくさんあるのですけれども、なかなかそう言った気持ちになれない。なかなかこの事件を受け入れたり、心の中の整理がつかない。そんなときに「栗原さんに流れる時間の速さは他の人と違うのですよ。」そういう非常にありがたい言葉をいただきました。

 そして、他の犯罪被害者やご遺族との交流の場もありました。いろんな犯罪に遭われて、事件に遭われて、身内の命を理不尽に失う。どれだけ大変な思いをされたか。そんな思いをそれぞれからお聞きすることができました。

 ある被害者の方は、まもなく加害者の刑期が終わる。いつかまた世の中に出てくる。いわゆる、刑期満了ということです被害者に刑期満了はありません。そんな言葉も非常に印象的です。被害者はその心の傷、それはそう簡単に癒えるものではありません。

 そして、様々な被害者感情の存在を知ることにもなりました。当然、私たちの事件は一定の解決、犯人が逮捕され、判決が出て。しかしながらまだまだ犯人が捕まっていない。未解決の方、そしていつか出てくる加害者の存在とそれぞれの思い。さらには交通災害の被害者の方々、その存在についても知ることができました。交通事故で肉親を失った。本当にそれは驚愕しきれぬ事件となんら変わらず、犯罪被害に相当するものである。本当に皆さんそれぞれつらい、苦しい思いを持って生活しているのだな。そんないろんな方の被害者の感情、それを知ることになりました。

 埼玉県犯罪被害者援助センターにおいて、その援助活動の場に入り、2017年5月、「自助グループ彩のこころ」に参加することになりました。失った命は決して戻りません。母親の命が戻ることは絶対に叶わないことです。しかしながら、同じように理不尽な形で身内の命を失った、そんなご遺族の方々、同じ感情、そして思いを共有する場であります。2ヶ月に1回、凶悪事件で身内を失った犯罪被害者遺族の方々が集まる場です。

 2017年5月以来、決して何十人もいるグループではないのですけれども、ずっと参加している方、途中から参加していた方、そして1回か2回参加した方、いろんな方や遺族の方とお話をすることができました。自助グループに参加すること、その行き帰りの時間が故人を偲ぶ機会なのです。そんなふうにおっしゃる方もいます。

 冒頭で申し上げましたけれども、段々周囲のこの事件の記憶も薄れつつある。ますます私たち兄妹のこういった母親のことを話せるこの自助グループの存在は非常にありがたいところです。

 犯罪被害者遺族になるということは夢にも思わなかった境遇です。しかしながら、テレビや新聞でしか知らなかった世界が現実となってしまいました。母親の事件から10年以上経過をいたしますけれども、その間も脅迫事件や同様の事件が発生しています。それは誰もが犯罪被害者になる可能性があるという現実があるのかなと、痛感するところでございます。

 事件の数だけ被害者の存在があります。それはきっと社会に埋もれてしまっている多くの犯罪被害者の存在もあるのだと思います。しかしながら、この支援の輪に加わる被害者はほんの一握りです。やはり被害者への救済や、被害者支援のあり方について、もっともっと意識をしてほしい。それにはまずその存在を認識することから始めてほしいと思います。

 どのように支援をしたらいいのか。まだまだ被害者の置き去りにされた思い。この10年、なかなか変わらないのかな。そういった思いでいっぱいです。各自治体で条例の制定は、なかなか進まない。その現実も知ることができました。ぜひとも社会が犯罪被害者という、存在を救済する枠組み、何卒、考えていただきたい。

 私と妹はいつも被害者も加害者も出さない社会、それを望んでおります。

 彩のこころ参加メンバーで一般社団法人犯罪被害者等支援の会オリーブの 理事長 佐藤咲子さんという方がおられます。私たちが犯罪被害者遺族になったその直後から、ご自身も犯罪被害者であるにも関わらず、それはそれはお心遣いいただき、励まされ、その犯罪被害者支援の場を広げるべく一緒に歩んでまいりました。佐藤さんがいつもこういった場で皆様にお伝えする言葉。それは「被害者の声を聞いてくださること。それは支援なのですよ。そしてこの場所に足を運んでくださったこと、まさに犯罪被害者に対する支援です。なので、この支援の輪をぜひとも広げていっていただきたい。」

 彩のこころを指導していただいてる援助センターの方から「続けていくことが大事ですよね。少ないメンバーでありますけれども、その犯罪被害の思いを世に伝え、そしていつしか万が一被害者になってしまったならば、いつでもその場に加わってください。」

 もう一度最後にお伝えします。私たち兄妹が望むこと。被害者も加害者も出さない社会。何卒、そういった社会が来ることを強く願います。以上で私のお話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

 

栗原 穂瑞 (犯罪被害者御遺族)

 こんにちは。妹の栗原穂瑞と申します。兄の話に少し重複する部分もあるかと思います。お聞き苦しい点もあるかと思いますが、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

 私からも少し事件の概要をお話させていただきます。平成24年8月20日月曜日、そして21日火曜日に母は不審者を目撃しておりました。当時私は家から自転車で10分ほどのマンションで暮らしておりました。ただ別に住んではおりましたが、休みの日は母と一緒に時間を過ごし、平日も仕事帰りに家に寄って母といろいろ話をして家に帰るというそのような状況でした。

 事件は8月25日の土曜日の朝です。23日の木曜日、私は仕事帰りに家に寄りました。その際に、その月曜日と火曜日の不審者の話を聞いております。母が自分の部屋から親戚の家の塀を乗り越えている、そんな男の姿を見ている、そういう話を聞いて、私は母のことを心配しました。犯人からすれば、その行為を母に見られた、もしそういうふうに気づいていたら、というちょっと不安な気持ちがありまして、その日はマンションへ帰る際、「とりあえず鍵だけはしっかり閉めて。」と言って家を出ました。

 そして事件のあった日の前日。24日の金曜日夜8時半ぐらいだったと思います。母から私の携帯に電話がありました。あんたにあれほど言われたのに泥棒に入られたのだと。鍵がない、財布がない、通帳がない。実は翌日、母は銀行に行くつもりでバッグを自分の部屋に置いていたそうです。そんなふうに連絡してきた母に私は咎めることもできなかったですし、とても落ち込んだ声だったので、その際にもうその時間に兄が帰ってきている、そういう話をされたので、お兄ちゃんがいるからと私は思ってしまったのです。翌日の土曜日私は仕事が休みですので、「わかった明日朝行くから、それで警察に連絡しようね。」とそんな話をしてしまった。自分自身が今でも悔やんでも悔やみきれません。あのとき私が行っていたら確実に状況は変わっていたはず。

 明日行くねって話をしていましたが、母から25日土曜日8時6分に私の携帯電話に着信がありました。いつも電話をかけてくる母はとても明るく、「はーい、お母さん。」そんな第一声なのですが、その時は「来て、早く来て。」とっても切羽詰まった声で、その一瞬で私は何かとんでもないことが起きているのだと。そういうふうに感じて、「わかった、すぐ行く。」その際私はその場で自分の携帯で警察に連絡することも一瞬考えたのですが、そうすると私が身動き取れない、そう思ったのですぐに自転車を飛ばして自宅に向かいました。私の記憶では、玄関の鍵はかかっていませんでした。「お母さん、お母さん。」そう言って家に入って、キッチンに行ったとき、母の姿が目に飛び込んできました。すぐに私は110番通報します。その際に、とにかく落ち着かなくちゃいけない、ちゃんと説明しなくちゃいけない、そんな気持ちで連絡をしていました。

 それが私が見た事件当日の状況です。その後、犯人が逮捕されるまでには2週間ちょっとありました。ただ、その間に容疑者が確保されていることも私たちは知りませんでした。そして、裁判員裁判が始まったのは事件の2年後、平成26年の2月25日からです。その後、無期懲役の判決が下され、ただ犯人側はそれに控訴し、東京高裁での裁判。そして上告し、それが棄却され、刑が確定されるのですけれども、その後犯人は再審請求をしております。ただそれも棄却されて、平成29年の9月10日に無期懲役の確定がされております。今ご説明した通りに再審請求もしている犯人です、全く自分の罪を認める、償うことはおそらく今もないのだと思っております。

 犯人はおそらく国選弁護人がついております、そういう方の知恵でいろいろな法の手続きをしているのだと思うのですが、そういった手続きも私たちもわからなかったので、その際やはり県警の支援室、そして公益社団法人の埼玉被害者援助センター、こちらのスタッフの方たちに全てサポートしていただいて、全ての工程を一つ一つクリアしていく、そんな状況でした。本当にありがたい支援をいただいております。加害者は逮捕された時点で、身の安全が確保されているのだと私は思っています。刑務所へ収監されたとしても、制限のある生活ではあるとはいえ、更生という未来に向かって様々な工程のカリキュラムを刑務所の中で行っております。加害者にも人権があることは十分理解しておりますが、到底、遺族としては納得できることではありません。

 被害者、そして遺族は事件の日から生活が一変しております。加害者もしくは容疑者が安全な警察署で守られている最中、私は恐怖の中にいました。翌日から私のマンションには報道関係者が来ます。報道の重要性は十分理解しております。私もいろんな情報はニュース等で入手するわけですから、とても大切なことだと思います。ただ、そのターゲットが自分になる、それは全くの別問題なのです。

 これからどうなっていってしまうのか。犯人はちゃんと逮捕されるのか。私の精神状態は異常でした。そんな中、そういった対応ができる強さは私にはありません。電気を消してほんの少しの明かりも漏れないようにカーテンを閉めて、インターホンが鳴るたびに息を潜め、あまりの恐怖で私は刑事さんに電話を入れたこともあります。悲しいという感情は当時はありませんでした。ない、というより、あまりの恐怖と不安で悲しみを感じることはありませんでした。そういった私の状況がありますので、早い段階で支援室に繋いでいただきました。

 平成29年5月、自助グループの彩のこころ、これは交通犯罪以外の凶悪犯罪等で被害者遺族となってしまった方々のよりどころとなっております。友人、そして身近な人にさえ言えないことを支援員の方たち、そして遺族の方たちと様々な思いを共有し、支え合い、寄り添う場になっております。この10年の歳月。できなくなったこと、つらい場面、様々あります。先ほど兄からもお話しさせていただきましたが、私は倒れている母の傷の一部を見ております。それを110番通報した際に、その状況も説明しております。やはり凶器は見つかっておりませんが、どんなものが凶器になったのかは想像がつきます。調理料理はやはりできません。限られたことしかできません。刃物を使うことにとても抵抗があります。そして人との関わりがとても難しくなりました。家の出入りは人がいないことを確認してからでないとできません。そして友人関係はごく数人です。私の年齢的に言うとやはり女性の友達は子育てが終わって一段落して、またみんなで集まろうね、なんていうような年齢でしたが、全ての友人と私は連絡を絶っています。どこまで知っているのか、何か聞かれたら私は何て答えたらいいのか、それは今も私はどうしていいのかわかりません。

 私は幼少の頃から書道を習っておりました、事件当日も午後から先生のお宅に行く予定でした。ですから、今時の若い子はやらないのかもしれませんが、年賀状は毎年手書きで4、50人の方に出していました。今はできません。おめでとう。そんな言葉を書くことは私にはできません。また母のいない1年が始まる。そう思うと、もう年賀状を書くことはできません。

 人の集まるところもとても怖いです。人を信じられなくなった。今ここにいる人たちは、犯罪被害に対して、とても興味を持って寄り添っていただいている方だと思いますが、世の中にはいい人ばかりではない。全く見ず知らずの人からそういった被害に遭う。そう思うと人が多く集まるところがとても怖いのです。今は通勤電車もとても怖いのです。不特定多数の人とあの密閉の状態に置かれている。片時も緊張をほぐすことはできない、常に緊張しているような状態で通勤しています。

 そして何気ない一言にもとても傷つきます。事件後に知り合った人、そして職場の人も事件当初からの人はごくわずかです。例えば、「穂瑞さんいつも明るいね。」とか「栗原さんいつも元気だね。」と悪気がないのはわかります。逆にとても良い印象を持っていただいているのだと思うのですが、正直つらい言葉です。遺族の方たちも同じような経験をされています。事件後に、「あなたは強いね。」って、みんな感情を押し込めて必死に生活せざるを得ないのです。強くもなければ明るくもないのです。

 どんなことをしても以前の生活には戻れません。母は帰ってきません。今はただ淡々と静かに生活して穏やかに人生を終えること、それを私は望んでいます。被害に遭わないでくださいっていうのはすごく難しいことなのだということ、誰にでも起こり得る。私たちもまさかこんな形で母を失うとは思っていませんでした。遺族になってこうやって皆さんの前でお話するなど、夢にも思っていませんでした。

 ただ加害者がいなければ被害者は生まれないのです。悪いことをしようとしなかったとしても、車を運転する方、自転車でも死亡事故が起きています。ほんの少しゆとりのある、ちょっとでもいいから優しい気持ち、譲り合いの気持ち、それだけでも事故は減らせます。

 一度失った命は絶対に戻りません。それは被害にあった人だけではなく、家族やその周りの人たちにも影響を及ぼすということ。絶対に加害者を出してはいけない。皆さんが安全に安心して暮らせる、そういった世の中を願いまして、本日の私の話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

 

    警察庁 National Police Agency〒100-8974 東京都千代田区霞が関2丁目1番2号
    電話番号 03-3581-0141(代表)