新潟大会:基調講演

「最愛の家族を突然失って~心から求めている支援とは~」

中曽根 えり子(交通犯罪被害者御遺族、公益社団法人にいがた被害者支援センター理事)

 皆さん、こんにちは。ただいま御紹介いただきました中曽根と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私が活動しております公益社団法人にいがた被害者支援センターは、後ほどパネルディスカッションでもお話をさせていただきますが、犯罪の被害に遭われた方、及びその御家族や御遺族に対しまして、被害直後から中長期的に支援のできる民間の援助団体です。

 それでは、なぜ、私がこの活動を行うようになったのか、そのきっかけとなりました自分の体験をお話しさせていただきたいと思います。

 もともと、私達家族は夫の仕事の関係で転勤も多かったのですが、子供も4人授かりまして平凡で平和な日々を過ごしていました。3番目に生まれたのが男の子で奨(しょう)と言うのですけれども、私達夫婦の願いのとおり、明るくてたくましくて昔のガキ大将のごとく、悪ガキではありましたが、健康的に育って、動物が大好きで獣医になりたかったという夢も持っておりました。当時飼っていたネコが初めてお産をするとき、お産の間じゅう、お腹をさすり続けて、産婆さんの役を行ってくれるような気持ちの優しい子でした。友達も多くて、いつもたくさんの友達が遊びに来ていました。外で遊ぶときには、近所のお宅で飼っているワンちゃんを借りに行ったりするような人懐っこい子供で、一緒に友人達と駆け回って、友達からも周りからも動物からも不思議と好かれる子でした。

 平成11年4月15日、突然、思いもよらず、今まで生きてきた人生の中で最悪のその日はやってきました。一時停止をして、確認をして道路を渡り始めた息子に反対車線から大型トラックが法定速度の倍以上のスピードと3割以上の過積載で21メートル手前から気がついているにもかかわらず、停まり切れずに中央線を越えて奨にぶつかってきました。即死でした。まだ小学校2年生になったばかりの春でした。

 朝、学校に行く出がけに「お母さん、2年生になったから、今日から体操教室、3時半になったんだよ」と言ったので、「そうなんだ」と何気なく答えたんですけれども、これが奨と言葉を交わした最後となりました。そのとき、玄関で靴を履きながら、振り返って私を見た奨の目は今でも忘れることができません。

 事故現場は自宅の近くで、私は奨の友達のおばあちゃんから、突然、「奨君が亡くなりなったから早く来て」という、冗談なのか本気なのか、何が何だか訳の分からない電話をもらいます。とりあえず、場所も分からなかったので、家の小路を出て、小学校のほうに向かって車を走らせました。すると、すぐに目の前に大きなトラックが止まっていて、もう前には進めないという状態になりました。道路上には中央線のあたり、血の海と肉片のようなものが飛び散っているのが目に入ってきました。更に、その血の海の向こう側に頭と体全体を毛布で包まれた息子を見ることになりました。まだ体が温かかったので、「奨君、奨君」と何度も名前を呼びましたが返事は返ってきませんでした。救急車が来たものの、私は奨と一緒に救急車に乗せてもらうこともなく、そのとき、現場に来ていてくれた奨の担任の先生と一緒に家に帰るように促されました。そして家に戻ったわけです。

 一方、このとき、奨の父親、つまり私の夫は「亡くなった」という連絡を小学校から受けて、仕事を途中でやめて、半信半疑のまま警察に向かっていました。行った先は病院ではなくて警察署でした。警察署の霊安室に案内され、「奨であることの確認をしてほしい」と言われたそうです。霊安室には、顔は完全につぶれ、歯も折れ、下顎骨、頭蓋骨もぺちゃんこになり、爆発したかのように割れた頭から脳を包む硬膜が飛び出している、そんなような状態の奨がいました。これは後に夫が書いた上申書の中身を読んで、私は初めて知りました。

 夕方、警察署に迎えに行ったときには、ガランとした部屋の大きな棺の中に裸にされた小さな奨が、白い布のようなものを掛けられて寝かせられていました。血のついた洋服とランドセルを返していただきました。

 通夜、葬儀と、何とか遺族の席に座っていましたが、これが現実だと理解しているつもりでも、心の中はまだ信じられない、無感情の状態の自分がいました。乖離状態というんですか、高いところから遺族の席に座っているもう一人の自分を見ている、まるでテレビとか映画の葬式のワンシーンを見ているような、もう一人の自分がいる、そんな感じでした。こういう場面では、息子を亡くした母親なんだから、泣かなければいけないんだろうなと思う私もいましたが、涙も出ない状態だったように思います。

 葬儀直後、自分がどうやって過ごしていたのか、夫は仕事に行っていたのか、子供達は学校や幼稚園に行っていたのか、家事をどうしていたのかなど、今でもほとんど記憶にありません。初七日を過ぎても、私達は事故の概要を全く知りませんでした。夫の両親が県外に住んでおりましたので、帰る前にどういう事故だったのかを知りたいということで、こちらから警察に連絡をしまして、概要を教えてもらいました。「子供の事故イコール飛び出し」というイメージは誰もが持っているものだと思うのですが、奨は飛び出していなかったということが分かって、ホッとした反面、それならば、なぜ死んだのだ、死ななくてもよかったのではないか、と納得がいかず、スピードをオーバーして、更に過積載という交通法規を破って人を死に至らしめるのは交通犯罪、殺人以外の何ものでもないと思うようになりました。

 日々、加害者に対する憎しみだけが増していく反面、あの日は奨の体操教室の日で間に合うかどうか心配していたんだから、車で学校まで迎えに行けばよかった、そうすればあの日、あのとき、あの場所で、あのトラックに会わなかったのだと思うと、自分を責めて後悔する日々にもなりました。周りは何事もなかったかのように一日が流れていきます。ふと気がついたら、桜の花の季節からあじさいの花が咲く、雨の多い季節になっていました。私は事故後、ほとんど家を出ることがなく、毎日線香をあげて遺骨の前に座って、一体、自分は何をしているのか、どうしてこうなってしまったのか、あの事故の日から時間が止まっているのに、世の中は何の変化もなく動いている、そんなようなことがすごく不思議な気がしたのを覚えています。

 そういう日々を過ごしている中で、皆さんにはこれを言うと驚かれるかもしれませんが、私はどんどん加害者が憎く、加害者に死んでもらいたい、いえ、加害者の子供に死んでもらいたいという気持ちになっていきました。電話帳で番号を調べたり、地図を見たり、どうすれば復讐することができるのか、どうやったら私の気持ちが加害者にも分かるのか、目には目を、歯には歯をという言葉があるくらいだ、やっても当然だ、死ねばいい、と思いました。しかし、私が実際、そういう行動をとったら、今度は夫も子供達も犯罪者の家族になります。私はまだ自分の気持ちを抑えなければならない理性は持ち合わせていたように思います。

 今でも、私は息子を轢いた人間を殺人者だと思っています。また、奨が一人であの世に行ってしまい、不憫で、私も死にたいとしばらくの間は思いました。このような理不尽な形で息子を失って、加害者というのは、当然、刑務所に入るものだと思っていました。犯罪や死亡事故というのは、普段、生活している分にはほとんど自分と関係ない、縁がないものと思っていたので、加害者がどのような形で罰せられるかというのは全く知りませんでした。

 それでは、皆様のお手元にもあります、私達家族が事件後、更に傷ついたことにつきまして、別紙1をごらんになっていただけたらと思います。時間の関係で抜ける部分があると思いますが、後で見ていただければと思います。被害者、更に私達家族を真ん中に置きまして、上の行政の被害者支援から時計回りに話を進めていきたいと思います。

 当時、県には交通事故相談所という機関が既にありました。思い切って電話をいたしましたが、返ってきたのは「えっ、息子さんが亡くなったって?うん、それで、損害賠償、子供だからね、幾らくらいかな。示談はしたの?」、そんなような話ばかりでした。常識がないと言われればそれまでかもしれませんが、私はそうではなくて、加害者がどのような罰を受けるのか、車の運転は一生できなくなるのか、それこそ損害賠償金を要らないと言ったら罪を重くできるか、などやるせない気持ちを受け入れてもらいたいと思っていましたが、期待したような言葉は返ってきませんでした。県の交通事故相談所は、損害賠償の相談、つまり民事的な相談を受けるところで、被害者の相談だけではなくて加害者の相談も受ける機関だったことは、当時は分かりませんでした。加害者からの謝罪は事故直後ありましたが、私ども夫婦は加害者に会うのはいやでしたので、弁護士費用はかかると思いましたが、刑事裁判に関するところから弁護士さんをお願いすることにしました。

 刑事被疑者の捜査協力ということで依頼した覚えがありますが、なぜ、息子が亡くならなければならなかったのか、その死の瞬間の真実と、そして加害者がどのような罰を受けるのかということを知りたかったからです。弁護士さんが「交通の裁判では、1人が亡くなっていても、初犯であれば執行猶予がつくでしょうね。2、3人が亡くなって、実刑が2、3年くらいかな」というようなことをおっしゃいまして、交通事故の量刑の軽さを知りました。当時の法律、交通事故は業務上過失致死傷ということになりますので、最高が5年、初犯であれば執行猶予がついて、加害者は普通の生活がすぐにできるようになるということが分かってきました。こちらは大事な家族を失って、生活もがらりと変わっているのにと思い、国の制度や社会の仕組みに大変失望させられました。その後は、自動車運転死傷処罰法に変わり、量刑も少しは重くなってはいるようですが、それでもまだまだ交通犯罪の被害者遺族にとっては納得のいくものではないと考えます。

 それでも警察の方が懇切丁寧に事故のことについて教えてくださったり、弁護士さんが刑事裁判にも関わってくださったりと、大変ありがたかったこともありました。しかし、反面、私達は検察官による二次被害と民事裁判では裁判官による二次被害を受けることになりました。平成16年に犯罪被害者等基本法の法律ができましてから、現在は検察庁の方の被害者への対応、配慮はしっかりしてくださっていますが、当時は弁護士さんをお願いしていなければ、検察官に面会できたのかどうか、今でも疑問です。

 また、当時は、業務上過失致死として扱われて、公判請求率--裁判になる確率が低いということは弁護士さんから聞いていました。私たち夫婦は刑事裁判になるまで、弁護士さんのアドバイスで、上申書を2回、刑事裁判中に1回出すことになりました。担当の副検事さんとは3回ほど面接する機会も設けてもらいました。でも、その中で公判担当の検事から、「加害者の弁護人は大変有名な弁護士ですよ。あの人は絶対悪いようにしない。だから、示談をしたらどうですか。加害者の罪を軽くする嘆願書を書いてもらえませんか」と言われました。私達は検事さんが被害者の味方なのだと思っていましたので、そういう言葉を発する検事さんに対してびっくりしたし、それと同時に大変傷つきました。

 更には、1回目の裁判が終わりまして、担当した検事さんと加害者の弁護人が笑って話をしながら仲良く肩を並べて法廷を出ていくのを見て、ああ、形ばかりの裁判をしているんだなと、そういうふうにも思いました。2回目では、息子が飛び出したから事故が起きたのではないかという弁護人の一方的な弁論で終わりまして、3回目は判決、やはり結果は有罪にはなったものの執行猶予がつきました。当時は刑が確定すると刑事記録が開示できるという法律でありましたので、弁護士さんが取り寄せてくれましたが、警察の方が調べてくださった、一時停止を目撃した方の供述書というものはありませんでした。裁判に必要がないと分かると抜粋されるということもこのとき初めて知りました。私達がお願いしていた弁護士さんが証言者の供述について文書送付嘱託申立をしてくださいましたが、検察庁からは、公判未提出につき応じられないという返事が返ってきました。

 皆様も御存じかもしれませんが、被害者参加制度が平成20年12月から始まっています。法廷の中に入って、検事の横とか後ろに座って、意見を述べたり、質問したりできるようになりました。交通死亡事故も対象事件なので、当時、その法律があれば被告人の弁護人の法廷内での発言に対して、こちらも検事さんを通して反論することもできたのではないかと思っています。

 民事裁判については大変迷いました。はっきり言って、何をしてもどうせ息子は返ってこないということ、刑事裁判がこういう結果になって虚しい、悔しいという思いはありました。それから民事裁判は損害賠償ということですから、息子の命の値段を決めるようで、とってもいやな感じがしていました。息子が飛び出したという形で刑事裁判が終わったような気がしていましたので、弁護士さんに「飛び出していないという事実は民事裁判の中で証明することができる。起訴されて結審したものは検察審査会にかけることもできませんし、中曽根さん、民事裁判しますか」と言われて、悩んだ末、ようやく決心したのは、そこから8カ月くらいたっていたと思います。

 民事については、最初、和解室というところで行われましたが、加害者側の弁護士は案の定、飛び出したということで奨の過失を主張してきました。そのとき裁判官が「他の真実がなければ、今までの判例に基づいて行いますよ。お母さん、母親として交通ルールを教えなかったこと、息子さんが飛び出したこと、あなた、後悔してるんじゃないの」というふうなことまで言われました。真実をねじ曲げられ、息子の名誉、プライドまで傷つけられる形となりました。当時、他県で裁判官の言葉で傷ついたために、弁護士を通じて謝罪を求めるという御遺族がいらっしゃいまして、マスコミでも取り上げられていました。私どもの依頼していた弁護士さんが「中曽根さんもそういうことができますよ」と言ってくださったのですけれども、遺族の立場に立って気持ちを察していただく、そういう弁護士さんをお願いしたこともありまして、気持ちも落ち着き、謝罪を求めるというようなことはいたしませんでした。

 供述調書が担当した警察署に残っていまして、弁護士さんが警察で聞いて、その目撃者にお願いをして、民事裁判で証言をしていただくことができました。一時停止をした息子と目が合ったこと、加害者から電話があって「嘘の証言をしてほしい」と言われたことを法廷で話をしてくださり、息子の名誉を守ることができた、と感じました。

 裁判について話をしてきましたが、日常生活ではもちろんいろいろなことが起きました。当然ですが、この事故以来、私達家族の人生、生活はすごく変わりました。皆さんも知っている言葉、聞いたことのある言葉だと思うのですけれども、私はPTSDという状態になったのではないかと思っています。自分ではどうにもならないような突然の出来事、戦争、暴行、東日本大震災のような災害、交通事故等によって心にショックを受けた後で、心のほうからいろいろな反応が起きて、要するに体も心も生活全般がうまくいかない、そんな状態をPTSDと言うのだそうです。私は心療内科にかかることはなかったのですけれども、小西聖子(こにしたかこ)さんの『犯罪被害者遺族』という本を読んでから、自分がPTSDという状態なのではないかと感じるようになりました。事故の後で次々と起こる症状、状況は決して自分だけではなくて、こういうことに遭遇してしまった人達に起こり得ることだということが分かってきました。また、子供を亡くしたことにより複雑性悲嘆という悲嘆反応も起きていたということが被害者支援に関わるようになって、研修を受けることによって分かってきました。

 例えば、どんなことかと言いますと、私は事故を思い出させるような場所を避けるようになっていました。現場はもちろんのこと、息子が通った通学路。当時は小学校5年生の次女がおりましたけれども、それでも小学校には1年半、2年近く行くことができませんでした。今でも申し訳ないと思っていますが、次女の授業参観や音楽会等、いろいろな行事には全く参加できず、卒業間際の6年生を送る会、6送会ですね、そこにやっと出た記憶があります。

 電話の音、救急車の音も怖くなりました。電話が鳴ると、また家族の誰かが事故に遭ったという連絡をもらうのではないかと思って、電話の音は非常に怖くなりました。救急車のサイレンの音もそうです。サイレンが鳴って、そしてまた電話が来るんじゃないか、そんなふうに思いました。

 また、奨を轢いた会社のトラックが通ったり、同じ色のトラックを見るだけでぞっとしました。それから、長い間、趣味を見つけたり、旅行にも行けなくなりました。自分だけが楽しむなんて到底できない、奨君がかわいそう、と思ったからです。

 もともとママ友達と子供を遊ばせながら、毎日のようにお茶飲みをしたり、PTAの役員をしたりと、人間関係は大切に、楽しく過ごしてまいりました。それなのにその事故によって被害者特有の動物的勘が働くようになり、人間不信になり、周りの人に会うのが怖くなり、興味本位、哀れみの目も気になり、買い物も遠くのスーパーに行ったり、宅配をお願いしたり、人目を避けるようになっていました。

 前に研修で精神科医の先生の話を聞いて、その動物的勘というのは、被害者が他人の気持ちが感じ取れてしまって、本音、建前、正直で言っているのか嘘なのか、そういうことが分かる、読み取れるという状態があるということを精神医学的に話しておられまして納得しました。この動物的勘に関しては、けっこう被害者の方達から支援をしていて聞いていることでもあります。自分自身、そのような状態がしばらくの間、続きました。「頑張れ」という言葉とか、あと「他に子供が3人いるんだからしっかりしてね」とか、「子供のいない人もいるんだよ」とか、新潟の田舎の出身ですので「長男を亡くして大変ですね。もう一人、子供を産みませんか。産んだほうがいいんじゃないか」とか、そんなことも言われたりしました。あるときは淡々としているように見えるのか、「元気そうだね。私だったらとても生きていけないわ」というふうなことを言われました。多分、周りの方はなんて声を掛けていいのか分からないから、そういうことをおっしゃったのでしょうけれども、被害に遭った直後ですと、やはりそのような言葉は傷つきました。また、納骨ができず、親族からは「成仏できないから、さわりがあるから早く納骨するように」と言われました。祟りがあってもいい、奨君のお化けが出てくるなら出てきてもいいと、そんなふうに思いました。奨を一人でお墓に入れるのはとてもかわいそうな気がしていましたので、ずっと入れることができなかったのですけれども、十三回忌の近くになりまして、上の二人の子供達は県外の大学に行って、そして奨が生きていたらもう18歳を過ぎているので、多分、自立し始めていただろう、そう考えられるようになりまして、十三回忌でようやく納骨する決心がつきました。

 家の中は明かりが消えたように暗く、会話もなく、それぞれみんながいろいろな思いを抱えて、家族の気持ちはバラバラになっていきました。子供達の声で賑わっていた我が家はひっそりとした家になりました。夫は仕事に行っていたものの、みんなが寝静まると仏壇に向かってうなだれて泣いている姿を、ふと目が覚めると何度も見ることがありました。

 当時、思春期を迎えていた中2の長女と小5の次女、親の悲しむ姿を見て、何も言わずに黙々と学校や習い事に行っていました。しかし、あるとき、長女は「しょっちゅう弟の夢を見る」と言い出しましたし、次女は「学校に行くのが虚しい」と言い出しました。三女は、当時、幼稚園の年中で、「お兄ちゃんはどこに行ったの」と最初は泣いていましたけれども、そのうちに顔色も悪く、お腹が痛いと言い出す日々が続きまして、幼稚園を休ませることもたびたびありました。

 事故後はキャンプや家族旅行はもちろんのこと、いろいろな経験をさせてやらねばならない時期に、全く経験をさせられず、真剣に遊んでやることもできず、きちんと向き合わなければならないときに、心、ここにあらずという状態が続いたように思います。事故後、しばらくして、子供達がテレビのバラエティ番組等を見ていて笑うと、「なんで笑えるんだろう。奨君が死んだのに」と、しまいに子供を責めたり、不機嫌になったりもしました。しまいに、子供達のほうから「奨君じゃなくて、私達の誰かが死ねばよかったんだよ。お母さんは奨君だけが可愛いんだよね」と言われるようになっていました。

 実際、このときも、私は亡くなった奨君のことだけが頭にあって、3人の子供達の兄弟を亡くした悲しみを受け止める余裕はなかったのは事実です。私は残された子供達の養育放棄、子供達に対して心理的な虐待もしていたんだなというふうに思います。

 記念日のたびに撮っていた家族写真はこのときから撮ることがなくなりました。誕生日やクリスマス、お正月等のイベントごとはずっと楽しめませんでした。“記念日反応”という言葉で言いますけれども、人が楽しんでいるときはつらいばかり。今はもちろん生きている3人の子供に向き合っているつもりですけれども、当時、きちんと子供達に向き合えなかったことに対しては、親としての負い目を今でも持ち続けています。

 それから、宗教の勧誘についてですけれども、これがまた驚くくらい、いろいろな方から宗教のお誘いがありました。それから、霊能力者が突然訪ねていて、「あなたの息子さんが私の肩に重くのしかかっていて、つらい。切ない。息子さんが痛いと言っている」というふうなことを言われたりして、非常に動揺したこともありました。

 マスコミに対しても傷ついたことがありました。奨の事故は業務上過失致死ということでしたから、マスコミから見たら大きな事件ではないはずで、新聞記事も小さな記事でした。ただ、その日の夕方のラジオで、ニュースの報道があった後に、パーソナリティが「小学生ですものね。飛び出したんでしょうか」というふうなことを言ったということを友人から後で聞きました。メディアを通して世の中に情報が伝わるわけですから、マスコミの方には真実を報道してもらう、もしくは言葉を慎重に選んで表現していただきたいと思っています。

 そのような中で、私達が何とか普段の生活ができるようになっていったのは、今度は別紙2を、皆様、見ていただければと思います。被害者、つまり私達家族を真ん中に置きまして、警察の被害者支援、情報提供というところから時計回りに話を進めたいと思います。

 私達は警察の方に恵まれたと思っています。「恵まれた」という表現をいたしました。事故後の捜査も迅速で、かつ目撃者の証言もあったこと、それから捜査の内容は全て教えていただくことはできないのでしょうけれども、その中でも目一杯教えていただきました。それでも納得がいかなかったり、被害直後に言われても理解できないことはたくさんありました。例えば、実況見分調書など、難しい専門用語等、使われても一般の人間では分からないわけで、そのたびに警察に行くと担当の方が懇切丁寧に何度も教えてくださいました。当時、被害者連絡制度というのができたばかりだったので、警察の方から教えていただいたことも非常にありがたく思っています。

 このように、思いやりを持って接していただいたことは、職種ももちろんあるのでしょうけれども、その方の人間性があるのではないかと思っています。特に交通事件の場合、警察の担当者から「誰でも被害者にも加害者にもなり得る」とか「加害者の家族もかわいそう」とか「相手も悪気でやったんじゃないから」などという言葉を言われることは遺族にとって非常に傷つくわけですが、支援をしていると聞こえてきます。

 幼稚園、小・中学校の子供達への対応ということですが、当時、同じ小学校に5年生の次女がおりまして、校長先生をはじめ先生方は次女に対する対応をお考えくださったと思っています。少なくとも私は先ほども言いましたが、次女が小学校を卒業する間際まで学校に行くことができなかったので、先生のほうが私どもの家のほうに来てくださいまして、事故直後は毎週のように、その後しばらくして2週間に1回くらいのペースで次女の学校での様子を報告してくださいました。

 それから、事故が4月でしたので、5月のPTA総会のときに校長先生のほうから事故の内容、息子は飛び出していなかったということをお話しくださったことをあとで友達から聞きました。校長先生が総会で話してくださったことによって、あらぬ噂とかが立たなかったのではないかと感謝しています。

 それから、当時、中学2年生の長女がいたのですけれども、中学の校長先生は不登校を専門にされていた方だったこともありまして、長女が学校に出ていくと、すぐに校長室に呼ばれまして、「君、しばらく学校に来たくなければ無理に来なくてもいいよ」と、そういうことをおっしゃってくださったということで、逆に学校には行こうと思ったと。そういうことは何年もたってから長女が話してくれました。学校側からはそのような形で子供を見守っていただきました。今、支援をしていても、学校側の対応は、その後、遺族が被害を乗り越えようとしていく上で大きな影響を及ぼすと感じています。

 それから、友達間について、普通に接してもらってありがたかったと言っています。特に同じ小学校に通っていた次女、事故現場で幽霊が出るという噂を聞いた友人が、次女の耳に入れないようにしていてくれたというようなこと。この話は、本当につい最近になって次女から聞いたことです。

 それから、食事や家事の世話。被害直後は家事もあまりできなかったのですけれど、このときは、親、友人、近所の方に助けてもらいました。また、子供の習い事の送迎。当時、長女はクラブチームで新体操をやっておりまして、次女は空手をやっていました。チームの父兄の方達がローテーションで送迎してくださっていたということを、あとになって知りました。

 近隣の方の対応と書きました。私は近所の人の心ない噂話もなく、非常にありがたかったと思っています。本当に普通に接してくれましたし、興味本位で話をいろいろ聞かれることもありませんでした。また、頻繁におかずを差し入れていただきました。それから、子供達が朝学校に行くとき、帰ってくるとき、ごく普通の挨拶、声掛け、これがとても大事だなと思います。家の中がとても暗いので、子供達が朝学校に出掛けのときとか、近所の方に会うと「おはよう、気をつけて行っておいでね」とか、学校から帰ってくるとき、「おかえり、今日、学校どうだった?」とか、そんなふうな声を掛けてもらったということを子供から聞いています。とてもありがたかった、普通の生活を感じることができてよかったと思っています。

 それから、宗教家の存在です。私達、実は無宗教なので、でも、葬式をしなければならなくて、どうしていいのかが分からなくて、友達の知人のお寺様に結局は葬儀なんかもお願いすることになりました。月命日にお寺様から来ていただくと、「奨君は家族のことをいつも見守っていますよ」という前向きな言葉をいただいたり、納骨も好きなときにすればいいというふうにおっしゃっていただくなど、非常にありがたかったです。

 それから、友人・知人の励まし。当時、友人がどのように声を掛けたらいいのか分からなかったと思うのですけれども、ある友人から「私が電話しているのは迷惑だと思うけど、必要だったら、いつでも電話ちょうだいね。いつでも待っているから。いやならしなきゃいいんだから」と言ってもらったことが非常に心に残っています。

 それから、手紙とかお花とかたくさんいただきました。手紙は、もちろん手書きで書いてあるんですけれども、「私も実は子供を亡くしていて」などという手紙を何人かの方からいただくことがありました。それから、本も送っていただいたりしました。相田みつをさんとか、菊田まりこさんの絵本とかいただきました。「そっと寄り添う心」と書いていますけれども、当時、息子を可愛がってくれた知人がいつも定期的におまいりに来てくれて、私が話すことを黙って、寄り添って聞いてくれていました。

 それから、「家族同士の支え合い」と書きました。家族だから、この交通事件によってぎくしゃくしたことはもちろんあります。しかし、大事な人を亡くした者同士でしか理解し合えないというか、そういう意味では運命共同体だなと思えることもありました。

 それから、事件直後は悲しむ親の姿を見て、子供達は大変無理をして頑張っていたなと思います。

 それから、被害者同士の支え合い、交流についてですが、ある日、夫が職場でとっている毎日新聞に「全国交通事故遺族の会」の特集がたまたま出ていまして、その新聞の記事を持って家に帰ってきました。私は交通事故相談所に電話をして大変失望したあとでしたので、「全国交通事故遺族の会」なら被害に遭った当事者の方達の団体だということで、電話をしてみました。すると、「今、あなたの持っている気持ちというのは、こういう被害に遭った人なら誰でも持ち得る気持ちだから、決しておかしいことではないよ」とおっしゃっていただきました。

 私自身、殺したい、死にたい、また、子供が可愛くないとかいうふうなことは初めて抱いた感情だったわけですので、そういう意味で、自分はおかしくなってしまったというふうに不安に思っていましたので、被害に遭えば、それは仕方がない、当たり前だということをおっしゃっていただいたことで大変安心いたしました。今、私どものセンターでも、心理教育といいますが、そのようなことを被害に遭われた方にお伝えすることがあります。

 それから、当時、大久保恵美子さんが富山で開かれていた自助グループに顔を出して、御遺族の方とお話をする機会を持って、孤独感、孤立感を少し解消することができました。

 こうした周りの人の支えにより、私達家族は少しずつ普通の生活ができるようになっていったと思いますけれども、被害者の心の傷は一生消えることはありません。例えば、ちょっと想像していただきたいんですけれども、今ここにある花瓶が割れてしまいました。バシャンと落ちて割れました。とっても大事な花瓶なので接着剤でつけたとします。でも、つけたとしてもそのひびは残りますよね。形は元に戻っているみたいに見えるかもしれないけれど、ひびは残ります。それが被害者の心の傷だというふうにイメージしていただくと分かるんじゃないかと思います。

 ただし、被害直後から適切な支援を受けることができれば、被害者が被害に遭ったことと向き合って、仕方なくでも受け入れて、自分の力で人生を再構築していくことができるようになる、と考えています。被害直後には、特に多様な支援が必要となります。そうなると、一つの機関、あるいは一人の専門家が被害者の全ての支援を行うことは無理で、多くの機関、専門家の協力・連携がなければ被害者を支援することは不可能です。当時の私達の場合で言えば、今は発展的解散をしてしまいましたけれども、「全国交通事故遺族の会」がそういう役割をしてくれたと思うのですが、会は東京だったので、そんなにもちろん東京に行くことはできないので、電話でお話をしながら、ずっといろいろなことを教えていただきました。そのことによって警察、検察の関わり方、それから弁護士の選び方、裁判の仕方、更には心理教育、残された子供への対応、自助グループを紹介してもらうなどやってきました。そのことが自分達が今後どのように考えて行動すればよいかを決めることに非常に助かりましたし、心強かったです。

 それでも一般の人からは普段は縁のない警察、検察、弁護士、裁判官とか、専門家の人達に対してはとても敷居が高かったですし、また検察庁や弁護士事務所、裁判所等、行ったこともないような場所で自分の言いたいことが言えたどうか、アドバイスをもらっても不安で不安で仕方がなかったことを記憶しています。被害者や遺族がどの機関に行ってもスムーズに支援を受けられるには、やはり被害者支援の関連する機関同士が協力・連携できていることが必要不可欠であると感じています。

 私は、当時、全国交通事故遺族の会から情報をいただきながらやってきたわけですけれども、このような役割を果たしているのは、現在、全国にできています民間の被害者支援センターだと思っています。

 にいがた被害者支援センターにも交通事件の被害者遺族の自助グループが発足して14年になります。自助グループの名前は「ひまわり」と言います。入り口のところでこのひまわりの写真アートが飾られてあるのをお気付きになられた方もいらっしゃると思います。ひまわりの真ん中は亡くなられた被害者ご本人や在りし日の家族の姿を貼った、大切な作品です。

 私の息子の奨もこの中に、うちの自助グループの皆さんの大切な方達と一緒にいます。奨は生きていたら、今年30歳です。もちろん、毎日、奨のことを思わない日はありません。亡くなる前にサッカーを始めたばかりでしたが、社会人になってもサッカーをしていただろうか、就職はどうしただろうか、本当に獣医になったのだろうか、どんな人と付き合って、どんな人と結婚しただろうか、夫は男同士で酒を酌み交わすのも夢でした。

 もし、自分の大事な家族、最愛の人、友人、知人、そういう方達が被害に遭ったら、自分はどうするか、自分には何ができるのか、どうして欲しいのか、どうするべきか、一人の人間として考えていただきたいと思いますし、それぞれの御立場で誠意を持って自分のできる被害者支援をやっていただきたいと思っています。そのことをお願いしながら、私の話を終わらせていただきたいと思います。

 コロナ禍の中、また足元の悪い中、皆様の貴重な時間をいただきまして、本当にありがとうございました。

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