長野大会:基調講演

「飲酒運転事故で娘を失って~被害者支援に求めること~」

 大崎礼子 (被害者遺族・集団登校小学生死亡事件)

ただいま御紹介を頂きました、岩手県二戸市からまいりました大崎礼子と申します。本日は犯罪被害者週間国民のつどい長野大会にお招きいただき、またこのような貴重なお時間を頂きまして、大変ありがとうございます。とても緊張していますので、わかりにくい表現や聞きにくいことがあるかと思いますが、最後までどうぞよろしくお願いいたします。

私は、2000年11月28日、二戸市で集団登校中の9人の列に飲酒運転の軽トラックが突っ込み、2人が死亡、6人がけがをするという事故で、当時小学1年生の長女を失いました。この列の中には、当時小学6年生と4年生の2人の息子もおりました。最悪の場合、私は、この事故で3人の子どもの命を奪われていたかもしれません。今年13回忌を迎えますが、あの日の光景というのは今でも忘れることはできません。これから、事故のこと、事故後に経験したこと、娘を失って被害者遺族という立場に立って感じたことなどをお話ししたいと思います。

悲しいことに、今もなお、新聞やニュースで毎日のように事件、事故が報道されています。そのほとんどは起きた事実や加害者にスポットが当てられていて、そこには被害者の心情や被害者が置かれる状況、ずっと続いていく被害者の苦悩というものが映し出されることはありません。ですから、中々被害者に対する社会の理解も進まない。でも、被害者に対する社会の理解というのはとても重要なことだと思っています。また、このように被害者が毎日生まれる社会の中では、被害に遭った瞬間から被害者に関わるすべての人達が支援者だという意識を持ち、忘れないことがとても大切だと強く感じています。つたない話ですが、少しでも被害者の理解と支援のヒントにしていただけたら幸いです。

私は、この事故で娘を失うまでは、被害者とか遺族といったことには縁が無いと思っていました。自分の命より大切な娘の命が奪われる、そんなことも想像したことはありませんでした。でもある日突然、何の前触れもなく、残酷な事故に巻き込まれてしまいました。娘はわずか7歳6カ月という命を奪われ、被害者に。妹の死を目の当たりにした2人の息子は、目には見えないけれども心に深い傷を負い、残された私達家族は、被害者遺族という肩書を背負うことになりました。望んでなったわけではありません。加害者が、お酒を飲んだら運転をしない、というルールを守ってくれていたなら、娘の命は奪われずに済んだことでしょう。私達家族は、このような苦しみ、悲しみを背負うことはなかったと思います。その悔しさは、今も変わることはありません。

亡くなった娘は涼香(りょうか)といいます。カッコウの声が響き、草木が香る5月という季節に生まれてきてくれたこの子を抱いて、私はとても幸せでした。小さい頃から2人のお兄ちゃんの後をいつも元気に追いかけていて、かけっこが得意で、幼稚園からリレーの選手から外れたことはありませんでした。いつも友達に囲まれて、きらきらと輝いていて。私は仕事で帰りが遅くなることが多くて、寝ている娘に「ただいま」と声をかけると、「お帰り」と眠い目をこすりながら言ってくれていました。涼香の存在、そして3人の子ども達の笑顔は、ずっとずっと続くものだと信じていました。ところが、そのささやかな幸せは、あの日一変しました。

事故の日は11月28日でしたので寒い時期だったのですが、青空が広がり、太陽の光が優しく降り注ぐ朝でした。朝食は冷凍のピラフをレンジで温めただけの簡単なもので、涼香にとってはその食事が最後になってしまいました。涼香は、お皿に盛りつけたピラフを「おいしい」と言って全部食べてくれました。集団登校のために一旦自宅の前に集合するので、私は毎日子ども達を見送っていました。この日は珍しく頭上を白鳥の群れが朝の光を浴びて飛んでいくので、「すごいね。きれいだね」と言いながら子ども達と一緒に見上げていました。その数分後に涼香が白鳥のように私のもとを旅立っていくとは思いもせずに、私はいつものように子ども達に「いってらっしゃい。気をつけてね」と言葉をかけて見送りました。それが、私が見た最後の涼香の笑顔でした。娘は二度と玄関の扉を開けて「ただいま」と帰ってくることはありませんでした。

事故は、子ども達が自宅を出てわずか5分足らずのところで起きました。長男を先頭に、そのすぐ後ろを1年生の涼香、そして2年生、3年生というように順番に並んでいて、小学4年生の次男は後ろから2番目の所を歩いていました。加害者は、近所に住む64歳になる男性でした。妻の看病疲れから、寝酒に焼酎をストレートでコップ2杯程度飲み、仮眠をとった後にハンドルを握って起こした事故でした。運転をしている間、何度も何度も強い眠気を感じていた加害者でしたが、事故直前に居眠りをして、その意思を持たない暴走車は、そのまま加速して9人の児童の列の中に突っ込んで行きました。

今お見せしているのは、事故現場の様子です。青い軽トラックが加害車両となります。サークルKの看板が見えている方向から9人の子ども達が手前に向かって右側を歩いていたところに、加害車両が反対車線を越えて子ども達の列に突っ込んでいたという状況です。白い軽ワゴン車の前には赤いランドセル、娘が履いていた靴、そういうものが散乱しています。中々新聞、ニュースでは見ることのできない、中々知ってもらうことのできない事故現場の写真です。これは私が民事裁判をするときに、刑事記録から自分で、デジタルカメラで撮影したものです。亡くなったもう1人の男の子は、加害車両と駐車している車の間に頭を挟まれて意識不明のまま病院に運ばれましたが、1カ月後にこの子もたった1人天国に旅立っています。

加害車両は、先頭を歩いていた長男の肩をかすめて、そのすぐ後ろを歩いていた涼香を直撃しました。涼香は跳ね飛ばされて地面に叩きつけられたのですが、その涼香の体を加害車両は轢過(れきか)していきました。その後、7人の児童達も次々となぎ倒しました。加害者は居眠りをしていましたので、皮肉にも惨劇の様子を見ておらず、2人の兄と他の児童達がこの惨劇を目の当たりにしていました。私はこの時、自宅で仕事へ行く準備をしていました。そこに近所の人が駆けつけてくれて、「娘さんが事故に遭って救急車で運ばれた」と言いました。私はそれ以上の説明は何も受けていなかったのですが、この方の言葉を聞いただけで、母親の直感でしょうか、「娘にとても大変なことが起きているんじゃないか」という恐怖感に襲われて、ここから私の混乱が始まりました。

事故現場に急いで駆けつけると、「お母さん、お母さん」と泣き叫んでいる2人の息子の姿があり、そこにはもう既に娘の姿はありませんでした。2人の息子と涼香の姿を探すことに私は精一杯で、先ほど皆さんにお見せしたような事故現場の様子というのは、その時全く目に入りませんでした。後から刑事記録を見て、こういう状態だったのだということを初めて知りました。

元気に出掛けたはずの娘との再会は、病院の救急室でした。青白い顔で横たわっている涼香の名前を何度も何度も呼びました。「どうして。なぜ。なぜ娘がこんなことに」、いくら自問自答しても答えが見つかりません。私がどんなに涼香の名前を叫んでも無言で横たわっているのを見て、娘が手の届かない、とても遠いところへ行ってしまったように思えてなりませんでした。この時、特に目立った外傷はありませんでした。でも怖くて、認めたくなくて、娘のそばに近寄ることもできず、抱いてやることもできず、私は救急室から出されて、長い時間廊下で待たされました。その間、「一体どんな様子なのか。娘はどんな状態なのか」と何度も何度も目の前を行き交う看護師などに聞いても、「今、処置をしていますから」と言われるだけで、肝心な説明は一切ありませんでした。とにかく娘のそばにいてやりたいという気持ちが強かったので、「娘に会わせて欲しい」とお願いをしていました。でもそれも叶うことはありませんでした。

しばらく廊下で待たされて、医師から呼ばれ、残酷な言葉を聞かされることになります。「娘さんは助かる見込みはありません。恐らく即死だったでしょう」と。私が「1パーセントも助かる見込みはありませんか」と聞きましたが、「1パーセントもありません」ということを言われました。

娘のそばへ行くと、大きな男の医師が小さな娘の体に馬乗りになっているような状態で心臓マッサージをしているところでした。「もう息もしていない娘なのに、どうしてそんな苦しいようなことをしているの。早くやめて欲しい」と心の中で叫んでしました。目の前でその心臓マッサージの手が止められ、口からチューブが抜かれていく様子を目の当たりにし、あまりにも残酷な光景だと思いました。この時涼香の体に触ると、もう既に冷たくなっていました。確かに処置をしていたかもしれませんが、助かる見込みがない、即死だとわかっていたなら、なぜその説明を早くしてくれなかったのか。もし説明をしてくれていたなら、私は少しでも早く娘のそばにいてやりたかった。そんな後悔が今でもずっと残っています。

先ほどの写真のように、後から見た加害車両の軽トラックはフロントが蜘蛛の巣状にひび割れていました。それは涼香が顔面というか頭部からぶつかって、あのような蜘蛛の巣状にひび割れていたことになります。そしてランドセルの頑丈な金具が引きちぎられていて、涼香の体には無数の擦り傷、切り傷、打撲の跡、そして太ももにはタイヤ痕がくっきりと浮き上がっていました。さらに、最初目立った外傷が無いとお話ししましたけれども、時間が経つごとに涼香の顔がだんだん変形していきました。加害車両から強い衝撃を受けたために、頭蓋骨が砕けてあごの関節がはずれ、右目も閉じられないような状態に変わっていきました。そういったことから、涼香が受けた衝撃がどれほどすさまじかったのかということを思い知らされました。

一緒に通学していた次男が、事故後しばらくしてこんなふうに語ってくれました。「10メートルくらい前から僕は記憶がなかった。気が付いた時には僕は地面に倒れていた。目の前には涼香が倒れていて、僕はすぐに涼香のそばに行って、『涼香、涼香』と何度も何度も名前を呼んだけれども、足がピクンと動いて、喉を1回コクンと鳴らしただけでそれっきり動かなくなってしまったんだ。涼香の半開きになった口の中には折れた歯がたくさん見えていたんだ。そして頭からはたくさんの血が側溝へ流れていたんだ」と。近所の人からの話では、「涼香が死んだ! 涼香が死んだ!」と泣き叫んでいる2人の兄の姿があったそうです。私でさえもいなかった凄惨な事故現場の状況の中に、わずか10歳と11歳の息子がいたことは、私よりもっともっと長い年月、心の傷を背負って生きていかなくてはならないということになります。あの日の出来事は一瞬ですべてを変えてしまいました。大切に育ててきた娘の命が一瞬に奪われてしまい、かわいい娘の笑顔が見るも無残な姿に。そして涼香のぬくもりは氷に似た冷たさに。本当にたった数時間のうちに変わってしまいました。生きていることがあれほど苦しい時間は無かったように思います。

そのあと通夜、葬儀などでたくさんの人が私達のもとを訪ねて来てくれましたが、まだ涼香が部屋に横たわっている時から、来てくれる人達みんなが「頑張ってね。元気出してね」という言葉をかけてくれました。「事故が起きて、娘の命が奪われて、まだ娘の体がここにあるのにどうして頑張れるの。どうして元気を出せるの」そんな気持ちでとてもつらい状況でした。その中でたった1人、本当にたった1人なのですが、私達の前に来て何の言葉も発せず、ずっと座っている方がいらっしゃいました。しばらく私達の前にずっと黙って座って、「言葉が見つかりません」、そんなふうに言ってくれました。その方の気持ちというか、その言葉がとても印象に強く残っています。

荼毘に付される前日に、涼香の閉じられなかった右目、開いたままの右目に涙があふれていました。「どうして私だけ、たった1人引き離されてしまったの。私は悪いことは何もしていないのに。もっとみんなと一緒にいたかったのに」そんなことを伝えているようで、それは今でも忘れることはできません。「もう少し引きとめておけば。あの時ちょっと時間が遅れていれば」、そんなふうに自分を責めました。次男は「僕があの時記憶を失っていなければ、涼香の手を引っ張って助けてあげられたのに」。先頭を歩いていた長男は「僕がよけたから。僕がよけなければ妹は事故に遭わなかったかもしれない」と、誰も悪くない、悪いのは加害者なのに、残された家族はそんなふうに自分自身を責めるという、つらい思いになりました。

食事ももちろん、思うように喉を通りません。娘が最後に冷凍ピラフという簡単な食事で終わってしまって、もう二度とおいしい食事ができないのに、私が食べ物をとるなんてそんなことはできないとか、そんなことを考えてしまって、目が覚めている間はずっと涙が止まらない状況でした。もちろん家事もできる状態ではありませんでした。そんな私に身内からは、「残された子どもがいるんだからしっかりしなさい」とか、「泣いてばかりいると成仏できないんだよ」とか頑張ることを強いられるのですが、そういう言葉も受け入れることができず、「娘が1人でかわいそうだ。自分も娘のそばにいってやりたい」という思いが強くなる一方でした。ですから、本来であれば、この2人の息子達には精一杯の愛情を注いであげなくてはいけない時期であり状況だったのに、その子ども達にさえも思うように愛情を注げない自分がいました。

時間が経って行くほどに、娘への思い、失った悲しみ、苦しみは深くなるばかりでした。こんな私達の気持ちも理解されず、周囲からは、事故直後から、ずっとどこに行っても「頑張ってね」「元気を出してね」と言われ続けました。その言葉が他人事のように思えて、だんだん耳をふさぎたくなるような状況に追い込まれていきました。それから「運が悪かったのよ」「事故だから仕方がないんだ」という交通事故を軽視する周りの対応、意識であるとか、「乗り越えられる人に神様は試練を与えるのよ」というその人の価値観を押し付けられたり、不幸だ、不運だというレッテルを貼られて傷つくことが多くありました。それから「娘さんもかわいそうだけど、加害者もかわいそう」という、加害者擁護の言葉を何度も言われたりしました。相手がどんな気持ちで言っているのかはわかりませんが、「どうしてそんなひどいことを言うのか。どうしてわかってくれないのか」という不信感がどんどん募っていって、人と会うことが嫌になっていきました。孤立感が増して、近所の人が笑っている声に対しても強い憤りを覚えていました。「なぜ涼香だったのか。なぜ私達だったのか。他の子が犠牲になればよかったのに」と、そういうことを考えている自分がいました。こんなひどいことを考える自分自身の感情も理解できなくなっていたわけです。

事故直後から私が望んでいたことは、「元気を出してね」とか「頑張ってね」という励ましの言葉ではなく、やはり事故のこと、娘のこと、娘を失った悲しみや怒り、様々な事情、気持ちを聞いて欲しいということでした。でも、中々周囲からはそういった気持ちを理解してもらえませんでした。そっとしておいて欲しいという被害者もいるかもしれませんが、私はとにかく話を聞いて欲しかったので、その時は大きな事故だったため取材等に来るマスコミの方々に、事故の時の様子や自分の気持ちなどを話していました。というか、そういった方々でないと話すことが出来なかった、話す機会がなかった、ということになります。マスコミ関係者にもいろいろな方がいらっしゃいまして、事故があった時に、誰の許可を得たのかわかりませんが突然自宅の中に入って来て、気が付いたらカメラとマイクを向けられていたことがありました。その時はどうしてこの人達はここにいるのだろうということを考えながら、受けたインタビューに対して精一杯答えていました。

それでも真剣に話を聞いてくれるマスコミの人もいました。私が「他に同じような遺族と話をしたいんだ」と言った時に、そのような方にコンタクトを取ってくれた方もいらっしゃいました。それから、夫婦間においても、亡くなった子への思いや感情のずれなどによって、夫婦間の危機感を覚えることも少なくありませんでした。事故から1カ月も経たないうちに、加害者側の保険会社が自宅に示談の交渉にやってきて、命の値段を淡々と説明する。私達がまだ悲しみや苦しみが本当に強く深い時期にこのようなことが起きて、大きな衝撃と共に悲しみと怒りが増幅する場面もありました。

13日目で私は職場に復帰しましたけれども、中々思うように勤務ができない状況が続いていきました。朝、自宅で目が覚めると娘がいないという現実があるわけで、とにかく涙が止まらない。どうしても涙が止まらず午前中お休みを頂いたり、仮に出勤ができたとしても、突然涙が職場であふれてきて止められず早退してしまったりと、中々思うように勤務ができない日が続きました。ただ職場の方で、電話がかかってきても私が出なくてもいいように配慮をしてくれたり、有給休暇を取って裁判や警察に足を運ぶことには特に問題なく対応することができ、職場の理解というのもとても大事だというふうに感じました。

こういった中、このような事態に巻き込まれなければ足を踏み入れることがなかったであろう警察や検察に足を運ばなくてはなりません。加害者という言葉でも、最初は容疑者、そして被疑者、被告、加害者というふうに呼び名が変わっていきます。自分が被害者と言われることに実感がなかったり、業務上過失致死傷罪という罪名を言われても、それがどういうものなのか。「実況見分をします」と言われても、それがどういうものなのか。遺族調書というものが何なのか。今まで耳にしたことがない、あまり考えたことがない言葉を交えた会話の中で、何をどうしたらいいのか本当にわからない状態でした。ただ手続きに流されていたように思います。遺族調書を取る場合でも、狭い部屋でいろいろな状況や気持ちを聞かれるのですが、信頼関係が無いわけで、その時点で警察の方々が何をしてくれるのか、この方は私達をどこまで理解してくれているのか、どこまで信頼したらいいのかということが不安で、不信感みたいなものを抱きながら取調べを受けていました。「捜査中だから」ということで、加害者のこと、事故の詳しい内容をその時教えてもらえなかったということが、とても残念でならなかったことです。

こうして裁判が始まっていき、娘の加害者と事故後初めてこの裁判の傍聴席で対面するわけです。傍聴席の最前列に私は娘の遺影を抱いて座りましたけれども、判決まで5回行われた公判の中で、加害者は一度も私達家族に顔を向けることはありませんでした。加害者は「何度も何度も強い眠気を感じて事故を起こすかもしれないと思ったが、自宅が近いし大丈夫だと思った」と証言していました。本人に殺意という意識がなくても、殺意を抱いていたと言っても過言ではないのではないか、と私は今でも思います。罪名は業務上過失致死傷罪。加害者は、「事故を起こすかもしれない」、そんなふうに思っていたのに、どうして過失と言えるのだろうか。この最高刑5年の求刑に対して、判決は懲役4年でした。2人の尊い命を奪い、6人にけがを負わせ、たくさんの人に悲しみと衝撃を与えたその結果が、たった懲役4年。法律のことを何も知らなかった私は、もっと重い罪に罰せられると思っていました。でもこの罪名では、人を何人殺しても、どんなに悪質であろうと、過失であるということを知りました。最高刑の求刑5年でも短いと思うのに、なぜ1年減刑したのかと疑問でなりませんでした。

裁判官が「加害者の過失は重大。事故の結果も極めて重大。被害者遺族の(求める)処罰も非常に厳しい。社会に与えた衝撃、影響も大きい」としながら、加害者に有利な事情を考慮して1年減刑しました。減刑の理由は、妻の看病で疲れていたこと。飲酒運転の常習性は無いこと。違反歴が無いこと。謝罪、反省をしていること。この4点でした。4年ということは、詐欺や窃盗罪より罪は軽いわけです。妻の看病に疲れていたからお酒を飲んでハンドルを握る、それが正当化につながるのだろうか。飲酒運転の常習性が無いというのも、近所では酒飲みと言われていた加害者が、果たして本当に常習性が無かったのだろうか。違反歴が無いということが、何の理由になるのだろうか。謝罪、反省をしているというのは、一体誰に対して謝罪、反省をしているのだろうか。どれ1つとっても納得できる理由はありませんでした。凶器がナイフなら殺人として殺人罪が適用されて、死刑などの重い罰が科せられるであろうことなのに、車なら事故として扱われて、その刑罰はとても軽い。私達からすれば殺人となんら変わりが無い事案なのに、本当に刑罰があまりにも軽すぎると思いました。加害者は、犯した罪の重さに比べて、たった4年服役しただけで社会的に許されます。でも被害者は、娘の命が元に戻ってこの手に戻るまで終わりということはありません。私達家族に悲しみとか苦しみの終わりが無いということです。

このように娘を失った悲しみだけではなくて、裁判の中ですら、悲しみや怒りが増幅する場面に何度も何度も遭遇しなくてはいけません。この社会で手厚く守られているのは、被害者ではなく加害者だったということを強く感じました。この後、上申書を出して控訴を警察にお願いしましたけれども、控訴断念という結果になっています。この「上申書を出す」という文言も、同じような被害に遭った遺族から「上申書を出してみてはどうか」という情報が得られたことで行動を起こすことができたわけです。しかし、もしこういう情報がなければ何もできないまま済んでしまっていたというところを考えると、やはり必要な情報網というのは、なくてはならないものだというふうに感じます。

懲役4年の判決で服役していた加害者は、保護司に「行きなさい」と言われたり、私達から来るようにとお願いを言い、三度ほど自宅に来てもらいましたが、それ以来一度も加害者は私達の所に来ることはありません。今はどこに行って何をしているのか不明です。その中で、加害者は娘の名前を「ユカちゃん」と言いました。「ユカちゃんを殺してしまい、すみませんでした」と。加害者は服役していたその4年の歳月の中で、一体何を考え、どのように過ごしてきたのか。ただ加害者の社会復帰だけで、その4年という歳月を過ごしきて、何も被害者のこと、自分が起こした罪のことを考える機会を与えられていなかったのではないかというふうに思いました。

減刑の理由の1つに、謝罪、反省をしていると挙げられましたが、それは私達被害者遺族にではないということは明らかです。裁判所、裁判官に向けられたものだったと思います。被害者のためには全く活かされていないものです。このような加害者の対応というのは、私だけではなくて、ほとんどの被害者が受けている大きな二次被害になっています。このように、被害者は事件・事故に継続的に関わらざるを得ない状況にあるのだということ、一時的なものではなく継続的に関わっていかなくてはいけない状況にあるということを理解していただきたいと思います。

ここまでお話したことは、被害者が直面する一部の出来事だと思います。でも、抱える問題は実に多いということを想像いただけたらと思います。被害に遭った瞬間、私もそうでしたが、混乱期と呼ばれるその時期に、被害者や遺族がどれほどの苦悩を強いられるのか、どのような状況に追い込まれるのか、そしていつまで続いていくのかを理解していただいた上で、もし自分が同じような被害に遭ってしまったら、どのような対応をして欲しいのか。そのようなことを想像しながら被害者に対応して支えていただくということが、とても大事なことだと思っています。

犯罪被害者のための窓口、部署ができていない。担当者がいないというところがまだあると聞いています。そのため、例えば被害者がどこの窓口に行ったらいいのかわからない、行った先でも担当者がよく理解していないがために、よく言われるたらい回しといったことがまだまだ起きている、と聞いています。被害者遺族が深い悲しみの中で必要な手続きをするためにギリギリの精神状態で行っているわけですから、何度も同じようなことを話さなくてはいけないだとか、あちこち動き回らなければいけないという、そのような大きな負担がかからないように、被害者は一般の人とは状態が違うのだということを念頭に置いて、優しい支援が行われて欲しいと思っています。ただ、17年の基本法が施行されても、やはり周囲の理解というのは中々行き届いておらず、進んでいないように感じます。毎日被害者は生まれているわけですから、本当にそのような被害者に向かい合う周りの支援者達の理解、本当にすべての人たちが理解者、支援者であって欲しいと思いますので、早くそのような理解が進むようにと願ってやみません。最大の被害者支援は、加害者を作らない、というのを挙げられると思います。

少し前に戻ってしまいますが、加害者に懲役4年という判決が出た時の新聞記事になります。遺族の心情ということで、マスコミの方が、こういう状況におかれているんだ、こういう気持ちなんだということを取材して新聞に掲載してくれた時の記事です。こういう形で社会に発信していくというのも大事なことだと思います。

娘の事故が起きて、あまりにも危険な運転に対して刑罰が軽いのではないかということで、全国で行われていた署名活動に私も参加しました。写真は地元の岩手で署名活動をした時のものです。

こうした形で署名簿を当時の森山眞弓文部大臣に届けてまいりました。

全国からこのように同じような遺族が集まって街頭署名を行いました。

9月末に岩手で「生命のメッセージ展」というものを開催しまして、私のような交通事故だけではなくて、殺人やアルコールの一気飲ませ、医療過誤、リンチ殺人、そういった様々な理不尽に命を奪われた人達が主役のメッセージ展を開催しました。私の娘も参加しています。

県警が主催で「命の授業」というものが展開されておりまして、私も微力ながら中学、高校に行かせていただいて話をする機会を頂いています。

娘の同級生達です。娘の同級生がこのように成長した姿はとてもうれしいのですが、ここに涼香がいないというのは、とても残念でなりません。

先ほどお話をしましたが、真ん中にいるのが当時小学6年生の長男、そして右側が小学4年生の次男。事故に遭う2カ月前の、3人で撮った最後の写真になります。

今、長男は23歳、次男は22歳になりました。左にいるのが娘、涼香の妹になります。13年経つ今でも、この2人の息子は事故の日のことを時々思い出すのだそうです。「あの時、僕が手を引っ張っていれば」と、そういう同じようなことを考えて眠れない夜もあったそうです。

次男が妹のために「白鳥」という曲を作詞作曲して、歌っている時の様子です。

被害者といっても一人ひとり違います。被害の状況も違いますし、家族構成だとか、被害に遭うまでの生活など、一人ひとり事情が異なります。被害感情においては共通する部分はたくさんあっても、求めることというのは違ってきたりします。例えば、被害に遭った人が私のように子どもなのか、それとも旦那さんなのか、奥さんなのか、親なのか。そういったことで、いろいろ求めることも違ってきます。ただ、どんな場合であっても、これくらいわかるだろうとか、これくらいできるだろうという、支援にあたる側の思い込みは排除しなくてはいけないことだと思います。ちょっとした目つきだとか、言葉や態度といった周囲の反応にとても敏感になっています。そして良いことも悪いこともずっと記憶に残っていきます。

被害に遭った瞬間から、周囲に良き理解者がいて適切な支援を受けられることによって、被害の回復の速度も変わってくると思います。必要な情報が得られないことで、「あの時こうしていれば。こんなことをしていれば」という後悔を持ってしまっても、そこに二度と戻ることはできません。被害者が直面する困難、出来事というのは、たった1回しか訪れない貴重な機会であるということを大事に考えて、被害者が後悔しないようにしていただきたいと思っています。どうか皆様には、被害者遺族が前に踏み出す手助けをしていただきたいということを最後にお願い申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。

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