■新潟大会:基調講演

テーマ:「性犯罪被害にあうということ」
講師:小林 美佳(「性犯罪被害にあうということ」著者)

初めまして。小林美佳と申します。テーマに沿って「私に起きたこと」「皆様にお願いしたいこと」「犯罪被害者支援とは」、そんなお話ができたらと思います。

まずは自己紹介を兼ねて、私に起きたことから少しお話をさせてください。話を聞いているのが苦痛な方、つまらなくて聞いていられないという方がいらっしゃったら、遠慮なく席を外していただいてかまいません。どうか我慢をしないでください。

私が性犯罪の被害に遭ったのは平成12年8月31日、今から11年以上前のことです。「レイプをされた」、ただそれだけのことです。でも、私の中にはたくさんの記憶があって、できるだけその記憶を皆様に想像してもらいやすく、共有してもらいやすく表現できたらなと思います。

会社への行き帰り、私は駅から自宅まで自転車を使っていました。その日、いつもより少し遠回りをして公園の周りを通って帰ろうと思いました。公園の駐車場の近くに1台の車が止まっていて、運転席から「ねえ、ちょっと」と声をかけられました。

無視して通りすぎようと思ったのですが道を教えてほしいと言われ、自転車を止めてその運転手が開いている地図をのぞき込もうと運転席に近づきました。すると、後部座席からもう一人男の人が出てきて、自転車のかごに置いてあったバッグを持っていってしまったのです。お財布も入っているから困ると思って、手を伸ばしました。そしたらいつの間にか車の中に引き込まれていて、後部座席のシートに横になっていて、お腹の上には大きな男の人が乗っていて、タオルのようなもので顔を押さえ付けられて目隠しをされました。

耳元でカタカタというカッターの刃を出す音を聞かされて「動くな」と言われたような気がします。たかだかカッターです。紙を切る程度のものなのに、目隠しをされた私はすごく怖くて、殺されると思いました。ただ生きていたいと、そのときに強く思ったのを覚えています。

キャーとかワーとか、やめてとか、暴れるとか、全くそういうことができなくて、大きな音楽がガンガンと車の中で鳴り響いている中、ただお腹の上の男の人の言うことを聞いて、生きて帰してほしい、それだけを望んでいました。

カッターでベルトを切られるのが分かって、ズボンを下ろされるのが分かって、何をされるのか分かりましたが、その犯人がすることを受け入れることしかできなくて、ただ早く終わってほしい、生きたまま家に帰りたいと歯を食いしばってやりすごしていたのがそのときの記憶です。

しばらく経って「降りろ」とポンと背中を押されたときは、自分できちんとズボンを上げて、ベルトは切れているので押さえて、シャツもボタンがはだけていたのでバッグを抱えて隠して、その状態で自分の足で車を降りました。時計を見ると20分ぐらいしか時間は経っていません。車も動いた様子はなくて、私が止めた自転車もその場にありました。

周りをきょろきょろ見回しても、何も変わっていないのです。コンビニに買い物に行く人、学校帰りの人、会社帰りの人、公園で花火をしている人。道を聞かれる前の私がいた状況と何も変わっていない。ところが、私自身はとても変わったとそのときに感じました。

最初に感じたのは、自分が汚れてしまったと思ったこと。あとはよく分からないショック。そして恥ずかしいという思いでした。何でショックを受けているのか分からなくて、でも誰かに助けを求めたくて、最初に母の顔が浮かんだのですが言えないと思ったのです。さっき言った恥ずかしいという思いが、母に迷惑をかけたくないとかいうのではなく、言ってはいけないことと感じたのです。次に浮かんだのは父の顔でしたが、母よりも言いにくい。兄と弟が私にはいますが、到底、兄弟にも話ができない。女の子のお友だちの顔も浮かびましたが、夜9時過ぎに電話してこの姿をさらせないと思って、浮かぶ顔、浮かぶ顔が全部消えていくのです。

最後に思いついたのが、当時、けんか別れをしていた彼氏です。彼に電話をしてみました。信じてくれるか分からないし、来てくれるかも分からない。そもそもつながるかどうかも分からない電話でした。ところが彼は出てくれて、私の声を聞いた瞬間、何かがあったと悟ってくれて、「1時間ぐらいでそこに行くからその場にいろ」と言われました。彼を待つまでの1時間、自分の家に帰ればよかったのですが、車を降りた瞬間から体がガタガタと震えているのです。立ち止まっていることができない。家に帰ってそのショックと向き合うことができないと思って、公園の周りをぐるぐる歩き回って時間をつぶそうと考えたのです。ところが私の格好は、シャツははだけていて血がついていてベルトが切れている。そんな自分とすれ違ったら、周りの人はどう思うだろう。みっともなくて恥ずかしいと思ったので、私はライトの当たらない暗いところを求めて歩き続けました。ベンチを見つけては座るのですが、座った途端にまた体が震えてきて、それと向き合えない私はまた別の暗いところを探して、人から隠れるようにして歩いていました。ちょっとびっくりしたのは現場から100メートルほど離れたところにパトカーが止まっていたのです。一時停止の取り締まりをしていたのかもしれません。パトカーを見た瞬間にすごくみじめな気持ちになりました。こんな近くで警察の人は一時停止の取り締まりをしているのに、襲われた私は助けてもらえなかった。気付いてももらえなかった。そう思ったらすごく悔しくて、でも守ってもらえるような存在ではないのだと自分のことを感じて、警察の前を通るのがすごく恥ずかしかったので、パトカーを避けて歩いたのを覚えています。

暗いところもなかなか見つからないので、いったん公園のトイレに逃げてみました。すると公園のトイレはきちんと電気がついていて、私は下着をおろしてびっくりしました。自分が汚いと思って、トイレの中で大騒ぎをしてポケットテッシュを濡らして体中を拭きました。トイレで体を拭いている自分がまたみじめになってきて、またトイレを飛び出して暗いところを求めて歩いているとやっと彼から連絡が来て彼に会うことができました。私の姿を見た彼の第一声は「ウォー」でした。「何だ、おまえ、何かあったのか」と大声で怒鳴って「うん」とうなずいたら、彼はバイクのヘルメットを道路にたたきつけて怒っていました。その後、「どうする、どうしたい」と私は聞かれたのですが、何をしたら助けてもらえるのか分からなかったので「分かんないよ」と答えました。警察署がそこから200メートルほどの場所にあったので「警察に行こう」と彼に促され、私は警察に行くことにしました。

当時の私は、犯罪被害に遭ったとき、性暴力の被害に遭ったときに、どんな助けをどこに求めたらいいのかという知識を全く持ち合わせていなかったので、警察に行ったら何とかなると思ったのです。よく分からないこのショックを和らげてくれるだろう、助けてくれる方法を教えてくれる、自分が楽になる方法を教えてくれるという期待、信頼を持っていた。だから、警察に行くことには抵抗はなかったのです。

警察で最初にされたのは写真撮影でした。前から、右から、左から。切られたベルトを手に持って、バッグを抱えて、ボタンのはじけたシャツを見せて、色々言われてそれに全て応じました。男性の刑事がカメラを持っていたような気がします。写真を撮り終えると女性の刑事に代わり色々なことを聞かれました。事情聴取というのでしょうか。「どんな人でしたか」「車のナンバーは覚えていますか」「車はどっちを向いていましたか」「車は動きましたか」「どこを触られましたか」。どの質問にも、「分かりません」「覚えていません」「知りません」「見ていません」という曖昧な答えしか私はできませんでした。そもそも自分のショックがまだ何だか分かっていないので何をされたか話すことが到底できなかったのです。そして一番困った質問は「犯人に何を入れられましたか」と聞かれたときです。さて、何て答えましょう。とてもそれを口にすることができなくて困っていたら、刑事が「性器ですか」と聞いてくれたのです。私は「違うと思います」と嘘をつきました。そのときの自分を恥ずかしいと感じていた私が、唯一自分を守る方法として思いついたのが、挿入はされていないと人に伝えることだったのだと思います。よく訳が分からない、覚えてないといった埒の明かない事情聴取を終えると、警察の人は病院に連れて行ってくれました。挿入があったわけではないので、何ができるか分からないけれどという説明付きで病院に行くと、病院の先生も「とりあえず消毒をしておくけど、これで妊娠が防げるかどうかは分からないし、何があったか分からないからこれぐらいのことしかできない」という説明でした。私は警察の車両で家に送ってもらい、その日は終わりました。

家に着いたのは、朝の4時か5時だったと思います。私は着替えをして、シャワーを浴びて仕事に行きました。仕事を休む理由が言えなかったのです。ばか正直に本当のことを言わなくても、風邪をひいたとか事故に遭ったと言えばよかったのですが、そうすることもできなくて仕事に行きました。

事件自体は、性犯罪・性暴力、強姦事件として取り上げられるのですが、性暴力の被害者にとって、その後の生活がもっと大きな問題になっているのだと思います。私自身も生活が大きく変わってしまいました。皆様、想像がつくかもしれませんが、満員電車で男の人が近くに立つと怖くて仕方がないのです。気分が悪くなってしまって、私の場合は吐くという体の反応が起こるようになりました。ずっと電車に乗っていられないので一駅一駅降りなくてはいけない。電車の中吊り広告まで気になるようになりました。「レイプ」とか「集団強姦」という新聞の見出しを見ると気持ちが悪くなり、性的なものを示す言葉、女性の水着のグラビア写真が載っているだけでも気分が悪くなって乗っていられない。困ったなと思って女性専用車両に乗ってみたのですが、私の場合は女性もとても怖かったのです。怖いという表現は適していないかもしれません。自分が車を降りたときから汚れてみっともないものになってしまったと感じていたので、他の女性たちがきれいに見えて仕方がないのです。きれいな人たちの中に汚い自分がいるということがみじめでどうしようもなく、女性専用車両にも乗っていられませんでした。それまで1時間ほどで着いていた職場に3時間半かけて、一駅一駅降りながら心を落ち着けて出勤する日が続くようになりました。

ほかにも面倒なことがたくさん起こるようになってきました。記憶がプツンと途切れることが増えたのです。会社から家に帰る方面の電車に乗っていたはずが、気が付くと逆方面の電車に乗っていて、何往復も乗っていたりすることがありました。

うちに帰ってテレビを観ていても、いつの間にか朝を迎えている。ところが眠っているわけではないのです。目を閉じると暗くなります。事件の起きた現場、車の中と同じような暗闇がとても怖い、眠るのも目をつぶるのも怖くてほとんどの時間を眠らずに過ごしていたように思います。

ご飯を食べることもできませんでした。1か月で13キロも体重が落ちて、仕事に行っては倒れて点滴を受けてということもたくさん起こるようになりました。それから映画やライブにお友だちと行く気になれないということです。お友だちとの関係もずいぶん悪くなっていて、夜遅くに誘われると帰りが怖いので行けません。「最近どう、元気」と聞かれると、元気ではない自分を元気と答えられない。嘘をつくことができなくてお友だちともずいぶん距離が開いてしまって、映画やライブも誘われるのですが、真っ暗でガンガン音がしているところには絶対に近づけない自分がいることにも気づきました。もう一つ。毎月、生理がやって来るたびに事件を思い出して大暴れ。生理の日の夜なんて最悪でした。家中がばらばらになっていて、ひどい荒れようだったと思います。

一度だけ家族に話をしてみようと思ったことがありました。言ってはいけないと思いつつも、母親に話をしてみました。事件から4か月ほど後だと思います。私がこんなことがあったと話すと母はすごい剣幕で怒りました。「何で今頃になってそんな話をするの。今まで私が元気かと聞いたら元気だよと答えていたじゃない。嘘つき。信じられないわ」と言って。そして「その話は二度と人にしちゃいけないからね」と口止めをしました。母のその一言は、ああ私は本当に汚くてみっともない人間になってしまったのだなと改めて感じさせた、その思いを強くさせた、社会がそう思っているのだと思わせるような言葉だった気がします。そんなわけで人に打ち明ける、相談するという選択が私の中から抜け落ちてしまい、色々な変化と付き合っていくしかないのだ、諦めにも近いかたちで慣れていくしかないのだと思ったらほんの少し楽になって、色々な不自由と付き合うことに慣れていくと人間って強いなと思ったのを覚えています。

食べないで倒れても点滴をされれば生きていけるし、眠れなくたって3日目4日目には知らないうちに眠っていたりするのです。記憶が飛んでしまうときは必要な時間に携帯のアラームをかけておけば気が付くようになって、意外とやっていける。表面的なリズムというのは、わりと簡単に取り戻すことができるようになりました。そんな生活を2年ほど続けていると、私、結構やっていけるかもと思うようになりました。被害に遭ったことを突然思い出したりということはありましたがそこに怒りや絶望を抱くことはなく仕方がないことだったと思う程度で、犯人を恨んだりということも特になく過ごしていたように思います。それに慣れすぎてしまったせいか、私はもうこのままで生きていくのだと思ったころ、大きな期待を込めて私は結婚をしました。結婚相手に、こんなことが昔ありましたとさらっと言うと「そうか大変だったね。でも昔のことで君は強く生きているんだね」と言って、受け入れてくれたように思いました。

私はその人を信じて結婚しましたが、一緒に生活してみると暴力的なセックスを求めてきたり目隠しをしようとしたり、子どもが欲しいと言うようになったのです。それについて、私は駄目だということは伝えてあった。性的なことを感じると気分が悪くなってしまうと伝えていたのですが彼は「君は僕を信じている。僕も君を信じているから僕なら大丈夫でしょ」と悪気は全然無いのです。そういうことを強いている自覚もないのですが、その関係が私にはだんだん窮屈に感じられてきて、結局は数年で離婚しました。

「この人なら」と思う人と出会えたことで、私には大きな期待があったのだと思います。分かってくれていたと思った人がそうではなかったという大きなダメージを受けて、結婚生活の間、私はどこにいけば話ができる、誰だったら分かってもらえるのだろうという気持ちが強くなり、インターネットを見たことがありました。

当時は結構オープンな掲示板があり、「私も被害経験があります」という書き込みをしていてみんな同じ思いを抱えているのです。何日眠っていない、何日食べていない。「人に言ったって分かるものじゃないから、言って分かってもらおうなんて期待しないほうがいいよ」という先輩被害者みたいな人たちもいたりする。

その人たちと会い、話をすることで私はずいぶん楽になることができました。自分が普通でいられるし、彼女たちとなら映画も観に行くこともできたのです。映画を観に行って何回か倒れたことがありましたが、彼女たちは私を放っておくのです。「大丈夫、大丈夫、何分かすれば回復するから」と言いながら、ぐったりとさせておいてくれる。それが意外と楽だったりしました。みんなとカラオケボックスに行ったときは、被害に遭った子が倒れてしまう。カラオケに行くのは被害に遭うことではないと行くことも拒まない仲間もいたりして。気の許せる空間が、仲間がいるという発見は私にとってとても大きなものでした。

一方で、その子たちといるととても楽なのに、職場に行ってみると、家族のもとに戻ってみると窮屈な思いをする自分がいる。聞いてみると彼女たちもそうなのです。家に帰っても誰も分かってくれないということを言っていました。私はそのバランスを取ることがだんだん苦しくなってきました。今まで被害のことには触れずにきたのに、被害に遭った仲間に出会ったことで社会とのギャップが苦しくなってきたのです。そもそもなぜ、私の被害は人に話してはいけないのか。私自身恥ずかしいと思いつつ言えなかった。人に道を教えようと近づいただけなのに、裏切られて被害に遭って何が悪いのか、なかなか納得がいかず、腑に落ちず、悶々としている自分がいました。ならば、それを社会に問いかけてみよう。仲間に会ったことでその気持ちがより強くなったのです。それで、あるシンポジウムで強姦被害に遭いました小林美佳ですと名乗って、今日みたいに人の前に出たのがきっかけとなり、こうして皆様の前で話をさせてもらっているのだと思います。

そのシンポジウムには多くの記者が来ていて、シンポジウムが終わった後、私は記者たちに囲まれたのです。「小林さん、本当に名前と被害名を出していいんですか」と同じ質問をされたのです。「何でいけないんですか」と私は記者に問い返したのです。すると「うーん」「今まで誰もしなかったから」というだけで、明確な答えを返してもらうことができなかったのです。その後、シンポジウムの記事は新聞に載りました。

記者の中で一人だけ「もう少し詳しく話を聞かせてほしい。被害のことも詳しく聞いていいですか」という連絡をくれた方がいました。5年ほど前の話です。今でも、こんなにたどたどしいのに当時はもっとお話をすることができなくて。私は結婚をして友だちに会ったとき、ネットの仲間に会ったときに自分のバランスを保つために、自分に起きたことを日記や携帯電話にメモしていたのです。その書きためていたものを記者に渡したのです。「私、うまくしゃべられないから、これを見てください」と。それがきっかけとなり『性犯罪被害にあうということ』という本になり、私が表紙にちょっと寂しそうな顔をして載って世の中に出ることになりました。本当は怖かったのですが、恥ずかしくないと自分で言っている以上、これを出すことは諦めたらいけないと思いました。本屋さんに並んでからは「何で名前と顔を出すんですか」ということが、色々な場所で聞かれるようになったのです。でも、なぜセンセーショナルに扱われるのか分からずにいました。だって小林美佳は私しかいなくて、世の中のコバヤシミカさんに迷惑をかけたらいかんでしょう、だからこれは私ですよ、ということを一致させるために写真は出したほうがいいんじゃないか、それぐらいの答えしかなかったのです。

ところが、はっきりとした答えをくれたのは本を出してからの生活の変化、出会った人たちです。本が出てから、私の生活は思いもよらない方向にどんどん変わっていきました。まず、たくさんの被害者たちから声が届くようになったことです。ネットでもたくさんいたので、きっと近くにも性犯罪・性暴力の被害経験を持っている人はたくさんいるだろうなと思っていたのですが、毎月100人のペースで被害を私に打ち明けてくれる人が現れるようになったのです。知っている人なら電話やメール、出版社あての手紙などの方法で連絡を取り合えますが本当にたくさんいてびっくりしました。私は相談を受け付けていますとか、みんなの話を聞きますという看板を掲げているわけではなくて、私が体験し思ったことをまとめて本を出しただけなのに、女性だろうが男性だろうが、若かろうが70 代80代であろうが、皆様、自分の被害経験を語ってくれるようになったのです。寄せられた中からいくつか紹介します。

私の事件は結構分かりやすいです。全然知らない人から突発的に、しかも道を教えようと思ったら襲われた犯罪、性暴力のかたちです。私と同じように突発的な被害に遭った人は半数近くいらっしゃいました。でも、私に声を届けてくれる人たちの被害形態は様々です。

忘年会のカラオケから家に帰る途中、公園に押し込まれて数人の男性に襲われましたという女の子。お孫さんのお友だちにお茶を入れてあげたら押し倒されたという70代の女性は「孫の友だちだからと誰にも打ち明けていない。自分だけが我慢をすればいいし私は生きている時間のほうが少ないし」という言葉を添えたお手紙をくださいました。そこには「ただ、あなたには聞いてほしかった」という一言が添えてありました。

小学生の男の子からも手紙が来ました。お母さんとお風呂に入っている。「みんなも一緒に入るそうなんだけど僕のお母さんは少し違っていて、体を洗うときは素手で洗うし、下半身を洗うときはお口で洗うんです」と書いてある。「何か変ですよね、僕は嫌です」とも書いてありました。物心ついたときからお父さんとセックスをしている中学生の女の子。彼女は、セックスというのはお父さんとするものだと思っていた。ところが中学校で友だちに恋人ができはじめて、彼氏とそういうことをするんだということで盛り上がっていることを聞いていて、自分はおかしいんじゃないかと思い始めた。でも、今さら誰にも言えない。お母さんにも言えないし、友だちに言ったら変だと言われるし先生に言ったらきっとどこかに連れて行かれてしまうし。手紙の最後には「話してしまったらお父さんが捕まってしまう。それは困る」と書いてありました。彼女は結局、家出をしてお父さんの行為からは逃れることができましたが、高校生になって寮に入るまではお父さんとの生活は我慢できる限りは続けると腹をくくった、という連絡ももらいました。

学校での被害もたくさんあります。小学生にも中学生にも、高校だろうが大学だろうが、先生、教授という地位を利用して「これが正しいんだ」と生徒たちに接する大人が意外とたくさんいるのだなと思い知らされました。

色々な人たちの被害経験が毎日のように届く。なぜ私に教えてくれるのだろうとふと思ったりしたのですが、ある方のお手紙に「自分は一生その被害を封印しようと決めてきたし、小林さんのように外に出すことは絶対にないけれども一度だけ誰かに分かってほしかったし聞いてほしかった。名前も顔も分かる小林さんだから、私の話を書けたのだと思います」という言葉がありました。その方のおかげで名前と顔を出すことにも多少の意味があったのだなと感じたのと、その人のおかげでほんの少し、名前と顔を出しても良かったなと思えるこの頃です。

加害者からも手紙が来るようになりました。これはいいのか悪いのか分かりませんが。今まで18人の受刑者から手紙をもらいました。私の本を読んで反省した、読めと誰かに勧められた、きっかけは様々だと思いますが、18人全員の最初の手紙には「僕は、何をどれだけ悪いことをしたかというのを改めて感じて、反省しています。一生をかけて償っていきたいです」という謝罪の文章が書いてある。初めて受刑者から手紙をもらったときは、私もこれで少しは役に立てたかなと感じたのですが、喜んだのは束の間でした。

いただくメール、手紙には全て返事をするようにしていて、受刑者にも手紙を返すのですがやり取りが始まると受刑者なりの苦悩というものを伝えてくるようになります。

「僕たちも辛いんです。だって癖が直らないから」という人もいます。困るのは「小林さんの本を読んでもう一つ感じたことは、小林さんの犯人がうらやましいです。僕は同じような手口でやったのに捕まってしまいました。アンラッキーです」と書いてあるもの。「次は小林さんの犯人の手口をまねようと思います」「次は捕まらないように頑張ります」。次って何だ。また、ある受刑者は「小林さん、好きな食べ物は何ですか」という手紙をくれました。甘いものが大好きなのでチョコレートですと書いて返事をすると「小林さん、もしチョコレートを食べたら懲役3年という法律ができたらどうしますか。僕にとってはそれと一緒です」と書いてあったのです。「好みの女性がまちを歩いていて、気が付くと興味がその女性にばかり向いていて手に入れたいと思う、自分のものにしたいと思う、食べたいと思う、おうちに入って襲ってしまうのです」。この手紙を見たとき、一生懸命返事をしていたことを多少後悔しつつ、私は加害者の相手はすべきでないと感じました。同時に、私は被害者と向き合うべきだと。加害者とやり取りをすることで、被害者を裏切ってしまうかもしれないと思った。以来、加害者との交流は全くしていません。

支援者をはじめ、御来場の皆様のように気持ちがある方とたくさん出会えるようになったのも大きな変化です。私は事件に遭ったとき、とても孤独だと思いました。自分を助けてくれる情報は得られないし、母から私の被害を知らされた父や兄弟は犯人捜しに一生懸命になってくれました。でも、お父さんたちは犯人のほうを向いているの、私のことは考えてくれないの、という気持ちばかりが大きくて、彼らが私のことを考えてくれるとは全く思えなかったのです。

そうした孤独や、性犯罪・性暴力の被害者を助けるための場所を知らせる情報が少ないなと感じていたので、そんな場所日本にはない、性犯罪被害者はないがしろにされていると思っていたのです。けれども、いざ自分が声を出し始めると、たくさんの方が「何かできませんか」「何かしたいんです」「こういうセンターもあるんです」という情報を与えてくれたり、「こういう支援をやっています」と一生懸命頑張ってくれる人たちに出会うことができました。今では全国に女性への暴力、性犯罪・性暴力、性の偏見をなくす運動をしている人たち、支援をしている人たちがいること、そういう人たちと出会える機会を私は贅沢にも与えられている、そう思えるようになったのも変化の一つでした。

家族は、私が本を出すときに誹謗中傷を心配してずっと反対していました。こうやって外に出ることにも。最初は「みっともない」と言っていた。その心配も少しずつ変わってきて「嫌な目にあうよ」「偏見や好奇の目で見られるよ」「嫌がらせがあるよ」と言われていましたが、本を出してから今日まで、直接私に誹謗中傷が届いたことは無いのです。これには驚きました。世の中って意外と優しいと思いました。私が新聞記事に性犯罪に対するコメントをします。それをフォローするように精神科の医師、支援者といった専門家がコメントを寄せると、分かったようなことを言ってと誹謗中傷されるのは専門家の方たちなのです。世の中は、被害当事者に対して何かをしてはいけないということだけは分かってくれていると何となく感じるようになりました。誹謗中傷がゼロ、つまり私を守ってくれる人たちがたくさんいるということにやっと気付くことができました。

家族の反対を受け、周囲のお友だちからの軽蔑を受けつつ自分のことは自分で守ろうと必死にその術を用意しました。住所は絶対に明かさない、職場を見せない、友だちにも会わせない、色々な制限をかけて活動するようにしていました。事件当時に駆けつけてくれた彼は私の講演の情報を知るたびに「頑張っているんだね。俺のことはどれだけ話しても大丈夫だから遠慮せずに好きなことを言って」という留守電が入っていたりメールが来たりします。ネットを通じて知り合ったリョウちゃんという、私と同じ時期に被害に遭った女性がいます。彼女も私の弱音を受け止めてくれ、コメントが記事に載ったりすると「私は美佳ちゃんと一緒だからずっと応援しているよ、ずっと一緒だよ」というメールをくれたりします。

私、本を出すとき、やっぱり怖かったのです。私の事件は時効を迎えているので、犯人が家を突きとめて嫌がらせをしてくるかもしれない。本が出る前日、私は出版をやめたいと思って母親、出版社や当時取り上げてくれたマスコミの人に夜中に電話をしたのです。誰も出なくて泣いていたら母親だけが折り返しの電話をくれて「あんた、何、泣いてんの。ばかじゃない」といきなり言われました。「お母さんごめん、やっぱり私、本を出すのが怖い。母さんたちが一生懸命反対していた理由が少しだけ分かったような気がする。ごめんなさい」と話しました。すると母は「何なの今さら。私たちは散々あんたを心配して反対してきた。でもあなたがやると言うからには応援すると決めたし、性に対する自分たちの考え方も見つめ直して、あんたがやっていることは間違いじゃないと思うようになった。だから家に嫌がらせがあったり、周りの人が何か言っても平気だから。誰かが家を突きとめたら引っ越せばいいじゃない。だから出しなさい」と。最後に後押しをしてくれたのは母だったのです。お隣から「美佳ちゃん、テレビに出ていたけどそうなの」と言われたとか、小林美佳の元恋人はおまえかと聞かれたよという彼の体験も聞きました。私はそれを知らずに、自分には誹謗中傷が届いていないという気持ちでやっていた。彼らが必死に私を守ってくれて、誹謗中傷からブロックしてくれていたことに気付いたのは最近になってからです。そういうことが聞けるようになって、私の周りの人が私に対する理解を示してくれたと思うようになりました。

私は今まで性犯罪・性暴力の被害経験のある3,500~3,600人の方と交流を持つことができています。その人たちが3,000人集まったとき、私は『性犯罪被害とたたかうということ』という本を出しました。その中には3,000人の声を集約したグラフを載せました。その1,000人に「足りないもの、これがあったらよかったものは何だろう」という質問をしてみました。8割以上の人が「理解」と答えたのです。理解をしてくれる人、理解を示してくれる場所、そういうところに出会いたかったと言っていました。

皆様、聴きながら「理解って何」と思っているかもしれません。これも最近気づいたことなのですが、支える側が示す理解と、被害当事者が求めている理解というのは少し違いがあります。当事者同士で求める理解、例えば、私とリョウちゃんの間に生まれていた理解を当事者はおそらく外の人には求めていないと思います。うまく言えないのですが、被害に遭った目の前にいる私ときちんと向き合うこと。私を見てくれること。それがきっと当事者には「理解」として伝わるのではないかと感じています。私が最初に感じた理解として、何かの参考になればとお話しします。これは本の中にも出てくる話です。

事件の事情聴取があった2日後の昼間に、私はあらためて現場検証に行ったのです。ある男性の刑事が「小林さん、僕が警察署から現場までご案内します」と言って付き添ってきた。その刑事が警察手帳を見せてくれたのですが、顔写真のところに舘ひろしの写真が貼ってあったのです。私はそれ見てクスッと笑ってしまったのです。何だろうこの人、と思ったのですが被害後に笑ったというインパクトは、私にはすごく大きく働いています。性暴力・性犯罪の被害者に話を聞くと、人に支配されたり裏切られたという思いが強く、人を信じる、社会を信じる気持ちを無くしている人がとても多いのです。誰かに打ち明けてもうまく接してもらえない、そもそも性犯罪については言ってはいけないものだと思っている。自分は世の中に邪魔な存在と思い込み、社会に対する信頼がほとんど無くなって自分の生活を取り戻すことがとても難しいです。精神的におかしくなって入退院を繰り返している人もたくさんいます。時には命を絶ってしまう人もいます。ところが私には、その刑事の行為が大きく働いていた。クスッと笑ったと同時に「この人、私のことを考えてやってくれたんじゃないか」と感じたのでしょう。世の中って意外と信じられるかも、私のことを考えてくれる人がいるかもという支えになったのだと思います。

幸い、私は10年後にその刑事と会うことができました。別の女性刑事がその方を一生懸命探してくれて会わせてくれたのです。その男性刑事をはじめ多くの刑事に囲まれて、お久しぶりですという感じで再会しました。10年ぶりなのにその刑事は私のことを覚えていてくれました。「まさかこんなことをしていると思わなかった」「本を読んだけどいろいろと考えていたんだね」と言ってくれました。そして、同席した女性刑事が「あなたずいぶん思い切ったことをしたわね。小林さんに受けるかどうかも分からないのに」とその刑事に問いかけました。警察手帳を細工するのはいけないことで、彼はその後、何かの注意を受けたと話してくれました。その刑事は「小林さんは警察署に来たときから少しも笑わないし顔も上げない。思い詰めた顔をしていて僕と少しも目を合わせてくれなかった。この人は被害に遭う前は普通に笑って、普通に生活していただろうに、それを全部壊されてしまって表情さえ奪われたのかと思うと、とても悔しくて。だから何としても笑ってほしかった。だからそうした」と話してくれたのです。

私はすごく嬉しかった。そのとき私が感じた気持ちや彼が示そうとしてくれたものが一致していた。そういう人に初期の段階で出会えたのは、私のその後の人生の一歩に、大きな、大きな影響を及ぼしていたということを感じています。

性犯罪・性暴力の被害者たちは、信頼できる人たちに会えない、会えるはずがないと思って諦めている人が本当に多いのです。被害者が諦めてしまう前に、皆様にできる支援とはと考えてもらうとき、自分の近くにいる大切な人と、それを一番に打ち明ける、支えるという関係を作っておいてほしいのです。それはその後の支援機関に、お医者さんに、警察に、そしてカウンセリングにつながったりその人の人生に大きな影響を与えたりしていくと思うのです。

性犯罪・性暴力に限らず大きな事件、ダメージを受けた人はその直後は何も考えられない。何も考えたくない。だからこそ一緒にいてくれる、寄り添える、一緒に歩いてくれる相手が必要です。警察もカウンセリングも支援センターもお医者さんも、そこに行ったときしか助けてもらうことができません。行ったら必ず家に帰らなければいけないし、そもそも私に声を届けてくれた3,000人のうち、そういった場所にたどり着いている人はごくわずかです。たどり着くこと、たどり着いた先の目的を設定するのではなくて、その前にまず寄り添える相手、関係を作っていただけたらと思います。たぶんこれが、被害者たちが求める理解というもののヒントになるのではないかと思います。

最後に、全国の仲間と約束していることがあるので、それをお伝えして終わりにしたいと思います。

私に声を届けてくれている3,500~3,600人の85パーセント以上が、自分の近くに信頼できる人がいません。理解できる人、環境というものがありません。そんな中、私がこうやって外に出て行くことで100人、200人という人たちが話を聞いてくれる。私は講演会場などに来てくださった方の人数を被害者たちに報告します。そうするとみんな喜んでくれる。世の中には話を聴いてくれる人がそんなにいるのと。今日は新潟にいるので、新潟の仲間を中心にメールをします。そうすると「自分の周りに今はいないけれども、少し足を伸ばしたら分かってくれる人に出会えるかもしれないんだね。だったら頑張る。明日も頑張る。今日も頑張る」という返事をくれます。

これってすごいことです。皆様一人ひとりが性暴力に遭った被害者たちに希望を与えてくれる、信じるきっかけをくださっている。私一人が話しているだけではできないことで、聴いてくださる皆様がいるからこそ多くの被害者に力を与えることができていることだと思っています。この会場に来てくださった方の思いは性暴力の被害者、性犯罪の被害者たちを支えている。そうした自信につなげていただけたらと思います。多くの仲間を代表してというのもおこがましいですが、ここでお礼を伝えたいと思います。本当にありがとうございました。

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