■石川大会:基調講演

テーマ:「被害者遺族の思い ~尊きいのちみつめて~」
講師:佐藤 逸代(あいち交通犯罪死ZEROの会代表)

皆様、こんにちは。御紹介いただきましたように、私は愛知県名古屋市に住んでおります。「あいち交通犯罪死ZEROの会」を平成22年5月27日に立ち上げました。今、7家族の会のメンバーが被害者の遺族として一緒に行動、活動しています。これから1時間を頂戴いたしまして、私が体験したことをお話したいと思います。よろしくお願いいたします。

スライド:被害者遺族の思い「尊きいのち」

私には3人の娘がおります。

男性は私の主人、子どもたち3人の父親になります。主人の首に抱きつくようにしているのが長女です。彼女は今年、成人を迎えまして、大学3年生です。彼女には中学の頃から海外で仕事をしたいという夢があります。『ハリーポッター』がきっかけで英語に興味を持ちまして、海外で就職をしたいと言っていました。高校の時にカナダに1年間留学をし、23年3月から1年間、ドイツに留学中です。

スライド:平成5年3月18日 次女 有希誕生 翌年三女が誕生 仲良し三姉妹

ここにいるのが三女です。彼女は高校2年生です。彼女は小学校5年生からダンスを習い始めまして、ダンサーになりたいという夢を持っています。私が、「あぁ、バックダンサーね」と応えると、「違う、バックじゃない。私はダンサーになりたいの」と生意気なことを言いまして、通信単位制のダンス学校に通っています。午前中は5教科を勉強して、午後からダンス、あらゆるダンスを3~4時間踊り続けるという、そんな日々を過ごしております。

そして、3本の指を立てて、本人は思いっきりピースサインをしているつもりなのですが、彼女が次女です。「有希」といいます。平成5年3月18日に生を受けました。しかし、彼女は、平成17年にこの世を旅立っていきました。長女、三女と同じように時を重ねていれば、彼女の夢はどんな夢だったのか、将来何になりたいと思っていたのか、どんなことに興味・関心を持ってどんな道に進んでいたのか、それは今となっては分かりません。長女、三女と同じように時を刻み続けていれば、彼女は大学生になったか、専門学校に行ったか、それとも就職したか、もしかしたら素敵な人と出会って早く結婚していたかもしれない。けれども、今は、想像することしかできません。

スライド:有希 卒業式&12歳の誕生日 平成17年3月18日小学校卒業後、わずか4カ月で二度と戻れぬ場所へ・・・

子どもたちが通う小学校は、土・日ではない限り毎年3月18日が卒業式と決められていました。3月18日生まれの有希は、満12歳の誕生日と、小学校の卒業式、ダブルの"おめでとう"を迎えました。これは主人と小学校の校庭でのツーショット、卒業式が終わった後に親子で撮った写真です。この写真が、父親と2人だけで撮った最後の一枚になります。彼女はこれからたった、たった4カ月後、私たちの前からいなくなってしまいました。

「海の日」が設けられてから、三連休になることが多いと思います。6年前、平成17年も7月16・17・18日と三連休になりました。そして、学校がお休みの初日の16日、有希は自分が所属するソフトテニス部の3年生の引退試合を見に行くために、瑞穂区の瑞穂競技場(Jリーグの試合も行われる大きな競技場)に友達と2人で出かけていきました。3年生がすごく頑張って、ベスト16入りしたそうです。

その日、夕方4時半ぐらいだったと思います。自宅に戻ってきて、「お母さん、先輩、勝ったよ。明日も試合を見に行けるよ」と、とても嬉しそうに話してくれました。そして、「でも、すっごく暑かったんだよね。もうのどがカラカラで大変だったんだよね。日焼け止めを塗ってもベタベタになるし…」そんな愚痴をこぼしていました。

私は娘に聞きました。「1年生、どれぐらい来ていたの?」と。そうすると有希が、「ほとんど来てなかった」と答えたのです。「えっ、何で?」と聞き返すと、1年生は自由参加でいいというふうに言われたそうです。

スライド:平成17年7月17日 海の日をはさんだ三連休 ソフトテニス部三年生の引退試合を見学するために早朝に家を出る。午前7時17分 昇天

当時、『テニスの王子様』というテニスを題材にしたアニメがはやっていました。その影響もあってか、有希も小学校6年生から、絶対にテニス部に入るんだというふうに言っていましたし、実際、テニス部に入部しますと、何と中学1年生女子部員だけで70名というとても大きな部員数を誇る部になっていました。それで、きっとその部員数が多かったということも関係しているのではないかと思うのです。顧問の先生が2年生と3年生は中学校の正門で集まってみんなで移動する。でも、1年生は自由でいい。参加しても参加しなくても、午前からでも、午後から帰っても、自由でいい。それで、実際に来ていた1年生はほとんどいなかったということでした。

私は有希に言いました。「そんなに暑くて大変。また朝も早いんでしょう。だったら、明日は行かないで、おうちでゆっくり寝てたらいいじゃない」。有希は、ものすごい剣幕で私にこう言いました。「ママ、何言ってんの? 私は絶対レギュラーになるんだよ。レギュラーになるためには、毎日の部活も大事だけど、先輩の試合を見るのもすごくいい勉強になる。だから、私は明日も絶対行くんだ!」。

当時、私は、主人と2人で、自宅から1~2分のところで飲食店を営んでいました。お昼の営業を終えて帰ると大体4時ぐらい、そしてまた、夜の営業に店に戻るので、4時から7時半ぐらいまでが子どもたちと触れ合える時間です。そして、一日の営業を終えて主人とともに帰るのは12時を過ぎていたり、1時近くになっていることがよくあります。

実はこの日も、主人と2人で帰ったのは12時半を回っていたと思います。娘たちは3人とも起きていました。有希に「まだ起きてんの? 明日早いんでしょう」と言うと、「うん、6時半には起きなきゃいけないかな」と言いました。「えっ、じゃ、もう寝たほうがいいんじゃないの」と私が言いますと、有希は「そうだね。もう寝るね。おやすみ!」と、自分の布団に入っていきました。「もう寝るね。おやすみ!」、これが生前、私と有希が交わした最後の言葉です。有希は翌日、家族を一人も起こさず、6時45分ぐらいに家を出たと思われます。

スライド:事故の様子 赤信号無視して交差点に入った車が、青信号で進入の車に衝突、青信号で進入の車が横転、制御不能となり4名の歩行者が待つ歩道へ。

このあたりが自宅になります。自宅前で、友達と待ち合わせをします。そして、この坂を下りて、横断歩道を渡って、またさらに下っていくと、最寄りの駅があります。この交差点は下に東名阪自動車道が通っているため、北上する直線2車線、右折1車線、南下する直進2車線、右折する1車線の合計6車線、中央分離帯がとても広くとってある道路です。東西の道路は片側1車線ずつになります。

後で聞いた話では、このあたりで点滅信号になったそうです。信号と歩道は連動していますので、どう頑張って走っても渡り切れません。ここで点滅になって、ゆっくり歩いて行って、有希と友達、40代の女性とそのお嬢さん、20代の女性の計4名が、歩行者信号が赤であるために信号待ちをします。

スライド:事故現場の写真

そこに、青信号にならって南下する車と、赤信号を無視する形で前進する車が、この交差点内で衝突事故を起こします。青信号の運転手の車は、ちょっと背の高い車でした。赤信号の運転手の車は、車高の低い車でした。青信号、こちらの道路というのは若干緩やかな勾配で、こちらはかなり急な勾配の坂になっています。こちらの青信号から来る運転手の車を赤信号の運転手の車がすくい上げるような形で、青信号の運転手の車は2回転もしくは1回転して横倒しになります。そのまま制御不能となって、4人の歩行者が待つこの方向に、横転したまま、横倒しのまま突っ込みます。

ここに縁石があるので、縁石か別の何かに当たった形で、この車は戻ったと思われます。ただ、車体には道路を削ってきた跡が残っています。今もなお、このあたりから車が道路のアスファルトを削ってきた跡がくっきり残っています。

ここに見えるのが靴なのですが、この植込みに当たる形で車は止まります。この植込みの花壇のブロックは、女性の膝あたり、50センチぐらいの高さです。車体の一番下の部分と植込みのわずかな三角の隙間に友達は倒れていました。これは友達の靴です。

近くにいて、警察官に事情を説明していらっしゃるのが40代の女性の方です。40代の女性の方と20代の女性の方は、飛んできた破片が当たったり、腰をひねったりという軽傷を負いましたが、現場にいた方たちで、ここから友だちを出して、救急車が着くまで救護に当たってくださいました。

娘・有希は、このあたりに倒れていたそうです。彼女はすでに心肺停止状態でした。たまたま心臓マッサージを経験された方が居合わせ、救急車が着くまで心臓マッサージをしてくださったというふうに聞いています。

スライド:壊れた携帯の写真

練習試合に行ったり、先輩の試合を見に行ったりする連絡などで携帯が欲しいと娘が言いました。事故に遭う4日前に携帯電話を買ったのですが、液晶は割れてしまっていますし、電池パックも飛んでなくなっていました。彼女はおそらく、ものすごい衝撃で飛ばされたのではないかと思います。

友だちは3日間、意識不明の重体で病院にいました。搬送された病院のベッドで目覚めるのは4日目の朝です。彼女は、目の前にいたお父さんとお母さんにこう言いました。「私はどんな病気で入院しているの?」。彼女の中に、事故に遭ったこと、有希と一緒に歩いていたこと、それらの全ての記憶はありませんでした。警察官が事情を聞きたいと病院に来ていたようですが、御両親はとても今、事実を話すことはできない、もう少し待ってもらえないかということで、1か月半かけて事実を伝えていった、と後から教えていただきました。

友だちは退院後も、よく有希に会いに来てくれていました。事故から2年ぐらいたったときでしょうか。「おばさん、有希の最後を思い出した」と言ったのです。聞きたいと思いました。そして同時に、聞きたくないと思いました。でもやっぱり聞きたかった。

「なぁに」と尋ねたところ、「あのね、有希がね、私の目の前をこういうふうにね、弓のように、コマ送りのスローモーションのように飛んだんだよ。だから、有希、ふざけてると思って『有希、何でふざけてんの』って言ったんだ。それで、次に気がついたのが病院のベッドだったんだ」と彼女は話してくれました。苦しかったです。痛かった。その飛ばされた瞬間、有希は何を思ったのだろう。怖いと思ったのか、「ママ、助けて!」と思ったのか、そう思うと、胸をわしづかみされたような、そんな痛みを今でも感じます。

有希は事故に遭う前日、「ママ、(明日は)買い弁していい?」と聞きました。当時、中学校に上がると子どもたちは、名古屋だけの特有の言い方かもしれないのですが、"買い弁"という言葉を使いまして、コンビニエンスストアに寄って、おにぎりを買ったり、お菓子を買ったり、ジュースを買ったりして、遠征先に行ったり練習試合に行ったりしていました。16日、「買い弁していい?」と言われて、「いいよ、いいよ」と言って500円渡しました。次の日も行くと言った有希に対して私は、毎日買い弁はちょっと困ると思いましたので、「明日はママがおにぎりを握っておくから、おにぎりを持っていってね」と伝えたのです。けれども、お通夜、告別式を終えて家に戻ってくると、キッチンにぽつんとおにぎりが残っていたのを見つけました。そのとき、「あっ、有希、買い弁したな」と思いました。わざと有希が買い弁したくておにぎりを忘れて行ったのか、それとも本当に忘れてしまったのか、もちろん今となっては確かめようもないのですが、そのとき、交差点の近くに1か月前にオープンしたローソンに寄っているなと思いました。

手前の信号が点滅になったと説明したその角に、ローソンがあります。すぐにローソンに行って理由をお話しして、有希を探してもらえませんか、と店長にお願いしました。本来、防犯用の画像などを外に出すことは絶対あり得ないのですが、店長が本部にかけ合ってくださり、本部の許しを得て、有希がローソンへ入店してから退店するまでの約8分間、あらゆる角度の有希を追ってくださって、動画としてDVDにして私にくださいました。

スライド:ローソンの防犯用画像

これはそのDVDを、私が静止画としてはめているものなのですが、ここにいるのが有希です。まさに自分で財布からお金を出して払おうとしています。笑っているのです。「アハハハッ」と、高い声で笑っています。有希はいつも笑っている娘でした。友達のお母さん、近所の方、年配の御婦人に「佐藤さん、ほんとに有希ちゃん、いつもよく笑ってるね」、「佐藤さん、何であんなふうに有希ちゃん笑っていられるの」、「娘さん、いつも幸せそうだよね。どうやってあんなふうに幸せそうに笑えるの」などとよく言われていました。小さい頃から。そう言われるたびに私はとても嬉しかった。でも、母親ですから自慢はできない。謙遜しなければという思いがあるので、「いやいや、女の子はそれだけが取り柄だし、有希はそれぐらいが取り柄だから」とよく話していました。けれども、本当にいつも笑っている娘でした。

平成17年7月17日7時4分26秒、彼女はちゃんと笑って生きていたのです。いつものように笑って。これからわずか5分後、有希はこの世を旅立っていきます。防犯カメラが最後の有希の姿をとらえています。ローソンの駐車場です。平成17年7月17日7時5分11秒、彼女は生きていたのです。ちゃんと笑って、そしてレギュラーになる夢を持って生きていたのです。救急車到着は7月17日7時17分です。事故は7分から10分の間に起きたのではないかと見られています。有希自身も、自分が数分で命を落としてしまうと思わなかったと思います。

私自身、このDVDを見て何度も何度も有希に話しかけました。有希、もう一つ何か買っておいで。有希、その後ろにいる男の子を先に会計させてあげたら。有希…。何度も何度もこのDVDを見ながら、私は有希に話しかけました。わずか10秒、20秒、ローソンを出るのが遅かったら、きっと手前の点滅信号はもう赤になっていたと思います。赤になっていたら、あの中央分離帯には、歩道前には有希は行っていなかった。そうしたら、有希は、長女と三女と同じように、有希自身の夢を持って、今も有希の時を刻み続けて生きていたはずです。このDVDを見るたびに、私はそう思わざるを得ません。

私たちはこうして、ある日突然、愛する人と別れなければならないという境遇に置かれてしまいました。

先日も、ある学校で命の授業をさせていただきました。そのとき、私を紹介した所轄の警察の方が、こういった言葉を使われました。私は「あぁ、分かってもらえている」と、うれしい気持ちになったのを覚えています。

よく「被害者遺族(家族)は崩壊する」という言葉が使われます。でも、その方は「破壊する」と仰ったのです。"崩壊"というと崩れ落ちる感じですか、本当に"破壊"なのです。もう全てが一瞬にして変わってしまうのです。分かっていてくださる方もいらっしゃるのだなと、あたたかい思いになりました。

けれども残念なことに、現場に居合わせることはない以上、なかなか理解していただけない面もあります。それは"二次被害"と呼ばれるものでもあります。

私たちは、これまで通りの日常を営んでいかなければいけない。有希を失ってしまったその悲しみ、苦しみ、痛みがあるからだけでは済まないのです。当時、長女は中学校3年生、受験生でした。三女は小学校5年生でした。彼女たちの学校は待ってはくれません。中学校3年生になると進路指導が始まり、懇談会も始まります。有希がいなくなったからといって、何も変わらないのです。時間は、有希がいる頃と同じように流れていきます。それがまるで当たり前のように。私たちが、有希が亡くなる前から思っていた当たり前、その当たり前が過ぎていくのです。でも、私たちにとってそうした日常は、当たり前ではありませんでした。

事故から2、3か月は、毎日、泣いているという時間が長く続きました。その頃思っていたことが一つあります。強い思いでした。それは、長女と三女には両親が揃っている。お父さんとお母さんがいる。でも有希は、たった一人で、ある日突然、自分の行きたくもない場所に、たった一人で行かされてしまった。こんな不公平なことってあるだろうか。私だけでも有希のもとに行ってあげなくてはいけない、そんなふうに思いました。それは、自ら死を選ぶといった、はっきりとした感情でも考えでもないのです。漠然として、不公平だよね、有希のところに行ってあげなきゃかわいそうだよね、そんな脅迫めいた思いがずっとありました。けれども、時間は過ぎていきます。容赦なく過ぎていきます。日常を取り戻していかなければいけないという思いもどこかにあるのです。そして、何より時は待ってはくれません。少しずつ外に出るようになります。

外に出てみて、私が声をかけられて、苦しかった、辛かった、痛かった、そういう思いをいくつか挙げてみます。でも、これ、全部、被害者や被害者遺族の方が全部こういうふうに思うかというと違うのです。被害者、被害者遺族にも、それぞれがそれぞれの痛み、悲しみ、苦しみを抱えています。家族間でも理解できないときというのもあるのです。そういうことを念頭に置いて聞いていただけたらと思います。

「思っていたより元気そうだね」

「もっと落ち込んでいるかと思った」

「強いね。私だったら狂い死にしている」

「元気そうだね」、これはきついのです。辛いのです。なぜかというと、元気であってはいけないからです。子どもを守れなかった親なのです。「元気だね」と言われると、何て私は冷たい親なのだろう、血も通っていない母親なのだろうと自分を責めるのです。親は自分を責めています。母親には母性があります。生まれたときからプログラミングされているのではないかと思う部分が多々あります。ですから、守れなかったという自責の念は6年経った今でもきれいには無くなっていません。どこかでボタンの掛け違いをしたのではないか。守れたのではないかという思いが私の中にくすぶり続けています。ですから、元気であってはいけないのです。笑っていてはいけないのです。強くあってはいけないのです。でも、外に行くときは、笑う仮面、強くある仮面を被らなきゃいけない。そうすると「もっと落ち込んでいるかと思った」と…。

3番目の「強いね。私だったら狂い死にしているわ」というのは、事故から3か月ぐらいたったときに、遠方から有希の友だちがお参りに来てくれるということで、有希にお供えのケーキと、その友だちにケーキを買いたいなと思って、有希が生前、よく行っていたケーキ屋さんに意を決して行ったときのことです。店で会った同級生のお母さんから「まぁ、佐藤さん、思ったより元気そうじゃん。強いね。私だったら狂い死にしているわ」と声をかけられたんです。次の日から寝込みました。なぜか。狂い死にできるのだったらどんなに楽だろうと毎日思っていました。自らの命を絶てないのならば、どうぞ神様、狂い死にさせてください、そんなふうに思っていました。でも、狂い死にしちゃいけない、お姉ちゃんや妹がいるから、そう思っていました。その矛盾と葛藤の中を私は必死になって生きていた。ですから「私だったら狂い死にしているわ」、これは一番きつかった言葉です。

こういう言葉をかけられたときは、主人にも話せないのです。なぜか。言葉にするのも嫌だから。ずいぶん長いこと主人にも黙っていました。事故から1年くらいの記憶はものすごく曖昧で、つじつまが合わないこともあるのですが、多分、半年ぐらいしてからでしょうか、「寝込んだときがあったじゃない。あのとき、実は、お友達にこういうふうに言われたんだよ」とやっと言えたことがあります。主人はものすごく激怒して、俺が文句を言いに行くとまで言ってくれたのですが、「いやいや、彼女も私を困らせようと思って言ったわけじゃないから」と制しました。

相手が、私を苦しめようとか、さらに傷つけようとか、痛めつけてやろうという思いで言ったわけではない。励まそうとか、優しい気持ちで言ってくれたのだろうと分かるのです。分かるからこそ「何でそんなことを言うの」と言えないのです。飲み込むしかないのです。苦しみ、悲しみ、痛みを飲み込んで自分の中で抱えるしか術がないのです。

「いつまでもくよくよしていたら、亡くなった子どもが成仏できないよ」

「残された子どもたちのために、あなたがしっかりしなきゃだめよ」

よく分かっています。私自身がそう思っているからです。でも、できないのです。葛藤の中、本当にもがき苦しんでいる。その状況が長く続きます。

そして、兄弟・姉妹のいる遺族の方は「ほかに子どもさんがいてよかったね」とよく言われます。これは慰めなのです。そう思われる方、多いことでしょう。

たしかに長女と三女がいて救われることがたくさんあります。でも、長女と三女がいて苦しくなることもたくさんあるのです。物事は表裏一体だと私は思っています。表もあれば裏もある。だから「よかったね」というところになかなか結びつかないのです。でも、よく言われます。そして、誰が亡くなってよかったね、なんてないよね。誰でも一緒だよね。10人いたから1人亡くなっていいなんていうことは絶対あり得ない。それを体験していたら、口に出せないことだよね、そんなふうに遺族の中で話をすることがあります。

「笑って忘れるしかないよ。いつまでも過ぎたことばかり見ていないで、前を向いて歩かなければダメよ」

「現場へお花をお供えするのは、娘さんが成仏しないからよくないよ」

「神様は苦悩を越えられる人に大きな課題を与えたのだから絶対に乗り越えられるよ」

これは全部、アドバイスなのです。こうしたほうがいいよ、こうしたらダメだよ、分かっているのです。笑って、そして、頑張って生きていこうとどこかで思っている。でも、できないときもある。神様が与えた苦悩は乗り越えられる、それも分かっている。どこかで分かっている。でも、できないときもあるのです。

「あのときに引越しをしていれば事故に遭わなかったのにね」

実は引っ越す予定があったのですが、それを取りやめたのです。親のような気持ちで、それを回避できたのにねというふうに、この言葉をかけた女性は言いたかったのだと思います。でも、これは落とし穴だと思っています。これこそが二次被害の中でも一番大きな風評被害といわれるものではないか。特に交通事故の場合は、被害者になるには、被害者側にもその落ち度があったという風評被害なのです。

例えば自転車の子どもが"飛び出し"て事故に遭った、それだけでニュースや報道をされてしまうこともあります。例えば目撃者がいない場合、私たちは"死人に口なし"状態だということをよく言うのですが、目撃者のいない場合は、加害者、残った人の証言が全てになります。ですから、実際は被害者であるのに加害者になるというケースも珍しくないのです。

愛知県の津島署管内で、交差点で出会い頭の事故がありました。一方が亡くなられてしまったので、残られた方は自分が青で相手が赤だというふうに言われました。被害者と加害者は、残った方の証言通りのまま捜査が進んでいくのですが、亡くなられた方のお父様が現場の近くで目撃者を一生懸命探しまして、ビデオが残っていたのです。たまたま民家の防犯カメラにその事故が残っていまして、その現場の映像を映し出したところ、全く反対だったのです。生き残っていた方が赤、そして亡くなられた方が青だったのです。ビデオが残っていたから真実が立証されたわけで、残っていなかったら"死人に口なし"状態です。

ですから「子どもが自転車で交差点で」と伝わっただけで、子どもが飛び出したのだと思われてしまう。それが風評被害の形となって、苦しまれる遺族がたくさんいらっしゃいます。

直接その言葉を耳にしたり、人を介してあんなことを言っていたよ、と聞いたりする。そしてもう一つ、何よりも、そういうふうに見られているのだ、その目に晒されているのだと思った瞬間に、私たちは外に出ることができなくなります。怖いからです。有希が事故に遭ったのは、私たち家族にも何か落ち度があった。被害者側にも落ち度があった。運が悪かった。運が悪いのは、何か原因があったから…そうした目に晒されるかと思うと、どうしても外に出ていくことができない。それが風評被害であると思います。

これをある警察署員に話したところ、同席した署長がこんな話をしてくれました。佐藤さん、よく分かるよ。実は僕の知り合いが先日ひったくりに遭ってね…。

70代の女性だったそうですが、その方は「ひったくりに遭ったのは私が悪い。いつもと違う場所を通って帰った。いつもの場所を通っていればひったくりに遭わなかった」と御自身を責めていました。そこで署長は「いやいや、おばあちゃんが悪いわけじゃない。犯人が悪い。僕たちが犯人を見つけるから、自分を責めないでね」と声をかけたそうです。「それはすばらしいことです」と私は答えました。被害者や被害者遺族は十分に自分自身を責めています。にもかかわらず、世の人たちがそういうふうに思っているのだと感じた瞬間、本当に怖くて、人前に出ること、人と会うこと、人と接することを避けようと思うのです。有希が事故に遭う前、私もそんなふうに思っていました。事件や事故の報道を聞くたびに「そりゃ、そんな時間にそんなところを歩いているから痴漢に遭うんだ」と私自身も思っていたのです。でも、それが被害者、被害者遺族にとっては、どれほど痛くて辛いことか、体験して初めて知りました。

「娘を殺されたのだからもっと怒って」

これはどのようにも受け取れる言葉ですが、「殺された」という表現が私をグワーンとえぐった感じがしたのです。当時、私は本当にボーッとしていましたので、赤信号の運転手に対しての怒り、憤りはなかったのです。感覚が麻痺していたのです。青信号の運転手も、赤信号の運転手も、我が家も、同じ中学校の学区内なので、近所のお母さんたちはそれぞれの家をみんなよく知っていました。赤信号の運転手は、自分が青である(責任はない)と5か月間ずっと言い続けていました。娘の四十九日前にBMWからベンツに買い換えた様子を、近所のお母さんたちは「ベンツに買い換えたよ」なんてよく言ってきたりしたのですが、私はボーッとしていましたので「ああ、そうなの」みたいな感じだったのです。そのとき「しっかりしなさいよ。娘を殺されたんだよ。もっと怒りなさいよ!」というふうに言われてしまって、私と同じように思ってくれているというのが、ある意味嬉しかった。だから、ちょっと微妙だというふうに思っています。

スライド:辛かった言葉  スライド:安心できた言葉

私にとってどんな言葉が一番楽だったか、安心できたか、心がホッとしたかということを書き出してみました。

まず、「ごめんね。体験してないから私にはあなたの気持ちが分からない」

これは事故から2年ぐらい経ったときに友だちが、こんなに時間が経過しても、こんなにたっても、思い出すだけでもすごく悲しいのに、あなたの悲しみは私の想像を超えるものだと思う。苦しみ、悲しみは察するに余りあります、という気持ちが込められていました。

 

「分からなくてごめんね」、これほど楽なことはありません。「分かるよ、分かるよ」と言われるたびに「何が分かるの」と思う。「分からなくてごめんね」と言われるたびに「あぁ」と安心する。これは多くの遺族が口にすることですし、私自身もそれが一番楽でした。「分からなくてごめんね」と言われると、何か話そうかなという気になれるのです。「分かるよ、分かるよ」と言われると口をグッとかみしめてしまう、話したってきっと分からないと思ってしまうのです。

「私が守ってあげる。できることがあったら言ってね」

今でもこの友だちを見ると、私はバーッと抱きついてしまいます。事故から3か月ぐらい経ったとき、当時、小学校5年生の三女の授業参観がありました。そのとき「佐藤さん、あした小学校の授業参観だけどどうする」という電話がかかってきたのです。「まだちょっと行けないかな」と言いましたら、彼女は「行こうよ」、「私がついていってあげるから」とは言わなかったのです。「ああ、そうなんだ。もし行きたくなったら電話してね。一緒に行くから」と電話を切りました。楽でした。考える余裕、時間をちゃんと私に与えてくれたのです。「行けないかな」と返事した私も彼女の気持ちがすごく嬉しくて、一晩寝て、次の日の朝「やっぱり行こうと思う」と電話したら、彼女は「じゃ、迎えに行くから…何時何分ね」と言って、迎えに来て。当時、彼女のお子さんは6年生でしたが、お子さんの教室には一度も行かずに、ずっと三女がいる5年生の教室に一緒にいてくれました。教室にいられたのは10~20分だったと思うのですが、とても心強かった。

それから1か月後、今度は中学校の体育大会があると電話がかかってきました。長女は中学校3年生、最後の体育大会になります。ですが、本来なら中学校1年生の有希がいるはずなのです。小学校よりもハードルが高かった。「やっぱりちょっと行けないかな」と返事をしました。彼女は「分かった。行きたくなったらいつでも電話してきて」と言ってくれました。そのとき彼女は「私が楯になってあげる」と言ったのです。すごく嬉しかったです。行ってみようと思いまして、彼女と一緒に行きました。

そうすると、案の定と言うのでしょうか。「佐藤さん、元気そうだね」というふうに声をかけてくる方がいました。すると、楯になってあげると言った友だちが、元気そうだね、と声をかけた方と私の間にパーンと入ってきて「何言ってんの。元気なわけないじゃん。そんなこともわかんないの」と声をかけたのです。「元気そうだね」と声をかけてくれた方は、佐藤さんの顔が見られてよかったという安心感の気持ちからだったと思うのです。でも、その言葉を遺族である私たち家族は受け取れないことを、楯になってくれた友だちは理解して「何言ってんの、元気なわけないじゃん」と声をかけてくれた。言われた方はばつの悪そうな顔をしていました。その後、みんなで普通の会話、今年の3年生は○○クラスが優勝候補だね、という体育大会の話に戻って、事故の話、有希の話、私に必要以上に声をかけるということはありませんでした。

私一人だったら「佐藤さん、元気そうだね」と言われたら「うん、そうだね」と愛想笑いするか、誤魔化し笑いをして、その人からちょっと遠ざかることしかできないです。もちろん相手が苦しめよう、悲しませようと思っているのではないと分かっているからこそ、でも、その気持ちを伝えられないという、二重の苦しみというのでしょうか、複雑な思いを抱えることになります。その彼女とは、今でも会うと、顔を見るだけで安心するという気がしています。

「かける言葉が見つからなくて、ごめんね」

スライド:家族の中でも理解出来ない苦しみ 無くならない自責の念 容赦なく変化していく周囲の環境 残酷だと思うほど成長する子ども 努力しても変わらない現実

実際に、どういう言葉をかけていいか分からないというのが正直な気持ちだと思うのです。そのまま、正直に伝えてもらったほうがすごい楽なのです。言葉を見つけて伝えるというのは、正直な気持ちではない。それよりも「顔を見られてホッとした」、「何が適切なのか分からない」、「ごめん、本当、何も言えない」と言ってくれたほうが安心するというのがあります。「ごめんね、何もできなくて」、この言葉にもホッとします。

有希の事故は刑事裁判になり、加害者には禁錮3年・執行猶予5年の判決が下りました。交通事故では珍しいと思うのですが、検察は量刑不当で控訴しました。二審のとき、約7万名の署名を集めて証拠書類とし、これを携えて裁判所入りをしたのですが、署名をしようと声を挙げてくれたのは近所のお母さんたちでした。傍聴支援にも大勢で来てくださったのですが、私自身はとても抵抗がありました。そういうふうに出れば出るほど絶対傷つくというのが分かっていたのです。でも「私たちに任せて」という言葉を伝えてくださったお母さん方がいてくださって、その勇気をもらって署名活動をするということをしました。しかし、一方で「事故だから仕方ないよね」、「私もいつそんな事故を起こすか分からないから、加害者側の気持ちになったらできん」と、はっきり言われて傷つくことはありました。

スライド:有希姉ちゃん、「ご飯を作ってくれてありがとう」「うちの部屋かたづけてくれてありがとう」「布団ひいてくれてありがとう」こんな5文字の言葉をうちは、あんまり言ってなかったと思う 有希姉ちゃんがいることがあたり前だったから。でも、最近思う。有希姉ちゃんにどれほどお世話になったか、どれだけ支えられたか。有希姉ちゃんがいない今、みんなからは「かわいそうだね」とか「運悪かったね」とか言われるけど、そんなことはない。うちたちは、有希姉ちゃんに道路の危険。痛みのある悲しさ。家族の大切さ。命の重みなど。有希姉ちゃんを通して、とても大切なことを教わった。いつ何が起こるかわからない。だから言おう「ありがとう」という言葉をささいなことでもいいから。今、その人がいるときに。

人から話しかけられる言葉に対する受け止め方、ここに挙げたのは私自身が経験し、感じたことですが、遺族でも家族間では異なることもあります。

2歳で脳腫瘍、小児がんを発症して5歳で一人息子を亡くすという経験をした友だちがいます。その友だちが有希の通夜の席で私をギュッと抱き締め、「いっちゃん(私の愛称)、これから旦那さんとの悲しみのバランスが全然違うときが必ずくるよ。でも、そのときに何で?と思わないで。そういうものだから。今は分からないかもしれないけど、いつか分かるときがあるから覚えておいて」と言ってくれました。私、本当に周りの人たちに恵まれていると思うのですが、この話には続きがあります。

この言葉をかけられて3~4か月した頃でしょうか。主人がお笑い番組を見て「ハハッ」と笑ったのです。「はぁ!?」と思いました。何で笑えるのだろう。当時の私は、音は音としてとらえても、そこにおもしろいとか、悲しいといった意味を見いだせなかったのです。色も同じように受け止めていました。五感とは心で感じるものだということを初めて体験しました。ですから、主人が「ハハッ」と笑ったのが信じられなかったのです。そのときに、通夜の席で伝えてくれた友だちの言葉を思い出しました。あぁ、こういうことなのだと。理解できない、家族でも理解できない苦しみがあります。

そして、自責の念がなくなる、ということはありません。

容赦なく変化していく周囲の環境、時間は癒しでもありますが、残酷だとも思います。有希のいない風景はどんどん変わっていきます。それを受け入れるためには痛みを伴います。子どもがいればいるなりの苦しみというのもあります。成長する子どもの姿を目の当たりにするのは嬉しくて仕方がないはず。親には祝福であるはずなのですが。

長女は心から喜べることが多いのです。しかし、三女は有希を越していきます。1年と1か月しか誕生は違いませんでしたので、どんどん越していくのです。そして、有希の体験しなかった体験をどんどん積み重ねていくのです。それが楽しそうであったり充実していそうであればあるほど、有希は体験できなかったのに、と思ってしまうのです。その思いは娘に伝わります。ときどき三女は「私が死ねばよかった」と言います。それは、彼女が言っているのではなく、私が言わせてしまっているのだと思います。

いくら努力しても変わらない現実。私にとってはこれが一番きついです。ものすごく努力して生きています。「佐藤さん、強いね」と言われると、最近は「そうだね」と言える自分になっています。自分でも強いと思います。ですが、残念なことに、どれだけ努力しても、どれだけ強く生きても、どれだけ分かって生きても、何も変わらない現実が一つだけあります。それは、有希が二度と戻ってこない。この現実を受け入れることは、私にとってはとても苦しい、そして一番きついことであると私は思っています。

会場の皆様にお渡ししている小冊子があります。その11ページに、三女が書いた詩を掲載しています。お帰りになったら目を通していただきたいと思います。三女が、有希の別れから1か月後に書いたものです。チラシ広告の裏にボールペンで走り書きをしていました。そして、その後に掲載している作文は、裁判に提出するため三女が中学校1年生になったときに添えた作文です。三女には三女の痛みの形、苦しみ、私とは違った深さ、形があったのだと私は思っています。

スライド:三女のベッドの写真

これは、三女のベッドの木枠です。三女は小学校5年生のとき、そして中学校3年生のとき、学校に行かない、行けないことがありました。有希に関係していることではあったのですが、原因が全てそれだけではなかったと思います。きっかけは有希のことであった。そんなとき、事故から2年ぐらい経って初めて見つけました。最初は落書きだと思っていました。でも、これは全部、三女が自分自身へ向けたエール、メッセージだったのです。抜粋して紹介します。

命を大切にしなきゃいけない。せっかく神様がくれたのだから。どんなにつらくても、苦しくても、命を大切にしなきゃいけない。

あなたは一人じゃない。みんな一人じゃない。みんな支え合って生きている。大切な人をずっと大切にしよう。なくさないために。

命っていうのはね、一人に一つしかないの。だから、今の自分を思いっきり好きになろう。忘れないで、大切な人はすぐそばにいることを。

死にたいなんて言っちゃだめ。死にたくなんかないのに、病気とか事故で亡くなる人だっているんだから。

三女は高校2年生になっていますが、今でもこのメッセージは増え続けています。

事故当時、中学校3年生だった長女は受験生でした。彼女には夢がありましたから、進学先は留学ができる高校と決めていました。長女は告別式の翌日から学校に行きました。そして、引退前の部活もしました。ふたつの塾の夏期講習も自分で頼んで、一日も休まず行ったのです。私は、姉妹と親ってこんなに違うのだな、と思ったものです。でも、そうではなかったのです。長女には長女の痛みがありました。裁判に提出した書類、高校1年生のときに裁判に提出していますので、抜粋します。

医者が「最善を尽くしたのですが」と言ったとき、母が「ウソ」と有希のところに行きました。私は全く意味が理解できず、一番最後に(病室に)入ったと思います。みんな泣きました。でも、私は泣けなかった。というより、現実を受け入れられなかったのかもしれません。今までニュースなどで事故の話などを聞いて、身内がいなくなったことを何度も想像したことはありました。それでわかった気になっていたけれど、現実はそれほど甘くなくて、想像をはるかに超える悔しさ、苦しみ、悲しみ、絶望感でした。この気持ちが、加害者や身内を亡くしたことのない人に理解できるとは思いません。なぜなら、私も理解できなかったからです。ずっと続くと思っていた幸せが、たった一日の一瞬の、誰か一人の不注意などという意味のわからない、私たち家族に何も関係のないようなものによって壊されてしまったかと思うと、本当に空っぽで何の言葉も浮かんできません。

夏が勝負だと思っていた私には、あまりにも予想に反する出来事で、どうしようというより、頭が真っ白でした。でも、私は、同情されたり気を使われたりするのが嫌で、告別式の次の日からいつものように学校に行き、塾にも行き、普通の受験生を演じました。そうしていることで周りから自分を守ることもできたし、自分で平気を装うことで自分さえもだましていました。特に母はひどく落ち込んでいて、今までに見たことがないような状態だったので、家族の中で私だけでも強くいないと、家族が本当に壊れてしまうと思ったからかもしれません。

こんなふうに書いてくれています。

スライド:2007年12月04日 カナダからのメール

そして、それからさらに1年ぐらいしたときに、留学先のカナダから手紙をくれました。私の誕生日にくれたのですが、そこに、「今まで明かさなかったことをお母さんに伝えます」と書いてありました。

「有希が事故に遭ってから、お母さんは気が狂うのではないかというぐらい尋常じゃなかった。毎日毎日泣いてばっかりで脱け殻みたいだった。初めのほうは仕方ないかなって思ったけれど、自分もお母さんを支えなきゃと思ったけど、でも、うちが強過ぎるのか、まだまだ子どもなのか、そのうち、何でお母さんはこんなに弱いの、うちとマーのことはどうでもいいの?と思った。ちゃんと先を見てよ、ここで止まらないで。うちはあんまりいいお姉ちゃんじゃないよね。自分のことばっかだよね。でも、子どもは親に愛されたいと思っている。たとえどんなときでも、ひとり占めされたくないって」

当時、長女は、妹を失っただけじゃなく、母親も失っていたのだということを初めて知ったのです。長女は長女なり、三女は三女なり、それぞれの苦しみを抱えて生きていたのだと思います。

事故から6年を経過した今年、やっと主人の気持ちがわかりました。

当時、主人は、家族を守ろうとしていました。私の代わりに家事、炊事、洗濯もして、店は2~3か月休みを余儀なくされましたので、その間、経済的なこともありました。それについても、自分で何か色々なことを考えて、有希の通夜・告別式も、こんなに早く亡くなるのは普通じゃないと香典も頂戴しなかったのです。1,200人もの方が来てくださったりで葬式の費用は莫大なものになりました。それらのことも全部一人で抱えて、全部やってくれていたのです。その主人の気持ちを6年も経って、やっと分かってきました。

スライド:著書「ある交通事故死の真実」表紙

『ある交通事故死の真実』という本を4年前に出版しました。事故から2年程の間に私が感じてきたことを書いています。今の気持ちとは若干のずれがありますが、当時の私がたどってきた体験として綴っています。もし興味のある方は手にしてくださると、さらに理解が深まるのではないかと思います。

最後に、有希からの手紙を紹介させていただこうと思います。

毎年、子どもたちが母の日に手紙を書いてくれました。私には毎年それが当たり前だったので、深く感動し、感謝することを忘れていました。涙を流すこともあったのですが、来年も、その次も、そしてそのずっとずっと後も、有希は優しいから、自分がきっと母としての手紙をもらうようになっても、私にくれるだろうと思っていたのです。現実にはこれが最後の手紙になりました。

スライド:有希から母へ最後の手紙

お母さん、いつもありがとう。お世話になっています。本当にありがとう。有希は仕事をしているお母さんも好きだし、家のことをやっているお母さんも好きだよ。有希はお母さんのところに生まれてうれしかったです。ありがとう。本当にありがとう。ずっとずっと大好きだからね。有希がもし学校とかで嫌なことがあったときも、有希が相談したら相談に乗ってね。反対に、もしお母さんがいろいろなことで話したいことがあったら言ってください。ちゃんと聞くからね。いつでも言ってくださいね。大好きだよ。これからも有希のことをずっとずっと見守ってください。よろしくお願いします。ママ、本当に有希を産んでくれてありがとう。感謝しています。ありがとう。家族の仲はいいし、パパとママの仲もすごく良くて、すごく楽しい生活を送っています。本当にありがとうございます。

この手紙を見つけたのは、二審が終わった後でした。二審は残念ながら、一審を支持して棄却となりました。赤信号の運転手は一度も逮捕もされず、拘留もされず、留置場に入ることも刑務所にも入ることはない。それが分かったとき、私はこの世には何の未練もないと思いました。この世には正義は存在しないのだ。生きている意味もない。有希の命は虫けらのように扱われたのだとひどく絶望を抱えて、自らの死を選ぼうとはっきりと自分で思ったときでもありました。そんなときに、この丸い笑顔が出てきたので、パーンと自分の目の中に入ってきました。

「いつでまでもその笑顔でいてください。ずっとずっと大好きだよ」

これが6年前の有希ではなく、そのときの天国からの有希のメッセージだと私は強く思いました。その日から笑って生きていこう。顔を上げて生きていこう。そして、私にもできる何かがある。それを歩き続けていったときに、きっと笑顔の有希が天国で待っていてくれる。そう心に刻んだ瞬間です。

スライド:『あいち交通犯罪死ZEROの会』http://aichi-zero.noor.jp/

あいち交通犯罪死ZEROの会。交通事故は犯罪です。その交通犯罪死がゼロになることを私も祈っています。加害者、被害者を生まない。誰の命も奪っても奪われてもいけない。安心・安全なまちをつくるということは、一人ひとりの理解、意識、その向上があれば。安心・安全なまちづくり、それは一人から始まることだと私は思っています。

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