■中央大会:基調講演

テーマ:「地域・自治体で必要な取組とは~議員、被害当事者の立場から~」
講師:近藤 さえ子(東京都中野区議会議員)

ただいま御紹介をいただきました近藤さえ子と申します。本日は犯罪被害者週間最終日、内閣府の国民のつどいという大きな大会で講演させていただく機会をいただき、ありがとうございます。

私は、中野区で区議会議員を務めさせていただいております。本日は中野区議会も定例会初日と大切な日です。しかし、このように国民の皆様に向かって犯罪被害者の声を聞いていただける数少ない場をとても大切に考え、本日はこちらに伺った次第でございます。しばらくのお時間、私の家族に起こった事件を皆様に聞いていただきたく、犯罪のない社会を皆様とともにつくっていくことの一助となれば幸いと存じます。

私は大学を卒業後、勤めていた会社で主人と出会い、結婚をしました。主人は大変まじめで、誰に聞いてもあんなに働く人はいない、見たことがないと言われる働き者でした。主人は結婚する少し前に、私たち2人が勤めていた会社を辞めて、大手総合商社に何十倍もの倍率で再就職をしました。ここでも主人は毎日遅くまで働き「このまま働いていたら、日本を代表する大手総合商社の社長になってしまうかもね」と、友人たちの間で冗談が出るほど働いて、働いて機械をたくさん売りました。主人は仕事に勉強、お客さんとの付き合いなどで帰宅は毎日12時過ぎという生活をしていました。2人の子どもに恵まれ、私たち家族は幸せに暮らしていました。

主人は転勤も多く、全国に転勤しました。転勤、子会社への派遣、会社の合併など会社の動きに合わせて主人は色々な場所で仕事をしました。そんなとても忙しい日々の中でもお正月には家族で主人の実家に帰り、実家の皆様と楽しい時間を過ごしました。実家から東京に戻るとき、お母さんは車の窓に顔を寄せながら「そんなに働いてもあなたは会社という歯車の一つでしかないんだから、歯車は壊れてしまったら取り換えればいいけれど家族にとってあなたはひとりしかいないのですから、無理をしないで体に気をつけるのですよ」といつも仰っていました。お父さんの作ったお米とお母さんの作った野菜を食べて、田舎道を雨の日も雪の日も自転車で1時間以上かけて通勤していた主人は、都会の私が今までに会った人たちにはない強固な精神力と体力を持ち備えていました。自分でも体力には自信のあった主人はいつも笑って「大丈夫だよ、気をつけているから」と、体のことを心配するお母さんに告げていました。

それだけ仕事に打ち込んでいた主人ですから、私は休日もほとんど一人で子育てをしました。働いてばかりいる主人に文句も言いました。けんかもしました。けんかといっても私が怒っているだけで、いつも一方的なものでした。主人はいつも謝るばかりです。そして、主人の仲のよい知り合いには「働かないで怒られる人もいるみたいだけど、僕は働くと怒られちゃうんだよね」と話していたことを、主人が亡くなってから知りました。

こんなこともありました。小学校の子どもは、特に男の子は球技が苦手でした。御近所で夕方、お父さんとお子さんがキャッチボールをしている姿をよく見かけました。「あの家のお父さんはいいわね、息子さんと毎日のようにキャッチボールをしてくれて。そんなに働かなくてもお金持ちみたいよ」と、子育てに参加してくれない主人に私は嫌味を言ったことがありました。すると主人は「その家のことはわからないけど、働かないでお金持ちがいいの」と私に意見を言いました。「親が子どもにできることって何かな。一生懸命働かないとお金はもらえないことを教えてあげることが親の役目なんじゃないかな」と私に言いました。私は自分の言ったことが恥ずかしくなりました。一生懸命働く主人だから、仕事ではお客さんがたくさんつき、子どもたちはほとんど家にいないお父さんが世界で一番好きな人でした。誰からも尊敬されているのは、本当に一生懸命働いて結果を残しているからなのだとつくづく思いました。そして私も文句を言いながらも、誰よりも一生懸命働いている主人を誇らしいと思っていました。

また、主人は仕事以外では、道にしゃがみ込んでいる具合の悪いおばあさんを背中におぶって家に連れて帰ってあげたり、高齢な私の家族の面倒を見てくれたり、とても優しい人でした。私の家族の誰もが一番好きな人がお父さんでした。

そんな主人が忽然と姿を消してしまったのは平成16年、今から7年前の11月24日のことでした。その当時主人は、主人の上司が会社の商権を持ち逃げしてしまって、自分が機械を売ったたくさんのお客さんに迷惑をかけてしまったことを申し訳ないと話していました。そしてその上司から、機械の商権を取り戻す裁判を主人が担当していました。その機械はフィンランド製で主人が家族との時間を削って働き、飛ぶように売れて会社は大変儲かりました。あまりにも売れるので、それを会社で座って見ていた主人の上司が持ち逃げして会社を辞めてしまったのです。

元上司は機械の商権を持ち逃げする前も、別の問題を起こしていたと聞いています。元上司の機械の商権持ち逃げ後は部品が入らなくなり倒産するところが出て、商売がうまくいかなくなり自殺者まで出たと聞いています。自分の信頼で機械を買ってくれたお客さんが路頭に迷うようなことになってしまった主人は、やり切りませんでした。主人は何度もフィンランドの会社に行き、その商権を取り戻そうとそれこそ死ぬ思いで交渉を続けました。北欧行きのそのスケジュールは、ホテルで寝る間もないものであったと聞いています。

その努力からついに取引先が元上司の不正に気づき、元上司からその商権を取り上げて会社に戻すことができたのです。その裁判の和解が成立する日に、主人は忽然と姿を消してしまいました。主人が帰ってこなかった日の翌日、主人の会社から「近藤君が会社に来てないのはおかしい」と電話がありました。出張かもしれないと思おうとしていた私の願いは破れ、私はすぐに警察に行きました。「すぐに捜査を始めてください」と言っても、警察が捜査を始めるまでには色々な質問や調査があり、少し時間がかかりました。夫婦間でどちらかが行方不明の場合は不倫などの例が多いということもあるそうです。私は、とにかく早く捜査をしてほしいとお願いしました。

2日後ぐらいから、我が家に警視庁捜査一課の女性刑事が泊まり込むようになりました。電話には逆探知の装置が取り付けられました。御近所に不審な人物を見なかったかと聞き込みが始まりました。警察からは、私たち家族には「マスコミに知られて報道されると御主人が殺されてしまう可能性があるので、普段通り何もなかったように暮らしてください」と言われました。私たちは親族と本当に親しい友人以外は、誰にも主人がいなくなったことを告げることはできずに普通どおりに暮らし続けました。

私は普段通りに区役所に行き、子どもたちは普段通りに学校に行き、御近所の方が私の家に対して不思議な気配を感じて聞かれると「どうもこの辺りに泥棒が入ったみたいです。それで捜査をしているんですよ」などと嘘をつきました。裏のおばあさんの家は、泥棒がいるのではと窓に鉄格子を入れました。主人の田舎から両親も出てきて我が家に泊まり込みました。主人のお父さんは「家にはじっとしていられない」と言って、新宿中を歩き回り、息子を捜しました。辛い、警察が見つけてくれるのをただ待つだけの時間でした。

しかし私は、もし主人が事件に遭ったとしたらそれは元上司の仕業であるということだけは確信していました。警察は元上司の近辺を捜査していました。しかし、主人はなかなか見つかりません。一体どうしてしまったのか全く分からない状態が続き、行方不明から1か月経ったクリスマスの日、お父さんの帰りを待ちわびている子どもたちのもとにお父さんは遺体で戻ってきました。

これは裁判が始まってから分かったことですけれども、主人は11月24日の夜、帰宅途中に元上司の甲が雇った若者5人に我が家の前から拉致をされ、車に押し込まれてガムテープでぐるぐる巻きにされ、甲の父親が少し前まで住んでいた家に放置されて殺されてしまったのです。遺体は甲が一人で茨城県の山の中に埋めていました。甲が雇った若者A、甲の親戚で当時29歳。その友だちのB、24歳。Aのマージャン友だちのC、29歳。D、23歳、Dは県立高校卒業の神童と言われた男だそうです。やはりマージャン店でアルバイトをしていた男です。そしてもう一人、大学理工学部中退のE、23歳です。彼らは甲から10万円をもらうことを条件に、主人を拉致してくることを引き受けたのです。それぞれがたまに飲みに行く程度の付き合いの関係でした。

主犯の甲は、エリート商社マンとして56歳の年まで働いていた優秀な人間です。この男のたった10万円をくれるという誘いを、ほとんど仕事らしい仕事をしていなかった若者5人は引き受けたのです。あまりにも人の命を何とも思わないこの若者たちの存在に、私は驚かされました。10万円もらえば人を殺すことも躊躇しないのです。

主人が行方不明であった1か月は大変辛い日々でした。しかし、主人が殺されてしまったことが分かった後も想像を絶する日々が待っていました。まず、ずっと一緒に過ごしてくださった捜査一課の刑事は引き揚げていってしまいました。主人が生きているか死んでいるか分からない辛い時間でしたが、生きているかもしれないというわずかな希望のある時間をずっと女性刑事が私に寄り添ってくださいました。刑事は警察の話、犯罪についての話など、話してもいい範囲で色々な話をしてくださいました。食事を作ってくれたこともありました。しかし、遺体が発見されて犯人が捕まると、唯一頼れる存在であった方が私の前からいなくなってしまいました。確かに警察は犯人を捕まえるのが仕事ですので、犯人が捕まればいつまでも私の家に通ってくるわけにはいかないのです。

刑事はいなくなり、我が家には事件を知った知り合い、御近所の方などが頻繁に訪ねてきました。主人の実家からは7人が葬儀のために出てきました。私は家中に布団をひき、10人以上の食事の支度をしました。皆、泣いています。私はひたすら「ごめんなさい」と言いながら、毎日毎日いらしてくださるお客様にお茶を出しました。皆さん私の家族のことを心配してくださいました。でも皆さん、何をどうしていいのかが分かりません。もちろん私自身もどうしていいのか分かりません。殺人事件の後は、どのように進むかは誰も分からないのです。御近所の方も、怖くて主人が拉致された家の前の道を歩くことはできなかったと仰っていました。たとえ私たちを心配する気持ちがあっても、誰も何もできないでいたのだと思います。

私にとっては毎日が地獄の日々でした。事件後の事務処理が私には次々とやってきました。主人が使っていたパソコンは、パスワードが分からずに開くこともできません。銀行、携帯、保険、株など40歳のわずかな財産でも、本人でないと自由に解約することもできません。すごい事務量の仕事が待っていました。区役所には死亡届から始まり、ぐるぐる階を回って出し、窓口の方も涙をためた状態で手続をしてくださいました。毎日毎日、40代の一人の人間をこの世から消す作業です。それ以外に私自身の仕事もしなければなりません。私は毎晩2時ごろにやっとお風呂に入り、疲れて、このままここで寝てしまえば死んでしまう、そうしたらどんなに楽だろうと思いました。でも、お父さんを殺された子どもたちのお母さんまで死んでしまったらあの子たちはどうなってしまうのだろうと思い、毎日やっとの思いで生きていました。

子どもたちは、私が近所のクリーニング屋さんに行くにも「必ず帰ってきてね」「大丈夫、絶対帰ってきてよ」と送り出しました。小学生の息子は「お父さんにとって僕は悪い子じゃなかったかな」と言いました。「そんなことないよ、お父さんはあなたが大好きだったよ」と私は答えました。息子はなぜか毎日トイレを掃除してくれました。娘の誕生日に外食をして「何でも好きなケーキを頼んでいいのよ」と言っても「お父さんだけ食べられないから私もいらない」と大好きなケーキも食べません。主人がいたときは大喜びであった外食も嬉しくありません。主人がいたときはみんなでケーキを取り合って、お皿まで食べてしまうかの勢いであった子どもたちは、お誕生日のケーキもいらないのです。ただただお父さんに帰ってきてほしいのです。それから、世間の人が楽しい行事、運動会、学芸会、入学式、クリスマス、他の子にはお父さんがいるシーンに出会うたびに子どもたちは辛い思いをしてきました。どうして私たちはこんな悲しい思いをしなければならないのでしょうか。働いて働いて、みんなを幸せにしてきた主人がどうして今後一切、子どもたちとケーキを食べることもできないのでしょうか。全てはあの犯人たちのせいだと改めて思ったとき、私は色々なところに電話をしました。

警察、裁判所、弁護士、被害者の相談を受けてくれる団体の窓口など多くのところに電話をしました。そして「犯人たちを死刑にしてください。どうしてあんないい人間の主人が殺され、私たちがこんなひどい目に遭わなくてはならないのですか」と話しました。するとかけるところ、かけるところで「ここにそういうことを言われても」と困っていました。そして誰もが「お気の毒ですが犯人は死刑にはならないでしょう」と言われ、私にできることは裁判で意見陳述という意見を言う場があるということだけが分かりました。これは何なのでしょうか。人を殺しても一人では犯人は死刑にはならないことは決まっていて、私が何かできることは裁判での意見陳述で意見を言うということだけです。

2月には加害者の親や甲の家族など、計10人ほどが家に「謝罪に来たい」と言いました。私の父が「絶対に家には入れない」と言い、家の前の主人が拉致された現場の隣にある公園で会いました。土下座をして謝った家族は一家族だけで、主犯甲の家族に至っては「もうあの人とは関係ありませんから」と言って帰りました。何でそんなことを私たち家族は聞かなくてはならないのでしょう。

2月の公園はとても寒く、80歳になる父は次の日には具合が悪くなってしまいました。鼻血がなかなか止まらなくなってしまいました。被害者遺族が加害者遺族たちを家に入れたくないと思ったとき、謝罪に来たいと言い張る加害者の家族にどのように対応すればよかったのでしょうか。殺人を犯すような子どもを育てた親の顔は見てみたい、どのように謝罪するかは見てみたいと思っても自分の家に入れることは耐えられません。加害者を家に入れずに加害者家族に会うには、私が近所のファミリーレストランに案内するのでしょうか。それとも公共の施設の集会室の予約のために、私が並んでくじを引くのでしょうか。私も事件発生後、急遽、知り合いの弁護士をお願いしました。しかし、殺人事件を取り扱った経験はなく、6人の加害者についている複数の弁護士に一人で対応するのは大変であったように感じます。手探りの状態で、被害者の私を守ろうと必死にしてくださったように思います。とにかく弁護士も私たち遺族も、殺人事件は初めてなのです。何が何だか分からないまま、加害者側の国選弁護人を含む複数の弁護士に言われるまま動かされていたような気がします。

後から思ったことですが、殺人事件が発生したと確認された時点で、加害者に弁護士が必要なように被害者遺族にも被害者支援に精通した弁護士がつくべきであると強く思いました。加害者には弁護士がつき、刑務所の面会はお膳立てしてくれて、職員がいて、座れと言われればそこに座ればいいのです。しかし、被害者は自分たちで何もかもしなければならないのです。被害者遺族も、加害者の遺族が謝罪に来ることが、一般的に行われていく一つの過程であることの説明が最初にあれば弁護士事務所などを提供してもらって、寒い公園で何人もの加害者遺族に会って具合が悪くなることもなかったと思います。しかし突然、被害者遺族になった私には、どのように対応していいか知る由もありませんでした。加害者には国選弁護人がつくように、当然、被害者にも弁護士がつくべきです。

平成20年、被害者参加制度が施行され、犯罪被害者や遺族が刑事裁判の場に参加できるようになり、被害者参加人のための国選弁護人制度ができました。資力要件はありますが、被害者にも国選弁護人がつくようになりました。しかしこの当時は、加害者の権利を主張する弁護士はたくさんいましたが、犯罪被害者遺族のために働いてくれる弁護士は皆無に近かったのではないでしょうか。被害者や被害者遺族の支援に精通した弁護士の育成が急がれます。

加害者家族とのやりとりでは、こんなこともありました。

加害者家族ではがきをくれた家族がいました。「主人の冥福を祈っています」と出雲大社から出したはがきです。被害者の遺族は寝る間もなく、くたくたになって事件の後片づけをしているのに旅行とは随分いい御身分だとしか私には思えませんでした。息子が殺人事件を起こしたのですから神にすがる気持ちは分からなくもありません。しかし、被害者遺族には神に手を合わせて悲しんでいる余裕などありませんでした。どんなに手を合わせて拝んでもらっても主人は帰って来ないのです。御自分たちの気休めにしかならないのです。また、このようなこともありました。主犯甲の家族が、我が家の前の道に謝りに来たときの態度が目に余ったので、私は自分のホームページに甲の家族の態度がひどいことを載せました。すると、すぐに甲の弁護士の一人から名誉毀損で訴えると連絡がきたのです。加害者が守られているように、加害者の家族もどこまでも守られているのです。

仕事、家事、子育て、介護、事件の事務的な後始末、加害者家族との対応など目の回る忙しい日々の中、刑事裁判が始まりました。裁判は3人ずつ月に2回のペースで行われ、半年かかりました。初めの日に、当時中学生だった娘は一度も学校を休んだり、早退したことはなかったのですが、学校を早退して一緒に裁判を傍聴しました。そこで私たちは初めて、主人が残酷に殴られガムテープで体中を巻かれて、息もできない状態にさせられて放置されて殺されたかを知りました。月に2回の裁判はとても辛いものでした。

拉致した若者たちは口々に、拉致はしたけど死ぬとは思わなかったと言うのです。そして、殺人のようなことに誘ってそれぞれがお互いに対して悪いことをしたと、お互いを気遣って泣いているのです。家族にも迷惑をかけて申し訳ないと泣くのです。そして意見を求められた加害者の家族たちは、○○はとても優しい子で、自分たちは被害者の家に謝りにも行っていると言うのです。これは何なのでしょうか。とても下手な、残酷過ぎる芝居を見ているようです。

若者たちは、いかに自分たちは殺人に加担しているとは思わなかったということを主張するのです。家族は自分の子どもを守るためにこれは何かの間違いで信じられない、今までどんなによい子であったかということを言うのです。ひたすら自分と家族を守ること、刑を軽くすることをしゃべりまくっているのです。娘はお父さんの悲惨な最期を聞かされ、声をあげて泣きました。すると裁判所の人に怒られて、これ以上声を上げるようであれば退廷であると告げられました。この法廷で一番の悪者はうちの娘です。犯人たちは好き勝手なことを堂々としゃべり、被害者の遺族が傍聴席で声を出して泣けば退廷を命じられるのです。被害に遭った当事者の主人は死人に口なしで何も言えません。被害者遺族は、傍聴席でただ声を出さずに泣くことしかできないのです。月に2回ペースで半年行われた裁判に私の友人、主人の会社の方などが傍聴に来てくださいました。被害者家族だけでは心細く、多くの友人、知り合いが来てくれたことはとてもありがたかったです。私は一生、皆様に感謝をし続けます。

しかし、迎えた判決はあまりにも軽いものでした。これしか被害者遺族の私にはチャンスがないという意見陳述は、法廷中が泣いてくださいました。裁判長も泣いていらっしゃるように思えました。主人には何ひとつ落ち度がなく、全てが犯人たちのせいでもあるにも関わらず主犯甲、懲役17年、A、13年、B、 10年、そして拉致を手伝った3人の若者は懲役6年でした。犯人たちは前科がなく、家族が被害者の家に謝りにも行き、裁判長は淡々と流れに沿って刑を言い渡し「まじめに刑務所で務めれば、刑期よりもっと早く出られますから」という励ましのお言葉付きでした。

何ということなのでしょう。主人は社会でまじめに働いていて殺されて、人を殺した人が刑務所で短い時間働けば反省もなく、再犯のおそれがあっても私たちの社会に帰ってくるのです。私たち犯罪被害者遺族は、犯罪被害者とその遺族が進んでいく社会の仕組みを前に進めば進むほど、この社会がおかしいこととぶつかっていきました。

主人が亡くなって、アメリカの取引先の会社は半旗を掲げてくださいました。海外を飛び回る商社マンに憧れまじめに勉強し、人一倍努力をし、社会で活躍し、会社のために貢献した主人は殺されてしまい、努力もせずまじめに働きもせず、自分の利益だけを求めて生きていた人間たちに対しては一度なら人を殺しても仕方がない、一人なら人を殺しても仕方がなかったと国が全力で守ってくれる。この国は何という国なのでしょう。私は、日本とはこんな国であったのかと思いました。

しかし、どんなに理不尽であると思っても、どうすることもできない日々が過ぎていきました。その間に、加害者に損害賠償の民事裁判と主人の会社への仲裁を起こしました。新たに弁護士をお願いしました。損害賠償金は1億数千万円ですが、犯人が一人でもうちのような6人でも金額は同じです。大勢で人を殺せば賠償金の1人当たりの負担額は軽くなるということです。これもおかしな制度だとは思いましたが加害者たちは誰も損害賠償などする気もないので、違和感を持ちながらもほとんど機能しない損害賠償の判決を、自分が持っておくためだけに何十万円もの弁護士費用と訴訟費を払いました。

また、仲裁制度を使い、主人が会社に貢献したことを命日に社員に伝えていくことを約束してもらいました。今でも11月25日には社員が黙祷をし、主人の業績を称えてくださっています。これは私が弁護士と考え、費用を費やし、主人の業績を残したいと考えて勝ち取った主人の名誉です。被害者家族が弁護士にお願いしなければあれだけ会社のために尽くし、元上司から商権を取り戻し、再び莫大な利益を会社にもたらす成果を上げた主人に対して会社は何もしないで終わろうとしていました。ここでも被害者遺族が孤独に考え、被害者の名誉を守るために甚大な労力を使わなければなりませんでした。

辛く悲しい日々の中で、主人にお世話になったと言って訪ねてくる方は後を絶えませんでした。ある日の晩、主人に世話になった者で、かつ犯人たちを知っているという若者からお線香をあげに行きたいと電話がありました。家に着くのが余りにも遅い時間になるので昼間にできないかと言いましたが、彼はどうしても来たいと言うので、それを許しました。

私は兄弟に電話をかけてその旨を伝え、警察にもそのことを知らせました。警察は普通車で外に待機してくれました。中学生の娘にも話し、何かあったら外にいる警察を呼びに行ってほしいと告げました。やってきた若者は、かなり怖そうな感じのする若者でした。その彼はお線香をあげて話してくれました。話の内容は、主人が輸入した機械が税関のところで壊れていることがわかり、日本国内でそれを運搬したのが彼でした。彼は自分は絶対に壊していないと言い、主人はそれを信じて海外か船の中で壊れた可能性が高いと調査を始めてくれたそうです。そして、もし彼が壊してしまったことになれば、彼は仕事を首になってしまったそうです。主人のことを命の恩人だと言っていました。彼は小学校、中学校時代、物やお金が無くなるといつも自分が疑われ、どんなにやっていないと言ってもみんなが白い目で見たそうです。主人は自分を信じてくれて、海外との手続に何十時間も嫌な顔をしないで付き合ってくれた。こんな優しい人が殺されてしまうなんてと泣いていました。そして、その人は加害者を知っていて、悪いことをしようと会話をしていたその現場にもいたというのです。あまりにも偶然であり、余りにもむごい話です。そして加害者は最低なやつであるということも知っていました。私は言葉もありませんでした。お線香をあげに来て主人のよい話をしてくれた彼に、私はお礼を言って見送ると彼は警察が来ていることに気づき、とても悲しそうな顔をしました。私もその状況がとても悲しかったです。

彼が帰った後、私は警察官に危ないことをしないでくださいと怒られました。そして、家に入ると客間の隣にある階段の踊り場で娘が竹刀を握り締めて寝ていました。その顔は涙の跡でいっぱいでした。なぜ私たちは、こんなに悲しい思いをしなければならないのでしょうか。

犯罪被害者遺族はこのように次から次に起こる出来事を全て自分たちで対応し、そのたびに傷つき、悲しみ、疲れ、辛い思いをしてきました。しかし、加害者は立ち直るために頑張れ、頑張れと弁護士が、裁判長が、保護司が、国が応援してくれるのです。加害者には就労支援、医療費、被服代、食費、国選弁護人など国が全て面倒を見てくれるのに対して、犯罪被害者、または遺族には何もありません。主人の事件当時はわずかな給付金制度があるだけでした。

それこそ私が事件を経験したときには、私が知る、私が受けられる被害者のための権利は、裁判での意見陳述しかなかったのです。私は犯人たちがうらやましくて泣きました。食事の支度をしなくていいのがうらやましい。夜中まで事件の後片づけの仕事をしなくていいのがうらやましい。安全な刑務所の中で国が更生するために全力で守ってくれているのがうらやましい。被害者や被害者遺族に比べて、加害者たちはうらやましくて仕方のないことばかりでした。被害者遺族は誰が守ってくれるのでしょうか。重い罪にしてもらいたいということしか私たち家族に希望はありませんでしたから、裁判であまりにも軽い罪が確定したことに娘は絶望しました。裁判所は国の最高機関ではないのか、どうして殺人犯にこうも甘いのかと嘆き悲しみましたが、どうすることもできません。

そんな絶望の中でたった一つ、私は希望の光を見つけました。それはある自助グループの存在でした。やはり自身の裁判の経験が余りに理不尽であったことから、当時その会の代表は被害者遺族も裁判のときに、傍聴席ではなく法廷の中に入って意見を言い、求刑をすることもできる被害者参加制度を作ることに尽力されていました。傍聴席で娘が感じた感想、犯人たちが言っていたガムテープでぐるぐる巻きにして拉致しても、死ぬとは思わなかったというのは全くおかしい発言で、幼稚園の子どもでもガムテープでぐるぐる巻きにして口をふさいでしまえば死んでしまうことは想像できるという意見を聞いてくださって、うなずいて、法律をつくる過程の公的な場で、子どもたちが希望を持てない社会でいいのかということを皆様に投げかけてくださったと伺っています。

その後、先輩被害者と被害者遺族の皆様の御尽力で被害者参加制度ができました。被害者の会の代表は「お嬢さんの言葉は多くの委員の心を動かしましたよ」と仰ってくださいました。主人が殺されてから、私たち家族が初めて救われた言葉でした。自分たちはひどい被害に遭いながら、次に被害に遭うかもしれない人のために法律を作り変えようと頑張っている人たちの存在は、私にとっては大きな感動でした。自分たちは間に合わなかったが今後の被害者たちのために尽力されている人たちの存在、それは自分たちの利益のために主人を殺した加害者や、自分たちの家族だけを守ろうとする加害者家族とは正反対の人たちでした。この絶望的な世の中に、こんなすばらしい人たちがいたことを知り私はとても嬉しかったです。

そのような被害者と被害者遺族たちの運動のおかげで、私が被害者遺族になった当時に比べて被害者を取り巻く支援の環境は驚くほど変わってきました。被害者の権利は、犯罪被害者等基本法が制定された後、確実に広がり、犯罪被害者等基本計画の策定、刑事裁判への被害者の参加制度、刑事裁判とは別に行わなければならなかった損害賠償命令も刑事裁判の弁論が終わるまでに被告人に申し立てることができるようになりました。さらに申し立て手数料を2,000円とするなど被害者の負担が最小限になりました。私は当時、訴訟記録のコピーなど何十万円もの費用を払い、民事訴訟を起こさなくてはなりませんでした。また、凶悪犯罪の公訴時効の廃止など法律がいくつも作り変えられました。市民の意見が刑期に反映する裁判員制度の影響もあり、凶悪犯人に対する刑も重くなってきたように感じます。市民が裁判に入ることで、守るべき対象が被告人より社会全体の正義になってきているように感じます。

犯罪被害者週間に国民に向けて、内閣府が行ってくださる被害者たちの被害者遺族の声を聴いてくださるつどいも、国が加害者だけではなく被害者たちを支援してくださる方向に動いているのだと強く感じ、ありがたい思いです。社会から見捨てられていた存在であった被害者と被害者遺族は、少しずつその権利が回復されつつあります。被害者遺族の私が事件後、前に進めば進むほどやり切れなかった社会の制度、仕組みは、先輩被害者、被害者遺族の方々のおかげで変わってきたものがたくさんあります。しかし、まだまだ被害者や被害者遺族よりも加害者が守られ支援されている面はたくさんあります。

判決のとおり、まじめに刑務所で過ごした主人を殺した3人の若者はたった4年半の刑期を終えて社会に戻ってきました。私は仮釈放になる前に、意見聴取制度を使い被害者遺族の気持ちを述べました。3人の犯人に対してですから何度も関東地方更生保護委員会に通いました。その後、保護観察中の若者たちに対しても心情等伝達制度を使い、意見を述べました。これも何度も保護観察所に通いました。しかし、加害者たちがまじめに働き、懸命に私たち遺族に償っていくという姿勢はほとんど感じられません。

事件発生後、寄り添ってくれた女性刑事は「近藤さんの事件は、海外の商権をめぐる商社マンが起こした事件で若者が安価で雇われた。ドラマのようですね」と仰ったことがあります。本当に私もテレビドラマを見ているようでした。しかし、ドラマであれば出所後、この若者たちは改心し、世の中のために働いたり特別な事情を抱えていて、どうしてもお金が必要であったことが犯行の動機だと分かったりするのですけれども、現実の殺人事件はただ遊ぶ金欲しさの身勝手な殺人事件です。被害者の遺族に誠心誠意償っていくという姿勢は見ることができません。

平成22年版『犯罪白書』によれば、殺人の再犯率17.2%、強盗・強姦は4割が10年以内に再び罪を犯しているのです。この事件の加害者たちは、行いがよくて早く刑務所を出所してきました。保護観察がつくのは満期出所の人よりましな受刑囚です。それでも被害者遺族への反省度は、保護観察の方が私には言いにくそうに首をかしげてしまう状態です。満期出所の方は、保護観察もつかずに私たちの社会に帰ってきます。私は声を大にして言いたいです。こんな世の中で大丈夫なのでしょうか。悪いことをした人間たちに甘い世の中を作ることがよい世の中を作ることではなくて、死刑を廃止という前に殺人事件を起こさない社会にすることに皆が尽力するべきです。罪のない人が殺されない国を作るべきです。それは被害者に優しい社会であり、加害者たちが決して加害者になりたくないと思う社会だと私は思います。

私は主人を殺されて、犯罪の被害者遺族になって様々な経験をし、今まで知らなかったことを多く知ることになりました。日本は被害者、被害者遺族よりも加害者や加害者遺族が守られている社会であったこと。最近は裁判員制度の導入などで刑は重くなってきましたが、殺人を犯しても軽い刑期で社会復帰できること。受刑囚は更生してもしていなくても刑期が終われば普通の人となり私たちの社会に普通に帰ってくること。そして彼らが再び罪を犯しても、誰も責任をとらないこと。犯罪の被害者、その遺族は社会から忘れられていた存在であったこと。犯罪の被害者は自分で何もかもしなければならなかったこと。私はこのような社会と犯罪被害者という存在を知り、私に何かできることはないかと考えてみました。

私は中野区で議員を務めさせていただいておりますので、もし中野区でまた我が家のような事件が起こってしまったら、私のような大変な思いをする人が出るのを少しでも防ぐことはできないかと考えました。(以下パワーポイントの説明)私がやってきた事務手続、その他の様々な私が行ってきた手続です。

マスコミの対応、犯人家族との対応。被害者の生活は仕事、子育て、家事、介護それに事件がどっとのしかかってきます。これらの人への対応は大変なものでした。厳しい現実を私は乗り越え、加害者は眠れるのに私たちは眠れない。愛する家族を失った悲しみ、たくさんの悲しみ、そういったものを私は抱えました。加害者に対して遺族として何もできないこと、そういった様々なことを私は経験しました。絶望のどん底にいて、それでも社会がそういう仕組みになっていないという現実に出会いました。一生懸命努力してきた人が虫けらのように殺され、殺した人は頑張れば次の人生を謳歌できる。被害者はぼろぼろに傷つき、誰からも守られずに死んでいくのでしょうか。子どもたちは何を目標に生きていけばいいのでしょうか。唯一の希望であった自助グループの存在はたまたま知っている方が紹介してくださいました。このような経過を、もし身近な自治体に犯罪被害者の窓口があり、被害者に寄り添ってくださる職員がいれば被害者の苦労、悲しみは少しでも緩和し、頼りになる存在ではないか。ここに相談すれば警察や裁判に付き添い、区役所の中の事務処理も行ってくれます。一人で何もかも探し回らなくていいのです。被害者は少しでも救われます。

私は議会で訴え、平成21年4月、中野区に犯罪被害者等支援窓口を作ることができました。事件発生後、この窓口に連絡さえすれば区の職員が被害者支援を勉強されていますので、何でも理解して対応してくれます。区役所には会議室もあります。もう吹きすさぶ公園で加害者の家族と面会しなくてもいいのです。警察官や裁判所など犯罪被害者に係る手続、病院などへの付き添いもしてくれます。また、犯罪被害者等の支援に精通している機関の紹介や事務連絡もしてくれます。

今年の6月からは家事援助のヘルパーが駆けつけてくれるサービスも始まりました。区内にお住まいの方で、事件発生から3か月以内の犯罪被害者やその遺族に家事援助、調理や掃除、買い物など外出援助、同居家族の通院など、育児援助、御自宅での見守りや保育園の送迎など社会福祉法人中野区社会福祉協議会のほほえみサービスという既存のサービスを使っての対応となります。利用料は無料です。

どの自治体も財政状況が厳しいと思いますが中野区も同じです。しかし中野区はこの窓口事業に250万円、緊急生活サポート事業に35万円というわずかな予算を計上して運営しています。殺人事件ではありませんが暴行、暴力事件に遭い、この窓口を使われた方に犯罪被害者等相談支援窓口の職員たちが寄り添って支えた実績もあります。その方は偶然別の場所で自らお話をしてくださったのですが、ひどい事件に遭ってしまったけれども犯罪被害者の窓口の職員たちの対応は、想像もつかないぐらいありがたかったと仰っていました。悲しみを抱える方の役に立てて、私はとても嬉しかったです。

そしてもう一つ、私が力を入れて取り組んでいるのは、子どもたちを犯罪の加害者にしない命の教育です。この犯罪被害者等相談支援窓口と教育委員会の共同の人権授業やお話し会など我が子を亡くされた方のお話などを聞いてもらうことで、学童期からどれだけ命が大切であるかを理解してもらい、犯罪の被害者になることは避けられなくても自分が犯罪の加害者にならないことは誰もができることです。そこに重点を置き、児童・生徒に伝えるために様々な命の教育を行っています。

私自身は中学校以外に高校、大学、少年院などでも同じ趣旨の講演をしています。また、中野区では保護司、民生委員、町会の方など多くの地域のリーダーたちと一般区民向けに犯罪被害者の実情と支援の取組の講演を行っています。今年は11月25日に行いました。多くの区民、犯罪被害者を支援する関係の方々が聞きにいらしてくださいました。

私は主人を殺人という形で失い、誠実に、まじめに努力をしてきた主人がかわいそうでなりませんでした。生きてさえいればどれだけ楽しいことがあり、また多くの人を幸せにできたかと思うと、社会が失ったものも大きいと残念でなりません。主人は二度と戻ってくることはできません。残念で悲しくてたまりません。だから二度とこんな思いをする人間が出ない社会を、皆様とともに作っていきたいのです。少なくとも加害者より被害者に優しい社会です。

事件が発生してから私はまるでジェットコースターに乗せられ、谷底に突き落とされたようでした。どこに着くのか分からない真っ暗闇の中を猛スピードで走りました。でも、途中、明かりのある休める場所もありました。そこには被害者遺族を支援してくださる方々がいらっしゃいました。多くの方にこの場をお借りして感謝の意を申し上げたいと思います。

夜中まで聞き込みをして犯人を捕まえてくださった警察の方々、事件が解決するまで寄り添い支えてくださった女性刑事、辛い表情をされて調書をとってくださった検察の方、これは社会的な問題ですと記事を書いてくださった新聞記者の方々、裁判を傍聴に来てくださった友人知人の方々、今でも毎年、地方からお墓参りに来てくださる主人の仕事関係の方々、毎年、加害者の権利しかテーマになかった社会を明るくする運動に被害者の声もといって私を講師に呼んでくださった地元の保護司、会社との仲裁を進めてくださった弁護士、被害者の権利回復に尽力された先輩被害者と被害者家族の皆様、泣きそうになりながら事務手続を行った会社や区役所の方々、いつも優しく迎えてくださった検察庁、関東地方更生保護委員会、埼玉保護観察所、東京保護観察所等、関係の被害者担当職員、保護司の皆様、大変お世話になりました。ありがとうございます。被害者と被害者遺族を支援していただいた全ての皆様にお礼を申し上げたいと思います。

そして、辛く悲しい状況でも学校に行き、自分の居場所を家以外に作る努力をしようと努めてくれた子どもたちに私は救われました。その子どもたちを静かに支えてくれた友人たち、地域の皆様にも感謝を申し上げます。私たち家族が乗ることになってしまった暗闇を走るジェットコースターを照らしてくださった皆様に本当に感謝いたします。

もし中野区で今後、犯罪被害者遺族になってしまい、辛い道のりを進むことになっても家族が乗るジェットコースターの隣には、犯罪被害者等相談支援窓口の職員がいます。厳しい道のりを一緒に運転できる方がいることはとても心強いと思います。そして、その道のりがきつい急カーブであっても坂であっても、支援する人たちの照らす明かりがたくさんあれば被害者遺族は明るい道を進むことができます。まじめに生きている人間が突然殺されることのない社会、加害者を生まない社会、でも万が一、被害者遺族になってしまったら多くの人が支えてくれる社会を目指して私はまだ働いていきます。

どうぞ皆様も犯罪のない社会を作るために、ますますのお力を注いでいただきたいと思います。御清聴ありがとうございます。

(「地域・自治体で必要な取組とは~議員、被害当事者の立場から~」)
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