■兵庫大会:基調講演

テーマ:「奪われた命~きょうだいの立場から~」
講師:伊藤 裕美(犯罪被害者遺族の会・自助グループ「六甲友の会」会員)

ご紹介いただきました、伊藤裕美と申します。

まずは、このような機会を下さった内閣府、兵庫県、兵庫県警察本部、NPO法人ひょうご被害者支援センター、そしてご準備くださった皆様方に深く感謝いたします。そして何より、犯罪被害者の問題に関心を寄せていただき、お忙しい中会場にご足労くださった皆様に深く感謝いたします。本当にありがとうございます。

今日は、わたしと、わたし達家族が体験したことについてお話したいと思います。

わたしは社会人としても、また犯罪被害者遺族としても、なにひとつ特別なことはしていません。

わたし達家族が事件に遭ったのは2001年12月のことで、犯罪被害者等基本法はまだ制定されていませんでした。けれど、それまでの被害者の方々が被害者の権利を守るための努力や、法律を変える活動を続け、社会に問いかけてこられたおかげで、制度的な不備による不満はあまりありませんでした。ただ、少し疑問に思い、制度からも世間の意識からも抜け落ちているのではないか?と感じたのが、被害者兄弟の問題でした。

ここでひとつ、皆さんにお聞きしたいと思います。皆さんは、目の前に突然兄弟をなくされた方がいたとき、なんと声を掛けますか?わたしが周囲の人から掛けられた言葉は、次のようなものでした。「ご両親は大変だから、あなたが頑張って、ご両親を支えてあげるんだよ」「ご両親はかわいそうだ」「お兄さんの分まであなたがしっかり生きなくては」最初は、その言葉を素直に受け入れました。でも、あとで「頑張れって言われても、これ以上なにをどう頑張ればいいのだろう」「わたしも遺族のはずなのに、どうしてわたしだけが頑張らなければならないのだろう」「兄弟を亡くした悲しさは、子供を亡くした悲しさよりも軽いのだろうか」そんなふうに反発を感じて、ひどく落ち込む結果になりました。もちろん、そういった方々に、悪意があったわけではないでしょう。でも、掛けられた言葉は、わたしの負担になるものでした。わたしはずっと、どうしてそんな言葉を掛けられるのだろうと疑問に思っていました。そして、あまり兄弟の気持ちについて語られていないのではないかと思うようになりました。これまで犯罪被害者遺族の実情に関して、社会的な認知は低く、最近ようやく取り上げられるようになりました。でも、兄弟の実情に関してはもっと認識が低いようです。今まで兄弟としての声をあげておられる方もいらっしゃいます。でも、全体の数からくらべると、ごくわずかです。わたしの体験がすべての事例に当てはまるわけではありません。ただ、同じ思いをしている方の気持ちを少しでもお伝えできればと思います。

では、当時のわたし達家族の話から始めます。

わたしの兄は2001年12月14日、午前2時40分頃、姫路市北条のファミリーレストラン「フォルクス」の駐車場で、交際していた女性のバックを盗んだ男の車を止めようとして引き逃げされ、死亡しました。その当時我が家は、父と母と26歳の兄と、22歳のわたしの4人家族でした。当時兄はプリセプトという市民生協に健康食品を納入している会社に勤めており、そこは出来てから十年ほどの社員30人ほどの新しい会社でしたが、兄は希望を持って皆で会社を大きくするのだなどと張り切っておりました。

兄とわたしは幼いころから喧嘩らしい喧嘩もせず、わたしは本当に兄のことを尊敬していましたし、兄もわたしを大切に慈しんでくれました。兄は社会人になって忙しくなっても色々な相談にのってくれ、いつも支えになってくれました。兄はわたしにはなくてはならない存在でした。

一方、わたしは大学四年生で、就職先も決まって卒業論文に追われている毎日でした。事件の起こった日は卒業論文の提出日でした。その日まで論文の追い込み作業をしていたわたしは生活リズムが食い違い、兄とほとんど顔を合わせることはありませんでした。事件が起きる5日前、兄がわたしの部屋にきて、ハリー・ポッターの映画の話をしてくれましたが、その時、わたしは論文のために机の前に座っていて、兄には背を向けながら話をしました。今思うと、なぜあの時手をとめて正面を向き、兄の顔を見ながらゆっくりと話さなかったのかと後悔の気持ちでいっぱいになります。そのあと兄とほとんど話ができないまま、事件が起きてしまいました。

事件が起こったのは、深夜のことでした。わたしたちが住んでいるのは大阪ですが、事件は姫路で起こりました。当時兄と交際していた女性から、(ここでは A子さんとさせていただきますが)真夜中に電話がありました。兄とA子さんは年が明けたら両方の親にも紹介し、指輪も買いに行こうと計画していたそうです。でも、わたし達家族はその時まだA子さんのことを知らされていませんでした。

わたしたちはすぐ車で姫路に向かいました。姫路までの道路はひどく混んでいました。

兄が姫路に向かった時間帯は、わたしたちが通った時よりももっと道路が混んでいたようで、いつもなら1時間半で行けるところが、倍以上かかったようです。

そのため、兄もA子さんも普段ならそんな時間まで出歩くようなことはしないのに、その日に限ってとても遅くなってしまったそうです。兄は12月14日、姫路市のファミリーレストランで食事をした後、駐車場の自分の車の中でA子さんと喋っていました。そして2時40分頃、近くに停めていたA子さんの車の中から男が白い鞄を盗むのを目撃しました。男は白いワゴン車に乗って逃げようとし、兄は阻止しようと車の3メートルほど手前に立ちはだかりました。しかし男は他の出口があったにもかかわらず、兄に向かって発進し、ブレーキも踏まずに兄の体を車体に巻き込んで逃走したのです。

わたしたちがA子さんの電話をうけ、姫路に向かう途中、A子さんから「まだ着きませんか」「まだですか?」と何度も電話がありました。電話はわたしの携帯にかかって来ていたのですが、5時前にかかってきた電話で、A子さんが急にわぁっと泣き出しました。「あっ…」と思いましたが、両親には恐ろしくてとても言えませんでした。わたしが絶句していると、急に電話の相手が変わりました。看護婦長です、というその女性は、「重篤な状態です。道はわかりますか」と丁寧に尋ねられました。でも、それが余計に怖くて何も言えなくなり、電話を切ったあと、「A子さん、なんて言ってた?」と母に聞かれたとき、「重篤な状態だと言ってる。とりあえず高速を降りたら道を教えてもらう」と答えました。兄はその時すでに亡くなっていました。

病院についたとき、兄は全身を包帯で巻かれた姿で、すでに延命装置が取り外されていました。亡くなっていることはすぐに分かりました。母が兄にとりすがって「ゆう君、どうしたん?」「何があったん」と顔を包みこんで言うのを見ながら、わたしはただ呆然として、何も感じられませんでした。頭では兄が亡くなったという事実は理解出来ました。けれど、こみあげてくる悲嘆とか怒りとか、そういう気持ちは感じられませんでした。まるで夢かドラマでも見ているような気持ちでした。妙に冷静で、卒論の提出やアルバイト先への連絡をどうしようなどと考えていたのです。

A子さんと両親は混乱していました。とくにA子さんを、わたしが慰めなくては、と思いました。A子さんは何度も謝罪していて、両親はA子さんをひとことも責めませんでしたが、A子さんの相手をするのは両親には負担だろうと思ったのです。自分に与えられた台詞と役を、ちゃんと演じなければならない、そんな気持ちでした。

遺体と共に家に戻ってから混乱の中で通夜、葬式、初七日と続く仏事がありました。兄が亡くなったという実感が出てきたのはこの頃でした。最初はお通夜でわたしの友人達が駆けつけてくれたときでした。それまでは兄のお通夜ではなく全く別の誰かのお通夜なのだという気持ちにさえなっていました。でも、友人達の顔を見てようやく夢と現実の境目がなくなって、死んだのはわたしの兄だと思えるようになったのです。

わたしは友人に、もし卒論を自分で提出出来ない場合は、提出しておいて欲しい、教授やサークルの皆には自分ではとても言えそうにないから、伝えておいてほしいなど、事務的な話をしました。そうしていると、どこか遠かった現実がじわじわと自分の身近に迫ってきて、ぞっとしました。後で友人から聞いた話では、この時のわたしは、真っ青になりながら笑顔でいたそうです。

その後わたしは大学へ行って卒論を提出し、アルバイトを辞めることを職場先へ言いに行きました。でも、そこまでが限界でした。わたしは何もかもが負担に感じるようになり、現実から逃れて部屋に閉じこもるようになりました。部屋の中でわたしはずっと本を読んでいました。本の世界に逃避したのです。でも、「殺人」とか「事故」といった単語が出てくると発作のように恐怖感が襲ってくるのです。読めたのは学術書や研究書ぐらいで、テレビにいたっては見ることもできませんでした。

しばらくして兄が使っていた携帯電話やパソコン、カードなどの名義変更や契約停止の手続きをすることになりました。本当は嫌でしたが、両親には他の用事もあったので、両親がわからないそういった手続きはすべてわたしがやりました。手続きするたびに兄とこの世を繋いでいる糸を一つ一つわたしが切っていくように思えて、まるで自分が兄を殺していくようでとても恐ろしく感じました。こういった手続きはシステム上、他人には出来ないのでしょうが、せめてきちんと整理して教えてくれる人がいたら、どんなにいいだろうかと何度も思いました。

両親はわたしに負担を掛けることを申し訳なさそうにしながら、わたしにしか出来ない部分はわたしに頼みました。もしわたしがもっと幼かったら頼まなかったかもしれません。あるいは、もっと大人だったらわたしが両親の負担を軽減してあげられたかもしれません。両親に何か頼まれると、わたしはそれを非常に重苦しく感じました。でも果たし終えてありがとうと言われると嬉しいと思いました。周囲の人々から「ご両親は大変だから、あなたが頑張って、ご両親を支えてあげるんだよ」と言われてそれを実行しなくては、という思いもありました。

ただ、そんな日が続くうち、兄が死んだのに、自分が必要とされることを喜んでいるような気持ちに気が付いて、どんどん落ち込むようになりました。

事件から三ヶ月ほどたったころ、わたしは両親の悲しむ姿をみているうちに、兄に代わってわたしが死んだ方がよかったのではないかと考えるようになりました。母が朝食を作るとき、無意識のうちに目玉焼きを四つ作ること。父が兄からプレゼントされた財布をなでていること。声を殺して泣いているのが聞こえること。そういう状況を感じると、しんと胸の奥が冷たくなり、自分が生きていることに罪悪感を感じました。生きていることがひどく苦しかったのです。なにか楽しいことがあったら、あとで自己嫌悪でのたうちまわりました。兄が死んだというのに笑って生きている自分がとてもひどい生き物のように思えたのです。

兄のお友達や会社の方と話して、兄がどれだけ多くの人から必要とされていたかを感じると、どうして事件にあったのが兄の方だったのだろうか、事件にあったのがわたしだったらよかったのにと思いました。

このころ家族の関係も、ぎくしゃくしてきました。父の精神状態が不安定になって、両親が言い争うようになりました。父は普段はとても温厚で誠実な人間です。兄もわたしも父に叩かれたことなど一度もありませんし、人を傷つけるような言葉を父の口から聞いたこともありません。けれど、この時期の父は、どこにも吐き出せない気持ちを母にぶつけるしかなかったのでしょう。

家族全員が悲しくてつらいと思っているのに、気持ちがすれ違って傷つけてしまうのです。絶望して、いたたまれなくなったわたしはとうとう、どうにでもなってしまえ、という投げ遣りな気持ちで、「友人の引越しの手伝いをするから」と一週間ほど家を離れることにしました。

わたしを誘ってくれたのは東京で就職が決まった友人でした。彼女はわたしが家にいるのが苦痛なのだと察してくれたのか、「引越しの手伝いをしてくれない?」とごく当たり前に誘ってくれました。そして、わたしは一週間、静かな環境でのんびりさせてもらったのです。一週間がすぎ、さぁ、また喧嘩かな、と覚悟して帰宅すると、両親の様子は前と一変して、すっかり落ち着いていました。そのときはわたしの不在が両親になんらかの影響を及ぼしたのかと思いました。

でも、わたしの方にも原因があったのだと思います。わたしの心に余裕がなかったことが、ささいなことでも過敏にとらえていたのでしょう。それまではずっと家に閉じこもっていましたが、それから、少しずつ外に出るようになりました。映画を見に行ったりコンサートに行ったり、友人達が機会を見つけてちょくちょく誘い出してくれました。

どん底だったわたしの気持ちを救ってくれたのは、友人達でした。後で聞いた話ですが、お葬式に参加してくれた友人達は、その時「これから、自分たちに何が出来るか」ということをすでに話し合っていたのだそうです。

そして「忘れなさい」とか「過去を振り向かないで」とか、事件をなかったことにする声が多かった中で、友人達は「事件にあったことを特別扱いするのではなくて、事件ごと当たり前に受け止めよう」と決めていたのだといいます。

4月になって、わたしは社会人になりました。世の中に出てみると、世間は戸惑ってしまうくらい平和なものでした。兄の事件はわたし達家族にとって、人生を変えた重大な出来事でしたが、世間では新聞の一記事にすぎませんでした。わたしをよく知る人でさえ、完全に理解してくれることはありませんでした。世間の日常が押し付けられ、全身全霊の勇気をふりしぼって事件の話を打ち明けても共感を得るのは難しいことでした。

ある日、軽く笑われて「精神的負担ってやつ?」と冗談めかして受け流されたときから、わたしは聞かれても事件の話をしなくなりました。入社して一年後、わたしは会社を辞めました。その会社は印刷会社だったのですが、業務の関係で帰宅がとても遅くなるのです。母はわたしの帰宅が遅くなると、兄のように事件に遭うのではないかと不安になるらしく、母とは帰宅時間のことで何度も揉めました。

仕事自体は楽しいものでしたが、時勢もあって会社の業績も悪くなる一方でしたから、家族の揉め事の種になるなら辞めた方がいい、と思いました。

そしてもうひとつ、この時期、わたしの中でひとつの考えが固まっていました。「どうせ明日には死ぬかもしれないのだからという考えです。

当時のわたしの中では「明日死ぬかもしれないのだから、今日を笑って過ごせるように生きよう」「明日死ぬと思えばなんでも出来る」という前向きな考えのつもりでした。

けれど、世間一般的にみれば、「今を着実に積み上げていけば遠い未来に夢が叶う」という考え方のほうが健全です。実際、ある人に自分の気持ちを話したところ、「そんな刹那的な考えは良くないと思う」とたしなめられました。

けれどわたしは一生懸命頑張っていても、突然誰かが壊しにくるのではないか、積み上げたものをぐちゃぐちゃに踏みつぶされてしまうのではないか。もうこれ以上、心を痛めたり苦しい思いをしたくない、と身が竦んでしまって、未来の話は不安で不安でたまりませんでした。そして結局、わたしは目の前のことをただ黙々とし続けることしか出来ませんでした。

事件から一年くらいたったころ、わたしは自分の中に悪魔と死神がすみついていることを自覚し始めました。兄がかわいそうで、両親がかわいそうで、どうしてわたしの周囲の人々がこんなに苦しめられるのだろうかと思うと、犯人を殺したいと思うようになりました。そして、兄の代わりになれるのなら、喜んで死んであげるのにと思いました。実際、何度も実行を考えました。

ただ、そう思うたびに、「これは単なる自己満足と陶酔に過ぎない」「現状から逃げようとしているだけだ」と自分の弱さを直視しなくてはならなくなりました。

不幸の中に溺れて深みでもがくことは、とても苦しくつらいものです。けれど、深みにもぐることも出来ず、無理矢理外に連れ出されて、未来に向かって歩きなさいと言われても、とてもつらいのです。「お兄さんの分までしっかり生きなさい」といわれても、何をどうやって生きればいいのかなんて誰も教えてはくれません。

苦しんでいる両親を支えたいと思い、事件の前のような家に戻したいと願って、ある日わたしは両親を旅行に誘いました。けれど、両親は今はそんな気分にはなれないと言いました。では、兄の代わりになろうと思って、兄の役割を引きうけようとしました。でも「お兄ちゃんみたいにアンタも死んでしまうような気がするからやめて」と言われました。

兄の命を背負って、自分がどこへ向かって生きていけばいいのかもわからないまま、時間だけが過ぎていきました。

犯人が逮捕されるまでの一年半、わたしたち家族は懸賞金をかけ、ビラ配りを二回行いました。わたしは両親に言われてビラのデザインをしましたが、作成している間は頭痛と吐き気に襲われて、とにかくつらく、誰か変わりにやってくれる人はいないかと苦しくてたまりませんでした。

2003年6月29日、犯人は逮捕されました。犯人は前科5犯で逮捕時は31歳、無職の男でした。犯行のとき、車に同乗していた従妹の女ふたりと、車を処分し、証拠隠滅をはかったその父親と、仲間の男2人も逮捕されました。

裁判ではわたしと母とA子さんの三人で証人尋問を受けました。最初に意見陳述をさせてくださいとお願いしていましたが、証人尋問の方が証拠として採用されるからと言われて、意見陳述と証人尋問の両方をさせていただきました。意見陳述は母とわたしの二人でした。すこしずつ前に進んでいることが嬉しく、ビラ配りのときのようなつらさはありませんでした。でも文面を考えたりそれを読む練習をしたりするのはやはり苦痛でした。持ち込む遺影を、裁判所の指示するサイズにパソコンで作り直したり、意見陳述書を書いたりする作業を、わたしは泣きながら行いました。

裁判では犯人に殺意があったかどうかを争いました。犯人は、兄に向かって発進し、ブレーキを一度も踏まなかったにもかかわらず、「速度は出ていなかった、殺すつもりはなかった」と主張しました。高等裁判所では被告側弁護士が弁論を行い、兄が車の前に立たなかったらこの事件はなかったなどと言いました。でも、どちらも判決は求刑どおり無期懲役というものでした。

2005年4月13日、NHKの夕方のニュースで最高裁が上告を棄却したと放送があり、14日の新聞に載りました。ようやく終わったとほっとしましたが、通知がなかなか送られて来ず、わたし達について頂いている杉本弁護士に調べてもらったところ、最高裁で判決が出たあと、3日以内は異議申し立てが出来るという規定があり、犯人は異議申し立てをしたということでした。結局それも棄却され、4月26日、今度こそ無期懲役が確定しましたが、犯人は反省しているとか、賠償するとか、臓器提供の意思があるとか、口先では、神妙なことを言って、実際は自分の量刑を軽くするため、裁判制度の使える権利はすべて使いきったのでした。

高裁の後、わたしは別の会社に就職しました。今度は就労時間をきちんと調べ、帰宅が遅くならないようにしました。事件から3年後、兄のことも一区切りついて、わたしはもう事件に遭う前の自分に戻ったつもりでいました。

採用の面接の時、兄の事件のことも話しましたが、隠しておくほうがむしろ後々問題になるだろう思っただけで、自分には何も問題はないと考えていました。わたし自身も周囲も、事件から3年も経てばすっかり元通りのはずだと考えていました。

けれど、今から思うとその考えは間違っていました。事件の後、被害者や被害者遺族が自分の感情をコントロールできなくなるのはよくある事だと思います。しかし時期は人それぞれです。わたしの場合は、この時期に完全にコントロール出来なくなっていました。

初対面の人と会話をする時、どこに住んでいるのか、家族は何人か、兄弟はいるのか、という話は普通の話題だと思います。

けれど被害者兄弟で、兄弟の話をするのが得意だという人には会ったことがありません。

兄弟の存在を聞かれて、「一人っ子です」と答えて罪悪感に落ち込むという方もいらっしゃいます。わたしは兄のことは隠すつもりつもりはありませんから、兄弟の話をされたら「兄がいます」と答えていますが、詳しく聞かれない限り、事件の話はしません。生前の兄の話をしていれば、大抵話はそれで終わるからです。

ところが、ある時何かの話の弾みでわたしは兄の事件の話をしてしまいました。話はぱっと広まって、職場の人全員が知るところとなりました。するとその日から、何となく空気が変ったような気がしました。何か言われたわけでもなく、意地悪をされたわけでもなかったのですが、話をするとき、こちらの目を見てくれないとか、「わたしだって苦労している」というようなことを言われたりだとか、そんな些細なことが気になるようになりました。

今思えば、ほんの一握りの人だけが態度を変えただけだったのですが、わたしは職場の人全員に対して不信感を感じてしまいました。そういう気持ちでいますから、やはり仕事にも影響が出てしまいます。仕事をする上で、周囲の人とのコミュニケーションは不可欠です。

けれどわたしはただでさえややこしい状況なのだから、極力人と関わらないようにしよう、自分の仕事を完璧にしようと思うあまり、周囲の人と足並みをそろえることを忘れてしまいました。そうしてますます孤立し、自分のことで精一杯になってしまいました。自分はきちんとやっているのに、被害者遺族という偏見で理不尽な仕打ちを受けている、と間違ったマイナスの気持ちでいっぱいになってしまったのです。よくよく思い出せば、きちんと手を差し伸べてくださった方も、励ましてくださった方も、支えようとしてくださった方もいました。けれど気持ちに余裕がなくて、わたしはそのことに気づけなかったのです。

あの時、「大丈夫です」と言わずに、なぜ「ありがとうございます」と言えなかったのか、今でも後悔しています。一言、「助けて欲しい」と言えばよかったのかもしれないと思うのです。「絶対泣かないよね」と言われたこともあります。けれど、その時のわたしは「泣いても何も解決しませんから」「負けるみたいで嫌なんです」と答えました。

実は事件直後からわたしはひとつ、決めていたことがありました。それは、兄の事件から逃げない、何があっても兄の事件のせいにしない、ということでした。

わたしは、職場で泣いて助けを求めることは、兄を殺した犯人に負けることだと思っていました。

兄を殺した上に、わたしまで不幸にするのか、そんなことは許せない、絶対に負けるものか、とわたしはそう考えていました。

実際には、わたしが入社する前から職場が抱え込んでいた業務内容や複雑な人間関係が問題であってわたしが被害者遺族であるということは、あまり関係なかったのだと思うのですが、頑なにそう思い込んでいたわたしは自分から差し伸べられた手を振り払い、孤立してしまったのです。

結局、その会社は8ヶ月で辞めてしまいました。この頃が一番苦痛で、一番反省点の多い時期でした。

最大の反省点は、自分はもう元通りだ、という認識でした。

そうではなかったのです。わたしはまだ不安定で、一生懸命平気なふりをして無理をしていたのです。

周囲の人に合わせることも出来ず、目の前の仕事だけを片付けて、一言も喋らずに、毎日泣きながら帰っていました。少し自分を甘やかそう、と思ったのは、会社を辞める前でした。

会社を辞めた方がいい、今のままでは誰にとっても良いことなんてない、そう考えていた時、関東の友人が誘ってくれて東京に行くことになりました。その時、会社の愚痴を聞いてくれた友人は、「あなたの言うことは間違っていない。でも、正しさというのは誰かを責めるための道具ではない。自分を自戒するためのものだと思うよ」と言いました。わたしはその時、初めて目が覚めた気がしました。ようやく自分が危うい方向へ進みかけていたことを知ったのです。会社を辞めて、たぶん事件後初めて、わたしは自分自身のために何がしたいのだろう、と考えました。事件後、誘われたら遊びに行っていましたが、この頃ようやく自分ひとりでも買い物にいったり、遊びにいったりするようになりました。好きなことをしていると、気持ちがほぐれていくのが分かりました。自分が悪かった部分も見えるようになってきました。後に同じような立場の人と話した時、彼らも周囲の人々との関係について悩んでいることを知りました。

兄弟をなくした人は、両親を支えてあげなければならない、悲しませてはならないと思う一方で、この苦しみから逃れたい、事件なんてなかったことにしたいと、二つの感情の間で板ばさみになります。

誰かのために自分の感情をおしころして、全く関係のないところで爆発させてしまったり、逆に兄弟の死について一切拒否するようになったりします。自分の感情と向き合いながら、周囲との折りあいをつけていく。そのバランスがとても難しいのだと思います。

爆発することも拒否することも出来ないときは、死ぬことばかり考えてしまいます。わたし自身、何度も死にたいと思いましたが、友人のひとりがこんなことを言ってくれました。「周囲の人の幸せが、自分の我慢の上にあるなんて、そんなのは嘘だ。まず自分が幸せじゃなきゃ、周囲の人を幸せには出来ない」それを聞いて、頑張りすぎなくてもいいのだ、と思いました。頼れるときには頼らせてもらい、妥協できるところは妥協し、利用させてもらえるところは利用する。それで少し楽になりました。

もし誰かが辛くて悲しいとき、わたしならどういう言葉をかけるのだろうかと、いつも考えます。そういうときは、自分がかけてもらって嬉しかった言葉を思い出します。「無理しないで」「泣きたいときには、思う存分泣いたらいいよ、嫌ならやめちゃえ」捌け口のない気持ちによりそって、同じように感じて受け止めてもらう。それが一番ありがたいものです。

頑張れとか、支えてあげなさいとか、お兄さんの分まで、とか。そういう言葉はわたしには負担でした。

自分の中の悪魔と死神に気付いたときに、そういう気持ちがあることは悪いことなのかと聞いたことがあります。宗教においては、それは悪いことだといわれました。一般道徳としてもよくないことでしょう。

でも、「過去は忘れなさい」といって、「愛する人の死」をなかったことにすることが正しいとは、わたしにはどうしても思えません。自分のなかの悪魔と死神を見つめつづければつづけるほど、やっぱり自分が兄を大切に思っていたのだということに気付かされるのです。

犯人が口先だけの謝罪をしたとき、マスコミの方に「犯人をゆるせるか」と聞かれたことがあります。でも、わたしはゆるせないと答えました。

犯人を許す、というのはどういうことなのでしょうか。事件をなかったことにする、という意味なら、事実として事件はあったわけですから、それは不可能です。とりわけ傷害や殺人といった、失ってもう元に戻せないものを、どうしてなかったことに出来るでしょうか。

わたしはある人に、「許せるということがあるのなら、たぶん、それは絶望的に諦めた時です」と答えました。

わたしは、世間の人が覚えていなくても、世界中の人が忘れてしまっても、死ぬまで決して事件のことを忘れてはいけないのが加害者だと思うのです。それが加害者が最低限行わなければならない、責任だと思うのです。

犯人によって断ち切られてしまいましたが兄には未来へ続く予定や約束がありました。事件の前日、わたしはある旅行会社に予約を入れました。家族四人で、旅行に行こうと計画していたからです。

帰宅が遅くなる、と連絡してきた兄に、母が「予約とれたよ」と話し、「ありがとう」と答えた、それが兄が家族に向けた最後の言葉になりました。

兄の会社で社員旅行にいくはずだった日は、お通夜、お葬式の日になりました。会社の皆さんは旅行を取りやめ、全員がお葬式の手伝いに来てくださいました。兄はクリスマスには彼女と旅行し、お正月にはそれぞれの家に挨拶に行く予定だったそうです。わたしは事件直後、兄の財布から領収書を見つけ、兄が予定していた宿泊先にキャンセルの連絡を入れました。けれど、もうひとつ予約票もメモもなかったためにキャンセルできなかった宿からクリスマス当日、連絡がありました。ちょうど兄のお友達がお参りに来てくださっていた時で皆びっくりしました。わたしは事情を述べ、ご迷惑をお詫びして、キャンセル料を払いますから請求書を送ってくださいとお願いしました。けれど、結局その宿から請求書をいただくことはありませんでした。家族旅行を予定していた日は、兄の四十九日になりました。

わたし達家族は知りませんが、他にも沢山の約束や楽しみにしていた予定が失われたのだと思います。

人の命を奪うということは、その人が当然生きるはずだった未来をも奪うということです。

わたし達にはこれから、兄の結婚、こどもの誕生など、兄が生きているからこそ生じる日々の暮らしが当然のようにあるはずでした。わたしは社会人になってから、何度も、兄の助言を欲しいと思いました。

兄の友人の皆さんも、お盆や命日に訪ねてくれては今も兄がそこにいるように兄との思い出を語ってくれます。わたし達はこれからも何度も、兄がいれば、という言葉を言い続けるでしょう。その度に、わたし達は自分達が手に入れるはずだった未来を奪われてしまったという現実を思い知らされるのです。それらすべてが、犯人が犯した殺人という罪の深さなのです。

兄の死に意味があっただなんて言われたくはないですが、わたしは今後わたしが生きていくなかで、兄の生と死に、意味を見出さなくてはならないと思っています。兄の死を言い訳にして現実から逃げるのではなく、ちゃんと前を向いて同じようにつらい気持ちを抱えているひとに、手を差し伸べられたらと思います。わたしたちひとりひとりの中に、乗り越える力があるのだと思います。そして誰かを助けられる何かの力があるのだということをこれまでの活動の中で知りました。

同じ悲しみを共有するひとにしか出来ない支援があり、また、客観的で冷静な判断をもつ、同じ悲しみを持たない人にしか出来ない支援もあります。悲しみや苦痛に寄り添いながら、不幸の沼の底に共に落ち込んでいくことのない支援です。

それぞれが、自分の立場で何が出来るか、気付いた問題点を声に出していかなければならないと思っています。またわたし達も同様だと思いますので、いくつか、これまでに気付いたことをあげさせていただきます。

まずは心のケアの問題です。人にもよると思いますが、事件直後は悲惨な現実を頭では理解できても心は麻痺したような感じで、他人からは妙に冷静に見えたり、また逆に人格が壊れてしまったように思われたりします。

わたしの母は前者でした。すぐに親戚や会社に連絡し、混乱の中で通夜、葬式、初七日とつづく行事をこなしました。傍目にはしっかりしていると見えていました。しかし、五ヶ月くらい経ったころ、兄を奪われた喪失感と、気も狂わんばかりの絶望感に自制心を失いそうになっていることがありました。

細かな雑用や精神面を支えてくれたのは、友人、親戚、近所の人達でした。特に兄の友人達に、両親は大きな励ましを受けたようです。それらは今も続いています。そういった手助けや気遣いを身近な人から受けることが出来たわたし達は、とても恵まれた立場でしたが、身近にそういった人達がいないとき、公の機関からすぐに手が差し伸べられたら、どんなに心丈夫かしれません。

わたしたち一家は周囲の人たちの温かい見守りの中で、また、事件後知りあった同じ犯罪被害者の方たちと接することによって、立ち直ることができましたが、そのような助けのない人には事件直後だけでなく当分の間見守り、声を掛けてともに悲しみを共有するサポーターがいればよいのにと思います。

また、わたしは事件が起こったときにはもう、ある程度の大人で、それなりに逃げ道もあり、息抜きもできる環境でしたが、未成年のこどもは限定された地域の中で生活しているので、逃げ場がありません。

最近、児童生徒が事件に巻き込まれた時、その被害者が通っていた学校の一般生徒に向けて心のケアを提供したという報道は見聞きしますが、当事者である被害者の兄弟に臨床心理士がついたというような報道は聞きません。一番心に傷を負っているのは家族だと思うのです。事件のあと、真っ先に家族、特に未成年の兄弟の心のケアが必要なのではないかと思います。

お役所にもお願いがあります。例えば普通に病気で死亡したとしてもあちらこちらへ提出する書類などで、何度も役所に足を運ぶ事になります。

それが事件、事故となりますと、突然のことでもあり、遺族は病院や役所だけでなく、警察にも行かねばならず、取り寄せたり、提出したりする書類は非常に沢山のものになります。

わたしの母が役所に父の印鑑証明と兄の死亡届をもらいに行ったとき、係りの人が父の裕という名と死んだ兄の裕一という名を見間違えて、死んだのが父だと勝手に誤解して「死んだ人の印鑑証明は出せません。そのカードも処分してもらわなければ」と母が提出した書類を目の前でくしゃくしゃに丸めてしまったことがありました。

ただでさえ悲しいとき、どうしてこんな扱いを受けるのだろうと母は本当に悔しそうでした。

個人情報の観点からは他人に依頼することは難しいけれど、出来ることなら誰かに代わりにやってもらいたいと母は話しておりました。

これまでの被害者、被害者遺族の方々が活動してこられたおかげで、犯罪被害者の権利を守る制度が整い支援の手が増えています。そして誰でも被害者になり得る現実があるなかで、今、社会全体が被害者問題について勉強する機会が必要だと感じています。

わたしが期待しているのが学校の授業です。現在、全国の小中学校で命の授業というのが行われています。講師として呼んでいただいたこともあり、わたしはこの授業がとても重要だと感じるようになりました。普段生活している中で、事件や死に直面することを意識しながら生きている人がどれだけいるでしょう?被害者のための制度や必要な知識を、事件に遭ってから獲得するのは精神的にも体力的にも難しいと思います。ですから、詳しくはなくても最低限の知識を学問として学んでおくのは有意義なことだと思います。

今、事件や死はエンターテイメントの中のひとつとして扱われていることがほとんどです。けれど、その多くは間違った認識や事実に基づいて作られており、娯楽性のために衝撃的な脚色をされています。これでは世間の人々が間違った認識を植えつけられても仕方がないと思います。

例えば、一般の人は、事件直後の被害者に対して、立ち上がる事ができないくらい嘆き悲しむのが当たり前だと思っているようです。これは母から聞いた話ですが、あるところで、ひとりの女性が、こうおっしゃったそうです。「知り合いのお子さんが亡くなって、お葬式に行ったとき、お母さんが涙も流さず淡々としておられたのを見て家族のつながりが薄かったのかと思ってしまったことがある」と。

しかし、わたしの母もそうであったように、悲惨な事実にもかかわらず、冷静である人間がいるのです。淡々としているのではありません。心が麻痺しているせいなのです。

その妙に落ち着いた様子を見て、冷たい人間だとか、家族のつながりが薄かったのだとか、思わないで欲しいのです。本人は、頭で分かっていても、ドラマを見ているような気持ちで、心に膜が掛かっているのです。それは、心が壊れないようにする、人間の自衛本能が働いているからだそうです。しかし、その後、何もできなかった自分を責めます。涙を流し、喪失の悲しみ、嘆きの言葉を出すようになります。

また、テレビドラマなどで被害者や被害者遺族が犯人に復讐する話が多いことも疑問に感じます。

復讐を簡単に実行することができないからこそ、被害者、被害者遺族の痛みや苦しみは深いのです。

挙句の果てには、被害者は殺されるためだけに登場して、その人生や遺族の痛みには一切触れられず、密室のトリックやアリバイを崩すことに終始している話を見ると情けなくなります。

死とはどういうことか、被害に遭う、被害者遺族になるということが本当はどういうものなのか、それを学問という形で知っておくことは、必ず死を迎えるわたし達にとって意味のあることだと思います。

また、被害者のための制度や必要な知識を持っていることで、自分だけではなく、友人や、周囲の人々を支えることも出来ます。

被害者支援制度の知識ではありませんでしたが、わたしの友人達はたまたま、心理学、哲学、宗教、民族学などの学問に造詣の深い人々でした。彼女たちのおかげでわたしがどれだけ救われたか知れません。

例えば、お骨を骨壷にうつすさい、職員の人が骨壷に入れたお骨を細かく砕きました。わたしはそれを見てひどくショックを受け、車に轢かれて痛い思いをしたのに、これ以上兄の身体を傷つけないで、と思いました。ところがその話を友人のひとりにしたところ、「お骨を砕くのは、魂を解放するためで、必要なことなんだ」と教えてくれました。火で身体を浄化して、形を 砕いて魂を解放し、次の世界に送るのための行為なのだ、と聞いて、わたしの気持ちは落ち着きました。

また、ある映画を見に行ったとき、その中の台詞にこのようなものがありました。「孤独に歩め、悪をなさず、林の中の象のように」なんとなく気になっていたところ、別の友人が教えてくれました。

これは釈迦の言葉で、「憎しみ」というタイトルがついている。そうして、全体の言葉は「愚かなるものを道連れにするなかれ、孤独にあゆめ、悪をなさず、林の中の象のように」というのだと言いました。

わたしはこの言葉を、「憎しみという気持ちを心の奥に抱えていても、言葉や行動で表に出さなければ、持ち続けていてもいい。」そんな風に理解しました。 この言葉の本当の意味がどういうものかわたしは知りませんし、友人も語りませんでしたが、犯人への憎しみで心が真っ黒になっていた時期、わたしはこの言葉で自分を取り戻すことができました。

友人達が学問で得た知識が、わたしを救ってくれました。

同じように命の授業で学んだ人たちによって、これから少しでも誰かの心が救われれば、と、期待しています。

長々とお話しましたが、最後にひとつ、お願いをして話を終わりたいと思います。皆さんは『千の風になって』という曲をご存知でしょうか?よくテレビなどでも紹介されて幅広い年齢層に受け入れられている曲ですが、亡くなった人が残してきた遺族に向かって語りかける内容の歌詞が、身近な親族を亡くした人々を癒す曲であるとして犯罪被害者遺族の集まりでもよくかかっている曲です。

わたしのお墓の前で泣かないでください、そこにわたしはいません、死んでなんかいません、千の風になってあの大きな空を吹き渡っています、そんなとても美しい、いい曲です。

しかし、この曲を聞くたび、わたしは首を傾げてしまうのです。本当にこれで死者を悼み、遺族を癒すことができるのだろうか、と。

わたしたち家族は兄を失ったあと、さんざん泣きました。何故でしょう?兄を失ったから、もちろんそれもあります。でも、それだけではないのです。兄の無念を思って、どんなにか生きたかっただろうかと思って、わたしたちは泣いたのです。

兄はこの世界にもういません。死んでしまいました。殺されてしまいました。死んでから、兄は風や星や雪や花や、その他の美しいものになったかもしれません。でも、なにより兄は伊藤 裕一というひとりの人間として、平凡な人生を続けたかったはずです。

兄のような被害にあう人がひとりでも減るように、わたしたちのような遺族がひとりでも減るように、真面目に働く善良な市民が泣くことのない世の中を作るため、どうか皆様のお力をお貸しください。

心よりお願いいたします。

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