■福井大会:基調講演

テーマ:「犯罪被害」を体験して
講師:河野 義行(松本サリン事件被害者)

私が事件に遭ったのは平成6年ですので16年前になります。当時は5人家族のうち4人が入院し、その4人のうち妻は救急車が来たときには心肺停止という状況でした。そして、14年間介護をした後2年前に亡くなりました。私は事件に遭う前、犯罪被害というのは人ごとで、まさか自分が遭うとは思っていませんでした。しかし、その犯罪被害に遭うということは決して人ごとではないという数字が警察白書の統計に刑法犯認知件数(警察が犯罪として認知した件数)というものが出ており、最新の平成21年度のデータでは、日本で1年間に170万件犯罪が起こっています。日本の人口が1億2,700万人とするとその割合は1.3%、言いかえるならば1年に1.3%の人が犯罪に遭うという確率的な数字は、決して人ごとではないと思います。

過去においては犯罪被害者の位置づけは、警察・検察が犯罪を立証するための証拠物でした。そんな中で昭和49年三菱重工ビル爆破事件が起こり、成立した制度が昭和55年に犯罪被害者等給付金制度です。国が被害者に対して一時金、つまりお見舞いです。ただし、これは対象がごく限定されており、亡くなった人あるいは4級以上の高度障害を受けた人が対象であり、それ以外の方々は放っておかれ、その状態が続きました。

流れが変わったのがオウム真理教のサリン事件で、ここから犯罪被害者支援ということが動き出し、その後、犯罪被害者等基本法が成立し、犯罪被害者支援が国あるいは自治体、あるいは国民の責務となり、被害者の支援が急速に進んできました。

では犯罪被害者はだれが決めるか、これは警察が被害者として決めていくわけです。そうしますと、警察も間違うことがあるということです。警察も人間です。間違うことがあるわけですね。私が長野県公安委員という仕事についた中で起こった事件でも、警察の判断ミスがありました。

1つは警察が殺された人を自殺と処理してしまった生坂ダム事件です。事件は昭和55年3月1日に松本市内の運動場で男性が複数の男に連れ去られ、3月29日に長野県の生坂ダムにてロープで巻かれた水死体が上がりました。当然そういう状況ですから、警察は他殺の線で捜査を開始するわけですけれども、その捜査が進んでいく中で、この男性が厭世的な言葉つまり自分は死にたいという事を複数の場所で言っており自殺の要素が強い、と変わってきたんです。そして、警察はこの男性を自殺と断定してしまった。そして、20年の歳月が経ち、長野県警の豊科警察署へ刑務所に服役中の男から、実は20年前の事件はおれがやったという告白の手紙がきました。実は20年というのは、当時殺人罪は時効が15年、民事の時効も20年、全部成立している時期です。警察はそれから3年かけてその男性の裏づけをとり書類送検をしましたが、時効が成立したということで不起訴となりました。殺されたのに自殺と警察が判断したケースです。

もうひとつのケースは、本当は犯罪被害者なのに加害者として疑われた。これは愛知・長野連続殺人事件です。平成16年4月27日、長野県の飯田市で77歳のおばあさんが殺されました。そして、そのおばあさんの娘さんが疑われた。疑う、それは相当な理由があるから疑うということですから、警察からは犯人扱いを受けるような言葉を浴びせられる。それに対して、この女性はマスコミに自分は長野県警から犯人扱いされているとアピールするわけです。そして、マスコミがそれを取り上げ警察批判というものが起こるわけです。そんな中で窃盗で逮捕された男が殺人を自白し、結果、長野県で3件、愛知県で1件殺したという裏づけがとれ、裁判になったというケースです。つまり本当は被害者だが疑われてしまったというケースです。

もうひとつのケースは、長野県の奈良井川で平成14年10月12日に男女の焼死体が上がり、警察は事件と心中両方で捜査を進めたが決定的なことが出ず、警察は殺されたのかあるいは心中したのか結論が出なかったという事件です。つまり犯罪被害者なのかどうなのかわからないというケースです。そうしますと、もしその人が殺されたのであれば、犯罪被害者の支援組織は犯罪被害者に対しての支援をする事ができますが、わからないということは支援の対象から放っておかれてしまうというケースもあり得るのです。ですから、一概に犯罪被害者といってもなかなか複雑だという認識をまず持っていただきたいと思います。

では私の遭った体験をお話しします。平成6年6月27日、深夜に起こりました。事件の発端は夜の11時少し前、飼っている2匹の犬が突然口から泡を吹いてけいれんし、死んでいきました。部屋に戻ると、今度は妻が犬と同じ状況になっておりました。妻は口から白い泡を吹いて、そしてけいれんを起こしてとても苦しそうな形相が目に入ってきました。

私はすぐ救急通報し、離れにいた長男と次女をインターホーンで「お母さんが大変だ、すぐ来い」と連絡し、母屋にいた長女にこれから救急隊員が来るからお母さんにパジャマを着替えさせるように指示をして、自分自身は妻に対して簡単な救急措置―衣服を緩める・気道を確保する、そんなことをしている間に今度は私がおかしくなってきました。最初の異常、それは視覚の異常でした。とにかく部屋の中が暗いのです。私の家、古く明るい家ではない。それにしても暗い、そんな状況です。そして、見える像がゆがむ、像が上から下へ流れる、そんな視覚の異常が起こりまして、そして、そのうちに激しい吐き気が襲ってくる。もう立っていられない、そういう状況の中で私は救急車が来るわけですから、一秒でも早く救急隊員を妻のところへ誘導しようと思って玄関まで移動しました。実はこの行動が警察から見たときには不審な行動だというふうに映ってしまったのです。後の事情聴取で「河野さん、普通であれば奥さんが苦しんでいるときに奥さんのところを離れる、こういうことはしないんだ。あんたの行動は極めて不自然だ」こんなふうに言われたんです。これが実は私が最初に疑われるきっかけになっていったということです。

事件が起こりますと、警察は被害者の近くの人あるいは現場の近くの人、その辺から少しずつ輪を広げ調べていきます。そういう意味からすれば、犯罪被害者というのは、まずは警察に一たん疑われて、そして外されていく、そういう存在であるということです。

そんな中で、警察の経験則の中で、おや、この人はちょっとおかしいぞ、警察官が思ってしまったときは、その人が事件を起こしたのか起こしていないのか結論を出さなきゃいけないということになってしまうのです。報道はいいです。この人がどうも怪しいらしいということで終わることができるわけですけれども、警察は結論を出さなきゃいけない。結論を出すには徹底的に調べていく、その中で捜査の過程で人権侵害が起こってしまうこともあるということです。

あるいはちょっとした一言ですね。それがやはり疑惑を生むということもあります。例えば私が病院に運ばれて、ベッドの上で原因を考えていました。事件発生時、妻は家の中にいたが、私は外へ出た。そのときに家の窓を開けたのか、あるいは閉めたのか、そんなことを考えていて、妻があんなになったんだからきっと開いていたんだ。「しまった」と思ったのですね。その「しまった」という言葉を病室で発してしまい、大部屋のだれかが聞いていて、「しまった」という部分が先走りして、それがいつの間にか薬品を調合してミスしたという話に変わっていったということです。

家族の中で、私と長女と妻は重症で、離れにいた長男と次女の症状は軽傷でした。とりあえず病院に運ばれた時はまだ事件性はありませんでした。私が激しくもどしていたため、お医者さんは食中毒を疑っていたのです。「河野さん、夕食何を食べたの」、「水は飲んだの、飲まないの」、こんな食べ物に関する問診が行われている中、病院が突然パニック状態になってきました。何だかわからないが、次から次へ救急車が入ってくるのです。あっちでもこっちでも悲鳴が聞こえる、そんな状況になりました。そんな中で医師と看護師さんの会話の断片ですが、どうも私の自宅周辺で白い煙のようなものが上がっているらしい、あるいは都市ガスが漏れているんじゃないか、と情報が入ってきたんです。私はその情報から我が家だけで起こった出来事ではないということだけは知ることができました。

そのような状況でも私や家族の命はつながっていった。私や家族あるいは救急車で運ばれた人全員が縮瞳という現象、つまり瞳がみんな小さく縮んでいたんです。この縮瞳という現象は有機リン系の農薬の中毒時に起こる、恐らくそうだろうと医師が判断し、それに対する対処薬を投与した。硫酸アトロピリンやパムという医薬品です。医師が処方した医薬品、それはまさにサリンの対処薬だったのです。私は第一通報者、だれよりも早く病院に運ばれ、だれよりも早くサリンの治療を受けた、だから助かったのです。

しかし、7名が亡くなり、数十名が負傷して入院しております。とても大きな出来事です。このときは、報道は私のことを被害者としてフルネーム、住所も全部入っているわけです。報道というのは被害者はまず実名報道が原則です。そんな中で流れが変わったのが翌日、警察の強制捜索です。その端緒は長男が徹夜の看病をして、朝、家に戻り昼ごろまで寝ておりますと、警察官が現場周辺の聞き込みという形で家へ来て、長男にこの家に薬品のようなものは置いていないか、そういう話がありました。実は私は自分の趣味である陶芸あるいは写真に使うために置いてあった薬品があったのです。それは長男も知っていて「あ、お父さん持っている薬ならありますよ」刑事さんを実はもう何カ月も使っていないほこりだらけの部屋へ案内しました。当然、薬品類もビニール袋に包まれてほこりだらけになっている。そして、ほとんどの薬品が封印したまま、だれが見ても使われていない、それは一目瞭然の状況であった。現場に来た警察官も「ああ、これは使っていないですね」、問題にもしていなかったのですね。しかし、その中に警察が関心を引く薬品がありました。

私が写真の現像液として使うために置いてあったシアン化化合物です。シアン化カリ、シアン化銀、この2種類、猛毒です。このときに警察は当然、一般家庭にはないような薬品がある。しかも、猛毒だ。もしこの薬品で7名が亡くなった原因物質なら、まず証拠としてきちっと保全しなきゃいけないと考えたんです。証拠として保全、つまり裁判所に令状を申請して、その令状を持ってその薬品を押さえるということです。6月28日夕方から大勢の捜査員が来て薬品類など、いろんなものを押収していきます。そして、捜査本部の記者会見で捜査一課長は実名発表をした。「河野義行宅を強制捜索したその結果、薬品類数点を押収した。そして、その薬品の中には殺傷力のあるそういう薬も含まれている。強制捜索をした罪状、それは被疑者不詳、つまり容疑者はだれだかわからないけれども、殺人罪である」という発表でした。ここから今度はマスコミの経験則が働いていった。個人の住宅が強制捜索を受けて、警察はそれを実名発表したということであれば、マスコミの中ではもう決まりということです。あの人はやった人、そして、被疑者不詳の殺人ということで報道がこれを機に一気に過熱していくということになるわけです。

どこのマスコミも編集方針というのは持っているわけですね。ここではあの男がやったんだという方向性が決まってしまう。そうしますと、いろんな記者がいろんなところへ行って取材をして記事を書いても、そこに出てくる、報道される記事というのは選ばれた記事です。あの男はこんなに怪しい、こんな悪いところもあるみたいなものが選択されて載ってきます。いわゆる犯人視報道というものが始まります。後になって当時の記事を見ますと、多くの誤報があります。私が薬品の調合を間違えたというふうに救急隊員にしゃべったとか、私自身が事件の関与をほのめかしているとか…そんな誤報があって、次に疑惑を補強するような記事が載ってくるのです。この男は20年前、薬品会社に勤めていた。薬品の知識には精通していて、いつも薬品を取り扱っていたらしい、こんな記事が載るわけですね。疑惑報道が重なっていきます。そうしますと、大勢の人があの男がやった!言ってみれば確信すら持ってしまう、そんな状況になるわけです。

そして、大勢の中には熱い人もいて、7人も殺したそんな悪いやつはひとつおれがこらしめてやろうという人が出てきます。6月29日から私の自宅は無言電話、嫌がらせの電話、脅迫状が殺到します。何で住所がわかるかといったら、先ほど言ったように入院当初は被害者として私の名前と住所が出ているんです。そして、44歳の男性というのは私しかいないんです。強制捜索が入った後にマスコミは匿名報道に変えましたが少し調べればわかります。このときには次女も入院していましたので、家にいるのは高校1年生の長男ただ一人です。長男は、血相を変えて病室に入ってきて「お父さん、無言電話が半端じゃない」「僕はこんなのつらいから、電話番号を変えてほしい」このように言いました。確かに電話番号を変えればそんな電話は入ってこない。しかし、私はそれには反対だった。電話番号を変えるということ、それはまさに現実から逃げるということで、長男に言いました。「うちは逃げていたら世間からつぶされてしまうぞ。今大事なこと、それはどんな電話であっても正面から真摯に対応する、そのことが必要だ」。無言電話であったなら、「あなたはおっしゃることがないようですから、この電話を切らせていただきますよ」。断ってから切れ。「人殺し」「町から出ていけ」と言われたときは「あなたはどうしてそんなふうに考えてしまうのか。よかったらお父さんに会って話をしてみませんか。お父さん、あなたにお会いしますよ」このように言うと電話は一方的に切られてしまいます。私たちは逃げなかったですね。

あるいは脅迫状の中には、お前の家にガソリンをまいて火をつけるぞ、こんなものもありました。私はその脅迫状に対して住所が載っているものすべてに返事を書きました。しかし、出した手紙はすべて戻ってきました。つまり虚偽の名前と住所だったわけですね。そんな人はいないといって戻ってくるのですね。いずれにしても、うちは逃げなかったのです。当時の子供たちはつらかったと思います。しかし、そのつらさを逃げずに乗り越えた事は、逆に今は大きなものをいただいた、そんなふうに思っております。

そんな中でメディアスクラム、こういうことも行われるわけです。私が入院中の一ヶ月ちょっとの間、二、三十人の記者が病院に張りつくのです。やること何もない、患者さんが座るいすをマスコミが占拠する。駐車場も同じ状況です。私がベッドで寝ておりますと、院内放送で、「マスコミの車、患者さんの車がとめられない。至急移動するように」そんな放送がしょっちゅう流されているのです。言いかえるならば、私が入院しているだけで病院に多大な迷惑がかかってしまう、こんな状況でした。そして、私は7月30日退院ということになります。退院後は、今度は自宅の門の前に記者の人が引っ越してきます。立っているのが大変だから、会社からいすを持ってきて、そして朝から晩まで、しかも何カ月も見張っているのですね。当時、記者の人たちの間では、もう私の逮捕は時間の問題だ、それが常識でした。ですから、逮捕されるその写真や映像を撮ろうと思ってずっと張りついている、そういう状況です。

朝、子供たちが学校へ行くために門から出てくると一斉に写真を撮る、あるいはテレビカメラを廻す、こんなことが行われたんです。子供たちはこのこと、とても嫌でした。家の中にいれば無言電話、嫌がらせの電話、そして一歩外に出ようとするとマスコミの取材攻勢、子供たちに心安らぐ場所があったのか考えました。実はあったのですね。それは学校でした。世間的に私は人殺しです。そして、子供たちは人殺しの子供。学校では相当ないじめが行われるだろうなと考えていました。もし子供たちがそのいじめを苦にして自殺でもしたらどうしようか、そんなことも考えました。しかし、いじめは全くなかったのです。当時、子供、一番下が中3です。中3、高1、高2、3人の子供は別々の学校へ行っておりました。そんな中で、学校の校長先生あるいは担任の先生がみんなで話し合って、そして、この子供たちをどうやって守ろうかということを考えてくださったのです。結論としては、ふだんと全く変わらないように子供たちに接するということを決めたんです。つらくて、つらくてしようがない。そんなときに頑張ってという言葉、結構残酷な言葉になるケースがあるのですね。頑張れでも何でもない、普通に接してくれた、このことが子供たちにとって居心地がよかったんです。長女は退院したその日から学校に行って、学校にいるときが一番楽しい、そのように言っていました。今、3人の子供はそれぞれ大学を終えて長男と長女は結婚し、次女は今バンコクで働いています。今があるのは、やはり学校の先生からの配慮です。いつも先生に私は感謝しています。

次に医療費の問題です。私の場合は結果4人が入院ということになりました。6月27日の深夜に入院して、そして1週間たったときに病院から請求書が来ました。医療費の総額300万です。私は、その請求書を見たときに、生活が成り立つかな、そんなふうに考えました。当時保険は2割負担、それでも60万の自己負担です。そして、それ以後はずっと月に15万ぐらいの自己負担が発生しました。私はサラリーマンです。普通でもいっぱい、いっぱいの生活をしているそんな中で、毎月15万円の医療費負担はとても大変です。それだけでは済まなかった。それは私も重傷で、仕事ができなかったんです。会社を休まなきゃいけない。そうしますと、保険で手当されるのが給料の6割、その6割の給与で医療費を払いながらやっていかなきゃいけない、そんな経済的な不安というものに見舞われます。

私は犯罪被害者給付金という制度を利用して、妻に対しての給付金を請求しまして、給付額は417万でした。417万のお見舞金というのは一体どれくらいのものかといいますと、当時、東京の日大板橋救命救急センターの林成之教授元で入院しており、2年にわたって延べ4カ月入院させました。個室が要るということは差額ベッドが発生するということですね。1日の差額ベッドが3万円です。そうしますと、一月90万です。そして、つき添いの人の宿泊費もかかるわけで、初めはホテルへ泊まっておりましたけれども、結構お金がかかるのでウイークリーマンションを利用しました。それでも月に10数万かかるわけです。そうしますと、治療費を除いても、差額ベッドと介護者の宿泊費だけで100万以上かかってしまいます。4カ月ですから400万、ちょうど犯罪被害者給付金制度でいただいたものは言ってみれば差額ベッド等で終わってしまったということです。今は随分増額されておりますけれども、当時はそんなものでした。そんな経済的な不安が襲ってくるのです。

そして次には、妻の施設入所の問題が発生し、これは私の中で最も深刻なものでした。事件から3カ月たったとき、つまり9月です。病院というところは3カ月以上の長期入院患者はお荷物になってくるのです。それは保険制度の関係だと思いますが、お金にならない患者になるのです。そうすると、3カ月たつと、もうぼちぼち病院を移ってほしい、どこかへ移ってほしい、そういう話が出るのです。妻も3カ月たったときに病院から言われました。奥さんの医療的な措置はすべて終わったので、もうぼちぼちどこかに移ってほしい、そういう話が病院から出るわけです。さらに、マスコミから、私は別件で逮捕される、そんな情報が入って来ました。仮に別件であっても私が逮捕されたときには、妻は世間的には人殺しの妻、そういうラベルを張られてしまう。また、そんな患者を受け入れてくれる病院や施設があるのかという問題が発生したのです。とりあえず入れるとすれば重度身体障害者の養護施設ということになりますが、当時長野県にあった7カ所すべての施設が、今申し込みをしても、5年間待たないと入所出来ない状況でした。犯罪被害あるいは交通事故でもそうですけれども、若い人がそういう施設を必要とする、そういうケースはあるわけですが、施設が空いていないということです。ここで悩んだのは、もし私が逮捕されたとき、妻は意識不明のまま自分の居場所すらなくなってしまうということでした。何とか解決方法はないか考えました。

そして、私は松本市長に嘆願書を書いたのです。今、自分の置かれている状況、そして、妻の状況、そういうものを手紙に書いて何とか市長さん助けてくれないか、そういう手紙を出しました。しかし、この時期、市長が私や妻のために動くということは、世間からバッシングを受ける環境でした。「市長、そんな悪いやつのために何で動くのだ」、そういう反応なんです。このときに松本市長は、「河野さんの疑惑、それと奥さんの人権は別のものなんだ」と言っていただき、市役所の社会部長を病院に派遣して調査を開始したのです。そのことによって奥さんの居場所が決まるまで、どうぞいつまでもこの病院にいていただいて結構ですよ、というように変わったのです。本当に助かりました。

それから、サリンを吸ったときに自分の体が本当に治るのか、治らないのか、後遺症の不安もありました。私は10年間以上、微熱が落ちず、37度台の熱が続くのです。妻も高熱が続き、解熱剤を投与しても全くきかないのです。つまり脳は、それが平常の体温というふうに認識しているから下がらないのです。温度を下げるときは全身氷で冷やしました。

さらに、サリンは不眠症を起こします。私は寝られなくなる状態がつづきました。私が病院に運ばれたときに看護師さんが、はさみで私の衣服を切り、衣服に触れたことでこの看護師さんは不眠症になったんです。ましてや吸ってしまった場合、もう睡眠薬がなければ寝られない、そんな状態が半年以上続きました。

脳波異常や心電図の異常が出る。ところが、後どうしようという治療法がないのです。サリンの臨床例がないから、病院としては後遺症があるのはわかるけれども、治療がわからないというのです。そうしますと、自分の体が本当に治るのか、治らないのか、そういう不安があるということです。

その後、オウム真理教の犯罪被害に対して救済法ができましたが、このときに国がサリン被害の追跡調査を十分やっていなかったため、自分はサリンによる後遺症だという申請書が出ても、警察庁は判断ができないこともありました。私が所属しているNPO法人リカバリー・サポート・センターでは、サリンの被害者の無料検診を10年以上もやっており、他の医療機関でのカルテの保存は普通5年で廃棄ですが、当センターでは可能な限り保存しています。継続的にサリンの後遺症の人を診てきたから、これが後遺症であるかどうかの判定ができたんです。ですから、警察庁が判断できないものはリカバリー・サポート・センターに判断を求めてきました。その判断が、サリンの後遺症の認定に役立ったのです。本来、国がそういう被害者を継続的にみていれば、民間に頼まなくても済むということです。現在でも、サリンの被害者が当NPOだけでも1年に170人ぐらい検診に来ており、後遺症に苦しんでいる人がいまだにいる、それが現状なんです。

犯罪被害者等基本法というものができまして、いろんな団体が支援をしていますが、なかなかうまくリンクされていない状況だと思います。例えば、警察の犯罪被害者支援室では専任とはいえ、担当が数年で移動します。その人がずっとやってくれれば習熟するのでしょうけれども、やはり警察では転勤があるのでなかなか習熟できない。県も市もそうですね。そうしますと、唯一その犯罪被害者の支援ということで習熟できる組織というのはどこかといったら、まさに民間の支援組織ということになるわけですね。こちらでは連絡協議会、そういうところでずっと同じ人が被害者を支援していく、そのことで習熟するわけです。

ところが、その組織も問題があります。それは資金の問題です。ほとんどが寄附金で賄っているそういう状況だと思います。民間の犯罪被害者支援団体の多くは、言ってみれば広報の予算もないし、色々な事業をしようと思っても予算が足りない、そんな状況なのです。そんな中で、市民は何をしなければいけないか、それはだれもが出遭うかもしれない犯罪被害者をケアしている組織のために、少しでも協力するということが必要だと思うんです。なかなかお金を集めるのが難しい時代ですが、是非支援していただきたいと思います。

犯罪被害裁判の中で理不尽だなと思うことがひとつあります。それは、被害者は民事訴訟を起こして加害者から被害相当のものを補わせることが原則です。加害者が特定できているときにその加害者に対して訴訟を起こし、裁判に勝てば、被害者はきちっと損害を補えるかというと、そうではないのです。加害者に経済能力がなかったとき、それはお気の毒で終わってしまうのです。長野県でも1つこんな例がありました。スナックでお客さん同士がけんかを始め、そこへ店のマスターが仲裁に入る。ところが、けんかに巻き込まれてこの人は失明しました。この人は加害者に対して裁判を起こし、判決では4,000万円の賠償命令がくだされる。ところが、4,000万どころか10万も払えない、加害者がそのような状況であったときに被害者は訴訟費用だけ食い込んでくる、これが現実なんです。相手がお金ないとき、裁判を起こすと、勝訴しても被害は拡大してしまうのです。被害者は民事訴訟を起こして、加害者から損害を補償して貰え!というのが国の方針である。そのとおりやって補償されないという現実がある、やはり国はそれに対して何らかの方策をとる必要があると思います。警察組織というのは都道府県警察ですから県単位でもいいのですが、例えば薄く広く犯罪被害者のための言ってみれば保険として、県税から一人当たり100円徴収して、それを原資として、そして被害者が裁判に勝ったときはそれを用意するとか、何らかの補償の裏づけがないと、何のために裁判をやったのかわからない。今後この問題はぜひ検討してもらいたい、と思います。

それから、犯罪被害者というのは犯罪を受けたものとその家族を言いますが、いざ犯罪が起こるとその被害者だけでなく、とてもつらい思いをする人がいるんです。それは加害者の家族です。私は当初、加害者として扱われました。そして、私の子供あるいは私の周りの人を、世間は排除したのです。仮に私が罪を犯したとしても、裁判所が私に対して相応の罰を与える、これが社会のルールです。ところが、実際の世の中はそうではなく、私の周りの人まで排除した。例えば、松本市内在住の友人は、町会長から「あんたは河野の友達だと聞く。そんな人はこの町会にいてくれちゃ困る。この町会から出ていってもらいたい」、正面切って言われました。あるいは私の親戚筋です。お嫁に行った嫁ぎ先から「犯人の親戚をここに置いておくわけにはいかない。離婚してもらいたい」こんな話も出るのです。あるいは私の子供たちはやはり私を知らない人からは白い目で見られる。法律的には加害者の家族というのは普通の人です、ところが、世の中というのはその人を排除する。言ってみれば川に犬が落ちていたとき、本来であれば救わなきゃいけない。ところが、現実はみんな棒で叩いている、こんな状況なんですね。加害者の家族は犯罪被害者等基本法では、支援の対象外ですけれども、やはり犯罪が起こることによってとてもつらい思いをしている。この人たちに対してもケアがあってよいと、私は自分の体験から思うわけです。

私は今、加害者ともおつき合いしております。犯罪被害者は何を知りたいのか。事件の真実が知りたい、こういうことをよく聞きます。そうしたときに伝聞情報よりか加害者に直接聞く、その方が真実が伝わってくる。そんなふうに思って加害者ともつき合っております。例えばサリンの噴霧車をつくって殺人幇助で10年間の刑務所生活を送った人、2006年に10年の刑期を終えて社会に出てきた時、私のところへ謝罪に来られました。「あんた、刑務所でどんな作業をしていたの」と聞いたら庭の剪定の技術を教えてもらったと言うんです。では、家に庭があるからそれをやってもらったらありがたいなという話になりました。その元信者の人は一月に1回、山口県から新幹線を使うと高いものですから、高速バスでうちへ来る。そして、私がいないときは家の鍵はここに置いてあるから勝手に入って泊まっていってというんです。米はここにあるから、ご飯は自分で炊いて、ビールぐらいは冷蔵庫に入れておくから勝手に飲んでというような形で、私がいなくても私の庭をずっと手入れをしてくれた。そんな中で事件の当時の話、何で自分がオウムに入ったのかとか、中であったこと、いろいろ聞くことができます。そういう意味では、加害者と被害者の一つのネットワーク、こういうことがあってもいいと思います。私は東京拘置所に今まで4人の加害者に面会しています。最高裁で裁判をしている、そういう人からサリンの噴霧車の図面を拘置所で見せてもらいました。被害者の知りたいということ、それは加害者から得られることもあるのです。加害者を憎み、恨み、暮らしている人が多いと思います。できれば加害者とも腹を割って話ができる、そんな社会が訪れること、私はとてもいいことだと思います。

私の持ち時間、60分ということですから、自分の体験を1時間で述べさせてもらいました。あと足りない部分、これはパネルディスカッションでこれからやりますので、そこでまたお話ししたいと思います。ご清聴ありがとうございます。

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