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平成21年度
「犯罪被害者週間」国民のつどい 
実施報告

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■北海道大会:基調講演

テーマ「犯罪被害者になるってどんなこと」

講師:武 るり子(少年犯罪被害当事者の会代表)

 こんにちは。はじめまして、今、紹介していただきました武るり子といいます。今日は、話をする前に、会で作っていますDVDの映像を少し見ていただきたいと思います。では、よろしくお願いします。

                    
 〔DVD映写〕

〔WiLLの活動〕
 ありがとうございました。
今見ていただいた映像は、私たちの会が1年に1回、大阪で集まりをしているのですが、そのときに流しているプロローグです。今年で11回を迎えました。 

 私がなぜこのWiLLをしたいなと思ったかといいますと、社会で大きく扱われた事件であれば、「あの事件から1年経ちました」「2年経ちました」と思い出すことがあると思うのです。でも、私たちの会の人たちの事件というのは、ほとんどの事件が地域で起こる死亡事件であっても、普通の事件として扱われます。そういう事件というのは、地方紙であれば1回載るか載らないか、そんな扱いだったりするのですね。新しい事件が起きると、前の事件としてすっかり忘れられてしまいます。私は思いました。そんな忘れられた子どもたちを1年に1回でいいから主役にしたいと思ったのです。その子たちのために過ごしたいと思いました。

 私の息子の事件が今から13年前に起きました。そのころからずっと日本中、このような集まりを探したんです。日本にはありませんでした。そんなことをずっと思っていて、そして会を翌年つくりました。そのころから学生が家に話を聞きに来るようになったのです。今のように、犯罪被害者のことを考えるような社会ではありませんでした。「被害者支援」という言葉もあまり使われる社会ではなかった頃から、学生が私の家に連絡をくれるようになったのです。「武さん、話を聞きにいっていいですか」と電話が来るのです。1人で電話してきたり、グループで来たりしました。恐る恐る電話してきます。「遺族の人に何か聞いたら傷つけるのではないか」と、とても心配するのですね。興味半分と思ったら、また武さんたちが大変な思いをする。「本当に話を聞いていいですか」と言うのですね。私と主人は12年前から言ったんです、「いいよ、おいで」。

 私は主人と言っていたのですね。入口は何でも構わない。“興味”という言葉は悪く聞こえるけれども、興味も関心もないほうが悲しいと思ったんです。「とにかくおいで」と来てもらっていたんです。そんな子たちと話をする中で、外国では遺族が集まって話をする場所があるという話をしたんです。そうしたら、その子たちに言われたんです、「武さん、武さんたちがしたいと思うことをすればいい。自分たちはできることは手伝える」。その一言に後押しされて、怖さも知らず、手探りで始めたのがこのWiLLなんです。だから、このWiLLは学生と一緒に作っています。準備から当日の進行から後の片付けまで、すべてを学生さんにやってもらっているんです。今年も40人くらいの学生が手伝ってくれました。本当にありがたいと思います。よかったら、ぜひ一度、大阪は遠いですが、旅行がてら見に来ていただきたいです。

 「支援」という言葉がないときから関わっている学生がたくさんいるんです。「今の若い者はあかん」--大阪弁で“あかん”と言うのですが、「あかん」とかよく言われますが、そんなときには必ず手を挙げるんです。「まんざら捨てたものじゃないんです。日本にもこんなふうにWiLLを手伝ってくれる学生がいるんです」ということを必ず手を挙げて言っています。体育の日のある10月の連休の土曜日にいつもやっています。よかったら大阪に旅行を兼ねて来ていただけたらうれしいです。

〔専業主婦から少年犯罪被害当事者の会の代表へ〕
 私は、先ほども紹介にありましたように少年犯罪被害当事者の会をつくりまして、今も代表をしています。会をつくって12年になります。いろいろなところに出かけていくようになりました。法務省、内閣府、そしてさっきも言ったように国会の参考人にもなって話をしてきました。そんなときに、どうしても「代表・武るり子」という名前が出るものですから、ときどき周りの人に聞かれることがあります。「武さんって活動家ですか。活動していたんですか」と聞かれることがあります。私は活動家でも、活動していたわけでもありません、専業主婦なんですね。専業主婦といっても、人前に出るのはとても苦手な主婦なんです。3人、子どもがいて、PTAの役員が回ってくるんです。実行委員が回ってきます。絶対避けていました。そんなことができる性格ではないからです。でも、仕方なく引き受けたのが給食委員長という実行委員でした。子どもが小さいころに引き受けたのですね。30人のお母さんの前で給食の試食会のときに挨拶をするんです。「二度とせんとこ」、そんなふうに思う私なんです。

 でも、子どもの学校関係で講演会があると、私は人の話を聞くのがとても好きだったのでよく出かけていました。そのときにもどこに座るかというと、後ろの端っこのほうに、目立たないところに座るのが私です。なぜなら、前に座って、突然、質問されたら困る、そんな心配をする私だからです。でも、そんな私が現在はどこにでも出かけていって、日本中、呼んでいただいたら足を運んでいます。なぜ、私がこんなふうに変わったかといいますと、13年前、息子の事件があったころ、その頃の社会は犯罪被害者のことを全く考えてはいませんでした。特に少年犯罪はそうでした。加害少年のことはとっても言っていましたが、被害に遭った家族やその子のことは一切触れてはなかったのですね。法律も制度も整ってはいなかったのです。あるべきものがなさすぎて、声を上げざるを得なかったのですね。

〔諦めなくてよかった〕
 私は、今、思います。こうやって犯罪被害者週間までできたんです。すごいな、変わったなと思います。諦めなくてよかったなと思います。

 13年前、事件とわかったときから主人と二人で声を上げたんです。その頃の社会は、その声を拾ってくれるところはどこもありませんでした。門前払いだったのです。特に少年犯罪だったということも大きかったと思います。加害者の少年を守らなければいけない、と。だから、被害者は黙っていなさいよ、という社会だったのです。

 そして、話をする前から門前払い、その話の内容も勝手に思われていました。ただひたすら加害者のことを悪く言っているのではないか、死刑にしろと、そんなことだけを言っているんじゃないかと見られたり、言われたりしました。でも、私と主人はそんなこと言っていたのではないのです。「自分の息子が殺されたのに、その相手の名前をなぜ親に教えないんですか」とか、「事件の内容を、親なのに教えないんですか」「意見がなぜ言えないんですか」とか、あるべきものがないから言っていたんです。その声は拾ってはもらえませんでした。でも、二人で諦めなかったんです。今、思います。諦めなくて良かったと思います。

 法律や制度もできたり、少年法も変わったのですね。最初の頃言われました、「武さん、法律のことを言っても無駄だよ」。でも諦めなかったら、少年法も3回変わったのですね。良かったなと思います。

 でも、そこでちゃんと守ったことだけはありました。「ルールだけは守ろう」としっかり主人と決めていました。13年前からいろいろなところを見つけては出かけて行っていたんです。でも、ちゃんと手を挙げて、指されたときだけ話をする。

 例えば、東京に出かけていって、ここだったら話ができるだろうと思ったとしても、何も言えなくて帰ったことも何回かあります。でも、ルールだけはしっかり守って、ずっとこの13年、頑張ってきました。会ができてからは、会の人たちと頑張ってきたんです。良かったな、諦めなくて良かったなと思います。

 でも、もう一つ思うことがあります。13年前に、こんなふうに社会が、そして法律や制度がもっと整っていたなら、私たち家族はもっと違ったのではないかと、そんなことも思います。だから、私はいろいろな思いを抱えながら、いつもいろいろなところに足を運んでいます。話ができる時間、この時間はとても大事な時間です。一生懸命、話をします。でも、私の話というのは、聞いている皆さんにとったら、とっても重たいと思います、しんどいと思います。でも、一生懸命、話をしますので、よかったら最後まで聞いてください。

〔突然降りかかった事件〕
 昔は、こんなことを言われました。今も言う人があります。犯罪被害に遭うと、「それなりの生活をしていたから犯罪に遭った。それまでも犯罪に関わっていたから被害に遭った」と言われたり、見られたりしました。偏見というのがとてもあるのですね。そういう人ばかりではないんです。先ほど紹介した家族は、普通に生活をしていて、平和に、幸せに生活をしている人が突然事件に遭っているのです。そういうことも今は多くなっています。だから、みんなでいろいろな問題を考えてほしいと思います。

 うちの場合もそうでした。私は警察に関わるといえば、自転車が盗られたときくらいでした。裁判所なんて行ったこともないし、弁護士の先生と話をしてことなどありませんでした。そんな我が家に突然事件が降りかかったんです。

 息子の16年間から少しずつ話をしていきます。

〔息子の16年間〕
 私は1955年、主人は1948年、同じ鹿児島で生まれました。その後、別々に大阪に引っ越しをしていまして、西淀川区というところで知り合い、1976年、私が21歳、主人が28歳のときに結婚しました。現在、私は54歳、主人は61歳になりました。

 結婚して1年余りで妊娠しましたが、10カ月お腹の中で育った子供は死産でした。私はそのときのショックで、なかなか次の子どもを産む気になれませんでした。でも、ようやく産む決心をして、産まれてきたのが事件に遭った長男、孝和でした。待ちに待ってできた子どもでした。心の底から「幸せやなぁ」と本当に実感できた誕生でした。

 その後、私たちは1984年に長女が生まれ、1987年に次男が生まれ、3人の子どもに恵まれました。長女が生まれた頃、独立したばかりの内装業の仕事で生活はとっても苦しくて、食べたいものも食べられないこともありましたが、3人の子どもたちの成長を楽しみに頑張りました。そのころは、二間の、お風呂のない長屋に住んでいました。

 狭い部屋なので家具は最小限にしていました。子どものベッドも手作りで、食台や棚、ほとんど主人が作ったものでした。その中で一つ部屋に似合わない立派なものがありました。それはビデオのセットでした。ビデオカメラもありました。長男が1歳のとき、買ったものでした。今から28年前のことです。今でこそどこにでもありますが、そのころはまだまだ珍しかったのです。主人が息子の思い出を残したいという、強い思いで買ったものでした。

 買ったことにもう一つ理由がありました。息子が生後11カ月のころ、血友病とわかったからでした。普段でも子煩悩な主人でしたから、より思いが強かったのだと思います。私は、その頃、近くの小さな公園に行くときも、そのビデオカメラを持っていって、記録を録り続けました。

 血友病ということがわかったとき、ショックと不安とでいっぱいになり、情けない私でしたが、いつもニコニコ活発に動き回る息子に励まされることばかりだったように思います。過保護に育てたくなかったので、怪我をしないように注意しながら、できるだけみんなと同じように行動させました。病気が軽症だったこともあり、それができたのでした。幼稚園の年長のとき、活発さを活かせるようにボーイスカウトにも入れました。事件当時までずっとそれを続けていました。私はそんな息子を「1歳になった」「2歳になった」と、1年1年、指を折りながら、命大事に育てたのでした。

 反抗期もありました。病気のほうはハラハラすることもありましたが、軽症だったこともあり、血液製剤になるべく頼らず、足にヒビが入ったときでさえ、湿布したり冷やしたりして治しました。そのかわり、普通の人よりは時間がかかるんです。でも、治そうとする心の強さを持っている息子でした。

 血液製剤によるエイズ問題が出始めて、年に1度の血液検査にその項目が加わり、結果を聞きに行くたびに祈るような思いもしました。血液製剤は数回しか打ってはいなかったのですが、1回でも打っていて、その中にエイズの抗体が入っていてはいけないので、強制的に項目が加わっていたのです。結果、陰性と聞くとほっとしたものでした。でも、私は事件の後、こうやって自分だけが喜んだことがいけなかったのではないかと、このことは自分を責める材料となりました。

 親と子で病気とも向かい合いました。そこで息子は我慢することを覚えていったように思います。自分の命の大切さも、人の命の大切さもよくわかっている息子でした。そんな息子の命を突然に一方的な暴行で奪われたのです。相手は息子と同じ16才で、全く面識のない、見ず知らずの少年たちでした。

〔「自転車でコケた」と友達から連絡〕
 その日は、高校1年生だった息子の高校の文化祭でした。いつも朝寝坊の息子が自分で起きて、慌ただしく着替えをし、朝ごはんも食べずに「行ってくる」と2階の部屋を覗き込んで出かけていったのでした。

 それまで、子供たちの行事には必ず参加していた私たちでしたから、主人は文化祭に行こうと思って準備をしていました。でも、私は、親が来るのを恥ずかしがる年頃だったのと、高校生になり、ホッとしていたのとで「少し距離をおいてみようよ」と文化祭を見に行かなかったのです。このことも後で自分を責める材料となりました。

 私たちは、下2人の子供と4人で買い物へ行き、主人は息子のためにMDのコンポを買いました。家に帰って、そのコンポの線をつないでいた3時半頃のことでした。主人は驚かせて喜ばすのがとても好きなので、楽しそうに線をつないでいた、そのときのことです。いつも仲良くしている高校の友達から電話があったのです。「自転車でコケて鼻血を出している。そして言っていることがおかしいので迎えに来てほしい」というのです。私たちは慌てて家を出ました。少しぐらいの事では電話してこないと思ったのと、息子は、先ほども言いましたように、軽症ではあったけど血が固まりにくい血友病という病気を持っていたこともありました。車で10分くらいの現場近くの友人宅に迎えに行くと、息子はボーッとしてフラフラしていましたが、自分で歩き、手を貸そうとしても、「大丈夫や」と自分で車に乗るほどでした。でも、「頭が痛い。気分が悪い」と言うので、とっても不安で、いつものかかりつけの病院へ急ぎました。病院に着くと、息子は車も自分で降りて、私が「名前は?生年月日は?」と聞くとちゃんと答えたのです。ところが、診察室に入ってからは状態が悪くなり、CTスキャンを撮る頃には、もう話などできない状態でした。診察室に入ったとき、「今日、約束あるから行くで」と言うので、私が「何言っているの」といつもの調子で交わしたのが最後の言葉になってしまいました。それは、初めてできたガールフレンドとの約束のことでした。

 運んだときは頭を打っているということがあったので、血液製剤をしっかり打ってもらいました。血液製剤さえ打てば、普通の子と同じ状態になるからです。でも、その後、状態が悪くなり、手術をしました。手術が終わった後、お医者さんは「成功しました」と告げたものの、息子の様子は変わり果てていました。頭には包帯、たくさんの管や機械を付けられ、人口呼吸器も付けられていました。心臓だけが動いていて、さわってもピクリとも反応しなくなっていたのです。ほとんど脳死に近い状態でした。

 私は、息子が仲の良かった中学時代の友達やそのお母さんたちにすぐ電話を入れました。息子の容態が悪いので祈ってほしいとみんなにお願いしたのです。みんなで祈れば、きっとそれがエネルギーとなって息子に届くと信じていたのです。その後、みんな、病院へ駆けつけてくれました。そして振替休日だった担任の先生にも連絡をとりました。その先生が飛んできてくれました。そして、その先生が当日一緒にいた高校の友達に連絡を入れてくれたのです。私はまだ高校の友達の連絡先を知らなかったのです。今のようにまだ携帯がなくて、ポケットベルのときでした。

〔本当は見知らぬ他校生に殴られた息子〕
 事件の2日後、初めて息子の容態を聞いて、あまりの悪さにびっくりした高校の友達が十数人で病院へ来ました。するとその友達は「すみませんでした。自転車でコケたというのは嘘でした。本当は他校の生徒に殴られたのです」とすまなそうに言うのです。

 私は主人と一緒に事情を聞きました。「なぜ、なぜ、嘘をついたん?」と子どもたちに聞くと、「仕返しが怖かったから」と小さな声で答えました。泣いている子もいました。でも、早く本当のことを言っていてくれれば何かが変わっていたかもしれない、と悔しくて、怒りがこみあげました。でも、子供たちを責めることはしませんでした。相手がプロレスラーみたいに大きくて、年上だと思ったし、とにかくとっても怖かったということでした。わけがわからない状態の中で、何もできない私は、息子の命が助かることだけを祈るしかありませんでした。

 主人は、そんな中、私に負担をかけないように、警察との対応をすべてしてくれていました。事件とわかり、主人は学校の先生と被害届を出しに行くことになりました。そのとき、夕方5時を過ぎていたので、学校の先生が「今日出すのも明日出すのも同じだと警察が言っていた」と言うのです。そのとき息子はほとんど脳死に近い状態だったので、命が関わっている事件なのにすぐに動いてくれないのかと、怒りがこみ上げました。でも、その怒りを警察にぶつけることはしませんでした。被害者側は弱い立場にあります。ちゃんと調べてもらわないといけないと思ったし、悪い心証を与えてはいけないと思ったからです。

〔息子は危篤状態に〕
 入院して12日後の11月15日、昼頃から息子が危篤状態になりました。主人はたまらなくなり、「早く捕まえてほしい」と警察に電話を入れました。加害少年を捕まえるのはまだ2、3日先と聞いていたのです。でも、その夕方になって、少年の身柄が拘束されたことを警察から知らされました。事件とわかったときから新聞社に連絡をしたかった主人は、すぐに各社にファックスを流すことを私に言いました。加害者が捕まるまで、捜査の邪魔になるからしないように警察に止められていたのです。私は言われるまま、次のような内容を書きました。

 「11月3日午後3時半、此花工業高校に通っている1年、武孝和という生徒が因縁をつけられ、謝っているにもかかわらず、本人は喧嘩を避けようとして逃げても追いかけてきて、殴る蹴るの暴行を振るわれ、意識不明の重体で、現在、危篤状態です。今後このようなことがないようにマスコミ各社のご協力をお願いします。なお相手は、現在、警察に逮捕されたようです。国立大阪病院に入院しているので、現在私たちは家を空けています」といった内容を住所と名前と電話番号を書いて新聞社にファックスで流しました。

 主人が事件とわかって、すぐに新聞社にファックスを流したかった理由の一つに、こんなことがあります。高校生の息子ですから、お医者さんや看護婦さんたちが見たとき、喧嘩でもしたんだろうと思われたくなかったのです。バカなことをしてと思って息子に関わるのと、かわいそうなことをされてと思いながら関わるのでは、汗の拭き方、体の拭き方、接し方が違うのではないか、もっと親身になってくれるのではないかと思った、と言っていました。ちゃんと、しっかり正しく報道してほしかったのです。

〔被害者や家族が「本当に救われること」とは〕
 そのとき、もう一つ、主人が言ったことではっきり覚えていることがあります。混乱状態の中でこう言ったのです。「俺たちは、見せ物パンダになってもいいな」と言ったのです。「もうプライバシーも何もないぞ」と私に言いました。私は「わかった」と返事をしました。大切な息子のことだから、これから先、何でもできると思ったのです。主人は私にこう言ったのです。「外に向けて話をするんだったら、都合のいいことだけ言っても伝わらない。すべてをさらけ出さないと伝わらない。その覚悟があるか」と言ったのです。私は「はい」と答えました。

 私たち二人は、この13年間、すべてをさらけ出して話をし続けてきました。これからも変わりません。確かに、被害者の人権、プライバシー、守らないといけないと思います。多くの遺族の人、被害者の方はそう言っています。でも、私と主人のように、「それもなくてもいい」、そんな思いで必死になって声を上げている遺族もいることを知ってもらいたくて、この話をしました。だからといって、みんながしないといけないという話では決してありません。

 私は、現在、いろいろなところに呼んでいただくようになりました。内閣府や法務省、その中の会議まで呼んでいただくようになりました。ある会議に出席したときに、こんな議論がありました。「被害者の名前は絶対出すべきではない」という議論があったのです。よく起こります。特に少年犯罪の場合、加害者はAやBです。それに比べて、被害者の名前はどんどん出てしまうのですね。それはおかしい、ということを多くの人が言っています。そのときもその議論になったのです。ある議員さんが「被害者の名前は絶対出すべきではない。それを徹底するべきだ」と大きな声でおっしゃったのです。そうしたら、みんながそんな空気になってしまうわけです。私は小心者なのですが、そんなときには、スーッと手が挙がってしまうのです。何を言うかというと、私は「一括りにしないでください」ということを言います。私と主人のように、最初から自分の名前や情報提供している遺族もいるわけです。だから、一括りにしないでくださいということを言います。もう一つ、私は必ず言うことがあります。最初のテレビや新聞などの報道で、被害者の名前が出ないことを守られたとしても、私、思うんです、今は情報社会です。インターネットもありますし、いろんな形で名前とか出てしまうんです、被害者とわかってしまうことが多いのです。私はいつも言うのです。「被害に遭った家族、被害者だとわかったとしても、守られるような社会にならなければいけない」と思います。そんな法律や制度にしていただきたいのです。

 もう一つ、私は思うのです。私たちのように少年犯罪の場合、どうしても喧嘩と見られてしまうのです。被害者のほうが悪く言われたりするわけですね。だから、しっかり、正しく報道してください、ということも必ず言います。そして、被害者だとわかったとしても守れるような社会、それには理解が必要なのです。そんな社会になってほしい、そんな法律や制度にしていただきたいのです。それでなければ、本当の意味の「救われる」ということは、私はないと思うのですね。目先だけで、最初の段階だけで名前が出なかったことで守られるとは、私はどうしても思えないのです。今のような情報社会では無理だと思います。

 そして、もう一つ、言います。うちの家には、当時、中学1年の娘と小学校3年の息子がいたのですね。残されたきょうだいもいろいろなことを言われてしまうのです。それは仕方のないことだと思います。でも、私は思います。被害に遭ったきょうだいだとわかったとしても、守られるような地域になっていただきたいのです。それにはやはり「理解」というのが必要なのですね。「偏見」というのがあるわけです。だから、理解をしてください、そしてそんな法律や制度をつくっていただきたいのです。それでないと、私は救われないと思うのです。

 今は全く反対なのです。悪いこともしていない被害者のほうが小さくなって地域で生きているということが圧倒的に多いのです。偏見があったり、法律や制度の不備があったり、いろいろなことで小さくなって生きているのですね。それはやはりおかしいと思うのです。

 そんな地域、社会になってほしい、そしてそんな法律や制度になってほしいと思います。でも、犯罪によっては、絶対、被害者の名前が出てはいけない犯罪があります。性被害もそうだし、また被害が及ぶような、そんな犯罪もそうです。そういう犯罪は徹底して名前が出ないように守るべきだと思います。でも、その他の犯罪に関して言いますと、名前がわかったとしても守られるようにならなければいけないと私は思っています。それも言い続けていきたいと思います。

〔息子とちゃんとお別れもできない〕
 犯人が捕まったその夜、それを待っていたかのように、午後11時43分、息子は意識を取り戻さないまま、息を引き取りました。死因は左後頭部の内出血でした。どうにかして息子の命を引き戻そうと叫び続けましたが、届きませんでした。私が息子にすがりつき、撫でていると「触らないで下さい」と看護婦さんに言われました。「なぜ?」と聞くと、「司法解剖をするので」とのことでした。まだぬくもりが残っている、そのぬくもりを感じていたいと思っても、してはいけなかったのです。私の涙は止まりませんでした。

 司法解剖しなければいけないというのはわかっていました。でも、その扱いというのがとてもつらかったのです。いろいろな人が司法解剖に関しての扱いの話を今はしています。扱いも変わってはきているようです。私は、司法解剖から帰ってきた子どもをお棺から出してあげて、布団に寝かしてあげて、ちゃんとお別れしたかったのです。でも、その当時はそれも許されませんでした。「絶対、お棺からは出してはいけません」といって、顔だけの、窓だけのお別れだったのですね。とってもつらい思いでした。それも言い続けました。いろいろな人たちが言い続けて、今は工夫をされるようになっているようです。その場所場所で運用は違うのでいろいろだと思うのですが、遺族の気持ちを酌んでいただきたいと思います。

 こんな扱いも昔はあったのですね。今もされることがあるかもしれません。うちの会の人で、一人のお母さんがこんなことをおっしゃいました。集団暴行事件に遭った息子さんでした。その息子さんが見つかって、警察に運ばれていたそうです。それが警察の駐車場のコンクリートの上に寝かされていたそうです。それもかわいそうだと思ったそうです。その上にビニールシートがかぶさっていたそうです。そのビニールシートが汚れていたそうなんです。それを見て、とてもかわいそうでならなかった、そんな話をされました。

 私も機会があるたびに、そのお母さんの話をすると、今はその場所では変わったのですね。そこの警察では白い布が使われるようになったのです。ビニールシートにしても新しいビニールシートが使われるようになったのです。ある警察官の方に聞いたんです。こんなことをおっしゃいました。「遺族の人がそんな扱いを受けて、つらい思いをしているという発想がなかった」とおっしゃったのです。私は思いました。やっぱり、ルールを守りながら、言い続けることは大事やなと思ったのです。今では工夫をされているようです。でも、これも扱う人の意識がなければ、変わらないのです。どの場所でも、本当にある一定の扱いができるように、私はなってほしいのです。「当たった人が悪かったね」では済まないわけです。そのために言い続けています。

 なぜ、いろいろなことを一般の方たちにも話をするかというと、遺族だけが声を上げて話をしていてもだめなのです。遺族が何か言うと「被害者感情だ」で片づけられることが圧倒的に多いです。だから、私たちは最初から社会に向けて問いかけてきたのです。「私たちはこんなことを思いますけど、間違っていますか。どう思われますか」ということを社会に投げかけてきたのです。そうしたら、その話を聞いていた人たちが「それはやっぱりおかしいですね」という声が上がるようになったのです。そうすると、扱いが変わるのです。制度が変わるのです、法律も変わるのです。だから、私は機会をもらうたびに、一人ずつに語りかけてこれからもいきたいなと思っています。

 また、話が戻ります。

 司法解剖に警察官の方が来た時のことですが、恐怖しか残っていないのです。そこでちょっとした声かけがあったり、ほんの少しの説明でもあれば、その恐怖というのはそんなに持たなくて済んだと思うのですが、言葉が足りないことで、そして一言が足りないことで、とってもつらい思いをするということも警察の人たちには話をしています。

 今は本当に変わってきました。今は変わったのです。その当時は、警察の中に被害者のための窓口って、なかったのです。話をする場所はありませんでした。でも今は、その被害者のための窓口ができました。そして警察だけでなく都道府県や市町村まで今はできてきています。それも本当に良かったなと思います、諦めなくて良かったと思います。これからもその必要性を訴えていきたいと思います。

〔少年法の壁〕
 少年法というものをあまり知らない私たちは、当時はいつかは教えてもらえると思って待っていました。でも、少年犯罪ということで、加害者の名前も、事件の内容も教えないんです。おかしいと思ったのです。だから、あるべきものがないので、声を上げたのです。今は先ほども言いましたように、3回、法律が変わりました。意見が言えたり、加害者の名前も教えてもらえたり、いろいろなことが変わったのです。少年審判というのが家庭裁判所であるのですが、事件によっては傍聴ができるようになったりしました。その当時は期日さえ教えてもらえなかったのですが、やっぱり言い続けて良かったです、いろいろなことが変わりました。

 でも、ここで思うことは、大人の犯罪から比べれば、まだまだ制限があります。加害者が少年というだけで、加害者の将来があるとか、加害者のプライバシーとか、いろいろな理由で制限があるのです。例えば、情報一つでもとても制限があります。調書を取り寄せたときにわかります。大人の犯罪では見られたとしても、少年犯罪であれば、黒塗りがたくさんしてあったりするのですね。プライバシーに関わるとか、どんなふうに育ったとか、そういうところは出なくなっているわけです。

 でも、私たちは思います。加害者の条件で、被害者がもらえる権利が違い過ぎてはいけないと思うのです。あるべき権利だけは、どの被害者にも与えていただきたいのです。例えば、加害者が大人であれ、少年であれ、精神障害であれ、その被害者にもらえる権利が違ってはいけないと思います。それが一定になるまでは言い続けていきたいと思います。

〔事件の大小で被害者の権利が変わってはいけない〕
 もう一つあります。社会から見て、影響力、特殊性、話題性、そういうある事件と、私たちのように地域で起こる死亡事件であっても、普通の事件の扱いが違うというのもあるのです。すべてではありませんが、扱いが違ったりするのです。

 なぜそれがわかったかというと、うちの息子の事件から6カ月くらい後に、神戸の児童殺傷事件が起きました。それを見ていて思ったのです。警察の扱いも違いました。そして、家庭裁判所の扱いも全く違いました。少年審判というのが神戸の事件もあったのですが、私たちは期日も教えてもらえなかったのですが、神戸の事件の場合は、審判の結果が社会に公になったのです。社会に公になったということは、遺族にもわかったということです。私は思いました。なぜ、こんなに扱いが違うのだろう、と。確かに事件が大きい、小さいと言われれば仕方がない。でも、死んでしまった命は、どの命も同じだし、どの命も尊いのに、なぜこんなに扱いが違うんですか、ということを言い続けたのです。今は少しずつ変わってはきていますが、まだまだ大きな事件と普通の事件の扱いが違ったりするのです。これもあるべき権利だけは、どの被害者にも与えていただきたいと思います。

 当時、私たちには警察も家庭裁判所も何も教えてくれないのですね。何も教えてくれないほど、不安なことはないのです。よく遺族の人が「事実を知りたい」と声を上げます。私たちが事実を知るというのは、とっても大事なことなのです。警察が教えてくれないものですから、私と主人はこう思ったのです。「警察はちゃんと捜査をしていないのではないか。喧嘩で片づけているのではないか」と思ったのです。それもちゃんと教えてもらえていたら、余分な不安なのです。

 家庭裁判所も、家庭裁判所の調査官という方に「ここは事実関係をどうのこうのするところではない」と私は言われたのですね。だから、私は「加害者の言い分だけ聞いて、うちの子が悪くなっているのではないか」と不安を抱えたのです。それも情報をもらっていたら余分な不安なのです。

 もう一つ、不安でした。息子の周りに友達がいたので、事件の流れがわかったのです。何べんも尋ねたんです、落ち度があったんじゃないか、どこかに何かあったのではないかと思ったので、友達に聞いたのです。みんな、言いました。「何の落ち度もない。一方的な暴行だ」と言いました。でも、警察、家庭裁判所、国の公の機関から説明をもらわない限り、不安なんです。ひょっとして、どこかに落ち度があったのではないかという、そんな余分な不安まで抱えるのですね。

 何も教えてもらえないほど不安なことはないのです。私は、会の人たちと話をしていつも思うのです。私たちの会は、ほとんどの人が子どもを亡くしているんですね。子どもを亡くした親となると、一生、背負い切れない荷物を一つ背負っているんです。その荷物だけでも大変なんです。それは自分で何とかして、一つ下ろしたり、また背負ったり、そうやって自分でする荷物だと私は思うのです。でも、それ以外に、また余分な荷物を背負っているんです。それが情報をくれないことや、もちろん加害者の関わり方に誠意がないということもあります。そして関わった警察官の方、裁判所の人、弁護士さん、そんな人の関わり方でまた余分な荷物を背負ったりするのです。だから、一つの荷物だけでも精一杯なので、余分な荷物だけは下ろさせてほしいと思うんです。それが法律や制度、関わる人の意識なのです。そして、周りの理解、それがあるとその荷物は下ろせるんです。私はそう思っています。

 私たちは、自分たちで動けました。学校の先生方も協力してくださったし、見ていた子たちがいたので、事件の内容がだんだんわかっていったのですね。それでも不安で民事裁判を起こしたのです。民事裁判を起こして、賠償金を基に孝和基金をつくりました。今日、コピーをとっていただいています。それは本当は国がしてほしいことです。民事裁判を起こすにはお金がかかるのです。お金がなくて、諦めている人がたくさんいます。だから、国が援助するべきだと思うのです。それをしてくれるまで、この孝和基金を頑張りたいと思います。

 そして、賠償金が払われないんですね。例えば、うちの場合でも約8,000万、勝訴と報道で出たとします。でもそれは、ほとんど払われません。うちの場合は基金をつくっているということがあるのだと思います。一時金は60万、そして月々、父親、母親、本人、3人で7万。今のところは入っています。多分、公にしているということが大きいのだと思うんです。でも、他の家族の人たちはほとんど払われない状況があるのです。逃げ得になっているのです。それも、私はおかしいと思います。国がちゃんとするべきだと思います。

 先ほど挨拶にあったように、犯罪被害者等基本法ができ、基本計画案が258項目あるのですが、その中に少しだけそれが盛り込まれています。でも、実際、そういうことが国としてされるようになるには、何十年もかかると思うのです。それまで基金を頑張って、国が立て替え払いをして、加害者から一生取り立てるというような、そういう仕組みにするまでは私は頑張っていきたいと思います。孝和基金は少年犯罪に遭った人、いじめに遭った人が民事裁判を起こすときに使ってもらっています。審査もとても簡単なものなので、そういうことがあってはいけませんが、もしそういう人が周りにいたら、どうぞ連絡をください。これは返済は要りません。良かったら、ホームページも見てください。

〔被害者の家族〕
 家族の話を少ししたいと思います。

 犯罪に遭って、遺族になると、ひたすら加害者を憎んで、すごい顔をして生活していると想像されます。確かに、私は加害者が憎いです、一生憎むし、一生許さないと思います。うちの加害者というのは、何の反省もないということもあるのですね。13年間、お盆も命日も連絡をもらったことは一回もありません。民事裁判中も誠意ある態度は一回も見ませんでした。そんな相手だから、余計強いのだと思います。もちろん、許さないという気持ちはとても強いです。でも、親っていうのは、子どもを先に死なせてしまうと、自分自身を責めてしまうのですね。主人も自分を責めていました。主人は日頃、こんなことを言っていました。「喧嘩になりそうやったら、まず謝れ。それでダメやったら逃げろ」と言っていました。「それでだめやったらどうするん?」と聞く息子に、「2、3発殴られても死にはせん」と教えてきたのです。昔は、ちゃんとルールがあったということでした。息子は、そう言われたことを守って死んでいきました。主人は、そう教えてきた自分を責めています。

 もう一つ、主人は男親です。ものすごく思いの強い、深い人です。敵討ちをしたいんです。今もそうです。でも、もちろん敵討ちをしてはいけないのはわかっています。でも「敵討ちさえしてやれない。情けない父親だ」ということで、今もずっと自分を責めています。今もときどき悲しい顔をします。
私は自分から産まれているから、絶対救えると思っていきました。でも、命を救えませんでした。自分が育てたからではないか、自分が教えてきたことが間違っていたのではないか。遡れば、自分が産んだからじゃないか、と思うようになったのです。夜中、一人泣きながら遺書を書いたこともありました。誕生日、入学式、卒業式、私の今までの喜びはすべて悲しみに変わっていったのです。

 例えば、4人で食事をすることも悲しみに変わりました。うちの家は、なるべく5人で夕飯を食べていたのですね。そのときに、4人とわかるだけでつらいのです。あるとき、何気なく、ご飯を食べていて、下の子が「おいしいね」。それもまたつらいのです。息子は食べられへん。何でも息子と重なるわけです。何もかも息子と重なり、苦しさのあまり、主人が食台をひっくり返したことも何回かあります。電化製品も何個か壊しました。壁や戸にもたくさん傷ができました。主人との口論も絶えなくなったのですね。下に二人、子どもがいますので、その子のこともしないといけないとわかってはいるのですが、自分のことだけで精一杯の私は、毎日、二人の前で泣いてばかりでした。あまり泣いてばかりいる私に、当時、中学1年だった娘が言ったんです。「お母ちゃんだけやないんや。私だってつらいんや。本当は学校だって行きたくないんや」。本当に、私は情けない母親だと思いました。現実の怖さに、自分が逃げることだけ考えていたんですね。当時、中学1年の娘も、小学3年生の息子も、苦しんでいたのでした。

 事件が起こるまで、私は、夫婦というのは喜びは倍になる、悲しみは分けあえると思っていました。でも、こんなに理不尽なことで、突然、人の手によって、大切に育てた息子の命を奪われると、それができなくなったのですね。自分のことだけで精一杯になり、相手のことを思いやる余裕がなくなってしまったのです。主人と二人になると悲しみが倍増したのです。本当に家の中がどんどん悪くなってしまうわけです。それは私だけではなく、多くの被害者の家族の人たちは大変になっていくのです。

〔地域の人たちが私たち家族を助けてくれた〕
 でも、私たちは何とか日常生活を少しずつ取り戻せたのですが、それはなぜかというと、周りの人がとても良かったのです。地域の人たちが私たち家族を助けてくれたのです。毎日、うちの家には誰かが来ました。「おはよう」って来るんです。「ご飯、食べたん?」と来ます。「いや、食べてない」と言うと「あかんやん」と言って、うちの家で作り出すんです。そうすると、私も見ていられないので、一緒に作り出す。そんなふうに、誰かがうちに来ていたんですね。時には、鍋でおかずを持ってきてくれた人もいました。毎日、うちの家には誰かが来ていました。毎日、話を聞いてくれる人、警察に行くときには一緒に行ってくれる人。今で言う、被害者支援ということをみんなでやってもらったのですね。

 中には、こんな人がいました。私は遺族になって、何でも悪く考えるようになったのです。例えば、一歩外に出ると、私の顔を見て、パーッと散っていく人がやっぱりいたのです。「ひどい人やった」と思ったのです。いつも来ている人に愚痴ったのですね。「みんな、ひどい人やったんやで。うちの家が犯罪に遭ったから、うちを避けている」という話を一生懸命したのです。その人に「あんたね、外を歩いているときに、どんな顔して歩いているか、わかるか。すっごい顔して歩いているで。そんな人に、なんて声かけたらいいんや。心配している人もたくさんおるよ。悪い人ばっかり、違うんやで」と言われたんですね。

 私はそのことを言われていなければ、今もきっと気がついていないと思います。言われたことがずっと頭にあって、少しして振り返ってみたのです。そう言えば、腹を立てていたのです。もちろん加害者に腹が立ち、国にも腹を立てていました。でも、目に映るもの、すべて腹が立つんです。家の前に道があって、左に曲がるといつも場所にいつものお店があるんです。そこにはいつものおっちゃんが座っているんですね。いつもと変わらない光景が、腹が立つんです。平和に見えてしまうのです。うちの家は息子が戻らないのに、家の中はどんどん悪くなるのに、一歩出ると何も変わらないと思うと、無性に腹が立つわけです。

 家の前に神社があって、木が枯れるんですけど、また芽が出るのです。芽を見つけると腹が立つんです。芽は出る、息子は戻れへん。何もかもが息子と重なって腹を立てていたんですね。すごい顔して歩いていたんだと思います。でも、言われなければわかりませんでした。

 後でわかりました。その人は、私がこれからも地域で二人の子どもを育てていかないといけないから、孤立してはいけないと思ったのだと思います。おかしいことはおかしいと教えてくれたんだと、後で気がついたのです。それに気がついたときには、本当に涙が出ました。そんな人のおかげで、うちの家は孤立せずに済んだのだと思います。

 そんな話をするものですから、いろいろな人が関心を持って、話を聞きにこられるようになったのですね。「武さん、そんな地域、特別じゃないですか」と言われるのです。特別な地域ではないのです。ある人が話を聞きに来て、いつも来ている人に話を聞いたのです。「なぜあなたたちは、毎日、武さんの家にその頃行っていたんですか」と聞いたのです。そうしたら、その人は言いました。「あの家ね、放っておいたらどうなるか、心配やった。放っておけんかったんや。ただ、それだけだった」と言うんですね。どうしていいかわからなかった、とも言っていました。でも、その「放っておけんかった」ということで足が向いたんだということでした。

 本当の意味の、本当にお節介の人たちがたくさんいたということで、私たち家族は助けられたのですね。私は思うのです。これからは、地域で困ったときに、何かあったときに、声が上げやすいようになってほしいのです。社会でも同じです。何か困ったときに、自分で頑張ることも大事だと思います。でも、頑張って、頑張ってだめだったら、声を上げやすい、そんな地域になってほしいし、そんな社会になってほしいと思います。そして、困った人がいたら、誰かが寄り添う地域、寄り添う社会になってほしいと思います。

 そして私は、事件前までは、こんな私でした。家の悪いことを外に絶対漏れてほしくなかったのです。3人子どもがいると、感情的に怒ること、あるんです。イライラして怒ります。大きな声を出した後、窓がどこか開いていたら、「しまった!」と思って閉めていました。そんな私だったのです。でも、事件の後、うちの家はひどかったです。泣き叫ぶ声、主人は1階の部屋でいつも叫んでいたし、モノが壊れる音、いろいろな音や声がしていたのです。隠し切れなかったので、自分から言ったんです。直後から「助けてほしい」と言いました。今考えると良かったなと思います。でも「助けてほしい」と言ったときに、それに応えてくれる安心感があったから、私は言えたんだと思うのです。だから、本当に言いやすい社会、地域になってほしいし、寄り添う地域、社会になってほしいです。それには、やっぱり日頃からが大事だと思うのです。

 私は、日頃からいろいろなところに関わっていたのです。町内会、婦人会、PTA、ボーイスカウトの父兄会、いろいろなところに関わっていました。いろいろなところに関わっていると、面倒くさいことが多いのです。夜に会合があるとか、募金のときに駅に立たないといけないとか、いろいろなことが結構あって面倒くさいことが多いです。それもしんどいなと思うこともありましたが、今考えると、そういうことが大事だったのだなと思いました。なぜなら、私たち家族を助けてくれたのは、そうやって関わった人たちだったからです。

 もう一つ、あります。3人以上、人が寄ると揉め事が起きるのです。イヤやなと思っていました。この人とこの人、合わんとか、意見が合わんとか、必ず揉め事が出ます。でも、それも大事なことだったのだとわかりました。人と人が関わるから揉め事が起きるわけです。だから、解決しなくても、人と関わるということが私は大事だなと思っています。なぜなら、私たち家族を助けてくれたのは、周りに住んでいるそういう人たちだったからです。そこに、本当は国の公の機関であったり、専門家であったり、もっとそういう人たちがいたら、私たち家族はもっと違ったなと、そんなことも思います。

〔3人の子どものお母ちゃんとして人間らしく生きる〕
 主人の話を少しして帰ります。主人の話をしたときに、机をひっくり返すとか、大声を出すとか、すごいことだけ並べて言うんです。本にもしっかり書いてあるのです。ときどきいろいろなところに行って聞かれることがあります。「そのお父さん、今、どうされていますか?今、大丈夫ですか」と聞かれることがあります。大丈夫です。今はそういうこともなくなりました。でも、まだまだすごく強い思いを持っています。大きな声はまだまだ出します。そして、私たち夫婦はまだぎくしゃくもします。家族もそうです。息子を失った後、その元の家族にはやっぱり戻れないのですね。でも、ぎくしゃくしながらも、何とか新しい形の夫婦、新しい形の家族にはなってきていると思います。それには多くの人の力、多くの人の支えが必要でした。

 会のことは、主人が陰のことは全部やっています。今日、後ろにパネルを張ってあるのですが、写真を作っているのは主人です。これからも会のことを二人三脚で頑張っていきたいと思います。

 そして、私は権利の話も少しします。

 権利はとても怖いものだと思っているのです。権利ができると振りかざす人が必ず出てきます。だから、私は被害者の権利ができても、振りかざしてはいけないと思っています。「自分にできることは精一杯やります。でも、できないことを助けてください。そして、私たちが手の届かない法律や制度は、関わる人たちがしっかりつくってください」、そんな話をしていきたいです。

 私はこれからも被害者である前に一人の人間として、そして3人のお母ちゃんとして、人間らしく生きていきたいと思います。

 今日は貴重な時間をいただいたことに、呼んでくださった関係者の皆さんに心から感謝をします。そして、最後までしんどい、重たい話に付き合ってくださった皆さんに心から感謝をします。本も出ていますので、よかったら読んでください、『話を、聞いてください』『被害者だって笑うんです』という本があります。

 ありがとうございました。
  

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