福岡大会:基調講演

 
テーマ:「犯罪被害者等の現状と求められる支援」
講師:大久保恵美子(社団法人被害者支援都民センター理事兼事務局長・NPO法人全国被害者支援ネットワーク副理事長)

 ただ今ご紹介をいただきました大久保です。「犯罪被害者週間国民のつどい福岡大会」にお招きいただきまして、どうもありがとうございます。被害者支援に関心を持ち、ここにお集まりの皆様、そして関係者の皆様に、この大会を開くに当たりましてのご尽力に対しましても、心からの感謝を申し上げたいと思います。

 お話に入ります前に、突然ではありますが、皆様に二つほど質問をさせてください。皆様も多分「罪を憎んで、人を憎まず」ですとか、あるいは「泥棒にも三分の理」、こういう言葉はどちらかと言いますと、罪を犯した人の更生復帰等に関連する言葉かと思います。このような言葉を親御さんから、あるいは学校教育の中で聞いたことがあるという方、手を挙げてみてくださいますか。はい、100%の方の手が挙がりましたね。それでは、その反対にいる被害者のことに関連しまして、犯罪被害を受けた人はそのショックが大き過ぎて、これから先、自分がどのようにして暮らしていけばいいのかも何もわからない混乱状況に置かれてしまう、だからこそ、もし身近なところに犯罪被害に遭った方がいれば温かい支援の手を差し伸べなさい、それが人としてのあるべき姿ですということを親御さんや学校教育の中から聞いてきたという方がいらっしゃったら、手を挙げてみてください。お1人だけでした。そうなんですね。犯罪被害者が置かれている状況というのはなかなか一般の皆さんには理解をされていないという現状が今もあるわけですね。

 でも一方で、実は犯罪被害者も全く皆さんと同じなんです。被害に遭うまでは、国や社会が守ってくれているのではないかと、何となく漠然と思っていたんですが、被害者になって初めて、このような理不尽な状況に放置されてしまうことや、被害者の苦悩がこれほどまで何年にもわたって、これでもか、これでもかと思うほど長く続くということを思い知らされてしまって、愕然としてしまう、それが被害者自身の現状でもあるわけなんです。このような被害者が置かれる現状の困難さといいますのは日本だけではありません。欧米でも同じですので、欧米では60年前くらいからは、犯罪被害者への経済的な支援が始まりました。そして40年ぐらい前からは、被害直後からの支援を受けることができて、そして刑事司法にも被害者が関与できるようにということで法改正も進んできました。それに比べて日本では、ようやく平成16年に犯罪被害者等基本法が成立いたしました。そのことに関連しましては内閣府の方からもご説明があったかと思います。その計画に基づきまして、各省庁では基本計画が立てられまして、警察庁では犯罪被害給付金ですね、これを車の自賠責並みの額に引き上げることですとか、あるいは、支給対象者の拡大を図るというような、給付金の制度の更なる充実が図られました。また、各都道府県の公安委員会は、こちらにもあります福岡の民間被害者支援センター、そこの自主的な活動を支援するための指針というものも出されました。

 法務省のほうでは、刑事手続に参加できる改正刑事訴訟法ができました。今まで、加害者が自分の罪を軽くするために法廷の中で、被害者にも落ち度があった、被害者が悪いというような嘘をつかれていても、被害者はそれは嘘だと言うこともできず、傍聴席で黙って聞いているしかなかったわけなんですね。このような放置されていた状況にも少し被害者が当事者として認めてもらえるようにもなってきました。来週の12月1日以降起訴された事件につきましては、検察官のそばに座って、加害者にもようやく、なぜこのようなことをしたのかというような質問ができるという制度もできました。また、わざわざ被害者が、辛い中、高いお金を使って民事裁判を起こさなくても、刑事裁判の結果を利用して裁判官が損害賠償命令を出してもらえる制度もできてきまして、ようやく被害者が当事者として認められてくるようにもなったわけです。さらに、今まで加害者が例えば刑務所の中に入って本当に反省をしているのかどうなのか、それが分からなければ、被害者はいつも、また同じような被害を受けるのではないかと、そういう再被害の不安にいつも苦しめられていたわけなんです。新しい更生保護法ができまして、刑務所の中での被告人の生活状況など、あるいは出所をしてくる時、あるいは仮釈放をする時に被害者の心情を聞いてもらえる、そういうような新しい制度もでき上がりました。

 このように、犯罪被害者等基本法という立派な家ができまして、その中に入る様々な制度、施策というような、言葉を変えてみますと、例えば新しい電化製品ですとか家具が入りました。でも、その家や家具がそこにあるだけでは、混乱をしている被害者は使い方も分かりません。そのため被害者には被害直後から安心して相談ができて、その家具や電化製品の使い方を一つ一つ丁寧に教えてくれる被害者支援センターや、身近な関係機関、行政機関の皆様の血の通った温かい対応等というと具体的な手助けが必要なのです。また「今どうしているの? ご飯食べている? 何か困ったことない? おかず作ったから食べてね。お花が咲いたのよ、飾ってあげて」このように、誰もがいつでも被害者の家に訪ねてきてくれて相談に乗ってくれる、等の温かい地域住民の存在も、被害者が回復をしていく時には必要なものです。まだまだ、このように被害者支援は、今後充実させていかなければいけないことばかりです。でも、どうでしょうか、最近新聞を見ていて思ったんですけれども、来年の5月から裁判員制度が始まります。それを見ますと、被告人が悪者だというような印象を裁判員に始めから与えないために、被告人にはネクタイをさせるとか、サンダルではなくて靴を履かせる、等という報道によく接することがあります。では、一方翻って、その制度にも関係してくる被害者が、裁判員制度になった時、被害者が抱える問題について論じられていることがあるでしょうか。そういうような記事を私はまだ見たことがありません。なぜようやく少し被害者支援が進むと思うと、また被害者は置いていかれてしまうのでしょうか。我慢を強いられてしまうのでしょうか。納得ができないと思うことがたくさんあります。皆さんはいかがお考えでしょうか。

 そこで、今日はレジュメ[PDF:260KB]を参考にしていただきまして、私自身の被害体験を通して、被害者の心情と、被害から回復をするために必要なこと、また困難の中、自分の仕事のその枠を超えて、警察として、専門家として、被害者支援を進めてきてくださった人たちのご努力について、そして、支援の充実のためには欠かせない関係機関との連携や協力などについてお話をさせていただきたいと思います。皆様のお手元にこのような3枚物のレジュメ[PDF:260KB]があると思いますので、このレジュメ[PDF:260KB]と、あと、先ほど警察本部長さんとしてごあいさつをくださいました田村正博さんが被害者支援都民センターのセンターニュースに書いてくださいました、「被害者とともにある警察をめざして」を参考になさっていただきましてこれからのお話を聞いていただければと思います。

 先ず、私がどのような被害に遭ったのかについてですけれども、私が被害者支援に関わるようになりましたのは、平成2年10月、当時18歳だった長男を、歩道に乗り上げてきた飲酒運転の車に轢き逃げされて奪われたことからでした。私は当時、公務員として自治体の保健所に働く保健師でした。保健師の仕事は、生まれたての赤ちゃんから老人まで、すべての人々の心の健康や体の健康を増進するために様々な仕事をしています。その中でも精神保健に従事する機会が多かったので、仕事として、例えば精神障害者の社会復帰ですとか、アルコール依存症患者の回復のための教室を行っていました。その教室では、いつも、うちの者がお酒を飲んで車を運転するので心配というようなことが話されていました。私はその言葉を聞きながら、こんな飲酒運転者にはねられたら大変なことになる、そう思っていましたが、まさか長男がその犠牲者になるなどとは想像もできないことでした。長男は小学生の時から、スポーツ少年団で剣道をやっていましたので、もし車が前から来たのであれば絶対に逃げられたはずなんですけれども、後ろから乗り上げてきたので、逃げることができませんでした。

 平成2年当時は、警察の初期支援制度も、検察庁の被害者連絡制度も通知制度も何もありませんでしたので、被害者の心情に添った対応はしてはもらえませんでした。警察から事件を知らせる電話があった時、私は一刻も早く怪我の状況や病院を知りたかったんですけれども、「お父さんの職業は? 住所は?」、そういうような質問ばかりがなされました。今考えますと、間違いなく轢き逃げ死亡事件になるので、メディアに発表するための情報を得ていたのだということが分かりますけれども、その時は全く分かりませんでした。悠長に質問するのだから、命には別状はない、そう勝手に思い込んで電話を切った後、入院に必要な寝巻きとかを入れて病院に向かいました。私は、病院に着いたら長男は「お母さん、ごめんね。僕、どじ踏んじゃったよ」って言って、足の1本でも折ったのかしら、そんなふうに想像しながら病院へ向かいました。でも、着いた病院の前にはパトカーがたくさんいました。警察官の姿もたくさん見えましたので、それを見ただけで「あっ、これはただごとではない」って、そう思いました。それでも、親切な若い警察官の方が私のバッグをひったくるようにして救急室に連れていってくれました。そこには看護師さんがいて「お母さん、遅かった」って言うんですね。何のことかよく分からずにいましたら、カーテンを引いてくれました。引かれたカーテンの向こうのベッドの上には青い顔して横たわっている長男がいました。それを見ただけで瞬間的に「ああ、もうこれは」と感じました。

 その時からもう頭がしびれて呆然としてしまいましたが、「10分前にお亡くなりになったんですよ」って重ねて言われました。救急処置は何もされていませんでした。とにかく早く病院に行くようにと言われていれば、私は10分は早く着くことができていたと思うんですね。私はたまたま、そこの病院の附属の看護学校で看護学を教える非常勤講師もしていましたし、当直医も仕事上の知り合いでした。もし息のある間に着いていれば、私は、助からなくても、とにかく救急処置はして欲しかったんです。なりふりかまわず親として頼みたかったんです。でも、それも叶わずに、脳外科医は慰めるように「すぐ横に病院があっても助からなかったでしょう」、そう説明をしてくれました。納得はできなくても、その言葉を信じて自分を納得させるしかありませんでした。その時以来、私の頭の中の時計はもうピタリと止まって、今でも錆びついたままになっています。そして、今でも私の目の前には、横たわっているその長男の姿と、役に立たなかった寝巻きが入ったバッグを抱えて泣いている自分の後ろ姿が他人事のように映っていて、それは消えていくことはありません。

 私も小さい時から「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉は知っていました。加害者が大事にされているのであれば、被害者はその何十倍も何百倍も国や社会が手厚く守ってくれるはずと思い込んでいたんですが、現実は全く違いました。犯人が捕まれば先ず真っ先に家族に連絡があると思っていましたが、犯人が捕まったということはテレビのニュースで知りました。もちろんその後、どんな犯人なのか、何を言っているのか、果たして起訴されるのか、不起訴なのか、そういうような情報も教えてはもらえませんでした。裁判がいつ開かれるのかも分かりませんでした。検察庁に連絡をしても、被害者に連絡するように法律に無いと言われました。人権擁護委員会に相談をしても、法律に無いから、どこに聞いたって無駄だよ、そのように言われてしまいました。とにかく、どこからも何も連絡が入らないために、加害者がどうやって裁かれるのか、被害者である自分には何ができるのか、何をすればいいのか、そういうことが不安でしたので、たまたま夫の教え子に弁護士さんがいましたので、その弁護士さんをお願いしました。弁護士さんからは、刑事手続の流れや、上申書の書き方などを教えていただきました。裁判を傍聴する時には付き添いもしていただいたり、担当検察官への連絡もお願いをしました。加害者の親族や友人ばかりがいるところに、なぜ被害者がそこに堂々と座っていることができるのでしょうか。怖くて、そこに行くということさえもできません。法律のことは何も知らない被害者が検察官と連絡を取りたくても、何をどのように伝えればいいのかさえも分からないのが被害者なわけです。

 弁護士さんをお願いしたことで、司法の専門家についてもらえたので、安心をして裁判の傍聴もできました。そして、当時としては極めて異例と言われながらも、裁判で証言をすることもできました。当時は、悪質な飲酒運転であり、轢き逃げであっても、罰金刑であったり、執行猶予が付くという判決が多かったんですが、加害者は1年6カ月の実刑になりました。弁護士さんは「すごく重たかったですよ」そうおっしゃっていました。けれども、その1年6カ月という判決を報じる新聞記事のその横に、泥棒をした人間に4年の懲役と出ていました。私は小さい時から、人の命は地球よりも重い、そう言い聞かされてきました。でも、現実に遭ってみますと、それは大嘘で、人の命はティッシュペーパーのように軽く、フーッと吹けば飛んでしまうということを嫌というほど痛感させられました。

 多分犯人が刑務所に入ってから10カ月ぐらい経ったころだと思います。突然保護司が訪ねてきました。なぜ訪ねてきたのか、全然分かりませんでした。でも、私はこの新しい、昨年の12月に更生保護法ができて、仮釈放をする時は被害者の心情を聞くという項目が入ったということで、ああ、今から17年ほども前に、あの時保護司さんが訪ねてきたのは被害者の心情を聞くためだったんだということをようやく初めて知りました。もちろんいつ出所したのかというような情報は全く教えてもらっていません。いまだかつて、事件に関する真相については、私自身は知りません。そのため、被害者になって、私自身が先ず必要だと思ったことの一つ、それは、刑事手続に関する情報提供や、警察、検察、裁判所等へ行く時の付き添いなどでした。被害者には何も権利が無い刑事裁判であっても、被害直後から助言者として私自身は弁護士さんに付いていただけたので、不安感を抱くことなく、分からないことは質問をすることができました。自分なりに精いっぱい関われたという気持ちだけは持つことができましたので、その気持ちを持てたということが、被害から回復するために大きな力になりました。

 二つめに必要だと思ったことは精神的な支援でした。被害直後の被害者は、そのレジュメ[PDF:260KB]の1ページの(3)のところに様々な症状について書いてあると思いますが、被害直後はショックが大き過ぎて、意外と本人も周りの人たちも何て冷静なんだろう、そのように思えるわけですね。でも、それはショックが大き過ぎて、被害者自身が自分の命を自ら絶ったりしないように、脳から天然の全身麻酔剤が出たようになって、感情とか感覚が麻痺をしてしまうわけです。ですから、涙も出ないくらいになってしまうので、葬儀なども何とか行うことができるわけなんです。でも、その一方で、麻痺していますので、暑さとか寒さも感じることができなくなりますので、何を着ればいいのかさえも分かりません。今日が何月何日なのかも分かりません。寝ることも食べることもできなくなります。感情とか感覚の麻痺ですね。でも、四十九日を過ぎるころから少しずつ感情が戻ってきますので、何でこんな目に遭わなければいけなかったのか、なぜ息子は殺されなければいけなかったんだろうか。答えが出ない答えを探す時には結局自分を責めるしかなくなってしまうんですね。あの時、「気をつけなさい」その一言がなかったからに違いないとか、ご飯の支度が1分遅かったからこういう目に遭ってしまったんだ。重箱の隅をつつくようにして自分を責めてしまうのが被害者なんです。

 そうやって被害者自身が、責任が無くても自分を責めている時、私はこう言われたんですね。二十歳前の子供を亡くすのは親の責任だと、面と向かって言われたこともあります。あるいは隣近所の人たちの哀れみの視線がとっても突き刺さるように感じて、人と会うのが怖くなりました。買い物をしていても、近所の人が向こうから来ると、向こうのほうが逃げてしまうんですね。私は自分がどのような態度を取ればいいのかもわからなくなりました。また、回避症状として、子供のことや事件に関連することに合うことをものすごい苦痛を感じて、このまま自分が駄目になってしまうのではないか、そう思うようになってしまい、関係することを避けるようになります。例えば長男は焼肉が大好きだったんですが、もう食べれなくなってしまったと思うと、食べることはもちろんできません。作ることもできません。我が家の食卓からはもう焼肉というメニューは生涯消えてしまいました。また、長男の部屋に入ることも苦し過ぎてできないんです。思い出がたくさん詰まっていますので。そのうちには、前を通るということも苦痛でしたので、長男の部屋は開かずの間になってしまいました。その他に、過覚醒の症状として、いつも神経が過敏になってしまうので、いつまた何が起きるか分からない、そういう脳に深く刻まれた不安感というのは、大丈夫、大丈夫と幾ら自分に言い聞かせても、体が緊張してしまうんです。そのため、集中力とか理解力が無くなってしまいます。もちろん記憶力も無くなって、呆けたようになってしまいます。そういう状況で、今までのように仕事などできなくなってしまいます。また、フラッシュバックとか侵入症状ですね。見ていないのに、事件の現場が目の前に突然現れてくるんです。倒れている姿を見ていないのに、血だらけになって倒れている長男の姿が目の前にパッパッと浮かんでくるんです。

 そういう状況になりまして、もうこれは1人の力ではどうにもならない、そう思って知り合いの精神科医を訪ねました。これ以上頑張れないのに、頑張れと言われたら、もう私は頼る人がいなくなってしまう、そういう不安の中で訪ねましたが、精神科医は「あなたの場合は薬を飲めば治るというものではない。大きなショックを受けた後、PTSDといわれる心的外傷後ストレス障害と言われる症状だ」ということを教えてくれました。そして、泣けて当たり前、仕事なんかできなくても当たり前、何年も立ち直れなくても当たり前、幻覚も、被害に遭えば当然出てくる症状だということを教えてくれました。それと同時に「犯人に対する怒りを大事にしなさい。絶対に心の中で我慢をしないように。私もでき得る限りの協力をするから」とおっしゃってくださいました。そして、責任が無くても、自分を責めるしかなくなってしまう被害者の心情についても、医学文献に基づいてしっかりと説明をしてくださいました。そして「薬だけ出すことはできない。定期的にいらっしゃい」と言われて、初めのうちは1週間に1回、それから2週間に1回、月に1回というように通っていました。

 でも、いつまでもそういうところに通っているのは私は自分自身も不甲斐無いと思いましたので、数カ月経った時「もう私、大丈夫です」と言いましたら「そんなに早く元気になれるわけがないので、駄目。次は何月何日にいらっしゃい」と、もう強制的に予約を入れさせられてしまったんですね。もし強制的に予約を入れてもらえなかったら、多分私は途中で行かなくなっていたと思います。それでも1年経ったころに「もう1年経ったから大丈夫、元気になれますから」と言いましたら「1年や2年で元気になれるわけがない」と。記念日反応と言いまして、毎年事件のあった日、あるいは亡くなった日が巡ってくれば、気持ちが落ち込んで当たり前ということも教えてもらいました。2年、3年経っても落ち込んでしまう時には、専門家が教えてくれた、元気が無くなって当たり前と言ってもらえたということがとても大きな力になりました。それと同時に、私だけではなくて家族のことにもとても心を砕いてくださいました。受診する度に「ご主人はどうしている? 次男の方はどうしている?」と聞いて、的確なアドバイスもくださいました。例えば次男は、長男が亡くなった時、すぐに長男が使っていた学校の鞄ですとか洋服を着ていたんですね。私は、それは私だけの宝物なので、誰にも触らせたくなかったんです。その時、精神科の先生に相談しましたら、弟がお兄ちゃんの持ち物を使うのは次男なりの悲しみの克服方法なので、絶対に叱らないようにと教えてくれましたので、本当に教えてもらえたことで次男を傷つけずに済んだと今でも思っています。

 このように、被害直後から弁護士や精神科医の支援を受けることはできましたけれども、それでも私は、同じような被害者と話をしてみたいと思い、日本中を探しました。でも、当時は日本の中には何もありませんでした。アメリカにならあるかもしれないと思いまして、長男を可愛がってくれたアメリカ人の弁護士のギンズバーグさんにも連絡をしました。ギンズバーグさんとは、長男が小さい時、英語助手として日本に来ていらっしゃいましたので、同じ教員アパートに住んでいました。日本語ができなかったギンズバーグさんはいつも私達の家に来て、食事をしたり、子供たちと遊んでくれていました。長男の事件を知らせた時に、ギンズバーグさんは「私達家族と過ごした日本での生活が一番楽しかった。今でもニューヨークのビルの谷間から『ギンさーん』と呼ぶ長男の声が聞こえてくる。自分にできることは何でもするから」とおっしゃってくださって、全米被害者援助機構や、飲酒運転に反対をする母親の会へ連絡をしてくださいました。飲酒運転に反対をする母親の会からはすぐに心温まる手紙とたくさんの資料が送られてきました。被害者の心情に理解をしてくださっている手紙に接して、すぐにアメリカに行ってみたいと思い、行ってきました。そこでは、被害者支援団体にはたくさんの専門の被害者支援員の方たちと被害者の方たちがいました。そして、被害者自身が泣き寝入りをしないで、支援の必要性や法改正の必要性も訴えていました。時間の経った被害者が新しい被害者を支援している姿にも私は深い感銘を受けて帰ってきました。また、仲間同士で辛い気持ちを話し合う、そういう自助グループを作るようにということも助言をされました。

 このアメリカでの体験から、三つ目に必要だと思いましたのは、被害者を支援する団体が欲しいと思いました。四つ目は、被害者の自助グループが必要だと思いました。自助グループは、自分が仕事上作っていましたので、これは作ればいいと思いました。被害者を支援する組織はアメリカから帰って1週間後にそれをお願いする機会がありました。それがレジュメの上のほうに書いております、平成3年10月に開かれました犯罪被害給付金制度ができて10年経ったということで開かれた10周年記念シンポジウムでした。シンポジウムに参加をすることができましたのも、実はこのギンズバーグさんから「日本でもあなたたちを支援する人がいるから、すぐに連絡をしなさい」と連絡をもらえたからです。すぐに電話をしましたが、私はそこが警察庁だとは知りませんでした。突然の電話に戸惑っていた担当者の方でしたけれども、被害者が置かれる理不尽さを訴える私の話を熱心に聞いてくださって「大久保さんがおかしいと感じていることは我々も感じていることです。ちょうどシンポジウムがあるので、出席をしませんか?」ということを、当時そこの警察庁の理事官をやっていらっしゃいました、先ほどの福岡県警本部長さんの田村正博さんと相談をして、招待をしてくださいました。

 招待をしていただけたことで、大きな期待を持って参加をしました。その中で、シンポジストのお1人である、当時東京医科歯科大学の教授であり、そして現在、全国被害者支援ネットワーク理事長をなさっている山上皓教授はこのようにおっしゃってくださったんですね。「日本は幾ら犯罪が少ないとはいえ、毎年何千人もの人たちが体や心を傷つけられながら放置されている。これからは周囲の積極的な励ましと、必要に応じた専門家の介入・治療・援助で被害者たちが苦難を乗り越えて新しく出発できるようにしなければならない。被害者は犯罪そのものだけではなくて、捜査機関やマスコミ、裁判の過程の中でも二次被害を受けている。時代の変化に合わせ法律も含めて検討すべき時に来ている」そう発言をしてくださったんですね。私達はその発言をとても嬉しく聞いていたんですけれども、当時は被害者支援という考え方もまだ少なかったのでしょうか、その会場の中では、アメリカは犯罪王国だからとか、あるいは、日本は犯罪被害が少ないので犯罪被害給付金も余っているというような発言が平然となされるような状況で、何となくシラーッとした雰囲気が流れているように感じました。また、別のシンポジストの方は、日本の被害者は本当に困っているんだろうか、誰からもそういう声が聞こえてこない、そういうような発言もあったんですね。

 そこで、私は自分の体験から「日本の被害者は大きな声で泣きたくても泣けない。助けて欲しいと言っても、聞いてくれるところも、人も、何もない。シンポジウムが開かれたのであれば、被害者を精神的に支援する制度を作って欲しい」、そのように訴えました。本当は、なぜ裁判が開かれる日の連絡が無いんですか、法律も変えてほしい、そう思いましたけれども、でも、行政機関で働いている私は一市民が「権利を」と言うと何となく警戒をされるということは嫌というほど分かっていたので、「精神的支援を」と言いました。精神的支援に反対する理由は何も無いはずだ、大丈夫だと思ったから、そのようにお願いをしました。その後、山上皓教授は、「本部長」ではなくて「田村さん」とお話しさせていただきますけれども、田村さんに相談をして、救援基金の協力を得て犯罪被害者相談室を自分の研究室の中に作ってくださいました。田村さんはシンポジウムが終わった後、何箇所にも移動なさいましたけれども、私は、とにかくどこに異動しても、私自身が書いた手記ですとか、あるいは雑誌、本、手紙を送り続けました。それは、必ずどこかで新しい制度や施策に反映してくださると考えたからです。なぜならば、これも被害者の特徴の一つかもしれませんけれども、犯罪被害に遭った後、また二次被害を受けて自分が壊されてしまうということを防ぐために、つまり、被害者はもう満身創痍の野生の動物のような感覚を身につけてしまうんですね。目の前にいる人が自分の味方か、そうではない人なのかが見抜けてしまうのです。ですから、私はとにかく田村さんは絶対大丈夫、そう信じて送り続けたということは間違っていませんでした。

 平成6年に、警察全般の企画を行う企画官としてお戻りになった田村さんは、国松元警察庁長官の下、警察の被害者対策に関する研究会を発足させて、まとめてくだり、そして、レジュメにもありますように、平成8年に警察庁としての被害者対策要綱を全国に通達してくださったわけです。この時盛り込まれなければと思ったことは、被害者支援団体との連絡窓口と、被害者支援を明確な任務とする部署だったそうです。そのため、犯罪被害者給付室が犯罪被害者対策室と改められて、そして犯罪被害者の支援は、警察本来の仕事の一つと位置づけられて、全国の警察で被害者対策が行われるようになり、今日のような犯罪被害者への支援の必要性が広がったのだと思っています。私は、この警察の動きがなければ、日本の被害者支援はこのように早くは広がらなかったと思っています。10周年記念シンポジウムからまた10年経った20周年記念シンポジウムの時出された記念誌です。この中の一文を紹介させてください。

 これは田村さんではなくて、その当時一緒にお仕事をなさいました国松孝次元警察庁長官がこのように書いてらっしゃいます。「田村君からは、今日の被害者支援活動の盛り上がりとなった10周年シンポジウムのことを聞かされた。田村君は何事にもよらず熱弁を奮う人だから、私はただひたすら聞き役に回っていたが、被害者の多くが他人に言うに言われぬ悩みを持ち、誰からも支援されず苦しんでいる。そのような人に、警察としてできる限りの支援の手を差し伸べなくて何の警察行政かということを話していた。それは私が長い間抱いていた被害者に対する問題意識と符合するものであった。長官に就任し、警察全体の舵取りを考える立場に立って、警察運営の一つの柱に被害者対策を据えてみたいと構想した」と書いていらっしゃいます。そして、田村さんご自身がこの中に書いていらっしゃることは「シンポジウムで初めて出会った人たちの、この悲惨で不当に扱われている被害者の問題を放置できないという人間としての思いに立った、いわば個人的なレベルでの行動の重要性を思わずにはいられない。自分も警察という組織に身を置く人間であるが、幾つかの偶然による人との出会いの中で、組織人としての立場だけではなくて、一人の人間としてのいわばボランティア的な気持ちから被害者支援に携わってきたように思う」このようにお書きになっていますが、私はこの考え方こそが、被害者支援あるいは被害者に接する時の基本的なものだと考えています。

 私は、そのシンポジウムの時に、被害者支援が行われるのであればどんな協力でもしますということをお約束しましたので、出会った皆さんが少しでも被害者支援を広めることができればということで、私にできることを考えた時には、メディアにお願いをして被害者問題を取り上げてもらうことでした。でも、メディアに出て訴えた時、公務員である私は「公務員という看板を背負っているということを忘れないように、公務員は目立ってはいけない、早く忘れなさい」そういうことを言われて、立ち上がれなくなるという日が幾つもありました。でも、そんな時はなぜかいつも田村さんから手紙とか資料が送られてきて、警察の施策は今ここまで進んでいますよ、警察官教育の中にも被害者支援の関係を入れましたよ、そんなふうに教えてくださったんですね。ですから、どのような二次被害を受けようが、国の中央にいる人が「あなたは間違っていない」というように考えてくださって見守ってくださっているということを感じ取ることができましたので、私は多分今まで、今日まで声を上げ続けることができているのだと思います。

 新しくできましたこの犯罪被害者等基本法の中では、犯罪被害者への支援は国、地方公共団体および国民の責務であると定められたということを考えますと、この十数年では本当に隔世の感を感じています。その一方で、私自身も仕事が忙しくなり、なかなか、仕事をとるのか、被害者支援を行うのか、悩む時期もありました。でも、仕事は辞めました。それは、息子の無念さを考えた時、あるいはいつも支えてくださった関係者の皆さん、あるいは惜しみない支援をくださったアメリカやイギリスの支援組織の皆さんの頭の下がる活動を考えますと、未だ適切な支援を受けることができない日本の被害者の方に被害直後から支援を提供することができるような社会にするために、保健師としての力を尽くすということが自分の役割なのではないかと考えまして、約30年ほど勤めた公務員を辞めまして、山上教授が作ってくださった犯罪被害者相談室が、警視庁の協力を得て被害者支援都民センターとなりました平成12年から、被害者支援に専念をしてきました。

 被害者支援センターでは当然、被害者の方に被害直後から適切な支援を提供するということが主な仕事です。それでも、被害者の方たちに一番適した支援はどういうものなのかということをきちっと把握をしておくために時々調査研究も行っております。皆様のお手元のレジュメ[PDF:260KB]の2ページにはその調査結果が出されていますので、それをどうぞ参考になさってください。これを見ていただきますと、被害に遭った後、被害者の人たちは収入が減ったり、あるいは交通費、裁判に行く時の費用などで多大な負担を感じ、そして家事とか育児もできなくなってしまう。仕事も続けられなくなってしまう。日常生活に大きな支障を来している人がたくさんいます。右側のほうの数字が大きければ大きいほど、そのことで被害者は困っているということがご理解いただけるかと思います。心身への影響では、95.5%のご遺族の方が不眠や食欲不振を訴えていますが、実際に医療機関にかかる、相談に行くという方はもっと少ない数字になっています。あるいは、刑事手続上の負担ですね。手続が分からなくて負担、あるいは事情聴取が負担ということも訴えています。その他に、いろいろな手続に行く時への負担、あるいは刑事裁判が近づいてきた、自分の罪を軽くしたいがために加害者から手紙が来たりということで被害者は傷つけられたり、どう対応すればいいのかが分からないということもお分かりいただけると思います。一番下の身近な人との関わり、これはとっても大きなことがあります。被害者が噂を立てられたり、心ない中傷誹謗を受けて、そこに住んでいることさえ困難になってしまうというようなこともあります。こういうことは事件後更に傷つけられることということで、二次被害と言っています。

 それでは、次のレジュメ[PDF:260KB]の3ページをご覧ください。こちらのほうには具体的な二次被害を、事件に遭った後どのような順番に被害に遭うのかということを時計回り順に示してみました。捜査とか公判の過程における配慮ですね。刑事司法そのものが被害者にとってはある意味二次被害になります。それはレジュメ[PDF:260KB]1ページにありますように、回避症状や過覚醒とか、つまり、事件のことを聞かれるだけでもう一度傷口を開かれる、だけれどもそれに協力しなければということで精いっぱい被害者は協力をしているわけです。それと、事件直後にすぐに「今どう思いますか?」と聞かれても、聞かれたことの意味も理解できません。そうすると、数カ月、数年経ってから「あの時適切に言えなかった。本当は怒っているということを伝えたかったのに、伝えなかった。伝えられなかった自分は駄目な自分」ということで、後悔することにもなってしまいがちです。最近はメディアスクラムといいまして、事件直後に押しかけられて、外へ出ることができなくなったり、他に子供がいれば、学校へも行けなくなったりということがよくあります。あるいは、どちらかと言いますと、加害者は捕まった直後から弁護士さんが付きますので、弁護士を通して、加害者が自分の罪を軽くしたいがために、一方的な加害者の言い分だけが流されてしまう。そうしますと、間違ったことだけが一般住民の中に伝わってしまいますので、被害者であるにも関わらず肩身が狭くなってしまうということがあります。

 被害者は被害を受けたショックが大き過ぎて、被害者の気持ちをメディアに伝えることさえできません。呆然自失状態の中では、何を伝えればいいのかも分からないんですね。余りにも大きく何回も報道されますと、例えば名前とか住所が地域の人たちに記憶として残ってしまうことがあるんですね。 これはある事件の方の例なんですけれども、新聞・テレビが連日のように取り上げた結果、そのご遺族の元に知りもしない人間が突然訪ねてきて、供養したいのでお骨を分けてくださいとか、あるいは、家の前で、車で乗りつけて酒盛りをしたり。考えられますでしょうか。でも、現実にそういうことが起きているんです。あるいは、たくさんのメディアが押しかけた後、たばこの吸い殻が捨ててあったり、夜、ライトをつけられたりします。一斉にメディアの方が引き揚げた後、被害者の人が、辛い心境なのに、隣近所を回って「お騒がせして申し訳ありませんでした」と謝ったり、たばこの吸い殻を拾って歩いたりしなければいけないこの現実が報道を通して伝わったことがあるでしょうか。まだまだ被害者にとっては正しく被害者の現状が伝わるということが少ないように感じています。

 それと、左下の家族間の不和とか虐待ですね。多くの皆さんは、家庭というものは、家族というものは、何かあった時、お互いに助け合うということがあるべき姿だとお思いかもしれませんけれども、被害者の家族は辛過ぎて、それぞれがもう目いっぱいで、他の家族を思いやるということができなくなってしまいます。そのために結構感情をぶつけ合ったりして、家族同士傷つけ合って家庭崩壊をしてしまうっていうことも不思議ではありません。そして、もしそういう家の中に小さな子供や思春期の子供がいればどうでしょうか。親の怒りをぶつけられてしまって、私が誰々ちゃんの代わりに死ねばよかったんだよねっていうような声をついつい出させるように子供を追い込んでしまうということがよくあります。ある5歳の子供さんの下にいた小さな子供さんを亡くされたお母さんですが、子供さんが保育園に行かなくなったので、理由を聞くと小さな子供が「お母さんが毎日毎日泣いているので、私がお母さんのそばにいてあげなければいけないから、保育園になんか行けない」そんなふうに健気なことを言っていました。それから何年も経ち子供さんも大きくなって、小学校に上がるようになりました。このお母さんは小学校から呼び出され「お宅の子供さんは同じクラスの子供を罵倒したりする。感情がカーッとなって怒鳴ったりする」と言われ詳しく聞いてきたそうです。そうしましたら、担任の先生から言われたその言葉、怒鳴る内容、まさにご自分たち夫婦が、事件直後どうすればいいか分からなくて、苦し過ぎてお互いに怒鳴り合っていた言葉そのものだったそうです。それを聞いて暗澹としてしまって「この子はこれから先、まともに育っていくんでしょうか?」ととても心配をなさっていました。

 このように、被害者の家の中で育つ子供たちは学校に行かなくなったり、家庭内暴力に走ったり、非行に走ったりということになりがちです。そしてきょうだいを亡くしていますと、きょうだいが亡くなったのに、残された自分だけが幸せになってはいけないというようにどこかでブレーキが働いてしまって、なかなか結婚をしなかったり、仕事についてもなかなか人間関係が上手くとれなかったりというような大きな問題を抱えています。基本計画の中でも、是非この犯罪被害者の子供たちが抱える問題、そしてその対応策、それは考えていただきたかったんですけれども、なかなかそこまでは盛り込んでいただけなかったということがとても気がかりなこととなっています。

 それと、生活にも困ってしまいます。未成年の子供が親御さんを殺されましたので、アパートを出されてしまいました。この子供が「加害者は捕まったので、雨露しのげ、ご飯も食べさせてもらえる。病気になれば治療もしてもらえる。刑務所で働けば賃金ももらえると聞いている。そんなことで本当に反省できるんだろうか。私は今アパートも出され、お友達の家に置いてもらっている。これから児童相談所に送られて、どこかの施設に送られることになる。こんな状況の中で自分の将来なんかは考えられない。18歳になれば、施設も出されてしまう」と言っていました。被害者支援センターでは経済的支援ができるわけでもなし、手厚い支援をずっと行うこともできません。そういう点では、自治体には何らかの施策があるかと思いますので、ぜひ適用していただければということを感じています。

 あと、司法関係者の配慮に欠ける対応ということにも大変傷つくことがあります。やはり被告人には弁護士さんが付きますので、罪を軽くするために、被害者にも落ち度があったということを作り上げられるということがよくあります。あるいは、この証拠こそ裁判の場で開示をしてしっかりとした判決を出してほしい、そう願っても、同意されないと本当の真実がそこに出ないまま判決が出てしまうということもあります。被害者の名誉が傷つけられたり、様々なことがあるんですが、被害者は刑事裁判の場ですべての証拠を出して、被告人には犯した罪に応じた罰を与えて欲しいと心から願っているんですが、そうではないということがよくありますね。これは私自身が自分の裁判で、刑事裁判はどういうものなのかと正直に感じたところは、刑事裁判は被告人の更生・社会復帰のためにあるんだということを何回も思い知らされたということがあります。これからの被害者の人は、参加制度も始まりますので、そんな無念な思いを一生抱えたまま、遺された遺族が一生を終えなければいけないような、そんなみじめな状況には決して置いていただきたくない、そのように心から願っています。

 それでは、実際に被害に遭った被害者の方にはどういうような支援があればよいのかということを4ページに載せてみました。先ほどの二次被害の太字の部分と、この被害者支援に必要な支援ということでの太字の部分を比べてみてください。ほとんど同じような項目が揃っていると思います。ということは、被害者に二次被害を与えるのも人なんですね。でも、人は、温かい血の通った人がいつも近くにいて必要な対応をしてくださったということが、被害から回復する時にはとても大きなものがあるわけです。先ほど、捜査関係者の対応が、実は刑事司法そのものが被害者に二次被害になると言いましたが、そういう面もある反面、それが被害者にとってとても大切な支援になるということもあります。つまり、被害者は事件のことを聞かれるということは、もう一度傷口を開くことによって、とても苦しいことです。けれども、それはその被害者に起きたことなので、それを無かったことにはできないわけです。それをしっかりと受けとめて、これから先の人生をもう一度作り上げていく時には、辛くても苦しくても、どういう被害に遭ったのかということを被害者自身が受けとめるということが大事になるわけなんです。

 これもある被害者の方がおっしゃっていた言葉です。警察とか検察で被害者としての心情を、あるいは事件に関することを聞かれ時、ある警察官の方はその被害者の心情とか体の具合に配慮をしながら司法のこと、あるいは刑事手続の流れ等について被害者は、知らないということを十分理解した上で、繰り返し繰り返し情報提供して、聞く理由も説明しながら聞いてくださったそうです。さらに、体調に考慮して一挙に何時間もではなくて何日にもわたって聞いてくださったそうです。そのお陰で、感情とか感覚の麻痺が少し取れて、事件の後、記憶が途切れていたところがたくさんあったんだそうですが、その途切れていた部分が回復できて、自分はどういう状況で、どういう被害に遭って今があるのかということを思い出すことができたそうです。そして、この被害者の方は、「あの時警察の人が丁寧に丁寧に聞いてくれたことが被害回復に大きく役に立った。あの人が恩人ですよ」そんなふうにおっしゃっていました。同じ警察の方であっても、これだけ聞かなければという形だけで聞いた人と、心を込めて、相手のことも考えて聞いた人では、全然違うんですね。ですから、これは関係機関の方にも共通のことです。仕事だから、立場だからということで聞いただけでは被害者は分かってもらえたという気持ちは持つことができませんので、二次被害になってしまいがちです。それぞれが心を込めて、一人の人間として、先ほどの田村さんが被害者支援に関わる時にいつも考えながら関わってきてくださった、その基本ですね、そこを考えながら接していただければ、被害者に二次被害を与えるということはないと思うんですね。よく被害者にはどういう言葉をかければいいんですか、どういう態度がいいですかと聞かれますが。その答えは一つです。「マニュアルはありません。その時心の中に思ったこと、被害者を目の前にして感じたこと、それをしっかりと伝えて、そしてプロとして仕事をしてください」と、それしかないんですね。

 被害者支援都民センターでは19年だけではなくて13年にも調査をした結果で被害者遺族が必要とした支援の一つは、やはり自宅訪問したり、警察、検察、裁判所などへ付き添う時に行う直接的支援と言われているものですね。呆然自失の被害者は、実は被害者自身、何が自分に必要なのかが分かわかりません。ですから、被害者の回復を念頭に置いて、被害者に必要なことを実際に具体的な行動として行うということが必要です。二つ目は情報提供ですね。司法のことも何も分かりません。分からないが故に、質問もできないんです。参加制度も始まります。刑事司法に参加できる、そういう制度がありながら、それに参加できなかったということを後で知ってしまった場合は、被害者はとても後悔をして、被害回復にも影響が出てくると思います。でも、不安を抱えながらでは参加ができませんので、安心をして参加ができるような環境を整えるということがすごく大事だと思っています。三つ目は精神的支援ですね。この精神的支援はただ単に話を聞くだけでは足りません。被害後出てくる、レジュメ1ページにあるような様々な症状は、被害に遭えば当たり前に出てくること。「あなたが弱いからではない」ということをしっかりと伝えて、被害者自身が失ってしまった安心感とか安全感をもう一度取り戻して、もう自分なんかどうなったっていいと思ってしまうようにものの考え方が歪んでしまうんですけれども、その歪みを直して、自尊心を取り戻して、新しい生き方が考えられるように回復することができる精神的な支援でなければなりません。四つ目は、被害者同士が集まる自助グループですね。仲間がいるというだけでも、孤立感から抜け出すことができますし、一言でわかり合える安心感は回復にとても大きなものがあります。五つめは経済的な支援です。被害から年数が経てばたつほど経済的に困窮するということが被害者支援都民センターの調査で明らかになっています。

 それでは、被害に関わる人たちの基礎的な対応ですね。どのようにあればよいのかということですけれども、なるべく早く被害者のもとに出向いて、そしてその被害者の心理状態ですとか家族状況、被害に遭う前の生活状況や経済的な状況を把握して、被害からの時間の経過も考えて、回復に必要な支援を支援する側として適切に判断をして、周りの人たちとの関係も視野に入れて、被害者が今ある既存の制度や施策を利用することができるようにするということがとても重要なことだと思っています。そのためには多くの関係機関と有機的な連携を図らなければ、十分な被害者支援を行うことができません。身近な自治体には、被害者が必要としている様々な制度や施策がもう既にあるはずです。ですから、被害者支援の担当部署をしっかりと決めて、専従の担当者を置いてください。そうでなければ、被害者はあちこちたらい回しをされるということになってしまいます。被害に遭えば、その日から寝る場所もなくなります。凶器がナイフであったり包丁であったりすれば、恐怖感から、それを持つこともできないので、家事もできないわけです。混乱していれば、窓口に行っても、あっちへ行きなさい、こっちへ行きなさいと説明されても、精神症状の特徴の一つとして、記憶ができないということがありますので、是非生活再建や、被害者が社会復帰できるように、担当窓口、専従職員を置いて、被害者の負担を軽くしてください。

 それと、被害者が要望する支援は多岐に渡っています。それはレジュメ[PDF:260KB]の2ページを参考にしていただければ分かると思います。多岐にわたるということは、それだけたくさんのことで苦しめられているということにもありますので。それと、そのためにはいろいろな制度が、例えばこれは被害者に適用できないのではないか、あるいは条例に無いのではないかなどと考えずに、1人の被害者の方が出れば、条例を改正して、被害者も使えるようにしていただきたいと思うんですね。それと、被害者に身近な行政機関としても適切な支援を行うことができるように、被害者支援ができるコーディネーターとか専門家を是非育成していただきたいと思います。特に犯罪被害者に接することの多い病院ですとか精神保健福祉センター、保健所、児童相談所などにおきましても、先ほど子供の調査も行われていないということをお話し申し上げましたように、そのような調査も行うとともに、そこで働く職員の研修も是非お願いをしたいと思っています。専門家を増やしてください。本当に圧倒的に人が足りないというのが現状だと思います。また、自治体といたしましては、新採用時、あるいは役職に就くその段階、段階の研修の中に被害者支援ということを入れていただきたいと思います。

 それと、被害者に二次被害を与える一番多いのは隣近所の人からという調査結果も出ていますので、被害者がその地域に住み続けることができるような地域社会を是非作り上げていっていただけるようにお願いをしたいと思います。被害者の現状が伝われば、良識ある人々には理解をしていただけるのではないでしょうか。そのためには自治体、自治会ですとか地域住民のみならず、社会教育、あるいは民生児童委員、教職員の方も含めた広報啓発活動を広くお願いしたいと思っています。また、こちらにも福岡の支援センターがあります。多分どこも財源難、人材難に苦しんでいると思いますので、是非人材派遣あるいは財政的な面を恒久的に支援していただければと思います。それと、連絡会議もあると思いますので、もし被害者の方がいるということが分かるのであれば、是非その方をサポートするような体制を作り上げて、安心して被害者の方がそこで住み続けることができるようにしていっていただきたいと思います。被害者は悪いこともしていないのに、買い物に行く時には帽子をかぶって、眼鏡をかけて、マスクをして、だれも来ない所にコソコソと行かなければいけない。これはどう考えてもおかしいのではないでしょうか。

 また、レジュメ[PDF:260KB]の5ページには、被害者の方に接する時、こういうことに気をつけて欲しいということを一覧表にしましたので、またどうぞご覧になってください。これは犯罪被害者だけではなくて、ご自分に何か問題を抱えている人、病気になった人、あるいは何か困っている人にも通用する接し方です、今後、喪失体験者に接する時に、どうぞ参考にしていただければと思います。

 最後に皆様にお伝えしたいことは、犯罪被害者が受けた衝撃は脳に深く刻まれて、一生消えません。それでも、被害直後から適切な支援を受けることができて、温かい人もいるんだということが分かれば、再び希望を持って生きていくことができるようになります。そして、社会に対しても分かって欲しいということで声を上げることができるようになります。その被害者の声を受けとめて、変われる社会というのは、誰にとっても安全で、安心をして暮らせる社会なのではないでしょうか。欧米先進国では、犯罪被害者への支援の充実度は、その国の文化のレベルと社会の成熟度を示すと言われています。日本の社会も、誰でも、いつどこに住んでいても、被害直後から途切れることのない支援を、被害者が望むところで受けられる社会にして、私達の子供や孫が安心をして暮らせる社会を築いていくということがこの被害者支援の基本的な考え方でもあると思っています。そのような社会にするためには、ここにお集まりの皆様の協力なくして実現することはできません。希望の持てる社会づくりのため、関係機関として、自治体として、地域住民として、被害者支援を広めるためにお力添えをお願いして、私のお話は終わらせていただきたいと思います。

 それともう一つ、皆様のお手元に、『もう一度会いたい』という被害者支援都民センターに集う自助グループの皆さんが1年に1回出しています手記集を入れさせていただきました。是非お読みいただければと思います。

 それでは、少し早口で、是非お伝えさせていただきたいということをお話しさせていただきました。これで私のお話は終わらせていただきたいと思います。ご清聴どうもありがとうございました。

 

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