第7章 公安の維持

1 「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を強める極左暴力集団

(1) 極左暴力集団の動向
 極左暴力集団の勢力は、昭和49年以来全国で約3万5,000人と横ばいのまま推移している。
 こうしたなかで極左暴力集団は、前年に続いて爆弾事件や内ゲバ殺人事件を引き起こしたのをはじめ、53年最大の闘争課題として取り組んだ「成田闘争」では、多量の火炎びんのほか、荷台に積載した大量の火炎びんを炎上させた火炎自動車や時限発火装置を付けた火炎びん等を使用しての空港関連施設や警察部隊に対する襲撃等の悪質な「ゲリラ」事件を多発させるなど、「テロ」、「ゲリラ」本格化への指向を強めていることが注目された。
(2) 最大の闘争課題となった「成田闘争」
 極左暴力集団等は、「成田闘争」を昭和53年最大の闘争課題に掲げ、現地に延べ約14万5,000人、そのうち22回の主要闘争に約5万人を動員して集会、デモを繰り広げるとともに、前年を大幅に上回る121件の「ゲリラ」事件を敢行した。
 「成田闘争」は、1月の「幕張駅工事阻止闘争」が皮切りとなったが、極左暴力集団等は、開港阻止闘争の前しょう戦となった「横堀要塞闘争」(2月)では、同要塞に妨害鉄塔を建てて立てこもり、差押えに当たった警察部隊に対して多量の火炎びんを投てきするなどの妨害行動を繰り広げた。さらに、3月1日の「ジェット燃料輸送実力阻止現地総決起集会」において「無制限ゲリラ」による「3.26~4.2開港阻止決戦」の方針を打ち出し、空港関係施設等に対して次々に襲撃を敢行した。
 そして、開港日(3月30日)を目前にした「3.26開港阻止闘争」では、極左暴力集団等は、約1万人を動員して闘争を繰り広げたが、このなかで第4インター日本支部を中心とする約300人が改造トラックや火炎自動車を使用して空港構内に侵入するとともに、別働隊十数人が管制塔に乱入して機器類を破壊し、このため開港が一時延期された。
 また、極左暴力集団は、3月26日を中心に「航空保安協会研修センター放火事件」等の「ゲリラ」事件を敢行するとともに、再度「横堀要塞」に妨害鉄塔を建てて立てこもり、多量の火炎びんや石塊の投てき、大型パチンコによる鉄矢での攻撃等、4日間にわたって過激な妨害行動を繰り広げた。さらに、極左暴力集団等は、新たな開港日となった5月20日、再び約7,000人を動員して過激な闘争を繰り広げるとともに、「東京航空交通管制部ケーブル切断事件」等悪質な「ゲリラ」事件を多発させた。開港後は、闘争目標を「完全廃港」に切り替え、反対同盟が設定した2次にわたる「100日闘争」に取り組み、全国動員による現地闘争をはじめ、気球の浮揚等飛行妨害を企図した「週末行動」を展開した。

 このように極左暴力集団等は、「成田闘争」において数多くの不法事案を引き起こしたが、このなかで、特に6月27日の北総浄水場に対する農薬投入事件は、同浄水場が周辺の一般家庭用水として利用されていることから、無関係な多数の市民の生命を危険に陥れた極めて悪質な「ゲリラ」事件として注目された。

(3) 爆弾事件の動向
 最近5年間の極左暴力集団による爆弾事件の発生の推移は、図7-1のとおりで、昭和53年の爆弾事件は、1月1日、東京都板橋区内で誤って爆発した「寿荘爆発物事件」1件にとどまった。この事件の被疑者は、51年7月の「爆発物所持事件」の被疑者として岐阜県警察で手配中のAと、その内妻Bの両人であることが判明し、また、Aは、52年10月の「東京・神社本庁爆破事件」の被疑者であることも明らかとなり、53年1月、両人を全国に指名手配して捜査を継続中である。

図7-1 極左暴力集団による爆弾事件発生件数の推移(昭和49~53年)

(4) 減少した内ゲバ事件
 極左暴力集団の内ゲバ事件は、昭和44年から53年末までに、1,864件発生し、死傷者は、4,497人(うち、殺人事件53件、死者64人)を数えているが、最近5年間の発生状況は、図7-2のとおりである。

図7-2 内ゲバ事件発生状況の推移(昭和49~53年)

 53年の内ゲバ事件は、全国で32件、死者7人、負傷者45人であり、前年(発生41件、死者10人、負傷者47人)に比べ件数、死傷者ともそれぞれ減少し、これまでの最低となった。
 53年の内ゲバ事件をセクト別に分析すると、図7-3のとおりで、極左暴力集団相互間が25件(78.1%)と最も多く、そのなかで革マル派対中核派が12件(37.5%)、革マル派対革労協が8件(25%)と、この3セクトで全体の半数以上(62.5%)を占めている。

図7-3 内ゲバ事件のセクト別発生状況(昭和53年)



 また、極左暴力集団が大学の拠点化に力を注いだことから、「横浜国立大構内内ゲバ殺人事件」(9月、神奈川)等大学構内における内ゲバ事件の発生が目立った。
 内ゲバ関係主要セクトは、「糾察隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア統一戦線戦闘団」(革労協)等の訓練された非公然軍事部門を擁し、これらが中心となって組織的、計画的に内ゲバを敢行している。
 内ゲバの手段、方法は、犯行の直前に対象アジト周辺の電話線を切断し、4箇所を同時に攻撃して3人を殺害した「水戸市、勝田市内内ゲバ殺人事件」(1月、茨城)にみられるように悪質化している。
 さらに、こうした内ゲバでは、専門の調査隊が攻撃対象者の動静等について尾行、張込み、偽電話、電話盗聴、資料の窃取等あらゆる方法を用いて周到綿密な事前調査を行い、犯行に際しては、盗んだ車両等に巧妙に偽造したナ

ンバープレートを取り付けて偽装するなどの巧妙な方法が用いられている。
 このような内ゲバに対処するため、関係セクトは、活動家の地下潜行やアジトの非公然化を進めるなど、組織の防衛に力を注いでいる。
 警察は、こうした内ゲバ事件に対して全力を挙げて必要な警戒態勢をとるとともに、関係機関や市民への協力を呼び掛けて事件の未然防止に努めている。
 また、事件の発生に際しては、捜査を強力に進め、53年には、「大阪市都島区内内ゲバ殺人事件」(2月)の被疑者を含め、31人を検挙した。
(5) 国内各届との連帯をねらう「日本赤軍」
 「日本赤軍」は、我が国の革命を成し遂げることが同時に世界革命への道につながるとの観点から、我が国の革命闘争に向けた基盤作りを企図して「手紙作戦」等の活動を展開した。
 すなわち、「日本赤軍」は、昭和53年6月に「9.28日航機乗っ取り事件」(52年の「ダッカ事件」)のとう乗客や在監中の極左暴力集団関係者等に対し、手紙を送付して「日本赤軍」との団結を呼び掛けるとともに、数回にわたって「階級的団結へ前進を」、「3.26三里塚に感激」、「ダッカ闘争1周年によせて」等国内の幅広い階層との連帯をねらった声明を発表するなど、国内各層に対する働き掛けを行った。
 また、国内の支援、同調グループの組織体制も次第に整ってきていることがうかがわれた。

2 党立て直しに取り組んだ日本共産党

(1) 波紋を呼んだ「袴田問題」
 日本共産党は、昭和52年10月の第14回党大会で「民主連合政府」構想を軌道に乗せ直すための諸方針を決定し、53年を党立て直しの初年度としてそのための諸活動に踏み出そうとしたが、袴田里見前副委員長の除名が「袴田問題」として大きな反響を呼び、その影響もあって党活動を立て直すことができなかった。
 袴田氏は、党最高指導部にあって党を動かしてきた実力者であり、宮本委員長とは緊密な関係にあるとみられていただけに、突然の除名発表(1月4日付け「赤旗」)は、各方面に大きな衝撃を与えた。
 その後も、週刊誌に袴田氏の手記が発表され、また、同氏が各種マスメディアの取材に応じて「宮本指導部」に対する攻撃を行い、一方、日本共産

党も連日にわたり同氏に対する攻撃キャンペーンを展開したことから、その波紋は党内外に広がった。
 このため党中央は、各種の党会議等を通じて「袴田問題」についての党の方針を伝え、下部党員の動揺防止に努めるとともに、「赤旗」拡大を中心とする各種「月間」を設定して党活動の立て直しを図ったが、党員の活動は停滞し、党活動は低調のまま推移した。
 このような情勢のなかで行われた京都府知事選挙と横浜市長選挙では、日本共産党は独自候補を擁立して闘ったが、いずれも敗北に終わった。
(2) 党立て直しのための諸方針の決定
 日本共産党は、こうした党内外の情勢を打開するため、5月に第4回中央委員会総会を開催し、党活動を総括するとともに今後の活動方針を決定した。
 このなかで注目されたのは、学生党員、民青同盟の幹部党員に対し、必読重要文献としてマルクスの「資本論」、レーニンの「唯物論と経験批判論」、宮本委員長の「日本革命の展望」の3文献を読了すべきことを決定したことである。この決定は、学生党員、民青同盟員に対し、マルクス・レーニン主義と日本共産党の基本路線を学ばせ、社会主義の優位性と社会主義革命の展望に確信を持たせるためとみられるが、党の「独習指定文献」のなかでも特に重要なものとして、「敵の出方」論に立つ暴力革命の方針や「プロレタリアート独裁」の方針が明示されている宮本委員長の「日本革命の展望」の学習強化を指示したことは、日本共産党が基本的性格と基本的革命路線をいささかも変えていないことを示すものとして注目された。
 しかし、相次ぐ「月間」の設定等により、党内には、逆に、党中央に対する批判、不満の空気が広がり、特に、過重な党活動を行っている学生党員等の間で、「学生本来の勉強ができない」などの不満が表面化するとともに「民主集中制」の緩和を要求する田口富久治名古屋大学教授らの主張に同調する動きもみられた。
 このため日本共産党は、9月に第5回中央委員会総会を開催し、学生党組織、学生党員の党生活、党活動等を改善するための新しい活動方針を示して党内の不満解消を目指すとともに、「民主集中制」を弱めようとする「日和見主義」の克服を指示した。
 また、年末に行われた諸会議では、次期統一地方選挙を「絶体絶命」の政治決戦ととらえ、東京、大阪の両知事選挙を最重点として、党の総力を挙げて取り組むこととした。
 このように日本共産党は、党立て直しのための諸方針を打ち出したが、党勢の面では、党員数は約40万人、「赤旗」の購読部数は300万部以上と発表されており(12月2日付け「赤旗」)、第14回党大会時と比べると、党員は横ばい、「赤旗」は20万部程度減少したものとみられる。
(3) 国際連帯活動
 日中両党関係は、中国共産党が日米安保条約支持の態度を表明し、日本共産党の綱領の基本路線を真っ向から否定するなど、厳しい対立関係が続いた。そのことは、鄧小平中国副首相の来日に伴い行われた10月24日の国会関係のレセプションに日本共産党が欠席し、一方、翌25日の鄧小平中国副首相の答礼晩さん会に日本共産党が招かれなかったことに端的にうかがわれた。
 他方、日ソ両党関係は、昭和51年2月と52年1月に両党代表が会談を行うなど関係正常化への動きをみせたものの、その後冷却状態に逆戻りしていたが、53年10月にソ連共産党から宮本委員長の古希を祝う祝電が寄せられ、また、12月にソ連共産党機関紙「プラウダ」が日本共産党の活動を高く評価する論文を掲載するなど、再び関係正常化への兆しがみられるようになった。

3 多様化する大衆行動

 左翼諸勢力等は、「成田闘争」、「有事立法反対闘争」をはじめ、「むつ闘争」、「原発、火発闘争」等の「公害闘争」、「基地、自衛隊闘争」、「生活防衛闘争」、「同和行政闘争」等多様な形で大衆行動を展開した。
 昭和53年の大衆行動には、全国で延べ約617万3,000人(うち、極左系約22万1,000人)、中央で延べ約78万4,000人(うち、極左系約8万6,000人)が動員された。
 こうした大衆行動に伴って各種の違法行為がみられ、傷害、公務執行妨害、威力業務妨害、火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、航空法違反等で964人を検挙した。
(1) 「成田闘争」
 新東京国際空港は5月20日開港したが、極左暴力集団等は、昭和53年最大の闘争課題として「成田闘争」を組織し、「横堀要塞闘争」(2月、3月)をはじめ、「3.26開港阻止闘争」、「9.17成田現地闘争」等多くの現地闘争に取り組んだほか、火炎びん、時限式発火装置を付けた火炎びん、劇薬等を使用して全国13都府県で121件に上る「ゲリラ」事件を敢行した。
 千葉県警察では、全国の機動隊、管区機動隊等の応援を得て空港等の警戒警備に当たったが、関係都道府県警察においても、所要の警備措置を講じてジェット燃料輸送警備、航空交通管制施設等の重要防護対象警備等必要な警戒警備に当たり、これらの警備において、極左暴力集団等368人を公務執行妨害、火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反、航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律違反、航空法違反等で検挙した。
 この間、6月29日、ジェット燃料輸送警備に当たっていた警察官がヘリコプター墜落事故で殉職したのをはじめ、一連の成田闘争警備で272人の警察官が負傷した。
 なお、4月4日の新東京国際空港関係閣僚会議において、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」が決定され、同空港の警備に当たる空港警備隊設置の申合せがなされた。
 これを受けて警察庁及び千葉県警察では、恒常的な空港警備体制の確立を図るため関係法令等の改正を行い、7月18日、千葉県警察に新東京国際空港警備隊(昭和53年度、定員1,300人)を設置した。
(2) 「むつ闘争」
 原子力船「むつ」は、原子炉の改修等のため10月、青森県むつ市の大湊港を出港し、日本海経由で長崎県佐世保市の佐世保重工KK甲岸壁に接岸した。
 これに対して、社会党、総評系労組、極左暴力集団等の反対派は、むつ市、佐世保市等において16回にわたり延べ約3万6,000人を動員して反対行動を組織した。特に、10月16日の「むつ」佐世保入港に際しては、佐世保市内に約4,600人を動員して集会、デモを行う一方、海上に小型船舶70隻を動員して佐世保湾口付近から甲岸壁までの間、「むつ」の前方直近を航行するなどの阻止行動を展開した。
 長崎県警察及び青森県警察では、「むつ」関係議案審議時における長崎県議会、佐世保市議会の警備、長崎、佐世保、むつ各市内での集会、デモの警備等所要の警備措置を講じ、警戒警備の万全を期した。
(3) 「公害闘争」
 「公害闘争」では、原子力発電所、火力発電所、鉄道、道路等の建設反対闘争のほか、下水、し尿、ゴミ等の終末処理場建設反対闘争等が目立った。
 特に、「原発、火発闘争」において14件の違法事案が発生したが、なかでも、4月の北陸電力七尾火力発電所建設のための海面埋立工事の着工に際し、反対派は労組員等約700人、漁船30隻を動員し、海陸一体となって反対行動に取り組み、北陸電力側の作業船を包囲するとともに、作業員等に暴行を加え、3人に重軽傷を負わせるなどの違法事案を敢行した。
 これらの違法事案に対し、関係都道県警察では威力業務妨害、公務執行妨害等で59人を検挙した。
(4) 「同和行政闘争」等
 部落解放同盟等の部落解放運動関係団体は、昭和54年3月までの限時法であった同和対策事業特別措置法の強化延長要求や、各種の「行政闘争」を活発に展開し、こうした過程で関係団体間の対立抗争や、自治体関係者等に対する暴行事件等21件の違法事案が発生した。
 関係府県警察では、所要の警備措置を講じ、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で73人を検挙した。
 一方、部落解放同盟、極左暴力集団等は、延べ約6万8,000人を動員して「狭山闘争」に取り組んだ。
 関係都府県警察では、集会、デモ警備等所要の警備に当たり、違法デモを規制中の警察官に対し暴行を加えるなどした極左暴力集団等55人を公務執行妨害、公安条例違反等で検挙した。
(5) 「反戦・平和運動、基地闘争」
 昭和53年も「4.28闘争」、「5.15闘争」、「6.23闘争」、「10.21闘争」等の各記念日闘争を節とする集会、デモ等の「反戦・平和運動」が展開された。
 例年最大の柱となっている「10.21闘争」では、「有事立法問題」もあって、全国で約23万4,000人が動員され、前年を約4万人上回った。
 関係都道府県警察では、これら記念日闘争において、極左暴力集団等31人を公務執行妨害、傷害等で検挙した。
 一方、「基地闘争」は、米軍、自衛隊の実弾射撃演習、基地跡地利用、自衛隊観閲式等に対する反対闘争を中心に全国で延べ約31万1,000人が動員されて取り組まれたが、「有事立法問題」等により高揚し、その動員数は前年の延べ約16万1,000人を大きく上回った。
 これらの「基地闘争」をめぐって公務執行妨害、傷害等で65人を検挙した。

4 厳しい経済情勢下の労働運動

 昭和53年の春闘は、円高、不況の厳しい経済情勢の下で行われた。
 国民春闘共闘会議は、53年春闘に当たって、減税、雇用保障等と「最低12%程度(要求基準)の賃上げ」の実現を目指し、2月下旬から5月下旬までの3箇月間に、6次にわたる「全国集中行動期間」を設定した。この間、4月段階では、3波の「全国統一ストライキ」を実施し、最終段階には、全逓を除く国労、動労等の公労協が、賃金決着を目指して「96時間の統一ストライキ」を構え、4月25日と26日の2日間、違法ストライキを実施した。このため、国鉄ダイヤが乱れるなど国民生活に大きな影響がみられた。
 秋季年末闘争では、総評は、税制、雇用問題や有事立法反対等に重点を置き、「行動する秋闘」として、集会、デモ、請願等を実施した。
 こうしたなかで、自治労は「賃金確定」等の問題で各地において違法ストライキを繰り返し、また、国労、動労が「貨物合理化反対」等で違法ストライキを実施した。更に全逓は、「マル生反対闘争」で違法なサボタージュ等を実施し、このため、年賀状の配達が大幅に遅れるなどの影響がみられた。
 このようななかで、53年には労働争議や労働組合間の組織対立等をめぐって369件の労働事件が発生し、警察では、図7-4のとおり暴行、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で352件、572人を検挙した。

図7-4 労働争議等に伴う不法事案検挙状況(昭和49~53年)

 これら労働事件の特徴を労働組合別にみると、日教組、自治労等の公務員労組では、「主任制反対」、「賃金確定」等を掲げて、全国統一あるいは府県独自で違法ストライキをしばしば行い、また、その規模は、全国統一では短時間であったが、府県独自ストのなかには最高半日に及ぶストもみられた。
 次に、全逓、国労等公共企業体等の労働組合では、労働組合間の組織対立等をめぐる違法事案が依然として続発した。このなかでも特に、全逓、全郵政の組織対立等に伴っての集団暴行事件が53件発生し、傷害、公務執行妨害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で35件、48人を検挙した。
 これらの事件の大半は、全逓労組員によるものであって、全逓が合理化反対闘争でいわゆる業務規制闘争を開始した8月以降にこの種の事件が多発し、特に、「マル生反対闘争」に突入した11月からこれに批判的な全郵政組合員、非組合員及び管理者に対するものが集中的に発生したのが特徴であり、このなかには、自組合への加入説得と称して非組合員の未成年者を連日のように取り囲み集団で暴行を加えるという悪質なものがみられた。
 国鉄関係では、国労組合員が鉄労組合員、管理者及び非組合員に対して暴行を加えるという事件が9件発生し、傷害、公務執行妨害等で8件、8人を検挙した。
 また、民間における労働事件は、前年に比べてやや減少したが、このなかで、全労活(全国労働組合活動家会議)等に所属する反戦派労働者が介入した違法事案が依然として多発していることが注目された。
 これら反戦派労働者が介入した労働争議は、いずれも長期泥沼化の傾向を示しており、この過程で悪質な暴力事件が51件発生し、傷害、建造物侵入等で40件、74人を検挙した。
 このほか、経済不況を反映し、中小企業労組による「背景資本追及闘争」が活発に行われ、親会社や融資銀行等に集団で押し掛け、交渉を要求するといった事案が多くみられ、なかには暴力事件にまで発展する事案もみられた。

5 反体制の姿勢を強め、高揚、激化した右翼の活動

 昭和53年の右翼運動の特徴は、「反体制、国家革新」を標ぼうする右翼が、前年にも増して反体制の姿勢を強めて活動を活発化し、そうしたなかで「大平首相襲撃事件」をはじめとする各種の事件を引き起こしたことである。「反体制、国家革新」を標ぼうする右翼は、52年の「経団連襲撃事件」を契機として、現体制打倒の姿勢を次第に強めているが、53年に入り、特に、若手の新右翼等が、「経団連襲撃事件支援集会」や「日本の安全を守る青年集会」を開催するなどして「同志的結束」を深めた。その過程で3月19日には、学生青年純正同盟員が「YP体制打倒」(ヤルタ、ポツダム体制打倒)を掲げた「防衛大学校卒業式妨害事件」を、12月18日には、国防青年隊員が自民党政治に不満を抱き「為政者をして国体顕現の覚醒を促す」ことを目的として、首相官邸に侵入し、隠し持っていた登山ナイフで大平首相を襲撃するという事件を敢行した。これら右翼の中には、国内混乱期に向けて体制の整備を図るなどの動きがみられたほか、新右翼の一部には、極左暴力集団の理論的指導者太田竜らとの交流を深め、体制変革運動について討論を行うなどの動きもみられた。
 このほか、53年の右翼運動にみられた特徴的動向としては、第1に、日中平和友好条約反対活動を激化させるなかで、政府との対決を強めたことである。右翼は、「日中条約締結阻止」を53年最大の運動課題に取り上げ、鄧小平中国副首相来日時(10月)を頂点に活発な反対活動を展開した。この間、政府、在日中国大使館等に対し執ような抗議行動を繰り返し、多くの不法事案を敢行したほか、尖閣列島に強行上陸して実効的支配をねらうという特異な動きがみられた。その過程で「福田首相殺人予備事件」を引き起こすなど、「テロ」指向の傾向がみられた。
 第2には、元号法制化、国防問題に強い関心を示して活発な活動を行ったことである。右翼は、元号問題を「昭和維新への布石」として重視し、その多くが元号法制化実現国民会議に加盟し、元号法制化実現を目指して活発な取り組みを示した。なかでも、民族派学生青年団体が中心になって、全国各地で県民会議の結成や、地方議会における元号法制化要求決議の促進運動を展開した。一方、元号廃止論者に対する抗議活動を活発に行い、こうしたなかで、毎日新聞社が新聞の年号表示を元号から西暦優先としたことに対して、連日抗議に押し掛けた。また、右翼は、7月の自衛隊栗栖統幕議長の更迭をめぐる政府の態度に反発して批判活動を強めるとともに、有事立法の速やかな実現を要求して、抗議、要請活動を強めた。さらに、有事立法に反対する左翼勢力との対決姿勢を強め、各地で紛争事案が発生した。
 第3には、左翼勢力等との対決姿勢を強め、「ゲリラ」事件を多発させたことである。右翼は、「最近の日共の衰退は、反共運動の成果である」と評価し、「袴田問題」を格好の材料としてとらえ、日共批判の活発な街頭宣伝や、各種講演会に対する抗議行動等の対決活動を激化させた。また、日教組に対しては、教育研究全国集会(1月、沖縄)や、定期大会(6月、北海道)に大量の動員を行って激しい反対活動を行い、特に、定期大会反対活動では先鋭な行動に出て事件を多発させた。一方、社会主義国との関係では、中国に対して、日中平和友好条約反対活動を活発に行い、「中国大使館侵入事件」(10月)を起こしたのをはじめ、鄧小平中国副首相一行の来日中激しい反対活動を行い、同時多発の「ゲリラ」行動を繰り広げ、「東京タワー垂れ幕懸垂事件」(10月)等を敢行した。また、ソ連に対しては、北方領土問題、漁業交渉におけるソ連の強硬姿勢から対決の態度を強め、活発な抗議活動を行い、「ソ連大使館侵入未遂事件」(2月)等を引き起こした。
 このほか、右翼は組織の拡大にも努め、53年には128組織(約2,500人)が結成されたが、これらのほとんどは組織の離合集散や名称の変更にすぎず、全体の勢力は、約600団体、約12万人と、前年に比べ横ばいの結果に終わった。
 警察は、これら右翼の活動に対し、違法にわたるおそれのあるものに対しては、警告、制止等の措置を積極的に講ずるとともに、違法事案に対しては早期検挙の方針をもって臨み、この結果、表7-1のとおり53年に殺人未遂、殺人予備、公務執行妨害、暴行、傷害、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反等で、268件、446人を検挙した。

表7-1 右翼事件の検挙状況(昭和44~53年)

6 スパイ活動等外事犯罪の取締り

 我が国に対する諸外国からのスパイ活動や各種の非公然工作活動は、我が国の国際的地位の向上とともにますます活発化してきている。また、流動化する国際情勢を反映して、我が国以外の国に対するスパイ活動等も我が国を舞台として活発に行われている。
 我が国は、自由主義陣営に属する主要国であることから、ソ連、中国、北朝鮮等の共産圏諸国からのスパイ活動が多くみられ、とりわけ北朝鮮は、日韓両国の交流関係や約65万人の在日朝鮮人に着目して、我が国にスパイを潜入させ、日本に対するスパイ活動はもちろん、韓国に対するスパイ活動及び非公然工作活動を行っており、昭和25年6月の第一次北朝鮮スパイ団事件以来、53年までに37件60人に上る北朝鮮関係スパイを検挙している。
 これらスパイは、直接我が国の政治、外交、防衛、経済等の国家機密、科学技術等に関する情報の収集に当たり、又は、我が国を舞台として第三国に対する同様のスパイ活動や対象国の孤立化、弱体化を企図した非公然工作活動を行っている。
 スパイ活動等を行う工作員は、外交官、特派員、貿易商、技師等といった身分を隠れみのにして合法的に入国するものと、夜陰に乗じて沿岸などからひそかに潜入して活動するものなどがある。さらに、これらのスパイは、金銭欲、異性関係、親族関係等の個人的弱点を巧みに利用して外国人のほか日本人を手先に仕立てる例が多い。これらの手先となった者は、スパイ活動であることを知りながら積極的に加担するものや、無意識に利用されているものもある。しかし、多くの場合、我が国でスパイとして検挙されるのは、出入国管理令、外国人登録法、国家公務員法等の違反が認められた場合であり、我が国には直接スパイ活動を取り締まる法規がないことから、スパイ活動等の実態が顕在化するのは氷山の一角にすぎない。
 このようなスパイ活動は、国家機関が介在して組織的、計画的に行われる

ため、本来的に潜在性が強く、その手口もますます巧妙化してきている。
 一方、南北朝鮮の厳しい対立は在日朝鮮人にもそのまま反映し、北朝鮮系と韓国系の団体相互間等では、各種の行事や北朝鮮船舶の入港等をめぐって、しばしば対立抗争がみられる。
(1) 研究文献等中国流出事件
 昭和53年6月2日、警視庁は、官公庁等の研究機関から非売品の研究資料等を詐取、窃取していた電電公社職員A(45)を詐欺等で逮捕し、さらに、6月14日、これらの資料をAから買い受けていた中国関係書籍商B、C、D、Eの4人を贓物故買で逮捕するとともに、関係帳票等多数を押収した。
 Aらの取調べや押収資料の分析によって、我が国の科学技術等に関する研究資料が長期にわたり系統的に収集され、中国に向けて輸出されていたことなどが明らかになった。
 Aは、37、38年ころ、友人が勤めていた東京都内神田の中国書籍専門店「F書店」(44年倒産)の社長B、輸出担当のCらから、民間企業の技術開発関係の資料を見せられ、「電電公社員ならこんな資料は手に入るでしょう。持って来れば買いますよ。」と相談を持ち掛けられた。Aは、小遣い銭かせぎという軽い気持ちで承諾し、初めは手に入れやすい電電公社関連企業の資料を入手して「F書店」に持ち込んでいたが、次第に官公庁にまで手を伸ばすようになった。「F書店」倒産後もBらはそれぞれ独立して書籍商を続け、Aとの取引を継続した。
 Aの手口は、電電公社の肩書入り名刺を出し、「公社で利用するので○部下さい。」などと、あたかも電電公社で使うようなことを言って、相手をだまして手に入れたり、電電公社の上司である課長名で「参考文書寄贈依頼について」という公文書を勝手に偽造し、これを官公庁の研究所あてに提出して資料の交付を受けたり、また、52年電電公社電気通信研究所勤務となってからは、同研究所図書館あてに送られてきた資料を盗んで手に入れるようになった。このようにして不法に入手された研究文献等は、捜査によって裏付けられたものだけでも83種に及び、AがこれらをBらに売却して得た金額は、45年以降、合計956万余円に達していた。これらの資料の入手先は、官公庁、公社、大学、民間企業等の研究機関であるが、その内容は各種の産業科学技術に関する研究データ等であり、大部分は非売品又は部内資料で一般には手に入りにくいものであった。
 Aは、詐欺、窃盗、有印公文書偽造及び同行便で起訴され、53年10月18日、懲役2年、執行猶予3年の判決を受けた。
(2) 在日朝鮮人の対立抗争事案
 北朝鮮系団体である朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)や韓国系反体制派諸団体と韓国系団体である民団(在日本大韓民国居留民団)等との間では、南北朝鮮の厳しい対立を反映して、幾つかの一触即発の事態がみられたが、いずれも適切な警備措置によって抗争事件発生にまでは至らなかった。
 まず、北朝鮮貨客船万景峰号の大阪入港(2月)、高松入港(3月)をめぐり、これに反対して車両等を動員し、抗議、街頭宣伝活動を繰り広げる民団及び右翼団体と歓迎訪船団(朝鮮総聯)との間で対立緊張が高まったので、関係警察は、部隊の配置等の措置をとった。高松では歓迎訪船団のバス進路を妨害した1人を道路交通法違反で検挙した。
 次に、北朝鮮帰還のため新潟港から万景峰号で出国することになっていた在日朝鮮人一家5人が、出港直前になって帰還意思を撤回し、民団に保護を求める事案が発生した(3月)。このとき、一家が万景峰号に残してきた荷物が返還されなかったこともあって、民団と朝鮮総聯との間で緊張が高まったが、警察では、関係機関と緊密な連絡を取りつつ当事者に対する警告等を行った。
 さらに、韓国系反体制派団体である韓青(在日本韓国青年同盟)が主催した韓国語教室の開校式(3月)をめぐって、これに反対する民団との間で一時不穏な動向がみられたほか、東京における「朝鮮の統一のための第2回世界会議」の開催(11月)をめぐって、民団及び右翼団体による反対、抗議行動が行われたため、警察は部隊による制止活動を行い、公務執行妨害等で10人を検挙した。

7 警衛、警護等

 警察は、天皇及び皇族に対しては警衛を実施し御身辺の安全確保に当たるとともに、その際国民一般との融和を妨げることのないよう努めている。また、首相、国賓等内外の要人に対しては警護を実施している。
 昭和53年には、右翼は、「反体制、国家革新」の姿勢を一層強めるとともに、日中平和友好条約締結阻止活動、左翼対決活動を活発に行い、他方、極左暴力集団は、「成田闘争」等を通じて「テロ」、「ゲリラ」指向を更に本格化するなど厳しい情勢が続いた。こうしたなかで、「福田首相殺人予備事件」、「大平首相襲撃事件」等が発生したが、いずれも現場の警察官の適切な措置により身体に危害が及ぶことを防止した。
 天皇陛下は、全国植樹祭(5月、高知)、国民体育大会秋季大会(10月、長野)へ行幸、皇太子、同妃両殿下は、ブラジル、パラグアイ両国への御訪問のほか、国内においても全国各地へ行啓になった。警察は、これらに伴う警衛を実施するとともに、皇太子、同妃両殿下のブラジル、パラグアイ両国

御訪問に当たっては、関係諸国に係官を派遣し、各国の関係機関と連絡協力を行い、御身辺の安全を確保した。
 また、福田首相は、日米首脳会議(5月、ワシントン)、主要国首脳会議(7月、ボン)及び中東諸国首脳との会談(9月、イラン、カタール、アラブ首長国連邦、サウジアラビア)のため関係諸国を訪問したが、警察は、首相出発時の極左暴力集団等の反対行動に対処するとともに、警護員を関係諸国に派遣し、各国の関係機関と連絡協力を行い、身辺の安全を確保した。
 さらに、最近における国際交流の活発化を反映して、鄧小平中国副首相夫妻(10月)等厳重な警護を要する国賓、公費の来日が相次いだ。また、各種の国際会議が開催され、多数の外国要人が来日したが、警察は、国際礼譲に配意しながら警護を実施し身辺の安全を確保した。
 このほか、警察は、国会、首相官邸、外国公館、空港等の重要な施設に対する警戒、警備を強化し、「テロ」、「ゲリラ」等の未然防止に努めた。

表7-2 主要警衛、警護実施事例(昭和53年)


目次