第2章 暴力団根絶のために

1 社会の敵、暴力団

 「暴力団、白昼繁華街でけん銃を乱射して抗争、巻き添えで市民も負傷」、「暴力金融に追い詰められ、一家心中」、「暴力団、銀行幹部を脅迫、数億円を融資名下に引き出す」、「暴力団、家庭の主婦らに覚せい剤密売、組織の資金源に」等暴力団や暴力団員の凶暴な無法行為、あるいはこうかつな悪業の報ぜられない日はないといってよい。また、最近とみに強まった「総会屋」世界の支配や、いわゆる各種知能暴力事犯の敢行にみられるように、企業社会や経済取引に暴力を背景として寄生、介入することにより、健全な企業取引秩序そのものに対しても少なからぬ悪影響を及ぼすに至っている。
 そもそも、民主主義社会において、暴力を用いて私的目的を遂げ、あるいは私的欲求を満たそうとすることは、何人であっても絶対に許されないことはいうまでもない。まして、集団を構成し、その組織の下で犯罪をいわば職業としている者が、我々の社会に公然と存在し脅威を与えていることは、それ自体が法と秩序への挑戦であり、民主主義社会の恥部であるといわなければならない。
 暴力団こそ正に市民の敵であり、社会の敵である。

2 暴力団の実態

(1) 暴力団の社会
ア 暗黒の集団
(ア) 博徒、的屋、愚連隊から暴力団へ
 暴力団とは、一言でいえば、それぞれの時代における公的な社会秩序の間げきに発生し、時々の社会経済情勢の影響を強く受けて、その組織、活動形態を変容させつつも、常に暴力を背景にして、市民と社会に恐怖と害悪を与え続けてきた無法者集団の総称といえよう。警察では取締りの対象を規定する意味から、暴力団を「集団的に又は常習的に暴力的不法行為を行い又は行うおそれのある組織」と定義し、これを更に、集団の歴史的発生形態、それぞれの主たる寄生領域や収入源、あるいはその活動形態等に着目して、博徒、的屋、青少年不良団、会社ゴロ、新聞ゴロ、炭鉱暴力団、売春暴力団、港湾暴力団及びその他として総称される不良土建、不良興信所、事件屋、集団押売等に分類、は握してきたが、現在では暴力団の活動形態や寄生領域の集団による個別的な差異は非常に薄らいでいることから、むしろ、何々組、何々会等と称する親分・子分集団を構成し、あらゆる暴力的、利欲的犯罪活動を行う狭義の暴力団(組織暴力団)と総会屋、暴力金融等に代表される特殊知能暴力グループとに大別するのが一般的となっている。
 ただし、博徒、的屋、青少年不良団の三者は、集団の歴史的発生形態に基づく分類であることから図2-1のとおり現在の暴力団のほとんどがそのいずれかの系譜につながり、現存暴力団の構造原理や集団特性を分析する上でも依然として有用な暴力団の基本類型をなしている。しかも、比較的新しい暴力集団である青少年不良団も、集団形成に当たっては、長い歴史を持つ伝統的な暴力集団である博徒や的屋をまね、あるいは、それらと合流、混交した。現在の暴力団の、一般社会の諸集団とは異なる前近代的な集団の構造、独特の行動原理、特異な風習、仕来たり等は、いずれも博徒、的屋のそれに起源を有し、それが原型になっている場合が多い。

図2-1 暴力団団体種別構成図(昭和52年)

 博徒とは、文字通り博ち打ちの集団を指すもので、一定地域(縄張り)内で非合法な賭博の場を提供し、そこから収益(テラ銭)を上げることを「か業」としている者の集団をいい、また、的屋とは、香(や)具師(し)とも呼ばれ、縁日、祭礼等に際して境内や街頭で営業を行う露店商や大道芸人らの集団のことをいった。
 これら古くから存在した伝統的な暴力集団が、内容的にも形態的にも現在の「暴力団」へと大きく変ぼうを遂げるに至った最大の背景は、戦後の社会経済情勢の変化であった。終戦直後各地に発生したやみ市場等の利権や支配権を求めて旧来の的屋集団が、そして治安の空白部分から博徒集団が、相前後して復活再生したが、戦前までの既成秩序の崩壊、弱肉強食の激化はこれら伝統的暴力集団の世界においても例外ではなかった。他方、終戦直後から都市部の盛り場等を中心にい集した不良徒輩がグループ化し、いわゆる「愚連隊」と呼ばれる新興暴力集団が無数に発生した。先に述べた青少年不良団とはこの愚連隊あるいは愚連隊に起源を持つ暴力集団を指す警察用語である。
 青少年不良団には、旧来の博徒、的屋集団にみられた強固な組織性もなく、多分に臨時編成的であり、グループ内においても親分・子分の縦の関係よりも兄貴分・弟分の横の関係で結ばれていることが多かった。また、博徒、的屋のような「か業」の伝統はなく、ユスリ、タカリ、窃盗等ありとあらゆる反社会的行為を常習的に行った。
 これら新旧の暴力集団は、戦後の混乱期から復興期にかけての社会経済情況の変化に伴って生じた各種の非合法的権益(例えば、やみ市場の支配、競輪等公営ギャンブルへの介入、パチンコの景品買い、ヒロポン等覚せい剤の密売、港湾荷役等の労務者手配、興行への介入等)をめぐって力による激しい角逐を繰り返したのである。そして、その過程で旧来の「か業」の伝統や、親分・子分関係等は急速に崩壊して、いわゆる「博徒、的屋の総愚連隊化」が進む一方、愚連隊等の新興勢力は、博徒や的屋集団に吸収され、あるいは、それらを模して組織化を進めたため、活動形態や活動領域においてこの三者は著しく接近するに至った。こうして昭和30年代に入ると、これら諸々の暴力集団を一括して「暴力団」と呼称することが社会的にも一般化したのである。
(イ) 親分・子分関係の変質
 暴力団は、昔も今も、親分、子分、兄弟分といった結び付きにより、封建的家父長制を模した組織形態をとっていることがその集団構造の最大の特徴であり、そこから暴力団特有の行動原理や集団規範が生じてくるものとみられている。彼らの社会にあっては、親分・子分の関係は理屈を超えた絶対のものであり、親分の要求、命令は理非善悪いずれであろうともこれに従うのが子分の当然の義務であり、かつ、美徳であるとされるのである。
 暴力団社会の構造は、親分へ権威も富も集中する仕組みとなっており、組織すなわち親分であるといっても過言ではない。親分を奪われることは、その集団自体の死活にかかわることであり、親分のメンツは集団自体の権威そのものであるとされるのである。
 かつて博徒の組織に常置された「代貸」は、賭博開帳の際「まちがい」(取締り)があった場合は、絶対に親分の名前を出さず自分で責任をかぶる役割を負わされていたとされるが、現在においてもひんぱんに見られる暴力団犯罪の特性、例えば、組織防衛のため親分や兄貴分の身代わりになって自首しようとしたり、逮捕されても組織上層部のことについては口をつぐんだり、あるいは、他の組から親分のメンツをつぶされたとして組を挙げて報復行為に出るなどは、このような親分・子分関係の表われである。このような関係においては、親分は、組のため留置され入獄する子分に対し、差し入れ、弁護士選任、残された家族の生計費等すべてにわたって面倒を見てやるのが建前となっている。
 彼らは、このような非近代的な身分律によって成り立っている特殊社会と、そこから派生するゆがんだ関係や行動を、「仁義」、「義理人情」、「仁侠道」等と称するなど虚飾の論理によって正当化しようとし、社会の一部にも映画、テレビ、小説等のフィクションから得られたイメージと重ね合わせ、そのようなものが、社会に受け入れられる形で存在しているかのように理解している向きもないではない。しかし、現実に親分の絶対性や身分的上下関係を支えているのは、「暴力と金による支配」と「恐怖と打算による服従」であることは、昔も今も、本質的に変わりはない。特に、戦後、急速な暴力団の総愚連隊化と親分・子分関係の希薄化のなかで、親分と子分の身分的結合を支えるものは赤裸々な金と暴力だけという傾向は一段と強まり、親分がその地位と集団への統制力を保持するためには、強力な暴力統制とともに、何よりも資金源の拡大が必要となり、暴力団及び暴力団犯罪の悪質、巧妙化に拍車をかけるという結果となっている。
 このように、暴力団における身分的結合関係が実体において次第に変化し、それとともに親分の集団的統制力も低下しつつある傾向については、以下の科学警察研究所(以下「科警研」という。)の調査(注)結果や事件等からもその一端をうかがうことができる。
 すなわち、最近の暴力団員は、理想的な親分像の要件として「金があり、金をつくる能力があること」を最重視しており、子分が親分の命令に従う理由としては、以前と異なり、露骨に「命令に従った方が得だから」といった打算的なものを挙げる者の割合が非常に大きい。また、親分の命令には無条件で従うとしている者は3割程度しかなく、犯罪遂行後親分に保釈金を都合してもらった者は約1割5分、弁護士の世話に至っては1割にも満たないという結果がでている。更に52年には、不始末の謝罪のため指をつめさせられた子分が親分を告訴した(神奈川)、親分の上納金の吸い上げがか酷であるとして子分が告発した(東京)、親分がさ細なことで子分に暴行を加えることから子分一同が親分を追い出した(鹿児島)等の事例も発生している。
 かつての博徒、的屋集団においては、暴力団に加入する手続が重要な意味を持ち、「親子固めの盃」といわれる儀式が行われていた。昭和34年以前に暴力団員になった者については約6割が一応盃式による入団儀式を経ている。しかし、40年から45年までの間に加入した者については約3割しか入団儀式を経ておらず、最近ではバッジ(代紋)を交付するとか、口頭で申し渡すだけで済ませているのが現状である。このような傾向も、親分・子分関係の変質を物語るものといえよう。
(注) 科警研が、42年から48年にかけて全国の暴力団員の中から調査対象を抽出し、暴力団の実態について様々の角度から調査したもの。
(ウ) 暴力による統制と特異な風習
 暴力団内部においては、常に、親分(組)への反抗、裏切り、子分間の反目、闘争等親分の支配や集団の一体性を乱す要因をはらんでおり、これに対して親分の権力と集団の統制を維持していくために用いられるのが、彼ら社会特有の掟とそれに反した者に対する残忍な制裁である。彼ら社会の掟とは、例えば古くからの「密告するな」、「組の金に手を付けるな」、「仲間の情婦に手を出すな」等をはじめ、親分(組)や仲間に対する反抗、裏切りとみなされること一切を含み、これに対する制裁はリンチ、破門、指つめ等が代表的なものである。しかし、現実には掟に反していなくても、実力闘争の結果としてこれらが行われることが多く、むしろ、暴力支配の代表的方法といった方が適切かも知れない。
 リンチは、他の集団員に対するみせしめ等の意味もあり、極めて残虐な方法で行われることが多い。昭和52年も各地で少なからぬリンチ事件が発生しているが、なかには、組から脱退したいがリンチが怖くて自殺した(青森)という特異な事例もある。
〔事例1〕 組員が覚せい剤代金200万円を持って逃亡を図ったために、組長以下が同組員を全裸にして手足を縛り上げ、7人で5時間にわたり木刀、竹刀で殴り付け死亡させた(大阪)。
〔事例2〕 勝手に離脱した組員を組事務所に監禁した上、自分で自分の左手首を切断させた(徳島)。
 破門、絶縁等は、集団からの追放であって暴力団社会においては最も重大な制度的制裁である。破門や絶縁が行われた場合、他の暴力団へその旨の通知(いわゆる破門回状)等がなされるのが一般である。このような破門、絶縁よりも軽いものとして謹慎、所払い等がある。
 次に、指つめであるが、指つめは入れ墨とともに現在においても暴力団社会において広く行われている特異な風習である。かつては、指をつめるという行為には、制裁、謝罪のほか、誠実のあかし、紛争の調停等様々な意味、目的が付されていたとみられるが、今では、主として若い組員が起こした不始末に対し、上から要求した謝罪の方法、ないしは制裁であり、組員はやむを得ず行っているのが実情である。
 科警研の調査によれば、指つめの実態は図2-2のとおりで、対象者の約4割についてその跡がみられ、そのうち1回だけというのは4分の3弱で、4分の1強は2度以上指つめを経験していた。

図2-2  指つめの実態に関する調査(昭和45年)

 なお、指つめとともに入れ墨も彼ら特有のものである。科警研の調査によれば、対象者の7割強が入れ墨をしており、その動機については「伊達だから」あるいは「格好がいいから」というのが約6割、「脅しになるから」、「好奇心から」というのがそれぞれ約1割ずつあり、その他はごく少ない。また、入れ墨は、暴力団内の地位の低い時期、あるいは暴力団加入以前の年齢的にも若い時期に、痛みの少ない機械彫りによって行った者がほとんどであり、このあたりにも軽薄、衝動的な現代の暴力団員の気質の一端をうかがうことができる。
(エ) 縄張りと抗争
 多数の暴力団員が検挙されながらも、暴力団が集団としての存続を根強く保持している大きな理由の一つは、縄張りを有しているからである。「縄張り」とは、暴力団の資金源確保の場である地域的勢力範囲又は排他的、独占的寄生領域を指す。戦前までは、博徒であれば賭場を開く権利、的屋であれば露店等の営業場所の支配権を内容としていたが、戦後の暴力団においては、「金になるものなら何にでも手を出す」という傾向が一般化したことから、縄張りの具体的内容も極めて多様化した。警察では、これを「資金源の多様化」という言葉で言い表している。
 暴力団がその組織を維持し、拡大していくためには多大の金が必要とされる。例えば、組が経営する企業の事業経費、対立抗争時の戦費、紛争解決の手打ちに要する費用、保釈金、弁護士費用、「義理かけ」(注)と称し、しばしば暴力団同士で行われる交際のための費用、上部団体への上納金等である。このような資金を安定的に取得することができる場所や対象、更には、利権に対する支配権がすなわち縄張りなのであり、その大小が当該暴力団の強弱あるいはその親分の権威、権力を左右するものの最たるものであることは昔も今も変わりはない。したがって、どの暴力団にとっても、既存の縄張りに対する他からの侵略に対しては集団の総力を挙げてこれを阻止し、新たな縄張りについては手段を選ばずこれを拡大することが常に変わらぬ集団の目標であり、欲求であるということになる。例えば、一見ささいな原因をきっかけにして始まったとみられる対立抗争事件も、その背後には縄張りをめぐる争いや思惑が潜んでいることが多い。
 昭和52年に発生した沖縄や愛媛における山口組系暴力団対地元暴力団の対立抗争、50年に発生した大阪の松田組対山口組の対立抗争等の著名な事件は、いずれも縄張りをめぐってのし烈な争いであった。ちなみに、52年に発生した28件の対立抗争事件中、直接間接に縄張りをめぐる争いが絡んでいるとみられるものは12件に上った。
(注) 「義理かけ」とは、暴力団が行う襲名披露、結縁、葬儀、法要、放免祝い、事務所開き等の総称で、暴力団同士の交際の形をとっているが、その実は、祝儀等の名目での資金獲得活動であり、また、盛大な行事によって勢力誇示を図ることをも併せて目的とするものである。義理かけにおいては、一見暴力団と分かる者が多数参集することから、会場周辺の住民に著しい恐怖と不安を与えている。
イ 無法者の生活と履歴
(ア) 暴力団員の生活
 暴力団社会にあっては、富も権力もすべて下から上へ集中する仕組みとなっており、したがって、例えば、さん下団体多数を擁する広域暴力団の首領らの多くは、自ら直接に犯罪行為に手を下すことはほとんどなく、さん下組員や団体が犯罪等によって得た金を定期的に上納金として搾取し(巨大暴力団の首領には月間数千万円に及ぶ収入があると推定される。)、一般の組員をしり目に高級住宅街に豪壮な邸宅を構え、豪しゃな生活を送っている。このようなごく一部の暴力貴族ともいうべき者を除いた大多数の暴力団員は、犯罪とそれにまつわる諸活動を中心とする生活を送っており、一般社会人の生活態度と比べてかなり大きなゆがみが認められる。
 科警研では暴力団員の生活態度を調査した結果、図2-3のとおりに5類型に分けているが、その特徴点として次の3点を挙げている。
○ 生活が不規則、不安定…寝起きが一般の場合に比べ平均して3時間余りずれており、自分の家族と起居しているのは半数前後しかいない。
○ 社会に対する適応努力が少なく怠惰…無職で非合法な収入のみに頼っている者が全体の4分の1を占め、職業を有する者もその多くは労務者、店員、露店商等であり、社会的にみて不安定な職業に就いている者が多い。
○ 身近な者に依存…日常生活の面倒を見てもらっている者が約7割もおり、その相手方としては、第一は、妻、内妻等の女性、次いで、親、兄弟等の肉親であり、親分等組関係者から面倒を見てもらっている者は約1割と少ない。

図2-3 暴力団員の生活実態

(イ) 暴力団への加入
 暴力団が根強くその存続を保っている背景には様々な要因があると思われるが、その一つは、暴力団社会へ加入しようとする青少年が依然として後を絶たないことである。暴力団への加入は、根本的には本人の怠惰な生活態度によるが、ただ、その背景には加入前における彼らの生育環境そのものに多くの問題が含まれていることも事実である。
 科警研の調査によれば、暴力団員の生まれ育った家庭環境については、いわゆる欠損家庭の出身者が多い(約4割)、兄弟姉妹数が多く家族構成員の規模が大きい(平均約6人)、保護者の職業は、単純労務者、店員、工員等と無職が大半を占め、所得水準も極めて低いなどの点が指摘されている。更に、暴力団員の加入までの経歴についてみると、教育歴が非常に短く(義務教育以下が約6割5分、中等教育中退者を加えると約8割)、初、中、高等教育を含めて中退者も2割を超えている。また、家出経験(4割強)や粗暴犯を中心にした非行歴(約6割)を有する者が多く、非行グループに加入していた者も少なくない(2割強)。暴力団加入直前の彼らの職業についてみると、無職が半数以上を占め、他は工員、労務者約2割、風俗営業従業員約1割等となっており、加入の時期もほとんどが少年時代あるいは20歳代の前半までとなっている。これらの結果をみると、暴力団加入者の多くは、学校生活にも社会生活にも適応できなかったという過去と、非行その他問題のある行動歴を併せ有しており、これらが彼らの若年における暴力団加入を促した大きな要因の一つであると思われる。
 次に、加入の直接的な契機であるが、加入者が暴力団員と初めて接触を持った場所は、遊技場、飲食店、路上等が主であり、その時の状態は半数以上の者が失業中、家出中、怠学、怠業中等問題のある状況下においてであった。そして、失業中の者は、金と仕事に困っているとき暴力団員に面倒を見てもらったことを加入のきっかけとし、家出中、怠学、怠業中の者は、遊び仲間や刺激を求めて盛り場をはいかいしているとき、暴力団員と知り合ってそのまま加入するという経過をたどることが非常に多い。
 加入の理由は、格好のよさ、享楽的な生活、暴力による支配へのあこがれ等暴力団の醸し出すムードにひかれて加入した者が最も多く、次いで義理人情の世界へのあこがれ、特に目的はない、自分のような者でも相手にしてくれるからなどが挙げられる。また、加入後依然として暴力団にとどまっている理由としては、別に理由はない、今更堅気の仕事はできない、享楽的な生活ができる、暴力団である方が仕事上都合がよい、格好がよい、組の仲間と離れるのがいやだからなど総じて消極的、惰性的なものが挙げられている。
 以上の結果を総合すれば、暴力団員は、一般社会生活への適応努力を放棄し、逃避の場所として暴力団を選んでおり、それへ所属することにより一般社会において果たせない欲望を満たそうとしていることが暴力団社会から足を洗おうとしないでいる大きな理由であると考えられる。
(ウ) 暴力団からの離脱
 科警研の調査対象となった1,713人に対してほぼ5年余りの後に行った科警研の追跡調査の結果は、図2-4のとおりで、年平均4%の者が暴力団から離脱していることになる。

図2-4 暴力団員の移動状況

 これらの離脱者403人についてその特性をみると、[1]非合法活動による収入のほか何らかの職業による収入源を持っていた、[2]賭博、覚せい剤密売、ノミ行為(注)等継続的な収入源を持っていなかった、[3]団員歴が短く暴力団内における地位が低い者か逆に団体の首領であった、[4]統制力の弱い集団の成員であった、[5]検挙された回数が少なく懲役刑も受けていないなど非合法活動がそれほど活発ではなかった、[6]積極的な加入の動機、とどまっている理由を持っていなかったなどが挙げられる。逆にいえば、暴力団員は、加入後の数年間で次第にとうたされ、団員歴を重ねるにつれ非合法活動への傾斜を強め、暴力団へ定着していくものとみることができる。
 次に、これら暴力団員が暴力団を離脱した契機ないし理由としては、警察の取締り強化、それに伴う検挙、服役、所属していた団体の解散、壊滅、警察の離脱勧告等警察の諸活動が第一に挙げられている。団員自身の側にみられる離脱の理由には、正業に適当なものがあった、暴力にいや気がさした、暴力団員の生活がばからしくなった、仕事の障害になる、健康上の都合や家族の結婚、就職等の差し触わりになる、かせいでもほとんど上部に吸い上げられ経済的にうまみがないなどがあり、また、団体内部にある離脱契機としては、団体の資金源のひっ迫、組織の弱体化、仲間割れ、破門、制裁等がみられる。
 離脱後の状況については、約3割は一応安定した職業に就き社会復帰をなし得ているものとみられるが、その他は離脱後数年を経過してなお安定した職業についておらず、離脱後も無職であったり、個人的に非合法活動に従事しているとみられる者がほとんどである。したがって、暴力団を離脱した後も、露店商、風俗営業等の経営者、非合法活動を収入源としている者等を中心に全体の約3割がなお暴力団と親和的な関係にある。このように、暴力団員の離脱後の状況は極めて不安定であり、再び暴力団に復帰する可能性も高く、暴力団員の社会復帰のためには、取締りに併せてきめ細かいアフターケアが必要であることを示しているといえよう。
(注) ノミ行為とは、競馬、競輪、競艇、オートレースの公営競技をめぐって、施行者以外の第三者が行う勝者投票類似の行為を指し、競馬法をはじめとするそれぞれの特別法で禁止されている。
(2) 系列化する暴力団社会
ア 暴力団勢力の推移と現況
(ア) 8割は広域暴力団
 昭和52年末現在、全国の警察では握している全暴力団の団体数及び構成員数は、2,502団体、10万8,266人で前年に比べ団体数において53団体(2.1%)、

図2-5 暴力団団体数の推移(昭和36~52年)

図2-6 暴力団構成員数の推移(昭和36~52年)

構成員数において1,689人(1.5%)減少している。また、2つ以上の都道府県にわたって組織を有するいわゆる広域暴力団は、52年末現在で81系統、1,939団体、6万2,942人であり、前年に比べ56団体(2.8%)、団体数において1,902人(2.9%)と、これもわずかながら減少している。
 過去17年間の全暴力団及び広域暴力団の団体数、構成員数の推移は、図2-5、図2-6のとおりで、全体の動向としては、34、35年ごろから急激に増加し、38年には約5,200団体、18万4,000人とピークに達したが、関係諸機関の協力を得た警察の強力な取締りとこれを支援する幅広い市民の暴力排除活動により以後着実に減少を続け、現在では38年に比べ団体数では半減、構成員数では4割減となっている。しかしながら、広域暴力団の団体数及び構成員数は、42、43年にかけて急激に増加し、45年にピークに達した後横ばいの傾向を続けている。このようなことから、38年において団体数では全体の19.6%、構成員数では22.8%に過ぎなかった広域暴力団の占める比率は逐年上昇し、52年にはそれぞれ77.5%、58.1%となり、全暴力団の団体数の約8割、構成員数の約6割を広域暴力団が占めている。
 しかも、これら広域暴力団の中にあって特に悪質で強大な勢力を有し、46年以降警察庁において最重点取締り対象として指定している大規模広域暴力

表2-1 指定7団体勢力状況(昭和52年)

団7団体の団体数、構成員数は表2-1のとおり52年末現在において908団体、3万2,175人であり、これらだけで全暴力団中、団体数で39.2%、構成員数で30.9%(広域暴力団の中では、それぞれ46.8%、51.1%)を占めるに至っている。 10年前にはこれら7団体の全暴力団に占める勢力が団体数で23.1%、構成員数で20.0%にすぎなかったことを考えれば、暴力団の大規模化、広域化、系列化という傾向は、主としてこれら一部特定暴力団によってもたらされたものであるといえよう。
(イ) 暴力団の都市集中
 暴力団員の地域的分布をみると、図2-7のとおり東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫等の大都府県に集中しており、特に、東京、大阪のみで全暴力団員の34.6%を占めている。また、52年末現在、全国の市は645あるが、そのうち暴力団が存在しているものは商工業都市、観光都市等を中心に7割強にも及んでいる。
イ 大規模広域暴力団の実態
(ア) 暴力団の系列化
 「暴力と金」に存立の基盤を置く犯罪者集団である暴力団は、本質的に力を背景とした組織の拡大欲求を持っており、したがって、特に「力」のある

図2-7 都道府県別暴力団の構成員数(昭和52年)

集団が他の集団を侵食、制圧して勢力を拡大し、大規模化、広域化、系列化を進めてきたことは、その本質の表れであったといえよう。
 戦後、各種の暴力集団が新たに生じた不法利権をめぐって、限られた地域内での角逐を繰り返し、昭和20年代末から30年代初めごろまでには、一応各地域における暴力団(現在からすれば中小規模に相当)の勢力地図が出来上がった。ところが、30年代、特にその後半には、地域的な闘争の結果その主導権を握った暴力団の一部が力を背景として全国規模での進出を図ったため、それに触発され、あるいは、それとの対抗上、他の有力組織の勢力拡大や連合化の傾向に拍車がかかり、暴力団社会の勢力地図は急速に塗り変えられていった。関西における山口組と関東における稲川会はその代表的なものであるが、特に、山口組は、明友会事件(注)をきっかけに大阪への進出を果たすなど、35年から39年のわずか5年間に21府県にその勢力を拡大した。このようないわば弱肉強食の様相を呈した暴力団の動きに対して、暴力排除世論の高まりを背景としたいわゆる第一次頂上作戦が展開され、解散を表明する広域暴力団が相次ぐなど、暴力団の勢力は著しく衰退した。
 しかし、一部強固な組織と資金基盤を有する大規模広域暴力団による中小暴力団の系列化の動きは弱まらず、特に、第一次頂上作戦により検挙され服役していた首領、幹部クラスが相次ぎ出所して、組織の復活、再編を図った43、44年以降はその傾向をますます強めた。
 これは別の面からみれば、警察の取締りの強化、殊に40年以降の資金源犯罪の取締りの強化は、非合法資金源にのみ依存する弱小暴力団に対しては壊滅的な効果を与えたが、いち早く合法企業の経営に介入、関与するなど資金源の多様化を図り、さん下団体からの上納金システムを完成していた大規模広域暴力団については、それら弱小暴力団に比して警察取締りの直接的な打撃を受けることが少なく、打撃を受けた弱小暴力団を次々とさん下に収めて大規模化していくという現象を生じさせたとみることもできよう。これはまた、弱小暴力団の側から見れば、警察の取締りや他団体の侵食に対して組織の防衛と維持を図ろうとすれば、いずれかの広域暴力団のさん下へ入らざるを得ない状況が40年代以降特に強まったことを物語っている。したがって、30年代の大規模広域暴力団の系列拡大方法は総じて力によって他団体を制圧するケースが多かったのに比べ、40年代以降は弱小暴力団側から大規模広域暴力団の系列化へ入っていくというケースが目立って増えたのが特徴の一つであった。それとともに今一つ見落とせない特徴は、大規模広域暴力団同士の相互提携、暴力団同士の親ぼく会組織の発足等、警察の取締りと世論の高まりに対抗し、暴力団同士のあつれきをできるだけ避け、暴力団社会全体の共存共栄を図ろうとする動きが生じたことである。
〔事例1〕  47年10月、山口組、稲川会双方の最高幹部が兄弟分の盃を交わすことにより東西の両大規模広域暴力団同士が提携した。
〔事例2〕 45年、西日本の反山口組系有力団体10団体により「関西二十日会」が、47年、在京10団体により「関東例会」が発足し、一方、同年山口組の提唱によって関西を中心に「阪神懇親会」(7団体)、「関西懇話会」(18団体)が発足した。また、同年中京地区においては「東海三県懇談会」(25団体)が発足した。
 このように大規模広域暴力団の勢力比率の上昇傾向に変わりはないのであるが、山口組、稲川会等の巨大組織内における組織の肥大化や首領の高齢化等からくる内部統制力のし緩並びに警察の取締りの強化や暴力団同士の親ぼく組織等の存在からくる巨大暴力団による中小暴力団制圧の困難化等を背景に、逆に、中小暴力団の台頭気運もないわけではない。
(注) 明友会事件とは、35年8月、山口組が大阪ミナミの縄張りをめぐってかねて対立状態にあった青少年不良団明友会を、大量動員方式により襲撃し、死傷者を出した事件で、山口組はこの事件をきっかけに大阪進出を果たし、その後、同組が組織的に各地へ進出する契機となった。
(イ) 組織と構造
 指定7団体に代表される大規模広域暴力団は、いずれも系列化された数十から数百の独立した暴力団(10数人から200人の構成員を擁する単位団体(注))を有し、それらの組長クラスが、全組織の長に当たる系列首領を軸として親分・子分あるいは上下差のある兄弟分の関係を結ぶことによって結合された単位団体の集合若しくは連合組織として形成されている。
 もっとも、個々の大規模広域暴力団についてみると、それぞれの成立の経緯あるいは構成団体(首領)間の実質的な結合の仕方、程度等によって、その組織系列の構造や性格、あるいは組織運営の仕方等が必ずしも同一ではなく、全国最大の規模を有する山口組とそれに次ぐ住吉連合を比較しても相当際立った相違がみられる。
 山口組は、神戸市を本拠に全国的な規模で強大な勢力を有する広域暴力団であるが、その歴史は比較的浅く、組織も現首領になってから急激に拡大し、今日みるような巨大組織となったものである。その組織の特徴としては、組織拡大が急激であったことから、博徒系、的屋系、青少年不良団系等各種の単位団体が含まれている「混合型」であること、単位団体が現首領を系列の頂点とする「ピラミッド型」をなしていることが挙げられる。更に、組織結合の中心は現系列首領と2次団体首領との親分・子分関係であることから、現首領を頂点とする団体間の上下関係が非常に強固で現首領の組織全体に対する支配力が極めて強く働く反面、2次団体間に序列がないため、現首領がその地位を失った場合には当然組織の内部分裂等多くの混乱を招くことが予測される。
 他方、住吉連合は、東京を中心に関東周辺を勢力範囲とする広域暴力団であるが、この系列は、伝統の古い博徒団体が、連絡、親ぼく、同盟を重ね、その結果一つの大きな連合体をなすに至ったという面が強い。したがって、構成団体もそのほとんどが博徒系であり、また、2次団体の占める比重が大きい。そして、系列首領と2次団体首領との関係も兄弟分関係がほとんどを占め、したがって系列首領が他に対して絶対的な権力を有するのではなく、集団指導制的な形で全組織の運営がなされるなど、山口組に比較して様々な面で連合体としての性格を色濃く示しているのである。
 その他の大規模広域暴力団についても、山口組のような「混合・ピラミッド型」のものから、住吉連合のような「博徒・連合型」のものに至るまで、それぞれが様々な型を示している。
 しかしながら、いずれの大規模広域暴力団も系列内2次団体の首領らを中心にした最高幹部会、定例会等を設け、系列首領はこれを支配あるいはリードすることによって全系列団体を間接的に支配、統治するという形をとらざるを得ないことは共通している。一方、組織が肥大化すればするほど系列首領の組織統制力が弱化し、系列内有力首領間の派閥争い、系列首領の跡目相続等をねらっての主導権争い、系列内団体間の利害の衝突、か酷な上納金吸い上げに対する下部団体の不満等組織内のあつれき、内紛要因が必然的に増大するという側面も見逃せない。現在、山口組をはじめとする大規模広域暴力団の内部において、程度の差こそあれ、この要因が顕在化してきており、治安的にみて暴力団情勢は危険かつ予断を許さないものとなっている。
(注) 警察では、広域暴力団組織に所属する各単位団体の系列内での位置付けを示すために、これを上から1次団体、2次団体、3次団体等と呼んでいる。現在では5次団体まで有する広域組織すら存する。

3 暴力団犯罪の現況

(1) 治安のガン、暴力団
ア 異常に高い犯罪率
 昭和52年の刑法犯の検挙状況についてみると、全検挙人員に占める暴力団員の割合は10.5%にも上り、また、特別法犯についても13.5%と高い率を示している。暴力団員数が全国民の0.1%、11万人弱であることを考えると、この犯罪率は異常に高い。また、暴力団員のうち90%以上は前歴者であるという実態に照らせば、暴力団とは正に犯罪者集団であるといえよう。
 52年に検挙した暴力団員について罪種別の構成比を見ると、図2-8のとおりで、傷害、覚せい剤取締法違反、暴行、賭博、恐喝等の順になっている。特に、傷害と暴行を合わせると、31.5%に上り、暴力団犯罪に占めるこれら粗暴犯の割合は依然として高い。
 また、罪種別の全検挙人員に占める暴力団員の割合は、図2-9のとおりで、覚せい剤取締法違反、競馬法違反、自転車競技法違反及び脅迫においては実に50%以上を占めており、これらの事犯の大多数は、暴力団が関与して敢行されているものといえる。
 このように、暴力団の本質は、すべてのことを暴力によって決しようとする暴力性と資金獲得を目指して金になるものには何にでも手を出すという利欲性にあることが統計面からも明らかである。

図2-8 検挙された暴力団員の罪種別構成比(昭和52年)

図2-9 検挙人員に占める暴力団員の割合(昭和52年)

イ 凶悪化する抗争
 過去10年間の対立抗争事件の発生件数の推移は、図2-10のとおりで、昭和50の89件を1つのピークとして、それ以降警察の防圧策の強化に伴い減少の傾向にあり、52年は前年(66件)を大幅に下回る28件の発生にとどまった。しかし、そのうち広域暴力団が引き起こしたものは26件(93%)に上り、なかでも山口組系団体の関与しているものは16件(57%)にも及んでいる。これらの対立抗争事件は、そのほとんどが地方への勢力拡大を図る広域暴力団と、これに対し縄張りを死守しようとする地元暴力団との対立を原因とするものであった。
 28件の対立抗争事件中銃器発砲を伴うものは、21件(75%)で、図2-10のとおり銃器使用の比率が年々高まっている。その手段方法も少数の選択された組員で攻撃隊等を編成し、対立団体の首領クラスをねらうなどテロ的な襲撃が目立っている。また、山口組等大規模広域暴力団にあっては、抗争に

図2-10 対立抗争事件の発生件数及び銃器使用の比率(昭和43~52年)

際し、さん下団体組員を大量動員して対立団体に対しデモンストレーションを掛ける方法を併用している。
 更に、白昼人通りの多い繁華街でけん銃を乱射したり、商店街にある暴力団事務所へ手りゅう弾を投げるなど市民を巻き添えにする傾向も強まり、愛媛県や沖縄県では、警戒中の警察官に対し、公然とカービン銃等を発砲し、警察官2人を負傷させるなど市民に多大の不安を与えた。
〔事例1〕 山口組系暴力団と沖縄連合旭琉会は、山口組の沖縄進出をめぐって対立し、5月、白昼、那覇市内の路上において旭琉会組員が山口組系暴力団員をけん銃で射殺し、8月には、旭琉会組員が警戒中の警察官に対し、公然とカービン銃等を発砲して傷害を負わせ、更に、山口組系暴力団事務所に手りゅう弾を投げ込み、けん銃を乱射するなど22回にわたる抗争事犯を引き起こした(沖縄)。
〔事例2〕 山口組系暴力団は、39年以来、松山市進出をめぐって地元に勢

力を持つ兵藤会と対立していたが、52年8月、兵藤会組員が、商店、住宅の密集地域にある山口組系暴力団事務所へめがけて手製爆弾を投げたり、9月には、山口組系暴力団員が兵藤会事務所へダンプカーを突入させるなど、10月までに8回にわたる抗争事犯を引き起こした。特に、9月には、兵藤会系暴力団員が警戒中の警察官にけん銃を発砲して傷害を負わせる事件が発生した(愛媛)。
ウ 武装強化の傾向
 対立抗争事件における銃器使用の割合は年々高まる傾向にあり、使用される武器も、けん銃、猟銃のほか手製爆弾や手りゅう弾、機関銃等とエスカレートしており、なかには、銃器による攻撃に備えて暴力団が防弾チョッキを輸入した事例や、暴力団が海外へ渡航し、けん銃、カービン銃等で実弾射撃訓練を行った事例もみられる。
 また、ここ数年続けて1,300丁以上のけん銃が暴力団関係者から押収され、昭和52年における暴力団員による発砲事件は108件を数え、暴力団員がささいなトラブルにおいてすら携帯していたけん銃等を使用する事件が目立ち、暴力団員の銃器所持の日常化の傾向がみられた。
 このようなことから、暴力団が、対立抗争に備えてけん銃等による武装化の傾向を一段と強め、銃器等の規制が欧米に比べて非常に厳しいといわれる我が国にあって、正しく治安のガンとなっているといえよう。
〔事例〕 山口組系暴力団組長(45)ら20数名がハワイ観光をするに際し、旅券の申請を偽った容疑(旅券法違反)で組員ら4人を検挙したが、この旅行において暴力団幹部ら数人は、射撃場で計画的にけん銃による射撃訓練を行っていたことが判明した(岡山)。
エ 見境のない凶暴性
 暴力団は、昭和52年に108件にも及ぶ発砲事件を引き起こしたのをはじめ、日本刀やあいくち等を用いて善良な市民を殺傷するなど数多くの凶暴事件を引き起こしている。
 このなかには、肩が触れた、触れないということから繁華街の真ん中でけん銃を乱射した事件(東京、大阪)、車のクラクションをめぐるトラブルや、スナックでのマイクの取り合いからけん銃を発砲して相手を死傷させた事件(大阪等)、更には、飲食代金を請求されたことに対していきなり日本刀で切り付けた事件(栃木)等のように、暴力団員がささいなことに腹を立て、前後の見境もなく凶悪な犯罪を敢行するという事件も少なからずみられる。
 また、組織内部の者に対するリンチ事件や、対立抗争事件における計画的なテロ等も多発しており、その残虐な手口からも、暴力団の常軌を逸した凶暴性が裏付けられる。
〔事例1〕 元山口組系暴力団員(32)は、ラッシュ時に渋滞中の路上で、後の車からクラクションを鳴らされたことに腹を立て、運転していた会社員を1メートルの至近距離から射殺した(大阪)。
〔事例2〕 暴力団員(28)は、ささいなことから妻に対して殴るけるの暴行を加え、更に、猟銃を取り出し、逃げる妻めがけて発砲した。この騒ぎに眠っていた娘(生後7箇月)が目を覚まして泣き出したため腹を立て娘を射殺した(佐賀)。
(2) 犯罪が生活の糧
 暴力団は、あらゆる手段を用いて資金獲得を図っているが、犯罪によるものが中心となっていることはいうまでもない。その種類としては、覚せい剤、ノミ行為、企業恐喝、賭博が多い。
 昭和52年に検挙された暴力団が犯罪により取得したと推定される金額は、約303億円で、その内訳は図2-11のとおりであるが、このほかにも暴力団へは様々な形で巨額の資金が流れ込んでいるものと思われる。

図2-11 暴力団の犯罪態様別資金獲得状況(検挙事件からの推定)(昭和52年)

ア 覚せい剤は最大の資金源
 昭和52年に暴力団が覚せい剤事犯によって取得したと推定される資金は、検挙によって判明しただけでも約191億円に上っており、犯罪による取得金推定総額約303億円の63.0%を占めるなど、覚せい剤は暴力団の最大の資金源となっている。また、覚せい剤事犯の全検挙人員に占める暴力団員の割合は、55.6%に上っていることから、覚せい剤のほとんどは暴力団の手によって供給されていることがうかがわれる。
 このように、暴力団が覚せい剤に関与する最も大きな理由は、現在使用されている覚せい剤が粉末で、隠匿、運搬が容易であり、しかも、ごく少量の売買でばく大な利益を得ることができるからである。ちなみに、香港ルートの密輸、密売事件からその形態と価格の流れをみると、図2-12のとおりで、末端使用者が密売人から購入する時点では、仕入れ価格の実に40~50倍もの異常な高値(1g、20~30万円)で取引され、その利益が暴力団に流れている。

図2-12 覚せい剤の密売ルートと価格

〔事例〕 暴力団清水組幹部(46)は、組織の資金を獲得するため、50年暮れから51年9月ごろまでの間、数回にわたって韓国から覚せい剤約3キログラムを空路密輸入し、組織ぐるみで静岡県内一円に密売し、総額1億円に上る利益を得ていた(静岡)。
イ ギャンブルに巣食う暴力団
 賭博、ノミ行為等は、古くから暴力団との関係が深く、現在でも依然として暴力団の主要な資金源となっている。昭和52年に、暴力団が賭博によって得たと思われる金額は、検挙された者から推定しただけでも約18億円にも上っている。
 また、ノミ行為も年ごとに高まるギャンブル熱の影響を受けて暴力団の格好の資金源となっており、検挙人員に占める暴力団員の比率は51.8%と高い。ノミ行為を通じて暴力団へ流れたとみられる金額は約34億円であり、覚せい剤に次いで多い。更に52年中には、暴力団員が公営競技の選手と共謀していわゆる八百長レースを行い、巨額の利益を得ていた事例もみられた。
〔事例1〕 日本国粋会系暴力団首領(64)らは、52年4月ごろから都内の金融業者ら約40人を旅行会名目で賭博に誘い、温泉旅館において賭博を開帳し、約6億円の賭金を動かし、テラ銭として約5,000万円の利益を得ていた(警視庁)。
〔事例2〕 稲川会系暴力団の幹部ら2人は、10月から11月にかけて、中山競馬等に関し、商店主ら多数の賭客を相手に、約1億円の申込みを受けてノミ行為を行い、約2,000万円の収益を上げた(神奈川)。
ウ 性を食いものにする暴力団
 昭和52年に売春防止法違反で検挙された暴力団員は、275人であるが、売春事犯の中でも最も悪質な管理売春事犯に占める暴力団の比率は高く、売春と暴力団組織との関係が依然として根深いことがうかがわれる。 52年においても、暴力団が女子中学、高校生や主婦、OL等に甘言をもって近づき関係を持った後、暴力を背景にこれら女性を売春婦として働かせたり、ストリップ劇場にあっ旋したりして資金源にしていた事例が少なくなく、安易な享楽的風潮を利用して婦女を食いものにする事例が目立った。
 このほか、ブルーフィルムやわいせつ図画等の密造、密売事犯も多く、これらの風俗関係事犯は依然として暴力団の大きな資金源となっている。
〔事例〕 山口組系暴力団幹部(33)らは、知り合いの高校生(16)を通じて公、私立高校の女子高校1年生のグループ計9人を勧誘して、1回3万円から15万円で売春させ、その中から多額のあっ旋料をピンハネしていた(奈良)。
(3) 企業社会への侵食
 近年、暴力団は、従来からの伝統的な資金源のほか、総会屋、企業恐喝、

図2-13 暴力団が経営に関与している主な企業の数(昭和49~52年)

図2-14 総会屋の年別推移(昭和50~52年)

暴力金融、手形詐欺、倒産整理屋等、企業社会や経済取引へ暴力組織を背景として寄生、介入するいわゆる知能暴力事犯に資金源を求める傾向を強めている。しかも、このような事犯の敢行に当たって、暴力団が経営し又は関与している企業が、直接、間接に関係しているケースが少なくない。ちなみに、最近4年間における暴力団が経営に関与している主な企業の数の推移は、図2-13のとおりで、特に、知能暴力事犯の温床又は隠れみのとなりやすい金融業が著しく増加していることが注目される。
ア 総会屋を支配する暴力団
 最近、暴力団がいわゆる総会屋(雑誌ごろ等を含む。)の分野へ、直接的にあるいは間接的に進出する傾向が著しく、暴力団が企業社会を侵食する危険性はますます高まっている。最近3年間の総会屋総数及び総会屋としての活動を行っている暴力団員数の推移は図2-14のとおりで、年々増加の傾向を 示している。
 昭和40年代後半からの総会屋人口の急激な増加は、総会屋の生存競争の激化と急激なグループ化を促し、株主総会の暴力的支配や新旧勢力の対立等を招き、暴力団と特別の関係のなかった既存の総会屋も特定暴力団と手を結んでその力を利用するという傾向が一般化した。しかし、最近では逆にこれら総会屋が暴力団によって支配され、収入の過半を上納金等の形で暴力団に吸い上げられているという例も出てきている。
〔事例1〕 暴力団員から総会屋に転身したA(40)は、政治経済研究会を設立し、稲川会系暴力団組長B(52)の力を背景に活動し年間5,000万円の収入を得ていたが、総会屋か業に味をしめたBに追い出され、単独で活動していたところ、企業から思うように金の集まらなくなったBらに脅迫され現金200万円とともに賛助金リスト等を奪われた(警視庁)。
〔事例2〕 総会屋T(39)は、稲川会系暴力団組長(53)のひ護を受け勢力を伸長したが、その代償として毎月30万円上納してきたところ、組長から60万円にアップを求められたのでこれをえん曲に断ると、たちまち身辺に圧力をかけられたので頭を丸めて謝罪した。
イ 経済、金融取引等に暗躍する暴力団
 長びく不況と企業を取り巻く経済環境の深刻化のなかで、暴力団による高金利事犯、手形金融等に絡む事犯、債権取立て等他人の債権債務に介入する事犯、倒産企業を食いものにする事犯等が多発する傾向にあるが、更に、昭和52年には、暴力団が金融機関等の業務上の手続に因縁をつけて金銭を喝取したり、不正融資をさせる事犯、あるいは交通事故、労務災害等各種保険の対象となる事実を偽装したり、替え玉を使って保険金をだまし取るなどの事犯が多数検挙され、暴力団が企業社会や経済取引への侵食の度を一段と深めていることがうかがわれた。不況の長期化と警察の取締りの強化に伴い、従来の資金源がひっ迫しつつある暴力団が、これらの分野へ巧妙に介入して資金獲得を図る可能性はますます高まることが予想される。
〔事例1〕 山口組系暴力団幹部(34)らは、倒産寸前の冷凍機製造会社に資金援助を装い経営に巧みに介入、同社社長らを追い出して会社を占拠し、重量ジャッキ等の資器材(時価600万円相当)を売却するなどして同社を倒産させ、更に、同社社長所有の土地建物(時価1億4,000万円相当)を1,400万円で売却処分するなど同社の残資産を食いものにした(大阪)。
〔事例2〕 暴力団幹部(39)は、取引のあった信用金庫の支店長や専務理事を抱き込み、裏金利を支払うことを条件として金融ブローカー6人に総額3億4,500万円の預金をさせ、その見返りとして、計16回にわたり7億9,700万円の不正融資をさせた(警視庁)。
〔事例3〕 山口組系暴力団幹部(39)らは、会社員が暴力団に債権取立てを依頼したことを聞き込み、同人に対し「暴力団追放が叫ばれているときに暴力団に債権取立てを頼んでいいのか、新聞に発表してやる。」等と脅迫して現金300万円を喝取した(大阪)。

4 暴力団根絶を目指して

(1)暴力団取締りの道程
ア 暴力団根絶は警察の一貫した課題
 暴力団は、既にみたように、市民の敵であり、社会の敵であって、その根絶は、治安の維持を責務とする警察の一貫した課題である。
 終戦直後の混乱期においては、各都市のやみ市場等を中心に群生した暴力団に対し、昭和21年9月の全国的規模のいっせい取締りをはじめとする数次にわたる取締りが行われ、多数の暴力団員が検挙された。また、25年には、団体等規正令による解散指定も行われ、相当数の暴力団が解散した。しかし、各地の暴力団は、戦後新たに生じた様々な不法利権をめぐる地域的な抗争等を通じて、次第にその組織基盤を確立していった。
 30年代に入って、一部の特定暴力団が、力を背景にして、全国的規模での勢力拡大を図ったため、別府事件(32年)(注)を皮切りに、国民に多大の恐怖と不安を与える大規模な対立抗争事件が続発した。こうした大事件の発生とともに、暴力団犯罪も、街頭、盛り場における暴行、傷害等の粗暴犯を中心として急増し、また、銃器使用犯罪を含む凶悪犯罪の続発、被害者、証人等事件関係者に対するお礼参り事件の発生等凶悪化、悪質化の傾向を深めた。暴力団及び暴力団員の増加傾向も顕著になり、34年には暴力団員が10万人を超え、38年には5,216団体、18万4,031人と史上最高を記録した。
 こうして、暴力団問題は大きな社会問題となり、広範な立法及び行政措置が望まれるに至った。
 このような状況のなかで、警察は、組織を背景とした暴力団犯罪の特性に着目し、全国の警察に暴力団犯罪捜査専従員を配置して(31年)、逐年これを整備充実し、また、夜間の捜査力の増強のためいわゆる「ふくろう部隊」を設け(34年)、更に、大都府県の警察本部には暴力団犯罪取締り主管課を置くなど取締り体制を強化して、暴力団の実態、動向の完全は握と事犯の徹底検挙を進めた。特に、36年には大規模かつ悪質な山口組、稲川一家等5団体を特別取締り対象に指定し(39年には新たに5団体を追加指定)、これらに対する集中取締りを実施した。
 一方、法制面においても、凶器準備集合罪、証人威迫罪の新設、刑事訴訟法中の権利保釈制限規定の強化(33年)、東京都をはじめ全国多数の地方自治体におけるいわゆる愚連隊防止条例の制定(37~40年)、暴力行為等処罰法の改正(39年)等取締り関係法規の強化、充実が図られた。
 こうした諸施策は、それぞれの時期における国民の間の暴力排除気運の高まり、報道機関による相次ぐ暴力追放のキャンペーン、なかでも国会における暴力排除決議(35年)等が大きな力となっていた。
 警察は、このような国民の強い支持を背景に、30年代末以降、首領、幹部級をねらう第一次頂上作戦を推進し、関東会、柳川組等多数の連合組織及び単位団体を解散、壊滅に追い込むなどの成果を収めた。このため、暴力団の団体数、構成員数は減少の一途をたどった。
 しかし、頂上作戦で一時的に鳴りを静めた暴力団の活動は、服役していた首領、幹部が相次ぎ出所した時期から、再び活発化した。暴力団の広域化、系列化の進むなかで対立抗争事件も再び激増し、45年には戦後最高の129件を記録した。また、警察の取締りの強化に伴って、風俗営業、不動産業、金融業、土建業等の企業経営を表看板とするものが増加し、犯罪の手段、方法も次第に多様化すると同時に、知能化、潜在化する傾向が強まった。
 これに対し、警察は、45年以降第2次頂上作戦を展開し、大規模かつ悪質な7つの広域暴力団を重点取締り対象に指定して(46年)、いっせい集中取締りを数次にわたり実施したほか、関係官庁、民間諸団体等と連携、協力して、暴力団への課税措置、暴力排除気運の醸成等広汎な統合施策を推進した。
 警察の厳しい取締りと暴力排除世論の高まりに伴い、暴力団の活動はやや鎮静化したが、48年のオイルショックを契機とした慢性的な不況を背景に、縄張り等をめぐる凶暴な対立抗争事件や、銃器使用を伴う凶悪事件が続発した。また、利益の大きい覚せい剤の密輸、密売に積極的に関与するほか、総会屋への進出をはじめとして企業社会や経済取引に寄生、介入する傾向を強めるなど社会に対する危険性も一段と強まった。
 このような情勢に対応して、警察では、50年秋以降第3次頂上作戦を強力に展開したほか、取締り関係法規の検討、総会屋排除のための企業との密接な連携等総合的有機的な諸施策を推進している。
(注) 別府事件とは、山口組系石井組と大分県最大の暴力団井田組とが32年3月開催の別府温泉観光産業大博覧会の利権をめぐって対立し、数次にわたってけん銃、猟銃、日本刀を使用して抗争した結果、両組に多数の死傷者を出した事件で、凶器準備集合罪新設の一つの契機となった。
イ 高まる暴力団根絶の気運
 昭和52年に入って、沖縄、愛媛、大阪等全国各地で凶暴な対立抗争事件や、暴力団関係者による凶悪かつ異常な事件が続発したことから、国民の暴力排除気運が近年になく盛り上がった。このような国民世論を背景に、第80回通常国会においても、銃砲刀剣類所持等取締法の改正に際し、暴力団取締りの徹底強化に関する附帯決議がなされ(4月、5月)、また、内閣官房長官から国家公安委員長及び警察庁に対し、同趣旨の要望がなされ(9月14日)、これを受けて、国家公安委員長が、閣議において、暴力団対策の現状と問題点について報告を行い(9月16日)、政府主催の総合対策会議においても、関係行政機関と連携した総合対策の必要性が改めて確認された(10月1日)。
 警察では、このような情勢下において、暴力団組織を根絶するため、国民の暴力団に対する対決意識を背景に、取締り体制を更に充実、強化した上、暴力団を警察力によって直接制圧すると同時に、社会的に孤立化させることに焦点を合わせた総合施策を強力に推進している。
(2) 暴力団との闘い
 暴力団を社会から根絶するためには、何よりもまず個々の暴力団の組織構成要素である人(構成員)、金(資金源)、物(武器)のすべてに対して警察力による徹底的な攻撃を加え、彼らのあらゆる活動を粉粋し、間断なく警察力をもって直接的に制圧していくことが必要である。他方、それと同時に国民一人一人が暴力団の存在と活動を「市民の敵」、「社会の敵」として告発し、彼らが社会の中で生存し得ない状況をつくり出していくことが不可欠である。警察では、このような観点に立って暴力団壊滅のために2つの作戦を進めている。
 第1は、暴力団の「直接制圧作戦」である。これは暴力団の分断、解体、壊滅を目的として、[1]首領、幹部、組員を大量に反復検挙する、[2]資金源犯罪の摘発、検挙を徹底する、[3]けん銃等武器を残らず摘発、押収するとともに、その密造、密売ルートを解明し、これを絶つ(これら3大重点を警察では「取締りの3本柱」と呼んでいる。)とともに、対立抗争事件の未然防止に努め、もしこれが発生した場合は、制服警察官を大量動員して警戒に当たらせるなど、抗争の早期鎮圧を図るとともに抗争当事者団体への徹底的な集中取締りを実施するものである。
 第2は、暴力団の「孤立化作戦」である。国民各層が暴力団への対決意識を従来以上に高めて暴力団を社会生活のすべての局面で孤立化させ、根底からその息の根を絶つことを目指す諸活動を強化するため、[1]あらゆる機会をとらえて暴力団の実態と害悪を社会へ訴える、[2]一般人、民間諸団体等の暴力追放、暴力団の社会的孤立化のための諸活動に対しては、あらゆる支援、協力、保護を行う、の2点を施策の基本とし、このための警察活動も併せて行っている。
ア 暴力団制圧のための警察活動
(ア) 暴力団取締りの三本柱
a 首領、幹部を含む構成員の大量検挙
 暴力団は、親分・子分関係を中心として結合した組織体であることから、組織の結合分子ともいうべき構成員を一人でも多く検挙して長期間暴力団組織から隔離すれば、それだけ暴力団の組織性は弱まり、機能は衰退する。特に、組織のかなめである首領、幹部級を失うことは組織の結合を決定的に弱め、その機能を麻ひさせることから、首領、幹部らを多数、集中的に検挙することは極めて有効な方法である。警察ではこのような観点に立って、指定7団体の系列下にある団体、対立抗争を引き起こした団体等活動が活発で特に悪性の高いとみられる団体を重点対象に選定し、首領、幹部らにねらいを付けた頂上作戦、構成員の大量反復検挙、検挙した暴力団員の組織からの長期隔離、解散、脱退の勧告、残存資金源の封圧、しゃ断等を軸とした総合的な組織集中取締りを行っている。

表2-2 指定7団体別検挙延べ人員の割合(昭和52年)

 昭和52年においても、以上のような方針の下に取締りを進めた結果、全暴力団構成員に対する年間延べ検挙人員の割合は、表2-2のとおり53%と戦後最高を記録し、特に取締りの最重点対象としている指定7団体については、その割合が67.3%となった。また、このうち首領、幹部については図2-15のとおり8,917人(首領855人、幹部8,062人)を検挙し、261団体を解散、壊滅させた。しかし、解散、壊滅団体の約半数は指定7団体の系列下に

図2-15 暴力団犯罪検挙人員の推移(昭和43~52年)

ある団体であるものの、そのほとんどが3次団体以下であり、今後指定7団体を分断、解体、壊滅させるためには、系列の中核となっている2次団体の壊滅を図ってゆく必要がある。
〔事例1〕 山口組内で41団体、781人と最大勢力を擁する小西一家に対する集中取締りを実施し、北陸地方の山中、山代両温泉において開張した賭博事件で、同一家総長をはじめ、組長、幹部クラス79人を逮捕した。特に、組長が同一家の総務長、行動隊長という主要な地位を占め、先鋭的な活動を続けていた2代目清水組に対し、4次にわたる集中取締りを強力に推進して、44人の構成員中、組長、幹部ら20人を、賭博、覚せい剤密売、けん銃不法所持、不法監禁等で逮捕した結果、他の組員も脱退、離散したことから、組長も組織維持を断念し、同組は壊滅した(兵庫)。
〔事例2〕 松山市に進出を図った山口組系暴力団と地元兵藤会系暴力団が、3月から10月までの間に、8回にわたる抗争事犯を起こしたのに対し、警察では強力な取締りを実施し、抗争団体の首領をはじめ、幹部、組員ら74人を逮捕した。なかでも、対立抗争の中心団体である山口組系木村組と地元兵藤会に対しては、木村組31人中20人、兵藤会54人中14人を殺人未遂、傷害、恐喝、銃器不法所持等で逮捕した。その結果、残存組員も組織から離脱して組事務所に詰める者もいなくなり、壊滅状態に陥った(愛媛)。
〔事例3〕 組織ぐるみで東京進出を企てた山口組系暴力団は、中野区に事務所を設置し、地元暴力団と資金源をめぐって対立状態にあった。警察では集中取締りを強力に推進し、山口組系暴力団構成員57人中、首領、幹部ら16人を数回にわたり反復検挙するとともに、武器多数を摘発した結果、残存組員は離散し、中野の本部事務所及び各支部事務所は閉鎖され同組は壊滅した(警視庁)。
b 資金源の封圧
 暴力団において、親分の支配力や組織内の人的結合を支えるものは「金」であり、資金源こそ暴力団存立の最大の基盤である。したがって、暴力団を壊滅するためには、組織構成員を一人でも多く検挙するとともに資金源を枯渇させねばならない。このような観点に立って警察では、昭和52年においても、あらゆる資金源犯罪を摘発、検挙することを基本とし、特に、暴力団が組織ぐるみで関与している覚せい剤、賭博、ノミ行為、そして首領、幹部級が敢行することの多い知能暴力に重点を置いて資金源封圧作戦を展開した。
 覚せい剤については、密輸、密造、密売といった一連のルートが必要なことから、ほとんどが暴力団の手によって供給されている。また、中毒者の発生により利用者が絶えないこととその利幅の大きいことから暴力団の恒常的な最大の資金源となっているのが実情である。このため、各都道府県警察では、覚せい剤所持使用事犯等の取締りを強化するとともに、刑事、保安部門合同のプロジェクトチームを編成するなどして密輸、密売組織の全容を解明しこれを壊滅させる捜査を推進した。この結果、52年には表2-3のとおり覚せい剤事犯で8,036人の暴力団関係者を検挙し、約30キログラムの覚せい剤を押収した。
 また、賭博、ノミ行為については、昔から暴力団の有力かつ恒常的な資金

表2-3 覚せい剤事犯における暴力団関係者の検挙状況(昭和48~52年)

源となっており、組織の首領、主要幹部をはじめ多くの構成員が関与していることから、その検挙は暴力団の組織力を減殺し資金源を断つ上で極めて効果的である。このため、52年においても取締りを徹底し、賭博、ノミ行為でそれぞれ5,599人、4,411人を検挙した。しかし、最近、国内における賭博事犯の取締りが強化されるにつれ、賭客を韓国等の外国へ連れ出し賭博を開張の上、帰国後賭金等の取立てを行うという傾向が目立っていることから、ICPOを通じて外国警察との情報交換、動向監視依頼等を強化していく必要がある。
 知能暴力については、ここ数年来、首領、幹部クラスを中心に合法的な企業を表看板とすることによって巧みに取締りの目をかわし、また、被害者が社会的信用の失墜等を恐れて届け出ないなどの事情もあって、暴力団の最有力資金源となりつつある。このため52年は、各種知能暴力事犯の検挙を重点の一つとして資金源犯罪の取締りを推進し、多数の潜在事犯を発掘、検挙した。特に、最近暴力団の総会屋等への進出が著しく、企業から直接、間接に多額の金が暴力団に流れ、その新たな有力資金源となっている。このような実情にかんがみ、総会屋等の徹底検挙と併せて、企業自身の手による総会屋等の締め出しを促進するよう積極的な働き掛けを行った結果、総会屋等の検挙は、50年に100人であったのが、51年310人、52年419人と急増し、また、企業自身の自主防衛組織が各地で拡充、新設され、総会屋等に対する賛助金の打切り、削減が相次ぐなどの成果を収めた。
 今後、経済情勢の複雑化、深刻化に伴い、企業や経済取引に絡む知能暴力事犯は一層多発し、手口も一段と巧妙化することが予想されることから、潜在事犯の摘発、検挙を更に徹底するとともに企業等の対決意識、防犯意識を高め、この種事犯の排除、被害の届出の促進等を図っていく必要がある。また、従来から暴力団の資金源封圧対策の一環として合法、非合法を問わず暴力団構成員の判明した所得を税務当局へ通報し、これに対する厳格な課税措置を促進することに努めてきており、52年においては、税務当局との連携による課税作戦を開始して以来最高の149件、約32億円に対して課税通報を行った。
〔事例1〕 山口組系暴力団福田組は、組長A(47)を中心として組織ぐるみで覚せい剤の密売を行い、これを最大の資金源にしていた。これに対し、警察では、数次にわたるいっせい取締りを実施し、組長Aや主要幹部を含む79人を検挙し、覚せい剤等2.3キログラムを押収したほか、覚せい剤仕入れ先の暴力団に対しても強力な取締りを行った。この結果、組長Aは組織維持を断念し、本部及び支部を閉鎖した(大阪)。
〔事例2〕 総会屋K(54)、暴力団総会屋H(45)らが、銀行のミスに付け込んで支店長(49)から1,500万円を恐喝し、更に、同支店長らと共謀の上2億7,000万円の不正融資を受けていた事件を解明し、同支店長も特別背任罪で検挙した(警視庁)。

c 銃器等の押収
 我が国の治安が他国に比べ格段に良いとされる大きな理由の一つとして、銃器等に対する規制、取締りが適切に行われていることが挙げられるが、そのなかにあって暴力団は、けん銃をはじめとする銃器によって武装し、使用することによって国民に大きな脅威と不安を与えている。その意味でも暴力団こそ正に治安のガンである。このため、けん銃等武器の摘発、押収を暴力団取締りの基本課題として強力に推進してきたところである。特に、昭和46年に始まるモデルガン改造けん銃の急増に対しては、52年に銃砲刀剣類所持等取締法を一部改正してその封圧図った。更に同年には、19都道府県に「銃器捜査専従班」を設置して銃器摘発に専念させ、また、対立抗争事件発生時等における制服警察官の暴力団員に対する徹底的な職務質問及びそれに伴う所持品検査あるいは車両検問に伴う検索等を広範に実施するなどけん銃等の摘発の強化を図った。この結果、52年のけん銃押収数は図2-16のとおり1,306丁を数え、特に、真正けん銃については、512丁と戦後最高を記録した。

図2-16 けん銃押収数の推移(昭和48~52年)

 モデルガンが規制されたことから、今後ますます真正けん銃の密輸入事犯が増加することが予想され、国内におけるけん銃捜査を徹底するとともに税関との協力による水際作戦、ICPO、諸外国捜査機関との連絡、共助により密輸の根源にまでさかのぼった捜査を更に強力に進めていく必要がある。
〔事例1〕 山口組と対立抗争を続けている松田組の中で最先鋭団体である大日本正義団の会長以下5人を、銃刀法、火薬類取締法、爆発物取締罰則違反等で逮捕し、真正けん銃31丁、サブマシンガン1丁、猟銃1丁、ダイナマイト4本、米国製手りゅう弾2個、けん銃実包979発、散弾43発を押収した(大阪)。
〔事例2〕 住吉連合系暴力団組長(40)らが米国人を運び屋に使い、前後5回にわたってハワイから、けん銃160丁、実包1,300発を空輸したハワイルート事件及びこの事件を解明中、タイ人を現地での買い集め人に使って25回にわたってタイからけん銃110数丁を密輸入したタイルート事件をそれぞれ関係各国の協力を得ながら解明し、15人を検挙した(警視庁)。
(イ) 取締りに伴う市民の保護
 取締りに協力した市民が暴力団員から脅迫されるなどのいわゆる「お礼参り」事件については、警察では全力を挙げてその防圧に努めており、その結果、最近ではその発生が極めて少なくなっている。しかしながら、警察では万を予想し、警察官による定期又は随時訪問を実施しているほか、緊急通報装置を設置するなどして被害者、参考人等の保護に万全を期している。
 また、市民の身近に発生し、日常生活を脅かす暴力団の各種不法行為については、多くの都道府県警察で暴力110番、暴力問題相談所、投書箱等市民からの情報連絡のルートを設け、種々協力を得、これを暴力団取締りの大きな原動力としている。
〔事例1〕 父親から「娘が暴力団員(30)と家出して困っている。」という相談を受けたことから、捜査を進めた結果、大規模な覚せい剤密売事件を解明し、極東関口一家系暴力団幹部ら12人を検挙するとともに女子高校生を保護した(千葉)。
〔事例2〕 暴力110番を利用して、「家賃を払わないやくざの親分に脅されている。」という通報があったことから、山口組系暴力団組長(37)を家主に対する恐喝事件で逮捕した(愛媛)。
イ 暴力団を社会から孤立化させるための諸活動
(ア) 盛り上がる暴力排除活動
 暴力排除のための国民各層の諸活動は、たゆみなく行われてきたが、昭和52年においても、対立抗争事件の発生地の議会において暴力排除決議がなされたのをはじめ、各地の地域、職域団体において暴力排除集会が開かれ、暴力排除宣言が採択される例が相次いだ。そして、これらの動きは、単なる一回の集会、宣言にとどまらず、より具体的で、継続的な運動として定着しつつあり、各種住民団体、地域及び職域の防犯協会、商工会議所、各種業者団体等が、暴力追放を目的とする自主的な連合組織を結成し、警察や自治体と密接な連絡を取りつつ、集会の定期的な開催、広報誌(紙)の発行等幅広くかつ恒常的な活動を展開している例も多数みられた。
 また、暴力団は、都市部の商店街や住宅密集地区に公然と事務所や居宅を構えており、対立抗争事件に際して誤って隣家に爆弾が投げ込まれるなど、周辺住民に直接、間接の被害を与える例がみられた。このため、近隣の住民の暴力排除気運が高まり、家屋賃貸拒否決議、事務所や居宅及び代紋や看板の撤去要求決議等をはじめ、署名運動、抗議デモ、抗議文の手渡し等の実践運動が行われ、このような住民運動を背景として、組事務所の貸主が、無断転貸等賃貸借契約の条件違反を理由に契約の更新を拒絶したり(大阪、山口)、契約解除、家屋明渡訴訟を起こして勝訴する(福岡、沖縄)など、組事務所を閉鎖に追い込んだ事例も目立った。
 これらの暴力排除活動に対しては、警察は、あらゆる面でこれを支援し、運動に対する妨害の排除と住民の保護に努めている。
〔事例〕 対立抗争事件を機に結成された山口県暴力追放県民会議は、8支部2,170団体から成り、警察や自治体と密接に連携して、暴力団事務所の追い出し、街頭キャンペーンの実施、暴力看視連絡員の設置等広範な活動を展開した。例えば岩国市の住宅街にあるビルの2、3階に新興暴力団が事務所兼会長居室を借用していたが、同事務所前路上で組長が対立暴力団に射殺されるという凶悪事件の発生に、地元住民はいち早く立ち上がり、地区内全世帯の署名を集め家主を通じて事務所の撤去を働き掛けたり、暴力追放県民会議等とも力を合わせて広範な運動を展開したため、同暴力団はやむなく家財道具を取りまとめて退去した。
(イ) 義理かけ行事及び各種会合の締め出し
 暴力団のいわゆる義理かけ行事や各種会合は、社会慣習を仮装した資金獲得や、他団体に対する勢力誇示を目的とする活動であり、会場周辺住民に著しい恐怖と不安を与えるものである。このため、警察ではこのような暴力団の行事、会合そのものを許さないという立場から、これを行おうとする暴力団に対して厳重な事前警告等を行うほか、会場として利用される機会の多い風俗営業、飲食業、旅館業等各種業者の団体や神社、寺院等宗教団体に対して、暴力団の会場使用拒否決議を行うよう働き掛けてきた。しかし、最近では、暴力団も企業の会合を仮装したり、また、一般人を予約申込みの名義人にするなど巧妙な手口で会場使用の予約を取り付けた上、契約履行の名の下に行事、会合を強行することが多くなったため、警察では、従来以上に密接に関係者と連絡を取りながらその排除に努めている。
〔事例〕 関西の反山口組系暴力団9組織73団体で結成している関西二十日会は、10月、山口県内で定例会を開催する予定であったが、山口県議会の暴力排除決議、警察の取締り、業者の会場提供拒否等、県、警察、業者等が一丸となった排除活動に遭ったため、韓国での開催を図った。しかし、日本警察から通報を受けた韓国治安当局が開催を認めなかったため、再び国内での開催を図り、結婚披露等の名目で福岡県下の旅館、ホテルに申し込んだが、これら業者は、警察と密接な連絡を取って、この申込みを拒絶した。
(ウ) 総会屋排除に団結する企業
 総会屋を企業から排除するため、警察では、企業自身の手による総会屋締め出しを積極的に働き掛けた。この結果、昭和52年においては、東京で、既存の特殊暴力防止協力会が拡充されて12団体、798企業加盟となったほか、大阪においても、全上場企業を含む345社加盟の大阪府企業防衛連合協議会が発足し、また、神奈川、京都、福岡等においても同様の自己防衛組織が相次いで発足した。これらの連絡会、協議会等では、定期的に、総会屋についての情報交換や、具体的な対策の協議を行い、また、検挙された総会屋に対する賛助打切りや、新規賛助及び賛助金の増額の拒否等を決議した。更に、山口組系の総会屋から記念講演会への出席を強要された大阪の企業数十社がこれに対する不参加を決議したり、企業防衛協議会において、総会屋に対する賛助金を拒否するための実施基準を決めるなど、総会屋排除のための活動が一段と具体化、積極化した。
 総会屋排除の問題は、企業が暴力団の資金源になっているとの見地から、企業の社会的責任にもかかわる問題であることにかんがみ、単に株主総会担当者のみならず、企業の幹部自身がその実態と害悪を認識し、個々の企業そして業界全体が総会屋への対決姿勢を強めていく必要があろう。同時に、警察はこのような姿勢を執る企業及びその担当者に対し、支援、保護活動を強めるため、常時企業を訪問する(企業パトロール)などの活動を強化していかなければならない。
〔事例〕 山口組系の総会屋K(54)は、刑務所出所後自己の経営する団体の創設10周年記念講演会を開催することを計画し、一部の企業に対して案内状と記念品(時価約2万円相当)を送った。これに対し、警察は会場となったホテルに対して会場提供拒否を要請し、また、企業間組織を通じて加盟企業に同講演会への不参加を強く呼び掛けたところ、ホテルは会場使用契約の破棄を同人に通告し、一方、加盟企業30社は、同講演会への不参加を決議し、また、記念品を送られた20社は、これを同人に送り返した。このような警察、業者、企業の一体となった排除活動によって、総会屋主催の講演会の締め出しに成功した(大阪)。

5 今後の課題

 暴力団と暴力団犯罪を我々の社会から根絶するためには、何よりもまず警察の強力な取締り活動が必要であることはいうまでもない。このため、警察は、今後とも暴力団取締りの体制を一段と整備、充実し、暴力団の実態と暴力団犯罪の動向に即応した的確な取締り活動を効果的に進めていかなければならない。
 しかし、一方において、我々の社会の中に暴力団の存在を容認し、あるいは支えるといった側面があることも否定できない。例えば、社会の一部とはいえ、暴力団を一種の必要悪と認めるがごとき風潮や、ヤクザ社会を容認するような考え方が残存していること、暴力団による不法なあるいは反社会的なサービスに対する根強い需要が存在すること、暴力団の予備軍ともいうべき非行少年層が絶えず生み出されていること等がそれである。
 暴力団と暴力団犯罪を真に我々の社会から根絶するためには、警察の徹底的な取締りはもとよりであるが、あわせてこのような暴力団の存在を支え、暴力団犯罪を助長するような社会的土壌を崩壊させるための息の長い国民的な努力が必要とされよう。


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