(1) 衝撃を与えた特殊国際事件
ア 「日本赤軍」の狂気の暴走
(ア) 「日本赤軍」の活動
「日本赤軍」の形成は、「世界同時革命」を達成するための「国際根拠地づくり」を模索していた共産同赤軍派の中央委員であった重信房子が、京大全共闘の活動家であったAとともに、昭和46年2月レバノンの首都ベイルートに赴き、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と接触したことに端を発する。しかし、当時、共産同赤軍派は、一連の金融機関強盗事件や連合赤軍事件(同志大量リンチ殺人事件、“あさま山荘”事件)にみられるように、「国際根拠地づくり」よりも国内におけるゲリラ闘争路線を重視するようになったため、重信らとの連絡は絶えていった。
このため重信らは、昭和46年11月、赤軍派に「訣(けつ)別書」を送って、いわゆる「一本づり」等によって独自に同志を集め、「日本赤軍」と名乗ってPFLPとの連帯のもとに活動を進めることになった。
PFLPは、マルクス・レーニン主義に立脚する革命勢力であり、パレスチナ解放を主要任務とするものの、そのためにはアラブ革命、世界革命を達成しなければパレスチナの真の解放はないという立場をとっている。このことが、世界党-世界赤軍-世界革命戦線」を構築して世界同時革命を達成するという共産同赤軍派の考え方に立つ「日本赤軍」とPFLPを協力・連帯させたのである。
なお、彼らは日本向けには「アラブ赤軍」、外国に向かっては「日本赤軍」と使い分けている。
現在、「日本赤軍」は重信を中心に約20人から成り、これを国内外にいる日本人シンパ層が支持しているものとみられており、中東のレバノン等を本拠に、ヨーロッパ各地に活動家を配置して、偽造旅券等を使ってひん繁に往来するなど密接な連絡をとりながら動いている。
そして、彼らはこれまで「アラブの大義」を標ぼうして、「テルアビブ事件」(昭和47年5月)、「日航機乗っ取り爆破事件」(48年1月)を敢行したのに引き続き、49年は、「シンガポール事件」、「クウェイト事件」、「パリ事件」、 「ハーグ事件」と犯行を重ね、その狂気の暴走が国内外に大きな衝撃を与えた。
警察は、関係各国と密接な連絡をとり、捜査を進めた結果、「テルアビブ事件」以降10人を国内において逮捕し、海外にいる者7人を国際手配して行方を追及している。
(イ) 「シンガポール事件」・「クウェイト事件」
a 事件の概要
昭和49年1月31日午前11時45分ごろ(現地時間、以下同じ。)、「日本赤軍」を名乗る日本人2人を含む4人のゲリラが、シンガポールのシェル石油製油所を爆破した後、同製油所のフェリーボート「ラジュ号」を強奪して乗組員5人を人質にとり、シンガポール政府に対し、国外脱出用の飛行機の準備を要求するという事案が発生し、当局と対じしてこう着状態が続いた。
1週間経過した2月6日午前11時43分ごろ、けん銃、手りゅう弾等で武装したパレスチナゲリラ5人が在クウェイト日本大使館を占拠して、大使以下館員ら16人を人質にとり、日本政府に対して“シンガポールのゲリラ4人をクウェイトへ飛行機で送るよう”要求するという新たな事案が発生した。
日本政府は、人命尊重の立場からこの要求を受け入れることとして、特別機を派遣した。同機はシンガポールで犯人4人をとう乗させたうえ、2月8日午前5時54分クウェイト空港に到着した。同空港において、大使館占拠のゲリラ5人が合流し、同日午後7時55分南イエーメンのアデン空港に到着後ゲリラ全員が同国官憲に連行された。
b 警察措置
警察は、「シンガポール事件」を日本人による国外犯としてICPO等のルートを通じ、シンガポール、クウェイト両国警察と緊密な連携をとりつつ捜査を進め、有力容疑者2人を割り出し、引き続き捜査を進めている。
c 事件の背景
「シンガポール事件」・「クウェイト事件」は、「日本赤軍」がパレスチナゲリラと結託して敢行したものであり、イスラエルと親しいシンガポール国内にあって、アメリカ第七艦隊に燃料を供給しているというイギリス、オランダ両国の合弁会社シェル石油を攻撃することによって、全世界に「反シオニズム・パレスチナ革命」と「ベトナム人民の闘争」との連帯をアピールした点で、それまでのパレスチナゲリラの闘争と若干ニュアンスを異にするものであった。
(ウ) 「パリ事件」・「ハーグ事件」
a 事件の概要
昭和49年7月26日午後3時15分ごろ、ベイルートから中東航空211便でフランスのオルリ空港に入国しようとした自称「古家優」なる日本青年が、偽造旅券を行使(ほかにも偽造旅券、偽造米ドルを所持)してフランス警察に逮捕されたのを発端に、関係者11人がいもづる式に逮捕され、うち8人が国外追放になるという事件が発生した。
一方、9月13日午後4時30分ごろ、ハーグ所在のフランス大使館に「日本赤軍」を名乗る3人の日本人ゲリラが、けん銃を乱射しながら侵入し、セナール大使ら11人を大使室に監禁してこれを人質とし、フランスで逮捕、拘禁されている「古家優」の釈放等を要求するという事件を敢行した。
犯人らは、オランダ当局の粘り強い説得とフランス当局が「古家優」の釈放に同意したことなどから、3日後の16日に、初めて人質2人を解放し、更に翌17日夜、「古家優」と交換に人質9人を解放した。そして、フランス差し向けの飛行機でスキポール空港を離陸し、南イエーメンのアデンを経由して18日午後3時55分シリア・アラブ共和国のダマスカス空港に着陸後、同国
に投降した。
b 警察措置
警察は、事件発生とともに、ICPO及び外交ルートを通じてフランス、オランダ両国警察から事案の詳細と捜査状況の入手に努めるとともに、国内における捜査を進めた結果、「古家優」は富山県出身の元会社員Dであることを突き止めるとともに、他人名義の旅券を不正に入手し、同旅券を使って「日本赤軍」の奥平純三を海外に送り出すなどしていた国内偽造旅券グループを割り出し、旅券法違反、有印私文書偽造・同行使等で4人を検挙(ほかに指名手配4人)した。また、「ハーグ事件」の犯人3人についても、オランダ警察の協力により「日本赤軍」の和光晴生、奥平純三、西川純の3人であることが明らかとなった。
c 事件の背景
「パリ事件」・「ハーグ事件」は、「日本赤軍」がリビアに抑留されている「日航機乗っ取り爆破事件」の犯人Cの奪還と資金獲得を目的に、昭和49年秋ごろヨーロッパで日本の公館員又は商社幹部を誘かいして多額の身の代金を強奪することを計画したものの、その準備段階でDが逮捕され、その奪還のために「ハーグ事件」を敢行したものであり、「アラブの大義」とは無関係の「日本赤軍」の独走事件であった。
イ 朴韓国大統領そ撃事件
(ア) 事件の概要
韓国では金大中事件(昭和48年8月)以来、「維新憲法」の改正運動、「民主回復運動」等朴政権批判の動きが活発化し、これに対し韓国政府は、緊急措置の発動等により対処してきた。一方、在日反朴系韓国人も朴政権打倒を目指し、在日韓国大使館に対するデモ等積極的な活動を行ってきた。
このような情勢下において、昭和49年8月15日、ソウル市内にある国立劇場で開催された光復節式典会場において、演説中の朴大統領がそ撃され、陪席していた陸英修同大統領夫人が射殺されるという事件が発生した。犯人は現場で逮捕され、他人名義の旅券を所持する大阪在住の韓国人文世光である
ことが判明した。
(イ) 捜査状況
事件は国家の最高指導者に対する暗殺を企図した重大な犯罪であるため、警察庁に対策委員会を、大阪府警察本部に特別捜査本部を設置して捜査を強力に推進した結果、次のような事実が判明した。
文世光は、金大中事件後の昭和48年9月ごろ朴大統領への犯行を決意し、同年11月けん銃入手のため香港へ旅行したが失敗した。しかし、昭和49年7月18日、大阪府南警察署高津派出所から警察官のけん銃を窃取し、次いで旅券を不正入手するなど諸準備を完了した後、8月1日「戦闘宣言」と題して朴大統領暗殺宣言と韓国革命を強調した一文を書き残し、同月6日他人名義の旅券で渡韓して、15日ついに犯行に及んだものである。また、旅券の不正入手に関して、文世光の高校時代の知人である日本人Fが、文に頼まれ、夫名義の旅券の不正入手を幇助したことが判明したので、同人を旅券法及び出入国管理令の違反で8月16日逮捕(同月18日送致、28日起訴)するとともに、文の自宅を捜索し、犯行の動機、目的を裏付ける文書や高津派出所で盗まれたけん銃2丁のうちの1丁と弾丸ほか証拠品多数を発見し、押収した。
また、盗まれたけん銃用帯革等の付属品を、文の自供どおり奈良県の大和川の川底から発見した。更に、けん銃窃取については、文の単独犯と断定し得る証拠を発見するなど捜査は一応の進展をみた。
文世光は韓国の裁判で、第1審(10月19日死刑判決)、第2審(11月20日控訴棄却)とも起訴事実を認め、12月17日大法院で上告棄却となって死刑が確定し、12月20日執行された。
大阪府警察は、文世光の行為のうち国内法に触れる部分について独自の捜査を進めてきたが、12月25日文にかかる殺人予備、窃盗(けん銃)、密出入国、旅券不正入手、銃砲不法所持等の犯罪事実をもって大阪地方検察庁に送致するとともに、特別捜査本部を解散した。
なお、同特別捜査本部は、関係警察の協力を得て、この間延べ1万1,500人の捜査員を投入して、Fの逮捕、文の自宅等9箇所の捜索、参考人約130人の取調べ、約2万6,400箇所に対する聞込み捜査等を行ったが、なんらかの準備のためと認められる文の都内赤不動病院入院の経緯や、同病院の入院費、渡韓費用等今回の犯行に費消した資金約110万円の出所が今なお解明されていないので、送致後も引き続き捜査を進めている。なお、韓国側の捜査によると、赤不動病院への入院も犯行に費消した資金も在日朝鮮総聯生野西支部政治部長の指導、援助によるものとしており、文自身も韓国における裁判でこれを認めている。
(ウ) 事件の背景等
文世光は、大阪市で生まれ育ち、日本の学校で教育を受けた。高校時代に民族意識を高め、また、共産主義に興味を持ち、反体制運動に参加したこともあり、犯行当時は専ら反朴運動に従事していた。
韓国捜査当局は、8月17日、事件は北朝鮮及び在日朝鮮総聯の指令、援助によって敢行されたもので、日本人F夫妻及び朝鮮総聯生野西支部政治部長は共犯者である旨発表し、日本政府に対し捜査協力を要請してきた。この事件に加えて、「北の脅威」に関するいわゆる「木村外相発言」等で韓国に反日ムードが高まり、反日デモが強まって、ついに9月6日在韓国日本大使館乱入、国旗損壊事件の発生をみるに至り、日韓関係は緊張した。日本政府としては、国内法の許す範囲内で捜査に協力する方針を決めるとともに8月19日田中首相が朴大統領夫人の国民葬に参列し、更に、9月19日椎名特使が訪韓するなど善隣友好関係の維持に努めた。この結果、反日ムードは急速に鎮静したが、国内では朝鮮総聯に対する法的規制の問題等をめぐって国会で激しい論議が交わされた。
(2) 暗躍するスパイとの闘い
近年、通信機器、マスコミ媒体等の急激な発達により、世界をかけめぐる情報は、質の向上とともに量的にも増大の一途をたどっているが、それにもかかわらずいわゆるスパイが目的とする「国家機密」、「軍事機密」等の重要性は依然として高く、それらをねらってスパイ活動が活発に行われている。
特に我が国は、従来から国際共産主義勢力のスパイ活動の対象として重要視されてきたところであるが、国力の増大、国際的地位の向上は、我が国がスパイにとって非常に活動しやすい国であることと併せて、複雑な国際情勢や利害対立を背景に、我が国に対する、あるいは我が国を場とするスパイ活動の活発化を招いてきている。また、国際交流の活発化につれて、我が国に出入国する外国人は年々増大している折から、これら外国人のなかには、スパイ活動に関係している者や、社会主義体制からの脱出を図る者等が含まれており、昭和49年6月、大阪外国語大学客員教授ソ連人が、大阪府警察本部に保護を求め、アメリカへ亡命した例に代表されるように、いろいろな形での事案の発生は避けられない状況にある。
スパイは、公館員、貿易関係者、留学生等に身分を変えて日本に潜入し、表面は通常人と変わらない生活をしているが、裏では特殊無線機等のスパイ用具を使い、日本人を巧妙に手先に組み込んで各種の秘密を盗んでいる。
これら日本で暗躍するスパイは、我が国に直接のスパイ取締法規がないためかなり自由に行動しており、スパイ活動の一端が、出入国管理令、外国人登録法、電波法等の法律に抵触する場合にのみ検挙されて表面化しているにすぎない。以下は、昭和49年中の主なスパイ事件の例である。
ア クブリッキー事件
昭和49年2月13日、神奈川県警察は、無国籍チェコ人クブリッキーを外国人登録法違反(虚偽申請)で逮捕した。その取調べの結果、次のような事実が判明した。
クブリッキーは、チェコスロバキア空軍に入隊後、軍事スパイ養成学校においてスパイ教育を受けた後、オーストリア、イタリア、西ドイツ、アメリカ、カナダを転々とし、その間伝書使的役目を主としたスパイ活動を行っていたようである。
その後昭和48年12月27日、イギリス人「H」名義の偽造旅券を使ってカナダのトロントから羽田へ密入国し、カナダで受けた指令に基づいて、昭和49年1月11日から3日間、ジャパンタイムズ紙に「ヨーロッパ人、年齢28歳、
英語、ロシア語、ドイツ語、日本語少々…」という内容の求職広告を掲載した。同月16日に至り、フェドロフと称する人物から照会があり、その人物と都内のホテル等で接触した。
クブリツキーは、フェドロフから、日本を出国して「H」でもクブリッキーでもない全くの別人として日本に再入国して定着し、特殊経歴を活用して日本の防衛産業、軍事基地に関する情報活動をせよとの指示を受けたが、これに従えば完全なスパイとなって抜き差しならない羽目に陥ってしまうと考え、フェドロフとの関係を絶って日本警察に自首して不法入国事実を申告してその保護を求めようと決意し、昭和49年2月11日に至り神奈川県警察に出頭したものである。事件はまさに日本国内において本格的にスパイ活動を展開しようとする準備段階において発覚したわけである。
昭和49年7月2日、横浜地方裁判所は、被告人クブリッキーに対し、出入国管理令違反(密入国)、外国人登録法違反により懲役1年、執行猶予3年の判決を言い渡し、7月16日、刑が確定した。
イ 李日学事件
昭和49年5月20日、愛知県警察は、名古屋市内で活動していた北朝鮮スパイ李日学を外国人登録法違反(無登録)で逮捕した。その取調べの結果、次のような事実が判明した。
李日学は、朝鮮労働党員として北朝鮮元山市所在の農業協同組合に勤務していたが、昭和48年4月、対日スパイ要員に採用され、約3箇月間のスパイ教育を受けた後、7月中旬ごろ、日本円200万円、米ドル紙幣、乱数表、暗号表等を携え、北朝鮮から高速艇で石川県猿山岬付近の海岸に密入国した。上陸後、名古屋市に潜入し、在日朝鮮人宅をアジトにして、本国からの暗号放送による指令を受けながら、在日韓国系商工業者をスパイに養成し、スパイ活動を行わせることを任務として活動していた。
昭和49年8月5日、名古屋地方裁判所は、被告人李日学に対して懲役10月の判決を言い渡し、8月19日、刑が確定した。
ウ 孔泳淳事件
昭和49年6月26日、警視庁は、千葉県下で潜伏活動中の北朝鮮スパイ孔泳淳を出入国管理令違反(密出入国)等で逮捕した。取調べの結果、次のような事実が判明した。
在日朝鮮人孔泳淳は、昭和44年9月ごろ我が国で北朝鮮スパイの働きかけを受けてスパイとなり、北朝鮮からの暗号指令放送を乱数表、換字表等を用いて解読受理しながら、対日、対韓工作及び情報収集を遂行していた。すな
わち、千葉県下にアジトを設けて新東京国際空港建設工事に携わり、同空港関係の情報を収集し、また、来日する韓国人の引き入れ工作を行い、その結果を暗号化して国際郵便で北朝鮮に報告していた。
孔は、昭和27年当時、日本共産党員として在日本大韓民国居留民団の幹部宅焼き打ち事件、第三次小河内(おごうち)山村工作隊事件に加わり逮捕されたが、保釈後逃亡生活を続け、その間にスパイに仕立てあげられたものである。また、孔はスパイ活動の一環として、昭和48年には、日本人名義の旅券を不正入手して香港及び韓国へ密出国していたことが判明した。
エ 切浜(きりはま)事件
昭和49年9月19日、兵庫県警察は、日本海沿岸の兵庫県切浜海岸に密入国した北朝鮮スパイ機関員咸国上と同海岸付近から密出国を企てた在日北朝鮮スパイGの2人を出入国管理令違反で逮捕した。事件の概要は次のとおりである。
9月18日夜、警察官が密入国事犯取締りのため県下城崎沿岸一帯の警戒に従事中、切浜海岸岩場で船外機付きゴムボートに乗っている不審者(咸国上)を発見した。咸は、やにわにエンジンを始動させて逃げようとし、付近の岩礁に乗り上げたために海中に飛び込み逃走を図ったが、警察官が追跡して密入国現行犯として逮捕した。更に、翌日午前10時20分ごろ、現場近くの道路上で不審な男(G)を発見し、職務質問したところ、乱数表、暗号表等のスパイ用具を所持しており、北朝鮮へ密出国しようとしたが迎えの者と接触できないまま現場付近にいたことが分かったので、出入国管理令違反(密出国企図)で同人を逮捕した。
取調べの結果、Gは昭和47年3月、日本で北朝鮮スパイの働きかけを受けて、同年4月、秋田県象潟(きさがた)海岸から密出国して北朝鮮に行き、2年間のスパイ教育を受けた後、49年5月、外国人登録証切替えのため切浜海岸から密入国したが、暗号指令を受け再び同海岸から北朝鮮に向けて脱出を企てたものであった。また、Gは北朝鮮のスパイ機関から「日本海での密入国は99%発見されることはない、迎えの者が捕まっても徹底して遭難を主張するから安心せよ」と指導されていたことも判明した。
本件は、北朝鮮スパイの潜入脱出ルート、いわゆる日本海ルートを担当している海上スパイ機関がスパイを脱出させるため迎えに来たという典型的なケースであるが、咸国上は、終始ゴムボートとの関係を否定するとともに遭難を主張し続けている(注)。
(注)これまでの密入国で逮捕された北朝鮮海上スパイ機関員は、昭和37年の解放号事件、46年の金南鮮事件、48年の温海事件等に見られるように、遭難を主張するのが例である。
(3) フォード米大統領来日時の警備
フォード米大統領は、キッシンジャー国務長官ら随員一行とともに、昭和49年11月18日来日され、東京における天皇との御会見、日米首脳会談、宮中晩餐会等各種公式行事のほか京都旅行等4泊5日にわたる日程を無事終了して、11月22日、次の訪問先の韓国へ向け離日された。
ア 来日反対・阻止行動
左翼諸勢力等は、米大統領の来日を「米・日・韓反革命体制の維持防衛にある」とか「核持込みの公認、日米核軍事同盟の強化を図るもの」ととらえて、来日前日(17日)から連日大衆行動を繰り広げ、離日までの6日間に延べ約28万5,000人を動員して「来日反対・阻止闘争」を展開した。なかでも、極左暴力集団は6日間に延べ約1万5,000人を動員して、来日当日(18日)をヤマ場に、東京国際空港に突入しようとして激しく警備部隊に突きかかるなどの違法行為を繰り返したほか、来日を前にした11月14日「米・ソ両大使館襲撃事件」、離日日(11月22日)「在福岡米国領事館襲撃事件」等を敢行して「実力阻止」を叫んだが、徹底した警備により大統領一行の身辺の安全が確保され、日程にも支障はなかった。
イ 警備措置
フォード大統領の来日は、我が国が国賓として招へいしたものであり、しかも現職米大統領としては初の来日であった。この国家的行事を迎えるに当たり、警察は、昭和35年当時のアイゼンハワー大統領の来日が反対運動の高揚等を理由に中止されたという事情もあり、今回も左翼諸勢力による反対行動の高揚が予想され、とりわけ8月の「丸の内ビル街爆破事件」及び10月の「三井物産館内爆破事件」が未解決であって、不測の事態発生も懸念されたので、「米大統領一行の身辺の安全確保と関係諸行事の円滑な遂行」を最重点として警備に当たった。
まず、警察庁においては、9月20日、「フォード米大統領訪日警備対策委員会」を設置し、また、11月11日には、「フォード米大統領訪日警備対策室」を設置して全国警察に対する指導と連絡調整、更に外務省等関係省庁及び米側警護担当者との連絡、情報交換等の諸対策を推進した。
米大統領の来日に伴う警備を直接担当した警視庁、京都、大阪、兵庫の各都府県警察及び皇宮警察においては、それぞれ「フォード米大統領訪日警備対策委員会」を設置して事前の警備諸対策、準備を進め、来日中は厳戒体制で臨み、事前警備を含め期間中(11月11~23日)、延べ約16万人の警察官を動員して、空港(東京、大阪)、迎賓館等の宿舎、各行先地及び沿道等における警備の万全を期した。
このほかの道県警察においても、左翼諸勢力が「米大統領来日反対・阻止闘争」として取り組んだ集会、デモ等の警備に当たった。
この間、11月14日及び11月22日、米大統領来日(及び訪韓、訪ソ)阻止を叫んで極左暴力集団(マル青同)が敢行した「米・ソ両大使館襲撃事件」及び「在福岡米国領事館襲撃事件」において11人を建造物侵入、公務執行妨害等で、11月16日米大統領来日に抗議して東京国際空港に侵入して発煙筒を投げるなどした極左暴力集団(プロ青同)3人を航空法違反で、更には、米大統領来日当日(11月18日)、空港周辺の蒲田地区で取り組まれた極左暴力集団各派の「米大統領来日阻止闘争」において、デモの途中で警備に当たって
いた警察官に投石し、あるいは竹ざおを構えて突きかかるなどの暴行を加えた極左暴力集団(第4インター、革労協等)188人を公務執行妨害で、それぞれ逮捕したのをはじめとして、全国で合計226人(うち極左暴力集団220人)を公務執行妨害、火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反、公安条例違反、屋外広告物条例違反等で検挙した。
表7-1 フォード米大統領の来日日程
ウ 警護措置
警察は、国賓のフォード大統領のほかキッシンジャー国務長官を対象として、自動車列の編成、警護員の服装等国際儀礼にも配意しつつ厳重な警護を実施した。
すなわち、警護実施に先立ち関係省庁、関係機関あるいは米国大使館等と細部の打合せを綿密に行って警護に臨んだ。身辺警護に当たっては、各都府県警察が経験豊かな警護員を選んで警護等を実施したほか、自動車列には白
バイ、パトカー、警護車、遊撃車等を配置し、身辺の絶対安全を期した。更に、国賓一行の行先地、沿道、宿舎についても、爆発物、銃器対策に重点をおいた諸対策を講じるとともに厳しい警戒体制をとり、危険物、不審者等の発見に努めた。
以上のような警察活動の結果、フォード大統領は全日程を無事終了し、我が国警察に対する感謝の意を表して予定どおり大阪国際空港から訪韓の途につかれた。
日本共産党は、「民主連合政府」構想が「宣伝のスローガン」から「実践的スローガン」の段階に入ったとの認識のもとに、多方面にわたる活動に積極的に取り組み、幅広い諸分野で党の影響力を拡大して、同構想を一層進展させた。
まず、党勢の面では、昭和49年中3回にわたって特別月間等を設けて、その拡大を図った。この結果、党員数は昭和48年11月の第12回党大会時(党発表30数万人)をやや上回る程度の微増にとどまったが、機関紙「赤旗」の購読部数は同党の発表によると、同大会時の280数万部から約307万部(本紙66万部以上、日曜版240万部以上)に達したとしている(昭和49.12.24付け「赤旗」)。
表7-2 日本共産党党員数の推移
更に、日教組、自治労、国労をはじめとする主要な労働組合や消費者運動等各種の市民運動に対する影響力を強めるなど、社会の各分野で党活動の舞台を大きく押し広げたとみることができる。
こうして、「民主連合政府」構想は着実に進展したが、同時に、これに伴って同構想の行く手をさえぎるようないろいろな問題が表面化してきた。すなわち、各種の分野で共産主義と日本共産党に対する関心が増し、様々な疑念と批判がみられるようになった。ソルジェニーツイン問題をきっかけに高まったジャーナリズムの論調や自由民主党の意見広告、「文芸春秋」に掲載された「『民主連合政府綱領』批判」、公明党との公開論争等を通じて、共産主義における自由と民主主義、「党綱領」と「民主連合政府綱領案」との関係、党綱領が明らかにしている日本共産党の革命路線と憲法、議会主義等の問題について疑念の高まりがみられた。これらの本格的な批判に対し同党は「反共主義」であると反論し、各種の論争が繰り広げられた。
また、共闘、統一戦線の問題をめぐっても、日本共産党と他の野党の間で路線、イデオロギーの相違に基づく本格的な論争が繰り返された。
こうしたなかで、日本共産党と他の野党の間の選挙共闘が不成立に終わるとか、共闘が成立した場合にも内部で不協和音が目立ち、このため共闘の効
果が減殺されるなどの状況が相次ぎ、日本共産党の統一戦線づくりは停滞することとなった。
更に、昭和49年7月の参議院選挙における日本共産党の得票には、得票率の伸びが著しく鈍化するなど重大な変化がみられたことから、同党は8月の第4回中央委員会総会(4中委総)で、党体制と選挙闘争の建て直しを迫られるという深刻な事態に直面した。
ところで、日本共産党は以上のような複雑な情勢への対処に努めるかたわら、党内にあっては昭和49年7月の幹部会の決定で、暴力革命の方針やプロレタリア独裁論を公然と主張しているレーニンの「国家と革命」やマルクス、エンゲルスの「共産党宣言」を党員必読の「独習指定文献」からはずした。
指定文献の一部変更のねらいについて、8月5日の「赤旗」所載の4中委総決議で「反共勢力は、今日の日本とはまったくことなる歴史的事情のもとにのべられたマルクスやレーニンの個々のことばをあげ、これをもってわが党の路線を攻撃する材料とする手口にしばしば訴えている」と述べているが、このことは、マルクスやレーニンの古典を引用しての共産主義や日本共
産党批判を封じるためのものであったことを示している。
日本共産党は、「マルクス・レーニン主義を理論的基礎とする」、「日本の労働者階級の前衛部隊」であるという革命勢力としての基本的性格を明示した党規約と、「民主連合政府」を踏み台にして「人民の民主主義革命」とそれに引き続く「社会主義革命」を遂行していくとする基本的革命路線を明示した党綱領を、依然として堅持している。また、党綱領について述べた宮本顕治著「日本革命の展望」をはじめ多くの党の基本的文献を、引き続き「独習指定文献」として、全党員の学習教育を進めることにしている。これらのことから明らかなように、同党の革命勢力としての基本的な性格と基本的な革命路線には、いささかの変更もなかった。
これから先、日本共産党は、70年代後半における政治の不安定化、経済の低迷、社会基盤のぜい弱化という基本的情勢を見通しつつも、他方統一戦線づくりの停滞その他の「民主連合政府」構想、の行く手を阻む動きが現れてきたことを重視し、これを克服するため、全党を引き締め、「原則」重視の路線を推進するなど、情勢に即応した党活動の進展を図ることで、「民主連合政府」樹立の条件を整えることに全力を注ぐものとみられる。
(1) 最悪の事態を迎えた内ゲバ
ア 発生状況
昭和49年中に警察がは握した内ゲバは286件に及び、死者11人、負傷者は607人、検挙者は428人に上った。過去の年間最高であった昭和46年の4人をはるかに超える11人もの死者が出たことが如実に示すように、49年は内ゲバが一層凶悪化し、「テロ」の報復合戦のうちに推移したことが特に注目された。
発生状況をみると、図7-1のとおり、極左暴力集団相互の内ゲバが193件で全体の67.5%を占め、そのほとんどが革マル派対反革マル派(とりわけ中核派)の抗争であった。
図7-1 内ゲバの発生状況(昭和45~49年)
場所別では、内ゲバは従来学園紛争等に関連して大学内で発生することが多かったが、個人「テロ」の色彩が濃くなるにつれ学外で発生する比率が高くなり、昭和49年には大学内84件、学外202件となった。地域的には、東京121件に対して、大阪32件、神奈川21件、福岡17件、広島、沖縄各14件等地方165件で、地方での発生が目立った。
イ 内ゲバの実態
かつて内ゲバは、集会の主導権をとろうとして、あるいは自派の動員力、組織力を誇示するため、双方が旗ざお、ゲバ棒で殴り合うといったケースが多かった。ところが、昭和48年後半から個人「テロ」へと傾斜し、49年はとりわけその様相を深めた年であった。
最近の内ゲバのやり口は次のとおりである。
[1] 極左暴力集団各派は、「人民革命軍・武装遊撃隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア突撃隊」(反帝学評)等を内ゲバに投入し、攻撃をかけようとねらいをつけた相手の動静を徹底的に調査する。
[2] 次いで相手のすきをねらって、場所を選ばず奇襲する。その際、マンションの隣室のドアを回覧板と偽って開けさせ、土足のまま駆け抜けベランダから相手の部屋に突入した例や、屋上から縄ばしごを使ってベランダ越しに相手の部屋に侵入した例もある。このため内ゲバによって一般市民が迷惑を被る機会が増えている。
[3] 使用する凶器も、鉄パイプ、バール、おの、とび口、刃物とエスカレートし、しかも主要な凶器である鉄パイプは携行に便利なように伸縮式のものを考案したり、これら凶器をボストンバッグ等に隠して携行するなど、携帯方法も巧妙になっている。
[4] 攻撃部位も、相手方活動家を再起不能に陥れるように、頭部をはじめ足、腕の関節をねらうといった事案が増加している。
[5] 物理的攻撃だけでなく、「ナーバス作戦」と称して相手方に襲撃を予告したり、犬、鶏の生首等を送り届けるなどの心理作戦も展開されている。
ウ 内ゲバの原因
内ゲバの原因としては、他派を切り崩そうとしてのトラブルや、学生自治会の主導権争いといった点も見逃せないが、基本的には思想集団特有のか烈な「分派闘争」である。すなわち、極左暴力集団各派はそれぞれ自派の革命理論、戦術方針こそが唯一の正しいものであって、自派以外は革命を混乱させる有害な勢力-革命の敵であるから、これをせん滅しなければならない、との「分派撃滅」の理論をよりどころにして、内ゲバに狂奔している。
したがって、極左暴力集団は、内ゲバを「革命闘争であり、武装解放闘争の重大な萌芽であって、日帝に対する70年代の武装闘争の導火線である」と位置づけ、内ゲバは革命達成に不可避のもので、それを遂行することが崇高な義務であるとさえ称している。
なお、内ゲバは、それが革命闘争としてとらえられている以上、一方が他のセクトを完全に圧倒するとか、格好な闘争課題を得て暗黙のうちに双方が矛を納めていくということにならない限り、相手セクト幹部のせん滅を期して、「テロ」的様相を呈しつつ引き続き発生するものとみられる。
エ 警察措置
警察は、このような内ゲバに対し、不穏動向の早期は握に努める一方、必要な警戒態勢をとるなど、警察力を総合的に発揮してこれに当たるとともに関係機関や広く一般市民にも、不審動向の迅速な通報等協力を呼びかけるな
ど、所要の措置を講じて、事案の未然防止を図っている。また、発生した事件に対しては、規模の大小にかかわらず、あらゆる法令を適用して、現場検挙を徹底するとともに、事後捜査を強力に推し進めており、昭和49年中に428人を検挙し、「内ゲバ殺人事件」5件を含む54件を解決している。
表7-3 昭和49年中の内ゲバによる死亡事案
(2) 厳戒を要する極左暴力集団の動向
極左暴力集団は、「70年闘争」、「沖縄返還阻止闘争」のざ折にもかかわらず、依然として70年代に暴力革命を達成するとの方針のもとに、組織の非公然化、軍事化を進め、テロ・ゲリラ能力を高めることに重点を置きつつ、その再編強化に努め、革命のきっかけをつかむべく闘争を盛り上げようとしているので、引き続き厳戒を要する。
ア 進む組織の質的強化
極左暴力集団の総勢力は図7-2のとおりで、昭和49年は約3万5,000人で、前年より2,000人(5.4%)程度減少した。これは、高校生団体が学校当局等の適切な管理対策と一般生徒の極左分子への批判の高まりによって勢力を衰退させたことや、べ平連が解散し、新組織への出直しを進めたために生じた減少が大部分を占めるなど、いわば付和雷同層の脱落によるものである。しかし、その頭脳的、中枢的部分である政治団体構成員は、むしろ増加の兆しさえみられている。
図7-2 極左暴力集団勢力推移(昭和42~49年)
しかも、「70年闘争」や「沖縄闘争」で逮補され、獄中にあった有力な幹部活動家も出所して「戦列」に復帰してきているので、その指導力、行動力の面で柔軟さ、老練さが加わってきた。
イ 爆破事件の再発
昭和49年2月、「黒へル的高校生グループ」によって栃木県下の真岡警察署等に爆発物が連続的に仕掛けられ、警察官1人がひん死の重傷を負った事件が発生した(5人検挙、1人を指名手配中)。
その後8月以降、三菱重工(8月30日)、三井物産(10月14日)、帝人(中央研究所)(11月25日)、大成建設(12月10日)、鹿島建設(内装センター)(12月23日)と一連の企業爆破事件が続発し、更に12月18日には新東京国際空港内で爆発物が仕掛けられた事件(不発)が発生した。
これら一連の企業爆破事件については、事前の予告電話や犯行後新聞社等に送られてきた犯行自認の声明文等からみて、昭和49年3月爆弾製造教本「腹腹時計」を地下出版して初めて名乗りを挙げた「東アジア反日武装戦線
“狼”」と称する組織等が犯行に何らかの関係があるのではないかとみられるので、全警察を挙げてこれらグループの解明を急いだ。
ところで、極左暴力集団の犯行とみられる爆発物事件は表7-4のとおりで、昭和44年以降これまでに166件発生(うち93件検挙)したが、多発した昭和44年(51件)、46年(62件)の状況が示すように、従来は大衆闘争の高揚といった客観情勢を背景にこの種事件が発生する傾向にあった。しかし、昭和49年の事件は客観情勢とは無関係に発生しており、爆発物自体も大型化、高性能化しているうえ、民間の代表的企業がねらわれた点に違いがあり、そこに問題の重大性がみられる。
表7-4 爆発物事件件数(極左関係)(昭和44~49年)
ウ 退潮から反転の兆しをみせた街頭闘争
極左暴力集団は、内ゲバを抱えながらも「狭山裁判闘争」、「米大統領来日阻止闘争」等を軸として延べ1,560回、約23万6,000人(うち中央延べ163回、約11万3,000人)を動員して集会、デモを行ったが、前年の延べ1,711回、約19万人(うち中央延べ153回、約7万人)に比べると、回数では8.8%の減となった反面、動員数では24.4%の増となっている。
このうち、「狭山裁判闘争」では、極左暴力集団は延べ約3万5,000人を動員したが、この間第81回公判日(9月26日)には約5,100人、判決言渡し日(10月31日)には昭和49年最高の約6,700人の動員を記録し、前年の最高中央動員数を上回った。なお同日、革労協は「東京高裁長官室乱入事件」を敢行した(5人検挙)。
また、「米大統領来日阻止闘争」では、全国で延べ約2万人(うち中央延べ約9,000人)を動員したが、この間マル青同が火炎びんを使って「米・ソ両大使館襲撃事件」(8人検挙)、「在福岡米国領事館襲撃事件」(3人検挙)、
プロ青同が「羽田空港内発煙筒事件」(3人検挙)といったゲリラ的行動を敢行するなどして220人が検挙された。
このように街頭闘争は、後半に入ってから動員、闘争戦術の両面において高まりをみせ、“退潮から反転”の兆しが見え始めたので、今後沖縄海洋博、天皇御訪米、千葉県三里塚の妨害鉄塔除去等の機会をとらえ、極左暴力集団は街頭闘争激発の機をねらうものとみられる。
エ その他
学園紛争では、「新大学法」、「学費値上げ」、「処分」等の問題をめぐって、昭和49年も授業放棄、ストライキ、施設占拠、バリケード封鎖の事態を招いた紛争校が75校(国立29、公立9、私立37)を数え、中でもバリケード封鎖、施設占拠といった異常事態に発展した紛争校は25校に上ったが、8月を期限とした「大学法問題」は、「法律の施行後5年を経過したが、なお法律としての効力を有する」との閣議了解事項が発表され、「新大学法」制定の動きが出なかったことから大きな闘争にまでは発展しなかった。
このほか国際連帯活動の面で、極左暴力集団等によるアジア各国の革命勢力、反体制勢力との連帯を目指す動きが活発化した。とりわけべ平連が6月アメリカ、イギリス、韓国、タイ、シンガポール、マレーシア、フィリッピン、インドネシア等から外国人48人の参加を得て「アジア人会議」を開催し、“体制そのものを変革する運動”を発展させていくうえで、これを日本人だけでなく、アジア諸国人民の参加を得て取り組み、この運動を日本からアジア、更に全世界に拡大させていくことを打ち出したことが注目された。
右翼は、各種選挙における左翼勢力の進出や「文春問題」を契機として高まった政情不安の増大等を深刻に受けとめ、「日本は、確実に、しかも、超スピードで破局への道を転落している」とみて危機感を深め、この危機を突破するためとして、左翼勢力をはじめ政府、与野党に対する各種の活動を活発
に展開した。
これら右翼の活動のなかでも、まず第1に注目しなければならないのは、日本共産党をはじめとする左翼諸勢力との対決活動が最も活発であったことである。
右翼は、春闘における「交通ゼネスト」の決行や参議院選挙をはじめとする各種選挙における日本共産党の進出に対し、更には、相次ぐ爆破事件を極左暴力集団によるものとみて、日本の将来を憂慮し、「いよいよ左右決戦の時が来た」などとして対決意識を強めた。このため左翼勢力に対する批判、抗議や各種の集会、デモ等に対する反対活動を強化し、各地で左翼要人の遊説や演説会等に対する妨害事案が発生した。特に、5月3日の憲法記念日には、自称大日本愛国党員が「憲法擁護運動」を停滞させるためには成田日本社会党委員長を殺害することが一番であるとして、ナイフを隠し持って、成田委員長の出席が予定されていた護憲連合主催の憲法施行27周年中央大会の会場である都内九段会館に赴き、機をうかがっていたところを警戒中の警察官に職務質問されて取り押さえられるという、まさに危機一髪の事件が発生した(成田社会党委員長殺人予備事件)。
一方、昭和49年の日教組定期大会は、当初、岡山市での開催が伝えられたので、右翼は早くから岡山市へ乗り込んで日教組批判の街頭宣伝や県、市当局に対する抗議、要請を行った。その後、大会は種々の事
情によって立川市で開催されることになったが、右翼は、これを「我々の反対運動によって岡山市で開催できなかった」ものとみて高く評価し、8月27日から同月30日までの間、立川市民会館で開催された第45回日教組定期大会には、これまでの最高である約90団体、900人が、宣伝カー等約160台の車で現地へ乗り込み、抗議、批判の街頭宣伝、ビラ配布、ハンスト等の反対活動を展開し、この間、一部の右翼は、深夜、会館の敷地内に発煙筒を投げ込むなどゲリラ的な動きをみせた。なお、日教組大会の開催をめぐって、この間に活動した右翼は、延べ約300団体、2,500人に及んだ。
第2は、政府、自民党の各種施策に対する批判や「体質改善」を要求する活動を強めたことである。
一連の中国政策とこれに伴う台湾との断絶、日韓関係の悪化、参議院選挙における「保革接近」、「文春問題」を契機とした政局の激動等は、右翼に強い政治不信と現状に対する危機感を抱かせた。
このため、「このような情勢を招いた責任の一端は、政府、自民党の政治姿勢にある」として、政府、自民党に対する批判を強め、「挙党一致の体制を確立して国民の信頼を回復し、左翼対決に徹した政策を推進せよ」との抗議、要請活動を活発に行った。
なかでも、日中航空協定の調印とこれに伴う日台航空路の廃止については、「容共外交の結果であり、終戦時の蒋介石総統の恩義を踏みにじる行為である」などと批判し、また、朴韓国大統領そ難事件や在韓国日本大使館侵入事件をめぐる日韓関係の悪化については、韓国の態度を批判しながらも、
「政府、自民党の容共的な姿勢にも一因がある」として多くの団体が責任追及の抗議を行った。更に、「文春問題」以後は、政府、自民党の「徹底的体質改善」を求めて抗議、要請を活発化し、一部には「内閣打倒」を強く主張するものもあった。
第3は、日中航空協定の調印・日中航空路の開設、中国展の開催や各種中国代表団の来日に対し、「日本の赤化につながる」として反対活動を強力に展開したことである。
なかでも、大阪(7月13日~8月11日)及び東京(9月20日~10月10日)で行われた中国展に対しては、親中国ムードの高まりを警戒して期間中に延べ約240団体、980人が、集団あるいはゲリラによる会場への接近、侵入を図ったり、抗議、批判の街頭宣伝、ビラ配布等を行った。また、9月29日の日中国交回復2周年記念日に、中国から中国民航一番機が飛来したことに対しても、多くの団体が抗議のために東京国際空港へ押し掛けたり、在日中国大使館に対して抗議や批判の街頭宣伝を行った。
このように、各種の活動を積極的に展開する一方で、右翼は組織の拡大にも力を注ぎ、昭和49年中に約110団体、2,300人の新しい組織が結成され、それぞれの団体が、結成の旗挙げとして、左翼との対決を標ぼうして街頭活動を中心に活発な活動を行った。しかし、このような組織の拡大の反面、解散したり有名無実化する団体も多く、そのために右翼の勢力は、約500団体、12万人と前年末とほぼ同様の勢力にとどまった。
警察は、これら右翼の活動に対し、違法にわたるおそれのあるものについては、警告、制止等の措置を積極的に講じて不法事案の未然防止に努めたほか、違法事案についてはこれを見逃すことなく検挙をもって臨み、この結果、表7-5のとおり昭和49年中に、暴行、傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反等で181件、359人を検挙した。
表7-5 右翼による犯罪の検挙状況(昭和45~49年)
左翼諸勢力等は、「反インフレ・生活防衛」、「米大統領来日反対」、「反核・反基地・反安保」、「反公害」等を主要テーマに多様な形で大衆行動を展開した。
これらの大衆行動には、全国で延べ約731万2,000人(うち、極左系約25万4,000人)、中央で延べ約87万1,000人(うち、極左系約11万3,000人)が動員され、昭和48年の動員数全国延べ約622万2,000人、中央延べ約73万6,000人を大きく上回った。
こうした大衆行動に伴って各種の違法行為がみられ、1,126人(昭和48年1,253人)を暴行、傷害、建造物侵入、凶器準備集合、威力業務妨害、公務執行妨害、暴力行為等処罰に関する法律違反、火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反、公安条例違反等で検挙した。
これらの大衆行動でみられた特徴は、[1]「生活防衛」を軸にした行動が活発に展開され、動員数が前年を上回ったこと、[2]「不足物資」の放出要求や「不当利得」抗議等商社、企業に対する直接追及の行動が広がったこと、[3]行動に訴える傾向が労働者層に限らず、農漁民、自営業者等国民の各層にまで幅広く及んだこと、[4]原子力船「むつ」をめぐる反対行動をはじめ各種の「公害闘争」や「住民運動」で、法無視の実力行動がみられたことなどであった。
(1) 「生活防衛闘争」
石油危機や、いわゆる狂乱物価・物不足等で年が明け、大企業、商社等の「売惜しみ・買占め・便乗値上げ・不当利得」の社会問題化、また、秋には公共料金等の値上げ、スタグフレーションの深まりといった情勢を背景に、左翼諸勢力は広範な国民各層、市民団体まで巻き込んでの多彩な「反インフレ・生活防衛闘争」を活発に展開した。
すなわち、日本共産党やその他左翼大衆団体等による「不足物資」の放出要求行動をはじめ、商社、業者団体等への抗議、要請、調査活動や、総評等労働組合による春闘、秋闘に結合させた闘争、社会、共産、公明3党と総評、中立労連、新産別、 消費者団体等で「インフレ阻止国民共闘」を結成しての統一行動(前後3回、全国で延べ約25万人、中央で約12万人)、更には生産者米価の値上げを要求する農民、総評等の「米価闘争」、畜産農民、園芸農民、漁民、中小商工業者、繊維業者、高齢者、消費者等の「生活危機突破
大会」等、様々な立場から多様な「反インフレ・生活防衛」の行動が繰り広げられた。
これらの行動への動員は全国で延べ約176万9,000人を数え、大衆行動全動員数の約25%にも達した。「生活防衛闘争」は、1日の動員規模では必ずしも大きいものはなかったが(最高が3月3日の物価メーデーで全国約14万9,000人、中央約5万8,000人)、集会、デモだけでなく、企業、商社等に対する直接追及等多彩な形で展開され、広範な国民各層を行動に参加させて持続的な高まりをみせたことが大きな特徴であった。
こうした「生活防衛闘争」のなかでも違法行為に走るものがみられ、建造物侵入等で43人を検挙した。
(2) 「ラロック証言」と「核持込み反対・基地反対闘争」
左翼諸勢力は、「3.10横田基地集会」(東京)や「白山ナイキ基地撤去闘争」(三重)、「矢臼別R30ロケット訓練反対闘争」(北海道)、墜落事故に伴う「小牧基地撤去闘争」(愛知)、「自衛隊観閲式反対闘争」(埼玉等)等を展開したが、とりわけ、10月6日、「ラロック証言」が明らかにされてからは、これが日本への核持込みを裏付けるものとして各地で「核持込み反対」を前面に出した形の行動を活発に繰り広げた。
横須賀、佐世保、岩国、ホワイトビーチ(沖縄)等の基地での原子力潜水艦その他の米艦船入港反対、北富士及びキャンプハンセン(沖縄)の演習場に対する「原子砲」持込み反対、所沢、千歳、泡瀬(沖縄)の各基地に対するOTH通信基地反対等「核反対」の課題と結びつけた闘争を展開した。こうした闘争に、10月7日以降だけで「基地闘争」全体(延べ約28万5,000人)のほぼ70%に当たる約20万人を動員した。
「基地闘争」をめぐっては、公務執行妨害等の違法行為に出た25人を検挙した。
(3) 原子力船「むつ」に対する反対行動
左翼諸勢力や地元青森県陸奥湾岸漁民は、原子力船「むつ」の原子炉の安全性に関する疑問と、運航に伴う放射能汚染による生活侵害等を理由にあげ
て「むつ」反対行動に取り組んだ。更に左翼諸勢力のなかには、「原子力軍艦の開発につながる」といった点をあげて反対したものもあった。
出力上昇試験のための出港時(8月25日)に、反対勢力はいっせいに阻止行動を起こし、特に沿岸漁民らは最盛時240隻の漁船を繰り出して海上デモを行うとともに、「むつ」のいかりの鎖に漁船をロープでつないだり、あるいはタグボートのけん引ロープを切断するなどの違法な実力阻止行動に出た。また、9月1日試験途中で放射線漏れが発生するや、沿岸漁民ら反対勢力は、「むつ」の帰港阻止行動に取り組み、港を土のうで封鎖する構えに出たほか、県外極左暴力集団も介入の動きをみせた。
こうして「むつ」は、10月15日 まで51日間も海上での漂流を余儀なくされ、母港は撤去されることとなった。
警察は、「むつ」反対の行動で悪質な違法行為に出た7人を威力業務妨害、公務執行妨害等で検挙した。
(4) 倒閣運動とからめた「米大統領来日反対闘争」
左翼諸勢力は、米大統領の来日を「核持込みの公認・日米核軍事同盟の強化のため」、「田中内閣へのテコ入れと延命のため」あるいは「米・日・韓反革命体制の維持防衛のため」ととらえて、大規模な来日反対行動を繰り広げた。
すなわち、社会党、共産党、総評系勢力が「60年安保以上の闘争」を呼号
して中央19団体主催の決起集会(2回約4万6,000人)を開催したのをはじめ、左翼諸勢力は連日全国で大小の集会、デモを展開し、大統領来日前日の11月17日から22日の離日までの6日間に延べ約28万5,000人(うち、中央延べ約5万5,000人)を動員した。なお、総評系の労働組合は、11月19日、「米大統領来日反対」、「田中内閣打倒」と秋季年末闘争をからめて、51単産約101万8,000人参加の統一ストを実施した。また、この間、極左暴力集団等が違法行為を敢行して226人の検挙者を出した。
総評等労働組合は、昭和49年の春闘では、前年の石油危機に端を発した異常な物価上昇、不況感の広がり等を背景に、「大幅賃上げ」、「スト権奪還」、「弱者救済」等の要求を掲げて「インフレから生活を守る国民春闘」を推進し、第1次統一行動(1月)を皮切りに、4月中旬までに4次にわたる全国統一行動を実施した。
この間、前段には「弱者救済」を掲げ、関係機関への請願、陳情、抗議等の中央行動を行ったのをはじめ、初の労働4団体(総評、同盟、中立労連、新産別)共催による「インフレ粉砕大集会」(2月)、「インフレ阻止国民共闘」の主催による「国民大集会」(3月)を開くくなどして幅広く各層の結集を図った。その後、公労協の違法ストを軸に、3波にわたる大規模な「統一スト」を行った。特に第3波ストは、4月8日から公労協、全交運の「交通スト」等を中心に、公務員、民間労働組合も加え、「6日間にわたる連鎖的なストライキ等」という我が国労働運動史上かつてない大規模かつ長期のものであった。このストライキには延べ259単産約573万人が参加し、特にピーク時の4月11日には、79単産約223万人が参加して1日のストでは春闘史上最高の規模となった。1週間近くに及んだこのスト等の影響は極めて大きく、国鉄の列車の運休は8万7,170本、国鉄の減収約131億円、「交通スト」等に伴う国民の足への影響延べ約1億6,500万人、郵便物の滞貨約1億
2,000万通に達したといわれる。
このように昭和49年の春闘は、春闘共闘委員会に参加した組合とそれには参加しなかったが春に賃上げ交渉を行った組合を合わせると、総数927万人(前年比8万人増、労働省発表)の労働者が参加し、また、ストライキの規模及び賃上げ率(民間大手平均2万8,981円、32.9%)のいずれにおいても春闘史上最高となった。しかし、「国民春闘」の目玉として打ち出した「弱者救済」については、内容の乏しいものに終わったとして、中小・零細企業労働者等からの厳しい批判もみられた。
また、秋季年末闘争では、この闘争を「国民春闘」の継承と位置づけ、「反インフレ・公共料金値上げ阻止」、「生活防衛・インフレ手当獲得」、「年末一時金」等の要求に「田中内閣打倒」、「米大統領来日反対」の政治スローガンをからめ、9月中旬から12月上旬まで4次にわたる統一行動を実施した。
この間、多数の労組員等を動員して政府、関係官庁等への陳情、抗議等を繰り返すとともに、「公共料金値上げ抗議スト」(9月)、「合理化反対スト」(10~11月)といったストライキを反復し、特に11月19日の「統一スト」には、51単産約101万8,000人が参加し、1日のストでは秋季年末闘争史上最大の動員となった。
このような労働運動の高まりのなかで、労働争議や労働組合の組織対立等
をめぐって昭和49年中に796件の労働事件が発生し、暴行、傷害、威力業務妨害、地方公務員法違反等で622件、1,223人を検挙した。
なお、最近5年間の労働争議に伴う不法事案の検挙状況は図7-3のとおりである。
図7-3 労働争議に伴う不法事案検挙状況(昭和45~49年)
主なものとしては、まず、日教組による4月11日の地方公務員法違反被疑事件に関して、北海道、岩手、山形、東京、埼玉、山梨、愛知、三重、広島、福岡、長崎、大分の12都道県警察が捜査に着手して、関係の組合事務所や組合幹部自宅等の捜索を実施し、北海道、岩手、東京、埼玉、広島の5都道県警察が日教組中央執行委員長ら22人を検挙した。
公労協、公務員共闘の官公労働者は、春闘及び秋季年末闘争において、全国各地でピケによる就労阻止を敢行した。このピケの大半は、全逓、自治労、動労等の青年労働者によって行われたもので、庁舎通用門や駅の線路、ホーム等に強固なピケを張って、スト不参加者の就労や郵便車、列車の運行を実力で阻止し、しかも警察部隊が出動するや検挙を免れるため、いちはやくピケを解くといった悪質巧妙なものであった。この過程で警察部隊が現場に出動し、警告、規制、検挙の措置を講じた事案が全国で166件(うち春闘133件、秋季年末闘争33件)に及んだ。
反戦派労働者が介入した労働事件は、発生197件(昭和48年218件)、検挙149件、252人(昭和48年219件、613人)で、前年に比較して減少した。しかし、このようななかで、民間企業における反戦派介入の労働事件は、依
然多発し、特に中小企業における反戦派介入の労働事件は、発生70件(昭和48年62件)、検挙62件、61人(昭和48年61件、92人)と前年を上回る発生をみた。反戦派介入の労働事件は、労働争議が長期どろ沼化したり、解雇処分配置転換等をめぐって労働紛争が続いている中小企業等において多く発生し、集団で管理者を監禁して暴行、傷害を加えたり、職場の施設を破壊するといった過激なものが多かった。
〔事例〕 「本山製作所事件」
仙台市所在の本山製作所(従業員約750人、支店東京ほか)では、昭和47年の春闘で、同社の第1組合が大幅賃上げ要求と前副委員長の懲戒解雇処分の撤回を要求して争議に突入して以来、昭和49年12月末に至ってもなお解決をみていない。その過程で、第1組合に極左系の反戦派労働者が介入し、第2組合員及び同社社員との間で暴行、傷害等の不法事案が度々発生した。こうしたことから宮城県警察本部及び警視庁は双方に警告を行うとともに、警察部隊を出動させるなどの措置をとり、これまでに70件、279人(うち49年18件、74人)を検挙した。
労働組合間の組織対立をめぐる集団暴力事犯は昭和48年よりも減少したものの、依然として多発した。
国鉄関係では、「国労・動労対鉄労」及び「動労対全動労(全国鉄動力車労働組合連合会、昭和49年3月結成)」等の組織対立をめぐる集団暴力事犯が、64件(48年85件)発生し、検挙は46件、87人(48年62件、491人)に達し、64人(48年44人)の負傷者が出たが、その大半は国労、動労の青年労働者が鉄労、全動労の組合員に対し行ったものであった。特に、動労では、昭和49年に入ってから「政党支持問題」等をめぐって社会党系の主流派と共産党系の反主流派とが対立を深め、反主流派が全動労を結成したことに伴い、動労対全動労の対立が北海道を中心に全国各地で一層し烈となり、組合事務所や組合資金の所属等にからんで、組合事務所の占拠、奪還に伴う建造物侵入、集団暴行、施設破壊等の集団暴力事犯が27件発生した。
郵政関係では、全逓対全郵政の組織対立をめぐっての集団暴力事氾が77件
(昭和48年161件)発生し、検挙75件、201人(48年147件、252人)に達し、55人(48年129人)の負傷者が出たが、その大半は全逓の青年労働者が全郵政組合員に対し敢行したものであった。
民間の中小企業においては、経済不況のあおり等から労使間が激しく対立し、その過程で第2組合が生まれ、第1組合との間での組織対立から120件に及ぶ暴力事犯の発生をみたが、そのなかで、反戦派介入等による悪質な暴力事犯が目立った。
警察は、天皇及び皇族に対しては警衛を、国内外の要人に対しては警護を実施し、それぞれ身辺の安全を期している。また、国会、総理官邸、外国公館、空港等極左暴力集団、右翼等によるテロ・ゲリラ攻撃の対象となるおそれのある施設(重要防護対象)に対しては、厳重な警戒警備を行っている。
昭和49年中の警衛、警護をめぐる情勢は、前年に引き続き極めて厳しいものがあった。すなわち、一連の爆破事件が発生するなかで、左翼諸勢力が「田中内閣打倒運動」、「フォード米大統領来日阻止闘争」等を繰り広げたのに対して、右翼は左翼諸勢力との対決、政府の各種政策の批判、中国展、日中定期航空路開設反対等の活動を活発に展開し、成田社会党委員長殺人予備事件(5月)、日本共産党演説会妨害事件等数多くの不法事案を敢行した。また、国外でも、激動する複雑な中東情勢を背景とする「シンガポール事件」等の一連の国際的ゲリラ事件、「朴大統領そ撃事件」、英国における「アン王女襲撃事件」が発生するなど世界各地でゲリラ活動、要人襲撃等の重大事件が続発した。
一方、国際情勢を反映して国際交流が活発化し、国内外要人の往来が増加した。田中首相は5度にわたり諸外国を歴訪し、フォード米大統領をはじめとする重要外国要人が多数来日し、各種の国際会議が開催され、また、中国大型代表団が相次いで来日した。
これに対して、警察は、警衛、警護に延べ約61万人を動員し、その万全を期した。警衛、警護を実施した主な事例は、表7-6のとおりである。この
表7-6 主要警衛、警護実施事例(昭和49年)
ほか、警察は、重要防護対象に対しては、機動隊による警戒警備体制を強化し、テロ、ゲリラ、ハイジャック等の未然防止に努めた。