第1節 暴力団の変遷と最近の特徴

1 暴力団の変遷と警察の対応

 暴力団は、戦後の混乱期に発生し、高度経済成長の時代から現在の安定成長の時代に至る社会、経済情勢に対応して、また、警察の取締りを免れるために、その組織を変化させ、その活動を多様化、巧妙化させている。暴力団の変遷とそれに対する警察の対応は、大きく分けて次の4つの時代に区分することができる。
(1) 第1期~昭和20年代
 我が国に古くから存在していた博徒(注1)、的屋(注2)といった暴力集団に加えて、愚連隊(注3)という新たな暴力集団も終戦直後の混乱に乗じて発生し、それぞれが闇市の支配、ヒロポン(覚せい剤の商品名)の密売、各種の興業への介入、ぱちんこの景品買い等を行うとともに、これらの利権をめぐって対立抗争を繰り返した。また、彼らが密売するヒロポンによって覚せい剤乱用が広がり、第1次覚せい剤乱用時代を迎えた。
 この時期の警察の暴力団取締りの重点は、戦後の混乱期に出現した闇市の取締りと青少年の心身をむしばむ覚せい剤の取締りにあった。また、この時期には、暴力主義的団体等を規制することにより、戦後の民主主義及び平和主義を育成するために、昭和21年にいわゆる勅令101号、24年にはこれを整備した「団体等規正令」が制定され、これらに基づいて東声会(現在の東亜友愛事業組合)、稲川組(現在の稲川会)等の暴力団が解散させられた。
(注1) 博徒とは、博打(ばくち)打ちとも呼ばれ、縄張内で非合法な賭博(とばく)場を開き、そこから利益(寺銭)(てらせん)を上げることを稼業としている者の集団をいう。
(注2) 的屋とは、香具師(やし)とも呼ばれ、縁日、祭礼等に際し、境内や街頭で営業を行う露店商や大道芸人等の集団のうち、縄張を有しているもので、暴力的不法行為を行い、又は行うおそれのあるものをいう。
(注3) 愚連隊とは、終戦直後から繁華街等を中心に当てもなくうろつき、ゆすり・たかり、窃盗等の違法行為を行っていた不良青少年の集団をいい、これらの集団の中核は戦地から復員してきた若者たちであり、警察の実務用語では「青少年不良団」と呼ばれていた。金になるものなら何にでも手を出すという現在の暴力団の風潮の源は、この時期に発生した愚連隊の活動等に求められるであろう。
(2) 第2期~昭和30年代
 博徒、的屋及び愚連隊の間の対立抗争やこれらの団体の離合集散の過程において、愚連隊は、博徒、的屋の団体に吸収されたり、博徒、的屋の習慣を模倣したりするようになる一方、博徒、的屋も、それぞれの従来からの稼業に限らず愚連隊のように利益になることなら何にでも手を出すようになり、三者の活動面における際立った差異はみられなくなった。こうして新たに形成された暴力集団を一括して「暴力団」と呼称することが社会的にも定着した。
 この時期には、暴力団による街頭での暴力事犯やいわゆるお礼参り事犯が多発したことなどが深刻な社会問題になっていた。
 一方、本拠地周辺の地域において優位に立った山口組、稲川会等の一部の暴力団は、その組織的暴力を背景に広く各地に進出を図り、その過程において大規模な対立抗争事件を繰り返し、他の暴力団を吸収しながら、次第にその勢力を拡大した。暴力団全体の勢力も、昭和30年代を通じて一貫して拡大し続け、38年にはそのピークに達した。また、32年にはいわゆる別府事件(注)が発生するなど、集団的暴力事件が大規模化、悪質化の様相を呈した。
(注) 別府事件
 32年3月、大分県の大規模暴力団同士が、別府温泉観光産業大博覧会の利権をめぐって対立し、両団体とも県内外から多数の友誼(ぎ)団体の応援を得て、数回にわたって、けん銃、猟銃、日本刀等を用いた大規模な対立抗争事件を引き起こした。この対立抗争事件の過程において市議殺害事件、新聞社襲撃事件が発生し、大きな社会問題となり、凶器準備集合罪新設の一つの契機となった。
 これに対して、警察は、暴力団取締り体制を強化して、暴力団の実態解明を進め、反復継続的な取締りを行い、その結果、この時期に検挙件数、検挙人員は共に大幅に増加した。
 また、このような情勢に対応して、各種の法律の整備が行われた。28年、33年の2回にわたる刑事訴訟法の改正によって、いわゆるお礼参りを行うおそれのある被疑者については権利保釈を認めないこととされた。また、33年の刑法改正によって、証人威迫罪が新設され、いわゆるお礼参りに対する罰則が強化されるとともに、凶器準備集合罪が新設され、殴り込みに対する罰則が整備された。39年には「暴力行為等処罰ニ関スル法律」が改正されて、銃砲刀剣類を用いた傷害事犯の刑が加重されるとともに、常習的暴力行為に対する規定が整備された。37年、40年及び41年の3回にわたる銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)の改正によって、銃砲刀剣類の所持等に対する規制が強化された。
 さらに、37年に東京都が「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不法行為等の防止に関する条例」を制定したのを皮切りに、40年ころまでの間に全国の多数の自治体においていわゆる愚連隊防止条例が制定され、街頭での暴力事犯に対する規制が強化された。
〔事例1〕 35年8月、山口組は、大阪市南区の繁華街の縄張をめぐってかねてより対立関係にあった明友会に対して、2回にわたって数十人の暴力団員を動員した襲撃を行い、3人を殺傷した。山口組はこれをきっかけに大阪での勢力拡大を果たし、この事件は山口組の全国進出の先駆けとなった(大阪)。
〔事例2〕 山口組系打越会と本多会系山村組とは、38年4月の山村組幹部らによる打越会幹部射殺事件に端を発して、けん銃やダイナマイト等を用いた14回にわたる対立抗争事件を引き起こし、同年9月に終結するまでの間に、死者9人、負傷者13人を出した(広島)。
(3) 第3期~昭和40年代
 大規模化、悪質化する暴力団に対して、国を挙げての暴力排除の気運が盛り上がり、昭和39年から、全国警察が一体となっていわゆる第1次頂上作戦を実施し、首領、幹部を含む暴力団構成員を大量に検挙し、大規模暴力団を相次いで解散させた。
 しかし、40年代後半に入ると、服役していた暴力団の首領、幹部が相次いで出所し、組織の復活、再編が図られ、大規模暴力団による組織化、系列化の動きが強まってきた。すなわち、資金源犯罪に対する取締りの強化により、非合法資金源にのみ依存する中小暴力団が壊滅的打撃を受けた一方、大規模暴力団は、資金源の多様化を図り、また、上納金制度を確立することなどにより、取締りによる打撃を巧みに免れ、さらに、中小暴力団を吸収し、その勢力を拡大させていった。また、民事介入暴力等を通じて暴力団が市民社会に浸透する兆しがみられたのもこの時期である。
 そのため、警察では、45年以降いわゆる第2次頂上作戦を実施するなど、暴力団取締りを強化するとともに、暴力団に対する課税措置の促進、「暴力汚染地区の環境浄化作戦」等の暴力団排除活動にも力を注ぐようになった。
〔事例〕 46年6月、東北地方進出を図る山口組系暴力団組長が、山形県の地元暴力団組長を舎弟として傘下に収めた上で同県内に事務所を構えたことから、他の地元暴力団と対立し、双方百数十人の暴力団員を集めて対峙(じ)し、殴り込み等集団による傷害事件を頻繁に引き起こした。
(4) 第4期~昭和50年以降
 警察の徹底した取締りと暴力排除の気運の盛り上がり等により、暴力団全体の勢力は減少し、また、従来からの資金源活動は打撃を受けた。しかし、特定の大規模暴力団はその勢力を伸ばし、また、市民生活に介入、関与する民事介入暴力や、政治活動や社会運動を仮装、標ぼうする社会運動等標ぼうゴロ、総会屋等による企業対象暴力が増加するなど、暴力団の資金源活動はより一層多様化、巧妙化している。
 警察においては、弁護士会と連携して民事介入暴力事案や企業対象暴力事案に対する相談活動や取締りを強化し、企業対象暴力対策のために、各都道府県単位に企業防衛対策協議会、特殊暴力防止対策連絡協議会等、企業の自衛組織が結成された。また、昭和56年の商法改正により、総会屋対策のために、利益供与の禁止規定が新設された。
 こうした中にあって、56年7月、三代目山口組組長が死亡し、57年2月には、その後継者と目されていた最高幹部も急死したことなどから、山口組内部に大きな動揺が生じ、後継組長の座をめぐって二派に分かれて争うに至った。これに機を合わせた同組の分断、解体を目的とする集中取締りもあいまって、59年6月、ついに山口組は、四代目組長が強引に決定されたことから分裂し、四代目組長に反発する一派は、新たに一和会を結成して山口組との対立関係を深めた。そして、60年1月、四代目山口組組長が一和会系暴力団員に射殺されたのを契機として、両団体の間に大規模な対立抗争事件(注)が発生したが、平成元年3月、両団体の対立は一和会の解散によって最終的な決着をみた。その後、山口組は、平成元年4月、五代目組長を決定し、組織内の統制力を強め、より一層の勢力拡大の動きをみせており、今後、山口組を中心とした暴力団情勢の動向が注目されるところである(なお、この時期の暴力団の特徴については、2で詳述する)。
(注) 山口組と一和会との対立抗争事件は、60年1月から62年2月の両団体の終結宣言によって終結するまでの間、2府19県において双方合わせて317回の攻撃が敢行され、死者25人、負傷者70人を出す暴力団史上空前の対立抗争事件となった。
〔事例〕 50年7月、松田組系暴力団員らが、縄張をめぐる争いから山口組系暴力団員3人を射殺したのを契機に、山口組と松田組との間に対立抗争事件が引き起こされた。本抗争は、途中山口組組長がけん銃で狙(そ)撃されて重傷を負ったことから激化し、21回にわたって断続的に繰り返され、死者12人、負傷者9人を出して、53年11月、山口組の一方的な終結宣言により終結した(大阪)。

2 最近の暴力団の特徴

(1) 暴力団の寡占化の進展
 暴力団の勢力の推移は、図1-1のとおりである。
 戦後の混乱に乗じて、暴力団はその勢力を増大させ、特に昭和30年代に入ってからの伸長は著しく、ピーク時である38年には、5,216団体、18万4,091人に達した。その後、暴力団全体の勢力は減少傾向にあったが、最近では減少傾向に歯止めが掛かり、63年12月末現在では、3,197団体、8万6,552人となっており、これは前年同期と比べ、団体数においては4団体(0.1%)減少しているものの、人員においては265人(0.3%)増加している(注)。
(注) 団体数の計上の仕方は、複数の団体によってピラミッド型に構成されている大規模な団体については、当該大規模団体及びその構成団体をそれぞれ単位として計上している。

図1-1 暴力団の勢力の推移(昭和36~63年)

 暴力団全体の勢力が減少しているにもかかわらず、2以上の都道府県にわたって勢力を有する広域暴力団の現在の勢力は、暴力団勢力のピーク時である38年に比べ大きく上回っており、また、暴力団全体の勢力に占める割合も、最近、顕著に増加しており、38年には団体数、人員とも全暴力団の20%台であったのが、63年には団体数で89.1%、人員でも80.3%を占めるに至っており、暴力団の広域化、系列化がうかがわれる。
 中でも、山口組、稲川会、住吉連合会の3団体(以下「指定3団体(注)」という。)の勢力は著しく伸長し、図1-2のとおり、54年12月末現在で754団体(全団体数の30.0%)、2万3,225人(総人員の21.8%)であったのが、63年12月末現在で1,397団体(全団体数の43.7%)、3万4,492人(総人員の39.9%)となっており、指定3団体による寡占化傾

図1-2 全暴力団、指定3団体及び山口組の勢力の推移(昭和54~63年)

向がうかがわれる。特に、最大の勢力を有する山口組は、最近急激にその勢力を伸ばしており、63年12月末現在では737団体、2万826人を数え、全国の暴力団員のほぼ4人に1人は山口組という状況を呈している。
(注) 指定団体とは、警察庁が集中取締りの対象として指定している悪質かつ大規模な暴力団をいい、警察庁は63年の指定団体として山口組、稲川会及び住吉連合会を指定しており、これらの3団体を「指定3団体」と呼んでいる。
 このように、暴力団の人員が減少しているため、街頭での暴力事犯等は減少しているものの、大規模化、広域化が進展しているため、暴力団の組織としての威嚇力は一層増大しており、暴力団の社会、経済に与える影響は逆に大きくなっていると考えられる。
(2) 市民社会への浸透による資金源活動
 暴力団の資金源活動は、従来は覚せい剤の密売、賭博(とばく)、ノミ行為、ゆすり・たかり等の恐喝、みかじめ料等が主なものであったが、社会、経済の変化に応じて、また、取締りを免れるため、その資金源活動はますます多様化、巧妙化してきている。特に、最近では、社会運動や政治活動を仮装、標ぼうして違法、不当な利益の獲得を図るなどの企業対象暴力事案や、また、交通事故の示談、不動産の賃貸借に伴うトラブル、債権取立て等の市民の日常生活や経済取引に介入、関与して違法、不当な利益の獲得を図る民事介入暴力事案が増加している。これらの中には、都市部における地価高騰を背景として「地上げ」等不動産取引に介入、関与したり、「財テク」ブームを背景として活況を呈している証券取引に絡んで利益を得ようとする事案の発生もみられている。
 民事介入暴力に対して、警察は、相談活動を行うなど積極的に対応しているが、この相談受理件数は、昭和55年には約9,000件であったのが、年々増加し、63年には2万件を超えるに至っている。
以上のことからも、暴力団が資金獲得のために市民社会への浸透を図っていることがうかがわれる。
〔事例〕 日本国粋会系暴力団組長(63)は、仕手グループの一員(41)と共謀し、東証2部上場会社の株式約100万株を買い占めた後、同社役員らに対し、「暴力団組長が大株主として乗り込むぞ。このまま買い進めば、2部上場が廃止されるぞ」などと脅迫して、同買占め株の一部を肩代わりさせる名目で現金2億円を喝取した。5月9日逮捕(福岡)
(3) 対立抗争事件、銃器発砲事件の多発
ア 市民に脅威を与える対立抗争事件
 暴力団の対立抗争事件は、図1-3のとおり、全体としてみると大きく増加している。特に、昭和60年の発生回数は過去最高の293回となっているが、これは山口組と一和会とが大規模な対立抗争事件を引き起こしたことによるものである。63年には、このような大規模な対立抗争事件が終結していたにもかかわらず、発生回数は128回と依然として高い水準にあり、発生事件数も最近5年間で最多の32事件に上るなど、市民に重大な脅威を与えている(注)。
(注) 対立抗争事件においては、特定の団体間の特定の原因による一連の対立抗争の発生から終結までを「発生事件数」1事件として数え、対立抗争当事者間の攻撃回数の合計を「発生回数」として計上する。
〔事例〕 5月10日、山口組系暴力団員(37)らによる愛桜会系暴力団員に対する傷害事件に端を発した山口組対愛桜会の対立抗争事件は、17回に及び、警察の集中取締りにより被疑者20人が逮捕され、けん銃11丁が押収された。5月20日終結(三重)
イ 凶悪化する銃器発砲事件
 銃器発砲事件の発生回数は、図1-3のとおり、60年以降年間200回

図1-3 対立抗争事件、銃器発砲事件の発生状況(昭和54~63年)

を超えており、63年には249回に達している。また、銃器発砲事件による死傷者数は、63年には死者28人、負傷者60人に達している。さらに、その態様は、単に対立暴力団の関係者に向けられるだけではなく、繁華街や駅のホームで発砲して一般市民を巻き添えにしたり、在日外国公館に対して発砲したり、制服警察官を銃撃したりするなど、一層凶悪化している。
〔事例1〕 3月11日、工藤連合草野一家系暴力団組長(31)ら3人は、福岡県警察の強力な取締りの矛先をそらそうと、公安事件を装って在福岡中華人民共和国総領事館に対して散弾銃を発砲した。6月13日逮捕(福岡)
〔事例2〕 5月14日、山口組系暴力団組長(33)らは、神戸市所在の一和会会長宅付近において警戒に当たっていた制服警察官3人を自動小銃様の銃器等で銃撃して重傷を負わせた上、同会長宅を銃撃し手製爆弾等を爆発させて逃走した。11月17日逮捕(兵庫)

〔事例3〕 8月31日、藤沢市内の路上において、自動車の通行方法をめぐるトラブルから、住吉連合会系の元暴力団員(21)がけん銃を用いて、相手側の自動車に同乗していた女子中学生を殺害した。8月31日逮捕(神奈川)
ウ 暴力団の武装化の進展
 かつては「けん銃1丁は組員10人に匹敵する」といわれていたが、最近では「組員1人にけん銃1丁」ともいわれており、実際、準構成員等からのけん銃押収数も増加しているところから、暴力団組織の末端にまで広く銃器が行き渡っていることがうかがわれる。
 また、暴力団が保有、使用する武器についても、けん銃に加えて、より殺傷力の大きい自動小銃等の銃器や、手りゅう弾等の爆発物がみられ、暴力団の武装化が一段と進展していることがうかがわれる。これらの武器は、フィリピン、米国等の諸国から貨物等に巧みに隠匿されて密輸入されたり、国内で密造や改造されたりしているものであり、暴力団の間でけん銃1丁当たり数十万円で売買されている。
〔事例1〕 61年10月26日、山口組系暴力団員(43)は、タイで調達した手りゅう弾を日本へ運搬する途中、飛行中の航空機内で誤って手りゅう弾を爆発させた(大阪)。
〔事例2〕 会津小鉄会系暴力団組長(40)ら16人は、けん銃を製造する技術を有するフィリピン人4人を偽造旅券を使って来日させ、1年間にけん銃百数十丁、実弾約千発等を密造させ、暴力団関係者らに1丁約50万円で売りさばいていた。平成元年3月11日逮捕(京都)
 このように、対立抗争事件や銃器発砲事件は、暴力団という存在と必然的に結び付いており、特に近年は、山口組等による寡占化が進む過程において、対立抗争等に備えて暴力団の武装化が促進され、暴力団組織の末端や周辺層までもがけん銃を持つこととなり、そのためけん銃が簡単に使用される例が増加し、市民社会に多大な脅威を与えている(なお、けん銃使用犯罪については、第5章3(1)参照)。
〔事例〕 9月29日、川越市内の住宅街において、住吉連合会系暴力団員(42)がけん銃を乱射して住民3人を負傷させ、110番通報によって臨場した警察官を射殺した。9月30日逮捕(埼玉)
(4) 暴力団の海外における活動の活発化
 暴力団の海外における活動は、昭和50年ころから目立ち始めた。その動機は、海外における銃器、覚せい剤等禁制品の入手、逃亡先としての拠点作り等とみられる。また、当時、日本経済が不況下にあったことなどから、新たな資金源活動の場の開拓に迫られ、次第に海外に進出していったという一面もあるとみられる。
 特に、暴力団は、銃器等を密輸入するために比較的銃器規制が緩やかなフィリピン、米国等へ、また、覚せい剤を密輸入するために韓国、台湾等へ頻繁に渡航している。さらに、暴力団は、海外旅行ブームに伴い、外国で海外旅行客を相手とした資金源活動も活発化させ、また、最近では、「じゃぱゆきさん」等の外国人の不法就労の仲介、あっせん等を行い、労賃のピンハネ等によって相当の資金を得ている。
 これらの暴力団の海外における活動の活発化は、海外の報道機関でもしばしば取り上げられ、特に、米国、東南アジア諸国等においては、現実的あるいは潜在的脅威を与える存在とされ、自国内の治安上の問題として危機感をもってとらえられている。
(注) 暴力団の米国進出に関しては、「組織犯罪に関する大統領諮問委員会(The President's Commission on Organized Crime)」が、61年4月に提出した報告書「その衝撃;今日の組織犯罪(THE IMPACT;Organized Crime Today)」の中で、以下のとおり、米国側の認識を述べている。
 「『ヤクザ』は、裕福な日本のビジネスマン相手に賭博(とばく)を行っている東海岸のマフィアの組織と関係を有している。」
 「米国は、日本市場に向けた銃器、薬物、ポルノ等の密輸品の重要な調達先になっている。」
〔事例1〕 62年2月、サイパンにおいて労使関係のトラブル等から殺害された一和会最高幹部(63)は、不動産取引及び貿易を行う会社を設立し、サイパンに現地事務所を設け事業開拓を図っていた。
〔事例2〕 共政会系暴力団準構成員(48)らは、フィリピンへ渡航してフィリピン人女性11人を歌手やダンサーとして働くための在留資格で来日させ、旅券を取り上げ、反抗する者には暴行を加えて逃げられないようにした上で、ホステスとして働かせていた。1月7日逮捕(広島)
(5) 海外の犯罪組織の進出動向
 我が国の暴力団の海外における活動が活発化する一方で、逆に、海外の犯罪組織が、我が国の経済発展や国際化に伴って、外国人労働者等を足場として我が国に進出しようとする動きがみられる。
 彼らは、我が国の暴力団とも関係を持ちながら、外国人の不法就労の仲介、あっせん、薬物の密輸、賭博(とばく)等を資金源としているとみられる。
 最近、特に台湾の犯罪組織の日本進出が顕在化してきている。犯罪を犯して我が国の大都市に逃亡してきた首領、幹部が、日本に居住する台湾人の組織構成員や台湾人の素行不良者とともにグループを形成し、まあじゃん賭博(とばく)、恐喝、売春、覚せい剤の密輸等を資金源として活動するようになり、それらのグループ間での抗争もみられるようになってきている。 今後、我が国の国際化の進展に伴い、外国人労働者等の流入とともに、それらの国々の犯罪組織が我が国へ本格的に進出し、我が国の暴力団と連携を図ったり、また、逆に対立抗争事件を起こすことも懸念され、その動向が注目される(外国人労働者問題については、第5章9参照)。
〔事例1〕 昭和62年2月、台湾の犯罪組織の構成員らは、まあじゃん賭博(とばく)におけるトラブルを理由に同人らの親交者を殺害しようと企てていた別の台湾の犯罪組織の構成員を、けん銃を用いて殺害し、埼玉県内の山林に遺棄した。
〔事例2〕 台湾の犯罪組織の幹部(35)は、山口組系暴力団組長らと共謀の上、62年12月、かねてからまあじゃん賭博(とばく)の利権をめぐり対立関係にあった別の台湾の犯罪組織の幹部らを、東京都新宿区内のマンションにおいて、けん銃を用いて殺害した。


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