表紙・目次 はじめに 第1章 警備警察50年の歩み 第2章 警備情勢の推移 第3章 警備情勢の展望と警察の対応 資料編

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50年間の国内情勢


昭和30年代

 政局的には、昭和30年10月に、左右両社会党が統一し、「日本社会党」として再発足しました。続く11月には、保守合同が成立して「自由民主党」が結成され、戦後初めての二大政党時代となりましたが、社会党は、35年1月、内部対立の激化等により分裂し、「民主社会党」(その後、「民社党」に名称変更)が結成されました。また、39年11月には、「公明党」が結成され、二大政党から「野党の多党化」へと移行しました。
 こうした中で我が国は、31年12月、11年4か月ぶりにソ連との国交を回復するとともに、国連への加盟が承認され、国際社会の一員としての第一歩を踏み出しました。また、26年に締結された日米安保条約が、35年6月に改定されました。
 一方、経済的には、29年の経済緊縮政策によって30年から正常化に向かい、32年上期まで「神武景気」といわれる好況を呈しました。しかし、その過程で現れた外貨不足と金融窮迫、それに伴う政府の金融引締め政策等により、景気は32年下期から33年上期まで「ナベ底景気」といわれる不況となりました。その後、33年下期から再び景気は回復に転じ、「岩戸景気」といわれる好況が続きました。
 政府は、35年、経済の高度成長に重点を置いた「国民所得倍増計画」を打ち出し、経済成長意欲を更に盛り上げました。また、貿易自由化の促進を打ち出したことで、厳しい国際競争の中で技術革新のための投資を刺激することとなりました。


昭和40年代

 政局は、自民党が引き続き過半数を超える勢力を保持し、一応安定の観をみせましたが、技術革新、経済の高度成長、都市化の進展に伴って顕在化した公害、物価等のひずみの問題が、情報化社会への移行と相まって広範な諸階層の間に「不満」を増幅し、また、社会の変化が人々の価値観の多様化・意識の変化を促し、連帯感を喪失させました。特に、青年・学生の間に無関心・無責任・無気力の風潮が強まるとともに「疎外感」も広まり、政党に対する不信感が増大しました。
 こうした中で、昭和45年6月、日米安保条約が自動継続されました。
 一方、経済面では、いわゆる「いざなぎ景気」により、我が国は、経済大国へと大きく踏み出しました。この経済の高度成長は、年々賃金の大幅な上昇をもたらすとともに、「大量消費時代」を現出させました。
 しかし、48年に発生した石油危機は、戦後初めて経済成長をマイナスに転じさせるなど、国民生活を根底から揺さぶることとなりました。また、石油危機が引き金となって、一方ではインフレが高進し、他方では不況が拡大するというスタグフレーションが深まり、企業倒産と失業者が増加する傾向がみられました。
 こうした中で、中国との国交が正常化し、また、小笠原諸島及び沖縄が我が国に復帰しました。

昭和50年代

 昭和51年12月の衆院選は戦後初めての任期満了選挙でしたが、「田中金脈問題」「ロッキード事件」等が絡み、自民党が議席の過半数を割り込んだほか、54年10月の衆院選でも長期低落傾向に歯止めがかけられず、30年の保守合同以来初めての与野党伯仲という政治状況が続きました。55年5月には、大平内閣不信任案が可決し、翌6月には国政選挙史上初の衆参同時選挙が行われました。この選挙では、国民の保守回帰傾向を反映し、自民党が安定多数を獲得しました。
 こうした中で、新自由クラブ(51年6月)、社会市民連合(52年3月)等、新党が結成され、58年12月の総選挙で獲得議席が落ち込んだ自民党は新自由クラブと院内統一会派を結成しました。なお、58年6月の参院選に「拘束名簿式比例代表制」が導入されました。
 一方、経済面では、高度成長から安定成長への転換に伴う経済の混乱等に加え、先進自由主義諸国同様、不況に見舞われました。さらに貿易摩擦の発生、企業倒産・失業率も高い水準のまま推移しましたが、50年代末には、景気回復の兆しがみられるようになりました。


昭和60年代~昭和から平成へ

 昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御され、皇太子殿下が皇位を継承、第125代天皇に即位されました。元号は「平成」と改められ、「昭和」の時代はその幕を閉じました。
 経済は、60年初めからいわゆるバブル経済が生じ、地価や株価が急騰しました。また、平成元年4月には消費税が導入されました。しかし、2、3年頃になるとバブル経済は崩壊し、以後、不良債権問題等、長期にわたる経済の低迷が続きました。
 政局は、自民党が安定した議席を維持していましたが、5年6月、政治改革関連法案の取扱いをめぐり、宮沢内閣への不信任決議案が可決、衆議院が解散され、自民党から「新党さきがけ」と「新生党」が分裂しました。その後に実施された同年7月の衆院選では、自民党が議席の過半数を大きく割り込み、非自民・非共産8党派による細川連立内閣が誕生、38年間続いた自民党政権に終止符が打たれました。
バブル経済の崩壊 写真
バブル経済の崩壊(平成3年)(PANA) 

平成6年代以降

 政局は目まぐるしく変動し、平成6年4月には細川内閣が、同年6月には羽田内閣がそれぞれ総辞職し、その後、自民・社民・新党さきがけによる村山連立政権が誕生しました。しかし、これも10年6月に解消され、自民党の単独政権を経て、自民・自由連立政権、自民・自由・公明連立政権、自民・保守(後に保守新党)・公明連立政権、自民・公明連立政権へと移行していきました。
 一方、経済は、急激な円高や金融機関の経営破綻たんが相次いで表面化し、我が国の金融システムに対する不安感が内外に広まったことなどから低迷が続きました。また、8年、住専問題や相次ぐ金融不祥事案の発覚等により、国民の金融機関に対する信頼が大きく揺らぎました。9年以降も、大型倒産が相次いだほか、山一証券の自主廃業や日本長期信用銀行の倒産等が起きました。しかし、この経済の低迷は、15年4月に株価がバブル崩壊後の最安値を更新した後から回復に向かい、景気も緩やかな回復傾向を示すようになりました。

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