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第5章 国民の理解の増進と配慮・協力の確保への取組

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1 国民の理解の増進(基本法第20条関係)

トピックス 途切れない支援の重要性~亡くなった子供・遺された子供への想い~

~平成30年度犯罪被害者週間 中央イベント基調講演より~

土師 守氏

(公益財団法人ひょうご被害者支援センター理事、元あすの会副代表幹事)

土師 守氏(公益財団法人ひょうご被害者支援センター理事、元あすの会副代表幹事)

【犯罪被害者の遺族としての体験】

事件が発生しましたのは1997年5月27日の朝でした。当時、14歳だった加害男性が通っていた中学校の正門の前に、私の次男の頭部が置かれているのが見つかりました。連絡を受けて、私は妻とともに急いで現場である中学校に車で向かいましたけれども、現場に到着いたしますと、警察官に「須磨警察のほうに行くように」という指示をされました。その指示は私たちにとっては最悪の事態であることを意味していました。そのため、私たちは悲しみの中、夢遊病者のような感覚で須磨警察署へと向かいました。

須磨警察署で、私たちは「次男がどのような状態で見つかったか」等を聞き、更に私は遺体確認をしたあと、最初の調書にサインいたしました。このときの状況というものは、本当に映画の中のワンシーンという状況で、私たちには全く現実感のない、夢の中で起こったような感覚でした。

その後、疲れ果て、悲しみに沈んだ私たちがマンションに帰り着いたときに、最初の「取材」という名の暴力に遭いました。私たちが帰宅したときには、既に何社かのマスコミ関係者がマンションに来て待ち構えておりました。子供をあのような状態で亡くした私たちの悲しみを全く無視して、彼らは無遠慮な質問とフラッシュの雨を浴びせました。

次の日、朝起きてからカーテン越しに家の外を覗きますと、マスコミ関係の車が周囲の道路を埋め尽くしていました。事件発生後の取材攻勢は本当にすさまじいものでした。インターホンは数え切れないほど押されましたし、電話も鳴りっ放しでした。その日から連日、朝から晩まで多数のマスコミ関係者がマンションの周囲を何重にも取り巻きました。

通夜と告別式が行われた会場でも、本当に多数のマスコミ関係者が会場周囲に充満しており、また多数のカメラが会場入口に向けられておりました。

“鈴なり”という言葉が当てはまるのではないかと思いますが、少し離れた2段目の部分までたくさんのマスコミ関係者で溢れ返っていました。私たちは単なる一般人であり、芸能人でも、有名人でもありません。そのような普通の一般人である私たちが悲惨な事件の被害者家族になり、精神的にもどん底の状態に突き落とされた挙げ句に、このような環境に放り込まれてしまったわけです。皆様にも、この状況を自分に置き換えて想像してもらえればと思います。

電話とインターホンによるすさまじい取材攻勢はその後も続きました。神戸新聞社へ犯人からの第2の手紙が来たときには夜中12時頃までインターホンは鳴りやみませんでした。マンションの南側にマスコミ関係者の車が朝から夜遅くまで停まっており、私たちの部屋を監視していました。また、南側のマンションの部屋を借りて、そこから私たちの部屋を隠れて撮影しようとまでしておりました。本当にしばらくは外に出るどころか、家のカーテンも開けることができない状態が続きました。カーテンを開けたのは事件発生後2か月近くが経ってからのことでした。

一般的に被害者遺族には「大切な家族を助けてあげることができなかった」とか、「もっと何かしてあげることができたのではないか」という悔恨の想いが非常に強いものです。第三者的に考えますと、それは仕方がないことで、遺族にはどうしようもないことだということがほとんどに違いありません。そして、被害者遺族も頭の中では理解できている場合が多いのではないでしょうか。しかしながら、被害者遺族は他の人から見ますと、そんなことで悩まなくてもいいようなことで非常に苦しみます。このことは私たちにとっても同様でした。

例えば、私たちの長男は「あのとき一緒に祖父の家に行っていれば弟の命は奪われなかったのではないか」と思い、妻は「出ていくときにちゃんと子供を見て、もっと声を掛けてあげればよかった」と思っていたようです。私自身についても同じ思いがありました。次男が出ていって間もなくして、私は研究会に参加するため、バスに乗って出掛けていきました。私がもう少し早く出ていれば、犯人と会う前、もしくは会ったくらいの子供を見ることができたかもしれません。そして、そのときには少なくとも事件が起こらなかったかもしれません。

次男がいなくなった当日、私たちは次男を探し回っていました。警察がその日の捜索を終えた後も、私は父とともに車に乗って探し回っていました。そして、その日の最後に、私は父とともに次男が殺害されたタンク山というところに行きました。私と父は車を降りて、タンク山のチョコレート階段と呼ばれる通路を懐中電灯を手に登っていきました。タンクのところまで行きましたけれども、周囲の草むらの中に何も見つけることができませんでした。私たちは諦めて家に向かいました。しかし、そのとき、子供はすぐ近くにいました。見つけてあげることができなかった悔いは今も残っています。あのとき見つけてあげることができていれば、殺害されることは避けることができなかったとしましても、あのような目には遭わされていなかったのでは、という思いは今も強く残っています。被害者遺族は不当な犯罪被害に遭い、苦しみに遭いながら、更にその上に悔恨の思いに苛まれることになります。

【犯罪被害に遭った子供の兄弟姉妹に対する支援】

私たちの場合も、長男がいました。長男は事件当時、13歳であり、非常に多感な時期でした。日頃から可愛がっていた弟があのような形で命を奪われたわけです。頭部が置かれていた中学校は、犯人の少年が通っていた学校であると同時に、私の長男が通っていた学校でもあります。しかも、犯人は長男より学年が1年上というだけではなく、クラブの先輩でもありました。非常に精神的に厳しい状態だったと思います。

そのような状況の中で、学校に通うことができるでしょうか。よほどのスーパーマンでもない限り、絶対に不可能なことです。私の姓が変わっていることもあり、引っ越しをしてもすぐ分かりますし、転校もできない状況でした。

中学校の先生は、彼らのできる範囲の中ではよく対応していただきましたけれども、学校に行けないことには変わりはありませんでした。授業を受けることができませんでしたので、家庭教師を雇い、勉強するようにはしましたけれども、当然、成績は落ちますし、出席日数も足りませんでした。そのため、公立の高校には行けませんでした。自宅からかなり離れた私立の高校に行きましたけれども、3年間、学校まで私が車で送りました。

問題は教育上のことだけではありません。精神的にも肉体的にも発育途上にあり、また感受性の高い時期に兄弟が悲惨な事件に遭ったとすれば、それは大人とは違った意味で、非常に大きな精神的ダメージを受けます。それに対して親だけで対処することは極めて困難なことです。その症状も、もちろん親が気付いていないこともあるとは思いますけれども、事件直後から症状が出るのではなく、ある程度、時間が経過してから出てくるようなことも多いと思います。その上、特に事件直後は親たちも家族を守るために非常に頑張っており、精神的にも全く余裕がない状態で、子供のことを見ているようでちゃんと見ることができていない、ということがほとんどだと思います。

私の場合も同様な状態で、家族を守らなければいけない、加害者やマスコミに負けないと心に決めて頑張り続けておりましたので、本当に精神的にも厳しい状態が続いていました。そのために私自身も子供の精神的ダメージについて十分な気遣いができていませんでしたし、そのため、気付くのが遅れてしまいました。

そして、子供に精神的ダメージの症状が出たときには親だけで対処することは非常に困難なことが多いと思います。そのときに相談できる児童精神医学の専門医や臨床心理士の存在は非常に重要であると思います。私たちの場合、この問題で救いになったのは、私の仕事の関係もありまして、児童精神医学の専門医を紹介してもらえたことでした。私自身が長男に対する悩みを相談することができましたことは非常に心強いことでした。このように犯罪被害を受けた少年及びその兄弟姉妹における非常に重要な問題として、学校に通えなくなる少年たちの教育の問題と、彼らに対する精神的サポートの問題があると思います。これらの問題の解決法はそれほど簡単なことではないと思います。

教育の問題についてですけれども、学校に通えなくなった少年に対して、授業に関しては学校ができることはほとんどありません。確かに、自宅に様子を見に行ったり、話を聞いたり、励ましたりすることはできるでしょうけれども、少年の自宅で勉強を教えることはできません。学校に通えないということは、他の少年たちと比べて勉強が遅れてしまうということにつながります。通えない期間が長くなればなるほど勉強も遅れますし、学校に復帰するためのハードルが、時期が遅れるほど高くなっていきます。

私たちの長男の場合は家庭教師を雇って主要科目だけでも勉強するようにしました。主要科目だけでも最低限の遅れで抑えることができれば、学校に復帰できたときの遅れも最小限で済むのではないかという考えからです。また、出席日数の関係で公立高校には入学することは困難かもしれませんけれども、受験科目の少ない私立の高校であれば入学できるのではないかというふうに考えたからです。

私たちの場合は家庭教師を雇うことができましたので、最低限の勉強をさせることはできたとは思います。しかし、このようにできる家庭はやはり多くはないと思います。私が居住する神戸市は、今年6月に犯罪被害者等支援条例を改正しまして、教育支援の項目を付け加えました。詳細は省きますけれども、被害に遭った少年に対する全国で初めての実効性を伴った教育支援条例だと思います。金額等はまだ十分と言えるほどではありませんが、3か月程度の家庭教師を付けることができれば、かなり勉強の遅れを抑えることができると思います。担当された方々が被害者の話に耳を傾け、今の枠組みの中でできることはないかと一生懸命考えていただいた結果だと思っています。教育に対する支援については、リタイヤしたOB教師の活用等も含めて公的な支援をぜひとも考えてほしいというふうに思っております。 

精神的なサポートについてですけれども、被害に遭った少年へのサポートという場合は、通常は少年本人へのサポートを指すと思います。しかしながら精神的に全く余裕がなくなっている親のサポートも、実は間接的ではありますけれども、これも少年へのサポートにつながると思います。

私の失敗を思い出していただければお分かりになると思いますけれども、精神的な余裕を失っている親は、自分たちの子供への注意が非常に散漫になってしまい、子供たちの重要な兆候を見落としてしまうことにつながり、状況によっては回復を遅らせてしまう結果になってしまうと思います。そのため、親への精神的サポートは子供へのサポートを考える上で、実はかなり有効な対策ではないかと私自身は考えています。

精神的なサポートの重要性は、皆さんも御理解いただけると思うのですが、次に問題になるのが、一体、誰がその精神的なサポートを行うのか、ということだと思います。臨床心理士や精神科医であれば誰でもいい、というわけではありません。スクールカウンセラーをしている臨床心理士であればできる、そういうものでもありません。被害者、特に精神的にも肉体的にも発育途上にあり、非常に感受性の高い時期に大きな精神的ダメージを受けた被害少年に対するサポート、これをするためにはそれに応じた研修を受け、十分なスキルを身に付ける必要があります。

「精神的なサポート」と口で言うのは非常に簡単なのですけれども、実際に行うに当たっては、人材の養成から考えていかなければいけません。人材の養成というものは一朝一夕でできるものではありません。時間も資金も必要ですし、そして「そういうサポートをしたい」という心ある人たちがいなければ成り立ちません。

被害に遭った少年たちの必要な支援について話をしましたけれども、現時点では彼らには公的な支援は全くないのと同じような状態です。行政からは完全に見放されており、自分たちの力だけでどん底の状態から立ち直らなければいけない、それが現状だと思います。第3次基本計画ではやっと被害少年たちへの精神サポート体制整備についての記述が入りましたけれども、まだまだ十分であるとは言えないと思います。被害者の兄弟たちに対する公的な支援はぜひとも必要なものであり、体制を早急に整備してほしいと切望しております。また、民間の支援センターは、これらの支援においても重要な役割を担うことができるものではないかと期待しております。

※ 本トピックスは、基調講演を概要として取りまとめたもの。基調講演の全文及び資料については、警察庁犯罪被害者等施策ウェブサイト(https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/sesaku/higai/koe.html)を参照。

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