第6節 推進体制に関する施策の取組


コラム9:犯罪被害者の手記

犯罪被害者兄妹の手記

伊藤裕美

もしも貴方の傍に、兄弟を亡くされた方がいたとき、なんと声を掛けますか?

わたしが、周囲の人から掛けられた言葉は、次のようなものでした。

「ご両親は大変だから、あなたが頑張って、ご両親を支えてあげるんだよ」「ご両親はかわいそうだ」「お兄さんの分まであなたがしっかり生きなくては」

最初は、その言葉を素直に受け入れました。でも、あとで

「頑張れって言われても、これ以上なにをどう頑張ればいいのだろう」「わたしも遺族のはずなのに、どうしてわたしだけが頑張らなければならないのだろう」「兄弟を亡くした悲しさは、子供を亡くした悲しさよりも軽いのだろうか」

そんなふうに反発を感じて、ひどく落ち込む結果になりました。

もちろん、そういった方々に、悪意があったわけではないでしょう。でも、掛けられた言葉は、わたしの負担になるものでした。

わたしはずっと、どうしてそんな言葉を掛けられるのだろうと疑問に思っていました。

そして、あまり兄弟の気持ちについて語られていないのではないかと思うようになりました。

これまで犯罪被害者遺族の実情に関して、社会的な認知は低く、最近ようやく取り上げられるようになりました。でも、兄弟の実情に関してはもっと認識が低いようです。

今まで兄弟としての声をあげておられる方もいらっしゃいます。でも、全体の数からくらべると、ごくわずかです。

わたしの体験がすべての事例に当てはまるわけではありません。ただ、同じ思いをしている方の気持ちを少しでもお伝えできればと思います。


では、当時のわたし達家族の話から始めます。

わたしの兄は平成13年12月14日、午前2時40分頃、姫路市北条のファミリーレストラン「フォルクス」の駐車場で、交際していた女性のバックを盗んだ男の車を止めようとして引き逃げされ、死亡しました。

その当時我が家は、父と母と26歳の兄と、22歳のわたしの4人家族でした。当時兄はプリセプトという市民生協に健康食品を納入している会社に勤めており、そこは出来てから十年ほどの社員30人ほどの新しい会社でしたが、兄は希望を持って皆で会社を大きくするのだなどと張り切っておりました。

兄とわたしは幼いころから喧嘩らしい喧嘩もせず、わたしは本当に兄のことを尊敬していましたし、兄もわたしを大切に慈しんでくれました。兄は社会人になって忙しくなっても色々な相談にのってくれ、いつも支えになってくれました。兄はわたしにはなくてはならない存在でした。

一方、わたしは大学四年生で、就職先も決まって卒業論文に追われている毎日でした。事件の起こった日は卒業論文の提出日でした。

その日まで論文の追い込み作業をしていたわたしは生活リズムが食い違い、兄とほとんど顔を合わせることはありませんでした。事件が起きる5日前、兄がわたしの部屋にきて、ハリー・ポッターの映画の話をしてくれましたが、その時、わたしは論文のために机の前に座っていて、兄には背を向けながら話をしました。今思うと、なぜあの時手をとめて正面を向き、兄の顔を見ながらゆっくりと話さなかったのかと後悔の気持ちでいっぱいになります。そのあと兄とほとんど話ができないまま、事件が起きてしまいました。

事件が起こったのは、深夜のことでした。わたしたちが住んでいるのは大阪ですが、事件は姫路で起こりました。当時兄と交際していた女性から、(ここではA子さんとさせていただきますが)真夜中に電話がありました。兄とA子さんは年が明けたら両方の親にも紹介し、指輪も買いに行こうと計画していたそうです。でも、わたし達家族はその時まだA子さんのことを知らされていませんでした。

わたしたちはすぐ車で姫路に向かいました。姫路までの道路はひどく混んでいました。

兄が姫路に向かった時間帯は、わたしたちが通った時よりももっと道路が混んでいたようで、いつもなら1時間半で行けるところが、倍以上かかったようです。

そのため、兄もA子さんも普段ならそんな時間まで出歩くようなことはしないのに、その日に限ってとても遅くなってしまったそうです。

兄は12月14日、姫路市のファミリーレストランで食事をした後、駐車場の自分の車の中でA子さんと喋っていました。そして2時40分頃、近くに停めていたA子さんの車の中から男が白い鞄を盗むのを目撃しました。男は白いワゴン車に乗って逃げようとし、兄は阻止しようと車の3メートルほど手前に立ちはだかりました。しかし男は他の出口があったにもかかわらず、兄に向かって発進し、ブレーキも踏まずに兄の体を車体に巻き込んで逃走したのです。

わたしたちがA子さんの電話をうけ、姫路に向かう途中、A子さんから「まだ着きませんか」「まだですか?」と何度も電話がありました。電話はわたしの携帯にかかって来ていたのですが、5時前にかかってきた電話で、A子さんが急にわぁっと泣き出しました。「あっ…」と思いましたが、両親には恐ろしくてとても言えませんでした。わたしが絶句していると、急に電話の相手が変わりました。看護婦長です、というその女性は、「重篤な状態です。道はわかりますか」と丁寧に尋ねられました。でも、それが余計に怖くて何も言えなくなり、電話を切ったあと、「A子さん、なんて言ってた?」と母に聞かれたとき、「重篤な状態だと言ってる。とりあえず高速を降りたら道を教えてもらう」と答えました。兄はその時すでに亡くなっていました。


病院についたとき、兄は全身を包帯で巻かれた姿で、すでに延命装置が取り外されていました。亡くなっていることはすぐに分かりました。母が兄にとりすがって「ゆう君、どうしたん?」「何があったん」と顔を包みこんで言うのを見ながら、わたしはただ呆然として、何も感じられませんでした。

頭では兄が亡くなったという事実は理解出来ました。けれど、こみあげてくる悲嘆とか怒りとか、そういう気持ちは感じられませんでした。まるで夢かドラマでも見ているような気持ちでした。妙に冷静で、卒論の提出やアルバイト先への連絡をどうしようなどと考えていたのです。

A子さんと両親は混乱していました。とくにA子さんを、わたしが慰めなくては、と思いました。A子さんは何度も謝罪していて、両親はA子さんをひとことも責めませんでしたが、A子さんの相手をするのは両親には負担だろうと思ったのです。

自分に与えられた台詞と役を、ちゃんと演じなければならない、そんな気持ちでした。


遺体と共に家に戻ってから混乱の中で通夜、葬式、初七日と続く仏事がありました。兄が亡くなったという実感が出てきたのはこの頃でした。

最初はお通夜でわたしの友人達が駆けつけてくれたときでした。それまでは兄のお通夜ではなく全く別の誰かのお通夜なのだという気持ちにさえなっていました。でも、友人達の顔を見てようやく夢と現実の境目がなくなって、死んだのはわたしの兄だと思えるようになったのです。

わたしは友人に、もし卒論を自分で提出出来ない場合は、提出しておいて欲しい、教授やサークルの皆には自分ではとても言えそうにないから、伝えておいてほしいなど、事務的な話をしました。そうしていると、どこか遠かった現実がじわじわと自分の身近に迫ってきて、ぞっとしました。

後で友人から聞いた話では、この時のわたしは、真っ青になりながら笑顔でいたそうです。

その後わたしは大学へ行って卒論を提出し、アルバイトを辞めることを職場先へ言いに行きました。でも、そこまでが限界でした。わたしは何もかもが負担に感じるようになり、現実から逃れて部屋に閉じこもるようになりました。部屋の中でわたしはずっと本を読んでいました。本の世界に逃避したのです。でも、「殺人」とか「事故」といった単語が出てくると発作のように恐怖感が襲ってくるのです。読めたのは学術書や研究書ぐらいで、テレビにいたっては見ることもできませんでした。


しばらくして兄が使っていた携帯電話やパソコン、カードなどの名義変更や契約停止の手続きをすることになりました。本当は嫌でしたが、両親には他の用事もあったので、両親がわからないそういった手続きはすべてわたしがやりました。手続きするたびに兄とこの世を繋いでいる糸を一つ一つわたしが切っていくように思えて、まるで自分が兄を殺していくようでとても恐ろしく感じました。こういった手続きはシステム上、他人には出来ないのでしょうが、せめてきちんと整理して教えてくれる人がいたら、どんなにいいだろうかと何度も思いました。

両親はわたしに負担を掛けることを申し訳なさそうにしながら、わたしにしか出来ない部分はわたしに頼みました。もしわたしがもっと幼かったら頼まなかったかもしれません。あるいは、もっと大人だったらわたしが両親の負担を軽減してあげられたかもしれません。

両親に何か頼まれると、わたしはそれを非常に重苦しく感じました。でも果たし終えてありがとうと言われると嬉しいと思いました。

周囲の人々から「ご両親は大変だから、あなたが頑張って、ご両親を支えてあげるんだよ」と言われてそれを実行しなくては、という思いもありました。

ただ、そんな日が続くうち、兄が死んだのに、自分が必要とされることを喜んでいるような気持ちに気が付いて、どんどん落ち込むようになりました。


事件から三ヶ月ほどたったころ、わたしは両親の悲しむ姿をみているうちに、兄に代わってわたしが死んだ方がよかったのではないかと考えるようになりました。自分が生きていることに罪悪感がありました。生きていることがひどく苦しかったのです。なにか楽しいことがあったら、あとで自己嫌悪でのたうちまわりました。兄が死んだというのに笑って生きている自分がとてもひどい生き物のように思えたのです。

兄のお友達や会社の方と話して、兄がどれだけ多くの人から必要とされていたかを感じると、どうして事件にあったのが兄の方だったのだろうか、事件にあったのがわたしだったらよかったのにと思いました。

このころ家族の関係も、ぎくしゃくしてきました。父の精神状態が不安定になっていて、両親が言い争うようになりました。父は普段はとても温厚で誠実な人間です。兄もわたしも父に叩かれたことなど一度もありませんし、人を傷つけるような言葉を父の口から聞いたこともありません。

けれど、この時期の父は、どこにも吐き出せない気持ちを母にぶつけるしかなかったのでしょう。

家族全員が悲しくてつらいと思っているのに、気持ちがすれ違って傷つけてしまうのです。

絶望して、いたたまれなくなったわたしはとうとう、どうにでもなってしまえ、という投げ遣りな気持ちで、「友人の引越しの手伝いをするから」と一週間ほど家を離れることにしました。


わたしを誘ってくれたのは東京で就職が決まった友人でした。彼女はわたしが家にいるのが苦痛なのだと察してくれたのか、「引越しの手伝いをしてくれない?」とごく当たり前に誘ってくれました。そして、わたしは一週間、静かな環境でのんびりさせてもらったのです。


一週間がすぎ、さぁ、またバトルだ、と覚悟して帰宅すると、両親の様子は前と一変して、すっかり落ち着いていました。そのときはわたしの不在が両親になんらかの影響を及ぼしたのかと思いました。

でも、わたしの方にも原因があったのだと思います。わたしの心に余裕がなかったことが、ささいなことでも過敏にとらえていたのでしょう。

それまではずっと家に閉じこもっていましたが、それから、少しずつ外に出るようになりました。映画を見に行ったりコンサートに行ったり、友人達が機会を見つけてちょくちょく誘い出してくれました。

どん底だったわたしの気持ちを救ってくれたのは、友人達でした。

後で聞いた話ですが、お葬式に参加してくれた友人達は、その時「これから、自分たちに何が出来るか」ということをすでに話し合っていたのだそうです。

そして「忘れなさい」とか「過去を振り向かないで」とか、事件をなかったことにする声が多かった中で、友人達は「事件にあったことを特別扱いするのではなくて、事件ごと当たり前に受け止めよう」と決めていたのだといいます。


4月になって、わたしは社会人になりました。世の中に出てみると、世間は戸惑ってしまうくらい平和なものでした。兄の事件はわたし達家族にとって、人生を変えた重大な出来事でしたが、世間では新聞の一記事にすぎませんでした。わたしをよく知る人でさえ、完全に理解してくれることはありませんでした。世間の日常が押し付けられ、全身全霊の勇気をふりしぼって事件の話を打ち明けても共感を得るのは難しいことでした。

ある日、軽く笑われて「精神的負担ってやつ?」と冗談めかして受け流されたときから、わたしは聞かれても事件の話をしなくなりました。


事件から一年くらいたったころ、わたしは自分の中に悪魔と死神がすみついていることを自覚し始めました。兄がかわいそうで、両親がかわいそうで、どうしてわたしの周囲の人々がこんなに苦しめられるのだろうかと思うと、犯人を殺したいと思うようになりました。

そして、兄の代わりになれるのなら、喜んで死んであげるのにと思いました。実際、何度も実行を考えました。

ただ、そう思うたびに、「これは単なる自己満足と陶酔に過ぎない」「現状から逃げようとしているだけだ」と自分の弱さを直視しなくてはならなくなりました。

不幸の中に溺れて深みでもがくことは、とても苦しくつらいものです。けれど、深みにもぐることも出来ず、無理矢理外に連れ出されて、未来に向かって歩きなさいと言われても、とてもつらいのです。

「お兄さんの分までしっかり生きなさい」といわれても、何をどうやって生きればいいのかなんて誰も教えてはくれません。

苦しんでいる両親を支えたいと思い、事件の前のような家に戻したいと願って、ある日わたしは両親を旅行に誘いました。けれど、両親は今はそんな気分にはなれないと言いました。では、兄の代わりになろうと思って、兄の役割を引きうけようとしました。でも「お兄ちゃんみたいにアンタも死んでしまうような気がするからやめて」と言われました。

兄の命を背負って、自分がどこへ向かって生きていけばいいのかもわからないまま、時間だけが過ぎていきました。


犯人が逮捕されるまでの一年半、わたしたち家族は懸賞金をかけ、ビラ配りを二回行いました。わたしは両親に言われてビラのデザインをしましたが、作成している間は頭痛と吐き気に襲われて、とにかくつらく、誰か代わりにやってくれる人はいないかと苦しくてたまりませんでした。

平成15年6月29日、犯人は逮捕されました。犯人は前科5犯の逮捕時は31歳、無職の男でした。犯行のとき、車に同乗していた従妹の女ふたりと、車を処分し、証拠隠滅をはかったその父親と、仲間の男2人も逮捕されました。

裁判ではわたしと母とA子さんの三人で証人尋問を受けました。最初に意見陳述をさせてくださいとお願いしていましたが、証人尋問の方が証拠として採用されるからと言われて、意見陳述と証人尋問の両方をさせていただきました。意見陳述は母とわたしの二人でした。すこしずつ前に進んでいることが嬉しく、ビラ配りのときのようなつらさはありませんでした。でも文面を考えたりそれを読む練習をしたりするのはやはり苦痛でした。持ち込む遺影を、裁判所の指示するサイズにしたがってパソコンで作り直したり、意見陳述書の内容を、わたしは泣きながら作りました。


裁判では被告に殺意があったかどうかを争いました。被告は、兄に向かって発進し、ブレーキを一度も踏まなかったにもかかわらず、「速度は出ていなかった、殺すつもりはなかった」と主張しました。高等裁判所では被告側弁護士が弁論を行い、兄が車の前に立たなかったらこの事件はなかったなどと言われました。

でも、どちらも判決は求刑どおり無期懲役というものでした。


平成17年4月13日、NHKの夕方のニュースで最高裁が上告を棄却したと放送があり、14日の新聞に載りました。ようやく終わったとほっとしましたが、通知がなかなか送られて来ず、わたし達について頂いている杉本弁護士に調べてもらったところ、最高裁で判決が出たあと、3日以内は異議申し立てが出来るという規定があり、被告は異議申し立てをしたということでした。結局それも棄却され、4月26日、今度こそ無期懲役が確定しましたが、被告は反省しているだの賠償するだの臓器提供の意思があるなどと口先では、神妙なことを言って、実際は自分の量刑を軽くするため、裁判制度の使える権利はすべて使いきったのでした。


すべてが終わって、今思うことは、不幸な事件ではありましたが、わたしたちは、とても恵まれていたということです。

まず犯人が捕まるということで、努力が報われました。法廷でも今までの被害者の方が拒否され、社会に問いかけてこられたおかげで、遺影持ち込みや喪服での証人尋問、さらに意見陳述もさせていただきました。

本来これらのことは、当たり前のことだと思いますが、それらを許されなかった今までの被害者の活動が、わたし達を助けてくれたのだと思います。同じ犯罪被害者遺族の方々は、同じ気持ちで憤り、悲しみ、励ましてくださいました。

姫路署の被害者支援係の方も、わたし達が姫路署を訪問したり、ビラ配りの時もいつもついて下さり、裁判が始まってからも、一審の姫路地裁のみならず、二審の大阪高裁までも傍聴支援をしてくださいました。大勢の方の支援は本当に心強く、勇気づけられました。


兄弟をなくした人は、両親を支えてあげなければならない、悲しませてはならないと思う一方で、この苦しみから逃れたい、事件なんてなかったことにしたいと、二つの感情の間で板ばさみになります。

誰かのために自分の感情をおしころして、全く関係のないところで爆発させてしまったり、逆に兄弟の死について一切拒否するようになったりします。

自分の感情と向き合いながら、周囲との折りあいをつけていく。そのバランスがとても難しいのだと思います。

爆発することも拒否することも出来ないときは、死ぬことばかり考えてしまいます。

わたし自身、何度も死にたいと思いましたが、友人のひとりがこんなことを言ってくれました。

「周囲の人の幸せが、自分の我慢の上にあるなんて、そんなのは嘘だ。まず自分が幸せじゃなきゃ、周囲の人を幸せには出来ない」

それを聞いて、頑張りすぎなくてもいいのだ、と思いました。頼れるときには頼らせてもらい、妥協できるところは妥協し、利用させてもらえるところは利用する。それで少し楽になりました。

もし誰かが辛くて悲しいとき、わたしならどういう言葉をかけるのだろうかと、いつも考えます。

そういうときは、自分がかけてもらって嬉しかった言葉を思い出します。

「無理しないで」「泣きたいときには、思う存分泣いたらいいよ、嫌ならやめちゃえ」

捌け口のない気持ちによりそって、同じように感じて受け止めてもらう。それが一番ありがたいものです。

頑張れとか、支えてあげなさいとか、お兄さんの分まで、とか。そういう言葉は負担になるのです。


自分の中の悪魔と死神に気付いたときに、そういう気持ちがあることは悪いことなのかと聞いたことがあります。宗教においては、それは悪いことだといわれました。一般道徳としてもよくないことでしょう。

でも、「過去は忘れなさい」といって、「愛する人の死」をなかったことにすることが正しいとは、わたしにはどうしても思えません。自分のなかの悪魔と死神を見つめつづければつづけるほど、やっぱり自分が兄を大切に思っていたのだということに気付かされるのです。

被告が口先だけの謝罪をしたとき、マスコミの方に「犯人をゆるせるか」と聞かれたことがあります。でも、わたしはゆるせないと答えました。人の命を奪うということは、その人が当然生きるはずだった未来をも奪うということです。事件の傷をごまかす方法を覚えても、忘れたり癒されたりするものなんかではないのです。

わたし達にはこれから、兄の結婚、こどもの誕生など、兄が生きているからこそ生じる日々の暮らしが当然のようにあるはずでした。わたしは社会人になってから、何度も、兄の助言を欲しいと思いました。兄の友人の皆さんも、時折訪ねてくれて大切な友人を喪失した辛さを語ってくれます。わたし達はこれからも何度も、兄がいれば、という言葉を言い続けるでしょう。その度に、わたし達は自分達が手に入れるはずだった未来を奪われてしまったという現実を思い知らされるのです。それらすべてが、被告が犯した殺人という罪の深さなのです。

兄の死に意味があっただなんて言われたくはないですが、わたしは今後わたしが生きていくなかで、兄の生と死に、意味を見出さなくてはならないと思っています。兄の死を言い訳にして現実から逃げるのではなく、ちゃんと前を向いて同じようにつらい気持ちを抱えているひとに、手を差し伸べられたらと思います。

わたしたちひとりひとりの中に、乗り越える力があるのだと思います。そして誰かを助けられる何かの力があるのだということをこれまでの活動の中で知りました。

同じ悲しみを共有するひとにしか出来ない支援があり、また、客観的で冷静な判断をもつ、同じ悲しみを持たない人にしか出来ない支援もあります。悲しみや苦痛に寄り添いながら、不幸の沼の底に共に落ち込んでいくことのない支援です。

それぞれが、自分の立場で何が出来るか、気付いた問題点を声に出していかなければならないと思っています。またわたし達も同様だと思いますので、いくつか、これまでに気付いたことをあげさせていただきます。


まずは心のケアの問題です。人にもよると思いますが、事件直後は悲惨な現実を頭では理解できても心は麻痺したような感じで、他人からは妙に冷静に見えたり、また逆に人格が壊れてしまったように思われたりします。

わたしの母は前者でした。すぐに親戚や会社に連絡し、混乱の中で通夜、葬式、初七日とつづく行事をこなしました。傍目にはしっかりしていると見えていました。しかし、三ヶ月くらい経ったころ、兄を奪われた喪失感と、気も狂わんばかりの絶望感に自制心を失いそうになっていることがありました。

細かな雑用や精神面を支えてくれたのは、友人、親戚、近所の人達でした。特に兄の友人達に、両親は大きな励ましを受けたようです。

そういった手助けや気遣いを身近な人から受けることが出来たわたし達は、とても恵まれた立場でしたが、身近にそういった人達がいないとき、公の機関からすぐに手が差し伸べられたら、どんなに心丈夫かしれません。

わたしたち一家は周囲の人たちの温かい見守りの中で、また、事件後知りあった同じ犯罪被害者の方たちと接することによって、立ち直ることができましたが、そのような助けのない人には事件直後だけでなく当分の間見守り、声を掛けてともに悲しみを共有するサポーターがあればよいのにと思います。


また、わたしは事件が起こったときにはもう、ある程度の大人で、それなりに逃げ道もあり、息抜きもできる環境でしたが、未成年のこどもは限定された地域の中で生活しているので、逃げ場がありません。

最近、児童生徒が事件に巻き込まれた時、その被害者が通っていた学校の一般生徒に向けて心のケアを提供したという報道は見聞きしますが、当事者である被害者の兄弟に臨床心理士がついたというような報道は聞きません。一番心に傷を負っているのは家族だと思うのです。事件のあと、真っ先に家族、特に未成年の兄弟の心のケアが必要なのではないかと思います。


お役所にもお願いがあります。例えば普通に病気で死亡したとしてもあちらこちらへ提出する書類などで、何度も役所に足を運ぶ事になります。

それが事件、事故となりますと、突然のことでもあり、遺族は病院や役所だけでなく、警察にも行かねばならず、取り寄せたり、提出したりする書類は非常に沢山のものになります。

わたしの母が役所に父の印鑑証明をもらいに行ったとき、係の人が父の裕という名と死んだ兄の裕一という名を見間違えて、死んだのが父だと勝手に誤解して「死んだ人の印鑑証明は出せません。そのカードも処分してもらわなければ」と母が提出した書類を目の前でくしゃくしゃに丸めてしまったことがありました。

ただでさえ悲しいとき、どうしてこんな扱いを受けるのだろうと母は本当に悔しそうでした。

個人情報の観点からは他人に依頼することは難しいけれど、出来ることなら誰かに代わりにやってもらいたいと母は話しておりました。


長々と書きましたが、最後にひとつ、お願いをして話を終わりたいと思います。

貴方は『千の風になって』(※)という曲をご存知でしょうか? 最近よくテレビなどでも紹介されて幅広い年齢層に受け入れられている曲ですが、亡くなった人が残してきた遺族に向かって語りかける内容の歌詞が、身近な親族を亡くした人々を癒す曲であるとして犯罪被害者遺族の集まりでもよくかかっている曲です。

「わたしのお墓の前で泣かないでください そこにわたしはいません 死んでなんかいません 千の風になってあの大きな空を吹き渡っています」、そんなとても美しい、いい曲です。

しかし、この曲を聞くたび、わたしは首を傾げてしまうのです。本当にこれで死者を悼み、遺族を癒すことができるのだろうか、と。

わたしたち家族は兄を失ったあと、さんざん泣きました。何故でしょう? 兄を失ったから、もちろんそれもあります。でも、それだけではないのです。兄の無念を思って、どんなにか生きたかっただろうかと思って、わたしたちは泣いたのです。

兄はこの世界にもういません。死んでしまいました。殺されてしまいました。死んでから、兄は風や星や雪や花や、その他の美しいものになったかもしれません。でも、なにより兄は伊藤裕一というひとりの人間として、平凡な人生を続けたかったはずです。

兄のような被害にあう人がひとりでも減るように、わたしたちのような遺族がひとりでも減るように、真面目に働く善良な市民が泣くことのない世の中を作るため、どうか皆様のお力をお貸しください。

心よりお願いいたします。

(※)「千の風になって」 作詞:不詳 訳詞:新井 満


それでも生きていかねばならない
犯罪被害者として精神科医として

NPO法人 おかやま犯罪被害者サポート・ファミリーズ

副理事長・精神科医 高橋幸夫

僕は精神科医として、40年間患者さんから喜びや悲しみ、苦しみや怒りなど、色々な感情や思い(情動)について、言葉で表せるもの、あらわせないものを教えてもらい、自分なりに受け止め、納得し、解釈し、判ってきたつもりでいました。しかし、7年前の平成14年6月3日、妻が突然誘拐され行方すら分からない、身も凍る事件に巻き込まれました。未だに行方が分かりません。このような被害者になってはじめて、いままでの感情や思いは頭の中で抽象的に描き捉えたもので、現実に直面して体の内から湧き出るものとは大きく異なっていました。異質と言っていいのかもしれません。感情や思いを言葉や文字で表現するには限界があり、今まで分かっていたつもりの自分は、精神科医としての奢りだったと反省しています。いまは、それらの違いを言い当てる言葉探しをしています。

事件による苦しみは消えることなく続き、決して薄らぐものではありません。形を変えながら波状的にいつまでも襲ってきます。それは、お花畑でスキップしながら口笛を吹き楽しんでいるさ中に突然、薄暗く陽の当たらない、ジメジメした谷底に転落したような感じです。大けがをしているのに、腰を下ろす所もなく呆然と立ちすくんでいる状態です。うろたえ・あがき・疲れはて、落ちてきた崖の上を見上げて助けを求めるも、覗いてはくれても降りて来てくれる人はいないのです。もう二度と、あのお花畑で過ごす事は出来ないのだろうと、落胆し無念の思いで日々を送っているのです。事件から7年過ぎた今でも、妻の生死すら分かっていません。奈落の底に押し込められながら、何処にいるのだろうか? 何をしているだろう? 命だけでも……、と願う心の痛みに変わりはありません。

その日を境に生活は一変してしまいました。何事にも気力が続かず中途半端です。焦る心に、ただ時を費やしているだけの日々です。四季は移り変わるも、心の季節は当時のままで、全くちぐはぐです。あの真夏の暑い日に、落し物でも探すかのように黙々と草を分けながら、妻を探した情景や、ダムに潜って妻を探している風景が浮かんできます。あの時、出頭してきた犯人を捕まえていてさえくれたならば……と、悔いる日々です。いまだに供養すらしてやれないのです。それは遠い過去のようでもあり、昨日のようにも感じるのです。暦をめくるたびに、孤独感、無力感にとらわれます。

犯人やメディアへの怒りも新たに涌き、耐え切れなくなるときもあります。

いくら時が過ぎても、心の痛みはやわらぎません。浜辺に打ち寄せる波のように、静かな時もありますが、うねりの波もあります。でも、そんな赤裸々な気持ちをむき出して現実の生活は送れません。心の内に仕舞い込んでいるだけなのです。周囲の人達は元気になったと思うかもしれませんが、生活するために仕舞い込む他に仕方ないのです。心を押し殺しているのです。このような心情を言葉で表現できず、うまく伝える事ができません。重いリュックを背負いながら腰をおろして休む場も無い、ジメジメした谷底生活を送っているのです。今まで、被害者にこんな心情があるとは知らずに精神科医として過ごしてきました。その発言や行動に恥ずかしささえ覚えています。

住み慣れた土地を離れ転居してみました。帰敬式を行い妻に法名を授かることもしてみました。でも、苦しみは変わりません。僕の心の中で妻は生きているのです。妻の健康保険や介護保険も払わなければなりません。選挙の度に案内があり、年金手続の知らせもきます。社会的にも妻は生きているのです。妻は居ないのに妻は生きているのです。こんなちぐはぐを、どうする事も出来ません。苦しんだ末、やむなく危難失踪宣告を受ける事にしました。法的な死亡扱いはできました。でも、心の中はお別れもできず、悲しみ苦しみ哀れさに変わりはありませんでした。僕の心の中で妻は生きているのです。

僕は、二つの大きな被害に遭ったと思っています。一つは犯人の二人の男女から、そして、もう一つはメディアからです。妻を誘拐し家から連れ出したのは2人の男女ですが、その犯人は特定され逮捕寸前でした。しかし、その2人は、「表現の自由」・「国民の知る権利」を掲げるメディアから執拗に追いかけまわされた末に、自殺してしまったのです。その結果、妻に関する手掛かりは失くなってしまい、妻は僕のもとに帰れなくなったのです。帰れるはずの妻を帰れなくしたのはメディアなのです。メディアの言う「表現の自由」や「国民の知る権利」が、こんなに濫用されていいものでしょうか? われわれ国民の「生存権」や「幸福を求める基本的人権」まで侵害していると思うのです。自由や権利は、公共の福祉のために利用する責任があり、濫用してはならないと憲法に書いてあります。いまのメディアは「自由」や「権利」を濫用しているとしか思えてなりません。

いろいろな犯罪に遭い身も心も救われない人たちが多いことも知りました。犯罪被害に遭って初めて分かる事は多いです。この事を被害者は勇気を持って訴えないと、広く国民に理解してもらえないし、その苦しさは伝わりません。毎日、事件は起っています。これからも多くの人達が被害者となり、悩み続けなければなりません。とても悲しい出来事です。もう犯罪に遭いたくありません。

加害者になるか、ならないかは自分で決められますが、被害にあうか遭わないかは選択できません。犯罪は向こうから襲ってくるのです。これ以上被害者の出ない、安全で安心な社会を構築したいものです。

一度犯罪被害に遭ったら、元の生活にはもどれません。お互いに助けあう他ないのです。まだ、被害者の気持ちを本当に深く汲んで支援してくれる組織は少ないようです。実際に自ら被害に遭わないと、深い心の痛みが分からない面があるからでしょう。被害者の気持ちを大切に理解してもらえる、被害者中心の被害者支援組織を立ち上げてみました。被害者だけでつくる自助グループも立ち上げてみました。そこでは、心の痛みを話し合い、分かち合う事で、ホッとした安らぎと相手への感謝の気持ちが自然とわいてきて、支えられ癒される自分を実感しています。心の痛みの深さ・お互いの思いやりの有難さ・自然とわいてくる感謝の気持ち・そして安らぎ、これらすべてを実感しながら、今という時をかみしめ、一日一日を過ごしています。事件前の自分を恥じながら、心の底に謙虚な姿を取り戻し今一度、精神科医として、人生の歩みに対面して行こうと思っています。


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