被害者等の方々の手記

 

 蘇る交通死亡現場

楠野 祇晴

 片側二車線の幹線道路(通称:栃木バイパス)、栃木県下都賀郡大平町大字下皆川1713番地1先丁字路交差点でした。事故発生の日時は、平成13年4月7日(土曜日)午前8時20分。偶然にも近くを走行していた私は、妻からの連絡を受けて午前8時43分頃に現場でカーキ色の毛布で被われ変わり果てた敦司と対面したのです。葬儀が終わった3日後に死体検案書を取り寄せました。脳挫傷・後頭部挫創・脊椎骨折・脊椎損傷・左前腕切断。その数日後、検死に係わった外科医と救急隊員に直接お会いしてお話しを聞けました。あばら骨は全て骨折・左足の膝下から複雑骨折し骨が剥き出しで皮によって切断されず足がどうにかくっついていた・左首下の後ろ付近から左胸にかけて深く裂けていた。更に切断された左手は、腕からグローブと共に高熱で焼きついてしまい脱がせることが出来ずそのまま遺体に添えて火葬されたと後日知らされました。

 敦司は会社への出勤途中でした。 ヤマハYZF-R1(排気量1000cc)のバイクにまたがり第一車線上を走行していたのです。前方丁字路交差点の信号は青でした。産業廃棄車の大型トラックが交差点内で一旦停止をせずに強引にバイクの直前で直近右折をしたのです。衝突地点から14.1m手前でバイクのブレーキ痕が始り、ブレーキ痕の長さは3.7m、そのまま真っすぐに10.4m先が衝突地点でした。大型トラックは右折帯から内回りで右折、しかも進入したのは右側の車線でした。右折した方向には赤信号で停止している車両がなかったので二時的衝突は防げたのです。大型トラックのボディ左側面の後輪二軸と三軸付近に衝突したのです。トラックのタイヤの直径は1m。その上部のタイヤハウスまでの間隔は28.5cm。タイヤとタイヤハウスの間に敦司の体が吸い込まれ、かき回されるように体ごと粉砕されたのです。衝突地点から4.7m先で敦司はアスファルトに投げ出されました。トラックは更に40mも走行したのちに停車したのです。

 切断されたハンドルのついた前輪部分とボディフレームから繋がる後輪部分はそれぞれ逆方向に飛ばされ、エンジンオイルやラジエーターの液体が路面に広がっていました。遺留品が散乱していました。燃料タンクはトラックのタイヤに踏み潰されよじれ弾き飛ばされ、歩道上で引火し爆発炎上しました。私が現場に到着した時には、すでに消火作業が済んで、辺りはまるで硝煙のような臭いと煙が立ち込めていました。

 交通ルールを厳守して何事もなく直進してきたバイクの進路をトラックがふさいだのです。直前に巨大な壁の如く遮られ、限られた極わずかな危険回避を余儀なくされながら吸い込まれるように逝った、敦司が受けた恐怖感は想像を絶していたはずです。社会人として2年目。5ヶ月前の平成12年11月には職場の直属の上司とアメリカ本土へ研修旅行に選抜されていました。責任感や協調性があり、職場では信頼されていたそうです。多くの良き友達にも恵まれ、愛し合える最良のパートナーとなるはずの女性とも交際していました。新築したばかりの我が家の二階には、敦司の希望でその女性と将来設計が夢のように沢山詰まっていたはずでした。

 生きたくても生きられず突然にして余りにも理不尽に殺された敦司の無念さを、今は親がその気持ちを引き継ぎ・・・たとえ歳月が経とうとも風化させることなく背負い、亡き敦司との絆を深めているのです。

 親思いでとても優しくたのもしい息子でした。

 

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