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平成21年度 地域における犯罪被害者等支援のためのセミナー事業

平成22年3月
静岡県県民部県民生活局くらし交通安全室
内閣府犯罪被害者等施策推進室

III. 第2回ネットワークセミナー開催報告

III-1:ネットワークセミナー開催報告(平成22年2月2日開催)

(1)プログラム

[1] 開会(13:00)

[2] 開会挨拶 (13:00~13:05)

静岡県県民部県民生活局局長 望月 正

[3] 挨拶(13:05~13:10)

静岡県警察本部犯罪被害者支援室犯罪被害者支援官 河合 竜司

[4] 講演(1) (13:10~14:20)

    「犯罪被害者の真実」

全国犯罪被害者の会(あすの会)会員 岡本 真寿美氏

- 休憩-

[5] 講演(2) (14:40~15:50)

    「地域で被害者を支えるために」

京都府犯罪被害者支援コーディネーター 岩城 順子氏

[6] 県からの依頼事項 (15:50~16:00)

静岡県県民部生活局くらし交通安全室長 山下 晴久

[7] 閉会 (16:00)

(2)開催内容

[1] 開会

[2] 開会挨拶

<静岡県県民部県民生活局局長  望月 正> <静岡県県民部県民生活局局長 望月 正>
皆さんこんにちは。本日は、大変お忙しい中、当研修会に多数御参加いただきまして誠にありがとうございます。
当研修会は、内閣府と静岡県の共催で、2回にわたって実施するものでございます。前回12月7日に開かれました研修会では、主に市町と県の犯罪被害者等支援担当の方々を対象として開催いたしましたが、今回は、主に静岡県被害者支援連絡協議会の参加団体の皆様方を対象として開催することとしております。
さて、私たちの身の回りでは、痛ましい事件や事故が後を絶ちません。突然被害に遭われました方々、また、大切な人を失った方々の気持ちは察するに余りあるものがございます。
そのような中で、犯罪に遭われた方やその家族の方々が被害から立ち直って、再び平穏に暮らせるようになるためには、警察や自治体、犯罪被害者等支援に携わる関係諸機関・団体の方々が連携し、被害者やその家族の置かれた状況に応じた適切な対応と必要な支援を行うことが重要となります。
御承知のとおり、平成17年4月に犯罪被害者等基本法が施行されまして、それを受けて、犯罪被害者等給付金の上限額の引き上げ、また、刑事裁判への被害者参加制度、さらに刑事裁判の手続を利用しました損害賠償命令制度などが始まったところでございます。今後、さらに被害者の視点に立ちました諸施策が進められていかなければならないと考えます。
本日は、全国犯罪被害者の会「あすの会」会員の岡本真寿美様と京都府犯罪被害者支援コーディネーターの岩城順子様のお二人を講師としてお迎えいたしまして、岡本様には「犯罪被害者の真実」、また岩城様には「地域で被害者を支えるために」という演題で御講演をいただくことになっております。お二人からは、犯罪被害者やその御家族のお立場からのお話がお聞きできることと存じます。
私たちが、窓口などで二次被害を起こさないようにするためにも、支援施策をまた立案する際におきましても、まず犯罪被害者やその御家族の置かれた状況を知り、理解を深めようと努力することが重要であります。
岡本様は長崎県のほうから、また、岩城様は京都府のほうからいらっしゃっていただいたということでございます。御両名にはよろしくお願いをしたいと思います。
結びに当たりまして、皆様におかれましては、本日の講演会を今後の犯罪被害者等支援業務にお役立ていただきますとともに、これを機に支援に携わる者同士のネットワークの輪を一層広く強固なものとされますよう御期待を申し上げまして、開会に当たってのご挨拶にかえさせていただきたいと思います。
本日はよろしくお願いいたします。

[3] 挨拶

静岡県警察本部犯罪被害者支援室犯罪被害者支援官  河合 竜司 写真 <静岡県警察本部犯罪被害者支援室犯罪被害者支援官 河合 竜司>
皆さんこんにちは。警察本部で犯罪被害者支援室、犯罪被害者支援官というものをやっている河合と申します。よろしくお願いいたします。
本日、貴重な時間ではございますけれども、前回セミナーでも少し話をして、聞いていただいた方がいらっしゃると思いますが、少しばかりお話をさせていただきます。
私も以前には刑事あるいは捜査、こういったものを経験して、被害者支援というものについてある程度、曲がりなりにも知っているというつもりでやってきておりました。しかし、実際、今回、被害者支援室、こういった部署へ就きまして、被害者支援をするにつれて、自分が刑事として今までやっていたのは、真にいえる被害者支援だったのかな、本当に被害者のためになったのかなというようなことを感じるようになりました。
と言いますのも、本来、被害者を中心にして考えなければならない被害者支援というものを、捜査を中心に考えてやっていたのではないのかな、捜査と被害者支援、手段と目的を履き違えてやっていたのではないのかなと改めて感じております。
私が子どもにもよく、知っていることとできることは違うよということを言うのですけれども、正にそのとおりで、被害者支援について知っていても、それができなければ何にもならないということを感じております。
私ども警察は、まずもって一番最初に被害者に接する機関でございます。事件が発生して、まず被害者の方と面接するのは私たちでございます。そういった意味で、第一段階の被害者支援を私どもがやっていかなけれればなりません。しかしながら、この被害者支援というものは、その一番最初の被害に遭ったときだけで終わるものではございません。その後、裁判があったり、いろいろな手続もございます。
そういった意味で、各機関が連携しながら支援していくということが非常に大切になってきております。警察のみでこれを頑張って行ったとしても、それはやはり最終的には被害者のニーズには沿えないなということになります。ですから、事件によって違うかもしれませんけれども、関係機関が連携するということが大事だと思います。特に、社会生活の基盤を支えています県や市、町、こういった行政機関、あるいは民間団体の犯罪被害者支援センター、この力をなくして支援は進んでいかないと思っています。
このような意味で、今回こういった研修を契機として、犯罪被害者支援連絡協議会、こういったものをより一層活性化させて、情報交換を図っていく、あるいは意識改革をしていくということが非常に重要ではないかと思います。
被害者支援は被害者のためにある。これは当然のことなのですけれども、犯罪被害者支援連絡協議会を含めた被害者支援に携わるすべての人たちが、この当たり前のことをもう一度この研修で思い返さなければいけないなと思っております。
また、安全・安心まちづくりといった、被害の予防でありますとか未然防止、こういったものも一つの犯罪被害者支援、あるいは被害者対策と言えるのではないでしょうか。加害者も被害者も出さない、そういった対策を並行して推進する必要があると思います。
被害者支援というものは、被害者を支援する人のためにあるわけでもありません。また、被害者を支援する組織のためにあるものでもありません。あくまでも被害者の方のためにある支援、これでなくてはいけないと思います。
私は、被害者支援を広げるという意味で、意識改革を伴う精神活動だと思っております。本日研修に参加する私たちが、まずもって被害者支援に対する理解をさらに深め、それはもちろんのことなのですけれども、自分の組織内、あるいは社会の意識改革を伴う精神活動の群発地震になって、私たちが群発地震になって広げていく。そして犯罪被害者を心温かく支えるまちづくりを目指していくのが大切なことではないかなと思います。
以上、私の挨拶とさせていただきます。

[4] 講演

(1)「犯罪被害者の真実」

<全国犯罪被害者の会(あすの会)会員 岡本 真寿美氏>
こんにちは。どうぞよろしくお願いいたします。
私の事件は、平成6年2月のことです。
当時、私は、店で働いていて、仕事も楽しく、プライベートも充実した毎日を過ごしていました。ある日、同じ職場の女性と飲みに行くことになりました。私は知らなかったのですが、その女性と加害者は付き合っていたようです。
ある日、加害者がものすごい勢いで職場へ来て、「昨日行った場所を教えろ」「あいつをあちこち連れ回すな」などとわけのわからないことを言って、「おまえを絶対に殺してやる。生きていると思うなよ」と言い、私を職場から引っ張り出し、私はその場所から逃げようとしたとき、突然体にガソリンをかけ、火をつけられ、一瞬のうちに火だるまになってしまいました。
やっと火が消えたとき、周りを見渡しました。私から見て、前には黄色のテープ、キープアウトのひもで事件現場を囲んであり、その先にはたくさんのやじ馬、右にはたくさんの警察、後ろにはライトを照らした車が2、3台と止まっていて、私の姿はほとんど全裸の状態で、まるで見せ物の状態でした。加害者が私のところへ来て、「おれ、警察に捕まりたくないから、たばこの火で引火したと言え。いいな」と言ってきました。私は「痛いからとにかく離して。私の体を返して」と言い、救急車に乗りました。
救急隊員は加害者に対して「あなたも乗りなさい」と言い、加害者は私の足元に乗ってきました。病院へ着く間、加害者はずっと泣き続け、私に向かって「死なないかな」「死なないかな」と言い続けていたのです。私は体中が痛み、恐怖の中、そのときの救急隊員の判断が今でも不思議でなりません。それは、事件が発生した場所から私が入院していた病院はすぐ近くであるのに対し、加害者を先にかなり遠い病院へ連れていき、最後に病院へ連れていかれました。
救急隊員は、軽症と重体の区別はあると思います。私はほとんど衣類さえ燃えていて、重体の状態でした。軽症の人物は、衣類さえ燃えていなく、手と顔だけの火傷だったのです。どうして軽症の人物を先に病院へ送り、重体の人物は後なのか、全くわかりませんでした。私は、1分1秒早く病院へ連れて行ってほしいと思い、必死に痛みを耐えていました。
このとき私は、きっと本当の証言をする、気をしっかり持たなきゃと思っていました。やっと病院へ着き、処置室へ運ばれたものの、先生や看護師はかなり慌てた様子でした。それは、救急隊員が病院へ連絡する際、「ちょっとした火傷です」と伝えたので、病院側は軽い処置用品だけを用意していたのです。私は、先生に「助けて。助けてください」と言い続け、少しずつ意識も薄れていきました。
私の体は全身90%の熱傷で、先生は両親に「あなたの娘さんですが、一応覚悟しておいてください」と告げられました。先生と家族の努力と願いで意識を取り戻すことはできたけれど、目をあけることも、話をすることも、口から食事をすることもできませんでした。不安の日々の中、ただ人の声、足音を聞き取ることが唯一の望みでした。
やっと1か月ほどして話もできるようになったとき、私が運ばれたICU集中治療室に警察の方が事件の本当の真実を聞きに来られました。警察の方から「今日は事件の内容を聞きたくて来たのですが、いいですか。辛くなったら言ってくださいね。そのときは次にしますから」と言われました。私は「いいえ、大丈夫です。警察さん、私悔しいです。何も悪いことしていないのに、どうしてこんな姿にさせられなきゃいけないんですか。本当に悔しいんです」と、涙を流しながら事件の内容を説明しました。
すべて話し終わった後、強行犯の係長さんだった方から「岡本さんは何も悪くないから。私たち警察は岡本さんの味方だから、大丈夫だからね。私たち警察は悪い人を捕まえるのが仕事なんだから。よく話してくれてありがとう。今日はゆっくり休んで、一日も早く体を治してくださいね」と言って頂きました。私は、やっと真実を聞いてもらえたと思いながら、深い眠りに入りました。強行犯の係長さんの言葉は、私にとって勇気と希望を与えてくれ、私自身、今もなお頑張って行けると思います。ありがとうございます。
その後、元の体に戻していくには皮膚が必要なため、兄や父は私に何も言わず、皮膚提供手術を行っていました。そのことを聞いたとき、看護婦さんに「その手術はすぐ止めさせてください。被害に遭うのは私だけでいいから。その手術はすぐ止めさせてください。お願いします」と言ったけれど、既に遅く手術は終わっていました。手術を止めさせることも起き上がることもできず自分を責め、悔しくて涙を流しながら手術室へ向かいました。皮膚提供手術は成功し少しずつ回復へ向かい、その後、自分の皮膚を取っては移植手術を繰り返しました。
その間、私の父と兄は、加害者の親と話し合いをしていましたが、その親は「息子は二十歳までしか育てていませんので、あとは知りません。叩くなら叩けばいいでしょう」、「主人にはいろいろ言わないでください。仕事に影響を及ぼしますから」と言ってきました。
その一方で、私は、毎日リハビリの猛特訓を続けていました。先生の支えもあり、やっと起き上がった瞬間、先生、看護婦、家族の拍手喝采が病棟中に聞こえるほどでした。このとき、やっと一つの壁を乗り越えることができたという気持ちでした。その後、立ったり、座ったり、体を起こす練習が続き、やっと椅子から立てるようになったころ、刑事裁判が始まりました。
証人尋問に出るか迷っていたとき、検察の方より、加害者が一生面倒を見るから俺と結婚してくれと言って罪を軽くしようとしていることを聞き、私は全身の痛みを耐え、立つことが精一杯の状態で裁判所へ行きました。裁判官、加害者、その親に事件のむごさと真実を知ってもらうため、短パンとタンクトップの姿で証人尋問に立ちました。私は裁判官に「裁判官さん、もし、あなたの娘、息子が何もしていないのに、こんな体にさせられたらどう思いますか。そこのところをよく考え、刑を下してください」と言いました。そして、加害者に対して、「あなたは一生面倒を見るから俺と結婚してくれと言ったそうですが、冗談じゃない。自分できっといい人を見つけます」と言って、(証言台と傍聴席を区切る)柵を出ました。その後の内容を聞きたかったのですが、検事の方より「もう帰っていい」と言われ、聞けないまま裁判所を後にしました。加害者に下された刑は、求刑7年、判決6年。それは決して納得できない判決でした。
その後、加害者の親は、家も他人に売り、現在も行方をくらましたままです。
一方、私は、入退院の日々で、後遺症との闘いが続きました。回復に向かうにつれ、痛み、かゆみがすごく、眠れない毎日を過ごしていました。一生懸命治療してくださる先生方に感謝しています。ありがとうございます。
その一方、医療費の問題でとても苦しめられました。事件直後から入院費をどうするか、家族が走り回りましたが、誰も相手にしてくれませんでした。市役所に生活保護を申し込むと、「加害者が支払うべきだから手が出せない」、法律扶助協会へ行くと「こういう場合泣き寝入りするしかないから」と言われ、最後には、生活保護担当者を父が怒鳴りつけ、やっと生活保護が認められました。このとき、既に入院から2か月経っていました。
退院後、地元で生活保護を受けようとしましたが、当時の保護課の課長より、「犯罪被害者と関わってこの町まで被害に遭いたくないから」と却下され、2か月かけてやっと隣町で保護が認められましたが、生活保護が認められなかった間の病院代、つまり最初の2か月と退院後の2か月間の医療費を合わせて400数十万円を請求されるようになりました。私が入院中も手術後も病室へ医事課の方が押しかけ、請求してきました。私は、医事課の方に「母1人に対して5、6人で請求するやり方はおかしいのではないのですか。私は好きでこうなったわけではない。全く関係ないのに。加害者がいるのだから、加害者に請求してください」と言いました。しかし、医事課の方は支払いをさせるため、「加害者は関係ない。献血するときもみんな献血代を支払っているんだ。だから、あなたも支払ってください」、「あなたが病院代を支払ってくれればこの病院は成り立っていくんだよ。だから、早く支払ってくれ」。「どうしてここの病院に運ばれてきたのか。他の病院に行ってくれればよかった。そうすれば、こんなことにはならなかったのに。あなたが刑務所まで行って加害者に請求して」と言われ続けました。私は、「そんなに言うのであれば、そのまま放っておいてくれればよかった。加害者が支払うと言っていますので、加害者に請求してください」と言い続けました。請求は何年も続き、医事課の方はついに家まで押しかけ、請求してきました。私が玄関に出るまでインターホンを鳴らし続け、「今日は全額支払ってもらうまで帰りませんから」と言って、3時間ほど座り込みました。
次の日から病院へ行くのが嫌になるほどで、余りにもひどいため、当時の市会議員に相談したところ、「それは余りにもひどすぎる」と言って、院長にかけ合ってくれました。一時的に請求はされませんでしたが、再度、医事課の方より、「被害者は味方もいないし、いつも頭を下げていないといけない」と言われ続けました。
その後生活保護は3年ほどして、隣町から地元へ移すことを認められましたが、生活保護担当者からは、クーラーを使用することはぜいたく品だから駄目だと言われ、却下されました。私は、事件によって発汗作用がなくなり、暑くなると熱がたまり、夜寝ることすらできなくなるほどなのです。何度お願いしても却下されるため、私は、保護担当者に「そんなに駄目と言うのであれば、私が倒れたり、生命にかかわることがあれば、あなた方で私を見てくださいね。いいですね」と言ったところ、「それは困ります」との答えでした。その後、とうとう体調を崩し、病院へ駆け込んだ後、やっとクーラーの使用を認められました。しかし、担当者からは「大変でしたね」の一言で済まされました。私は担当者に「生活保護は何のためにあるんですか。社会復帰のためじゃないんですか。あれも駄目、これも駄目と言われても、生活に必要なものはあります。そこのところをよく考え、認めてください」と言いました。精神面から身体的にも全く理解してもらえず、私は担当者に「もし、あなたが私のように犯罪の被害に遭わされたとき、どんなに屈辱な思いをするか、そのとき私の気持ちがわかりますよ」と言うと、担当者からは「そんなばかな犯罪には遭いませんから。だから、保護費を出してやっているんだろ。がたがた言うな。カウンセリング?通いたいなら勝手に自費で行ってくれ。生活保護法には県外への交通費、医療費は認められてない」と言われました。どうして被害者がじっとしていなければならないのか、全く理解できませんでした。
どうして被害者のプライバシーは守られず、加害者のプライバシーは守られているのか。矛盾がありすぎます。生活保護を受けるとき、民生委員の方から「これが、皆さんのやり方ですから、あなただけ大目に見るということはできないんだから」と言われました。被害者だから大目にというわけではありませんが、被害者は高額な医療費を請求され、生活さえできない状況なのです。法務局・人権擁護委員へ相談に行くと、担当者から、「夜働いていたあなたにも原因があるんですよ。加害者から医療費や補償してもらいたいなら、加害者が刑務所から出てくる日にあなたが迎えに行って、法務局に連れてきなさい。私が話ししてあげるから」と言われ、納得できず、その場は帰りましたが、なぜ加害者は優遇に扱われ、被害者は蚊帳の外なのか、悔しくて涙を流しながら帰りました。行政関係や福祉、医療費など、手続や相談へ行くと冷たい対応で、何をお願いしても却下され、最後には、前例がないの一言で済まされ、あやふやに片づけてしまう行政には愕然とさせられました。世間からは偏見と好奇の目で見られ、指をさされ、事実でない噂を広められ、今現在もその状況に立たされています。
ある日の新聞で、犯罪被害者の会、岡村勲先生の記事を父が見つけました。弁護士であることが記載されてあり、散々嫌な思いをしていたため、「また同じような対応だろうな」と、これを最後の望みで事件の書類を父が送った後、岡村先生から連絡があり、「事件の詳しい内容を送ってください」と言われました。私は、岡村先生に事件のいきさつと手紙を送って、それからやっと苦しい状況から救われ、その後、平成12年4月、犯罪被害者の会に入会しました。そして、会の名前が変わり、全国犯罪被害者の会、通称あすの会となりました。
その一方、加害者との民事裁判を行うことについて、費用を立て替えてもらうよう申請しましたが、私の問題は相手にしてもらえず、「加害者に支払う能力がないから、民事裁判をしても一緒ですよ」という当時の長崎の弁護士の言葉には愕然とさせられ、申請を却下されました。そこで、岡村先生を通じて、名古屋の弁護士から、九州の被害者支援弁護士の方が加害者の情報、福祉、医療費など対応していただきました。
しかし、民事裁判の問題については、事件から年数がたっていることから、時効となってしまいました。なぜ被害者に時効があるのか、なぜ時効をつくったのか、誰のための時効なのか、納得できませんでした。
そして、ある日の新聞記事に、女性被害者110番の記事を見て、私は勇気を出して電話で相談しました。事件の内容を話ししていると、親身になって色々な面を対応していただきました。後にわかったことでしたが、その相談室は性犯罪相談窓口だったのです。当時の女性警察官の方は、何も言わず、犯罪被害者であるのにもかかわらず私の説明をずっと聞いていただきました。本当にありがとうございます。
そして、平成13年に長崎県警で岡村先生が講演された後、警察の方の対応が変わりました。犯罪被害者対策室も全国に設けられました。担当者の方は2、3年ほどでかわられましたが、いろいろな面で支えていただき感謝しています。ありがとうございます。
事件が発生してから裁判が行われるまで、犯罪被害者は事件の真実を知ることも、裁判がいつ行われたのか、判決はいつあってどんな刑だったのかも知らされず、既に終わっていたという状況でした。
当時、日本の司法制度では、裁判は被害者のための裁判ではないとされ、被害者は証拠品と扱われていました。被害者に対する権利の確立、知る権利、調べる権利、より細かい出所情報など、はるかに日本は遅れていました。
そこで、あすの会はヨーロッパ調査団を派遣し、平成14年9月、刑事司法制度の調査でドイツ、フランスへ調査に行きました。そして、同年12月から犯罪被害者のための刑事司法、訴訟参加、附帯私訴の実現を目指して、全国街頭署名活動を行いました。社会の皆様の署名を集めることができ、最終的に署名総数55万7,215名となりました。そして、平成16年6月に、野沢法務大臣に署名を提出し、7月8日には、あすの会創設メンバーが小泉総理(当時)に会い、被害者の現状を伝えることができました。
そして、あすの会第2次ヨーロッパ調査団が派遣され、被害回復制度を調査するため、ドイツ、イギリスへ行きました。あすの会はその後も活動を続け、「犯罪被害者の権利と被害回復の確立」を求め、全国の県議会と市議会から国へ提出していただく陳情活動を行ってきました。つまり、地方自治法99条に基づく意見書を採択して下さいという陳情活動を行ったのです。最終的に110の地方自治体が意見書を採択してくださいました。
あすの会では、犯罪被害に遭わされ、どこからも支援も補償などない状況で、これからの被害者の方には私たちと同じ思いをしてほしくない。もし犯罪の被害に遭わされたら、少しでも救われるようにと活動してきました。その声が届き、平成16年12月、犯罪被害者等基本法が国会で可決・成立された後、平成17年12月、犯罪被害者等基本計画が閣議決定されたことは画期的でした。
その中で毎年11月25日から12月1日までの犯罪被害者週間が設けられました。また、これまで民事裁判を起こす際、被害者は自宅の住所を記入しなければならず、その内容を加害者に知られて報復されることを恐れ、民事裁判を断念せざるを得ない状況だったのです。しかし、これからは、自宅の住所を記入せず、弁護士事務所の住所でよくなったこと、そして、加害者がどこの刑務所で、いつ出所日なのか、被害者に通知されるようになりました。
これまで、被害者のいないところで裁判が行われ、加害者が嘘の証言をしても被害者は真実を伝えることも、直接、加害者に質問することもできず、裁判は被害者のための裁判ではないとされ、証拠品と扱われていました。
しかし、平成20年12月1日から、被害者参加が始まりました。加害者へ直接質問や求刑する権利が認められ、これは、画期的なことです。また、同時に、損害賠償命令制度も始まりました。以前では、刑事裁判と別に、民事裁判で加害者へ損害賠償を求めるものでしたが、刑事裁判所が判決のあと、民事の損害賠償の審理を担当して命令を出して下さり、その費用も2,000円の印紙代だけで済むようになりました。ただ、ここで、忘れて欲しくないことがあります。犯給法(犯罪被害者等給付金の支給等に関する法律)という制度が昭和56年から施行されましたが、被害者の実態を照らしてみても、お寒い限りの制度で、お見舞金程度でしかありませんでした。事件後、後遺症が残り、治療を受けなければならない被害者の補償までは、入っていませんでした。高額の医療費を請求される点をもっと改善して欲しいです。この制度は、平成12年と平成20年の2回見直しがありましたが、それも不十 分で、過去の被害者に遡及しない点についても、見直す必要があると思っています。
現在、加害者は3度名字を変え、今ではのうのうと幸せな結婚をし、家庭をつくり、会社を経営しています。また、関係があったその女性は、2店舗の会社を経営しています。私は、加害者から謝罪してほしいのではありません。私の人生、元の姿をそのまま返してください。
そして、刑事裁判が行われる際、被害者は証拠品と扱われていることを知りました。被害者は物ではありません。証拠品は身につけているものであって、被害者は一人の人間です。また、警察の捜査では、被害者は加害者を逮捕するための捜査の協力者であったことを知りました。犯罪の被害者は捜査協力者ではなく、真実を知りたい被害者です。
事件が発生してから最初に会うのは警察です。被害者にとって悪いのは加害者です。
行政機関の方々にお願いがあります。ある日突然、犯罪の被害に遭わされ、行政機関へ相談に行ったとき、すべて専門用語で対応された上、冷たい対応でした。被害者は一般の素人です。誰でも初めから何でも知っているわけではありません。説明を短縮するのではなく、わかりやすい説明と今後安心して相談できる対応をお願いいたします。
ある日突然、加害者の身勝手な犯行により、犯罪の被害者は一変して生活や平穏な人生までも奪われてしまいます。犯罪被害者はなりたくてなったわけではありません。かわいそうと思われたり、同情してほしいわけでもありません。事件前の平穏な生活に戻ることが一番の望みです。一人一人理解してくださる方が少しでも多くなっていただけたらと願っています。
犯罪はいつどこで起こるか、いつどこで被害に遭うかわかりません。明日は我が身です。そして、被害者支援センターでは、被害者に沿ったサポートが行われていますが、ある被害者支援センターから個人情報を漏らされ、言葉の配慮のなさに傷つき、了承なしの報告をされ、要望を無視され、支援をしてやった、してあげたの対応が多く、とても悔しい思いをしました。これでは被害者支援センターの自己満足にしかすぎません。被害者はマニュアルどおりにはいきません。もし、自分が同じ対応をされたとき、それでも支援をしてもらってよかったと思えるでしょうか。
あすの会は、平成12年1月23日に独自で会を設立しているため、年会費は会員の生活を配慮し、いただいておりません。会の設立にあたり、事務用品やニューズレターの印刷から送付代、冊子代などは、社会の皆様からの支援で賄われております。どうか、今後とも御支援のほどよろしくお願いいたします。
そして、事件発生後、入退院の生活でしたが、ここまで来ることができたのは、家族の支えと励ましがあったからこそ頑張ってこれたと心からそう思います。
時間も限られておりますので、少し資料のほうの説明をさせていただきたいと思います。
初めに、岡村勲先生の挨拶と紹介に始まり、全国犯罪被害者の会、通称あすの会の資料です。こちらは全国街頭署名活動で被害者の権利を確立するため、初めて活動を行ったときの資料です。
次に、あすの会が設立されるとき、創設メンバー5人で7月8日に小泉総理(当時)にお会いしたときの様子です。
次に、犯罪被害者等基本法成立に向けて活動してきました。続いて「犯罪被害者の加害者も被害者もない社会をめざして」はあすの会の関西集会の有志の会の方々が人形劇を行っています。こちらは、分かりやすく、感動と学ぶことが沢山つまった劇になっていますので、是非ご覧いただきたいと思います。
次々になってしまいますが、「犯罪被害者の声が聞こえますか」の文庫本なのですが、こちらの著者は元NHKディレクターを務められており、あすの会が設立されてから基本法までの内容が詳しく記載されています。もし興味があられたらご覧いただきたいと思います。
次に、被害者参加・損害賠償命令Q&Aの申し込み用紙ですが、こちらは、あすの会の顧問弁護士の方々が一般の方にもわかりやすいように、被害者参加制度とはどのような制度などかなど、小さくコンパクトな冊子にしてあります。また、実際に行われる裁判で弁護士の方がそれぞれ裁判官や加害者、検事をされている裁判劇がDVDになり、本来の被害者参加制度、損害賠償命令制度が分かりやすく記録されています。興味がある方は、あすの会のほうにご連絡いただいたら、あすの会のほうから送ってくださいます。
簡単な説明になってしまいましたが、後でゆっくり見ていただきたいと思います。皆様、本日はお忙しい中ありがとうございました。また、今回この場を借りて発言させていただき、御静聴いただきましたこと、深くお礼申し上げます。本当に今日はありがとうございました。(拍手)

[5] 講演

(2)「地域で被害者を支えるために」

<京都府犯罪被害者支援コーディネーター 岩城 順子氏>

<京都府犯罪被害者支援コーディネーター 岩城 順子氏>  皆さんこんにちは。ただいま御紹介いただきました岩城順子です。よろしくお願いいたします。
まず始めに、私に話をする機会を設けてくださった関係者の皆様に深く感謝いたします。そして、今日、この会場に集まってくださった方々にも感謝いたします。
犯罪はごく普通に暮らしていた人にある日突然降りかかり、被害をつくってしまいます。誰にもその可能性があるのです。そして、被害者になって初めて、被害者に対しての制度はほとんど何もないということに気づきます。
それで今日は、被害者としての立場からの私の体験や被害者の感情と、被害者支援コーディネーターとして京都府の行政が行っている支援についてお話しさせていただこうと思います。
私は現在、社会福祉士として被害者支援コーディネーターの業務の他に、市役所の生活支援課で生活保護の初回面接相談員として働いております。また、次の世代を担う子どもたちに暴力では何も解決しないというメッセージを伝えたいという思いがあり、ボランティアで小学校に関わっております。
まず、私どもの事件ですが、私たちの長男である道暁(みちあき)は、死産、流産の後、4人目にやっと生まれたかけがえのない子どもでした。
平成8年3月の夜の9時ごろ、宮崎の大学生だった20歳のとき、見知らぬ20歳の男に因縁をつけられ、いきなり殴られてしまいました。意識を失っています。パチンコ屋の駐車場で誰も見ていません。加害者が話さない限り、真実はわかりませんでした。
「男に頭部を殴られ、意識不明になったが生きている」。警察からはそのような連絡が入りましたが、最初はけんかだと思われていました。「けんか」という言葉はお互い様というニュアンスがあります。被害者が亡くなった場合、加害者のみの証言しかありません。平成8年ごろは、犯罪被害者という存在はあったものの、言葉が社会に浸透していなかったように感じています。だから、そのような結果になったのは被害者も悪かったのではないの、そんな空気があたりを取り巻いていました。当事者から見れば、自分が犯罪被害者だと気づくことさえ随分後になって、民事裁判を起こすころでないと認識ができませんでした。
外傷がほとんどなく、CTにも異常が見られなかったので、当直の医者は、すぐに全治2週間の診断書を警察に提出しました。でも、意識が戻ると球麻痺と不全麻痺がありました。球麻痺というのは、舌が麻痺してしまい、食べ物をうまく飲み込むことが困難になり、声は出ても発音ができない。それで、話すことができなくなっていました。不全麻痺というのは、手足はある程度動くものの、その機能を十分に果たさないという状態です。手が震えて、物をつかむのも困難でした。そして、殴られたときの記憶は消えていました。
警察の方が何度も足を運んでくださいましたが、事情聴取はなかなか進みませんでした。そのとき私は養護学校の講師をしていて、夫は単身赴任で滋賀県で働いていました。二人が隔週の交代で、金曜日の最終の飛行機で宮崎に行き、日曜の最終で帰ってきて働くという生活になりました。治らなかったらどうしよう、道暁の将来はどうなるのだろう。何でこんなことになったんだろう。同じことが何度も何度も頭に浮かんできて、夜もほとんど眠れませんでした。一生懸命看病しましたが、一人になったときは泣いてばかりいました。
長年、障害児教育に携わっていて、障害というものを少しは理解しているつもりでしたが、実際、自分の家族が中途障害を受けると、本当は理解していなかったことに気づきました。何も悪いことをしていないのに隠したくなるのです。人に本当のことが言えないのです。健康な子どもを産んだ母親なら、誰もが、その子はすくすくと成長するものだと信じていました。それが人の暴力によって障害者になってしまい、受け入れがたい苦痛でした。被害の程度に関わりなく、大変な苦しみでした。今まで平和だった家族の幸せが一度に崩れ去って、家族の生活が一変してしまいました。そして、もう二度と同じものは戻ってこなくなったのです。
事件後すぐには、様々な情報が欲しいと思いました。どこに行ってこれからのことを相談すればよいのかさえわかりませんでした。事件後3か月経って、宮崎から京都へ転院するときも、受け入れの病院を必死になって探しました。仕事を休んで、フィルムを持って、入院のお願いに回りました。入院した病院は管理が厳しく、ベッドでお菓子を食べたといっては職場に電話がかかってきて、すぐに来るように呼びつけられました。私が脳に作用する薬を余り使わないでほしいと医者に言うと、「私の言うことが聞けないようなら出て行け」と言われました。「けんか」という言葉が勝手に紹介状に書かれていたからだと思います。
全治2週間と言われたにもかかわらず、状態が少しずつ悪くなっていき、症状が固定せず、身体障害者手帳がなかなか受け取れませんでした。しかも、車椅子ももらえていないのに、3か月経ったからと退院を迫られてしまいました。そんな無理がいつまでも続かず、私は学校で倒れてしまい、息子は自分の看病で仕事をやめるのに反対しましたが、5か月経ってから退職しました。腕の力がなく、とても普通の車椅子では無理なので、電動車椅子を申請したいと思いました。その申請には、身体障害者相談員の方の判子をもらい、民生委員の方の判子をもらい、その上、家の周囲の写真も何枚もつけなくてはなりませんでした。やっと申請した後、身体障害者更生相談所のお医者さんは、辛うじて2メートル歩いた姿を見て「なんや、歩けるやん」と、電動車椅子は却下になりました。
普通の車椅子を申請しても、でき上がるまでにまた何か月もかかりました。手が震えて字が書けず、こちらの言うことに首を振るだけでは、本人の思っていることは伝えることはできません。必要だったトーキングエイドも自費で買いました。トーキングエイドというのは、養護学校で言語障害児用に使われている携帯用会話補助装置で、音声ボタンを押すとしゃべってくれる日常の簡単な意思表示器です。意思を伝える道具は意識が覚めたときから必要でした。長い文章のときはワープロが必要で、ワープロも立て替え払いで買いました。
現在の制度では、身体障害者手帳がなければ、一切の福祉装置を受けることができないようになっています。しかも、しかも、障害が固定して初めて医師の診断書が書かれて、身体障害者手帳を受け取ることができるのです。今すぐ必要なものが必要なときにサポートされないのです。手帳がおりるまでは、自分たちで買うしかありませんでした。
リハビリセンターの入所を申し込んでいましたが、半年待ちだと言われ、自宅で介護していました。夫は週末しか帰ってこないときで、道暁は自分でトイレにも行けず、食事も全介助の状態なのに、私は風邪を引いて寝込んでしまいました。ヘルパーの派遣をしてほしいとお願いしたら、中途障害者にヘルパーの派遣はありませんと断られてしまいました。ヘルパーの制度はありましたが、高齢者だけしか使えませんでした。自分の責任でこうなったのではないのに、どうして助けてくれないのか。死ぬしかないのだろうかと落ち込んだこともありました。10年ほど前は、そんな制度もなかったのです。
近所では、人々の好奇の目にさらされました。心配そうに言葉をかけてくださるのですが、好奇心が見え見えの態度に悩まされました。道暁は事件の記憶もなく、しゃべることができないのに、とんでもない噂が広がりました。リハビリから帰ってくるところを待ち受けるようにこちらをうかがっておられるのです。家の前に訪問看護ステーションの車がとまれば、その車を見に来られていました。落ち込んでいたら、また話の種になってしまう。私は、突っ張って生きるしかなくなりました。そして、交通事故が原因だと嘘をつきました。そうせざるを得ない状況に追い込まれていってしまったのです。
刑事裁判も屈辱的なものでした。事件後10か月経って、宮崎から、検事さんや事務官の方など3人が家に来られました。回復の見込みがない道暁の状態を見ておられるのに、略式起訴で刑事裁判は知らない間に終わっていました。判決は、罰金30万円。加害者に問い合わせて初めてわかるという始末でした。刑事記録を取り寄せてみると、ただ目が合っただけで、道暁の顔が気に入らなかったからキレた。そして、何もしていない道暁の顔を力いっぱい殴ったというようなことが書かれていました。人が突然暴力を振るうと思っていない息子は、構えることもなく、首がねじれて、脳幹部に損傷を受けたのです。加害者は、病院にはほとんど来なかったのに、週5日はお見舞いに通っているなどと嘘の証言がありました。
道暁が生きていたからこそ、自分の罪を認めています。これがすぐに亡くなっていたら、どんな証言になっていたかわかりません。しかも、診断書は全治2週間のままでした。余りにも実態と離れた判決が下されています。当事者である私たちは、終わってからでないと事件の内容を知ることができなかったのです。私たちが裁判で異議を申し立てる場も与えられず判決が下される制度には、納得ができませんでした。
私は、道暁が亡くなってから検事に電話をかけました。「致死に至っても、あの量刑で妥当だったと思われていますか」と質問しました。「お気の毒だと思いますが、どうしようもありません」との返答でした。大学を出たら働いて、税金を納める人間の前途を塞いだ加害者に対して、どうしてもっと国は怒ってくれないのかと感じました。検事さんにとっては山のようにある事案の一つだったのでしょうが、私たちにはそれがすべてでした。
事件後2年経って起こした民事裁判も、相手は仕事を辞め、賠償の支払いはできないというものでしたが、争わないという返事がけんかではなかったことを証明してくれました。教育委員会に勤める父親と有名な会社に勤める母親がいましたが、息子は20歳だから親に責任はないと言われました。自分たちに全く責任がないと言うのです。
そんな中、脳幹部の損傷は、道暁の状態を少しずつ悪くしていきました。事件以来、加害者に対して恨み言も、愚痴も、泣き言も一切言わなかったのですが、「死にたい」とワープロに打ったことが一度ありました。最初は治ると信じて一生懸命リハビリを頑張っていたのに、半年ほど経ったころ、「だんだん筋力が弱ってきている。自分の体は自分でわかる」とワープロに打ちました。私は、外傷というものは少しずつよくなるものだと信じていました。だから、「21歳の誕生日まで待って。それでもだめなら一緒に死んであげる」と答えました。誕生日を1週間過ぎたころ、「いつ一緒に死んでくれるの?」と打ちました。「ごめんね。お母さんはまだ生きたい」と答えると、道暁は、じっと遠くを見つめるように考えていました。そして、それからは、そのことについて一度も触れようとはしなくなりました。
私は、このままでは社会から取り残されると感じました。道暁は、不自由ながらもパソコンが使えたので、メールのやりとりならできます。同世代の友達が必要だと思いました。それに、身体障害者手帳などの申請で福祉課に行ったとき、窓口の若い職員に「私の弟も交通事故で死んだのですが、車椅子の生活になるなら、死んでよかったと思うんですよ」と言われたとき、言い返せませんでした。養護学校で働いていたのに反論できない自分が情けなく、きちんと理論的に説明できるようになりたい。悔しい、賢くなってやる、そう思いました。大学をやめざるを得なかった道暁に、大学は行きたいと思ったときにはいつでも行けると言い続けていたこともあって、私が大学に行って福祉のことを知ろう。友達をいっぱいつくって、道暁を理解してもらおうと決心しました。だから、編入ではなく、18歳の受験生と一緒に試験を受けました。
大学の入学が決まってしばらくすると、発作を起こしてさらに容体が悪くなり、入院してしまいました。大学は諦めようかと思ったのですが、そのときの主治医の先生が「長くなると思うから、お母さんの夢を叶えてください。私が責任を持って診ます」とおっしゃってくださいました。夫も「お前のしたいようにしなさい」と言ってくれました。ところが、「お子さんがあんなになってはるのに、脳天気に大学なんかに行って、どういうつもり」と言う人がいました。
友人にさえ「ずっと看病しなくていいの。後で後悔するんじゃない?」と言われました。看護師さんには「もっと純粋に看病されたらどうですか。大学でいろいろ勉強してはるみたいやけど」と、一日中付き添って看病される他のお母さんと比較して、非難されたこともありました。
母親が一日中ずっと付き添うのも立派な介護だと理解しています。けれども、そのときの心の中は、先の見えないトンネルに入ったような不安や、いつまで続くかわからない焦りを抱えていました。介護だけの生活をしている者が精神的に追いつめられたとき、虐待を犯したり、希望を失って死を選ぶのではないかなと感じました。実際、養護学校でも、そのようなことがありました。私が大学を選んだのは、精神的なバランスを崩さないための選択でした。距離をとることで自分にゆとりを持ち、明るい顔で介護ができたと思うのです。人の心がどれだけ傷ついているかということは、外から見えませんし、人によっても違います。他人は、見えたところでしか判断しないように思います。
大学に通学するときには、洗濯物を持って京都駅のコインロッカーに預け、帰りにそれを持って病院へ行き、面会時間の終わりまで付き添いました。大学のクラスメートも会いに来てくれました。車椅子に乗せて散歩に出かけたり、話をしてくれたりしました。学生たちも障害を持って生きる道暁から何かを学んでくれたと思います。大学への選択は間違っていなかったと今でも思っています。
2年半経った秋のころから、容体はさらに悪化していきました。肺炎がひどくなり、自発呼吸に無理が出てきたため、人工呼吸器をつけました。40度から42度の高熱が続いて、血液検査の結果も思わしくなくなりました。荒い息と腫れ上がった顔を見ると、「早く何とかしてください」と叫びたくなるのを必死でこらえながら、見ているしかありませんでした。私は、道暁が好きだった女の子に電話をかけて、会ってやってほしいと連絡しました。次の日、道暁の手を握って呼びかけてくれると、道暁の目が彼女のほうへ移動し、本当に長い時間目をそらさず見つめていました。そして、呼吸が落ち着いていき、しばらくすると体温も平熱に戻っていきました。
機械に生かされているような状態が痛々しく、本人もそれを望んでいるのだろうか、本人のためによいことだろうかと悩んでいましたが、生きることと闘っているのだと知りました。道暁の体一つ一つの細胞が生きようとする限り、体に何本のチューブがつこうとも、医学の力を借りて、最後の最後まで生かし切ってやると思いました。若い細胞は生きようとする力にあふれていました。けれども、その一方で、人に平等に訪れる死をどのように受け入れるか、身をもって、時間をかけて、私に教えてくれるようにも感じました。治ると思っていたのが治らない。できていたことができなくなっていき、少しずつ少しずつ、その時々の道暁を受け入れるよう、教えられていきました。親にとって子どもは、生きているだけで満足できる存在なのだと思えるようになっていきました。
亡くなるまで、大学と看病に精一杯頑張ったつもりでした。けれども道暁は、事件後3年、23歳の誕生日を目前に亡くなってしまいました。お葬式のときは涙も出ませんでした。まるで映画の撮影をしているような感じでした。いろいろな人にてきぱきとセットを組まれ、ちょこんと座っている私がいて、お別れに来てくださっている人に頭を下げている自分はわかるのですが、どこからか監督が出てきて、「はい、カット。お疲れさまでした」と声がかかるのではないかなと思っていました。全エネルギーを使い切った放心状態で、抜け殻のようになっていたのです。何も考えられなくなって、感覚が麻痺していました。
何の支えもなくなった感じで、このままいなくなってしまいたいと考えていました。私は間違ったことをしたのだろうかと悩みました。外に出れば、みんな噂をしているのではないかなと思いました。自分が楽しく生きていては申し訳ない、そんな気になって、自分を責めていました。学校に通っている間だけは何とか外出ができるのですが、休みになるとカーテンもあけず、お風呂にも入る気がしません。勤めから帰ってくる夫のために、夕食だけを用意するのが精一杯という生活でした。そんなとき、クラスメートが声をかけてくれました。「順ちゃん、今度は僕らが順ちゃんの子どもやで」、その言葉でようやく生きる力が出てきたのです。
私たち家族は、事件の後、互いの心の辛さを言葉にして話し合ったことはありません。道暁には2歳年下の妹の涼子(りょうこ)がいます。事件は、涼子の大学入学式の1週間前に起こりました。私は、春休みが終わるまで宮崎にいて、京都に帰ってきてふと気がつきました。入学式が終わってしまっている。私は何の用意もしてやることができず、その声かけさえも忘れていたのです。申し訳ないと思いました。涼子は「大丈夫。ジーパンでも平気。大学生ってそんなもんよ」と答えました。最近の若い子の感覚はそうなんだと素直に納得してしまいましたが、2年後、同じ大学の入学式に出席した私は、そうではなかったことを知りました。新しい門出と新たな希望に、みんな着飾っていました。
毎日、道暁の看病にかかりっきりの状態で、ほとんど一人暮らしをさせているようなものでした。「ごめんね。涼子ちゃんの面倒はお金でしか見てあげられない」と言うと、「大学の近くに下宿させてほしい」と言い、19歳のときから家を出ることになりました。中学、高校時代には職場の学校行事が重なり、一度も見に行ってやることができなかった文化祭で、友達とバンドを組んではじけている姿を同じ学生として応援することができました。学部は違いましたが、教科の履修や就職情報など、互いによく理解できました。
今はシステムエンジニアとして働いているのですが、就職を決めてから、こんな話をしてくれました。入社面接のとき、尊敬する人は誰ですかと聞かれ、母だと答えました。自分の子どもを亡くしても、泣いているばかりでなく、大学へ行き、さらにその経験を生かすために大学院で学んでいるからですと答えてくれました。私は、そんな娘の心遣いや、黙って見守ってくれる夫に支えられてきたのだと思います。また、道暁が入院していたとき、病院のそばに住んでいた友人が、家に帰って一人でご飯を食べるより、私の家で夕食を食べてから帰りなさいとたびたび誘ってくれました。そんな友人にも助けられてきました。
私が誰に支えられ、元気を取り戻してきたかを考えたとき、具体的には食事を提供してくれた友人、道暁の看病を手伝ってもらったり、入院中の洗濯をしてもらったりなどの日常生活を援助してもらえたことも助かりました。精神的には事件前から知り合いだった親しい友人、大学に通って一緒に学んだ年の離れた同級生、同じような事件の被害者、事件後に出会って私を理解しようとしてくれた人たちでした。私のことをわかってくれると感じた人を増やしてきたことでした。まだ民間の支援団体は立ち上がったばかりで、組織自体が模索している状態の時期でした。公的な組織の援助はなく、身近な人たちが支えになりました。
大学院で犯罪被害者遺族の求める対人援助をテーマに研究していましたので、そのために集めた本の中に、相談窓口の電話番号が書いてありました。関西でも通院できる専門の精神科医を紹介して頂けたことも救いになりました。あちこちで頭を打ち、自分自身もがきながら、いろいろなものから情報を得て、長い時間をかけて、手探りではい上がってきたという感じです。そして、人と人とのつながりを構築し直してきたからだと感じています。
平成16年に犯罪被害者等基本法ができ、17年、その具体的施策を盛り込んだ基本計画が閣議決定されました。京都府では、18年に改定された条例の中で犯罪被害者等の支援の充実を運用させるために、20年1月30日、京都府犯罪被害者サポートチームが発足しました。国、府、市町村や警察等の公的機関や被害者支援を行う民間の機関や団体を含めた総合的な支援のためのネットワークシステムです。
府の安心・安全まちづくり推進課にある事務局には、被害者相談専用電話が設置され、犯罪被害者支援コーディネーターが3名配置されています。コーディネーターは、臨床心理士2名、社会福祉士1名の構成で、事務局で受けた相談内容に応じて、面接や助言、支援機関などの付添い、専門知識を生かしてスムーズに橋渡しすること。それから、講演活動などを通じて、府民に広く被害者支援の重要性を訴える啓発活動を行うこと。そして、各市町村の担当者研修の企画・実施を行うことなどの役割を担っています。
私たちがこの2年で学んだことは、被害者支援は被害者に関心を持つことから始まるということでした。逆にそれは、無関心こそが最も怖いのだということです。サポートチームとしての活動の意味と、被害者遺族の私がずっと望み言い続けていた「正しく理解してほしい」という思いが一致したと思いました。なぜ正しく理解してほしいかといえば、被害者の思いは一律ではなく、かわいそうな人、気の毒な人で終わらせてほしくないという思いです。何が必要なのか、不自由に感じている部分は何か、一緒に考えてほしい、知ってほしいという思いです。
そんな活動の中、私たちが今必要だと感じているのは、地域住民にとって最も身近な行政機関である市町村で、被害者の相談しやすい環境をつくるということです。府の私たちと市町村の方との関わりは、研修会やメールマガジンなど様々な機会がありますが、私たちが最初に取り組んだのは、顔の見える関係づくりからでした。私たちのほうから市町村へ出向いていき、担当者とお会いして直接お話をするとともに、市町村の空気を感じ取ることから始めたのです。市町村の方が被害者支援をするとなると、仕事が増えるのではないかとか、財政難なのに、条例や人手がないのに、また、被害者のことをよく知らないのになど、様々な不安や憶測が先に立つかもしれません。けれども、被害者は、被害者のためだけの条例や制度ができることを望んでいるのではないのです。
活動を始めてみると、市町村の方の中には、犯罪被害者に対しての支援は今までどおり警察が中心になってやればよいのではないかと思っておられる方がいらっしゃいました。また、民間の被害者支援センターがあるのに、どうしてまた行政が取り組むのだと疑問を持たれる方もありました。また、たびたび私は被害者に会ったことはありませんという声も耳にしました。けれども、事件はごく身近なところで、毎日のように起こっています。府や市町村と違って警察の方は、毎日のように犯罪に直面しておられます。だから、警察官も被害者もお互い話すことに抵抗は感じません。けれども、被害者のための制度も窓口もない機関に、自分が被害者だと告げて相談に行くことは非常に勇気のいることです。でも、被害者が日常生活を送る上ではたくさんの困り事が出てきます。その問題を解決するには、やはり府や市町村が持っている制度を利用するしかありません。母子や高齢者、障害を持つ人など、日常の生活に制度を必要としている人はたくさんおられますが、犯罪被害に遭ったがために生じる問題が出てくることもあるということを知っていただきたいのです。
当事者がどんな困難状態にあっても、日常生活を送る上で確実に処理をしていかなければならない問題、経済的なこと、子どもの教育、高齢者介護などの課題がたくさんあります。警察による事件直後の時期の支援もありますが、あくまで緊急的措置であり、やはり生活に関する問題は、息長く、府や市町村がかかわるべきであると私たちは考えています。
事件から中長期的に視点を置いた支援が適切ではないかと思うのです。実際、10年も前に起こった事件でも、遺族にとって、それはもう終わった話ではなく、今も継続しています。そして、そのことが生活に支障をきたし、日常生活を困難にさせている例をたくさん聞きます。被害者は、今抱えている具体的な問題が解決することを望んでいるのはもちろんですが、たとえ最終的に制度がないという答えが返ってきたとしても、相談者が勇気を振り絞って窓口を訪れたとき、話を聞いてもらえる。どんなことに困り何を求めているのか、一緒に考えてくれる人がいる。被害者が一人で時間と手間をかけて解決策を探し歩くのではなく、適切に解決窓口を教えてもらえる。そのことがありがたいのではないかなと思うのです。そのためには、何よりもまず、犯罪被害者によく見えるように、生活についての困り事は市町村に相談窓口がありますよと手を挙げていてほしいと考えているのです。
また、被害者遺族がコーディネーターの中に入っていることも特徴の一つです。相談者の中には、同じ被害者の人に話を聞いてほしいという相談があります。これは私自身も経験していることですが、体験していない人に何がわかるという変な思いこみがあるのです。実際、あまりにも希有な体験のため、理解されにくいことも確かです。
犯罪被害による突然の死は、人による犯罪行為が原因で、暴力的な要素を持ち、暴力の対象として命を落とすことです。老死や病死と違って、何の予告もなしに突然愛する我が子や身内を失うことは、安らかな死を与えられなかったこととして、決して認めることができないのです。なぜ死ななければならなかったかという意味が納得できなければ、受け入れることができないのです。いなくなったという事実は、頭では理解できても、感情面で納得ができないのです。
直接、被害者と関わりを持たれていない方は、気の毒に思うけれど、時間が経てばだんだん楽になるのではないかと思われるようです。だから、最初は誰でも気の毒に思って心配りをしてくれますが、何年か経つと、「もう終わったことなのに、いつまでそんなことを考えているの」という言葉に変わります。よく「つらいことは早く忘れたほうがいい」、そうおっしゃる方がありますが、むしろ忘れたくないのです。夫婦でも、悲しみ方や立ち直り方が違います。自分の感情を抑え我慢している人ほど、自分はこんなに頑張っているのにと相手を責めてしまう例もあり、夫婦の危機さえよくあることだと聞きました。でも、決して終わることはないのです。
私は、1年ぐらい経って宗教的な行事も一段落したころ、薬がなければほとんど眠れなくなりました。布団に入ったら、事件後の様々なことが、毎晩毎晩、鮮明に再現されてしまうのです。苦しみは眠るときだけではありません。町なかで、塗装工の人がよくはいている、裾が異様に広がったズボンを見ると、背中が凍りついて動けなくなりました。宮崎で会った加害者の姿が目に焼きついているのです。
落ち込んでいるだろうから、何とか元気になってほしいと慰めようとしてくださいます。「頑張りや」「元気になりや」とエールを送られます。けれども、そのときは、生きることさえ必死に頑張っているのです。これ以上、誰に対して、何に対して頑張ればよいのかわからなくなるのです。「頑張れ」はしんどい言葉でした。それから、「思ったより元気やん」と言われる方もありました。時には、自分の知っている人にこんな不幸な人がいたけれど元気になったと、他人の例を出してきてお説教を始める人もいました。心のない言葉かけは余計に辛いだけでした。顔見知り程度なら、こちらが何も言わない限り、事件のことには一切触れていただかないほうが楽でした。
大変失礼な質問かと思うのですが、事件が起こったとき、どのように感じられるでしょうか。スーツを着た立派な男性が襲われたときには、すぐに犯罪の違法性に目が行くのに、被害者によってはバイアスをかけて見られることがあります。例えば、女子高生が夜遅く襲われたら、そんなに夜遅く外を歩いているから事件に遭うのだと思われることがあります。夏、薄い透けるような服を着ている若い女性が襲われたら、そんな服を着ているから襲われるのだと思われることもあります。被害者にも責任があると口にすることが二次被害をつくります。そんなことをわざわざ言ってもらいたくないのです。
大きな事件では、家の周りにマスコミの人たちが張り込んでいて、洗濯物さえ外に干せない状態になります。買い物に出れば、「ほら、あの人がそうよ」というひそひそ話が露骨にされ、心ない噂だけがひとり歩きをします。少し顔見知りであれば、「大変やったね。どう?」と話しかけられてしまいます。周囲には冷静に見えても、心の動揺を隠して、緊張しながら、身構えた行動を無理してとっているのです。
そんなとき、人にかけられた不適切な言葉に心が傷ついてしまいます。犯罪被害者や遺族になるということは、心に大きなショックを受けた状態です。第三者的な言葉は、一見公平に映りますが、ひがみや被害妄想のように受け取るほどエネルギーがなくなっているときの、そんな人の言葉には二度と会いたくないほど恨みとして残るのです。
けれども、人間関係で傷ついた心は、人間関係でしか取り戻せないのです。じゃあ、被害者の遺族にはどんな言葉かけをしたらいいのですかと聞かれます。大声で泣いたり、わめいたりしているのを見たとき、慰めようとか、何かを言ってあげなくてはと思われます。何だか自分の気持ちを納得させるために使われるのではないかと感じます。他人のことでありながら、自分の感覚になって考え込まれている人のほうが、よっぽどこの人に話したらわかってもらえるかもしれないと感じます。
希望を持って物事に取り組む元気なときではなく、心のエネルギーが弱く落ち込んでいるときは、かけられた言葉の中に、その言葉の使われ方の裏のメッセージを受け取ってしまうように思います。先ほど、「頑張れ」はしんどい言葉だと言いましたが、「頑張ってください」と言われると、「あなただけが頑張りなさい」と聞こえるのです。けれども、「一緒に頑張りましょう」と言われると、その言葉の中に「私も精一杯のことをします」というメッセージが含まれています。
人の心に寄り添うというのは、相手と自分が話している内容に対して、別の立場や立ち位置になるのではなく、同じ場や位置を共有することではないかなと考えています。例えば、「もう死にたいわ」と言われたとき、それを受けて「死んではいけません。残された人が悲しみますよ」と答えるよりも、「死にたいほど辛いですよね」と、同じ場や位置から物を見てほしいと願っていることだと思うのです。
腫れ物に触るようなぴりぴりした態度は、かえって気持ちを重くさせてしまいます。同じ気持ちになってもらっていると感じたら、言葉遣いが少々ぎこちなくても、気持ちは十分通じると思います。言葉の持つ力は大きいのですが、それ以上に気持ちが優先するのではないかなと考えています。だから、言葉遣いだけを神経質に考えるのも適切ではないと思います。十分な配慮をすることはもちろん必要ですが、接するときは身構えないでくださいねとお願いしたいです。
これは犯罪被害者支援に限ったことだけではなく、DVの相談、生活保護の相談でも、相談を受ける基本姿勢は同じだと感じています。どんな立場やどんな職業であっても、公的な立場に携わる者は、出会う人に対して真剣に取り組む姿勢が公務員としての仕事ではないかと本当に感じるようになりました。また、それをベースとして、市町村間でのサービス格差や住民の不公平感をなくすことも大切だと考えています。
一人一人が傍観者ではなく、関心を持ち、理解を深めることが安心で安全なまちづくりをするのではないか。もしかしたら、明日自分も被害者になるかもしれない、そういう気持ちが被害者支援につながるのではないかと思います。そして、被害者に最も身近な場所で支援が行われれば、被害者のニーズに的確に応えられたり、継続的な支援が可能になります。被害者が社会から孤立することを防ぎ、被害からの回復を支援するためには、地域の支援こそが大切だと思っています。
被害者や遺族が被害から回復するとき、司法や社会が壁になるのではなく、支える社会であってほしいと願っています。これからも、どうぞ犯罪被害者の問題に関心を寄せていただきますようお願い申し上げます。
御清聴ありがとうございました。(拍手)

[6] 県からの依頼事項

静岡県県民部県民生活局くらし交通安全室長 山下 晴久 <静岡県県民部生活局くらし交通安全室長 山下 晴久>
こんにちは。県のくらし交通安全室の山下です。
本日は、岡本様や岩城様の話を伺いまして、犯罪被害者やその家族が被った被害の深刻さを痛感するとともに、十分な支援を受けることなく、社会的に孤立している現状について、認識を新たにしたところであります。
私たち行政職員や犯罪被害者等支援に携わる者は、犯罪被害者等の置かれた状況について理解し、また必要とされる支援は何か。また、それらの支援が実際に行われるには、どのようにしたらよいかというのを考えて実行していくことが重要であると思います。
そこで、これから少し時間をいただきまして、お集まりいただいた皆様に、くらし交通安全室から犯罪被害者等支援に関して4点ほどお願いをいたします。
まず、1点目ですが、犯罪被害者支援に直接携わっている方はもちろんですが、行政等の窓口において犯罪被害者に接する機会のある職員すべてが、犯罪被害者等について理解を深めていただきたいということであります。
犯罪被害者等基本法の前文にもありますように、犯罪被害者等の多くは、これまで、その権利が尊重されてきたとは言いがたい状況にありました。これは国民の多くが、この問題に関して自分とは関係ないことだと無関心でいた結果であって、また、行政職員の多くも、我が町、当市には、凶悪犯罪は起きておらず、犯罪被害者はいないと思い込んでいたためではないでしょうか。
しかし、本県の犯罪情勢を見ますと、身体犯に限りましても、相当数の被害者とその遺族や家族がおりますし、性被害のように警察に届けることのない犯罪の被害者も多いわけであります。
また、一昨年、秋葉原で起こった無差別殺傷事件のように、県外で起こった事件であっても、県内在住の被害者がおります。
このような状況から、犯罪被害者はいないのではなくて、支援を求める方法も知らないまま引きこもっている場合が多くあると考えられます。プライバシー保護などの問題もありますが、犯罪被害者等の支援に取り組むためには、このような現状を知って、求められる支援の内容とその対応について正しく理解することが必要だと思います。
次に、2点目ですが、市町への依頼になりますが、犯罪被害者等支援の窓口となる担当部署と担当者を明確にしていただきたいという点と、窓口等において二次的被害を起こさないよう留意していただきたいということです。
担当窓口が必要な理由は、犯罪被害者等が必要とする支援は多岐に渡っているため、被害者はどこに相談したらよいかわからない場合が多いからであります。また、たらい回しにされたり、同じ部署に何度も足を運んだり、思い出したくない事件や事故について何度も説明しなければならなかったりして、精神的にまいってしまうというケースは、行政における二次的被害の例として12月の研修で紹介されたところであります。
犯罪被害の当事者や御遺族は、市町の窓口を訪れる機会が多くあります。被害者が亡くなった場合の諸手続、生活保護等の申請ですが、このような場合に、少しでも被害者等の負担が少なくなるよう御配慮いただきたいと思います。県でも、今後も、今回のような研修を開催したいと考えておりますので、窓口を担当される職員の多くに御参加いただきたいと思います。
次に、3点目ですが、行政、警察、関係機関・団体の連携についてです。
先ほども申しましたが、犯罪被害者等への支援は、その置かれた状況によって多岐に渡るため、様々な主体が連携して支援を行う必要性があります。県では、今後、県組織内の関係部署や県下の関係団体とのネットワークを強化していきたいと考えておりますので、御協力をお願いいたします。
また、県下には、犯罪被害者支援に関して、地域ごとに被害者連絡協議会が立ち上がっております。警察署から市町へ、あるいは犯罪被害者支援センター等の団体から市町へと、犯罪被害者支援に関して依頼されるケースもあろうかと思いますが、被害者が必要とする支援が円滑に行われますように関係を強化していただき、犯罪被害者等支援のための協働体制の確立に向けて御尽力いただきたいと思います。
最後に4点目ですが、県では、来年度、犯罪被害者等支援のためのハンドブックを作成し、支援関係機関や市町等へ配布する予定であります。このハンドブックを作成するに当たり、被害者等からの問い合わせ先、受付・相談時間、相談方法、機能・役割等を確認させていただきたいと思いますので、皆様方の御協力をお願いいたします。
以上、一方的な依頼事項ばかりで恐縮でありますが、犯罪被害者等支援の趣旨を御理解いただきまして、施策の推進に向けて御協力いただきたいと思います。
最後に、犯罪被害者の皆様が一日でも早く元の平穏な生活に戻れますよう祈念いたしまして、県からの依頼を終了いたします。よろしくお願いします。

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