竜王町小口区交通安全研修会:関係機関・団体と連携した犯罪被害者支援促進モデル事業[警察庁]
関係機関・団体と連携した犯罪被害者支援促進モデル事業

講演:「悲しみの涙を勇気に変えて」

命のメッセンジャー派遣事業(滋賀県)
竜王町小口区交通安全研修会

山下 重子(TAV交通死被害者の会) 山下 重子
(TAV交通死被害者の会)

おはようございます。本日はこの交通安全教室にご縁を頂きまして、もしかしたら一生涯お会いすることも無かったかもしれない皆様の前でお話をさせていただくことになりました、山下重子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

『悲しみの涙を勇気に変えて』という題をつけました。4部に分けて話を進めて行きたいと思います。

まず1番。「娘との突然の別れから3年経って」。私は2人の娘を持つごく普通の家庭の母親でした。3年前までは・・・。平成17年9月8日、23歳を目前に、そして翌年には結婚をも控えていた長女を交通事故で亡くしました。娘はその年の3月に大学を卒業し、4月から社会人として働いたばかりでした。高校の時からの念願であった医療関係の専門職に就き、夢いっぱいに社会に羽ばたいた矢先の事故でした。新聞、テレビのニュースなどで毎日見聞きする交通事故という言葉。人ごと、よそ事のように受け流していました。しかし、まさか我が身にこの不幸が、この不幸が降りかかるとは思いませんでした。日頃から私も車に乗ります。でも、その注意は加害者にはならないように、人様を絶対に傷つけないようにとの思いばかりで被害者側になるということなど、考えてもみませんでした。しかし、娘はその被害者となってしまったのです。我が子を失うという悲しみのどん底の世界へと落ちて行きました。その世界というのは体験した者でないと到底分かりません。真っ暗闇でとても言葉では言い表せません。それからというもの、ずいぶん長い間、私は車を運転することが出来なくなりました。それどころか、仕事も辞め、家に閉じこもり、体重はみるみる減り、半病人のように床に伏せる日が何ヶ月も続きました。仕方なく買い物に行かなければならない時、主人に乗せて行ってもらい、遠くのスーパーに行くのです。近いところのスーパーだと知っている人に会うから、それがとても嫌で軽々しいなぐさめも受けたくなく、だから人を避けよう、避けようとして、30分も40分もかかるスーパーへ行きました。でも、私の安否を気遣って訪ねてくれる人もいました。きちんと対応出来ず、失礼なこともあったかと今思っています。私を見てくれている人がいた。黙って陰で私を待ってくれている人がいた。さりげなく優しい言葉をかけてくれる人がいたのは確かでした。

それから、季節は移り変わり、娘との思い出もその季節のことが浮かんで来て、時間の経過が悲しくもあり、自分が今生きているのが娘に申し訳なくも感じました。たった22年しか生きられなかった、あと50年は絶対に生きられたはずだ、そう思う娘が不憫で不憫で、涙は止まることを知らず、枕を濡らさない夜はありませんでした。絶望の中、少しずつ、少しずつ、立ち上がり、空を見上げるようになり、夜空の星にも気付く日が来ました。あの日、あの時の、あの青いきれいな空、澄み切った夜空にキラキラと輝いていた星は今もずっとこの胸の奥に刻み込まれています。それらはまさしくやっと立ち上がれた私に、「さあ、次は歩きましょう」と優しく導いてくれているような感覚でした。

しかし、そう簡単なものではありません。一度落ちたどん底の世界。光も無く真っ暗な中でもがく時間と現実の時間の生活を行ったり来たり、行ったり来たり、それが今もまだ続いています。丸三年。長かったです。勤め始めた私を見る近所の方や友達、その人たちには「ああ、もう大丈夫なんだな」と映るのか、「元気になって良かったね」と声をかけてくれます。ちっとも元気じゃありません。けれども、「ありがとう」と素直に答えるようにしています。先日もこんなことがありました。町内の町費の集金当番が当たっていまして、1軒1軒回っていましたら、あるお家で「しかし…あんた、痩せたなぁ…」と言われたんです。いったん少しは戻った体重だったんですけれども、ここ1年また急激に痩せました。それは私が今一番気にしていることで、本当に言われたくない言葉だったんです。けれども、通夜、葬儀、と本当に悲嘆に暮れる私を見守っていてくれたそのおじさんが心の底から掛けてくれた言葉だと思うんですけれども、私はその返答に困り、「そうですか…、体重はあまり変わっていないんですけど。でもね、まだ気持ちがね、だめなんですよ」って言いましたら、「何が?」というふうにきょとんとされるんですよ。「あれっ?」と私は思いました。「ああ、そうか。人にとって3年というのは、私たちの感じた3年よりもっと長い、もう遠い遠い過去のものになってしまっているのかな」とちょっと悲しくなりました。でも、それを責めるつもりはありません。正直な気持ちだと思います。私のその返答におじさんも気付かれたのか、「あ、妹さんは元気か?」というふうに話を変えてくれて、「はい。お陰様で勤めています」と受け流していたんですけれども。世間の人から見ると、もう片付けられた過去になっているのかなと強く感じました。でも、心を許せる友達には正直な気持ちをぶつけさせてもらっていますが、いつまでもそうそう甘えるわけにはいきません。

ただ、今この場にいる私はあの事故が起きる前の私とははるかに変わっています。娘が死を持って教えてくれた数々のことのお陰だと思っています。本来ならば親がすべきであったこと。それは死というもの、命のはかなさ、尊さを身をもって教えるということでした。年を取り、目が見えづらくなる、耳が聞こえにくくなる。足腰が弱り、転んでケガをする。入院をする、世話になる。また病気が幾つも出てくる。入院、退院の繰り返し。そして、死。その老いというものを時間を掛けて子どもへの最後の教育としてしなければならない親の役目。それが逆となり、娘は私よりも先に死んで、たくさんの教えをくれ、深く心に残るものとなりました。人生の終着駅に先に行ってしまった娘。その終着駅に私も必ず行きます。娘は必ず私を待っていてくれると信じ、会えたその時お礼を言いたく思っています。

冒頭で述べましたように、私には2人の娘がおります。大切な、大切な宝物です。大事な人を1人忘れています。健康な主人もいます。今、姉の年を超えてしまった次女とともに三人三様、悲しみに押しつぶされそうな日もありますが、静かな生活を送っています。私たち残された遺族、娘の友人、知人、そして婚約者。これらを二次的被害者と呼びます。事故のショックにより、それぞれに深い傷を負い、後悔や自責の念に駆られ、一生消えない心の傷として、深く、根強く残ります。先月9月、1年の中で最も辛い時期がやって来ました。週末毎に多方面からお参りに来て下さいました。その中でも、たくさんの娘の友人達と話すこと、これはとても私の心を和ませてくれました。親の知らない娘の一面を聞かせてもらい、また、一緒に偲んで時にはお互い涙することもあり、彼ら、彼女らの心の傷も未だ深く申し訳ない気持ちにもなりました。その柔らかな、嬉しい時間はあっという間に過ぎ、再会を約束しては、別れを惜しみました。彼ら、彼女らはそれぞれに社会人で、また、まだ学業を続けているもの、形は違えど、娘の叶わなかった分まで未来への夢の実現のため、がんばっているようでした。1人の娘を失ったけれど、私には100人、いえ、200人の子どもが出来ました。娘の幼なじみ、先輩、同輩、後輩達です。この子達の未来をも見続けたく思っています。娘の死が無かったら、ここまで深く知ることも、交流を深めることも無かったはずです。私が寂しくないように、たくさんの子どもを見守るようにと、出会わせてくれた娘の命のメッセージと捉えています。医療に携る大学時代の友人達はいつも私の体を気遣ってくれ、「元気でいて下さいね」「長生きして下さいね」「いつまでもこの家に伺わせていただきたいから、お母さん、がんばってね」と、優しい言葉を掛けてくれ、とても感謝しております。

さらに娘亡き後、大学では毎年9月7日の夜から8日に日付が変わる頃まで、追悼バドミントン大会をしてくれ、とても嬉しく思っています。娘を実際に知らない新入部員達も進んで参加してくれているようで、娘のことは語り継がれているのだなと思っています。「先輩のバドミントンに対する熱い思いは我々後輩が引き継ぎます!」と、今年も部長から温かいメッセージを頂き、感慨無量でした。長女のことは語り継がれ、彼らの心の中にも長女は生き続けています。来年ももし追悼バドミントン大会をしてくれるのならば、来年こそは見に行きたいなと強く思いました。もちろん、娘と一緒にあの体育館に。

では、2番。娘の生い立ち。私の気持ちばかりをお話させていただきましたが、ここで娘の22年間を少しばかり振り返りたいと思います。昭和57年10月18日生まれ。人生で一番幸せだった日です。10月24日、退院。日にちは違えど、この10月の第四日曜日でした。出産して入院中、病室の窓から一条の光明が私の胸にス~ッと差し込んだのを今も覚えています。健やかに成長し、最初の一歩です。ちょうど夕方台所で料理をしていた時にテーブル、椅子につかまり立ちをして私も横目でチラチラと見ていましたところ、立って一歩歩いた瞬間を逃さず押せました。初めての育児は大変で辛く悲しいこともありましたけれど、楽しいことが多かったです。

昭和60年5月、次女が生まれ、お姉ちゃんになりました。お腹にいる頃から私の体を触り、「この中に赤ちゃんがいるの?」と言い、「早く会いたいな」と言いながら、待ちこがれた赤ちゃんに出会え、でも、「おもちゃではないな~、お人形さんではないな?」というのが分かるのか、すごく大切に触っていましたね。私が次女にお乳をあげていると、すごくマネをしたがったので、そのようなお人形さんを買いまして、長女はその人形を抱いて、ほ乳瓶を持ってお人形さんの口にミルクを入れて、私と同じ姿で縁側でマネしていたのを思い出しますね。

昭和61年4月。三歳児として保育園に入園します。これは入園式の日の朝に撮った写真です。家から保育園が近かったこともあり、毎日次女をおんぶして歩いて送り迎えをしました。今まで若い時には気付かなかった季節の動きが良く分かるようになりました。通りかよいする道すがらに咲く花だとか、いろいろな方のお家の庭、それから鳥、そういうものに気が付くようになって、「あ、そうなんだ。今まではちっともこんなことが見えていなかったな」と、この保育園の送り迎えで本当に季節を再認識することが出来ました。三年保育の始まりでした。それから、最後の年長組。年長組さんはいつもこのように鼓笛隊をします。その折りに指揮者となり、先頭を切って歩いた娘の姿です。先生に一生懸命指導され、家に帰ってから、傘を持って、玄関先で自分で笛を吹いて、よく1人で練習をしていました。この日も練習の甲斐あって、晴天で良い運動会でした。

それから、平成元年。小学校に入学します。小学校もわりと自宅から近かったので、通学には楽なうちの町でした。遠い方だと半時間以上は歩いていたのですが、うちからは10分少しで小学校に着けます。この小学校の6年間にはいろいろなところに夏休みなど、旅行に行きました。この写真は3年生。夏に鳥羽の方に行った旅行ですね。実を言いますと、家族4人が映っている写真というのはうちにはたった1枚、これしかありません。いつも誰かがシャッターを切っていたので、3人撮り、2人撮りばかりで、いくら探しても4人で映っているのがありません。よく考えてみると、この時、カメラに脚をつけて、主人がタイマーをセットして、そしてカシャッと撮れた、唯一の4人の姿です。

それから、4年生になり、次女は1年生になりました。1年生の次女にはちょっと辛いかなと思ったのですけれども、わりかし体がしっかりしていたもので大丈夫だろうということで富士山に登ろうという計画を立て、8合目くらいまで上がりました。もう後はとても無理なので断念しましたけれども、とても良い思い出ですね。この頃というのは本当に2人とも小学校に上がり、手が掛からなくなったというか、一番幸せだったような、そんな頃のような気がします。成長が楽しみで、楽しみで、本当に体の疲れなど、知りませんでした。それこそ、一晩寝れば次の朝元気になり、4時間、5時間くらいの睡眠でも全然次の朝平気でした。今とはずいぶん違いますね。

これは6年生。北海道に旅行に行きました。本人いわく、「お姉ちゃんは中学校になったら、スポーツのクラブに入るから、きっと夏休みは無い。そやから、6年生の時にすごい旅行したい」と言ったので、「そしたら」という事で1週間かけて北海道を、道南から道央をずっと回りました。レンタカーを借りて主人の運転で。私も1ヶ月くらい前からコースを練って練って、旅行会社の人と相談して、本を買い込んで、名所めぐり、どこを回れば効率が良いかとか、いろいろ考えて行きました。ここはオホーツク海、網走の国定公園、原生花園です。この原生花園は実は私が一番行きたかったところで、私自身が高校の時に北海道の修学旅行だったのです。それであの時に見た原生花園に、オホーツク海に行きたいなという思いを密かに持っていて、まだ家族は誰もこのことは知りません。今ここで曝露しています。私が本当に行きたかったところで、3人、主人がシャッターを切っているので、もちろん3人だけしか映っていませんが。もう既に私の背を超えていますね、この時は。

これは十三詣り。京都嵐山の法輪寺へ十三詣りへ行きました。嵐山の渡月橋を渡る時、「後ろを振り返ったら、せっかくいただいた知恵が逃げてしまうよ。そやから絶対後ろを振り返ったらあかんよ。」と早くから言い聞かせていました。慣れない着物、慣れない草履、娘は緊張して、妹と手をつないで一生懸命歩きましたね。この着物は私が成人式の時に着た着物です。その着物を娘に着せられるというのは本当に嬉しかったです。彦根から着せて行くのもしんどいと思ったので、法輪寺の駐車場で私が着せました。終わってからまた法輪寺の駐車場に行って着物を脱がせ、そして、洋服に着替えて嵐山の方をずっと1日散策しました。たこ焼きを食べたり、みたらしを食べたり、もう着物を脱いだら、本人は、ああ、やっと楽になったという風に、暴れまくっていましたね。

小学校6年生の最後の運動会です。この時も鼓笛隊のリーダーとして指揮者をしました。放送部としてはマイクを持ち、リレーではアンカーを務めました。この1日は今も本当に忘れられないのですが、私は、小学校最後の運動会なので、と張り切ってお弁当を作りました。ところが、昼の休憩時、運動場の周りで皆さんがご飯を食べている、その時に鼓笛隊のパレードがあるので、この子は着替えたりいろんなことをしなければいけないので、先生に「5分か、10分でご飯を食べてここへ来なさい!」と言われたようで、もうそそくさと食べて行ってしまい、何か折角食べさせたかったごちそうがいっぱい残ってしまい、ちょっとがっかりしたんですけれども、私たちも急いで食べて運動場の指定の場所に行ってこのパレードを見たりしました。この子にとって、本当にハードな、ハードな一日でした。鼓笛隊の指揮者をするのには、これは2ヶ月くらい前から放課後にいつも練習して、足にはマメをいっぱいこさえました。ですから、皮膚科に通い、漢方薬を頂いて飲み、それとまた8月の末にはストレスからか、すごいじんましんが出て、それもまた皮膚科に通い、内服薬をもらい、足の裏のマメとじんましんとの戦いで終えた鼓笛隊のリーダーでした。やっぱりそれが終わると嘘のようにじんましんが終わったのを覚えています。

平成7年4月。中学校に入学します。これは夏の日の登校前の一コマです。中学校に入り、バドミントン部に入部しました。このバドミントンは結局大学まで続けました。娘の生活を通じて運動部の大変さややりがい、実力で選手が選ばれる厳しさを垣間見て、娘のがんばりを知り、親から見ても頼もしかったです。自分自身が子ども時代に経験しなかった世界を子どもと一緒に楽しめる、子育ての苦労についてくるご褒美かな?と思ったりもした頃でした。

中学校最後の運動会です。仕事をしていましたので、なかなか参観だとか、そういうものは行けませんでしたが、最後の運動会だということで私は休みを取って見に行きました。その時にリレーを終えた時の写真です。Vサインをして、なぜかいつもこの子はVサインをするのですけれども…横の2人は2番から始まっているゼッケンナンバーなので、1年下の後輩ですね。中学校は1、2、3と縦割りで分団を作っていて、それでリレーをしたようです。

平成10年4月、高校に入学します。一番左のベストを着ていないのが娘です。やはりバドミントン部に入部し、これは部室での一コマです。またVサインをしていますね。

高校3年生の文化祭です。この日もやはり私は休みを取って最後の文化祭だから、また高校というところは参観というのも無くて、ただ、3年生と、2年生の後半ですか、進路の二者懇談とかで10分、20分くらい行っただけ、数回行ったくらいだったので、学校の中も良くは知らないままだったので、「1日ゆっくり高校の中を歩かせてもらおうかなぁ。」と思って休みを取って行きました。娘のクラスの劇が始まる時間が来たので、会場に入りました。入ったところで渡された冊子を見た時に、パラパラと見ていったら、娘が主役になっていました。私には何も言わなかったので、私はカメラも持たずして行ったのですけれども、これはこうして友達のカメラで撮ってもらえていた写真が残っていたので、良かったなと思いました。髪の毛もすごく赤いのですが、これは「お母さん、赤いスプレー、髪の毛を染めるスプレーを買ってきて!」って、それだけ聞いていて、それを誰に振るのか?、それとも自分が小道具の仕事を仰せつけられたのか?、「何なのかな?」と思いつつ、私も日々忙しいので、「はい、はい」と言って、赤いスプレーを買い渡しました。それは実は娘の髪の毛に振られるスプレーだったんですね。

文武両道の校風通り、順風満帆の高校生活を終えて、平成13年、4月9日、大学の入学式です。他府県の大学、大学生活の一人暮らしの始まりです。これは入学式ですが、3つ違いの妹と入学式が重なってしまったので、妹の方には私が出席、こちら、大学の方には主人が出席をしました。やっぱりVサインしていますね。

ここからは、親の知らない娘の素顔であり、これからの写真は娘の死後、私たちが初めて目にしたものばかりです。やはりバドミントン部に入部し、仲間とともに遠征試合や、時には羽目を外したお酒の場、それから、家からはついぞ連れて行けなかったディズニーランドへも出掛けてありましたね。知らない間にお化粧も始め、年2回、お盆とお正月の帰省で見る顔、だんだんと大人びていきました。部活動においては2年間キャプテンを務め、最後の総仕上げとなる4年生の時、その大会において娘の大学は団体優勝を果たし、後輩達に胴上げされている娘の姿です。こんなにすばらしいことがあったのも何も知らないままというか、あの子は何も語らないままのこの夏のお盆の帰省でした。良いことも、悪いことも、あまり親には多くは話さない娘でしたね。

平成17年3月15日、大学の卒業式です。これには主人とともに出席出来ました。4年間無事に終え、親として安堵したあの日の喜びは言うまでもありません。念願だった専門職の資格も取り、滋賀には戻らず、そのままその地で働き、この夏のお盆の帰省時には給料明細を見せてくれて、「やりがいがあるよ、お母さん。これからもっともっとがんばって勉強して一人前になりたい!」と夢をも語ってくれました。そして、8月17日、私は娘を見送り、「また、お正月にね」と何気なく、言葉を掛けましたが、これは実らぬ結果となってしまい、あの夜見送った後ろ姿が最後となりました。

9月7日深夜、事故に遭うのです。翌8日の日、滋賀へ、生まれ育った家へと無言の帰宅をします。私が今まで生きてきた中で一番悲しかった日です。

3番。「事故と加害者について」。9月7日の水曜日。いつものように娘は仕事を終えて、いったん帰宅し、食事をとり、夜8時過ぎに母校の体育館へとバドミントンの指導に行きました。毎週月曜、水曜、土曜がバドミントン部の練習の日でして、この水曜日もいつも通りラケットを背負って体育館へとバイクで行きました。そして、11時半過ぎ、練習が終わり、着替え、後輩達と雑談を交わして、そして「じゃあまた今度ね。さようなら、おやすみ」とバイクに乗って帰るのですが、その数分後、通い慣れた交差点で時速90キロの暴走車にバイクもろとも跳ねとばされました。夜間は点滅になる信号の交差点です。この信号は娘の死後、夜間点滅を止め、普通信号へと切り替えられました。何事においても、誰かの犠牲の後に法律や規制が変わるという行政には不信を抱きます。

娘が18歳で家を出てからというもの、夜、私はいつも寝る前、枕元に電話の子機を置く癖がつきました。これは遠く離れて暮す娘、その娘に万が一何か起きた場合、この電話に連絡が入るだろうと半分お守りみたいな気持ちで置いていました。4年半、一度も鳴らなかった呼び出し音。初めて鳴ったベル、これは警察からでした。「お宅の娘さんがバイクに乗っていて事故に遭われました」一瞬耳を疑いました。振り込め詐欺かな?そういうことも頭をよぎりました。でも、深夜ですから、銀行も開いていない、お金は動くわけはない、おかしい。そして、会話を重ねるうちに、これは間違いないと確信せざるを得ませんでした。搬送された病院を聞くと、そこは何と数分前までいた母校の付属病院だったのです。病院に電話を入れました。当直の先生がすぐに出てくださって、容体を聞くと「娘さんは心肺停止状態で運ばれました。命の危険にさらされています」と驚愕の返事でした。私たち家族はすぐさま夜の高速を走り、車中では祈るような思いで、誰も何も語らず、苦しい時間を経て、やっと病院に着くと、宿直の方が表で待っていて下さり、ICUへと案内してくれました。急ぐ廊下の中、「ICUなら、ICUなら生きている。待っていて」と私は心の中で叫び続け、そして近づくICUの廊下の前には後輩達がたくさん私たちの到着を待っていてくれたのは目に入りましたが、もう私の心は「早く、早く、早く娘に、娘に会わなくちゃ。娘はどうなっている」、もうその思いばかりで、ICUの扉に目が集中していました。対面した娘は見た目には何の怪我もなく、けれども、いろいろな医療器具につながれ、酸素吸入されていました。パッと見た心電図はかすかながら動いていました。変わり果てた娘の姿、恐怖と絶望に見開かれた目、近寄り握った手は思ったよりも冷たく、この時目の前の現実に愕然としました。ドラマの1シーンで「がんばって!しっかりして!」と大きく身体を揺さぶるシーンをよく見ますが、私にはこれは出来ませんでした。なぜかと言うと、「大きな声を出したら、かすかながら動いている心臓が一瞬にして止まってしまうんじゃないだろうか…。身体を大きく揺さぶったならば、この子の声に出せない痛いところがあるんじゃないだろうか…」との思いからです。手をそっと握り、耳元で娘の名前を呼び続けました。それしか出来ませんでした。しかし、懸命に手を尽くしてくださった先生方の甲斐なく、私たちが到着した30分後、私たちを待っていたかのように、そして婚約者も見守る中、娘は何も語らず、静かに息を引き取りました。その時に私は初めて大きな声で「逝かないで~。逝かないで~。逝かないで~」と泣き叫び、必死に大きく身体を揺さぶり続けました。死因は脳挫傷。衝突の瞬間に強く頭を打ったことによるものです。首の骨が折れ、道路にたたきつけられました。きれいな体でした。見事なまでにきれいな体で親の元に帰ってきてくれました。そのことはたった1つの救いでした。

一方、加害者は無傷です。当時35歳の独身男性です。事故が起きた点滅信号のもう1つ先の信号が青色だったので、あの青色信号を渡りたいと、そこばかり見ていたようでした。時速90キロという猛スピードに加え、1つ先の青色信号ばかりを見ていたため、交差点に半分近くも先に侵入していた娘のバイクを見落としていました。発見と同時の衝突だったようです。死人に口なしの捜査は警察の方で着々と進み、加害者の言い分のままに作られていった書類にその後の私たちの心はさらに傷つき、また加害者の無責任な言い訳や、謝罪が無い態度、これに二重、三重に苦しめられました。深夜の事故ゆえ、目撃者もなく、事故直後にたった1時間足らずの、それも深夜の真っ暗な現場での調査。立ち会う加害者の嘘やごまかしがそのまま証拠書類として後々まで残るのです。

失意のどん底にいながらも、私たちは行動を起こしました。事故現場に立て看板を2枚、それからチラシを1,000枚、近隣や通行する人たちに配りました。情報を得るということはあまり期待していませんでしたが、娘の無念を思うといても立ってもいられず、後悔を残したくなかったので力を振り絞りました。これを怒りのエネルギーと呼ぶそうです。あらゆることに奔走し、1年半後、加害者に下された刑は前科3犯であったにも関わらず、耳を疑うような軽い、軽い刑事罰でした。今加害者は事故前と同じ職場で働き、職場においても何の処分もなく許されたのです。人を刺し殺せば当然殺人罪で重い刑が下されるのに、交通事故で人を死なせても、殺人罪には問われず、あまりにも軽く扱われる。交通犯罪に対する今の司法には、私は納得いきません。

それから、運転免許証についても同様で、公正が望まれ、人権が守られる加害者は1年間の免許停止処分を受けましたが、その後は講習を受けるだけで再び免許証を取得できるそうです。私としてはもうこの加害者に二度とハンドルを持ってもらいたくないとの思いでおります。娘と同じ犠牲者をもう出して欲しくないと思うからです。この加害者は、ですから前科4犯になったわけです。現在も執行猶予中という身です。

もし私が逆の立場であったならば、償いのため、また自分自身への戒めのために、もう一生ハンドルは持たないでしょう。最後に付け加えさせていただきますが、加害者は一度我が家に来ただけで、それも再三のこちらからの申し出で、です。それっきり何の連絡も謝罪もありません。そのご両親においてもそうです。私はこの加害者の顔しか知りません。両親の顔は知りません。事故のことを忘れたいとでも思っているのでしょうか。平成17年9月7日という日付は彼の心の中にどのように刻み込まれているのか、そこを問いただしたい気持ちでいっぱいですが、二度と顔も見たくもありませんし、この先、人を恨み続ける人生を送るのは娘の霊を弔うためにも良くないと考え、もうそのことは深く考えないようにしています。9月7日は娘が最後まで生きた日。輝いていた日と見方を変えて、在りし日の娘を偲ぶ大切な日と心に刻んで私はこの先生きていきたいのです。

4番。「世界道路交通犠牲者の日」。11月第三日曜日、今年は11月16日です。皆さん、この日があったのをご存じでしょうか。平成17年10月26日に国連で決議されました。この1日前、10月25日は娘の四十九日を営んだ日です。その翌日に決議されたこと、これも娘から投げかけられたメッセージかなとも思います。「世界道路交通犠牲者の日」は、被害者遺族のためにあるのではなくて、幸いにもまだ悲しみに見舞われていないあなたとあなたの家族の命を守るためにあるものです。飲酒運転や暴走運転などの悪質な運転は論外ですが、死亡事件のほとんどは脇見運転や前方不注意などが原因です。これらはちょっとした不注意で済まされるものではなく、その結果大切な命が失われるのです。交通事故ではなく、交通犯罪であり、車は走る凶器です。失われた大切な家族の命は残念ながら何をしても、もう戻ってきません。帰らぬ娘に号泣し続けて3年。ようやく理解できました。残された私たち遺族に出来ること。同じ悲しみは繰り返されないようにすること。

しかし、365日、交通死ゼロの日は1日も無く、それどころか年間に1万人もの命が失われる中で、このように声を上げることの出来る者はごくわずかです。ようやく次のことを考えられるかどうかのこの時期、このように今日、皆様の前でお話させていただけたのは、私の小さな、小さな第一歩のような気がしてなりません。また、この竜王町にご縁をいただけたのも、私にとって、ありがたいものでした。実は娘の高校の後輩の方がこの竜王町におられまして、この方は毎年欠かさず命日にお花を送って来てくださいます。心優しいメッセージを添えて送られるその花に、直接はお会い出来ていない人なのですが、温かい人柄が浮かび、心の底から感謝しております。聞くところによりますと、この方も娘と同じ専門職に就かれたようで、がんばって働いておられるようで、娘の後を受け継いでくれたような気がして、嬉しくてなりません。私たちがこの被害のことだけを考えるのではなく、それによって生まれた人間模様や関わり方、柔軟な調和の取れた本来の家庭を回復させていくことに、きちんと目を向けることが大切だと痛感しました。真っ暗な世界からいつかきっと本物の太陽の昇る日が来ること、そんな希望を持って生きていけたら、それには死にもの狂いで何かを求め、ささやかでも幸せと言える日を夢見て生きる勇気に変えたく思っています。若くしてこの世を去る悔しさと無念の娘に反して生き延びる私のこの生命、命がけで子を思う、親を思う、相手を思う真剣な学びの一日一日と、切に思います。心の奥底にしまい込んでいた心情を伝えさせてもらい、本当にありがとうございました。事故の無い社会を作るため、周囲や社会全体が何をし、何を考えていいかをずっと問いかけながら、微力ではありますが、今後も機会があれば、このような活動をしたいと考えております。

この風車は事故現場に添えられるものです。

「世界道路交通犠牲者の日」を全国に広め、交通死ゼロの風を全国的に展開させるために、その思いが込められています。風車はあの名曲、「千の風になって」で聞き慣れた方もいらっしゃるかと思いますが、その千の風を受けて動きます。黄色い風車、そして白い花を一輪、ここに添えます。11月中頃になって、もし見かけることがありましたら、どうぞ祈りを捧げてください。よろしくお願いします。そして、ご自分の今ある命の尊さを考えてください。

時間がもう少しありそうなので、この夏、私が娘を偲んで作った詩を朗読させて下さい。お手元のレジュメにおありかと思いますので、一緒に見て下さい。娘が弾いていたピアノをBGMに・・・。

『君の居た夏』

暑い夏がやってきた。

君のがんばった夏が。

たくさんの試合を戦ったあの夏の日々。

汗の似合う君。

駆け巡るコート サーブ スマッシュ。

君はたくさんの仲間と共に青春をコートにぶつけていたんだね。

そして、最後の夏。

お盆の帰省中にも関らず、ラケットをしょって

君は後輩達の応援に出掛けて行ったね。

お母さんは駅まで君を送ったっけ。

そして、あの日惨敗した後輩に掛ける言葉もなく

一緒に泣いてあげたそうな。

3年間、共にダブルスを組んだその後輩は

今も君のことを「永遠のパートナー」だと言ったよ。

君がいなくなって三度目の夏。

今年は去年よりさらに淋しいよ。

ごめんね。本当のことなの。

何だか深く深く淋しさが心に突き刺さってくるの。

君はどうかな?

君も淋しい?

大丈夫?

あの日、あの夜、この家での最後の夜。

一緒に食べたスキヤキ。

とびっきり上等のお肉を奮発してね。

お父さんに「肉には手を出すな!」と目配せしてね。

君に食べさせたいから。

お腹いっぱい食べて欲しかったから。

あれからスキヤキは食べられなくなったよ。

でもいつか一緒に食べようよ。

君がどんな形でか、いつかきっと生まれ変わって

私の前に現れるのを待っているよ。

夏はどの季節よりも君を想い出すから

いつしか嫌いになった。

けれど、やっぱり君がキラキラと輝いていた

あの夏の日の君…を忘れられないから

嫌いと言うのをやめるね。

君の居た夏の日を忘れない。

君の笑顔を忘れない。

最後になりましたが、本日は足元の悪い中、また、数ある秋の行事も日曜日ごとに続いているかとお察ししますが、そんな中、早朝よりお集まりくださいまして、拙い話を最後までご静聴ありがとうございました。本当にありがとうございました。

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