関係機関・団体と連携した犯罪被害者支援促進モデル事業

講演:「子どもたちを被害者にも加害者にもさせないために」

命のメッセンジャー派遣事業(滋賀県)
伊香郡地域安全サミット

一井 彩子(少年犯罪被害当事者の会) 一井 彩子
(少年犯罪被害当事者の会)

初めまして、一井と申します。今日はよろしくお願いいたします。

最初に息子の長男マサルの事件の事をお話します。

私の息子マサルは、当時15歳、今から13年前の1995年8月30日隣の校区の中学校の生徒と、その卒業生ら4人によって暴行され殺されました。中学校3年生の夏休みが終わろうとしている時でした。直接の原因というのは、直前に息子を呼び出した、顔見知りだった、加害者となる16歳、15歳14歳の3人の少年がいたところへ、主犯格の17歳の少年がたまたまやってきて、そこにあった、「自動販売機のビールを飲め」と言われたのを、息子だけが断ったと言う事でした。その後、じゃんけんをして、負けたものが、ビールを飲むというルールを決め、主犯はさらに、ビールを飲むように息子に詰め寄ったところ、再度断ったことに腹を立て、制裁を加えることにしたのです。

まず、主犯は「誰を殺して欲しいんや?3人の中から選べ」と言い「選べません」と答えると「それならお前を殺す」とすぐ前にある小学校の校庭へ連れて行ったのです。この時、他の3人の少年も従いました。これが、午前4時頃の事です。ここから、息子は1時間半にわたり、すさまじい暴力を受けるのです。その小学校の校庭に寝かされた息子に、顔面を蹴りながら、主犯はさらに「誰を殺して欲しいんや」と言い、息子と同級生だった14歳の少年と喧嘩をさせました。息子が、反撃を始めると横で眺めていた主犯は校庭に積んでいた50センチくらいの角材を取り、この少年に手渡し「これでやれ」と命じたのです。この後、暴力はどんどんどんどんエスカレートし、角材を持った4人の少年によって、頭を集中的に殴られ続けました。さらに、この中の一人は、地面に倒れたままの息子の顔めがけて5キロもある、ブロック片を投げつけることもしていたのです。

1時間ほど経ち夜が明けてくると、人目につくだろうと、校舎とフェンスの狭い通路に連れ込み、さらに暴行を加えました。当然の事ながら息子は既に、大量の出血があり意識も朦朧としていたのですが、現場となった小学校の校庭は少年たちの家からすぐ近くにある事から、見つかってはまずいとその後、主犯の命令によって、発見現場となった公園の植え込みに棄てに行きました。

そこは、堺の臨海工業地帯の入口にあるのですが、4人はミニバイク3台に分乗し、その1台にぐったりとした全身血だらけの息子を乗せて運び、植え込みに置き去りにして、草陰から様子を窺っていたようです。その後、たまたま、トラックを止めてトイレを探していた高知県の長距離トラックの運転手さんが息子を発見してくださり、警察に110番通報してくださいました。パトカー2台と救急車が到着、この時、マサルは救急隊の大丈夫かという問いかけに、「うん」と答え、「歳いくつか言ってみ」との質問に「15」と即答したそうです。けれど、救急車の中では「苦しい、苦しい」といって体を動かしていたようです。

私が病院からの電話で起こされたのは朝の6時半頃だったと思います。「息子さんが怪我をされて運ばれてきたので、すぐに病院に来てください」とのことで私は病院の場所を聞き、すぐに駆けつけました。もちろん、私はこの時、息子がこんなに凄い怪我をしているとは、想像もしていませんでした。息子は小さい頃から、決して大人しい子ではなかったので、怪我をすることは時々あったからです。一つ上の姉と6歳下の妹に挟まれた3人兄弟の長男として育った息子は、本当にやんちゃで、食べているときと寝ているとき以外は、動いてない時がないような元気な子どもでした。

小学校の低学年までは友達とも喧嘩をしたり、いたずらをしたりと、いつもひやひやさせられました。その反面、とても活発だったので、目立つのが好きで、学級委員や生徒会の役員に立候補してみたり、スポーツ大会には絶対参加したり、何でも興味を持っていました。とにかく明るくて、人懐っこくて、誰とでも友達になるというこの性格が、中学校に入学してからは、その分、学校のペースを乱すと言われ、常に先生に目を付けられていました。当時、息子たちが通っていた中学校では先生による暴力がひどく、ある時は先生の靴型をほっぺたにつけて帰ってきたこともありました。また、同級生の女の子の中には、顔を殴られ歯がかけた子もいました。一昔前に社会問題になった校内暴力を恐れて、先生たちが生徒を力で抑えていたんだそうです。しかし、他校のトラブルには、全く無関心で、待ち伏せをされて連れて行かれ暴力を振るわれるといったことがよくあったのに、そんな時は何も対処してくれませんでした。こんな状況の中で、息子はだんだんと学校に行かなくなってしまいました。

そして、最悪だったのが、担任の先生が3年間ずっと同じだったことです。もちろんこの担任の先生も暴力を振るう先生の一人だったんです。うちの息子はとてもこの担任の先生に嫌がられていました。でも、そんな中でも美術の先生が学校においでよと、2時間続きの授業に呼んでくれたこともありました。マサルは塀を乗り越えて、他の先生に内緒で美術の授業に出ていましたが、担任の先生に見つかってしまい、引きずりまわされた上、学校の外へ放り出されてしまいました。

「私はもう学校いかんでいいよ」と言いました。でも、マサルはたくさんの友達がいたので、学校には行きたかったようです。いつもなら、講演に行く時に、息子の遺影となっている写真を持ってくるんですが、ちょっと今日は、首の病気で重たいものが持てないので、持ってこなかったんですけど、その遺影になっている写真は最後の3年生の修学旅行で友達が撮ってくれた、その写真が最終的に遺影となってしまいました。

その修学旅行なんですけど、学校には行ってなかったんですけど、どうしても中学校の最後の思い出だからっていうことで「修学旅行に行きたい」と言って準備をしていました。でも、結局その修学旅行もすんなり行かせてもらえたわけではありませんでした。

その日の朝、友達に迎えに来てもらい、元気に出かけて行ったんですけど、しばらくしてから、「おかん、迎えに来て」と電話が入ったんです。私はてっきりどこか途中から電話をして帰りたくなったのかなと思ったんですけど、息子はその時、校長室にいました。皆と一緒にバスに乗せてもらえなかったのです。学校に行ってなかった息子は髪の毛を茶色くしていました。そして当時は、膝を骨折してギブスをしていたためにダブッとしたズボンを履いていました。

結局、それがいけないということでした。私は校長室で事情を説明しましたが、分かってもらえず、二人で家に戻りました。ところが、家に帰ってからも息子はどうしても修学旅行に行きたいというので、もう一度学校に電話をしてお願いをしました。すぐに生徒指導の先生が来てくれて、自分の車をわざわざ出して現地まで運転して連れて行ってくれました。結局息子は学校で先生から暴力を受け、最後には一緒にいた少年らから暴力を受け死んでしまったわけです。

搬送された病院では、警察の人に色々な質問をされたりしているうちに、もしかすると、大怪我なのかもと思ったのかもしれないんですが、この時点でもまさか命にかかわるようなことだとは考えていませんでした。だいぶ経って病院の指示でICUに行ってみると息子は機械をいっぱいつけて、口には呼吸器という姿でした。その姿にもびっくりしましたが、顔などがぱんぱんになって、前の日に家を出て行った時とは、まったく違っていたのにはさらに驚きました。この時、既に意識も無く重体ということになっていたのです。その後、胸に注射をしても、心臓マッサージをしても意識が戻ることはなく午後1時7分に死んでしまいました。亡くなった息子の姿は頭がぼこぼこになり、顔は腫れ上がり、両手は多分頭を殴られたときにかばっていたのか、グローブのようになっていました。もちろん全身は傷だらけでした。後の司法解剖の結果で知ったのですが、肋骨も2本折れていました。警察の方はあまりの惨さに傷害致死ではなく、殺人ということで捜査を始めてくれました。

そして、少年ら4人が逮捕されたのは3日後の9月2日でした。もしも、救急車の中で犯人の名前を言っていればすぐに捕まっていたのでしょうが、息子自身が一番自分が死ぬなんて思っていなかっただろうから、何も言わなかったと思います。逮捕されるまでの3日間、この少年らが何をしていたかというと主犯を除く3人は息子の仮通夜、通夜、葬儀にも来ていました。顔を出さなければ他の者たちに疑われるからです。そして、事件直後から主犯の命令で口裏を合わせ、息子の履物やポケットベルなどを別々の場所へ隠しに行き、自分たちの服に付いた息子の血に関しては、車の男たちに絡まれて怪我をしたと言っていました。それどころか、主犯はわざわざ警察に出向いて行き、ロビーで騒ぎ自分が捜査圏内に入ったかどうかを確かめたりもしていたのです。

逮捕されて家庭裁判所に送られ、審判を受けた少年ら3人、少年院に1年ほど入り、主犯は逆送され、3から5年の不定期刑で少年刑務所へ送られました。残念ながら警察の方は殺人で捜査をしてくれていたのですが、結果的には傷害致死ということになっていました。それから約5年後、出所した主犯とその両親が少年刑務所からのその足で、私の家にやってきたことが新しい戦いの始まりでした。息子に線香をあげさせて欲しいというのです。もちろんすぐに返事をできるわけもなく、しばらく考えさせて欲しいと取り敢えず帰ってもらいました。その日から何日もかかっていろいろ考えて、結果来させることに決めました。一番の大きな理由は少年事件というのは何も知らされずに加害者の人権だけが守られて被害者には何の権利もないという現状があったからです。つまり、少年院や少年刑務所から出て来ても、本当に更生できているのか、その後、どこに住んでどんな生活をしているのか何も分からないのです。凶暴な人間が一人、私たちのすぐ近くに戻ってきたのですから、せめて私が生きている間は亡くなった息子のためにこの現実に向き合っていくべきではないかと思ったのです。

けれど、そんな思いで決心したにもかかわらず、実際に主犯に会ってみるとがっかりさせられました。主犯の少年については顔も知らなかったので、この時が初めての対面だったのですが、会うことを決めてからというもの、毎日言いたいこと、聞きたいことをいっぱい考えていました。しかし、実際には私の想像していた人物とはまったく違っていました。

他の少年3人やそれ以外の子どもたちが恐れていた、キレたら何をするか分からない奴が、目の前にいるこの大人しそうな子だったんです。初対面ではあるけれども、何かがおかしいと感じました。私が話しかけてもおどおどしているだけで、返事もなく子どもの代わりに母親が全て答えてしまう、父親が線香をあげるように言っても、どうしていいのか分からない、手取り足取り教えないと何もできない。この父親というのは堺市の職員で、母親は今現在も小学校の教師をしています。私はもうこの少年とは話をするのは無理だと思い、改めて母親と二人で会うことにしました。

最初に会ってから1ヶ月後ぐらいのことです。色々その母親と話して感じたのは、この親子の関係、特に母と子の関係は幼児期のままで止まっているのではないかということでした。なぜなら息子の遺影の前で自分の子どもを君付けで呼び、事件のことに関しても未だに自分の子どもが起こしたこととは信じられないと平気で私に言うのです。けれど、その母親の話によると主犯は少年刑務所にいる間に、様子が変わり、出所後しばらくして診療内科に通わせるようになったんだそうです。例えば、母親がお茶碗についだご飯をそのまま食べずに、別にお茶碗を持ってきて匂いを嗅いでから自分でついで食べるような行動があったんだそうです。その後、診療内科ではなく精神病院に通院して薬を飲み続けているという状態がずっと続いていました。このような経過も実際に加害者にあって直接話しをしなければ、分からないというのが現実です。

加害者に会うということは、とてもとても辛いことです。息子を殺した本人が目の前にいるわけですから。私はこの母親に言いました。「私はこうした形であなたたちを受け入れ、話をしたりすることだけはできるけれど、許すことは絶対にできない」と言いました。このような状況で、去年の夏まで約7年間一年に一度だけ会い続けてきましたが、去年も今年も本人とは会うことができませんでした。なぜなら、やってきた両親によると今は精神科の病院に入院しているとのことでした。症状は家を出たまま2~3日帰らないということがあり、警察に捜索願を出して保護してもらうという状況が何度かあったそうです。私が恐れていたことがとうとう現実になってしまいました。もし、この主犯が次に何か事件を起こしたら今度は成人ではあるけれど、精神的に異常があるという理由で責任能力がなくなる可能性があります。何のために5年近く少年刑務所にいたんでしょうか。このような状態で出所したことには今も強い憤りを感じています。

ここまでが息子が事件に遭ってから今日までのことなんですけど、実はもう一つの事件を少しだけ、お話させていただきます。実は2001年、息子の事件から6年後の10月1日、今度は、次女が登校中に他校の女子中学生5人による暴行を受け、傷害事件の被害者となってしまいました。息子とまったく同じ中学3年生の時です。

少女らは箔を付けるために色々な中学校へ出向いて行き、喧嘩を仕掛けていたんだそうです。学校の先生によって運ばれた病院での診断は頭部打撲、頚椎捻挫で2週間の安静でしたが、最悪なことに通院中にこの病院でおたふく風邪に感染し、左耳が聞こえなくなりました。すぐに専門医のいる病院に入院し治療もしましたが、全く効果がなく、今現在も聴力ゼロの状態のままです。突然耳が聞こえなくなったことでの影響は大きく、当初はバランス感覚が取れずに、立ってまっすぐ歩けずにふらふらしていました。また現在までずっと酷い耳鳴りに悩まされています。京都の耳鳴り専門のお医者さんにも相談に行きました。その先生は医学的には証明できないが、確かにおたふく風邪で難聴になる例はある。しかし、精神的なものも大きいのではないかとおっしゃいました。

そして、その少女らはといえば、5人が逮捕されたのは2ヶ月後の12月1日、娘が5人の内の3人の名前を覚えていたにもかかわらず、警察は大きな事件を抱えているから忙しいとか、この少女らの中間テストが終わるのを待っているだとか、理由をつけては捜査を先延ばしにしたようです。事件直後から学校間では少女らのことは既に分かっていました。

その2ヶ月の間にやはり口裏合わせをしていました。主犯の少女は中学2年生の時に子どもを生み、その子どもを保育所に預けるために学校に登校だけしていました。授業を受けないで学校を抜け出して、うろうろしていたようです。娘の話では次に喧嘩を仕掛ける中学校も決めていたらしいです。結局5人は2ヵ月後の逮捕後、家庭裁判所で審判を受けましたが、主犯は保護観察、4人は保護処分無しでした。娘の受けた傷に比べると何と軽い処分なのかと、またしても少年事件の理不尽さを思い知らされました。主犯に関しては、この保護観察中に覚せい剤で捕まったと聞いています。それにこの主犯の母親と息子の加害者の母親の一人が知り合いだとも聞いています。次女は今22歳ですが、本当に人間不信で友達もあまりつくらずに生きています。

ここまで私の子ども達が被害者となった事件についてお話をさせていただきました。今はその二人の娘と私と3人で生きていますが、私には、他人ではありますが、家族のような子がいます。息子が亡くなって13年間、こんな形で悲しみ、苦しみ続けてきましたが、嬉しいこともありました。それは息子がたくさんの友達を私に残してくれたことです。同級生や先輩達です。この子たちも世間一般にはやんちゃをしていた子どもたちです。でも、私のことをおかん、おかあちゃん、おばちゃんと言ってとても大事にしてくれます。給料日にはご飯を食べに連れていってくれたり、カラオケに誘ってくれたりします。年月が経って何人かは結婚をし、子どもが産まれ、子どもを連れて遊びに来たりもします。

その中の一人は、自分の子どもが産まれてから私のところへやってきて、「俺な、子どもが産まれて初めておかんの気持ちが分かってきたわ、自分の子どもってめちゃ可愛いもんな」と言いました。また、別の子はやっぱり子どもが産まれてから、「マサルのこと助けてやれんかってごめんな」って謝るのです。マサルが亡くなったことで命の重さを知り、自分の子どもができたことで本当に命の大切さを知ったんだと思います。

ずっとこの子ども達が私の近くにいて一緒に泣いたり笑ったりしてくれています。実は去年は息子の13回忌だったんですけど、この先輩達が堺市内のホテルを貸し切ってくれて食事会をしてくれました。42人の先輩や同級生が集まってくれました。息子の死亡当時、私の周りで大騒ぎをしていた大人たちは13回忌どころか命日すら忘れています。私は中学校とか少年院にも講演に行ったことがあるんですけど「あなたにとってこれまで何が支えになったか」と聞かれたらいつもこの子達の話をします。私が今こうして元気で生きていられるのは彼らのおかげだといつも感謝しています。

最後になりますが、私は現在、少年犯罪被害当事者の会と全国犯罪被害者の会、通称「あすの会」というんですが、そこで活動をしています。まず、少年犯罪被害当事者の会というのは、今日ここへ来たのはそこからきたんですけども、年に1度WiLLといって、今年は先週の土曜日だったんですけど、被害者が集まって、そして他にも内閣府の方、もちろん警察の方、最高裁の方とか、検察官の方だとか、もういろんな方が、東京とか、いろんなとこから来てくださって、会を開いています。1年に一度だけなんですけど、また、もし興味のある方はまた来年、だいたい10月の第2の3連休の初日あたりで、開催しますので、いらしてください。

そして、もう一つの全国犯罪被害者の会、「あすの会」では今まで被害者の権利の確立を求めて日本全国で街頭署名活動や地方自治体への陳情活動を行ってきました。そして、12月1日から司法への参加が始まることになっています。私は少年事件でしたので経験していないですが、刑事裁判において被害者が法廷のバーの中に入れるようになったわけです。そして、この、「あすの会」というのはもちろん全国組織なので、関東集会、関西集会、九州集会と、この3ヵ所で集会は行われています。私たちは関西集会のメンバーなんですが、この関西集会のメンバーで一部の人間で糸操り人形劇団、クライシスっていうのをやっています。私は途中から参加したんですけど、これも被害者の体験を基にして脚本を書いて、そして被害者で作った人形劇なんです。裁判の現実を訴えるために作りました。これまでにもいろんなところへ講演に行ったんですけど、明日は和歌山市に人形劇の公演に行きます。来月末には鹿児島県に行きます。これらの会の人は本当にみんな凶悪な事件によって大切な人を殺されたり、重症を負ったり、寝たきりの重症を負ったりした者ばかりです。本当なら私たちが活動をしなくていい、そんな世の中になれば一番いいんですが、悲しいことに犯罪が無くなることはないでしょう。

けど、みんな辛い中、亡くなった者たちの命と真正面から向き合いながら、事件が少なくなることを願って活動を続けています。特に私たち少年犯罪の被害者、遺族の活動のテーマはここにもありますように、子どもたちを被害者にも加害者にもしないためにというものです。被害者にならないっていうことは、絶対保証がないです。でも加害者にならないようにするためには、特に子どもが被害に遭う事件が最近めちゃくちゃ多いので思うんですけど、やっぱり親とか学校の先生とか周りにいる大人たちが教えてあげることによって、加害者にならないことができるんじゃないかなって思います。ここにいらっしゃる方も本当に子どもさんに関わることが多いと思うので、やっぱりこれから育っていく子どもたちには命の大切さというのはもちろんなんですけど、人の痛みや人に対する思いやりっていうのが一番大事だということを本当に教えてあげて欲しいと思います。

先ほどもいくつか事件のことが出たんですけど、6月だったと思うんですけど、岡山県の方に呼ばれて、倉敷の中学校で講演させていただいたんですけど、その数日前に秋葉原の事件がありました。多分5日位前だったと思うんですけど。もの凄く、悲しいというか、あのニュースを見た時に、むなしいというか、なんか私たちがこう喋っていることって意味があるんだろうかと思って、もしかしたら、その中学校に行けないかもしれないというような思いにもなって、これは他の方も言ってました。でも、その後も、例えば、岡山の突き落としの事件だとか、この間の大阪での放火事件だとか本当に無差別な事件が、いつ誰が犯罪に遭ってもおかしくないというような感じで起こっています。本当に悲しいことです。でも、やっぱり私の力なんて本当に僅かですが、少しでも皆で力を合わせて、いろんな人に話しを聞いてもらうことのほうが諦めてしまうよりはいいかなと思って今日も来させていただきました。

ちょっと早いですが、私の話はこれで終わらせていただきます。今日はありがとうございました。