関係機関・団体と連携した犯罪被害者支援促進モデル事業

パネルディスカッション

犯罪被害者等に関するテーマ別啓発事業(大阪府)
「交通死ゼロをめざして 世界道路交通犠牲者の日シンポジウム」

パネルディスカッション「地域社会の支えを考える」
田畑耕一(TAV交通死被害者の会副代表)
田畑耕一
(TAV交通死被害者の会副代表)
今井博之(クルマ社会を問い直す会会員)(子供の安全ネットワークジャパン幹事、交通死遺族)
今井博之
(クルマ社会を問い直す会会員)
(子供の安全ネットワークジャパン幹事、交通死遺族)
小栗幸夫(千葉商科大学教授、ソフトカー・プロジェクト・チーム代表)
小栗幸夫
(千葉商科大学教授、ソフトカー・プロジェクト・チーム代表)
長谷智喜(命と安全を守る歩車分離信号普及全国連絡会会長)
長谷智喜
(命と安全を守る歩車分離信号普及全国連絡会会長)
渡辺伸子(千葉県浦安市 安全な富岡交差点へ!市民連絡会代表)
渡辺伸子
(千葉県浦安市 安全な富岡交差点へ!市民連絡会代表)
西浦義朗(TAV交通死被害者の会代表)
西浦義朗
(TAV交通死被害者の会代表)

田畑 皆さん、こんにちは。それでは第3部パネルディスカッションに入ります。私は本日進行役を務めますTAV交通死被害者の会副代表の田畑です。皆さん、どうかよろしくお願いいたします。

始めにパネリストの皆様を司会より簡単にご紹介申し上げます。詳しくは皆様にお配りしてありますチラシの裏面をご覧ください。

皆様より向かいまして左手。先ほど基調講演をしていただきましたが、今井さんです。京都で小児科医をされています。子供の事故予防、特に交通事故の予防に取り組んでおられます。本日のシンポジウムのタイトルにあります世界道路交通犠牲者の日を日本に紹介された方であります。1994年、当時10歳のご長男を交通犯罪で亡くされています。

右隣、小栗さんです。千葉商科大学政策情報部教授です。2000年、政府公認のミレニアムプロジェクトに採択された、最高速度を表示制御するソフトカーの開発者です。システムとしての車の速度規制を提案され、その普及に努めておられます。ブログ「ソフトカー・ダイアリー」、掲示板「世界道路交通犠牲者の日・つながるプラザ」を管理されています。1997年、お姉様を亡くされています。

次は、長谷さんです。病院にお勤めです。歩行者事故防止研究会を主催されておられます。「命と安全を守る歩車分離信号の普及全国連絡会」会長をされています。交差点での事故防止のため、交差点をシステムとして安全度の高い歩車分離信号の普及に尽力なさっています。1992年、当時11歳のご長男を交通犯罪で亡くされています。

次は、渡辺さんです。中学校のPTA副会長をなさっています。昨年度、昨年9月14日、PTA役員をされています地域の小学校の4年生男児が、千葉県浦安市富岡交差点で交通犯罪により命を奪われたことを機に、交通量の多い同交差点を安全にするため、「安全な富岡交差点へ!市民連絡会」を創設されました。代表として、警察・行政を巻き込み、市民活動を展開されています。

さらに、市内全域の車の走行速度を下げる運動として、「ソフトドライブ 法定速度で走り隊」運動を展開されています。

最後に、当会代表の西浦です。

さて、今井さんには先ほど基調講演をしていただき、その中で自己紹介もお済みです。小栗さん、長谷さん、渡辺さんにつきましては、これより各10分程度の紹介ビデオを上映いたします。その後、TAV代表の西浦と私の簡単な自己紹介の時間をいただきます。

それでは早速ビデオ上映に入ります。初めに長谷さんのビデオ上映をお願いいたします。

(長谷氏ビデオ内容抜粋)2001年作成

長谷さん夫婦は花を携え、毎週この交差点を訪れています。自宅からおよそ800メートルのところにあるT字路の交差点です。1992年、ここで長男を交通事故で亡くしました。

亡くなったのは長谷元喜君。小学校5年生でした。通学路になっているT字路の交差点を毎日渡っていました。

その日、元喜君はいつものように自宅を出て学校に向かいました。朝8時過ぎ、交差点に差しかかりました。元喜君は信号が青に変わったのを確認し、横断歩道を歩き始めました。そのとき、ダンプカーが左折してきました。元喜君は押し倒され、車輪に巻き込まれました。即死でした。

事故当時、運転手は青信号を見て左折した。子供には気が付かなかったと話しています。

事故のとき元喜君が背負っていたランドセルの中にはカードが残されていました。学校で行われるクイズ大会のために元喜君が作ったものでした。「信号はなぜあるのか」。答には、「信号がないと交通事故にあうから」と書かれていました。

青信号を渡っていて、事故に遭った息子。長谷さん夫婦はカードが元喜君からの宿題だと思いました。

2人は交差点での事故について調べ始めました。死亡事故を報じる小さな新聞記事を毎日切り抜きました。母親の目の前でミキサー車に巻き込まれ、亡くなった男の子。交差点でダンプカーにひかれたお年寄りの女性。子供やお年寄りが元喜君と同じように、青信号で亡くなっていました。

長谷さんは事故現場の交差点を直接訪れ、調べ始めました。どの事故も、歩行者と車の信号が同時に青になる交差点で起きていました。

元喜君の事故から3か月。長谷さんは交差点の調査を進めるうちに、八王子市内のある交差点を見て驚きました。歩行者の信号が青のとき、車の信号はすべて赤になっていました。人と車を別々に通す分離信号。こうした信号があることを初めて知ったのです。青信号で起きた事故の分析。そして分離信号についての調査を続けました。

元喜君が亡くなってから7年。調べ上げたことを一冊の本にまとめました。青信号の事故で子供を失った多くの親たちが手記を寄せました。分離信号にすれば子供の命を守れる。長谷さんの主張に共感したからです。

本の出版をきっかけに、長谷さんは全国から講演に招かれるようになりました。

長谷 「息子は青信号に裏切られるようにして亡くなったのです。交通ルールを守る子供でさえ事故に遭い、命を失う。今はそういう交通環境なのです。私たちは毎日毎日、そのようなところに子供たちを送り出しているのです。こんな恐ろしい交通環境はもうたくさんです。」

そして2001年6月、千葉県船橋市に分離信号が作られました。長谷さんの講演を聞いた市民が設置を要望しました。思いやり信号と名付けられました。

この交差点をきっかけに、船橋市に5個所の分離信号が作られました。歩行者の信号が青のとき、車の信号はすべて赤です。各地に分離信号が生まれ始めています。

遺族の訴えは今や全国的な動きに広がろうとしています。今全国の警察では、分離信号を導入する交差点の選定が行われています。すでに沖縄や北海道、そして京都など8個所で信号が変更されまして、運用が始まっています。2002年1月からは全国100個所で分離信号、人と車を分けた信号が動き始めます。

(ビデオ終わり)

田畑 どうもありがとうございました。長谷さんの紹介ビデオでした。引き続きまして、小栗さんの紹介ビデオのほう、上映よろしくお願いいたします。

(小栗氏ビデオ内容抜粋)2008年作成

ソフトカーは、国の助成金を得て、1人乗りの電気自動車を土台に作られました。ソフトカーは車に取り付けたセンサーがスピードを感知することで、アクセルを踏んでも決められた速度以上は出ない仕組みになっています。生活道路は時速30キロ、高速道路は100キロなど、法定速度に応じて車の制限速度を変えることもできます。制御装置を付ければどんな車もソフトカーにすることが可能です。

ソフトカーを開発した千葉商科大学の小栗幸夫教授は、スピードの出し過ぎを防ぐことが交通事故を減らす切り札だと考えています。

小栗 「ドライバー、人間というのは必ずミスを犯すんですね。スピードを抑えると事故を避ける可能性が高くなるということ。それから事故が万が一起こったとしても、そのケガの程度が軽く済む。」

都市交通が専門の小栗さんが、ソフトカーの研究を本格的に始めたのは8年前。姉を事故で失ったことがきっかけでした。平成9年、パートに行く途中、ブレーキとアクセルと踏み間違えた車にはねられ、亡くなりました。

小栗 「そんなことになるとは当然思っていないわけですから。つらいですよね。このような悲しい思いが繰り返されるという現状をなんとか変えたい。それがその姉の死を無駄にしないこと。そう思いました。」

小栗さんは電気自動車の開発をしている慶応大学の研究室の協力の下、6年かけてソフトカーを作り上げました。2008年5月、大学の構内でソフトカーの試乗会が開かれました。

参加したのは地域の人や子供たちなど、15人です。試乗会ではまず、スピードの出しすぎがいかに危険かを参加者が体験することから始まります。5メートル手前から飛び出してきたボールにぶつからずに止まれるか。時速30キロで試しました。

速度を制限するソフトカーの普及には、人々の意識を変えることが必要だと小栗さんは考えています。これまで全国各地でこうした試乗会を60回以上開いてきました。

ソフトカーには交通事故で家族を失った遺族も関心を寄せています。埼玉県川口市に住む福地禎明さんです。当時5歳だった長女の悠月ちゃんが、保育園の散歩中に乗用車にはねられ、亡くなりました。小栗さんは同じ交通事故の被害者の遺族として、福地さんの力になりたいと交流を続けています。

事故が起きたのは2006年9月。生活道路で時速50キロ以上のスピードを出していたわき見運転の車が保育園児の列に突っ込みました。4人の幼い命が失われ、17人が重軽傷を負いました。現場には今も事故のつめ跡が残っています。

事故を受けて、時速60キロだった法定速度は30キロに引き下げられました。しかし、福地さんはこうした規制だけでは事故を防ぐことはできないと感じています。

福地 「ドライバーは判断してその速度というのをコントロールしなきゃいけないはずなんですが、残念ながらそれを全く考えないドライバーが多いですから、これはもうモラルに頼るのはもう限界に来てると思うんですよ。ですので、もう自動車側でその適正妥当なスピードを制御コントロールしなきゃいけない時代なんじゃないですかね。」

何度も現場に足を運び、遺族と交流を続ける小栗さん。ソフトカー作りには悲惨な事故を二度と起こしてほしくないという遺族の思いが生かされています。

小栗 「やっぱり速度制限というのは絶対必要だと思うんですね。現場を知り、それから遺族のお気持ちが、私自身がわかって初めてちゃんとした提案ができるんですね。それで初めてご遺族の方とのコミュニケーションもできるし、それから技術的にも、車はこうあるべきだと。安全な車を作るという原点がそこにあると。ですからその原点を見失わないで研究を進めていきたい。」

ソフトカー普及に向けて、今、小栗さんが力を入れているのが行政との連携です。この日は地元市川市でこの秋に開かれる国際会議で、ソフトカーをPRする企画について打ち合わせが行われました。会議には世界中から1万人以上の参加が見込まれます。この会議をきっかけに、市川市をソフトカーのモデル地区にしたいと小栗さんは考えています。

小栗 「車をゆっくり走らせるという考え方は、すぐには理解できないことかと思います。ですから大変難しいことはたくさん起こると思いますが。しかし、実際に体感をすれば、なるほどと思っていただけると私は自信がありますし、その厳しさを乗り越えて先に進んでいきたいというように思います。」

車を走る凶器にしたくない。ソフトカー普及にかける小栗さんの願いです。

(ビデオ終わり)

田畑 ありがとうございました。ビデオ紹介最後になります。渡辺さんの紹介ビデオです。よろしくお願いいたします。

(渡辺氏ビデオ内容抜粋)2008年作成

富岡交差点。ここで起こった一つの悲しい事故をきっかけに、再発防止のために活動を続けている人々がいます。「安全な富岡交差点へ!市民連絡会」。富岡交差点周辺の自治会、マンション管理組合、PTA、お父さんの会などの役員を歴任するメンバーで作られた市民団体です。

事故は2007年の9月14日に起こりました。見明川小学校の当時4年生だった男子児童が富岡交差点の横断歩道を歩いていたところ、左折してきた大型トラックにはねられ、亡くなりました。運転手の安全確認が不十分であったことが原因でした。

渡辺 「以前から危険な交差点だということを思っていました。なんとかしたいという思いを常に持ちながらも、ついに大きな事故が起きてしまったことによる、やはり後悔から、同じような思いを持つ、無念な気持ちを持つ地域の方たちと力を合わせて、まずは交差点をなんとかしたいという思いから会を作ることにしました。」

会を発足し、まず取り組んだのは、富岡交差点の問題点をまとめ、要望書を提出したことでした。

渡辺 「浦安警察署。それから浦安市役所。それと県の、県道がありますので、県の道路管理者のところに要望書を出しました。大事な命が奪われたということで、この交差点だけの問題ではないにしても、まずはこの交差点をなんとか改善していこうという思いを行政の方もお持ちだということが伝わってきましたので、連携してなんとか改善しようという取り組みが最初から始まりました。」

行政と市民のパイプ役として活動を開始した市民連絡会。自身のホームページで行政の考え方や改善に向けての進ちょく状況を発信。また、2007年12月には市役所や警察などの関係機関と近隣自治会などの代表40名に集まってもらい、経過報告会を行いました。

渡辺 「要望書を提出するまでの経過を報告し、どうして、その要望をしたかという理由も説明をさせていただきながら、行政が今こういうことを考えているという返事をその場でいただいたり、それに対して参加していただいた近隣の住民の代表の方たちが、またそれに対して意見を出すというような、非常に有意義な報告会になりました。

最終的には近隣の住民の皆さんの賛同を得られたという会になりましたので、多分その会があったので行政の方たちも改善への向けての大きな力になったんじゃないかなと思います。」

近隣住民の後押しもあり、富岡交差点の問題点の多くはすでに改善されています。そのポイントについて、交通安全課に伺いました。

「今回の交差点の改良につきましては、大型車の左折による巻き込み事故ということから、大型車の視界を妨げる原因になっておりました植栽帯。当初は大きな木もたくさん生えていたんですけれども、そういうものを若干伐採するとともに、山のほうも少し削らせていただきました。併せて、花壇の高い部分も低くする、抑えるという工事も行いました。

それと、横断歩道について、運転手から視界を妨げる原因になっていました信号の柱があったんですけれども、後方にずらす工事を行いました。

交差点の内部の白線も交通量に合わせて引き直しを行う。それと、交差点入り口部分に、この交差点は通学路ですよという表示をする看板を設置いたしました。

信号機につきましては、右折の矢印信号を設置いたしました。これに伴いまして、大型車両の右折による渋滞が激しかったんですけれども、そちらのほうも緩和されております。

あと夜間ですと、少し暗い状況がございましたので、照度の明るくなるナトリウム灯というものに変更をさせていただきました。

事故の一報を受けまして、市役所、そして警察のほうでこちらの交差点にまいりました。どのような状況で事故が起きたのか。事故の現地診断を行いまして、市役所や警察それぞれで、どのような改善を進めば事故が減るのか、そのような話し合いを行ったところです。それと同時に、この地域の方々、PTA、自治会、そのような方々から、一刻も早く事故が起こらないような交差点にしていただきたいという要望を受けました。

その後、それらの方々が市民連絡会という組織を構成され、市役所、警察の改善について後押しをしていただきましたので、このような形で速く改善の工事などが進んだものと考えております。」

新浦安駅前で行われた交通安全サマーコンサート。この会場に市民連絡会の皆さんの姿がありました。

加害者になるかもしれない運転者の意識を変えるため、「ソフトドライブ 法定速度で走り隊」を広める活動に力を注いでいます。

これまでも春の交通安全キャンペーンなどに参加し、運転者にステッカーやリーフレットを配り、法定速度を守り、安全に運転するように呼びかけてきました。さらに直接学校や事業者などを訪れ、協力をお願いしています。

渡辺 「浦安市というのは県外からの車がたくさん来る町なんですね。大型車や乗用車を含めて、とてもたくさんの車が来ます。で、不特定多数の車に対して交通安全を訴えたい。そのためにはどうしたらいいかを考えました。

それにはまず市民の車が速度を守る。市内どこを走っても速度を守る車であふれていれば、スピードを出そうと思っても出しようがありませんので、歩行者に気を遣う、周りを気にするという安全な運転につながるというふうに思っています。

この交差点が良くなればなるほど、事故のことが風化されていくかもしれないので、交差点を改善していくと同時に、この事故を忘れないということがまずあります。

もう一つは、悲惨な交通死亡事故をもう起こさないために、できることをやっていきたい。「ソフトドライブ 法定速度で走り隊」という活動をこれからもどんどん進めていきたいと考えています。」

(ビデオ終わり)

田畑 どうもありがとうございました。それでは当会代表西浦さんのほうから自己紹介のほう、お願いいたします。

西浦 ただ今紹介いただきました西浦でございます。ここで少し当会の紹介をさせていただきたいと思います。

TAV交通死被害者の会は、1999年3月22日に設立。TAVとは交通事故被害者を意味する英語を略したものです。

交通事故によって大切な家族を奪われた遺族、そして重度障害を負った被害者とその家族自らが運営する自助グループでございます。自助努力による被害者支援。交通犯罪を取り巻く現行制度の改善。車中心社会からの脱却を目標に挙げ、被害者同士心を分かち合う場を持ち、支え合いながら、二度と同じ被害者の出ない社会の実現を目指しております。

TAVは関西や愛知、三重などの遺族を中心に形成されました。最近ではインターネットなどを通し、北海道、九州、関東、中国地域からの入会もあり、現在約150家族の会員数になっております。

被害者・遺族が抱えるさまざまな問題と向き合ってきた経験を生かし、心のケアを中心に支援し合うほか、被害者の立場に立った事故後の相談や裁判支援、会員同士にての傍聴支援も行っております。

活動内容としましては、各月に大阪近辺で行っています定例会。名古屋では中部交流会。各地域では年4回開催しています交流会などが実施されております。

交通事故撲滅活動としましては、春と秋の交通安全週間にて、大阪と名古屋でパネル展示や遺品の展示、啓発ビラなどの配布を行い、昨年からはこの世界道路交通犠牲者の日にも活動を始めました。

これからも交通死ゼロを目指し、活動を継続したいと思っております。

ここで少しだけ私の事故の話をさせていただきたいと思います。

私は平成11年1月14日、自宅から200メーターほど先の通学路途中の信号機のある交差点で、当時小学校1年生の娘を事故で奪われました。娘は長男と一緒にその交差点を信号機に従って渡っている途中、停止していたはずの4トンのバキューム車というか、し尿車が、突然直進する車より先に右折をしようと、曲がろうと交差点を強引に曲がって衝突したと。娘は車の底部に巻き込まれ、頭部をれっ過、ひき殺された形になりました。

子供たちの通う安全であるべき通学路が、本当は実は安全ではなかった。その場所は古くからの生活道路でありながらも、その交差点は、各所、車優先な構造だったのです。それを、悲しくも、遺族になってから気付かされました。

先ほど渡辺様の紹介にもありましたけれども、うちの地域も私どもの子供の事故発生から、町会、PTA、それと近隣の方々の協力を得て、1年半、1年8か月ですかね。交差点の改善をしていただきました。残念ながらその交差点、事故がある前にその改善があれば、事故はなかったのかなと悔やむばかりですけれども。二度とその交差点で事故がないよう、私たちも、私も見守っていきたいと思っています。

本日、シンポジウムが本当に安全な社会への呼びかけになりますよう、本当に皆様と一緒に考えていきたいと思います。どうかよろしくお願いします。

田畑 どうもありがとうございました。最後に、進行役の田畑なんですけれども、少し自己紹介させていただきます。

私は平成9年1月22日午前8時前、大阪府四條畷市の自宅から200メートルの地点で、当時集団登校中であった小学2年生の三男篤志を、近所に住む男の無謀運転車両により、ひき殺されました。ショックで思考が止まってしまいました。目の前に白い幕が張られたような状態になりました。

それでも毎日の生活を続けていかなければならない。家族の生活を支えるために働かなければならない。本当に苦しい毎日でした。

そんなとき、事件後半年ばかりして、妻が被害者の組織全国交通事故遺族の会関西支部と連絡をつけ、その会合に参加することになりました。私たちは本当に助かりました。やっとわかってくれる人々に出会えた。そう思いました。

ほどなくして、近くの者同士でもっときめ細かい活動をしようということで、その中から現在のTAVが発足し、私どももそちらの仲間と歩みを共にすることとなり、現在に至っております。

さて、代表からの話もありましたけれども、現在TAVの活動の柱は、事件処理の相互支援が中心となっております。会の目的の一つである、「二度と同じ被害者の出ない社会の実現を目指す」にも目を向けられつつある会の状況です。本日はそのことに関連してシンポジウムを開催でき、非常にうれしく思っております。

子供の飛び出しが加害者の減刑理由になることのおかしさ。車道から歩道に自転車を上げて、これが安全対策だといったことのおかしさに多くの人が気付かないこの日本社会のおかしさ。それなら子供は一体どこで遊べばいいのか。歩行者は、そして車いすはどこを通ればいいのか。車の視点からしか考えられない貧しい発想。

愚痴ばかり言っていても始まりません。今日のシンポジウムが安心して生活のできるまちづくりの第一歩だと考えています。皆さん共に進んでいこうではありませんか。

呼びかけになってしまって申し訳ないのですが、以上自己紹介です。ご清聴ありがとうございました。

それでは討論のほうに移ってまいります。本日は世界道路交通犠牲者の日シンポジウム「交通死ゼロをめざして」ということでお集まりいただきました。交通死ゼロ、とりわけ人と車の混在する道路上での事故を撲滅するには、今後多くの施策が必要となります。将来のガイドラインは基調講演で今井さんが示されたビジョン・ゼロです。

が、本日は目の前にある状況での事故撲滅に対する最大の手立て。車の速度規制をメインテーマとして設定いたします。人と車の混在する道路。生活道路での速度規制と、それを推進する市民運動について話を進めてまいりたいと考えています。

大きく言いましたけれど、もうちょっと細かく分けますと、前半部分は先ほどからもいろいろ出ていますけれども、生活道路での安全、あるいは安全速度について皆さんのご意見を伺います。そして、その安全速度が実現されるための方法について意見交換をいたします。時間の制約もございますので、20分から25分程度を考えております。

いったんそれで会場の皆さんにも、できましたらそのことについてご意見いただければと考えております。ご協力をよろしくお願いいたします。

それから後半部分になりますと、そういうような方法をどのように普及させていくか。特に市民活動としてどう普及させていくかというようなことについて話題を転換いたします。それについても同じ程度の時間をいただきます。またこのときも皆さんの、会場のご意見もいただければありがたく思っております。

それが終わりましたら、一番最後にはそれぞれ、今日はテーマを絞りすぎましたけれども、皆さんご覧のように、今日お越しのパネリストの皆さんは、実はお一人お一人が一つの講演会をしていただけるだけのものをお持ちです。ですので、そのことも絡めて、それぞれ最後に感想を述べていただいて、本日のパネルディスカッションを終わりたいと考えております。

以上の進行でよろしくお願いいたします。

それでは初めは今井さんのほうから、前半の部分についてご意見賜りたいのですが、よろしくお願いいたします。

今井 はい。私は先ほどかなりしゃべりましたので、時間を短くしたいのですけれども。一つの基準として時速30キロが最大速度としての許容の限界であるということを先ほど述べましたが、では30キロだったらいいのかということになると、そうではないのですね。

オランダは世界に先駆けてボンエルフという制度を作りました。オランダの国の中には二つの交通法規があるのです。一般の交通法規、普通の道と、ボンエルフと指定された地域内の交通法規は全く異なるものでして、この一定区画のボンエルフという指定の中では、車と人と自転車もすべて、道路では同じ、全く同等の権利を有しているという法律を決めたのですね。ですから例えば車の前に三輪車が走っていると、後ろから付いてくる車はクラクションを鳴らしてはいけないのです。三輪車に付いていくしかないのですね。同等の権利です。

それで子供は道で遊んでも良いと。遊びなさいと。ところがそのような制度は当然人々の善意に全面的に頼るわけにはいきませんから、そういう速度しか出せない構造を作るということで、プランターを置いたり、ぐにゃぐにゃ道にしたり、急に細くしたり、バンプ、ハンプと言われるものを作ったり、様々な工学的手法でそれを保証するということをやったわけです。これが非常に有名なボンエルフという制度です。

このボンエルフは生活道路の中で時速20キロ以下を基本的な設計基準にしていますから。10キロから20キロというラインを具体的に決めています。というか、数字としては出ていないのですけれど、それを念頭に置いています。

ところがボンエルフを作るためには相当お金がかかるということがわかってきましたので、その代替策として、それに一応取って代われるではないですけれど、それに近いものとしてゾーン30という、30キロという制限を決めたわけですね。ですからあくまで時速30キロ以下であれば良いというふうに私は思ってないです。

田畑 どうもありがとうございました。それでは小栗さん、お願いいたします。

小栗 小栗です。お手元の「車の速度制御の重要性と市民運動について 資料」をご覧いただけると私の言うことがわかりやすいと思います。

まず、車の速度というものが、どれほど破壊的であるかということをお伝えしたいのですね。私たちは60、50、40、それから30という速度を当然のように走っています。乗用車の重さは当然差がありますが、1,600キロというのが比較的標準的な重さです。物のエネルギーというのは、速さが倍になりますと4倍になります。速さが3倍になりますと9倍になります。10倍になれば100倍になります。重さは正比例するのですが、そういう計算をしてみますと、時速30キロで走る1,600キロ、1.6トンの乗用車は、歩行者の速度が4キロと考えて体重60キロという想定なのですが、1,500人分のエネルギーになります。

大人が、1,500人が一つの固まりになって、例えば子供にぶつかる。たとえば自転車にぶつかる。防ぎようがありません。100キロになればそれは16,667人分であるということが、最初に書いてあります。

車の速度というものが、車の最大のメリットであるというように考えられてきたのですが、その側面は危険と裏腹です。

で、私は先、NHKの報道を皆さんにご覧いただいたのですが、そこにありましたように、非常にゆっくり走らせる車を作っております。ソフトカーと呼んでいますが。これはたまたま開発を始めて以降に、さっき今井さんからご紹介があったISA(インテリジェント・スピード・アダプテーション)というスウェーデンのやっている速度制御と考え方が同じでした。

ただ、ちょっと違うところがあります。車の速度をゆっくりするということについて、一般の方が、あるいは企業が、あるいは政府が、さらに深刻な問題は自動車メーカーがそれをすぐに理解するということは簡単ではありません。なので、私が最初に、もう2000年からすぐに制御の研究はやったのですが、並行して、あるいはある種、象徴的にということも含めて始めましたのが、速度を表示する仕組みです。レインボーライトというのは、最高速度が15キロですよということを外部に表示して走る表示装置です。

15キロを超えますと、この表示は点滅を始めます。これが外から見えます。ドライバーにも見えます。表示で自分が最高速度が何キロで走っているということを外部に示し、自分自身も、私は今15キロで走っているのだと常に気がつく。これを実際に付けてみますと、ドライバーの直接に目に入れなくてもここらで光るのですね。今井さん、どうですか? まっすぐ見られても多分光が目に入ると思います。

次にブルーにしますと、ブルーにしますとこれが30キロ。次に黄色が60キロ。それからオレンジが100キロというふうに装置を作りました。

表示というものが重要だということ。それで、NHKがうまく言ってくれなかったことをもう一つ付け加えますと、こういう装置を付ければあらゆる車がソフトカーになる、という考えだということを付け加えたいのですね。

さて、できるだけ核心に行きたい。これはある種市民運動の側です。しかし深刻な問題があります。それは、今、車というのはどのような基準で車自体が設計されるかというと、国が持っているのは運送車両の保安基準というものです。この中に、2003年の10月から大型のトラックについては、最高、高速道路も含めて、これはすばらしいことだと思いますが、90キロというリミッターが付きました。が、深刻な問題は、日本中には今8千万台弱がありますが、その90数%を占める通常の乗用車には、全くリミットの基準がありません。

かつ、私は8年間やっていてやっと気がついた。先日、国土交通省に電話しまして、2か月前に知りました。1951年に作られた基準が、現在まで60年間放ってあった。すなわちノーリミットだということです。非常に深刻な問題です。

ヨーロッパもISAをやっており、スウェーデンも私は行っておりますし、オーストリアの人とのコミュニケーションもしております。様々やっているのですが、彼らも実は苦労しています。

ロードピースのチョードリーさんから昨日来た資料で、日本でさっき80万から100万人という推計値を出されましたが、世界では、3,500万人の人が亡くなった。

我々が経験していることなのですが、64%がディプレッション、要するに気持ちが落ち込む。これは非常に疾患という状態に近いと思いますが。それからあまりつらいので、皆さん、ご経験のことなので、私が壇上で言うべきことではないのですが、3分の1、37%が自殺を考えた。つらいですね。

世界中がこれを悩んでいる。そういう中で、こんなに簡単なことがなぜできないのだ。すなわち、車に最高速度、そんなに出す必要がないではないか。そこから私はアプローチし、しかし次にお話しになる長谷さんの分離信号といったこととつながっていきたいというように考えています。また次の機会に。ありがとうございました。

田畑 そうですね。はい。長谷さん、どうぞ。

長谷 長谷と申します。私は、生活道路の安全速度ということを考えますと、自分の子供が交差点で左折車にひかれて亡くなったということから、道路というものは単路、直線的な道路と、その道路自体が交錯する、交差する。そういった交差点というのがあると考えます。速度を考える場合には、一般の道路の速度、それから交差点での速度。そういったものも考えてもいいのではないかなと思っています。

一般的には30キロぐらいで衝突すると生身の人間は死亡事故に非常につながりやすくなってくるということで「人と車が交錯するようなそういう場所では30キロ以下がよろしいのでしょう」というのが一般的な考え方だと思いますし、私もそれほど異論はありません。

ただし、交差点の中というのは、もっと速度が低くても死亡事故につながる例が非常に多い。ここに座っている私、子供が左折事故で亡くなった。西浦さんもそうですね。お子さんがやはり右折事故で。富岡交差点を何とかしようということを運動してくださる渡辺さん。この交差点の子供さんも右折、左折ですか、左折事故で亡くなったというようなわけで、この交差点の問題というのは非常に大きいのではないかと。

ではスピードは低いのにということなのですけれども、3名ともトラック系の車両。うちは大型車両。それから富岡交差点はまたやはり大型トラックですね。それから西浦さん、やはりトラック系の車両ですね。こういった車両と人とが交錯し、衝突するとどういうことになるかというと、その速度に関係なく、歩行者というのは、特に子供さん、大人もそうですね、まずはバンパーで押し倒され、そして車体の下に引き込まれ、そしてその圧倒的な車重で圧殺されていくのです。

こうなってきますと、速度がどうのこうのという問題ではなくて、歩行者が交差点を横断するとき。そのときは車両の速度というのはゼロ。つまり侵入してはいけないというものの考え方があってもいいのではないかな、というように私は思います。

先ほど今井先生がビジョン・ゼロの考えを発表してくださったのですけれども、私はそれを聞いていて、本当にそのとおりだというふうに思いました。人というのは間違いを犯す。犯しやすい。人と車を交錯させる。同じ青信号で交錯させるということはどういうことなのかというと、歩行者が歩く。その安全というのは右左折してくる車両運転手の注意力の中にある。歩行者は逃げられないのです。もし見落とされたことを知ったら。

このことは、私の子供が目撃者の目を通じて私に教えてくれました。簡単に事故の模様を言います。

上川橋交差点で信号待ちをしていた長男と妹。それが青信号に従って横断歩道を渡った。娘は、妹のほうは活発だから、お兄ちゃん、行くよ、という感じでさっと行きました。お兄ちゃんは非常に慎重な子供なのです。信号が変わっても残る(黄色)信号でこう入ってくる車がありますね。それをちょっと待っていたようです。

同じ青信号で出発したダンプ。その後ろで見ていた目撃者はこう言いました。「前の車が青になったので、あ、前の車が走り出したので、青信号になったと思って私も走り出した。私はまっすぐ行こうかなと思っていたら、前の車は左に曲がり始めた。そのとき子供を見た。『あ、危ない! ぶつからなければいいが、ぶつからなければいいが』と思って見ていたら、子供は何かふらふらし、何か引き返しそうな様子をした。でもやはりぶつかった。私は半狂乱のようになって近くの交番に飛び込んだ」と、こう言っていました。

私はこれを聞いて、事故の真相をすべて知りました。今まで「青信号を気を付けて渡りなさい」と言っていたその言葉は、何の役にも立っていなかったのだ。信号機に従って歩く子供。それに従って歩くしかないのです。(信号機のある交差点では)車がいっぱい通る。だから青信号の間に渡りなさい。そう教えられています。それをやってみても、もし見落とされたら、いきなり大きな車がバッと来ます。これは避けようがない。だからふらふらしたとか、引き返しそうになったと、こう言うのです。これは子供が自分の死を予感したときに出したシグナル。断末魔の動きなのです。

よく事故が起きてから、子供さんだから宿題を取りに帰ったとか、忘れ物をしたとか、よくそういうことを言われますけれども、それは間違っています。もし同じことをやったならば、みんな立ちすくむとか、それからふらふらするとか、そういうことがおそらく起きると思います。

そんなわけで、交差点。そこを歩行者が歩くとき、そのようにして事故に遭うのなら、それはやはり虐殺ではないかと思います。私はそういった意味で、道路の中の点、交差点は、事故が最も起こりやすい場所です。全事故の50%近くは交差点、交差点付近で発生します。それ(交差点での対人事故)を防止するためにはその交差点での車両速度、そこは速度ゼロを提唱したいなというふうに考えております。

田畑 ありがとうございました。では渡辺さん、お願いいたします。

渡辺 渡辺と申します。私の場合、市民活動ですので浦安市の状況をお話させていただきます。

浦安は昔、海でした。そこを埋め立てて作った整然とした町です。坂もなくほとんど真っ平らで、車も自転車も走りやすくスピードを出しやすいという町並みです。小さな地域ですが、今、16万人が住んでおります。

もう一つの浦安市の特徴は、東京ディズニーランド、ディズニーシー、それと日本一と言われている鉄鋼団地があることです。鉄鋼団地には約300社の鉄鋼会社があり、そこに大変な数の大型トラックが毎日やってきます。

ディズニーランドや鉄鋼団地を目的にして来る車は、どちらかというとみんな急いでいるのですね。早く目的地に着きたいという感じで浦安市内に入って来るのです。

生活道路というお話がありましたが、浦安市内の道は生活道路プラス、レジャーを含む産業道路で、またそこが通学路なのですね。事故が起きた富岡交差点もまさにそのとおりの交差点です。ピーク時は1時間に1,000台もの大型車が通るという、非常に恐ろしいところなのですが、そこを通る多くは地域住民ではない、全国から来る不特定多数の車両です。

事故をなくすため、例えばこの道の速度は50キロ、あるいは40キロだから守りましょうと掲げても、目的地として浦安に来る車両に対しての効果はあまりないのでは、と考えました。

ではどうしたらいいか。まずは市民の車が率先して安全速度を考えながら運転します。私たちの車が安全速度を守って走っていれば、後ろから来た大型車が抜いてもまたそこに市民の車があるのです。つまり市民の車で安全速度の流れを作ることを思いつきました。ステッカーを作り配布して、この活動を広報することを始めています。

この行動を「法定速度ではしり隊」という言葉で表しました。法定速度という言葉をあえて使ったことで、この道は何キロが法定速度なの? と気にしながら運転する人が増えました。自分の今の速度を実感しながら運転することは、町並みと共有しながら自分が動いているやさしい気持ちになります。ただ目的地に急ぐのではなくて、町と共存して運転しているような錯覚に陥ります。

そうすると、曲がり角も当然、子供がいるかどうか、お年寄りが歩いているかということをかなり気にしながら曲がるようになりますし、ステッカーを貼っていることで、後ろの車に対して無言のアピールもできます。こんないろんな思いを含めた活動を今進めているところです。

何キロが安全かというより、自分のスピードを気にして運転すること自体が、人や車に思いやりを持つ運転につながるのではないかという思いで活動をしております。

田畑 どうもありがとうございます。西浦さん、お願いします。

西浦 はい。私のほうは速度というか、亡くした子供が小学校1年生、7歳ということで、身長で言うと120センチぐらいですかね。まずこの子供の目線から見た車の速度というか。通常車に乗り慣れた、毎日毎日乗っているその運転手、ドライバーというか、例えば30キロという速度で走る。しかし子供の目線、ちょうど120センチ以下、1メーターという視線で車が通りすぎる。これは30キロではものすごい怖い速度だと思うのですけれども。

先ほど小栗さんの紹介ビデオで、埼玉・川口の映像が、事故の映像が流れていたと思うのですけれども、そこでも一応に改善された形の生活道路というか、になっておりましたが、確かに30キロと道に書かれております。あの道路、6メーターということですが、(歩行者用に)本当に狭いグリーンの色と白線とが書かれていました。6メーターの道に対して本当、2、30センチしか歩行者の余裕がない。そこまで車が通ってもいいですよと。そこで、例えば30キロ、目の前に、家の玄関から出て、ふと、本当にこう10メーターぐらいの個所で30キロで通ったら、本当にこれはすごく怖い速度になるかと思います。

先ほども何回も繰り返しているのですけれど、やはり子供の視線、目線ということをやはり生活道路、もしくは通学路ですね。特に通学路などは速度しかり、その視界というか、そういう形も大事だなというように思います。

それから渡辺さんの紹介ビデオにもありましたが、市の担当者が植栽をカットした、撤去したと。これも本当に子供たちにとっていかに車が遠くから来ている。子供は車を見たら、特に交通ルールをまだ知らない子供たちにとって、車を見て止まってくれると思うのですね。よく交通犯罪を犯した加害者というか、飛び出しという言葉をよく聞くのですけれども、私たちにとって飛び出しというのはものすごく嫌な言葉で、子供は飛び出しているのではないのですよね。そこが自分の場所なのですよね。それを飛び出し、それも大きな声でそういう形。本当に私たちにとってはつらい言葉になっているのですけれども。

いかにこう視界を広げて、子供たちの目線に合わせた場所というか、そういう空間を確保するということが、私は大事だなというふうに思っています。その上での速度で、例えば10キロ、20キロという速度をやはり作っていただきたいなというように考えています。

田畑 ちょっと最初お話ししていたよりも議論が白熱して延びているので、この部分は延ばしたいと思うのですけれども。皆さんのご意見をお聞きして、少し整理しておきたいと思うのです。

日常私たちが歩いて生活する範囲のところでの車のスピードについて考えていただくということだったのですけれども、もちろん今井さんや小栗さんの最初のいろいろなご主張から、当然スピードは下げたほうがいいのですけれども、長谷さんの発言は目からうろこの発言だと思うのですね。ついついスピードを落としなさい。車がすっと走れる場所。いわゆる単路とおっしゃいましたけれども、そればかり気になっているのですけれども、ではないのだ。交差点ではまず車は止まる。でもそれって歩車分離そのものではないかなと私は感じたのですけれど。

それとあと、西浦さんのほうで、家を出てすぐ目の前が30キロ規制で、出た途端ビュッ。これは怖いではないかとなってくると、今度は車の進入できない歩行者専用道路とか、そういうことも含めて車の速度規制。

皆さんお聞きになっていて、最初のテーマから大きく広がったように思うのですけれども、実質本質を突いていると思いますので、ご意見をお願いします。小栗さん。

小栗 もうすでに田畑さんにまとめていただいたのですが、私がやっている仕事というのは、さまざまな方向があるのですが、一つはおっしゃるように、車を入れない。そのことをサポートする仕組みではあるのですね。

と言いますのは、このエリアに車を入れないということをしますと、実際にどうしても使わなくてはいけないと、反対するのですね。私の考えは、その速度が15キロ以下、あるいは6キロ以下で、こういうレインボーライトを付けている地域の車、あるいは地域に利用目的がある車は入れる。車のメリットは現実に存在しています。例えば高齢者、荷物を運ぶ、雨の日、様々あります。これを否定しないで、これが非常にデリケートなのですが、その加害性を最大抑える。この調整ですね。

お手元の資料でさっきのデータをちょっと見ていただければおわかりになりますが、例えば15キロで300キロの車が走りますと、オリンピックランナー、すなわち100メートル10秒で走る人間と同じエネルギーになるのですよ。ですから本当にゆっくり走ればかなり安全。

もう一つは、車というのはブレーキが当然あります。その下の表に、例えば15キロですと1秒で何メートル走るかと、5.3メートル。ぶつかる危険性はあるのですが、かなり下がります。というようなことで、ゆっくりというのはやはり重要かなと思います。

それから止めるというのも含めて考えている。ですから交差点では、カーナビとつなぎますと、その交差点に行ったらそのときにいったん止まりなさいという信号も送れます。それからそこをゆっくり走らせるということもできる。ですから調整はできる。

ちょっと続けて簡単に3点だけ。できるだけ短く言います。一つは法定速度の問題ですが、現在の法定速度に大きなゆがみがあります。それは、これも川口の事故で初めて知ったのですが、速度標識のない道が、60キロが法定速度であると、大変な矛盾です。周りの広い道が30、40、50で制限がかけられているのに60キロ。ですからこれはやはりひっくり返さないといけない。ひっくり返すときに市民運動というもので、みんなが意欲を高める。それが渡辺さんのような市民活動と連動すると私は思いますね。

もう一つ。西浦さんがおっしゃった、これは大変深刻な問題で、6メートルの道幅で川口は歩道的なものを作りましたが、その幅、私は行って測りました。25センチでした。どうしてか。

皆さん、ちょっと頭の中で計算してください。6メートルですね。で、道路法というものがありまして、そこで規定している標準的な1レーンが2.75メートルなのですよ。2.75×2は5.5ですから、6マイナス5.5は50ですね。0.5です。その半分で0.25。すなわち車を完全に優先して、今道を作っているということなのですね。ですから逆に5.5メートル以下の道は基本的に車を入れないようにする。ですからそれが今井さんのおっしゃるように幅5.5メートル以下の道はすべてがボンエルフにする。

こういうことを大きくやっていかないと、この状況は変わらないというのが私の主張ですね。

田畑 今度は、先ほどの話題にも出ているのですけれども、具体的に世間の人に理解していただく。普及について、お聞きしたいと思います。

また、まずは順次いかがでしょうか。今井さんのほうから。

今井 私は地域とかそういう形での活動はしていませんので、あとの方にその点はお任せしたいと思いますけれど。

私はこども環境学会という子ども関係の学会に入っていまして、そのこども環境学会というのは子どもの遊びとか、プレーグラウンドとか、様々な子どもの遊びの価値を多面的に議論する場所なのですけれども。そこでの非常に重要なテーマの一つに、今の子どもは外で遊べなくなったと。今の子どもは外で遊ばなくなっていると。遊び場を奪われたのだということで、実は1950年、60年代の遊び空間から見ると、今の子どもの遊び空間を同じ方法で計算すると、100分の1に減っているのですね。ですからもう空間自体がもう残されていない、奪われていく中で、子どもたちは遊ぶことすら忘れてしまって、今では遊べないという状況になっているということで。

そこのところで、その大きな問題は、実はモータリゼーションと関係が深いということになっていましてね。それで千葉大の先生と、それからそういう専門家の方何人かとで、こどもとコミュニティのための道研究会と、略して“こ”みち研と言っているのですけれど、それを実は2年前に作りまして、そこで子どもが道で遊べる、遊べる道づくりをどう再現するのか。もう一回再構築するのかと。それから道草ができる道。子どものルーティンとして学校の行き帰りをするこの道で遊ぶということが、子どもにとって成長上非常に重要な価値を持っていると。これを再び再現するということの研究を今深めています。

ですからそういう仲間の運動と共に広がっていってくれれば、また今言っていた議論が生きてくるのかなと思います。

田畑 最後にまとめていただく部分がちょっと重なってしまったと思うのですけれどもね。そういう活動をするときのご苦労される部分とかについてお話しいただけたらありがたいです。

今井 私自身はこうやりたいということをはっきり、先ほども話したとおりですので、それが世間の一般の理解とはやはりなかなか合致しない。こういうほとんど仲間のような、同じ経験をされた方だと比較的理解していただけるのですけれど、そうでない方というのは、やはり私のような意見を言うと、反発のほうが大きいということはあります。

でもそれはいきなりそういう話を持ち込んでもしょうがないと思うのですよね。やはりじっくりやっていくしかないし、渡辺さんのような地域とか、いろいろなところで地道な運動がその人々の気持ちとか考え方を変えていく、やはり大きな芽になるのだろうと思いますので、私自身はちょっと忙しくてなかなかそういうことができないので、そういう活動に大いに期待したいと思います。

田畑 ありがとうございます。では小栗さん、お願いいたします。

小栗 ソフトカーは失敗をしています、現在までは。プロジェクトを始めたのは2000年だったのですが、その途中万博に、さっき見ていただいた、放送で見ていただいた電気自動車バージョンが出ました。そのときに、九州まで行き、途中広島、それから神戸、途中フェリーを使っていますが、大阪も経由して、市役所を訪ねて、それから京都に行き、万博会場に行きました。こういうことで広がるかと思ったら、広がらないのですね。で、やはり私自身にものの見方が誤っていたなと思います。

で、2006年に、ソフトカーって実は面白い、楽しい部分もあるのですが、この深刻な問題から実は私はどうしてもやらなくてはいけない、と思ったにもかかわらず、ついつい技術のことを始めると、実は楽しみが沸いてしまう。これはいけない。

もっとも思いついたのは、私は筑波大学に勤めた20数年前、1982年ですから26年前なのですが。

何が重要かというと、被害者の方、私自身も被害者の遺族である。で、先の100万という数はものすごい数でして、1人の死に100人の関係者、知り合いがある。すべてではないですか。日本人全部ですよ。3,500万人の人が死んだということは、その100倍というのは35億人ですよね。地球上のみんながこの問題に実は悩んでいるのです。悲しんでいるのですね。ところがそれが今までばらばらであったと。チョードリーさんが1993年に始めたことが15年後、この日本まで来たことを喜ぶというメッセージをくれたのですが、我々一人ひとりが諦めないで、もうやめてしまおうかと思わないで、こういう場を作っていただいたから来られたというのはものすごくシンボリックなことだと思うのですね。私もこういう機会がなかったら、やはりソフトカーを諦めていた可能性があります。ですからね、諦めないことが大切。

ソフトドライブというのは、渡辺さんの手で大きくなったのです。私はソフトカーというのをやっていたのですが、だめだと思ったのですよ。進まない。で、そんなことをやっているうちに事故は起こる、人は死ぬ。なので、ソフトドライブという言葉を学生たちと考えてステッカーを作った。でもやはり1,000枚で終わってしまったのですね。それで渡辺さんのところがそれを育ててくれた。

この背景には、やはり非常に粘り強い地域の方々と、中心に悲しみがあるということが明快であるということで、広がったと私は理解するのですね。

ステッカーのことをちょっと申し上げたい。これは渡辺さんのソフトドライブ。元々デザインは我々一緒にやったのですが、その後ろからこのレインボーライトをつけると、ちょっときれいではないですか。何かこういう楽しい仕組みと一緒に、深刻な問題に取り組んでいくと。

私自身もほんの3年ほど前までは私自身が、姉が交通事故で亡くなったということは表で言わないというようにやっていたのです。なぜかと言うと、ごめんなさいね、皆さん。皆さんがそういう経験されている。私がやっていることはお涙ちょうだいだというようみなされたくないと思ったのです。でもそれが違います。私たちの悲しみはみんなで共有すべきです。それをもっと表に出すべきだ。だから長谷さんはここまでやってこられた。西浦さんもこういうTAVの組織をされた。ですからこれを表に出すことこそが必要であるという。同時に諦めないということを申し上げたい。

田畑 長谷さん、お願いいたします。

長谷 先ほど、「交差点では速度ゼロ」というふうにお話ししました。田畑さんのほうからそれは分離信号でしょ、ということで、確かにそうです。最初からそのように話しておけば良かったのですけれども。今日は道路の速度ということから、その速度をというところでゼロから入らせていただきました。

それと、この問題は最初から歩車分離信号。分離信号というのがあったわけではないのです。

それで最初、「人と車が青だというのがだめなのだ」というのがなかなか理解できない。これはすべての交差点が人も車も青で流れていたからです。

そんな中で、これをなんとかして理解してもらいたいなということで、では「人が青のとき車は赤、車が赤のとき人は青」これを人と車の分離という表現で「分離信号」というのを作ろうと。その中から交差点の安全とはというような考えで行ってきました。

ただ、それを皆さんに知っていただくためには、私が1人で言っていたのでは、それは長谷さんの考えでしょ、ということだったので、東京都を相手取って裁判を起こして、この危険性というものを裁判の場で話す。そして公のものにして、社会問題の種にしたいと考えた。

これというのはやはり遺族しかできないことだったので、もう私がやるしかないかなと思いました。特に、このような事故が起きたときには、遺族というのは本当に悲しみと、それから加害者に対する恨み。これが出てきます。それで「そのシステムがおかしいのだ」というようなものの考え方が起きてこないのですけれども、子供が殺されたときに気づきました。うちの子が青信号で殺されているのならば、全国でこうやって殺されていると思いました。実際調べてみるとそうでした。だとしたら、私は恨みとかそういうものよりも先に、今生きている子供を救ってあげたいなという思いでやりました。

自分は運動家でも学者でもありません。ですからどうしたらいいかといったら、そのことを夫婦2人でもいいから旗を振り続けるということから始めました。その旗を振り続ける。今では16年になりますけれども、この旗を振り続けることによって、それに共感を覚えていてくださった方が、あっちでも同じことを言い、こっちでも同じことを言い。そして良識ある報道関係者の方は、これはやはり問題なのだというふうに見てくださいました。

今、皆様のお手元にこういうパンフレット(すべての交差点を歩車分離信号に 参照)が行っていると思います。これはそのことが書いてあるのですけれども、現在は命と安全を守る歩車分離信号普及全国連絡会という名前を使って、全国に普及していこうと思っています。

これに非常に力を貸してくださった、また自分たちでそのことを始めてくださったという団体というのが豊中市の教職員組合さんであります。もっともっとほかにもそういうところが出てきたから、分離信号という言葉すらなかったものが、警察庁も前向きに取り組んで、現在ではまだわずか2%ですけれども、増えてきたのではないかなと思います。

田畑 ありがとうございました。渡辺さんに来ていただくことになったときに、PTAの副会長をされていることで、私も学校の教師をしていますのでね。多分そのPTAで巻き込んでされたのかな、大変ご苦労なさったのかなと思ったりもして。何かその辺りも含めて。そして実質今すごい流れを作っておられますので、その辺のノウハウをお教えください。

渡辺 まず交通事故が起きたとき、ものすごいショックでした。というのは平成9年、10年、13年、14年の4回、ここの交差点をなんとかしてという要望を行政に出していたのです。このとき私は小学校のPTA副会長でした。隣の中学校のPTAと一緒に、大きな事故が起こる前にプロのアイディアでこの交差点をなんとかしてという要望を出していました。その要望をとりあえず出した。行政もとりあえずは受け取った。その先どうしたらよいかわからず、そのままになっていた後に起きた事故だったので、ものすごく後悔しました。

私は事故の2分前にこの現場を通っていたので、絶対私に何かやってと言っているはずだとの思いがすごく強く、行動を起こしました。

1人ではなく、同じ思いを持っている地域の人が必ずいるはずだと思って、中学校は私が代表で、小学校の会長、地域の近隣の住民の代表の人にも声をかけて、9人で市民連絡会というものを作りました。

最初はとにかく交差点改善だったのです。多分、焦点が交差点改善だったので、みんな同じ方向に向けたと思います。もう二度と悲惨な事故を起こさない、安全な交差点にしようとの同じ思いで動き始めました。

行政が最初から協力的だったのですね。それはもしかしたら私は17年間ずっと地域の役員をやり続けているので、いろいろなところにも知り合いがいたというのもあるかもしれませんが、とにかくここをなんとかしなければという思いが行政の間にも、バッと伝わりました。警察の方もなんとかしようという交通課の課長とのコミュニケーションが取れたということも大きかったと思います。

それと、連絡会は行政を敵にするのではなくて、行政もおそらく何かをしなければいけないと思っているだろうから、それを私たちが代わりに広報しますから、どうか一緒に連携してやっていきましょうという空気を最初に作ったのです。それが連携につながりうまくいったのだと、今振り返ると思います。

事故から1年経つ前の、今年6月には、あれだけ要望していてもなかなか付かなかった右折の矢印信号が付いたのです。

今度は裁判に行ったときに、こんな人に殺されたのかという思いが強くて、またこの人は運転する、こういう人がまたハンドルを握るのだったら、この交差点が良くなっても絶対だめだ、やはり運転手のマナーも訴えなければいけないと強く思いました。本来不特定多数のトラック運転手がターゲットなのですが、まずは市民に安全運転を広めたいという思いで活動しています。市民も同じくいつ加害者になるかわからないわけだから、加害者にならないで、との言葉に置き換えて活動しています。

最初からのいろいろな流れと、さっきの質問のお答えとすれば、PTAとしてではなく、地域で動きました。地域でいろいろな場面で活躍している人たちを巻き込んで連絡会を作り、行政にも敵対ではなく一緒にやりましょう、改善成果を広報するので、進捗状況を教えてという感じで、連携してきました。多いときは警察に週3回ぐらい行きましたし、市役所にも週3回ぐらい行って、ホームページに書く進捗報告はない?という感じで一緒に進める姿勢を崩しませんでした。

それでこのステッカーを作ったときに、そのような連携の関係ができていたので、市の公用車150台に張ってほしいというお願いをしてみたら、すぐオーケーが出ました。驚きました。それから浦安警察署にこのステッカーを置かせてほしいというお願いをしたら、1週間ぐらいで返事が出て、ラックを空けたので置いてくださいと言っていただきました。さらに市役所の交通安全課にも置いてあります。

運転免許の更新がありますよね。更新で必ず講習すると思うのですが、そこで渡せないかなと、今計画をしているところです。

とにかく今、この活動をもっと普及させたいと思っています。その次、普及した後の壮大な計画はまとめで話します。

田畑 ありがとうございます。だいぶ時間が押してまいりましたので、西浦代表はちょっと我慢していただいて……。当会TAVのほうが今日は4名のパネリストの方をお招きしていますので、時間に限りもありますので、4名の方にそれぞれご自身の主張も含めて、それぞれのまとめ、感想をおっしゃっていただけたらと思いますので、また順番でよろしいでしょうか。2分程度ぐらいでお願いいたします。

今井 では私は、夢は自分が子供だったころって、家のすぐ近くで、5歳ぐらいだったですかね。小学校に入るぐらいまでは家のすぐ近くの道路で夕方遅くまで遊んでいたのですよね。そしてうちの母ちゃんに「ご飯やで。できたで」と言われて、その声を聞いて家に帰ってご飯を食べた。だから車も通りましたけれど、遊んだのですよね。だからうちのお袋なんて、子供、私の子供のときに一緒にどこか公園まで一緒に遊びに連れていってもらうなどという時代ではないです。子供らで勝手に遊ぶのですね。

そういう時代を、やはりもう一回再現しなければ、今の若い親の負担も減らないですし、逆に言うと、今私たちが話してきたようなそういう道路環境を作ると、生活のレベル、クオリティ・オブ・ライフは格段に上がるのだという、これを示していきたいと思っています。これが究極の夢ですね。

ただ、それはまだまだ先のことになりそうなので、当面の夢としましては、私が小学校のときにクイズを出し合っていたのですよ。日本には100キロ以上出せるところがないのに、なぜ車は200キロも出せるのだと。これはこうクイズをやったでしょう。なぜだろうなと。これは7不思議の一つだとかいって言っていたのですよ。これはいまだにそうなのですよね。これはもうまさに小栗さんがおっしゃっているように、スピードリミッターを導入すればいとも簡単なのです。150キロ出せるところがないのですもの。ですからこれを冗談に言っていたのが、実は巧妙に隠し続けられてきているのだということを気付かないといけないのかなと。

ですから当面の課題としてはスピードリミッターを早く導入してもらいたい。アルコロックを導入してもらいたいという思いがあります。

田畑 ありがとうございました。小栗さん、お願いいたします。

小栗 三つ言います。一つは孤立を怖れない。私は今『脱・スピード社会』という本を書いておりまして、今日も2時間しか寝ずにここに来ましたが。そこで1951年以来速度制御を義務付けなかったのは国に責任があるのではないですかということを明確に書きます。これは孤立を怖れてはいけない。これは自動車メーカーも責任があります。私は責任を取ります。私はこれまで多くの失われてきた命に対して、自分がやらなくて誰がやるのだというつもりです。

その次にストラテジーとして二つもうしあげます。

一つは明確な敵を作ることが必要だと。コンフリクト(対立点)、何が問題なのかを明らかにすること。長谷さんがおっしゃった裁判に持っていかれた。これはこういう方法がやはり必要だと思います。だけど片方で仲間を作る。ですから一つは孤立を怖れない。それぞれが。たった1人の反乱を皆でやろうということです。二つ目は対立者を明らかにするということ。三つ目はしかし、仲間を作らないと動けません。仲間を作る。この三つです。

具体例を簡単に申し上げますが、道路標識がないところは30キロというのは、実は川口市の市長が特区を申請しましたが、これが却下されました。警察から。市長がせっかく言ったのに、警察は通さなかったのですよ。自治体の首長を我々はサポートするという形で警察とちゃんと議論をすること。僕はそれは仲間を作ることであり、対立点を明らかにすることだと思う。

二つ目の例は、今、大阪も千葉も、私が勤めている千葉も、危険運転、もう信じられないことが起こっています。なので、私は危険運転者は運転ができない仕組みが必要だと思っているのです。

それは何かというと、ICカード、免許証がICカード化されていますから、それとパスワードを入れないと車が走らないと。こういう仕組みを作るべきだ。それをはっきり言えるのは、被害者、その家族です。これは仲間をどう作るかというと、実はここに大勢いらっしゃる。二つ目。

三つ目の例は、ちょっと大きなお話をすると、ロードピースのチョードリーさんと実はメールで、今日の朝、話をしてきました。オバマさんに手紙を書くということなのです。オバマさんに、僕は非常に期待しているのですが、アメリカのビッグ3を救済の支援、融資をしようとしているのですね、今。それはアメリカが自動車産業の国だからです。それはいけませんと明確に言う。かつ、もしやるのであれば安全な車をつくることを条件にする。それからアメリカ政府が完全に安全な施策、交通の安全の施策を徹底したことを行うと。これは世界のネットワークを使えば僕はできると急に思い始めました。

コンフリクトを明らかにして、仲間を作ってぶつかる。それを申し上げたい。

田畑 ありがとうございました。長谷さん、お願いいたします。

長谷 私は最終的に、この歩車分離信号、これがどんどん広がってくれればいいなと思っています。このことは先ほど今井さんがおっしゃっていただきましたシステムのアプローチをしていくということだと思います。

今まで交通事故の防止というのは、お互いの注意、当事者同士の問題ということで片付けられていました。ですから交通教育、そして注意喚起に力点が置かれていました。もちろんそれは間違ったことではないと思っています。なぜならば道路交通の安全というのは、同じ道路を共有する者同士、お互いの注意力で成り立っている。これは車の一番の弱点ではあると思います。ですから、お互いの注意ということで注意を喚起するのは当然のことかなと思います。

しかしながら、どうやっても人間のヒューマンエラーというのは起こる。間違いというのは消せません。つぶせません。ですから、そういったところには是非システムアプローチ、システムとしての安全性というのを持っていくべきかなと思っています。

特に交差点というところはどこで事故が起こるかわからない。そういった道路の延長線上の中の点なのです。そこにお金を入れ、知恵を絞り、いろいろな人と車が交錯しないようなシステムをこれから構築していくべきだと僕は思っています。

遺族というのは自分が遺族になりたくてなったわけでなく、加害者がいて、突然その悲しみを押しつけられたわけなのですけれども、その中から出てくる考えというのは個人の固有の体験談から基づいてくるものです。そうすると本当の真理、何が危険なのか、何が本当に危ないのか。そこの本当のことが見えてくるのではないかと思います。

私たち遺族というのはそういう(事故での)悲しみと、そういう(真実を見る目の)力を持っていると思います。私は、こんなすばらしいシンポジウムは初めてです。それが感想かもしれません。ありがとうございます。

田畑 ありがとうございます。渡辺さん、よろしくお願いいたします。

渡辺 はい。できること、今できることを着実に今やってみた結果、次にやることが見えてきたので、それもやってみたらまた次のものが見えたという連続でした。

その中で、今考える壮大な計画というのは、ステッカーを合計9,000枚作ったのですね。4,000枚は市民に配布して、あと5,000枚は鉄鋼団地、トラックのたくさん行き来している鉄鋼団地が買ってくれました。250の事業所に20枚ずつ配付したのであっという間にはけてしまいましたけれど、これからも、あと半年か1年は市民活動補助金というのにも通ったので、少し資金がありますからステッカーをもう一度作って、もっと市民にこれを普及することをまずやります。

半年か1年たった後、次です。おかげさまでこれを貼っている人が今増えてきていますが、ステッカーを貼る人がもっと増えたときに、ただ気をつけて走っているだけではなく、速度を気にしながら、歩行者を気にしながら走っている人たちの目で見た危険な個所やおかしい法定(指定)速度を聞き出したいと思います。大勢の目で見た浦安の中の理不尽なところを吸い上げることをやりたいと思っているのです。

そのような意見を吸い上げたときに、それが町中の危険なところを改善していく力になるでしょうし、もしかしたら大きく言えば、何かの法的な改正の原点になるかもしれないのです。皆さんのお力をお借りするときが来ればいいなと思っています。

その次なのですけれど、浦安市民で交通安全やルールにうるさいという街を作れたら、全国から浦安市に来る車にアピールできます。「浦安には気を付けていかなければいけない」という、風土がつくれると思うのです。そこまでしたいのです。そこまでしなければ市民の命は守れないと思います。風土づくり。今のステップでいったら風土づくりはできると思っています。

最後に、これは私たちが、小栗先生の協力の下にデザインをお借りして作ったステッカーなのですが、安房鴨川、館山ってわかりますか。千葉の下のほうなのですが、そこのご遺族の方が私たちのホームページを見て、自分も何かしたいとおっしゃって、ステッカーを作ったのです。上に安房と見えますか。「安房&浦安」というふうにして、これを今、安房のほうで彼女が1人で普及させようとしています。

このように、もしかしたら私たちの活動が全国に広がる可能性もあるかもしれないと思っています。そのときはご協力できることがあればしたいと思います。よろしくお願いします。

田畑 ありがとうございました。会場の皆さん、長時間にわたって、予定しておりました時刻も随分越えてしまったのですけれど、最後までご清聴ありがとうございました。皆さんからもお聞きしたかったのですけれども、時間の制限で申し訳ありません。ただ、今日、「交通死亡ゼロをめざして」ということで、特にスピードについて考えるということをやったのですけれども、なかなか一つのことは難しい。難しいのだけれども、恨まれても、嫌われてもやらなければいけない。

でも、孤立を怖れて、ということもあるけれども、でもやはり仲間というときに、今日会場でご意見いただきました方もご一緒ですね。新しい仲間ができたのではないかと思います。今日のシンポジウム、このパネルディスカッションの大きな成果ではないかと思うのですけれど。

ちょっとつたないまとめで申し訳ないのですけれども、私自身も勇気をいただきました。これをもちましてパネルディスカッション、終了といたします。どうもありがとうございました。

閉会のあいさつ
米村幸純(TAV交通死被害者の会事務局) 米村幸純
(TAV交通死被害者の会事務局)

皆さん、長時間お付き合いをいただきましてありがとうございました。私は「TAV交通死被害者の会」事務局の米村と申します。ちょうど12年前に息子を信号無視のトラックに命を奪われました。12年前にこういった「交通死ゼロ」をめざすというようなことを言えば、なかなかご理解いただけなかったのではと思います。

私たちの会は、1999年の3月に発足をいたしました。目指してきたことは何かというと、私で言えば、今年13回忌になりますが、やはり何年たっても心が晴れることはありません。そういった会員同士がその気持ちを話し合い、お互いの気持ちを支え合う、心を支合う、そういったことを目的に会の運営をしてまいりました。

ただ、司法の中、裁判等で知識を必要とする会員もいますので、知識を高め、別の形の被害者支援ということで、法律相談等の「心のケア」以外の活動も始めました。事務局としてはすべての活動は会員の「心のケア」という意味で始めています。

ちょうど7年前、長谷さんはおっしゃらなかったのでご紹介しますが、大阪の豊中で「安全な通学路を守るシンポジウム」が、豊中教職員組合と毎日新聞の主催で始まりました。それがまさに大阪での長谷さんの「分離信号」の実践活動であり、その成果が出てきています。

そういった遺族でない方の活動、それが私たちにとっては大きな支えです。なぜかというと12年前に私たち家族を亡くした者が、何かしようと思っても、それは遺族感情であるといった捉え方しかされませんでした。その中で、人の命、子供の安全を守るのは市民すべての問題と考えていただいて、豊中の教職員組合とか、今日おいでいただきました渡辺さんのような方が、ご自分のできる範囲で活動していただける。このことが私たち遺族にとっての大きな「心の支え」、そして「心のケア」であるかなと思っています。

今日は、大阪で開催するため、朝日新聞に掲載されてから、「その大阪の活動には私たちは参加していいのですか」と、京都や兵庫などあちらこちらから電話をいただきました。決してこのシンポジウムは、大阪ローカルで考えているわけではありません。たくさん行政関係の方がいらしていますので、是非今日を起点に、来年は、京都でも兵庫でも奈良でも結構なので、関西2府4県から始まって、この活動が全国に広まってほしいとお願いします。目指すのは「交通死ゼロ」ということで、11月の第3日曜日を定着させたいなと思っています。

明日は大阪と名古屋と彦根で街頭活動をいたします。もしお時間があればご一緒に活動していただければうれしく思います。

今日は本当に長時間ありがとうございました。。