関係機関・団体と連携した犯罪被害者支援促進モデル事業

道路交通犠牲者追悼セレモニー

犯罪被害者等に関するテーマ別啓発事業(大阪府)
「交通死ゼロをめざして 世界道路交通犠牲者の日シンポジウム」

『私たちのことを忘れないで(ビデオ)』

イギリスのNGO・ロードピース創設者ブリジット・チョードリーさんからのメッセージです。

***************************************

Dear Japanese people who attend the World Day ceremony, dear fellow-bereaved.

世界の日の集まりに参加する日本の皆様、ご遺族のみなさま

It is wonderful that the Day of Remembrance for Road Traffic Victims, which I was instrumental in starting 15 years ago, has now spread all the way to Japan !

15年前、私も参加してスタートした「道路交通犠牲者追悼の日」が、遠く日本まで広がったことを素晴らしく思います。

We are sure that this Day will help link road victims worldwide and draw everyone's attention to the daily sacrifices on the world's roads, leading to action to end the carnage.

この日が、世界中の道路交通犠牲者をつなぎ、世界中の道路で毎日起こっている犠牲にすべての人が目を向け、この大量殺戮の終焉をもたらす行動につながると確信します。

Ms.Brigitte Chaudhry MBE

Founder & President RoadPeace

President European Federation of Road Traffic Victims

ブリジット・チョードリー MBE

ロードピース 創設者・会長

欧州道路交通犠牲者連盟 会長

訳:小栗幸夫氏

***************************************

明日 11月16日・日曜日は「世界道路交通犠牲者の日」です。1993年にイギリスのNGO・ロードピースによって「道路交通犠牲者の日」が行われ、その後、ヨーロッパを中心に支持が広がり、2005年10月26日の第38回国連総会で、毎年11月の第3日曜日を「世界道路交通犠牲者の日」とすることが決議されました。

日本には2007年に今井博之氏により紹介され「交通事故被害者遺族の声を届ける会」「TAV交通死被害者の会」「北海道交通事故被害者の会」「交通事故調書の開示を求める会」などの被害者遺族団体が行動を開始しました。

インターネットでは、同じ時期に、ソフトカー・プロジェクト・チーム代表である千葉商科大学教授の小栗幸夫氏が運営する「世界道路交通犠牲者の日・つながるプラザ」が立ち上がり、ここを中心に「悲しみを止める」ため、多くの人々が集い、大きな力となっています。

クルマ社会の犠牲となった尊い多くの生命

大阪府下だけで248人(昨年)

全国で5,744人(昨年)

1946年 4,409人、1947年 4,567人、1948年 3,848人、1949年 3,790人、1950年 4,202人、1951年 4,429人、1952年 4,696人、1953年 5,544人、1954年 6,374人、1955年 6,379人、1956年 6,751人、1957年 7,575人、1958年 8,248人、1959年 10,079人、1960年 12,055人、1961年 12,865人、1962年 11,445人、1963年 12,301人、1964年 13,318人、1965年 12,484人、1966年 13,904人、1967年 13,618人、1968年 14,256人、1969年 16,257人、1970年 16,765人、1971年 16,278人、1972年 15,918人、1973年 14,574人、1974年 11,432人、1975年 10,792人、1976年 9,734人、1977年 8,945人、1978年 8,783人、1979年 8,466人、1980年 8,760人、1981年 8,719人、1982年 9,073人、1983年 9,520人、1984年 9,262人、1985年 9,261人、1986年 9,317人、1987年 9,347人、1988年 10,344人、1989年 11,086人、1990年 11,227人、1991年 11,105人、1992年 11,451人、1993年 10,942人、1994年 10,649人、1995年 10,679人、1996年 9,942人、1997年 9,640人、1998年 9,211人、1999年 9,006人、2000年 9,066人、2001年 8,747人、2002年 8,326人、2003年 7,702人、2004年 7,358人、2005年 6,871人、2006年 6,352人

1946~2007年 総計 593,788人

これは24時間以内の死者数

厚生統計の死者数は、その1.345倍(平均値)

1946年からの推計死者数 総計 約80万人以上

さらに重度後遺症に苦しむ被害者は…… 増加しているのです

私たちのことを忘れないでください

そして……

皆さんの力で、悲しみを止めてください

私たちの生命が「交通死ゼロ」を 実現すると信じています……

『千の風となった大切な家族たち』

(犠牲者146名の氏名が画面にロールアップ)

遺族コメント(1)
阪口玲香(TAV交通死被害者の会会員) 阪口玲香
(TAV交通死被害者の会会員)

TAV交通死被害者の会会員の阪口玲香です。今日は少し私の家族についてお話させていただきます。

2002年8月10日、私にとってこの日は、決して忘れることのできない日になってしまいました。

祖父母のいる三重県へ帰省するために、私の母・由利厚子は、弟・由利朋翠と私の長男である阪口若葉、それからいとこ、4人を乗せて、早朝から車で出発しました。私たちも同じ日に帰省する予定でした。私たち夫婦が、当時2歳と1歳の下の子供たちを連れて長時間の道のりは大変だろうとの母の配慮もあって、長男・若葉だけは乗せて行ってもらったのです。朝7時半を過ぎたころ、母の運転していた車が事故にあったらしいという電話がありました。私は追突事故と聞いて、軽いものだと考えていました。

現場は東名阪自動車道の鈴鹿インター付近で、みんなを迎えに行く感覚で家を出ました。でも、車に乗って出掛けた4人の誰一人としてその笑顔に会えることはなかったのです。高速道路は通行止めになり、一般道もその影響で大渋滞、やっとたどり着いた病院では、すでに肝心のいとこは別の病院に行っています。代わりに警察隊の人が待っていました。そこでまず母が亡くなったことを知らされました。その瞬間、私は目の前が真っ暗になり、ただ泣くしかありませんでした。お盆の帰省ラッシュで渋滞しているところに、過労運転による居眠りの大型トレーラーが追突し、母の車を含めた3台が炎上したのです。奇跡的に自力で脱出したいとこ以外、母も弟も、長男も焼死しました。他にもう一組ご夫婦が亡くなりました。そのご夫婦は「助けて!」いう声を振り絞り、私の母は頭が動いていたという証言が、のちに裁判の記録で分かりました。追突から炎上まで約10分あったそうですが、その間に渋滞で大勢いただろう人たちは、誰も助けてはくれなかったのです。炎上の様子をビデオや携帯カメラで撮影した人は大勢いても、皆さん他人事だったのかもしれません。

私は、道路公団の車庫で、ビニールシートに横たわった3人と対面しました。その変わり果てた姿に、申し訳ない気持ちであまり近づくことができませんでした。そのあと、その車庫には5つの棺が並びました。長男・若葉は6歳でしたので、一つの棺はとても小さく、こんな小さな棺に入るために若葉は生まれてきたのではないと思うと、涙が止まりませんでした。その後、荼毘に付されるまで、3人の顔を見ることは一度もできませんでした。今思うと、どうしてお葬式のとき抱きしめてあげられなかったのか、とても悔やまれます。

若葉は目がくりくりして笑顔の可愛い男の子。運動や勉強が特別できるのでもない、普通の子です。ましてや神様や天使でもありません。でも、私にとっては「かあちゃん」と呼んでくれる、かけがえのない存在でした。

弟・朋翠は19歳で、大学1年生でした。春から念願の一人暮らしを始め、好きな数学の勉強を目一杯する予定だったと思います。両親の離婚で混乱した家庭で育っていたのか、どんな小さな命も大切にする性格です。もちろん若葉とも仲良しで、事故直前も車中で二人でじゃれ合っていたのか、それとも寄り添って寝ていたのか、今となっては知るすべもありません。

母は、53歳。子供を育てる人生から、自分のための人生を歩もうとしていた時でした。顔や体つきは私そっくりで、母の知り合いが私と会うと、なんとも言えない表情をします。その人が私を通して母を見ているのがわかり、涙があふれ、どうしていいか分からなくなります。

これが、偶然にも起きてしまったと言われる、交通事故の現実のほんの一部です。

車を運転して人を死なせるのは人間であって、車でも道路でもありません。それによって犠牲になるのも人間です。命を奪われ、人生を奪われ、未来を奪われます。

私たち遺された家族も、人生や未来をもぎ取られ、怒りや悲しみ・苦しみで生きる希望を失ってしまいます。

仕事という名目で、運送会社の利益優先によって奪われた、大事な、大切な3人の生命。こんなむごいことは二度と起きてほしくありません。そして、毎日いつも犠牲になった家族のことを想っています。生きている限りずっと。どうかこの想いが大切な家族に届いていますように……。

そして、幸運にも事故にあっていない方々が、世界道路交通犠牲者の日によって、共に、これ以上悲しみを繰り返さない社会を作っていけることを切に願っています。

遺族コメント(2)
金澤喜三氏(交通事故被害者遺族の声を届ける会代表) 金澤喜三氏
(交通事故被害者遺族の声を届ける会代表)

交通事故被害者遺族の声を届ける会の金澤と申します。うちの事故は2002年5月18日、父が北陸自動車道の走行車線を時速80キロで走っているところへ、後ろから速度オーバーの居眠り運転の大型トラックに追突されて即死したものです。

普通、追突と言えば、渋滞の最後尾に追突される事故が多いのですが、うちの場合は閑散とした道路で走行車線を走っている父の車に、同じ走行車線を猛スピードで追いかけてきて追突するのですから、たまったものではありません。そんなに急ぐのであれば、空いている追い越し車線を走っていけばいいのですが、それもせずに追突しておきながら、居眠りやわき見はしていませんでした、と言い訳するのですからあきれてしまいます。

私はいまだに加害者を許すことはできません。どうして、なぜ、もう少し気を付けていてさえくれたら父は死なずに済んだのに、との思いはいまだに強くあります。加害者のちょっとした不注意から父の人生を奪い、私たち家族の人生も狂わせてしまったのです。しかも、その罪とまともに向き合おうともしなかった加害者。

父の死後、いろんな方から、「いつまで人を恨んでいるの?」とか「許すことも大事なこと」、あるいは「いいかげんに心を開きなさい。死んだお父さんが悲しんでいるよ」等々、たくさんの慰めか励ましかわかりませんが、言われてきました。だけど、決して父を奪った人を許すことはできないし、私の胸の中に深く突き刺さったトゲは、抜けることはありません。

俗に言われております「交通事故だから」と簡単に済まされることではないと思うのです。今年の7月に当時の鳩山法務大臣に私たち遺族が面会を求めたとき、大臣が、「刃物であろうが車であろうが、人を殺す行為は許されるべきではない」と発言されました。私の思っていることをそのまま表現していただけたようで、大変感動を覚えました。

このように人の命を奪ったり、傷つける行為は絶対あってはいけないことでありますし、車による犯罪以外は世論も厳しいのに、車による犯罪にはいかにも寛容であるがために、加害者も悪くはないのだと錯覚させられているこの異常な世論や司法を改善しなくてはいけないのではないでしょうか。

車によって家族を奪われたことに対して、もっと声を上げて抗議をし、このような社会から一刻も早く脱皮し、交通事故による死者がゼロになる日が来ることを願わずにはいられません。その日が来るまで行動を起こすことが、今まで犠牲となった大切な人たちの慰めになるのではないでしょうか。

どうか、ここにおられる方々も、住んでおられる地域や県、国、職場等に働きかけて、法整備や行政指導、意識改革等を図り、日本中で道路における犠牲者が出ないように願う動を起こしてゆこうではありませんか。

私たちの会は世界道路交通犠牲者の日に、政府による慰霊祭を開催し、広く国民に意識改革を促すよう、要望を出しています。一刻も早く、交通事故死ゼロ社会が来る日を一緒に実現させようではありませんか。また、可能であると確信しております。共にがんばりましょう。ありがとうございました。

献花
TAV交通死被害者の会より
全国の交通被害者を代表して
交通事故被害者遺族の声を届ける会より
献花 献花
<トーンチャイム・ギター・歌>
『千の風になって』
TAV交通死被害者の会有志
トーンチャイム・ギター・歌 トーンチャイム・ギター・歌
ごあいさつ
西浦義朗(TAV交通死被害者の会代表) 西浦義朗
(TAV交通死被害者の会代表)

TAV交通死被害者の会代表の西浦です。本日はご多忙の中、世界道路交通犠牲者の日シンポジウムに、このようなたくさんの方々のご参加をいただき、誠にありがとうございます。そして本日このシンポジウムが多くの方々の思いとご協力にて開催が実現できましたことを、心から感謝申し上げます。

まず、シンポジウムのスタートとして、道路交通犠牲者追悼セレモニーを行わせていただきました。失われた大切な家族の命は、残念ながら何をしても戻ってきません。残された私たちにできること。それは同じ悲しみを繰り返さないことです。

しかし、残念ながら毎年毎年、年間1万人もの命が失われています。セレモニーで映像にもありましたが、1946年から推計死者数が80万人。戦争の犠牲にも匹敵するおびただしい数の命が、車社会の犠牲になってきたのです。

近年、振り返ってみると、会場の皆様もご存じのとおり、過去に例がないほど悪質な交通事犯が多発しました。そして多くの被害者遺族の声が上がり、法改正が行われ、その結果、ようやく24時間の死亡者数も減少の傾向にあります。しかし、厳罰化の抑止力だけでは交通死亡事故をなくすことはできません。

そういった中、昨年、第2部の基調講演をお願いしております今井様から、世界道路交通犠牲者の日の情報をいただきました。詳しくはこの後の講演でお話しいただけますが、2005年国連総会にて、11月の第3日曜日を世界道路交通犠牲者の日とすることが決議されたそうです。

そのことを知った私たちは、一つの悲しみも出さないことを誓う日として、この日を全国の方々に広めようと活動を始めました。ほかの遺族の会と共に、事故現場に白い花と黄色い風車を添え、事故の実態を訴えかけました。また、大阪や名古屋でチラシを配布するなど、街頭活動を行いました。そしてインターネットなどでも、このことをきっかけに多くの方と巡り会いました。その結果、このようなシンポジウムを開催することができました。

最後になりますが、決して当事者・遺族・行政だけでは交通死ゼロは望めません。世界道路交通犠牲者の日を前に、是非皆さんと一緒に何ができるか、何をすべきなのかを考えていきたいと思います。そしてこのシンポジウムの課題でもある『交通死ゼロ』を目指したいと思います。是非皆様のご協力をお願いしたいと思います。ありがとうございました。